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広辞苑によれば、「目安箱」とは以下の通りであります。めやす-ばこ【目安箱】一七二一年(享保六)将軍徳川吉宗が庶民の要求・不満などの投書を受けるために評定所の門前に置かせた箱。直訴(直訴)箱。訴状箱。アメリカのクリントン大統領時代、ゴア副大統領の政策として情報ハイウェー政策を追行していましたが、それは、要するにインターネット網の設立によるIT政策でありました。同時に、ホワイトハウスでは、ホームページを開いて、国民の意見をメールで受付け、政策に反映させるようになりました。要するに、インターネットを使った目安箱でありました。日本でも小泉内閣は、官邸ホームページを立ち上げ、アメリカ同様に、インターネットを使った「ご意見募集」コーナーを設置しています。昨今、ブログが日本でも国民の間に普及し、様々な人々の間での意見の相互浸透に役立ってはいますが、まだまだ、ブログの読者層は一部に偏っており、そこにおける発言の直接的な効果は限られています。そこで、このホームページの記事のうち、政府の政策で考慮していただけたらいいのにと思われるものについては、いくつか、官邸のホームページの目安箱に投書してみました。投書すると、官邸から、以下の例のような返事のメールが送られてきます。ご意見等をお送りいただきましてありがとうございました。いただきました国政へのご意見・ご要望は、今後の政策立案や執務上の参考とさせていただくとともに、××××省、××××省、××××省へも送付させていただきます。首相官邸ホームページ「ご意見募集」コーナー担当今までの経験からすると、このように送られてきたときには、所轄官庁にも意見が届いている可能性が高いと考えられます。一方で、所轄官庁名が書かれていない場合には、出した意見等がきっと稚拙であったということでしょう。いずれにせよ、小泉内閣の目安箱機能は、機能していることが想像されます。実際に、投書したことが直接的に有効であったかどうかはわかりません。こんなことをしなくても、すでに、優秀な官僚機構が解決を見出している可能性もあります。しかしながら、そのときにより、返答が少しずつ違っているというのは、だれかが、配慮している証だと考えられます。皆さんも試しに目安箱に投書してみたらいかがでしょう。
Feb 28, 2006
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最近では、暗黙のルールとして、メールを受け取ったら、見ていない方が悪いというのがあるそうです。以前なら、電話でもあって、つかまらない場合は、発信元の方で受信していないことを確認していましたが、メールの場合は、送信元では、送信先の受信を確認していないのに、そこから先の責任は、受信先になるということです。しかしながら、この暗黙のルールがなりたつのは、受信先が、同格か目下の場合に限るのが実情のようです。受信先が偉い先生の場合、ITなれした先生の場合には、こまめに返事を下さることも期待できますが、一般的な偉い先生の場合には、メールを送っても結局電話で説明しなければならないということがあるようです。それでも、メールがつながる先生はまだいいのですが、ITと慣れ親しんでいない先生の場合は大変です。他の先生は、メールで送信しても、こうした先生の場合は、別にファックスで送信しなおさなければなりません。また、こうした先生からファックスをいただいた場合には、ワープロ(メール)に打ち直して、代理送信しなければなりません。一見便利になったかのように見えるIT社会ですが、世代間格差等が生じていて、かえって手間がふえていることもあるようです。IT弱者を含めたITに対するユニバーサル・デザインについて企業・社会、あるいは、政府として、手を差し伸べる必要があるようです。
Feb 27, 2006
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アルペン・スキーの華、男子回転競技で、日本代表の皆川選手が4位となり、あと0.03秒差で、メダルを逃した。日本人には、アルペン・スキーは向いてないのではないかと思わせた、猪谷選手の銀メダルからの半世紀と言う期間が、もうすぐ終わるところであっただけに、本当に残念であった。実は、私も、中学・高校・大学・大学院修士課程と雪なし県の東京のスキー部員で、アルペン主任を担当していた。私がやっていたころは、回転競技等のコースを設定するポールも竹ざおで、今の可倒式ポールとは、コース取りが全く違っていたし、また、最近では、スキー本体も、カービング・スキーとなり、長さも短くなり、回転技術も、かなり変わってしまって、別の競技のようになってしまっている。それにもかかわらず、早い滑りか遅い滑りかといったことは、テレビをみれば、わかるものであり、今回のオリンピックも十分に楽しむことができたが、それだけに、残念さもひとしおであった。それと同時に、次のバンクーバーでは、日の丸が掲揚されるのを見ることができるかもしれない、との希望をもつこともできた。最近では、アルペン・スキーの技術が変わった一方で、雪のスポーツとして、アメリカ系のモーグルやスノーボードが隆盛してきて、一時は世界一の一千万人といわれたアルペン・スキー人口も減少の一方をたどっている。皮肉なことに、高速道路や新幹線が整備されるのに反比例するように、衰退の一歩をたどっている。東京から雪国まで日帰りが出きるようになった為、何泊か宿泊してスキーへと人々を駆り立てたエネルギーが発散されなくなったようである。スキーでないが、熱海が、それまで、宿泊しないと行かれなかった時には、温泉地として隆盛を誇っていたのに、東海道新幹線の開通とともに、日帰り圏となったり、もっと遠くまで容易に行かれる様になり、斜陽していったのに似ていると思われる。新幹線が停車する熱海はまだましだが、通過する湯河原などは、どうなっているのであろうか。一見便利そうな高速道路や新幹線の開通が、通過交通となる圏域では、町や村や都市の斜陽の原因となるというのは皮肉なことである。国土計画をした人々は、そこまで考えたのであろうか。
Feb 26, 2006
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NHKの膳場貴子アナウンサーが、トリノオリンピックの放送に、東京から参加していました。膳場さんといえば、美人でクールに取り澄ましたアナウンスで、どちらかと言えば、口が達者ではないアナウンサーだと思っていましたが、今回は違いました。ぺらぺらとアドリブのアナウンスが飛び出し、心境の変化が感ぜられました。膳場さんは、去年の秋に再婚し、今年3月でNHKを退社し、ヨーロッパで生活することが決まっていると言うことですが、一説にはTBSに移籍するという話もでています。いずれにせよ、今までのNHKでのプレッシャーから開放されようとしているのでしょう。アナウンスのスタイルも、一皮向けて、脱皮しようとしているのでしょうか?いずれにせよ、膳場さんの魅力をたかめていることは確かだと思います。プライベートな生活もうまくいっているということでしょうか。万が一、もう一度再婚するようなことになっても、世の男性陣はだまっていないことでしょう。
Feb 25, 2006
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女子フィギアの荒川選手の金メダルで、日本の冬季スポーツ界が救われた一日であったが、4回転ジャンプを失敗し、4回転倒し、フェンスに激突しながらも最後まで滑りきり、15位になった安藤選手にも拍手を送りたい。安藤選手は、4回転ジャンプへの国民の期待と、それを阻止しミス・パーフェクトを目指すように主張するコーチとの狭間で葛藤してきたが、自ら、4回転ジャンプをするという選択をした。オリンピックと言う場所で、失敗性の高い演技を選択して、よれよれになったというのも事実であるが、もし、4回転ジャンプを試みないで、3回転ジャンプにも失敗し中途半端な成績にしかならなかったならば、安藤選手の落胆はもっと大きなものとなっていただろう。オリンピック前、数多くのプレッシャーから、安藤選手は、トリノが終わったら、アマチュアを止めて、プロのスケーターになることを考えていた。もう、オリンピックの重圧から逃げ出したいという気持ちになっていたのに違いない。しかし、トリノの演技が終了し一晩たち、すっきりした表情で、次のバンクーバーのオリンピックを目指す決意を明らかにした。そして、演技の質としても、ミス・パーフェクトを目指すことを宣言した。4回転ジャンプを失敗しながらも、トライしたことで、安藤選手は、今までのプレッシャーから解放されつつあるということである。実際、中野選手や、浅田真央ちゃんらの若手選手層ばかりか、ベテランの村主選手まで、バクーバーを目指すと言う中で、次のバンクーバーで安藤選手が代表に選ばれるかどうかはわからないが、日本の女子フィギアの選手層が非常に厚くなることはいいことである。多くの選手が夢破れた中で、将来への希望と闘争心を失わずに、明日への活路を見出すことができたのは、長野オリンピックで13位だった、荒川選手が、苦労や落胆の末に、ついに、金メダルを取るに至ったことが、大きく貢献しているにちがいない。多くの若者達が、将来に夢を見て、実力を発揮できるような社会は健全な社会であり、ライブドア事件で、多くの若者が社会からの抑圧を感じている今日この頃ではあるが、他にも、若者達を奮い立たせる道があることをしめしてくれたことは、スポーツの社会に対する大いなる貢献であろう。最後に、安藤選手のコスチュームについてだが、アカデミー賞受賞者である、ワダ・エミ氏による作品であったが、フィギアスケートという激しいスポーツのウェアとしては、柔軟性、機能性に欠けているのではないかという印象を受けた。絹と言う素材は、美しい素材ではあるが、昨今の機能性素材に比べると、運動性に欠けるように思われる。もし、安藤選手のウェア、もっと機能的なデザインであったならば、安藤選手のパフォーマンスも違ったものであったかもしれない。荒川選手の衣装が、荒川選手の演技にフィットしたものであったことは明らかであるが、それに比べると、安藤選手の衣装はきつそうな印象を多くの人々に与えたのではないだろうか。若者達の活動に、大人が手を差し伸べて旨くいくこともあるが、そうでないこともあるということは、今後、考慮すべきであろう。
