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吉田松陰は1830年に生まれ、1859年に29歳で死刑になりました。代々の長州藩士の家に生まれ、山鹿流の軍学師範の家に養子に行きました。将来は軍学の先生をしなければならないので若いときに江戸に遊学し、高名な蘭学者である佐久間象山の弟子になりました。佐久間象山は国防力の強化を主張し、大砲を鋳造したりしています。私的なことで恐縮ですが、私は家代々伝わる佐久間象山の書いた掛け軸を持っています。「大砲をぶっ放したら、雲が湧き雷が鳴って大雨が降ってきた。天地が驚愕し里の男女がびっくりして家から飛び出してきた」という意味のことを漢字で書いてあります。これを骨董屋に見せたところ偽物だと言われてしまいました。佐久間象山の掛け軸は偽物が非常に多いそうで、これが本物ならかなり高価なものですが残念なことでした。山鹿流の軍学というのは儒者の山鹿素行が始めたもので、実戦の役に立たないつまらないものです。松陰はそれを知っていたので、実際に役立つ軍学である蘭学を学んだのです。このように吉田松陰の思想の基礎にはオランダの兵学があるのです。ペリーが日本にはじめて来た翌年の1854年に、松陰は日本に来ていたアメリカの軍艦に密かに乗り込みました。これほど強力な軍備をもっている欧米の社会を見たかったので、アメリカに連れて行って欲しいと頼んだのです。外国に行くことが日本では重大な犯罪であることを知っていた艦長は、松陰の勇気に感激しましたが、幕府との関係悪化を恐れ彼を幕府に引き渡してしまいました。松陰は長州藩に引き渡され、長州藩は彼を犯罪者として自宅に軟禁しました。時間が出来た松陰はここで3年間弟子たちを教えていたのですが、その後保守化した藩によって死刑にされました。この時に教えたのが、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、前原一誠などという連中です。
2008年04月30日
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幕府や諸藩は洋式軍隊を作りましたが、社会の制度が従来のままではうまく機能しないことが分かってきました。そこから洋式軍隊を生み出したヨーロッパの社会への関心が次第に高まってきて、身分差別の撤廃・平等というものの役割が分かってきたのです。身分差別を撤廃した洋式軍隊を作るのに成功したのが長州です。高杉晋作が考え出した奇兵隊というのがそれで、百姓・町人・神主・力士など武士以外の出身者で洋式軍隊を作ったのです。この奇兵隊が非常に強く、長州藩内の内戦や対幕府戦で大活躍しました。この奇兵隊にはエタ・非人と呼ばれていた被差別部落民も入隊を許されました。江戸時代のエタ・非人に対する差別感情というのは大変なもので、彼らが使った食器には穢れているから触れないというほどのものでした。エタ・非人を入隊させるか否かということで騎兵隊内で議論がありましたが、自分たちの強さの源泉が社会的身分の撤廃だということから入隊を意識的に許したのです。この奇兵隊の幹部から頭角を現したのが山県有朋でした。彼は後に公爵、陸軍元帥、総理大臣、大勲位となった政界のボスなのですが、もともとは長州藩の中間でした。中間というのは武士の雑用を行う臨時雇いの者で、足軽より身分は下です。彼は奇兵隊に入隊して幹部になり、維新後は陸軍に身を置き最終的に大将よりえらい元帥になってしまったのです。彼は戦前の陸軍の変な習性を作り出した男だと非常に評判が悪く、軍人としての統率や戦略能力もありませんでしたが、軍政(軍隊の事務処理)が得意だったのです。彼が偉くなったのは事務処理の能力だけでなく、その「学歴」のためもあります。彼は松下村塾で学んだことがあり吉田松陰の弟子だったのです。松陰の主だった弟子には、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎などがいます。久坂玄瑞は幕末前半の長州藩のリーダーとしてその名を知られた男で、尊皇攘夷の騒乱で戦死しました。高杉晋作も長州藩のリーダーで、維新直前に病死しました。伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎は明治政府の元勲になった連中ですが、なかでも伊藤博文は公爵・総理大臣になりました。彼も足軽という武士ともいえない低い身分の出身です。吉田松陰が弟子たちを教えた期間は短いのですが、その教えに発奮して弟子たちが大活躍し明治になって立身出世をしました。山県有朋や伊藤博文もこの「学歴」で非常に援けられています。余計な話ですが、日露戦争当時の日本軍の司令官の一人に乃木希典がいます。彼は旅順港攻撃の際に日本兵を無駄に死なせた非常に無能な将軍ですが、どういうわけかえらく尊敬されています。彼は実は吉田松陰の近い親戚なのです。吉田松陰のおかげで無能な軍人も司令官になれたのです。
2008年04月29日
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明治維新を招来した思想には、水戸学(山崎闇斎系列の日本化した儒教)、国学のほかに蘭学があります。幕末の志士には蘭学者は少ないですが、蘭学が幕末の思想に与えた影響は大きいと思います。オランダの医学を学ぶことから蘭学は始まりました。その後欧米の船が日本近海に出没し国防上の問題が大きくなるに連れて、軍事学としての蘭学がクローズアップされてきました。アメリカ独立戦争やフランス革命・ナポレオン戦争という欧米の事件は、幕末の志士には常識だったのです。特にナポレオン軍は何故強かったのかというのが日本の武士の強烈な関心事でしたが、貴族を否定して平民を徴兵したためだということが次第に分かってきました。徴兵制を実行するには階級制度を廃止しなければならないということが分かってきたのです。しかし幕府や藩を運営しているのは武士ですから自分の階級を否定することは非常に難しく、そうかといって武士を温存しては欧米の侵略に対抗できません。このときからこの壮大なジレンマが始まります。薩摩などはまさにそうで、幕末に強力な洋式軍隊を作り倒幕を行いましたが、維新後は武士の特権を守ろうとして西南戦争を起こしました。西郷隆盛も大久保利通も武士を廃止しなければ日本の独立は無いということが分かっていましたが、時代遅れの武士に同情して自滅したのが西郷隆盛です。ペリー以後の騒乱期に幕府や諸藩は洋式軍隊を作りましたが、徴兵制を前提とする洋式軍隊と武士のプライドが摩擦を起こしました。武士の次男・三男を兵士にして洋式軍隊を作りました。まだ庶民を兵士にしようという気にはならなかったのです。彼らに鉄砲を持たせて様々な軍事訓練をしました。兵隊は遠方の敵には銃弾を浴びせ、接近したら剣で以って白兵戦を行います。このために銃の先に剣がついているのです。この銃剣というのが一番合理的なのですが、武士の次男・三男は納得しません。腰の剣を外すことを武士のプライドが許さないのです。ですから銃を持ち更に刀を持つわけで、非常に重量が増えるだけでなく、接近戦では銃を捨てて刀を構えるという見ていられない状況になりました。また洋式軍隊には隊列・集団運動が不可欠ですが、これを自分たちを足軽扱いするということで受け入れないのです。
2008年04月28日
