全8件 (8件中 1-8件目)
1
武道には師弟関係がある。現道場長の師は、開祖の直弟子だった方で、話によれば随分迫力があったらしい。技は変えることなく、ほとんどそのまま受け継がれているようだ。 自分も道場長の技をそっくりそのまま受け継ぎたい、という思いで稽古に励んでいる。以心伝心。道場長もすべてをぼくに伝えようと、それは細かく指導いただいてきた。ありがたい。 ここ最近になって、ようやくといったらいいのかどうか、ほとんど指導を受けることがなくなってきた。道場長の中に満足感が芽生えつつあるのがこちらに伝わってくる。「○○さんらしい技になってきた」評価の言葉と受けとっているが、体格・体型によって微妙な個性があらわれるのが自然だという。 たしかに自分でも体重の軽さや体格の小ささをカバーするように技の中で工夫している。より相手の動きに同調するように、相手の力に乗っかっていくように、あるいは懐に入るようにしている。そうなると呼吸投げの類の技が自分にとってもっとも自然なものになる。 相手と一体化したときの心地良さが楽しい。
2009年11月29日
コメント(2)
本日はたいへんヤバかった。いつもの夕食時。食欲がないから抜きにしよ。・・・とコタツに足をつっこんだままコテンと横になった。横になった途端、弱い吐き気がやってきた。つけていたテレビのニュースがうるさく感じたので、リモコンに手を伸ばして消した。しばらくすると寒気がやってきた。(ダメだ、こりゃ)コタツから出た上半身が寒い。(布団ほしい・・・)こういうとき誰かがいたら、なにかをしてくれるのに・・・。弱気が心身を支配し始める。 鉛のように重くなった身体をエイヤッと動かして、身体をコタツに対して斜めにしてつま先から首までコタツ布団をかぶった。息子がインフルエンザで高熱を出したとき、自分のことなら気が楽なのに・・・と思ったが、いざこうして自分が得体の知れない体調不良に襲われると不安になる。 小一時間ほど横になっていたら、どうにかなりそうな気がしてきた。まずは座る。TVなどもつけてみる。ボーッとする。熱はナイ。 そしてついさきほど、カップめんでも食べてみよう。・・・と動いてみた。食べたらおいしかった。元気がでてきた。 PCを立ち上げてみる気持ちまで起きた。そしてコレを書いている。健康・身体・元気は ありがたい。 息子と娘の健康と幸せも祈っておく。
2009年11月26日
コメント(6)

合気道師範でありながら、大学教授でもある氏の著作群はじつに多彩で面白い。件の著書の中にも、いくつか書き留めて置きたくなる文章が出てくる。たとえば・・・・「社会的なふるまい方の根本原則はどんな場合も同じである。それは世の中が全部『自分みたいな人間』ばかりになったときにでも愉快に生きていけるような生き方をするということである」云われてみれば、ごもっとも。より客観的に自分の行いを自省しつつ生きる必要がある。さらにこんな楽しい記述も・・・・「ご飯がきちんと美味しく食べられる相手であれば、エロス的関係においても同じような同期が期待できるということを私たちは無意識的には知っている。だから、とりあえず「飯、食いにいかない?」ということになるのである。あれは『瀬踏み』しているわけである。一緒にご飯を食べていると、カップラーメンでも美味しく感じられるという相手であれば、それ以外の共同的な作業においてもだいたいうまくゆく可能性が高い」これも、ごもっとも。まずは女性を食事に誘う → 楽しければ、あとに控えている「共同的な作業」もうまくゆくわけなのだ。つまり男性陣は無意識的に「瀬踏み」しているわけだ。んー。さすが教授の解析。次に、バケツの水を頭から浴びたような一文も紹介したい。「自分で何でもできて誰にも依存せずに生きている人間を『自立した人間』と称してほめたたえる傾向があるが、そんな生き方のどこが楽しいのか私にはさっぱりわからない。それは『自立している』のではなく、『孤立している』のである。自分がしなければいけないことを誰かがしてくれれば、そうやって浮いたリソースで他人のしなければいけないことを私が代わりにやってあげることができる。それは人性の自然なのだと私は思う」自分は孤立しようとしていたのか・・・。ダレカに頼ること、頼られることの意味を氏は、このように書いている。「『私はここにいてもよいのだ。なぜなら私の存在を必要としている人が現に目の前にいるからである』という理論形成で、交換は人間の人間的尊厳を基礎づける」ここでいう「交換」とは、「してあげる」ことによって、してもらったほうは「感謝」の言葉や態度・好意などを返すという関係のことである。ここから結びにつながっていくのだが・・・・「ほとんどの人は逆に考えていると思うけれど『その人がいなくては生きてゆけない人間』の数の多さこそが『成熟』の指標なのである。自分のまわりにその健康と幸福を願わずにはいられない多くの人々を有している人は、そうでない人よりも健康と幸福に恵まれる可能性が高い。それは祝福とは本質的に相互的なものだからである」自分のことだけじゃなく、自分以外の人、それも多くの人を気にかけて生きていくことの豊かさをじつに理路整然と教えられた気がする。一人暮らしをしてると、本当に人との関わりが喉を潤す感覚に近いものなぁ。。。
2009年11月22日
コメント(8)