Feb 24, 2006
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知り合いのレストランが2軒あったので、田園調布の駅のそばで、ワインを飲んで食すこととなった。田園調布と言えば、東京の最高級住宅地なのであり、そこの住人達は、自分の家にワインセラーを持っているような人達なのだろうか?オーナーの判断は、ほどほどのワインを赤白各色一種類もしくは二種類を用意しているだけであった。外に住んでいる人のイメージからすると、田園調布で食事をする人達は、比較的裕福な人達なのかと思っていたが、料金も、新宿あたりとくらべても、格安であった。これもまた、田園調布に住んでいる人達は、自分の家に、立派なキッチンや冷蔵庫があって、場合によっては、メイドさんがいて調理をし、駅のそばのレストランにおじゃますることが少ないのかもしれないと思った。フランスの3つ星レストランが、意外なところにあるように、田園調布ブランドの高級レストランが、ひっそりとあってもいいような気がするが、現時点では、日常的な食事や、ちょっとした食事にターゲットをおいているのが、オーナーの考え方なのかなというのが、印象であった。パリから引用して、「プチ・ザンク 田園調布」とでも名づけて、住宅街に接した暗がりに、樹木の緑に夜間照明をして、白いスチールサッシュごしに冬の庭園が見える、高級レストランで、白ワインを飲みながら、牡蠣を食するような生活があってもいいような気がした。そうしたものが、田園調布の高級住宅地のイメージを向上することはあっても、壊すことはないと思われる。食事をする風景を一緒にデザインすることで、田園都市の美観を保つことができると期待される。
Feb 23, 2006
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4.考察とまとめさて,これまで,地球環境と人間─環境系の持続可能性のために必ず考慮すべき事として,熱力学第二法則と閉じた系と開いた系の考え方を上げ,その基本的な考え方と建築をはじめとする経済活動への展開例を示してきた。これは,全ての人間の営みの前提条件である。言わば,これを必要条件として,この上に私達の将来を担う思想や哲学やイデオロギーや科学技術などが創案されるべきものなのである。建築するという行為もまたそこから離れる事は出来ない。そのとき始めて,この地球の環境をユートピアと呼べる場所に至らしめる光明が放たれる事であろう。そして,まちづくりや建築計画や人間─環境系に課せられた課題と今後の指針をまとめるとするならば,例えば以下の様になろう。(1) 現在の建設産業の方法論では,仮に現在考えられる様なリサイクル,地球環境や人間─環境系の内部における閉じた系の中における「物の循環化」,を進めても,その資材を構成する膨大な物質やエネルギーは使用可能なものから使用不可能なものへと一方的に変化する。現在考えられるようなリサイクルをするにも,新たな莫大なエネルギーの利用が必要で,それを化石燃料等から供給を受けることになるため,閉じた系内のエントロピーが一方的に増大する。このことは,あくまでも建築を利用する立場から,その利用主体の利便性,安全性,経済性,快適性,プライバシーといったことを主眼とすることで成立していたこれまでの建築計画をそのまま進めることにある程度の制約や限界があることを暗示している。(2) まちづくりにおいても,地球環境を,宇宙に対して開いた系が熱平衡から離れた状態を定常的に維持している状態に設定して,物事を再構築して行く事が必要である。すなわち,地球環境が太陽エネルギーから受け止めた負のエントロピーと同程度のエントロピーを地球環境の水と大気の大循環を通じて宇宙に排出できるような状態を設定することが必要条件であり,まちづくりにおいても,20世紀型の化学工業製品等の利用を最小限とし,かつて100年程前までそうであったような,極力地球環境にとって自然な材料を利用し,また,利用するだけではなく,生産─廃棄システムと一体的にシステムを再構築して供給してゆくことが必要である。(3) 人間が理想的に元気に生存している状態には,体外環境との間に食物摂取や排泄を通じて,開いた系が熱平衡から離れた状態を定常的に維持している状態の成立が必要十分条件である。このことは,同様のシステムをもつ地球環境を考える上で,重要である。この状態が保たれないシステム,すなわち,地球外環境との間に物質やエネルギーの供給と排出の均衡が保たれていないシステムとは,死に向かいつつあるシステムであり,私達の地球環境における環境問題の露呈とは,即ち,このまま放置すれば私達の地球環境と人間─環境系が死に向かいつつあることを物語っているのである。(4) 建設業も,太陽エネルギーのストックではなくフローを用いて,エネルギー・産品・製造物を獲得する方法を選択する様に産業構造を大転換してゆく必要がある。例えば,木材は太陽エネルギーが50年から200年程度かかってストックされたものであるが,地球の40億年という寿命からすれば,太陽エネルギーの瞬間的なフローであるのに対し,20世紀型の化学工業製品などは,太陽エネルギーが数百万年以上かかってストックさせたいわゆる化石燃料を,ここ100年から200年程度の間に,急速に利用しているものである。従って,私達の子孫が生存してゆくためには,地球の時間体系で瞬間といえる時間に得られるような材料を見直したり,生産して行く必要があることになる。また,エネルギーそのものとしても,太陽エネルギーや地球環境の水と大気の大循環を建築の設備的動力として見直して行く必要がある。(5) 地球環境が現在普通に行われているように宇宙に対して閉じた系として設定されている場合には,エントロピーは一方的に増加するが,それにもかかわらず人間─環境系において,地球環境へのエントロピーの増加を極力減少させるためには,物的福祉の考え方を抑制し,人々の内的世界での生活の豊かさの比重を増やすことで,心的福祉の価値観の再構築と併用を計ることが根源的な解決方法であり,それをまちづくりを含む経済活動の一環として結び付けることが重要である。(6) 全ての人間が最低限の基本的人権とそれに見合った生活が保証されねばならないとするならば,人々が死の直前まで健康で文化的かつ地球環境や人間─環境系にとって生産的な生活を送る事が,施設費を含めた医療費の最小限化に繋がり,結果的に環境へのエントロピーの増大の減少に繋がり得る。引用・参考文献:苅谷哲朗、高橋鷹志、エントロピーから見た建築するという行為の課題に関する考察、日本建築学会計画系論文集第544号、pp.141―148、2001年6月
Feb 22, 2006
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3. 心的福祉にもとづく社会観についての検討 3-1 ユートピアかつてドクシアディスは,中小都市が隣接の都市や村を飲み込んで大都市に成長し,更にそれらが連担して超巨大都市圏へと成長してきたが,将来はこれらの都市地域が成長を続けて相互連携し,地球全体を覆うネットワークをつくり,世界都市を形成するに至ると予言した。実際,日本においては,超巨大都市圏が形成されているが,環境へのエントロピーの増大を減少させる見地からすると,物質の塊群である都市が止めどもなく成長し続けるのは大変厄介な問題である。しかしながら,幸いな事に昨今人類はインターネットという仮想現実の世界都市を手に入れ,相互連携による環境へのエントロピーの増大分のうちのかなりの部分を情報の持つ人間的価値や意味に置き換えようとしている。そしてこれから問題となるのは,その内容の方向付けであろう。李白の詩の対象がユートピアであるとしても,多くの現代人にはこの環境で毎日生活し続ける事は困難である。ユートピア(虚境)は,16世紀初頭にトマス・モアにより「(地球上の何処かにあり)何処にも無い場所」の意で命名されたが,「虚境 utopia +佳境 eutopia 」の意で用いられる事が多い。人類史,そして,それを背景とする都市計画や都市デザインは,常にこのユートピアの実現を追及して来たと考えられよう。最古のユートピアは紀元前6世紀の老子による桃源郷とされ,4世紀にはプラトンにより共和国の理想像が示された。