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明治維新という大変革ななぜ起こり、なぜ成功したのかを考えてみました。なぜ起きたかという原因のきっかけは簡単です。ペリーが軍艦に乗ってきて日本人を脅かしたからです。プライドが傷つけられ、どこの国にもある「自分の国が一番優れている」という感情を逆なでされたので大騒ぎをしたのです。次いで日本の国防の責任を負っている幕府が頼りにならないということが分かってきました。こうなれば、現在の体制を変えて日本の独立を維持できる政体を作り上げなくてはなりません。そこから公武合体論や倒幕論などがにぎやかに出てきました。こういう大騒ぎの中で政情が不安定になり、藩内の内戦・藩どうしや対幕府間の内戦、さらには対外戦(長州や薩摩とヨーロッパ諸国との戦争)が起りました。これらの戦いを経験するうちに、武士という存在が役に立たないということが分かってきました。その後の事実関係は非常に複雑ですが、「一君万民」に的を絞って考えていきます。この緊急時に幕府や藩の上級武士は何も積極的なことはしませんでした。彼らも非常に窮屈な日常生活を送っていたのですが、現在の体制から一番恩恵を受けているので、それを変える気がなかったのです。一方百姓や町民は自分のことだけを考えて年貢を払っていればよいと躾けられていたので、命がけで何かをやろうという気はありませんでした。そして日本をなんとかしようと飛び出してきたのが、諸藩の下級武士と草莽の志士です。幕末に積極的に活動した藩は薩摩藩・長州藩・土佐藩・水戸藩です。明治維新というのは、「日本の独立」と「一君万民」という二つの目的を持っていましたが、このうちの「日本の独立」を主目的として活動したのは薩摩藩です。薩摩藩というのはどうも思想的にはっきりせず、有名な思想家を出していません。武士が時代遅れだから四民を平等にしようという発想も起りませんでした。こういうこところから、薩摩藩ではレッキとした武士しか活躍していません。西郷隆盛も大久保利通も、城下士という筋目の武士の家柄です。そこへくると後の藩は非常に思想的で「一君万民」も求めたわけで、登場人物も様々です。
2008年04月27日
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明治維新は国学の主張する「一君万民」の思想を実現したものです。ヨーロッパのキリスト教では「神の下の平等」を追求しましたが、日本では「天皇の下の平等」を実現しようとしたのです。明治維新後の社会制度を見ると、華族制度などを作ったり戸籍に江戸時代の身分を記したりと完全な「天皇の下の平等」は実現されていません。華族制度というのは、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵(公・侯・伯・子・男)と五つのランクに分けた貴族制度で明治初期に創設されました。このような貴族制度は日本の伝統にはありませんでした。明治維新の前後というのはヨーロッパでは社会主義運動が盛んで、王政を廃止しようとする運動が盛んでした。幕末維新の動乱を生き残った志士たちは新政府の大官になってヨーロッパを視察して、この急進的な政治的な動きに衝撃を受けました。せっかく天皇という神聖な権威を軸にして新しい体勢を作ろうとしている時に君主制度を否定されては元も子もありませんから、「皇室の藩屏」を作って天皇制という君主制度を守ろうとしたのです。そこでヨーロッパの貴族制度と同じようなものを作ったのですが、この公・侯・伯・子・男というのは支那に古くからある爵位です。周の時代という今から三千年ぐらい前の支那の諸侯は、この公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵という爵位のいづれかを持っていたのです。支那の爵位は20世紀の始めに清王朝が崩壊し皇帝が廃止されるまで存続しました。李鴻章は19世紀後半の清内部の反乱鎮圧で頭角を現し、清末期の最高実力者で日本とも深い関係を持った政治家ですが、彼は確か伯爵だったと記憶しています。このように日本の華族制度というのは、ヨーロッパと支那からヒントを得て思いつきで作られたものですから、日本の社会に適合せず何の力も発揮せず敗戦と共に消滅しました。別に幕末の尊皇攘夷の志士たちは新しい階級制度を作ろうという気持ちは無く、大名・将軍そのた諸々のめんどくさい差別を廃止しようと考えていたのです。ただ「一君万民」思想の中心となる天皇を守るために華族制度を作っただけなのです。本格的な階級制度というのは、その階級によって適用される法律が違います。ロシアの貴族は広範な自由を持っていましたが、農奴はめんどくさい法律に縛られていて、移動の自由や職業選択の自由もありませんでした。日本でも江戸時代は武士と百姓では適用される法律が違いました。ところが日本では、華族も平民も同じ法律が適用され基本的な差別はありませんでした。明治政府というのは「一君万民」を実現できたと考えて良いでしょう。
2008年04月26日
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江戸時代も中期以後は、人と人の間の身分を細かく定めて社会の秩序を維持しようとして、非常に窮屈な社会になって行きました。こういう時期に「国学」の人気が出てきました。私は以前は「国学」の存在意義を理解できなかったのですが、最近少し分かりかけてきました。国学というのは簡単に言えば1、古代の日本は天照大神が素晴らしい社会制度を作った この制度のおかげで日本人はおおらかな生活を楽しんでいた2、その後、儒教や仏教などという外来思想が日本に入ってきて、 おおらかな社会がなくなり窮屈な不正な社会になってしまった3、もういちど、古代の社会制度に戻さなければならない4、天皇が日本を統治するという仕組みを復活すれば、 その下で全ての日本人は平等になることが出来る(一君万民思想)天皇という神聖な存在の下で、全ての日本人を平等にしようというのが一君万民思想です。この思想が嫌いな人は、天皇という特殊な存在を認めることによって人間の平等を否定したと理解します。しかしこの理解は、日本が敗戦でヨーロッパ式の平等思想に触れてから出てきたもので、江戸時代の日本人が感じたものではありません。江戸時代後期の日本人が感じたのは、全ての日本人を平等にしようという平等思想の方だったのです。現実の社会では大名や将軍、お奉行様など、一般人を下に見る大小の特権階級がしました。これらを全部取り払いたいと思ったのです。そしてこれらの大小の特権階級を潰す道具として、天皇という特別に神聖な存在を利用したのです。国学を集大成して広範な国民的思想にしたのは平田篤胤でしたが、彼の思想は地方の豪農を中心にして広まりました。また尊皇攘夷活動を展開した下級武士たちも国学の教養を持っていました。このように「一君万民思想」というのが明治維新の大きな原動力となったのです。
2008年04月25日
