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地球の温度というのは、きわめて微妙なバランスでできているのかな。かなと言うのは、ようするに教養がないので何もわからない。だいたい星というのは、たとえば太陽系の一般として地球で言う、24時間のスケールでどのくらいの温度変化をしているのだろう。たぶん、地球が一番微妙な温度変化をしているのではないかと思う。というのは、これだけの生命体を養うというのは、温度変化が大きいと無理なのではないのかな。きっと生命体という物質は、物質の中でも、最も現状を維持しにくい、デリケートなある意味ではチャチな代物なのだろう。ところが生命体自身が、星体を現状維持させる方向での活動をすると思うのだ。生命体のない星は1日の温度の格差は数100度以上あってもおかしくない。時間にもよるが物質の熔解温度は800度以上の場合が多いかな。 下限の温度はマイナス273度らしいが(どうしてなのかわからない。すべての粒子が動かなくなるためなのかな。それより低い温度という発想が生まれないのだろう。でももしあったとしたら。)、温度の上限はどのくらいになるのだろう。そんな温度はどう探しても、地球には存在しないのだろう。何億度というものも存在するのかな。 地球から生物がいなくなる。地球の砂漠化はその勢いが止まらない。毎年、四国ぐらいの広さが砂漠になる。生命体が少なくなれば、微妙な温度調整が効かなくなる。1日の寒暖の差が50度くらいになる。生命体が加速度的に少なくなる。問題は人類という種類の生命体だ。これは、生命体のガン細胞かもしれない。若いのにブログなんかやっているのは生命体の真性ガン細胞だ。年寄りのブログは、まあ、おできぐらいだ。
2004年07月16日
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仕事の行き帰りの交通機関は自転車である。4年前に9000円くらいで買った、ママチャリを利用している。片道、40分から1時間半くらい掛かる。どうしてこんなに時間に差ができるかというと、信号や踏切の引っかかり具合と、道の選び方と、やる気の問題である。総じて朝はやる気があるし、帰りはない。さて、通り道に2カ所の大きな公園を横切る。両方とも川を挟んで両側が公園になっている。そこを横切るとき、1年中必ず、ジョギングをしている人を見かける。自転車をこいで、仕事場に急ぐものにとって、迷惑な時もある。7時を境にして、その前後に通過をするので、庶民の間ではジョギングの時間なのかもしれない。年代はと言えば、若い人を見かけることはほとんどない。学校のクラブのような団体が走っていることはあるが、それ以外は40代から70代くらいの人々である。中には、そのまま冥土まで突っ走ってしまいそうな人もいて、思わず手を合わせてしまう。40代で7時くらいになんでジョギングができるのだ、と思える人が結構たくさん走っている。きっと家に帰ってシャワーを浴びて、おもむろに着替えて、8時30分くらいに出社するのだろう。優雅なことだと思ってしまう事もある。そこで、提案だが、会社にシャワールームとトレーニングルームのようなロッカーと洗濯機を用意したらどうか。 20kmぐらいだったら2時間も走ればつくだろう。20kmもあれば、多くの人は、会社までたどり着くのではないだろうか。朝、5時に出ればいい。7時に着く。シャワーを浴び、ゆっくりとくつろぎ、自宅から持参したおにぎりを食べ、朝刊を読む。そうしても、9時の出社時間までに十分に間に合うし、ラッシュの電車に乗り心身ともに疲れ果ててしまうこともない。企業は保養施設など考えるより、シャワールームと洗濯機とロッカールームを作る方がよっぽど良いと思う。 わたしはどうかと言うと、ジョギングは嫌いだ。なぜ苦しい思いまでして走るのか。こんな不健康な事は絶対にやらない。
2004年07月15日
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1日が終わるというのは、これから睡眠モウドになると言うことだ。従って、その人によって、1日の終わりが何時になるかは違う。この1日が終わるとき、1日を振り返ってみて、いい日、並の日、悪い日の3種類が出現する。いい日とは、次の日がらくになる日で、並の日とは、次の日がまあこんな日だと思える日で、悪い日とは、次の日にめんどくさい問題を残す日だ。この3種類の日の割合というのは、その時、その場所、その状況によって大きく変化する。しかし、一つの状況だけが、一週間も二週間も続くと言うことはない。いい日が続けば、まもなく悪い日が近づいてくる。ところが悪い日が続くと、やがていい日が来ると思うのは、間違いだ。普通は、もっと悲惨な悪い日がやってくる。従って、悪い日が来たら、一刻も早く逃げ出すことが必要だ。 今日は疲れた一日だった。明日はもっと疲れる日になるだろう。冗談じゃないですよ。