数々の歴史を経て,エンゲルスは社会主義=ユートピア的かつ科学的なものを夢想し,帝国主義や資本主義と対決し幻想として燃え尽きた。ユートピアの成立条件としては,以下の様にまとめられ得る。 ・ 外界とほとんど完全に隔離された別世界,かつ, 開いた系である事。 ・ 熱平衡から離れた状態を定常的に維持し,かつ, 何らかの拡張性がある事。 これは,ユートピアを追い求めた人類の歴史が,熱力学第二法則との絶え間ない戦いであった事を意味している。それが故に,過去の全てのユートピアが幻想に終わったのである。民族・国家主義 nationalism ,国際協調主義 internationalism,地球主義 globalism と言う流れの背景もそうであった。そして今人類は,インターネットという仮想現実の世界都市によるユートピアの実現を試みていると言えるのである。果たして幻想か否か,かつて建築家を志かけたという漱石に問うて見たいものである。3-2 夢情報のエントロピーがほぼ零と仮定できるとしても,インターネットと言えども,物質が持つエントロピーの増大を無視する事が出来ない。そしてこれを見誤った時には,またしても人類は幻想の歴史を重ね,新たなる邪境を生み出す事になる。 ところが,私達人間は,ずっと以前から,元気である間は熱平衡から離れた状態を定常的に維持している生命体であり,その内的世界にユートピアを持っているのである。即ち,精神世界,心,夢などは,ユートピアの成立条件を満たしているのである。従って,基本的人権を有する全ての人々が最低限の生活上発生を余儀なくされる,環境へのエントロピー,或は,物質のもつエントロピーの増加の減少のためには,人々の内的世界での生活の豊かさへの比重を増やす,即ち,物的福祉と平行した心的福祉の価値観の併立と再構築が根源的な解決方法である。そして,それを人々の営みを支えるまちづくりを含む経済活動の一環として結びつける事が重要である。それが結果として,物的福祉の価値観に基づく領域における抑制にも繋がるのである。3-3 心身の鍛練と蘇生古代ギリシアでは,体育場での厳しいスポーツと,半円形の討論場での哲学的な議論との間に挟まれた場所に入浴場が位置した。体育場で時間をかけ身体の組織を開放し,循環を促進し,入浴後に,静かな知的交換に思考を巡らす事で,入浴という行為が,有機的に心身の蘇生行為全体の中に組み込まれていた。日々,心身に新たな活力を蘇らせ,くつろぐ事こそ入浴の目的であると言うのが古代人に共通した考え方であった。この意味における入浴は,一つの開いた系としての有機体或いは生命体として水と食物を摂取しその一方で排泄して生きている,私達の内的世界へのユートピアの成立条件であるエントロピー収支の成立を維持するのに,極めて合理的であると考えられよう。ここで,理想的な健康な人間は開いた系であるので,エントロピーの増大ではなく外界とのエントロピー収支という言葉を使う。そしてまた,人々が健康で文化的な生活を送る事が,施設費を含めた医療費等の最小限化に繋がり,結果的に,地球環境や人間─環境系へのエントロピーの増大の減少に繋がる事は注目に値しよう。
Feb 21, 2006
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2. 物的福祉にもとづく社会観についての検討2-1 前提条件─太陽に開かれた地球 ある日突然,地球上の人類がただの一人も居なくなると仮定すると何が起こるであろうか?それは,或は,極めて長い時間を要するかも知れない。しかしながら,地球が誕生してから現在までの約40億年の期間よりは,かなり短い期間の内に,地上が森林やサバンナに覆われ,海には豊富な魚介類がたわむれ,生態系に満ち溢れ太古の昔を彷彿させる,水と緑の地球が当り前の如くにそこに存在し得る事を,完全に否定する根拠は無いだろう。 もしそうであるならば,私達が地球環境や人間─環境系の持続可能性の確保を目指すのに,地球環境には自己回復能力が期待し得るという大前提をとることができる。さらに熱力学第二法則を真理とするならば,少なくとも地球環境が地球外環境,即ち,宇宙に対して開いた系でなければならない事になる。20世紀末で60億人程になる人類の営みを支える地球環境には,人類が一人もいない場合に比べ,極めて大きなエントロピーの負担が存在する事は否定出来ない。果たして人類生存中に,例えば,江戸時代程度の地球環境を取り戻せるかについては,現代の科学の段階では明らかにされない。私達が出来る事,そしてしなければならない事は,推論にもとづき,地球環境を宇宙に対して開いた系に設定して物事を再構築して行く事である。(図1 宇宙に対して開いた系としての地球環境)2-2 開いた系の構築 地球環境には,太陽エネルギーが注ぎ込んでいる。もし,そこですぐに利用され(フロー),蓄えられ(ストック)たりしつつエントロピーを増大しながら,水と大気の大循環システムを駆動し,資源・エネルギーを含む生態系の炭素サイクルを成立させ,大気圏外にエントロピーを放出する状態が定常的に維持出来るとするならば,良好な状態を維持し得る。即ち,太陽がほぼ燃え尽きるまでのかなりの期間は,人類の歴史に比べればほぼ無限の時間として,降り注ぐ太陽エネルギーはほぼ一定であるから,放出されるエントロピーがシステムの許容量を超えない限りにおいて,そうした状態に向い得るわけである。この様な状態を「開いた系(=物質やエネルギーを外界とやり取りする系)が熱平衡(=死)から離れた状態を定常的に(=常に安定して)維持している」と言い,また,エントロピー収支が成立していると言う。マクロ的には,人間などの生物が元気に生存している状態は,生物の体外環境との食物摂取や排泄を通じて,エントロピー収支が成立している状態なのである2-3 資源・エネルギー・環境問題/フローとストック 約40億年と言う地球の寿命レベルの巨視的な時間系で考えるとき,太陽エネルギーのストックに相当するのは,石炭・石油・天然ガスなどの化石燃料である。昨今問題とされる地球温暖化現象は,このストックを200年程度と言う地球の寿命にとっては瞬間に相当する時間で燃焼する事による,地球環境の自律的維持システムの許容量を超えたCO2放出が発端である。また,CO2は可視光線領域では透明であるが,熱の実体である赤外線領域では不透明に近い状態であり,外から太陽エネルギーを系内に取り込んでも,温室の如く,太陽エネルギーの利用により発生し赤外線と化したエントロピーが,完全には放出できないほとんど閉じた系の状態であり,まさに熱力学第二法則が成立している状況である。また,ゴミ・産業廃棄物・排気ガス・水質汚染・環境ホルモン等も,程度の差こそあれ化石燃料・資源(太陽の成熟以前からのものを含めたストック)の急激な利用により排出されたエントロピーが処理できずに生じた,局部的に閉じた系の状態で,いつまでも,あるいは,人間にとって極めて長期間,その場に残っている状態である。 この問題の解決には,局部的に閉じた系の状態に起因する,ストックの消費の減少や使用中止を計り,代ってエントロピー収支が成立する可能性の高い,太陽エネルギーに対して開いた系からもたらされる,太陽エネルギーのフロー,即ち,風力・水力・燃料電池・太陽電池・光合成・バイオマス・農業・漁業・バイオインダストリーなどを用いて,エネルギー・産品・製造物を獲得する方法を選択する様に建設業を含めた産業構造を大転換して行く必要がある。更に私達自身も,フローを源泉としながら利用を抑制し,発生するエントロピーの増大を減少させる様なライフスタイルや建築計画を考案して行く必要があるのである。2-4 拡散型地球環境と循環型地球環境/開いた系と閉じた系 太陽エネルギーのフローを源泉とすると言うことは,実は,地球環境や人間─環境系にとしては開いた系として着目しているのであるが,地球環境や人間─環境系と太陽や地球外環境との協調システムにとっては太陽のストックを源泉とする閉じた系とみなせるものであり,この閉じた系の中では物質やエネルギーが循環し,エントロピーが増大して行くことになる。私達が便宜的に循環型地球環境の構築や,「物の循環化」と言うときには,エントロピーが増大するにしても事実上支障がないこの太陽や地球外環境までを含める閉じた系で物事を考察しなければならないのである。すなわち,私達の宇宙の中での循環型地球環境であり,私達の宇宙の中での「物の循環化」でなければならないのである。地球外環境を含めず,地球環境や人間─環境系内だけの閉じた系として物事を考察している場合には,リサイクルなどの「物の循環化」や循環型地球環境と言っても,そのエネルギー源として,化石燃料等のストックが用いられることになり,リサイクルにより原材料用資源の利用の分のエントロピーの増大が減少するにしても,基本的に新たな莫大なエントロピー の増大が、閉じた系の中で起きることにはかわりがないことには,重大な注意を喚起すべきである。これに対し,地球環境や人間─環境系だけに着目した時には,エントロピーが増大しないように,開いた系として着目しなければならないのである。そして太陽エネルギーや地球外環境に対して開いた系として着目するときには,太陽エネルギー等のフローを受け止めている反面,地球環境からは地球外環境に対する「物の拡散化」が生じる「拡散型地球環境」になるのである。(つづく)