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江戸時代は、武士、百姓、町民とも身分を細かく分けられて非常に窮屈な生活をしていました。士農工商といわれていますが、この言葉は日本人が四つの身分に分けられていたというように受け取られ、それぞれの身分の中では気を遣わなくても良いように思ってしまいます。しかし実際は武士、農民、町人ともその中でさらに細かく分けられていてその区別が非常にやかましいものでした。いつからこんなことになったのだろうと考えてみました。こういううるささは昔からあったことだとは思いますが、江戸時代も後になるに連れてうるさくなってきたことは確かだと思います。戦国時代は、「生まれ」の他に「実力」がものをいう時代でした。鉄砲足軽のせがれが関白になれたのですから。戦国時代の大名の領内には豪族がたくさんいて、その大名の家老となり戦場では部隊長を務めていました。甲斐の武田信玄の主要な武将を「24将」といっていましたが、それぞれが甲斐のなかに領地をもった豪族でした。武田信玄の父の代に甲斐は統一されこれらの豪族は武田家に統合されたのであって、そう古いことではないのです。ですから信玄の代でも、信玄と24将の間は完全な君臣関係ではありませんでした。強大な大名と弱小な豪族の不平等な連合関係というべき関係だったのです。信玄の息子の代に武田家は織田信長に滅ぼされましたが、このときには豪族たちは武田家を見限っていて、主家と運命を共にする気はまるでありませんでした。こういう関係は当時は当たり前で、一方は領地の保護を願い、一方は軍事的な奉仕を要求するというドライな契約関係だったのです。ですからどちらかがその義務を果たすことが出来なければ、契約は解消されました。こういうドライな契約関係では社会が安定しないので、天下を取った後の徳川家は、朱子学や武士道といった思想で人間関係を統制しようとしました。そうしてどんどん人間関係が窮屈になっていったのです。
2008年04月24日
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日本には「心中物」という古典のジャンルがありますが、若い男女が最後に心中するという悲劇です。この代表作に近松門左衛門作の人形浄瑠璃「曽根崎心中」があります。商家の若い使用人が曽根崎の遊女と恋をして、この世では添い遂げられないので心中するというストーリーです。この「曽根崎心中」は大ヒットしこれを真似した心中が大流行したので、幕府はあわてて「心中禁止令」を出したほどです。「自殺したら死刑」と同じようにその法令自体が矛盾したナンセンスなものなので笑ってしまいます。上から下まで身分が決まっていて、各人のなすべき振る舞いが決まっているという窮屈な社会が嫌になってそこから脱出しようというのが心中です。特に相手が遊女というのは、この世の女とは思えないほどの美女なのに、借金で身を縛られているという非常にロマンチックな存在だったからです。当時の素人女はほとんど化粧というものをしていませんでしたし、歌や源氏物語という古典を共に語り合えるという教養もありませんでした。そこへゆくと、遊女は盛んに化粧をし古典をしっかりと勉強させられ衣装も華やかなもので、鬱陶しい思いをしていた男どもの魂を奪ったのです。当時のエッセーには、「地女」と「お女郎様」という言葉が良く出てきます。遊女がとても素晴らしくて、その一方素人女などあほらしくて相手に出来ないということです。当時と今とでは時代が違い社会背景も全く違うので、私は「心中物」の人形浄瑠璃を見ても少しも面白くありませんが、当時は万人の共感を得たものだったのです。町人も武士や百姓と同じように非常に窮屈な生活を送っていました。町人だけでなく、武士や百姓の間でも心中は人気があったようです。この前紹介した「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」でも、尾張の田舎で武士や百姓が盛んに心中をしたことが記されています。
2008年04月23日
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江戸時代の武士も百姓と同じく細分化されていました。将軍から見て大名や旗本という直臣と大名の家来(俣者)に分かれていました。50万石の大名と300石の旗本は対等なのですが、大名の家老で1万石を食んでいる者と貧乏旗本では旗本の方が上です。皆さんもよくご承知のように大名は、御三家、親藩、譜代、外様と別れていました。この区別は各大名にもあり伊達藩では、全く同じ区別を家臣にしていました。また武士は大きく「石とり侍」と「扶持侍」に分かれていました。100石取りというように石高で年収を表示する侍は、自分の領地を持ってる侍ということで偉いのです。もっとも領地を持っているといっても建前だけでその管理は藩の役人がやり、武士は年貢だけを受け取っていたのです。100俵取りというようにタワラ(俵)で表示する侍は、殿様の蔵から米を支給されるのです。これは本来は臨時雇いで領地をもっているというものではありません。いわば正社員と契約社員という違いです。1俵は60キロで0.4石になります。年貢率は40%なので、1俵は1石に対する年貢額に相当します。100石取りの武士が実際に得る年貢が100俵なのです。足軽というのは武士ではなく、百姓身分のものが契約で兵隊になっているという建前です。ですから足軽は普段は腰に刀を差していますが、お奉行様に会う時など正式な場所では丸腰になり本来の百姓の姿に戻らなければなりません。江戸町奉行所など幕府の奉行所に勤務している武士には与力と同心の二種類があります。与力(寄騎)は旗本で正式の武士ですが、同心は足軽身分で本来の武士ではありません。この同心の下に岡引というヤクザの町人がいました。このように武士も非常に細分化され、同じ藩に一人として全く対等な者はいないのです。
2008年04月22日
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敗戦時に20歳ぐらいだった方がまだ50歳代だった時ですから、今から30年ぐらい前のことです。私は、戦前の大きな地主の家に生まれた方と知り合いになりました。彼の家は大勢の小作人を抱えていていましたが、彼自身も百姓をやらされたそうです。家は大きく「屋敷」というべきものでした。その家の南の良い場所に客間があり、また広い土間を持っていました。上等の客は客間に通すのですが、小作人や普通の百姓は土間で相手をしたそうです。使用人から来客を告げられた当主(私の知人の父親)は、その客の身分によって土間の座らせる場所を指定していたそうです。土間をいくつかに仕切って、その間に上下があるのです。「小作人の五作なら、入り口の左側に座らせておけ」という具合だったそうです。百姓の中でもその身分が細分されていたのです。百姓は「本百姓」と「厄介(やっかい)」に大きく分かれていました。本百姓は田を持った自作農以上で年貢を負担している者をいいます。彼らは村の鎮守の宮座のメンバーで村の政治に参加する資格がありました。本百姓の中でも田を何町持っているか、また村役人としての役職を務めているかで、身分に差が有ります。息子が陸軍士官学校出の将校のような場合は、親である百姓の身分が上昇したそうです。厄介とは、小作人や季節労働者のことで、年貢を払えない厄介者という意味です。彼らは当然宮座のメンバーにはなれません。結局、その村では自分と全く同じ身分の者はおらず、全ての者はトップからビリまで序列がありました。
2008年04月21日