2004年07月14日
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小型船舶免許がまた変わるらしい。3年前に1級小型免許を取得したときには、超天才でなければ受からないと言われていたが、前回の変更で並の人で受かるようになり、今回の変更でアリの脳みその半分もあれば受かることにことになるらしい。しかも今だと、その下の超簡単な試験に受かると、2ヶ月か3ヶ月後に自動的に格上げになって、一級小型船舶免許になると言うことだ。どのくらい簡単な試験かというと、試験管の前で、たら~っと鼻水を流すと合格するらしい。しかしこれは、あくまでも噂であって、関心のある人は自分で調べることが必要だ。免許が簡単に取得できるようになるのは、ある意味では好ましい。船を操縦する人が増えれば、その手の設備は発展するだろうし、値段も安くなるだろう。問題は、安全と、海の乱開発と汚染だ。安全については、先日、モータボートと水上バイクが接触して2名が死亡するという痛ましい事故が起きている。どうも、規則決まりが個人の運用ではないがしろになるようなところがある。 しかりとしたクラブ組織があった方がいいと思う。地域に根ざした、費用もお庶民が充分に支払える金額で、マナーにうるさく、技術もしっかりしていて、できれば海についてのいろいろな方面の学識のある人が集まっているようなクラブができれば最高だと思う。月に2000円くらいなら、20分会を2回我慢すればいいのだ。
2004年07月13日
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カウンターが1000に近づこうとしている。しかし、ここで、驚くべき真実が語られる。実は、ここに来ているのは、システム関係者以外、貴殿を含めて3人しかいないのだ。もちろん、ランダムで入り込む、一見のお客さまもいるが、そのような方は疾風のように現れて、疾風のように去っていき、二度とお目にかかることはない。それでは。その通りだ。わたくしが、複数のアカウントを駆使し、さらに携帯をかぶせ、涙ぐましいアホらしさで、カウントを上げているのだ。なぜ、だれも来ないのだ。そこで、はたと考えた。ネタが時流に乗っていないのだ。ネタを新ネタにすればいいのだ。そうすれば、もう3人くらいは来てくれるかもしれない。20分会のためにも頑張ろう。 と言うことで、本日のお題は「選挙」。なにかおかしいぞ「選挙」。で行こう。国会議員というのはものすごく、大変な仕事だ。日本の国で生活する、われわれの生きるスタイルから、場合によっては生命までも左右する。議員の仕事は激務だ。にもかかわらず、別に本業がある人がいる。我が国の重要問題はなにもわからない。でもやる気と根性で議員になってします。やる気と根性だけでいいのであれば、黒塗りの車を見せられれば誰だって、むくむくと湧いてくる。所詮そんな国会議員は何もできないのは、みんなわかっている。官僚のお膳だてにハンコを押しているだけなのだ。 国会議員の給料を10億円にでもしてしまえばいい。そうすれば、こんな奴に年間10億円も税金を払うのかと、かなりわれわれは真剣になる。選挙選説はどう考えても意味がない。うるさいだけで、仕事をしているわれわれにはじゃまだ。今、日本は何が問題なのか、国民から意見を聞く。ネットでも、ファックスでもそれ以外の直接役所に書いた紙を持って行くでもいい。それから、キャリア官僚も意見を出させる。それを50から100項目に集約する。それについて選挙に出馬を表明している人間に書かせる。原稿用紙1000枚から2000枚が目安だ。項目ごとに800字ぐらいの要約も提出させる。一字でも他人に書かせたら、100年以上国外退去、ムー大陸に島流しの刑にする。50~100項目の中には、最先端の統計学がわからなけらば答えられないものもあるだろうし、化学的な内容については、海外の専門誌からの引用がどうしても必要なものも出てくるだろう。それらを全部答えてもらう。