Feb 20, 2006
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1. エントロピーの基本的特性 1.1 「覆水盆に返らず」── 熱力学第二法則 現代物理学が絶対的な真理として認めているのは「熱力学第二法則」だけであるとされる。これ以外の物理法則は全て暫定的真理である。少なくとも,地球環境問題が内包される太陽系程度のスケールまでのシステムの検討においは,この法則は避けて通る事の出来ないものとしてその成立を本文の大前提とする。ところで熱力学第二法則は、開いた系: 境界を通り物質もエネルギーも出入り出来る系。 閉じた系: 孤立していて,その外界と物質および エネルギーの交換をする事ができず,そのため 熱力学的平衡の状態に到達する事が出来る様な系。とするときに、「閉じた系においてはそのエントロピーが常に増加する方向にのみ変化が進行する事」を主張している。 従って,「開いた系に於いてもそのエントロピーが常に増加する方向に変化が進行する事」も有り得るが,一方で,「開いた系においてはそのエントロピーが常に増加する方向に変化が進行するとは限らない」事も示している。すなわち,常に熱力学的に変化が進行している地球環境や人間─環境系の持続可能性を保つという目的のために地球環境や人間─環境系のエントロピーの増加を抑えることが必要であるとするならば,そのためには,それだけでは十分条件ではないが,地球環境や人間─環境系の外に向けて開いた系の設定が必要条件である事を示している。 1.2 エントロピー エントロピー en-trop-y は,1865年にドイツの物理学者クラジウスが命名した熱力学上の概念であり,変化の内包量を意味する合成語である。「熱力学の第二法則」は次の様にも表現される。即ち,「閉じた系においては,物質とエネルギーは一つの方向のみに,即ち,使用可能なものから使用不可能なものへ,或は,利用可能なものから利用不可能なものへ,或はまた,秩序化されたものから,無秩序化されたものへと変化する」。1.3 物質に関するエントロピー1.3.1 「無から有は生まれない」──熱力学第一法則18~19世紀は石炭を利用した蒸気機関の時代であったが,現代同様エネルギー問題に直面していて,効率の高いエネルギー利用を計るため,熱と動力エネルギーとを結びつけるマクロ的科学として熱力学が発達した。「エネルギー保存則」(熱力学第一法則)は,エントロピーを定義付けた。1.3.2 統計力学のエントロピー 19世紀の終り頃には,ミクロの立場から無数の原子の挙動を統計的に処理する事により全体的なマクロな挙動を論じるものとしてボルツマンにより統計力学が体系付けられた。これによりエントロピー概念が深化し,「あるシステムを構成している全要素の挙動の全てが詳細に把握されていなくとも,システム全体としての挙動は理解可能である」という思想がもたらされた。1.3.3 質量とエネルギー現代物理学や生物科学においては,系と外界との間に出入りするものがエネルギーであるか物質であるかには基本的な違いは無いとされる。(つづく)
Feb 19, 2006
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先日の、ある立食パーティーでのこと、あるイタリア料理のレストランで行われた。ワインのグラスが置かれたテーブルへ行くと、いろんな種類のボトルがスタンバイされていた。何回もそのテーブルに行くうちに気がついた。毎回、新しいグラスに注がれていたそのワイン達、口にすると、みな同じ味がするような気がした。そもそも、イタリアワインというよりは、フランスワインに近いような気がした。フランスですごしていたことものべ2年、あしかけ7年程あったのでまったく味がわからないはずはないのだけれど、おかしい。味覚がなくなってしまったのかもしれない。そのときは、気がつかなかったが、コルクのまわりの鉛のカバーがついていたかどうか全く記憶にないので、混ぜ合わせて1本にした代物かどうかもわからない。それにしても、偶然、同じ種類のワインだけを籤でも引くように引き当てたとも考えにくし、こんなことって、あるのだろうか?
Feb 18, 2006
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そろそろ、日本人も、皆で1ヶ月位夏休みをとるようにしたらどうでしょう。そして、その間リゾート地で暮らすなり、コミュニティ活動をするなり、勉強するなり、芸術に親しむなりしてみたらどうでしょうか。リクリエーションにより、思わぬ明日への活力につなげることができるかもしれません。それにより予想される、建築・都市・ライフスタイル等への影響は、以下のようなものでしょう。1) ワークシェアリングが進展する可能性がある。2) 家族とともに過ごす時間が増える。3) 国際社会の生活習慣(インターナショナル・ スタンダード)へと一歩近づく。4) オフィスの空調経費が削減される。⇒例えば、パリの場合では、南面の日射のある部屋を除き、冷房設備はない。夏の一番暑い季節に長期休暇をとっている。そして、空調負荷を決定づけるのは冬季の暖房になる。それに対し、日本では、空調負荷を決定づけているのは、夏のピーク時となる。日本とパリでは、太陽高度が違うこと、日本の夏は湿度が高く潜熱が大きいため、パリのように、完全に冷房をやめることはできないかもしれないが、ピーク時を基準に設計する場合には、ピークがずれることにより、省エネになり、イニシャル・コストもランニング・コストも削減される。新築の場合では、空調方式が変わったり、空調ダクト(横方向)が削減されることで、天井懐が少なくて済むようになったり、空調ダクトスペース(縦方向)が削減されることで、有効率が向上する。相対的に、建物の高さが低くて済むようになり、結果として、構造コストや外装コストが削減されるようになる。空調機械室、それに関連する電力等の設備も削減され、屋上等にある室外機も削減される。天井裏には、冷房がなくても、送風ダクトは残るし、火災時のための排煙設備やスプリンクラー等は残るので、定性的にはわかっても、定量的に、現実にどの程度の影響が出るかは、細かいスタディをして見ないとわからない。また、もし、暖房だけで済むようなシステムが採用できた場合には、冬季は、ヨーロッパのように非常にコンパクトな電気暖房機にする事も可能かも知れず、オフィスの単位空間の有効スペースがふえることにつながる。6)オフィスの冷房をすると、その分以上に (熱効率100%にはならないので)都市の外部空間を 暖房していることになるので、夏休みを長期とることで、 都市そのものの、熱環境が変化する。7)給与体系が年12ヶ月ではなく11ヶ月になるので、 見かけ上の月収は上がる。しかし、労働時間が 減少するので、単純に考えると、その分国内総生産の類は 減るかもしれないので、絶対的には、年収がやや 減らないとも限らない。しかし、レクリエーションによる 付加的効果は計り知れない。また、インターネットにより、 とにかく、夏休みの1ヶ月間都市のオフィスの冷房を 止めることさえ守りさえすれば、普段と異なるやりかたで、 緊急の業務等に対応することも可能になっている。8)夏季に地方へ民族移動することで、 地方経済に効果が波及する。
Feb 17, 2006
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2005年以降、日本は人口減少社会に入っている。それは、高齢者の人口や平均寿命が延びているのにもかかわらず、人口が減少するというのであるから、若年層人口、特に、新生児の出生率の低下のすさまじさは、想像を絶するものである。日本経済新聞によれば、仮に出生率が増えたとしても、今世紀中に人口が増えることはない。そして、このままの出生率が続くならば、900年後には日本民族は絶滅するという。このような状態の中でも、東京都心部やその周辺部では、新しい住宅が高密度に建てられている。超高層の住宅のまわりでは、取り残された中層住宅地区が超高層のものに変化しようとしている。住み手の人口が減少しようとしている中で、このような一部の居住スペースの急増が行われると、その他の部分の住み手の人口の急減が、益々加速されることになる。これからの高齢化社会に備えて、歩行者スケールの町の中に、交通、商業、公共、医療、介護等の機能を集中させるという、コンパクト・シティーの考え方は、ありうる話であるとは考えられるが、同時に、地球環境問題等への配慮も必要であり、コンパクト・シティーの中や、特に周囲は、緑化等の環境改善行為や、ヒートアイランド現象の防止等が必要である。そういった、考えうる全ての要因を都市計画的、都市デザイン的に解決しようという試みをすることなく、竹の子の様に、都心部を中心に、高密度高層化された住居やオフィスビルが建設されてゆく状態は、恐怖さえ覚えるものである。仮に、そういった都心部に、移動できる人口を移動するとするならば、空き地になり、売ることもできない、不動産が周辺地域に展開することになるのであろうか。地球環境問題を考えたときには、食料自給率が異常に低い日本の現状を考えたときには、第一次産業の地域として、都市周辺地域を回復してゆくことも考えられよう。しかし、その資金的裏づけについて、誰がいったい考えているのだろうか。今まで、都市計画をリードしてきた人々には、そのようなことを考える力も意欲もないことは、現状の日本の都市やその周辺地区をちょっと眺めてみれば明らかなことであろう。耐震偽装問題で建築の世界の改革が進められる必要があるかもしれないが、都市工学、社会工学は、もっと根深い構造改革が必要とされているのではないだろうか。