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江戸時代の日本人の人間関係が非常に窮屈だったというのは、事実であったようです。封建時代というのは、日本だけでなくヨーロッパでも全ての人を差別して秩序を維持していこうという社会だからです。単に士農工商という四つの階級に分けたという単純なものではなく、武士の間でも百姓の間でも信じられないほど細かく差別してたようです。こういう江戸時代は窮屈な社会だったという見方に対して、「江戸時代は非常におおらかな自由な社会だった」と反対の結論を主張する研究が最近は相次いでいます。男尊女卑というのは表面的なことで、実際は女はのびのびとしていたのだという研究もあります。離婚が非常に多かったという事実と、夫が妻を追い出す際には持参金と嫁入り道具を全て返却しなければならないという経済的な制約が妻の座を守っていたからだというのです。しかしこういう事実は女が差別されていなかったという証拠にはなりません。また武士の生活は、現代の我々が考えているほど固苦しいものでなく、いい加減なものだったという見方もあります。その証拠として引き合いに出されるのが「鸚鵡籠中記」です。これは朝日重章という尾張徳川藩の100石取りの武士が、元禄時代に20年以上にわたって書き続けてきた日記です。尾張徳川家の書庫に長い間眠っていたのですが、40年ほど前に公開されその内容の面白さと貴重な情報のゆえに評判となったものです。その抜粋を、神坂次郎が「元禄御畳奉行の日記」というタイトルで書いています。藩主の生母が淫乱で毎夜屋敷の木に登って男を求めて叫んでいたとか、不義密通事件、武士の勤務状態のだらしなさなど、三面記事的な内容に満ちています。確かにこういう社会に対する見方というのはありうるでしょうが、この種のことはいつの時代でもありそれで全体を判断するのは危険なような気がします。
2008年04月20日
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山田洋次監督の映画に「武士の一分」や「たそがれ清兵衛」などという武士ものの作品があります。東北のさる藩の下級武士を描いたもので、見た方も多いと思います。最初見た時は「普通の時代劇より当時をよく研究しているな」と思ったのですが、見るにつれてだんだんあらが目立ってきました。「武士の一分」の主人公は30石の下級武士という設定になっています。30石の扶持というのは、30石をそのままもらえるということではなく、30石採れる領地の年貢徴収権を持っているという意味です。30石の税率40%では実収入は12石となります。江戸時代も後半になって藩の財政が苦しくなると「借り上げ」といって規定の半分しか支給しないということも行われていましたから、6石だけということも考えられます。一方標準的な百姓の場合、田を1町と畑を8反持っています。1町の田から米が13石採れ、8反の畑からは米に換算すれば5石ほどの収穫があります。合計18石の農業収入を半分だけ申告して税率が40%ですから、年貢は3.6石で14.4石が残ります。また百姓の場合、野菜や鶏などは自家栽培ですから食費が武士より安く済みます。更に武士には余計な出費が多いのです。服装を整えなければならないし、上司への盆暮れの付け届けが馬鹿になりません。使用人も雇わなければなりませんが、これは見栄ということではなく、勤務規定で決められているのです。こうして見ていくと、映画で描かれた生活が出来るのはどう考えても百石以上の武士です。しかし百石以上の扶持を殿様から頂戴している武士というのは少数派です。そこで武士たちは「役」にありついて「役料」をもらおうと懸命になります。先祖伝来の「家禄」の他に勤務手当てが出るわけで、これでやっとまともな生活ができるのです。よく時代小説などで「小普請組」や「無役」という言葉が出てきますが、これは役がなく家禄だけで生活している本当に貧乏な武士を指しています。「武士の一分」の場合、毒見役としての役料があったからあれだけの生活が出来たという想定が成り立ちます。しかしそれであれば、盲目になってお役を御免になった主人公が以前の生活を維持できて良かったねというハッピーエンドにつながりません。おそらく山田洋治監督もその辺のことは知っていたと思いますが、限られた映画の中でそこまで詳細に説明できなかったのでしょう。しかしこれによって江戸時代の武士に関する誤解がまた増えてしまったわけです
2008年04月19日
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江戸時代の研究が最近非常にすすんできていて、日本人が持っている江戸時代に関する常識が間違っているということが明らかになっています。一般の日本人が抱いている江戸時代に対するイメージというのは、貧しく窮屈で暗いというものだと思います。最初に考えなければならないのは、こういうイメージを積極的に作ったのは革命政府だということです。薩長が中心になって作った明治政府は江戸幕府を敵として倒して出来た政権ですから、江戸時代を故意に悪くして「それに比べて今は非常にありがたい御世ではないか」と主張するわけです。それに輪をかけているのが「左翼」で、昔のことはなんでもかんでも「封建的」と非難するのが仕事ですから、昔のことがよけいに分からなくなっています。確かに江戸時代は今より貧しく、格差も今とは桁違いに大きな社会でした。しかしそういう色眼鏡で見ると個々の現象を見落としてしまうのです。高校では江戸時代の年貢率は「六公四民」とか「五公五民」で、税率は60~50%だったと教えています。だから百姓は米の飯を食べることが出来なかったというわけです。こういうデタラメを何の検証もせずに教えているというのは驚きです。江戸時代中期の人口は3000万人で米の取れ高は3000万石です。一人一石となり全日本人が三度三度米を食べられるのです。そもそも一石というのは一人の一年間の米の必要量の意味なのです。一石は150キロですから四人家族では年間600キロで、月に50キロです。こんなに米を食べている家は今はほとんどないのではないでしょうか。江戸時代の武士は全人口の10%弱で、町人を含めても20%です。この20%が日本中の米の60%を手に入れても食べきれないのです。さきほど言った「六公四民」とか「五公五民」は極端な例で、普通は「四公六民」と税率40%でした。幕府の直轄領では30%が普通でした。これでも武士や町民は米を食べ切れません。ということは江戸時代は上から下まで脱税が公然と行われていた社会だったということです。平均的に言うと、農民は藩に対し取れ高の半分しか申告をしていませんでした。1000石採れる村では500石と申告することにより、表面上の税率40%を適用されても実質は20%の税率だったのです。人口の80%を占める農民は80%の米を食っていたわけで計算が合うのです。さらに藩は幕府に対し脱税していました。仙台の伊達藩の台帳では、領内の取れ高は120万石となっていましたが、幕府には60万石といっていました。この藩の台帳の120万石にしても過少申告で実際は240万石だったのです。要するに江戸幕府は、実際の米の取れ高の四分の一しか捕捉していなかったわけです。こういう基本的なことを素通りして文書だけを調べても本当のことはなにも分からないのです。
2008年04月18日