近所の大型スーパーが店内改装のため、ほとんど全品2割引きセールを実施していた。自分が行ったときはすでに空白の棚もたくさんあり、色々見ていくうちに(あぁ、これが2割引きなら買うよなぁ)と遅れをとった悔しさも過ぎる。いつもより丹念に各コーナーを見てまわり、自分も普段は買わないようなものをカゴに入れたりした。(この価格なら買う)というようなものだ。棚に残り数個しかない場合も購入意欲を誘う。意外だったのが、コーヒー棚はさほどスカスカではなかったこと。自分の愛飲している粉のコーヒー袋はほとんど安売りすることがないので、(二割引なら)と迷わず買った。そうして買い物をしてるうち、(ん?なんだか株式市場に似てる)と感じた。 現在の日経平均株価は下落傾向が続いているが、銘柄によってはすでに安くなり過ぎの株もある。自分は割安感がある小型株を次々買い集めて、すでに「現物」では両手を全部使ってしまった。さらに下がるものは、信用枠で買い集めていこうと思っているが、すでにいくつかの銘柄は反発を始めた感がある。 誰も買おうとはしなくても、自分の尺度で割安と感じるならコーヒーを買うように株を買えばいいのだと思う。スーパーの割引セールと同じだ。要はその商品の価値(株の価値)を知っている場合だけ購入すればいいのである。
2009年11月21日
コメント(4)
金曜の夜に迎えに行ったとき、息子はときおり咳き込んでいた。風邪気味なら外出は控えたほうがいいだろうと、自宅で遊べるゲームを購入して、できるだけ家の中で遊ぶ工夫をした。ところが、日曜の朝、だるそうにしている息子の熱を測ると38,9℃あった。それでも起き上がってテレビを観たり、一緒にカードゲームをする元気を見せたので安心していたが、インフルエンザのことも頭を過ぎる。 夕方になり、やはり身体がだるいようで布団にもぐりこんだ彼の体温は40℃を越えていた。すでに夕食の支度ができていたので、急いで娘と食事を取り、それから息子を車に乗せて送り届けた。そのまま元妻が病院へ連れて行ったところ、予期していた通り新型インフルエンザの診断が下った。 今日になって息子にメールするとすぐに返信があり、「バッチリ!」と熱が下がったことを伝えてきた。胸を撫で下ろした。 今度は自分の心配もせねばなるまい。今朝から少し咳がでている。息子から感染したのなら、数日中に熱がでるだろう。でも自分のことは自分が対処すればいいので、ある意味気が楽だ。
2009年11月16日
コメント(4)
例によって株主優待券で観賞。 http://yaiba.goo.ne.jp/娘を辱め殺された父親による犯人への復讐劇・・・と単純に説明できない映画。丁寧に何層にも織り込まれた人間心理がグイグイ胸に迫ってくる。 娘をもつ父親であれば、「自分ならその時どうするだろう」と考えずにはいられないテーマだ。警察署の遺体安置所で娘と対面する父親。そのシーンを観ながら自分なら、(娘が受けた以上の残忍な方法で犯人の命を奪いたい)と思ったが、映画館を出るときには、(少年法、刑法を改正する運動ために一生を捧げる生き方もありかもしれない・・・)と正反対の正義も浮かんだ。 映画の核心にも触れてしまうが、主人公の父親はそのいずれでもない道を選んだ。 個々の立場での正義。娘を殺された父親に感情移入したひとりの刑事の内側でも「本当の正義とは」という命題につきあたる。自分たちは市民を守るのが使命ではなく、法律(制度)を守るのが使命なのか・・・と。 殺害された被害者の人権ではなく、犯人の人権を保障する司法制度。娘の父親は人生をかけてそこを問う。東映作品にしては、色んなことを考えさせられる映画であった。
2009年11月08日
コメント(2)

バスケット・コート。ボールを巧みに操作する息子。ゴールを阻むように自分は両手を広げて行く手をさえぎる。左右に切り返す息子。こちらも必死でついていこうとするが、いとも容易く抜き去られてゴールネットが揺れる。 「ラウンドワン」の「スポッチャ」という遊戯施設の中のバスケット・コートでのことである。 バスケット部に入ったばかりの数ヶ月前とは明らかに体の動きがちがった。身体のキレがいいし、ボールが手に吸い付くような余裕のある捌きをする。我が息子ながら、「カッコイイ! ○太!」と叫んでしまう。 また一つ、父親を越えた息子。こちらの知らない世界(バスケ、陸上)でぐんぐん実力をつけていく彼を見るのが嬉しい。応援したい・・・というより、ファンになりそうな感じだ。今後、どんどん自分を越えていくのだろうな。
2009年11月04日
コメント(4)
ちょうど一年前、手首をつかまれた瞬間、あるいはこちらが相手の手首をつかんだ瞬間にその力量が分かってしまう、ということを書いた。合気道独特の感覚かもしれない。 だが今では「構え」(姿勢?)を見ればおおよその力量が分かる気がする。立ち姿は、稽古量、あるいは経験値を表しているのではないか? そしておそらくこの次に訪れる感覚は・・・相手の「目付け」でその力量が分かるようになるのではなかろうか?なんだかそんな気がする。 たとえばホームセンターですれ違った人に、武道の心得がある・・・と感じる瞬間が訪れたとしたら楽しいだろうな。そんな小説的なことはないのだろうか。でもあったとしたら面白い♪
2009年11月02日
コメント(4)
全8件 (8件中 1-8件目)
1