Feb 16, 2006
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爽健美茶のコマーシャルに韓国の美人女優で、コマーシャルの女王のキム・テヒ(金泰希)嬢が出ている。日本では、テヒ嬢は、フジテレビ系列で、「天国の階段」に出演し、ヒロインのチェ・ジウを天国に葬り去る悪役として知られている。悪役のレッテルを貼られると、普通は、なかなかヒロインになれないものだが、韓国では、その後、「ハーバードの恋物語」(日本では未公開)のヒロインとなった。そして、約半年休業して、韓国の東大とでも言うべきソウル大学に復学し、無事卒業したようだ。現在は、映画「中天」を中国でとっているようで、2月一杯で撮り終わる見込みのようである。日本のテレビコマーシャルに出始めたということは、いよいよ、日本に活躍の場を求めて、活動を再開していると言うことではないかと期待している。
Feb 15, 2006
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修士課程を卒業して、丹下健三・都市・建築設計研究所にはいって、3年目の秋、担当していたプロジェクトの関係もあって、生れて初めて飛行機にのって、生れてはじめての海外渡航でサウジアラビアの首都リヤドに先生ご夫妻等とともに入った。リヤドに近づいた頃だろう、それまで水平飛行していた飛行機が、下向きになり始めた。しかし、窓から見える景色は、一面の砂漠で、人の存在がかんじられるものはなかった。そして、初めて見えたのが、リヤド新空港と、それに至る高速道路だけであった。当時のサウジアラビアは、ワーキング・ビザがなければ入国できなかった。そして、先生ご夫妻は、用を済ませると、フランスのパリへ向かっていった。写真をとっても逮捕される可能性があるような国に、他の2~3人のスタッフとともに取り残される恐怖を味わった。空港などの軍事施設ではない建築の写真は一応撮影が認められているはずであったが、外国人の警察官には、建築と言う概念が理解できないという。かつて、そして、それ以後も、何人かのスタッフが、建築の写真を撮影していて、職務質問をうけたり、逮捕されたりしていた。敬虔なイスラム教徒であるサウジアラビア人は、「偶像崇拝」の典型である写真を、表向き撮影禁止しているのである。それなのに、街にでると、写真の現像のできる写真屋がやたらに目に付いた。証明書用の写真と、コートハウスである、住宅の中での家族だけで楽しむ写真は事実上許可されているようであった。そんなサウジアラビアに、フランス・チームに編成変えされるまで、その後何回か2週間から4週間程度の短期の出張で訪れた。そもそもの目的は、サウジアラビア中南部のアルカシムと言う地区に、総合大学(男女別学のべ8学部)を計画し、建設することであった。丹下先生は、サウジアラビアには、既に、オフィス・商業コンプレックスや、王宮を建設していた。それらを担当した先輩方に伺うと、サウジアラビアには建築基準法がなく、火災保険の規定と、国際的な建築基準の常識と、設計者倫理だけで、設計していたという。フランスの建築基準法と火災保険の併用よりも、もっと極端な自由主義経済でコントロールしていたわけである。我々が担当した総合大学は、担当者がすぐに別チームに変わってしまったため、実際の設計において、従来のサウジアラビアの建築ルールで行われたかどうか確かめていないが、建築基準法がなくとも、火災保険の規定と、国際的な建築基準の常識と、設計者倫理だけで、現実に建築の設計監理が可能であるということは、注目にあたいする。ただし、見落としてはいけないのは、特記仕様書が充実しているどいうことである。これはフランスなどでも同じことである。設計図面よりも特記仕様書が優先されることは、日本でも形式的には採用されている。日本の様に、細かいところまで、実際に設計施工の実務を自身で経験していない官僚たちの頭の中で考えた規制で、取り締まらなければならない日本の状況は、おかしなものである。それに加えて、建築家を含む建築設計家の性善説を崩して、性悪説にしなければならないとすれば、それは、日本民族特有の一種のおごりにあるとしか考えられない。自由主義経済の力学が働かなくなるような規制を加えようとするのであるならば、それは、建築家を含む建築設計家の教育に倫理教育が欠けていることに他ならないであろう。
Feb 14, 2006
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人間・環境学会は、日本心理学会の環境心理系の研究者と、日本建築学会の建築計画系の環境行動論を扱う一部の研究者が一緒になって創り上げた学会である。その人間・環境学会の中の研究委員会として、近頃の、地球環境問題に対して何らかの取り組みをする必要があるのではないかという意見が高まり、「(仮称)地球環境における人間・環境系倫理検討委員会」として今年度発足した研究委員会がある。はじめは、地球環境問題への関与が目的であったが、長老の研究者から、環境・行動論としては、電車の中で化粧をしている若い女性達の存在のほうが、環境倫理として問題である、ということが、まじめに議論されるようになり、その結果、委員会の名称として、「人間環境系倫理研究会」と名称を変更して今日に至っている。何で地球環境問題より、電車の中の化粧の方が重大なのかはよくわからないが、長老の委員の存在なくして、委員会は成立しないのであるから、どうしようもないが、私の考えでは、電車の中の化粧の問題などに比べて、地球環境問題のほうが、切実かつ、緊急を要する問題のような気がするのであるが、皆さんは一体どうお考えになるのか伺いたいところである。委員会の委員それぞれに、自由な立場からレポートを2度にわたって、提出してもらったところによると、各委員の意見を分類すると、大きく2通りになるようです。(1)一つは、従来の人間・環境学会の路線を踏襲し、 身近な人間関係と空間的環境の関係から 21世紀にあるべき人間関係の倫理を 考えるべきであるとするものであります。(2)もう一つは、地球環境問題について考えるときに 必要になる倫理的枠組みが 身近な人間関係と空間的環境の関係を超越しないまでも、 必ずしも、従来の人間・環境学会の路線にこだわることはない と考えるものであるとおもわれます。後者は、1980年代に人間・環境学会が成立したころにくらべ、世の中で、人間・環境学、あるいは、人間環境学と言う名称が使われることが多くなり、その名を冠した大学や、学部が複数表れてきており、なおかつ、人間の環境に関するより広い分野について、取り扱われるようになっている現況に鑑みて、研究の対象について再考する必要があるのではないかという問題意識にもとづくものでありましたが、長老の研究者の先生がたからすれば、設立当初の歩みを、さらに確固たるものとしたいという思いが非常に強いことがわかりました。こんな小さなコミュニティにおいても様々な意見があるわけですから、国や自治体の政治において、議論が複雑怪奇になるのは当然のことであると思いました。
Feb 13, 2006
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本日、工学部建築学科の卒業後××年会(5年おき)がありました。その2次会で、建築基準法の改正に関する議論が、国土交通省の官僚をしている卒業生に対しても、行われました。その結果、建築基準法のあり方について、大きく分けてアメリカ型、オーストリア型、フランス型があり、フランス型の自由主義経済を前提とし、火災保険を併用する形がすぐれていることについても、明らかになりました。しかしながら、現在国土交通省で、住宅局をぎゅうじっている××氏を更迭しないかぎり、そのような改革をすることは、不可能であるという、官僚の卒業生からの告発もあきらかになりました。さらに担当の××××課長の××氏は、そのような能力はないということでした。国の行政が、一部の官僚にぎゅうじられていることが、あきらかになりましたが、その現状に、変化をあたえることのできる、部下はいないということもあきらかになりました。結論としては、チャンスがあったならば、それにふさわしい、改革をすこしでもとりこんでゆくように官僚としても努力をしてほしい、ということで議論はおわりました。
Feb 12, 2006