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郷士の話を続けます。現皇后の実家は日清製粉創業者一族の正田家ですが、これは群馬県館林の郷士でした。先祖をたどると新田義貞の分家で源氏だということですが、嘘か本当かは分かりません。徳川家康が関東にやってきた時に正田家の先祖に朱印状を渡してなんらかの地位の保証をしたので、それなりの旧家だったようです。江戸時代に地主のかたわら米屋を営みそれが製粉会社に発展したのです。正田家は徳川の旗本というれっきとした武士にもなれる状態でしたが、そういう道を選ばず郷士というどちらかというと百姓の身分を選びました。なんで正田の先祖が武士の道を選ばなかったのかは、証拠はありませんがある程度推定はできます。つまりリスクを避けたのです。武士であれば戦いに負ければ領地を失ってしまいますが、百姓であれば土地の所有権を失うことはありません。もうひとつ渋沢栄一の例を挙げます。彼は幕末の「草莽の志士」で財務に明るく、維新後は実業界で活躍し多くの企業を創業しました。日銀を作ったのも彼です。彼は武蔵国(埼玉県)血洗島村の百姓の息子でしたが、20歳ぐらいの時に尊皇攘夷の思想にかぶれ実家を飛び出して志士活動を行いました。やがて15代将軍になる徳川慶喜が一ツ橋卿だったときに家臣になり、幕末の風雲に打って出たのです。彼の実家は農家でしたが、藍玉と養蚕のビジネスもやっており、少年時代は絹の買い付けをやっていました。彼は慶喜の家来になる前に、横浜の英国領事館の焼き討ちを計画します。そのための資金を実家の父親にお願いしたのですが、親父は「お国のためだ」といって1000両ほどの資金援助をしました。1000両という金が今ならどのぐらいの値打ちかというのは難しいです。幕末の物価が暴騰する前だったら、米1石が1両でしたから1000両なら7000万円ほどになります。しかしそれが明治維新直前には米の値段が10倍になりました。これは貨幣の価値がインフレで十分の一になったということです。まあざっと言って、渋沢栄一の父は1000万円ほどをドラ息子の「学生運動」にカンパしたと考えれば良いでしょう。渋沢家は確かに豪農ではありましたが、血洗島村には渋沢家よりも金持ちの家が結構あり、特に金持ちというほどのものでもなかったのです。
2008年04月17日
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土佐の郷士は戦国時代のトーナメントに敗れた大名の遺臣で武士だったのですが、土佐だけが特殊だったのではなく他にもありました。加賀前田家は分家も合わせると120万石という最大の大名でしたが、その庄屋階級を「十村」と言いました。この十村というのは大地主でとても貧しい百姓というものではなく、農村をしっかりと把握していた村の支配者でした。加賀というのは浄土真宗(本願寺)の信仰の盛んなところで、室町時代には守護の富樫氏を追い払い地侍の共和政府を作っていたのです。京都の本願寺から派遣された僧侶と地侍が一緒になって浄土真宗の教団を組織しましたが、これを門徒といいます。この加賀門徒が、地侍を将校とし百姓を兵隊とする軍隊を組織し守護大名の軍隊を壊滅させてしまったわけです。以後戦国時代を通じて、加賀は大名がおらず地侍の連合政府を維持し続けました。加賀の隣の上杉謙信とは何回か戦っていますが負けませんでした。織田信長が大阪石山寺の本願寺を打ち破りようやく本願寺の武力も衰え、加賀も信長の武将たちの領地となりました。北陸を支配していた柴田勝家が秀吉に負けて加賀は前田利家に与えられました。前田利家は、肥後に入った加藤清正や土佐を領地として与えられた山之内一豊と同じようなリスクにさらされたのです。利家は地侍を敵にすることの不利を悟り、彼らを十村としてその特権を保証しました。この十村が武士なのか百姓なのかという問いは愚問だと思います。公式の場では百姓だったかもしれませんが、加賀藩内部では誰もただの農民だとは考えていなかったはずです。
2008年04月16日
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山之内一豊は秀吉によって、遠州(静岡県)の掛川6万石の大名に取り立てられました。そのうちに秀吉が死んで大阪方と徳川の間が険悪になってきた時に、彼は徳川に味方して関が原の後に土佐を領土として与えられたのです。敗戦で領主を失った土地に入るのは非常に大きなリスクがありますが、一豊の場合は特殊な事情でこのリスクが非常に大きかったのです。一豊は戦で華々しい手柄を立てたことがなく無名の存在でした。それが土佐という四国を制覇したプライドの高い土地の領主になるわけで、現地の武士たちになめられて反抗される可能性が高かったのです。そこで一豊は土佐に入る前に京都で浪人の大量採用を行い、大部隊を率いて土佐に入ったのです。これらの新規召抱えの家来が多かったので、現地の武士たちを新たに採用する余裕がなく、長宗我部の遺臣をほとんど武士に取り立てることが出来ませんでした。現地の遺臣を大量に採用して雇用問題を解決すると同時に危険分子を自分の支配下におくというやり方がこういうお国入りの場合は普通でした。ところが一豊はこれをしなかったわけで、長宗我部の遺臣たちは殿様から扶持を貰って城下町にすむ家来ではなく、田舎に住む郷士となったのです。これらの郷士が一豊に反抗的になるのも当然で、一豊はその報復として彼らを大量虐殺したりしました。このようにしてよそからやってきた城下士と長宗我部の遺臣である郷士の仲は江戸時代を通じて非常に険悪だったのです。幕末に土佐の郷士が群がり出て、尊皇攘夷を唱え幕藩体制を倒そうとしたのももっともです。明治になっても土佐は自由民権運動の中心地となりましたが、これも同じ理由からです。
2008年04月15日
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私が20歳前後の時、家にモンタというレトリバー系の犬がいました。私が学業を終えて家を離れ社会に出て行く間際に面白い現象が起きました。モンタを連れて散歩に行くと、突然私は物悲しくなるのです。寂寥感というかどうにも耐え切れないほど苦しい感情が沸き起こってくるのです。そしてその瞬間モンタも悲しそうな顔をして私の足に抱きついてくるのです。そういうことが何度かあった後に私は家を離れたのですが、その後モンタが病気で死んだという知らせが来ました。今にして思うと、モンタにまず悲しい感情が沸き起こってそれが私に伝わって私が悲しくなり、私が悲しくなったのでモンタも更に悲しくなって私に抱きついたのでしょう。今回タローが事故に遭った際も同じ現象が起きました。よく鳥や花と話を出来る人がいると聞きますが、私はこれを否定できません。人間と動植物は交感できるのだと私は信じています。これは人間も動植物も魂を持っているからです。「人間や動植物は魂を持っているか」というのは哲学的な課題で今までまともな証明はできていません。仏教の教理ではそんなものは実在しないとしていますが、納得する人は少ないです。ですから主観的に個々人が判断するしかないわけで、私は存在すると主観的に判断したわけです。魂というのはそれぞれが別個に持っているものですから個性があります。魂の存在を認めるということは個性を認めることなのです。それを表向きは魂の存在を認めないのに、現実的にはその存在を認めるために出来た理論が「仏性」です。「仏性」というのは全ての人間や動植物に共通のもので個性がありません。これによって日本人は個性を否定するようになったのではないかと最近私は感じています。ものには良い面と悪い面があり、「仏性」というのは美しいものでこれを感じることによって人は人間や自然にやさしくなれます。その一方で、個性とか権利と義務・責任という概念があやふやになり、社会的なメリハリがつかなくなります。この「仏性」の問題は割合最近になって気が付いたことで、もっともっと深く考えていかなければならないのですが、最近私はこのように考えるようになりました。
2008年04月13日