もちろんスーパーで売られている輸入された葉物のポストハーベストについても、年金についても、統計学の立場から、きっちり書き込んでもらう。保育園の現状もしっかり把握していなければならない。 書かれたものを基に、様々なメディアを利用し、公開の講演会や、討論会を決められた方法によって行ってもらう。 ここまでやれば、とんでもない奴は篩落とされるだろう。学歴詐称も関係ない。学歴のある無能力者と学歴はなくても能力のある者が区別される。1億2000万人の生き方に影響する国会議員の給料は高くてもいい。それで国民が幸せになれればいいのだ。安い金で国会議員にふさわしくない者を雇って、国民が不幸になっている今の現状は、安物買い(決して安い金ではないが)の銭失いだ。もちろん、50~100項目の中には、福祉や人間的な生き方を問うものが必要だし、それだけで1000ページぐらいは書いてくる人でなくては困る。
2004年07月12日
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その通り、泥棒の仕事は泥棒である。強盗の仕事は強盗で、人殺しの仕事は人殺しである。ご近所の人は、朝から夜中までよく働くとしよう。・・架空の話ですよ!近所にそんな人いないし、もちろん、わたしは違う。・・・近所の評判はどうかというと、とても偉いということだ。声を掛けたとする。「よくお働きになりますね。ご立派ですね。」するとたいていの返事は「貧乏暇なしというヤツで。少しは休んで温泉にでも行きたいと思っているのですが、そんなことは言ってられません」 すると、さらに感心されて「怠け者がすっかり増えたご時世に立派なことです」と続く。 問題にしたいのは「仕事」という言葉と「働く」という言葉だ。「仕事」「働く」という言葉は、残念ながら、第二次世界大戦以後悪い言葉になってしまった。「仕事」「働く」という言葉をなくしましょう。前の例でいえば、「よく働く」という言葉が「よく泥棒をする」と言う言葉に変わる。だれも立派だとは思わない。思わず「働くな!」と叫ぶだろう。バブルの時に銀行はものすごくお金貸した。それで、お金を借りた人が、バブルが崩壊して、とても悲惨な目にあっている。もし過去に戻ることができるなら、「働くな!」と泥棒の時以上に大声で叫ぶだろう。その悲惨さは、泥棒にあった比ではない。この場合「仕事・働く」は「銭稼ぎ」に変わる。詳しく言えば「家族を食わせるための銭稼ぎ」ということになる。でも、そうは言えない人もたくさんいる。黒塗りの車でお迎えに来る人が「家族を食わせるための銭稼ぎ」とは言えないだろう。思わず、あんた「銭稼ぎ」はいい加減やめなさい。金は天下の回りものだ。銭が回って来ない人に分けてやったらどうかと言いたくなる。「畑を耕しに」「森を掃除に」「かつおの一本釣りに」「放牧しに」「家具をつくりに」「お年寄りの世話をしに」「子供と遊びに」「海に潜って魚を眺めに」「ウイルスの研究に」・・。「仕事・働く」の言葉を排除した方がいい。
2004年07月11日
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日本・ポーランド戦のバレーを見ながらこれを書いている。5セット目の接戦でこれを書いているなんて、わたしもたいしたものだ。残念ながら今負けてしまった。日記なんて書いている場合ではなかった。これはわたしの責任かもしれない。ごめんなさい。 ところでスポーツというのは、監督とコーチを含めた選手と応援団が主役のものだ。どうもプロ野球がおかしい。スポーツを行うのは、対戦相手を決めることや、日程を組むことや、場を設定することが必要なのは当たり前のことで、それはそれで係がやればいい。しかしそれは脇役の仕事であることをしっかり自覚しなくてはいけない。もちろん経費が必要なのも当然なのだが、それも脇役の仕事だ。オーナーというのは、持ち主という意味だと思うが、脇役が持ち主であるはずはない。人間の尊厳をしっかりと考えるならば、選手の汗を選手と応援団がまさに人間的に共有しているもので、金をやりとりしている奴らは、歌舞伎の馬の足だ。馬の足が偉そうにしゃべったら、これはまさしく妖怪ではないか。馬の足がオーナーになったら、それは人間の滅びのときだ。 馬の足の妖怪はもちろん、悪だが、その妖怪が自由に闊歩できるこの社会の人間性は一体どうなっているのだろう。
2004年07月10日