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日本人は、物(ハードウェア)には、お金を払う価値を認めるが、案(ソフトウェア)にはお金を払う価値を認めないと昔から言われてきた。その典型的な事例が、建築の設計料である。建築家は、本来は、設計図を描き、施主の確認申請の代行をし、設計監理をすることを通じて、施主と施工者の間の第三者として、都市・建物の機能、意匠、品質管理、等を守る責務を負う。しかしながら、現行の設計料は、その業務を追行するには、あまりに安くなっている。公共建築物の設計も入札という形式がとられ、最近の実情は、「官製談合⇒官製ダンピング」という図式があてはまるような状況に至っている。その結果、建築設計事務所等の人件費は、極めて安く、公務員等の給与水準をもとに試算される、国土交通省の通達の主旨とはあまりにかけ離れた金額しか施主が払おうとしない。このような状況の中で、一級建築士の資格のことは、「足の裏についたご飯粒」と詠まれている。その心は、「取っても喰えない」というのである。その安い設計料の結果として、建築家の第三者としての発言権を奪うような、施工者や業者や施主(特にデベローッパー)、経営コンサルタントへの癒着による仕事の獲得という状況が生まれる。いわゆる、耐震偽装事件の本当の背景は、この安い設計料にあることはいうまでもない。営業的に、仕事を得るために、施工者や業者や施主(特にデベローッパー)、経営コンサルタントに媚びへつらう、設計者が登場したわけである。かつては、日本の建築設計においても、設計内容に応じて日本建築家協会の「設計監理報酬料率表」というものがあり、それで、設計料のダンピング防止や保護が意図されていた。しかし、公正取引委員会から、禁止されるに至り、現在では、実効性のない、国土交通省の通達により、如何様にでもダンピングして想定できる人工と、如何様にでもダンピングできる単価(技術量による人件費)とで決められていることになっている。しかし、具体的な金額としては、設計料の目安になるものはないのと同じである。フランスは、自由主義経済の国であるが、建築家の設計料の料率などは、政府により厳密に守られており、建築家の設計料と身分がはっきりしている。建築家は日本ではホワイトカラーであるようにも見えるが、フランスではブルーカラーである。設計料は、日本では、建築家がまとめて受領し、一般建築構造家、特殊建築構造家、電気設備家、機械設備家、造園家等を下請けとして、分配している。営業している建築家の設計料がダンピングされているわけであるから、下請けについては言うまでもないことである。このような条件の中では、各専門技術者等が、十分な時間と労力と知力をかけて仕事をすることができないことは明らかである。ちなみに、フランス等の西洋諸国の多くでは、建築家および都市計画家(architect、planner、urbanist)は建築学部(school of architecture)で教育されるのに対し、一般構造家や特殊構造家(civil engineer)は、社会基盤工学科、すなわち、日本で言うところの土木工学科(dept. of civil engineering)の出身であり、電気設備家は(electrical engineer)は、電気工学科(dept. of electrical engineering)の出身であり、機械設備家(mechanical engineer)は、機械工学科(dept. of mechanical engineering)の出身である。しかるに、日本は地震大国であると言う前提で、明治の初めから、これら全ての、建築に関わる技術者等の教育を、工部大学校造家学科⇒工学部建築学科(dept. of architecture)で行ってきた。建築士法を改正するならば、それの前提となっている教育から見直すべきであり、一級建築士を計画・意匠専攻建築家、構造専攻建築家、設備専攻建築家などとわけるのであるならば、大学の学部、学科の再編が同時に必要であることは言うまでもないことであろう。
Feb 11, 2006
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まず、交通機関の構造物のタイプとして考えることができるものとして、(1)地上に設置するもの、(2)高架上に設置するもの、(3)地下に設置するもの(トンネル)の3つがあります。工事費用としては、(1)<(2)<(3)の順で高くなります。従って、構造的に許されるならば、(3)<(2)<(1)で優先順位が高くなります。ただし、騒音問題、他の交通機関構造物等との立体交差、景観問題、地上からの交通機関等への乗り入れ部分(インターチェンジ)との取り合いなどがあり、部分的に、(3)<(2)<(1)の優先順位がかわります。ところで、東京外環道路と関越自動車道と中央自動車道、東名高速道を結ぶ部分が実行に移されようとしています。この部分は市街地であり、(1)の方法だと、市街地環境に大きな影響を与えるだけでなく、地上権の買収に非常に大きなお金がかかります。それだけではなく、インターチェンジのようなものができません。そこで(2)の方法だと、インターチェンジや交差部分はできますが、騒音問題、景観問題等の洗礼を受けなければならないほか、地上権の買収に非常に大きなお金がかかります。そこで(3)の方法だと、騒音問題、景観問題等はさけられるほか、原則として、大深度(50m、40m程度)以下だと、住民の地上権(敷地の所有権)が働きませんので、買収費用は、インターチェンジ、排気塔の部分に限られます。このように、大都市部分ですと、構造物の建設費用そのもの以外の諸経費が高くつくので、(3)の場合が現実的ということになります。従って、東京外環と、関越自動車道、中央自動車道、東名高速道を結ぶ部分については、大深度地下工法がとられようとしているのです。
Feb 7, 2006
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ヴァーチャル・ショッピング・モール■FreepageList■を開設して思ったのは、これが物流とより密接に関連づけられれば、拙著Jan 5.2006付の日記「情報社会と人と車と物の流れの変化」で語られるような、21世紀の流通システムのパーツを構成しうるということである。このシステムの現時点での問題点等を列挙すると次のようになる。1) ヴァーチャル・ショッピング・モールでオーダーができても、その後、配送されるのに数日かかり不便である。物流システムとして、即日配送され、できれば、その日のうちに届く速達も整備する必要がある。2) コンピュータ弱者、特に、小さい子供やお年寄り、に対応することができていない。その為、旧郵便局の職員等にコンピュータ・オペレーションの教育をする必要がある。更に、コンピュータの新しいインタフェイスとして、遠隔操作コンピュータ・オペレーティング・サービスができるタイプのものを普及させる必要がある。その両者がシステム化されることにより、コンピュータ弱者は、自宅の端末等で、テレビ電話をオペレーターにかけるだけで、必要な操作をオペレーターに代行させることができる。伝票等は、オペレーター側からの遠隔操作により、コンピュータ弱者の側の端末に出力させればよい。3) コンピュータ弱者は、IT技術の進歩が早すぎるため、いつの時代になっても、特に高齢者の間に生じると考えられる。4) 郵便局や、役所の総合窓口機能を再構築して、遠隔操作コンピュータ・オペレーション・サービスをするようになれば、新しい業務が提供できるようになる。如何に技術が進歩しても、フェイス to フェイスに準じるコミュニケーションは大事である。5) 遠隔操作コンピュータ・オペレーション・サービスの実現により、コンパクト・シティの実現が早まるであろう。 (図1 遠隔操作コンピュータ・オペレーティング・サービス ができる総合窓口機能)
Feb 6, 2006
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現在、ある県の都市計画室とその県にある大学が主催している、「第4期 まちづくりリーダ養成講座」(定員120人、無料)という会員制のインターネット講座のお手伝いをアウトソーシングのような形で請け負っています。作業内容は、教科書に相当するインターネット教材を、第3期までのものに書き加えることと、インターネット会議室での質疑応答のようなものであります。そこで問題となったのは、インターネット教材に書き込む内容について、著作権がどのように働くかということであります。内容は、教科書に相当するものですから、最後に添付した著作権法第35条に相当すると考えました。教育の内容のクオリティを一定水準に保つためには、既存の学問体系や、歴史、事実関係について、引用をさまたげることは不可能であるからだと思います。インターネット講座でもそのようなことが成り立つかどうか確かめたいと思い、第1回の講座教材が一通り出来上がったところで、県の担当者に依頼し、引用・参考文献の著作権の考え方について文献の出版元等に問い合わせをしてもらいました。出版元等には、インターネット講座の趣旨は説明し、引用箇所のコピーは提示しましたが、どのように引用するかについては、会員制の講座であるということで、提示しませんでした。その結果わかったことは以下のようなことでした。1) インターネット講座は、学校その他の教育機関における複製に相当はするが、会員制と言っても、コピーが自由に取れるため著作権の行使については、著作権者の解釈に従わねばならない。2) 新聞記事は無料では引用できない。3) 海外の著者の翻訳の場合、翻訳権は出版社等にあるが、インターネットに引用することに関する著作権を保持していないため海外まで問い合わせなければならず、事実上無理である。4) 日本の文献でも、引用しようとする文献が、すでにどこかから引用したものである場合には、引用できない。