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「仏性」というのはもともとは哲学的な思索の産物で、全ての人間が内に秘めているというものでした。それが日本に入って、煩悩にまみれた自分の魂とは別の「本心」という正しい魂というように変わりました。そしてこの大自然と一体になった正しい魂は人間だけでなく、動植物や山川・月といった自然物も等しく持っているものだとなったのです。こういうようにインド発祥のものが日本式に変わってしまった原因のひとつは、仏教が魂の存在を認めないからです。「他に依存せずそれ自体で存在し永遠に変わらない」という実在を認めないので、永遠に輪廻転生する魂も認めるわけにはいかないのです。もしも仏教が魂の存在を認めていれば、魂はそれぞれが個性を持ち素質も違うので、個性を無視した「皆同じ」というようにはならなかっただろうと思います。ところが個性を持ったそれぞれの魂は煩悩にまみれた悪い魂ですから抑えなくてはならず、皆が共通に持つ「本心」に従わなければならないことから個性を発揮することがよくないことになってしまったのです。死後も魂は存在し続けるのではないかという思いは、皆が否定できないものです。どうやらここに問題がありそうです。ヨーロッパは2500年前のギリシャ時代から、「実在」を巡って考え続けてきましたがまだ結論が出ていません。仏教は「実在するものは無い」と断定していますが、心から納得した者はほとんどいません。そもそも「実在」を論理的に証明することは出来ないのです。ですからルソーのように正直に「私は神の存在を感じるのだ」と情緒的に結論だけを出すのもやむを得ないのではないかと考えます。私自身について言えば、永遠に存在する神というものは存在すると感じています。そうして魂というのもあると思っています。私はタローが交通事故で瀕死の重傷を負った時に「仏性」を感じたのではないかと考えましたが、いま振り返るとタローの魂と私の魂が触れ合ったのではないかと思うようになりました。
2008年04月12日
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日本人は大乗仏教でいう「仏性」というものを、自分の心の中にある正しい方の魂と理解してしまいました。そしてそれに「本心」という名前を付けています。この「本心」というのは、無欲・無我の状態で表面に出てくるのですが、煩悩が湧いているときは奥に引っ込んでいます。自分が持っている「本心」と全く同じ「本心」を他人も持っているので、お互いが「本心」を顕して付き合えば全てがうまくいくのです。さて大乗仏教でいう「仏性」というのは始めは人間にしか備わっていないものでしたが、後には動物にも備わっているということになっていきました。この「仏性」の考えが日本に入ってきて、「仏性」は人間や動物だけでなく植物や月や山川などの自然物も「仏性」を持つというように範囲が拡張されていきました。これは天台宗が「天台本覚論」で主張していますが、華厳宗の明恵上人も同じことを言っています。原始人は全てのものに魂が宿っているというアニミズムを信じていたということですから、この全てのものが「仏性」を持っているという考えは古代の日本人にも素直に受け入れられたのかもしれません。人間・動植物や自然物はみな同じ「仏性」=「本心」を持っているのです。自分は「仏性」を通じて大自然と一体になっているわけで、「自然の中に自分のいるべき正しい場所がある」という「あるべきようは」とつながっていきます。自分の中に個性・素質を持ち打算的な「自分の魂」と「本心」の両方を持っているわけですが、「自分の魂」を抑え「本心」に従うのが正しいと考えられているのです。他人や動物は自分と同じ「本心」を持っているからみな平等だということになっていくわけです。個性を表に出し自己主張するというのは、「自分の魂」に従って行動しているわけで「本心」に逆らっている状態です。日本人は個性を出したり権利を主張することを悪いことだと考えていますが、こういう奥深いところからやってくる感情です。日本人は何か悪いことをすると、自分のしたことを弁護せずにすぐに謝ってしまいますが、これも同じところから来ています。自分のしたことを反省し、「本心」に反したことをしてしまったと認めるわけです。そうすると被害者は、悪いことをした相手も「本心に立ち返った」たまともな人物に戻ったことが分かるのです。そうなれば相手は今後は悪いことをしないので、起きてしまった行為をそれ以上あげつらう必要は無くなり全てを「水に流し」ます。日本では犯罪を認めれば刑罰を受けずにすむのです。日本人の親が子供に「すぐに謝りなさい」としつけるのはこういう理由です。これは絶対に自分の非を認めようとしない欧米人や支那人からは「バカではないか」と見られます。自分の非を認めることは、刑罰を受けるということであり賠償をしなければならないからです。日本の裁判が、被告が反省しているか否かを重視しているのも同じ理由で、すぐに執行猶予を付けて被告が「本心に立ち返る」時間的猶予を与えます。実刑に服していても「模範囚」になると刑期を残してシャバに出てきます。
2008年04月11日
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仏教の教えでは魂は実在しませんが、この考えは哲学的な思索の結果によって得られたもので凡人の常識に反します。また魂が実在しないのに輪廻転生はあるというのもどうにも納得できません。特に日本では仏教が入ってくる前から、神道の教えによって一種の輪廻転生思想がありました。人が死ぬと魂は近くの山に行きたまに里に帰ってくるのですが、この発想がそのままお盆やお彼岸になっています。そして母親が妊娠すると先祖の魂が集まって会議を開き、その中からこんど生まれてくる子供に生まれ変わる魂を選ぶのです。つまり子供とはご先祖様の生まれ変わりなのです。古代の日本人は魂の存在を信じていて、これと仏教の輪廻転生思想が結びついたのです。魂が実在しないという哲学的な結論は、仏教を学んだ人だけが知識として持っているだけで庶民や僧侶までもつい最近まで魂は存在すると信じて疑いませんでした。今でも定期的にお墓参りはするしテレビの怪しげな怪奇番組が流行っているわけで、現代の日本人も伝統に忠実に古来からの霊魂観を持ち続けています。人が死んでも魂は残ると信じている日本人が「仏性」を考えると、「仏性」と魂を混同してしまうのです。インドで興った大乗仏教がいうところの「仏性」というのは魂ではなく哲学的な思索の結果の価値体系を意味するものでしたが、日本人はこれを「善い魂」と考えたのです。この考えを端的に表現したのが江戸時代の大思想家であった石田梅岩です。彼は人間は二つの「心」を持っていると考えました。欲にまみれた「自分の心」と「本心」です。無欲になって自分の心を見つめると二つの心が近づきついには一つに重なります。この状態が正しく「あるべきようは」の状態です。つまり人間は個々の心の他に他人と共通する「本心」を持っています。だからお互いが自分の欲をいったん脇に置き「相手の立場に立って」話し合えば、互いの「本心」が触れ合って正しい結論が出てくるのです。このように日本人は、全ての人間は「本心」という同じ魂を共有していると考えるようになったのです。ここから日本人独特の平等観が生まれました。
2008年04月10日