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今、夜中の1時。実はビックリするかもしれないが、こんな爺さんでも、やはり健康が気になるものだ。できれば健康な体で隅田川の青テントで老後を過ごしたいなとも思うこともある。およそ一月前血液検査なるものを受けた。なぜ受けたかといえば無料だったからだ。その結果が今日いや昨日の夕方手元に届いた。なんと肝臓のG何とかいう値が、これ以上はいけませんよという値の数億倍のあたいを示している。 これは肝臓の薬だと思いながら、20分会を3時間もやってしまった。でも今日はみんな集まってくれてありがとう。
2004年07月09日
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従兄弟がペンギンのわたしにとって、昨日も今日も生死の境で仕事をしている。べっとりとした排気ガスのスチームで丹念にスモークされた灼熱の空気にどっぷりと浸かりながら仕事をしている、われわれは、エジプト時代にピラミッドを作った奴隷ごときものである。 クーラーというのは、どう考えてもふとどきな機械だ。室内を涼しくすれば、外にその分の湿度と熱風を送り出す。 東京など全く異常な事態になっているのだ。世界ゴミのトップに登録されている、東京都庁の建物に象徴されるような愚劣な建物がニョキニョキと建っている。この建物の容積を冷やしただけの熱が、外に放出されているのだ。今日のように10度近く冷やせば、10度高い温度が外に放出される。その温度だけではない、室外機等の中で回っているモーターやエンジンからも発熱する。愚劣ビルだけではない、我が家のようなペンギン小屋までがクーラーがついている。ペンギン小屋ならまだ納得できるが、最近は犬小屋までクーラーがついているようだ(嘘!)。巨大なマンション群や団地群やアパート群やマッチ箱群やゴジラの鼻息で2kも吹っ飛びそうなビルに至るまでクーラーがついている。それどころか、車道からあふれ歩道を走っている車(嘘!)までクーラーがついている(だれか俺の9800円の自転車にもクーラーをつけてくれ!)。電車だ!東京を一体全体、一日中どのくらいの電車が走っているのだ。地下鉄を含めれば、東京中の電車の長さは、東京にいるミミズの長さの合計を遙かに上回っているだろ。 そこで、東京で一番偉い、20分会の会長であるわたしが、民に命じる。明日からクーラーを使うな。窓を開けろ。高層ビルの上の窓は、啄木鳥さんにお願いして、窓を開けてもらいなさい。車も電車も窓は全開だ。そうすれば、昔の総理大臣が提唱したサマースーツも復活する。銀行のノーネクタイデーだって蘇るのだ。公園の木陰のベンチは排気ガススモークエアーの脅威にさらされることのない、爽やかな夏の空気になる。そこで、水筒に入った麦茶を飲みながら、おにぎりをほおばるのだ。もちろんタクワンは二切れだ。 こう熱いので、あしたも20分会だ。小田急線のいつものところにする。あすこのビールはまずい。生ビールがぬるいのだ。みんな来いよ。
2004年07月08日
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どうも天気予報というものがわからない。明日の天気予報は、この法則にのっとって、この様にしないと、いけないという決まりがあるのだろうか。その規格にのっとって発表しないと、天気予報情報統一規格局から告発されて、懲役10年以上、もしくは落雷中のゴルフ場で5メートルのアンテナをかついで3時間起立の刑にふくさなければいけない法律があるのだろうか。天気予報があたらないのはいいが、どの放送局も、どの新聞も同じ予報をしてはずれるのは、どこかで情報統制が行われているとしか思えない。 天気予報士はどのテレビでも、同じ事を言っている。どのチャンネルも明日は雨です。といってる中で、明日はカンカンデリですよという天気予報士がいたっていいではないか。 結構そちらの方があたる可能性が高い。夜10時以降のニュースショウの番組では、天気予報士が下駄を投げて、下駄がひっくり返ったので明日は雨です、といってもいい。けっこうそちらの方が当たるような気がする。下駄の方が当たれば結構、笑えるし、次の日の天気が楽しみというものだ。 台風のような単純明快な気圧変化であれば、おおよその天気は予測できるけれど、そうでない場合は、気圧配置だけで天気など予測できるほど、単純なものではない。この単純さは、下駄を投げる天気予報とあまり変わらないのでないかと思う。気圧配置でおおよそ言えるのは、日本では夏は暑く冬は寒いと言うことぐらいだ。