5) 日本のもので、著者が許可した場合には、無料で引用できる。6) 著作権の侵害の程度が最も激しいものは、80%程度を引用し、それ以外を書き換えたものである。その結果、許可の出たものに限って、引用することに致しました。従って、講座の内容については、特に歴史的なものについて、十分とは言いがたいところもありましたが、以降、オリジナルな教材のみを作成することになりました。メディアの量(例えば、一件に付2~3000字)という制限が実質的にあるわけでありますから、それに至る歴史的経緯などが引用できないとすれば、いきなり、オリジナルな教材が出てくるというのは、唐突なような気も致しましたが、やむを得ずそういうことになりました。さて、今回問題とするのは、マス・メディアではなく、インターネットのブログ等の、プライベート・メディアの日記の記載についてですが、これは、最後に示した著作権法の第38条の営利を目的としない上演等に近いのではないかと思われます。日本経済新聞2005年8月26日付けで、坂村健 東京大学教授が指摘しているような開放系の「知」の創造システムがインターネット上等で機能し、誤りの少なく、有効な方向性をもつメディアたるためには、日記である、ブログ等で必要な引用することは、許されるべきだと考えられます。ただし、いずれの場合に於いても、著作権法第48条の出所の明示という倫理的規定には従う必要があると思います。さて、皆さんはどのように、お考えになりますか。ある教授のサロンででた議論の中には、そもそも、インターネットのメディアというのは、著作権の枠を乗り越える取り組みであるというものもありましたが、どうでしょうか。■ 著作権法 抜粋(学校その他の教育機関における複製)第三十五条学校その他の教育機関(営利を目的として設置されているものを除く。)において教育を担任するものは、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合には、必要と認められる限度において、公表された著作物を複製することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びにその複製の部数及び態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。(営利を目的としない上演等)第三十八条1) 公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもってするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価を言う。以下この条において同じ。)を受けない場合には、公に上演し、演奏し、口述し、又は上映することができる。ただし、当該上演、演奏、口述又は上映について実演家又は口述を行うものに対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。2) 放送され、又は有線放送される著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金を受けない場合には、受信装置を用いて公に伝達することができる。通常の家庭用受信装置を用いてする場合も、同様とする。(出所の明示)第四十八条1) 次の各号に掲げる場合には、当該各号に規定する著作物の出所を、その複製又は利用の様態に応じ合理的と認められる方法及び程度により、明示しなければならない。一 (省略)二 (省略)三 (前略)第三十五条、(中略)第三十八条第一項、(中略)の規定により著作物を利用する場合において、その出所を明示する慣行があるとき。2) 前項の出所の明示に当たっては、これに伴い著作者名が明らかになる場合および当該著作物が無名のものである場合を除き、当該著作物につき表示されている著作者名を示さなければならない。
Feb 4, 2006
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インターネットも地球レベルでの環境問題もまだないころ、ギリシア人のドクシアディス(C.A.Doxiadis)は、かつて、都市の発展について以下のように述べている。人が定住する活動空間を、部屋というミクロな空間から地球規模のマクロな空間の広がりの中でとらえる必要があること、そして過去から進展してきた活動空間の拡張現象は将来も続くことを主張した。したがって都市も変貌して、中小都市が大都市に成長し、隣接の都市や村を飲み込んでメトロポリスが成立し、さらにそれらが連担してメガロポリスへと成長してきたが、将来はこれらの都市地域が成長を続けて相互に関連を強め、地球全体を覆うネットワークをつくり、世界が一つの定住社会(エキュメノポリス)を形成するに至ると述べている。情報社会は、ドクシアディスが考えた方法とはやや異なる方法で、しかし、類似の精神で、エキュメノポリスを現実化するポテンシャルをもっていた。物理的にメガロポリス化する手法は、情報社会では、必ずしも必要はなくなったように見受けられる。地球レベルでの環境問題を考えたときには、ヨーロッパの諸都市にみられるように、都市が緑の大海上の島々の様に分布する、コンパクト・シティ化された、サテライト・シティーの方が優れているかもしれないのである。2050年の日本の都市の分布をイメージするときに、都市の中の緑や、郊外の再緑地化をarchitectに要求するならば、それを希望する人々はそれを口にするだけではなくて、そろそろ、自分達のできる方法で、そのための樹木の育成を始めなければならないだろう。なぜならば、現在の技術では、都市のスケールの緑として有効な15mから20mの樹木を、現在言うところの経済的に、取得する事が不可能だからである。1)諸般の事情により、戦後の日本型近代建築の、設計条件としての寿命が半世紀であったのに対し、樹木がこのサイズに成長するためには、現在の方法では半世紀以上かかる。従って、建設当初は、将来の樹木の成長を前提とした、間伐を見込んだ樹木配置をおこなうとしても、建築自体は樹木の成長した姿を見ることができなかったのである。従って、こうした樹木は、道路敷や公園敷でインフラストラクチャーのひとつとして計画するのが合理的で、建築敷地に要求するのは、一般論としては無理があろう。より積極的な方法としては、樹木の成長を最初は早め、後に元に戻すようなバイオ技術を開発することである。また、最近では、建築の構造的寿命を100年以上とすべきだと言う議論も活発であるが、日本における建築の寿命は構造的寿命ではなく、機能的経済的理由で決まることが多いから50年以上生きながらえるものは稀である。2)現在の技術では、このスケールに成長した樹木を移植しても、根付く可能性が低く、業者にとっては、ハイリスクな作業となり、極めて高い料金を要求される。従って、大型樹木を最初から移植して、最初から都市の緑としての効果をねらうためには、バイオ技術や職人芸の開発が必要であろう。さもなければ、最初は、小型樹木として移植して、その成長を待つしかない。3)生きた樹木の価格は、こうしたことの他に、険しい山林からの運搬技術や運搬費に大きく影響されている。従って、樹木の生産地を都市の近くの平坦地に用意するというのも一計であろう。例えば、一部では既に行われているように見受けられるが、埋立地が安定するまでの期間は、とりあえず樹木生産地として樹木を植えてゆくことである。そのためには、道路計画は事前にして置く必要がある。そして、将来地下になったり、土壌交換される建築敷地の部分に植樹すると良いのではないかと思われる。バブル経済期に生じた都市のなかの歯抜け状の空地も、建築計画が確定し着工するまでは、とりあえず、樹木の生産地としておくのも良いかもしれない。ただし、無理に人工の公園化するのではなく、雑木林位にまでにしておかないと、樹木の価値は高くなってしまうし、建築敷地に戻す時に反対運動を引き起こす危険性もあるかもしれないのである。4)地球レベルでの環境問題を考えたときには、現在山にある樹木を都市に移動しただけでは、何の解決にもならない。地球上のどこかの経済的に可能なところで、都市に植える樹木を新たに生産し始めなければならない。さもなければ、都市に移動した樹木の抜けた後に、新しい樹木が成長するまで、長い間待たなければならない。このように、一般論として建築の敷地に一本の木を植える計画をするにも、様々な技術の開発と、職業が必要になってくるのである。そして、都市やその周辺に大型樹木が増えた時には、現在考えるよりも都市の内部は高密度でもよくなるかもしれない。
Feb 3, 2006