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キリスト教や仏教は、生きている人間同士が平等だとは決して言っていないし、人間と動物や植物が同じレベルにあるとも言っていません。ところがキリスト教や仏教の教理を利用して、人間の平等や動植物と人間は同じレベルだという説が出てきました。西洋ではキリスト教の教理を利用して、人間の権利と義務はどんな人でも同じになるべきだという方向に進んでいきました。ただし人間と動物が平等だということには一切なっていません。この西洋流の発想は「民主主義」という名前で日本にも押し寄せています。仏教ではこれとは全く違った方向に進んでいきました。仏教のもっとも基本的な考え方は、「実在するものは無い」というものです。「他に依存することなくそれ自身で存在し、永遠に変わることがない」というものは存在しないのです。このことから魂も実在しないという結論が出てくるわけで、どんな宗派でも魂の存在を正面から認めることはありません。その一方で輪廻転生という現象は認めています。輪廻転生というのは永遠に存在する魂が次々と新しい人間に生まれ変わるという考え方ですから、魂が実在しなければなりたたない発想です。こんなわけで仏教では輪廻転生の理屈付けに非常に苦労しています。また仏教は悟りを開いて輪廻転生の苦痛から脱却すること(解脱)を目的としていますが、これには厳しい修行が不可欠です。厳しい修行を出来るのはプロの僧侶だけで俗人には無理ですから、結果的に解脱出来るのは僧侶だけになってしまいます。実際に小乗仏教ではこの考え方です。しかし大多数を占める俗人が救済されないというのは現実問題として困るわけで、なんとか修行できない俗人も救済される方法が考え出されました。これが大乗仏教で、「仏性」というものを考え出しました。どんな人間も等しく「仏性」を備えているので、厳しい修行をしなくても簡単なこと(例えばお布施をするとか、ありがたい説教を聴くとか、南無阿弥陀仏を唱えるとか)で救済されるというものです。魂は実在しませんから「仏性」は仏の魂ではありません。ダルマ(宇宙のルール)とでも言うべきものだと私は思っています。あらゆる人は宇宙のルールを内に秘めているので、外部からの働きかけに仏性が反応し救済されるわけです。
2008年04月09日
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人間も含めた生き物というのは徹底的に不平等に出来ています。鰯(いわし)の群れをカツオなどの大きな魚、いるか、海鳥、更には漁師が襲い掛かります。鰯はそれこそ必死に逃げまわっており、彼らの一生は敵から逃げに逃げて最後には食べられてしまうというものです。大きなさめや鯨は襲い掛かる敵も無く悠然と大洋を我が物としています。鰯とさめや鯨が平等だということはありえないのです。人間でも、容貌の美醜、体の頑健さ、頭の良さという生まれつきの素質に大きな差が有り、更には階級や財産などの社会的な差別があります。人間が互いに平等だというのは、とんでもないウソです。奴隷制度やカースト制度が厳存する徹底的に不平等な社会を変えようとして起きた宗教が、キリスト教や仏教です。しかしキリスト教や仏教は現実社会の不平等を是正しようという社会運動ではなく、こういう社会的な不平等は幻であり意味がないと主張しただけです。人間の魂も善いものと悪いものがあってその価値は同じではないのであって、人間の魂でさえ不平等だということを認めています。キリスト教や仏教が言いたかったのは、人間の現世での不平等は一時的なことであり心の持ち方によって幸せになれるということです。決して人間が全て平等だとは言っていないのです。ただ、奴隷も王侯も全て死ぬし悪いことをすれば地獄に堕ちるという点でも同じで、つまりは神のルールは平等に人間に適用されるのです。こういう神のルールは平等に適用されるという意味の「平等」を、社会制度に応用したのが西洋近代の市民革命です。庶民はパンを盗んでも牢屋に入れられるのに王侯が人を殺してもお咎めが無いというのは、神のルールの平等な適用に反するではないかということです。結局、西洋近代革命の「平等」というのは「法の下の平等」ということであって、決して持って生まれた素質などが平等だと言っているわけではないのです。お釈迦様は「殺生」を禁じていて肉や魚を食べてはならないのですが、米や麦などの植物は食べても良いのです。それは植物が生物だとは考えていなかったからで、動物と植物が平等だとは思っても見なかったのです。当時のバラモン教では、バラモンという最高階級の者しか救済の可能性がないという宗教的にも人間は不平等だというものです。それをお釈迦様は、「カーストの階級に関係なく修行をすれば解脱できる」という意味で平等を唱えただけです。また人間と動物が同じ価値を持つとも言っていません。つまり、キリスト教も仏教も全ての人間が平等だとは言っておらず、ましてや人間と動物が平等だとも言っていないのです。
2008年04月08日
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タローの死は本当にあっけなく、前の日まで元気だったのです。昔は人間もあっけなく死んだものです。源氏物語などを読んでも、すこし鬱積が溜まったり風邪をひいたりするとすぐに死んでしまい、死が日常的に身近にあるので死ぬことを何時も考えているといった様子です。極楽浄土や地獄といったことを真剣に考えていたのももっともだと思います。野生動物などは餌を捕まえることができなくなったり、天敵につかまったら死ぬしかないわけで、死と隣り合わせの生活です。人間も含めた生き物の本来の姿というのは、あっけなく死ぬもののようです。一方、最近の人間というのはなかなか死にません。なまの死体を見ることもありません。死体が道路に捨てられているということはなく、たまに身内が死んでもきれいに死化粧されています。死を身近に感じることが出来ない環境になってしまっています。死を身近に感じることが出来ないと人間は精神的に虚弱になるようです。戦後の日本で思想的にすぐれた業績を上げた人は、現在80歳代以上というのが大部分です。彼らは敗戦の時に20歳代でそれこそ死と隣り合わせの生活を送っていたわけです。それより若いと戦前生まれといっても、戦争中は子供だったわけで思春期が戦後ですから、その発想の根底に「死」というものを持っていません。私も過去何人も身内や友人の死を経験していますが、全て亡くなってしまった後電話で報告を受けただけで、死ぬ現場を目撃したことはありませんでした。「死」を生で体験したのはタローが初めてだったのです。今回のタローの死で私が「諸行無常」を感じ仏教の教えにのめりこんで行ったのではないかと考える方が読者にいるかも知れませんが、そういうことはありません。
2008年04月07日
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今朝、小屋の中でタローが死んでいました。夜遅く、板と物がぶつかる大きな音がしてタローが低く吼えたのですがそれきり静かになりました。今朝おきて小屋を覗いて驚きましたが、何か発作が起きたのかもしれません。来月11歳になるという老齢なので、寿命が尽きたということかもしれません。獣医に連れて行って爪を切り、シャンプーをして予防注射をしようと思っていた矢先でした。さらに四本足で歩くべく最後のリハビリもしようと考えていたのです。最近は私が帰ってくると三本足ながらも走って寄ってくるなどすっかり元気になっていたのに。タローを棺にいれ自転車に乗せて、堤防沿いの道で野辺の送りをしました。堤防一面に菜の花が咲いていてとても美しかったです。タローの棺にも菜の花をたっぷり入れてあげました。一緒に遊んで楽しかった10年を振り返って涙が止まらなくなりました。昨年末のタローの交通事故をきっかけに生き物の魂ということを深く考えるようになり少しづつ考えがまとまってきた矢先にタローに逝かれてしまいました。タローは私に生き物の魂のことを考えさせるために生まれ死んでいったようなものです。次回から私の考えをすこしづつ整理しながら書きたいと思っています。
2008年04月06日