漁師の人が、風の向きや、朝焼け、夕焼け、鳥の飛び方、波質をみて判断するほうが実はずっと科学的なような気がする。 さて、梅雨明けだが、実はもう梅雨は明けている。毎日こんなカンカンデリで東京など30度を毎日超えているのに梅雨が明けていないはずはないではないか。梅雨はあけていませんというのは、その根拠となる、気圧配置の考え方が間違っているので、その業界の特権をかたくなに守ろうとする、いやらしさが背後にある。 梅雨など早々とあけてしまえばいいので、そうすれば今日見たいに暑くても、夏だからしかたないよなと思えるし、海水パンツでも買ってプールにでも行くかとも思う。経済的にも、精神的にもよし夏か、やってやろうじゃないかという気持ちになる。こんなに暑くても梅雨だといわれた、病気になりそうだ。 良識ある放送局と天気予報士に告げる。下駄を放って、明日の天気を言いなさい。 きょうの20分会は盛会でした。今日はまじめに20分で止まり木を後にしたのでした。
2004年07月07日
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以前、海沿いの電気メーカの工場で働いていたことがある。製鉄所は、その工場から派遣されて働いていたのだった。何百人と働いているその工場で、残業で残る労働者も多かった。とにかく忙しい時代だった。月に150時間近くも残業したこともある。工場の機械の片隅で寝てしまったこともある。 海沿いの工場は、昼休みも工場内で過ごす。大きなプレハブの食堂があって、ほぼ全員がそこで食事をする。 夕方5時30分になると、終業のサイレンが鳴り、一旦仕事は終わるが、そこで帰る人はいない。夕食を食べに食堂に行く。夕方の食堂は麺類だけになる。昼、麺類を食べてしまうと、夕にまたそれを食べようとは思わない。同じ麺類でも、カップ麺の自動販売機が食堂の外にあったのでそれを食べることが多かった。その自動販売機の前に長蛇の列ができる。ある時、列の終わりの方に並んで順番を待った。100円を入れると、カップ麺がでて、自動的に上からお湯を注入する管が、カップ麺のふたに差し込まれ、お湯が注がれる仕組みなっていた。列の終わりに並んだせいもあるが、それ以上にいいがげんな自動販売機だったのだ。取り出したカップ麺の容器が冷たい。水が入ったのだ。疲れた頭には、それ以上の考えも、怒りも浮かばなかった。次の日振り返って、自分のバカさ加減にあきれた。食堂の机に、冷たいカップ麺を置くと、3分間待ったのだ。パブロフの犬だって、3分間は待たないと思うのだが、なんと待ったのだ。(きっと今でも待つと思う) 3分後に開けたふたの内側には、ふやけていない、玉子やネギや肉のつぶつぶが、わびしく水の上に浮いていた。麺はどうだったか。残念ながら30年以上の時間の流れにその記憶は流れてしまった。ほかに、食べ物はない。しかもまだ何時間も働かなければならない。頭は他の事を考える余裕がなかった。全部食べて、麺をひたした水も飲んだ。史上最低の食い物を食ったというイメージだけが残り、ものすごく気持ちが悪くなった。しかし仕事はした。それから三日間食欲がなくなった。いろいろダイエット食品が出回っている。150円で三日間も有効で、しかも効果覿面のダイエット食品がこんな身近にあることを知っている人はあまりいない。
2004年07月06日
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AからBに行く道というのは、数限りなくある。これで全てでしょうと思っても、もう一本どこからか見つけてくることができる。ガラス瓶に入ったヨーグルトをスプーンで食べるようなものだ。これで最後でしょうという極みまで食べることは難しい。 しかし、その道の99パーセントいやそれ以上の道は明らかな道である。1万本道があるとすれば、その内の9999本の道は、みんなが知っている道である。しかし、この世界には必ず、以外な道がもう一本ある。けっして隠されている訳ではない。気が付かないのだ。長い人生を振り返ってみると、その以外な道を歩んで来ている。大方そのようになるとと思っていましたとか、なるようになりましたねなどというのは、微細にたどってきた道を検証してみると、とんでもない間違いを犯している。実はなるようになっていないし、その通りになったというのは、結果から過去を変えているのだ。 以外なもう一本の道を歩いていく。仕事も、研究も、生活も、そして人生そのものもだ。明日を予測するのは、9999本の道の延長線上にあることについてだし、わたしたちは決してその道を歩まない。わたしたちが歩くのは、以外なもう一本の道である。 ところで、今週の水曜日、20分会をやりましょう。会則にそって、それぞれかってに店を決めておいてください。
2004年07月05日
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2はその前提として1が存する。1は2を期待するから1として存在することができる。従って、残念ながら唯一などというものはない。数字のない絶対という考え方は、信仰によっては存在するけれど、現世は数字と言う呪縛から逃れようがない。 あれはまずいが、これは良い。だからあれをなくして、これだけにしよう。というのは、よくよく考えてみないと、それ自体がとてつもない妄想から成り立っている可能性がある。 現在、いたるところで仕組みを変化させている。その成功例を取り上げて、マスコミを大いににぎあわせている。一見、効率的だし、レポートの提出やら、情報公開やらでいろいろな組織がガラス越しに覗ける水族館の様相になってきた。海はこういうものです。しかしそれは海ではない。美しいものだけを集めた、海のイミテーションだ。水族館は楽しい。海にはたくさんの危険と問題がある。だからこの国は水族館だけにしましょう。そのために、いつ水を取り替えたのか。魚を何匹増やしたのか。客が見やすいようにするために明るさは何ルックスに変えたのか。毎月報告書で確認することができる。人間性のない社会は、300円の時計に付いてくる説明書のような、薄っぺら紙切れのような組織になってきている。
2004年07月04日
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昨夜一仕事終えた後、20分会約束の会場、双葉のサービスエリアに車を向かわせた。東京を出発したのが遅かったのと、談合坂でただのお茶を三杯も飲んでしまったため、談合坂を出たの夜の10時をかなり回ってしまった。これは急がねばと思い、我が師と仰ぐアイルトン・セナ師匠のドライビングテクニックを頭に思い描き、アクセルを目一杯踏み中央高速の限界速度、時速80Kで疾走した。なにぶん我が愛車は、刑事コロンボさんの愛車と同じく、気品があり格調が高いためアクセルを踏み込に過ぎると、とても危ない。 どうみても11時には間に合いそうにない。しかし20分会だから、11時19分に間に合えば大丈夫だと判断し、そこまでにはたどり着く予測がついた。 10人ぐらいは来ているかな。いやいや、5000人くらいは来ているだろう。双葉につくと盛大な拍手で迎えられるのかな? それどころじゃないかもしれない。一昨日発表したのだから、世界中から来ようと思えば来られる。もしかすると世界中から要人が集まっているかもしれないな。そこで話し合われた内容はこの間のサミットより、数百倍の価値が出るかもしれない。20分会がきっかけであっという間に世界平和の実現化が進むかもしれないぞ。などと、いろいろ思いを巡らした。11時10分双葉到着。これなら余裕のヨッちゃんだ。しかし拍手の出迎えがない。車も閑散としている。 きっと建物に入るとくす玉が割れて盛大な歓迎式典になるのだ。そうなったら驚いた振りをしなければならないだろう。おおかたこんなことだろうと思っていましたなどと言ったら。みんなの好意を無にしてしまうことになる。そんなことは会長としては絶対してはならないことだ。 建物の中は、外に増して閑散としていた。なんとあの広い建物に15人くらいしかいないのだ。それも、みんな疲れた感じでラーメンやらカレーを食している。このしらけた雰囲気は何だ。わたしもシラケついでに200円の豚まんをほおばりながら、またただのお茶を二杯のんだ。お茶を飲みながら、規則の確認をした。そして明晰な頭脳で決定的なことが解った。この規則では集まれないのだ。確かにみんなここに来ているだ。しかし、規則のため顔を出すことができないのだ。そこで、会長自ら隠れている会員を見つけ出すことにした。建物の外の右側の草むらの中、トイレの中、トラックの向こう側。どこにもいない。そうか、見つかれば規則違反になる。それで、会員が必死で隠れているのだ。それでは、見つかるはずはない。ここで会長であるわたしは重大は決意をした。規則にさらに規則を追加する。このことはハンムラビ法典の続編が見つかった、それも新宿の思い出横町で見つかったのと同じくらい驚異的なことである。 20分会の規則の最後の次に次の文を付け加えることとする。 その1 故意に規則を守らなかった場合のみ、規則を守っ たこととする。従って、故意に規則に違反してい る者を発見した者は、規則を守っている者として 受け入れなければならない。 その1 うっかり規則を守らなかった場合については、故 意ではないので、なにもとがめられることはな い。