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昨日の岩清水八幡宮の桜は7分咲きということで、今日はここにお花見に行ってきました。岩清水八幡宮と聞くとどうしても吉田兼好の「徒然草」を思い出してしまいます。「つれづれなるまゝに日くらし硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」ヒマだから下らないことをグダグダと書いたのだというこの文章を読むと、私のこのブログを連想してしまい、思わず「先輩」と声をかけたくなります。吉田兼好はやはり文章がうまいですね。ここを見込まれて高師直という足利尊氏の一の家来の恋文を代筆したりしています。岩清水八幡は丸い山が神社になっていて、淀川のほとりにあります。徒然草の52段を思い出して頂上の本宮にお参りに登りました。「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ心うく覚えて、ある時思ひ立ちてたゞひとり、徒歩より詣でけり」京都の仁和寺の老法師が始めて岩清水八幡をお参りするのですが、本宮が山の頂上にあることを知らずに、ふもとの付属神社にお参りしただけで帰ってしまうのです。そして「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」と結論を述べています。何事にも事情に通じた先輩がいれば好都合だねといっているのですが、全くその通りですね。ふもとには京阪電車の駅があり、そこから頂上まではケーブルカーが通じていますから、楽して本宮に行けます。しかし私は「徒然草」の手前、頑張って長い石段を登りました。疲れました。
2008年04月05日
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関が原の合戦で豊臣方についた長宗我部家は土佐の領地を没収され、代わりの領主として山之内一豊がやってきました。山之内一豊は本人よりその奥方の方が有名です。「一豊の妻」と非常な賢婦人だということになっています。秀吉や家康の時代は、大規模な戦の論功行賞として転封(大名の引越し)が行われました。勝者の側に味方した大名は領地を増やされるのは嬉しいのですが、新しい領地は今まで敵の大名が支配していたところです。その地に土着している武士たちになめられて反乱でも起こされたら、その能力を疑われてせっかくの領土を召し上げられてしまいます。例えば、肥後の国(九州熊本県)は、秀吉の九州平定の際に手柄を立てた佐々成政が新しい領主となりました。成政ははやく領国を安定させようとして無理をし、地侍(土着の武士)の大反乱にあってしまいました。そして秀吉の怒りをかい、せっかくの肥後を召し上げられてしまったのです。そのあと秀吉から肥後の領主に任命されたのが加藤清正で、彼は反抗する地侍を粉砕する一方で人心を収攬して領民に非常に愛されました。加藤清正は秀吉の子飼いでしたが、関が原では徳川に味方し肥後を安堵されさらに領地を増やしました。清正の死後、徳川の外様大名取り潰し政策で清正の息子も領地を取り上げられてしまいました。その後肥後の領主に任命されたのが細川忠利でした。彼は佐々成政の失敗を知っていましたし加藤家が非常に領民に慕われていたことも知っていたので、ヘタなことをしたらえらいことになるということが良く分かっていました。そこでお国入りの際は、加藤清正の大きな位牌を行列の先頭に立てたのです。「清正と同様の良い政治を行う」というこのメッセージによって細川家は肥後の領民に受け入れられました。細川家は領民に非常に気を遣い年貢も安く押さえたので、当時細川藩は貧乏藩として非常に有名だったのです。このように、大名が新しい領地に乗り込むというのは非常なリスクをともなうことだったのです。そうして山之内一豊も必死の覚悟で土佐に乗り込んできました。
2008年04月05日
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土佐はそれほど大きな国ではありません。江戸時代の石高は24万石で長州の45万石や薩摩の77万石に比べて小さいです。江戸時代の幕府の法制では、大名は1万石につき200人の兵士を動員して幕府の指揮下に戦闘する義務がありました。24万石では5000人足らずです。それが幕末時点で薩長土肥と並び称される強国だという印象をもたれていたのは、戦国時代のヒーローである長宗我部元親(ちょうそがべ もとちか)のためです。彼は土佐の一隅の土豪から身を起こし土佐を席巻し四国全体をほぼ征服しました。このとき彼は土佐から2万人の軍隊を動員したのです。この国家総動員とでも呼ぶべき強兵策を可能にしたのが、彼が作り出した「一領具足」制度です。本来であれば武士とはいえない中規模の農家から兵士を動員したのですが、兵士になる代わりに年貢を免除したのです。彼らは一領の具足(よろいかぶと)と槍を常に自宅に用意してお城からの動員に供えながら、平時は百姓をしていたのです。長宗我部元親が四国をほぼ平定し終わった時、関西では豊臣秀吉がライバルの柴田勝家を滅ぼして覇権を確立しつつありました。この秀吉が長宗我部元親をライバル視して、四国に攻め込んできたのです。元親は多勢に無勢で秀吉に降参し、土佐一国のみを領土として認められ秀吉の家来になりました。元親や秀吉の息子の時代になって、関が原の合戦が起きましたが、土佐の長宗我部家は豊臣に味方したため、御家を取り潰されてしまいました。
2008年04月04日
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昨日は天気が良かったので、京都にお花見に行きました。円山公園で桜と大勢の花見客を見ながらお昼ご飯を食べお酒を飲みました。ダイエットを続けているので、久しぶりに満腹したお昼でした。私の近くで数人の若い男女が桜を見に来たというよりも、相手を探しに来たという感じで盛り上がっていました。おそらく合コンなのでしょう。娘たちは和服を着ているのですが、お兄さんたちも和服でした。なにか彼らたちの合コンにかける期待の大きさというかやる気を感じてしまいました。良い結果が出れば良いですね。頑張って彼女を獲得するのだぞ。桜は満開に近く、特にしだれ桜の巨大なのは見事でした。その後、知恩院の桜を見てから帰りました。円山公園の中に坂本竜馬と中岡慎太郎の銅像がありましたが、立っているのが龍馬で中腰が慎太郎です。二人は土佐の下級武士である郷士の指導者で王政復古のときに大活躍をし、15代将軍の徳川慶喜が大政奉還をした直後に暗殺されました。郷士という階級が江戸時代にありましたが、彼らは武士と大百姓の中間に位置します。武士というのは、もともと大きな百姓が武装したもので、普段は農業をやり戦争にも出掛けたというものです。それが戦国末期の信長の時代から、中核となる武士は城下町に集められて戦士のプロになりました。しかし城下町に出ず農業を続けたまま、たまに戦争に出掛ける従来型の武士も多くいたのです。江戸時代になって平和になると、日本人全員を士農工商のどれかに分類するようになりましたが、これらの従来型の武士は中途半端なので「郷士」になったのです。法的に「郷士」という階級があったわけではなく武士か百姓かのどちらかなのですが、明らかに「郷士」という社会的存在はあったのです。幕末に群がり出た「草莽の志士」や「下級武士」の多くはこの郷士です。土佐は戦国時代末期に長宗我部元親というヒーローが現れて、まずは土佐を平定し四国を征服しました。長くなりそうなので、続きは次回に書きます。
2008年04月03日
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