2004年07月03日
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さて、金曜日というのは一週間の内結構大切な日だ。この日を正しく読んでいかないと、土曜日と日曜日が無駄に過ぎていってしまうし、日曜日から続く、次の週もふがいのない週になりかねない。土曜日も、場合によっては日曜日も仕事をしなければならないのは、貧しい日本の労働者の生活のなりわいである。しかし、土曜日や日曜日は精神的に楽な曜日だ。それは、勤めによっては、月や火水であったりするのだろうけれどやはり同じである。しかし、自由業のような場合は、一週間をまんべんなく仕事を入れていかなければならない場合もあるけれど、そのばあいでもやはり一週間単位でのメリハリを必ず着けておかなければならない。 これから一仕事終わらせて、車で双葉に向かう。もちろん仕事だ。それでは11時にお会いしましょう。
2004年07月02日
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久し振りのグルメ話。この世で1番うまいものの話を以前したが、実はもう一つある。それは、キャビアのようなカエルのタマゴのようなものでもないし、フォアグラのように脂肪肝に脂肪肝を塗りつけるようなものでもない。すなわち、それは、おにぎりである。「おにぎり」という高級料理が最近えらく誤解されている面がある。 以前、海沿いの製鉄所で働いていたことがある。製鉄所というのは、船で鉄鉱石を運ぶ関係上海沿いにある。もちろんそれ以外の理由もいくつかあるのだろう。半年以上、海沿いの民宿を宿にして、働いていた。高度経済成長の時代だった。3ヶ月働けば、スカイラインが買える時代だった。工場災害も多かった。工場で働いていると、サイレンが鳴り、事故が起きたので気をつけるようにとの放送が月に一回くらいの割で入った。翌朝の新聞で死亡事故だったんだと知ることも何回かあった。工場は何事もなかったように、次の日も平然と稼働していた。 仕事が一段落し、久し振りの休暇で(休みは月に1回くらいだったと思う)東京に帰ってみると、なんと商店街で「おにぎり」を売っているのを、見つけたときにはビックリした。 東京では、「おにぎり」も商品になるのかと思った。 それはなんとも言えない不思議な感覚だった。その「おにぎり」が今では、コンビニの主要商品になっている。 しかし、商品としての「おにぎり」は「おにぎりもどき」であって、決して「おにぎり」ではない。売られている「おにぎり」はおにぎりの味がしないのだ。「おにぎり」というのは、顔がわかる人が直に握ったものだけおいうのであって、それ以外は「おにぎり」とはいわない。その顔は、母親であることが多い。どういう訳か父親がおにぎりを握るイメージはない。自分には「おにぎり」を握ってくれる人はいないと嘆く人がいるかもしれない。自分が握ればいいのだ。米を上手に炊いて。熱々の銀しゃりを水をたっぷりつけた手に、適度の塩をのせ、お思いを込めすばやく、ふんわりと握るのである。具はいらない。のりもいらない。100円で買ってきた、益子焼きの皿に大きめに握った「にぎりめし」を3つのせる。これだけで芸術だ。さらに贅沢をいおう。お坊さんの成し遂げ偉業は数々あると思うが、その中でも「たくわん」を作りりあげたことは、まさに人類の賞賛にあたいする。そのたくわんを二切れ皿の横に慎ましくおく。これは一切れで三切れでもいけない。二切れでいっそう芸術性が完成の域に近づいてくるのである。さらにさらに、芸術を完璧の域まで持ち上げよう。みそ汁である。これも具はいらない。だしなどとる必要はない。飛騨の高山の朝市で売っているようないい味噌を少しだけ入れる。うすいみそ汁でいいのだ。これほど豪華な食べ物はない。究極のグルメの極みである。 ところで明日の20分会のおやくそくについて、夜の11時双葉のサービスエリアというのはどうでしょう。仕事の関係でわたくはいけなくなるかもしれませんが。もちろん酒はないけど。
2004年07月01日
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