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昨日、人間環境系倫理として書いたように、地球環境問題等を発端として、21世紀には、20世紀までの私達の科学をみなおす必要があることがわかって参りました。しかし、実はそのことは、科学哲学者たちのあいだでは、もっと以前から議論されてきたことなのであります。ここに引用したのは、東京大学名誉教授で科学史・科学哲学の重鎮である、村上陽一郎先生の「科学の人間性」と称した文章です。最初に述べましたように、自然科学に対しては今、厳しい批判が浴びせられております。それに対して、科学者の側からはしばしば、自然科学は中立であり、それを使う人間個人の倫理や社会体制が問題なのだ。だから自然科学は「両刃の剣であり、人間を救う道具にも、人間を絶滅する道具にもなる。あるいは、自然科学が独走してしまうのがいけないのだ、人間が的確にこれを支配しなければならないのだ、といった議論がなされます。しかし、第二章で述べてきた科学に対する見方を取る限り、このいずれの議論も充分ではない、むしろ誤解を招き易い、あるいは招いた誤解を大きくし易いように思うのです。第一、自然科学は、けっして人間や人間社会から切り離された、中立の道具などではないのです。善かれ悪しかれ、その時代その社会の基本的なものの考え方、底流となっている前提と結ばれているものなのです。また科学が勝手に独り歩きをするなどというのもおかしな話です。科学はもともと人間の営みです。人間を離れて科学だけが歩き出すなどという馬鹿げた話があるわけはありません。この比喩もあまりいただけません。科学者もまた、ふつうの人間です。科学者だけに科学者であるがゆえの「高潔な」人格を期待したり、特別の倫理感を期待することもできますまい。まして現実の科学者がそうでないからといって、裏切られたと感じたり、失望したりするのは愚かなことだと思います。要するに、現代の科学は、その長所も欠点も、わたくしども自身のもっている価値観やものの考え方の関数として存在していることを自覚することから、わたくしどもは出発すべきではないでしょうか。今日の自然科学は、今日のわたくしども人間存在の様態を映し出す鏡なのです。今日の科学者の考えていることは、わたくしどもの時代、わたくしどもの社会の考えていることの、ある拡大投影にほかならないのです。科学のあり方に改むるべき点ありとするならば、それは、わたくしども自身のあり方に改むるべき点があることを示しているのです。これは一億総懺悔による責任の拡散などという戦略的な話なのではなく、本質的にそうだとわたくしは思います。結核や肺炎を駆逐し、原爆を造り出した科学について、その全ての責任を今わたくしどもが引き受けることを通じて、人間の道具としての科学ではなく、科学を自らの身の内に引き受けるという認識を通じてのみ、私どもは、自己を変革すると同時に科学を新しい方向に変革することができましょう、もし必要ならば………引用文献:村上陽一郎、『新しい科学論─「事実」は理論をたおせるか』、講談社、pp.200-201、1979
Feb 2, 2006
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日本経済新聞(2005年3月28日号)によれば、本年3月末に来日したフランスのシラク大統領は、講演で以下のように述べている。「一、人類は物理的、物質的、環境的な限界に来ている。『持続可能な開発』は新しい発展の名称だ。今までとは別の生産と消費のモデルを早急に考えなければならない。一、(前略)フランスは産業革新庁を創設、未来技術に関する分野の開発と知識のために2005年から07年にかけて二十億ユーロを投じる。一、小泉純一郎首相と未来のセクターを担う研究所と企業を集め、その研究プログラムを日仏両国政府が共同で財政支援をする可能性について話した。対象は環境、エネルギー、海洋学、宇宙、情報技術など未来に備えるあらゆる技術分野だ。(後略)」。かつて、ローマクラブの「成長の限界(1972)」をはじめ、いくつかの研究家組織が、地球の資源・エネルギー・環境の将来性の危機に警鐘をならしたことはあったが、世界の指導者が、人類の物理的、物質的、環境的な限界について明らかにしたことは、傾聴に値することであろう。アストロバイオロジスト、松井孝典は、その著「宇宙人としての生き方(2003)」において、150億年の時空スケールで考えた地球・人間・文明の未来を語り、ストック依存型の人間圏がその母体である地球システムに影響を与える程拡大しつつあることから、「今のままの発想で人間圏を運営すれば、人間圏という生き方を続けられるのは100年だろうと私は思っています。人間圏の拡大率の異常さを見る限り、人間圏の存続時間がそう長くないのは自明なことと思います。」と述べている。都市情報工学者の月尾嘉男はその著「縮小文明の展望(2003)」の中で、「そして現在、化石資源が数十年先には枯渇するとか、森林が数百年先に全滅するとか、大気温度も百年程度で異常な状況になるという予想がなされるようになると、この拡大、拡張、増大、増加こそが進歩であり発展であるという理念は早急に見直さざるをえない。それでは転換する方向は何処かということになるが、それは拡大ではなく縮少、拡張ではなく撤退である。このような言葉は、過去には失敗を表現するものであったが、もうしばらく人類が生存するためには必須の言葉であるという哲学や理念を構築することを要求されているのが現在である。」と述べるに至る。これに対して科学哲学の分野では、伊東俊太郎がその著「文明と環境(1996)」の中で既に、「人類がこれまで経験してきた巨大な変革期─『人類革命』、『農業革命』、『都市革命』、『精神革命』、『科学革命』─につぐ、『環境革命』とも称すべき巨大な変革期に今やわれわれは遭遇している。17世紀の『科学革命』以来形成されてきた近代知のパラダイムが、ここにおいて一斉に再検討され、根本的な転換を要請されているのである。」と述べている。そして、伊東、月尾、松井という、異なる分野の研究者を通じて21世紀において問題視されているのが、近代自然科学の基本的認識論である二元論と要素還元主義であり、それらを超える、新たな方法論の構築する必要があるということである。そして、伊東によれば、17世紀の『科学革命』期に形成された、デカルトの、この自然的世界から生命的なもの、質的なものを一切除去し、それを一様な幾何学的「延長」に還元することを意味するという要素還元論、すなわち、『機械論的世界像』も、ベーコンの、「知が力である」ことを標榜し、実験を重視し、自然を拷問にかけて、人為的に操作し、それを利用して自然を征服し、自然の上に「人間の王国」を作り上げ、人間の福祉や利便を増大させていくという、『自然支配の理念』も、もはや、人間の自然に対する適切な態度、適正な考えでないとしなければならないという。デカルトもベーコンも、人間を自然の外におき、自然を人間の対立者として捉えていたという。月尾によれば、デカルトは、宇宙は物質と精神に完全に二分されるという二元論者であり、人間だけは物質と精神の両面を具有しているとして、自然における人間における優位を強調していた。このような人間を宇宙における特別な存在とする近代科学は、その対象範囲から人間を除外してきたために発展してきたことは否定できないが、その発展の過程で様々な問題も発生させていた。これらの元になっているのが旧約聖書創世記第一章における記述であり、全知全能の神様は第一日目に昼夜、第二日目に天地、第三日目に海陸、第四日目に日月、第五日目に魚類と鳥類、第六日目に地上の動物と人間を創造され、そして人間に、子孫を増大させ、海中の魚類、空中の鳥類、地上の動物、地面の草木、地面の樹木のすべてを管理し食物として利用するように命令している。人間はあらゆる動植物を食料として、六十億人まで増大し、神様の命令を忠実に実行してきた結果として発生したのが、生物絶滅や資源枯渇など、環境問題と総称される課題であるという。『科学革命』に対して『叡知革命』を唱える伊東はまた、世界を生きとし生けるものの自己組織系とみてゆくことが、これから重要であると考える。その意味では、人間や生物はおろか、地球も宇宙も生きている、そして生きつつ現に進化していると考えなければいけないとする。そして人間も、実のところこうした宇宙の生命体の一環なのだという根源的な認識に立たなければならないとする。このように全てを生きとし生けるものの自己組織系として見直してゆく観方への転換を、17世紀の『機械論革命』に対し『生世界革命』と名づけた。世界を死せる機械としてではなく、生ける自己組織系とし、その中に人間も埋め込んで捉えてゆくという、世界観の根本的変換により、初めて人間と自然との共生を可能にする新たな方途も拓けてくると考えている。松井による、宇宙の階層構造を、「宇宙」、「銀河系」、「太陽系」、「地球」と、地球を構成する物質圏を、「地球」、「生物圏」、「人間圏」としてシステム論的にとらえてゆく考え方もこうした考え方に由来するものと思われる。伊東はまた、『人間革命』を唱える。我々はいま物質文明の「アヘン効果」の只中にあり、人はこれまで「自然の改造」についてしばしば語ってきたが、実のところ本当に必要なのは「人間の改造」ではないかと訴え、これなしには環境問題の究極的な解決はないと考えている。文明の発展のある段階において、人は十分に「足るを知り」、限りない欲望の奴隷とならず、大量消費・大量生産の悪循環を断ち切り、外的・物質的なものの拡大から、より内的・精神的なものの充実へと文明の軸心を移してゆく事が求められるという。一方月尾は、多神崇拝の寛容さを主張し、それが内包する自然への意識は環境問題への重要な貢献であるという。さて、21世紀における、人間環境学を考えると、いかなる点が問題となろうか。いわば、「システムとしての環境」を生ける自己組織系と考えて、そのなかに「システムとしての人間」を埋め込んで「システム間の情報のやり取り」をとらえてゆく世界観を有すればよいことになろうか。それには「相互浸透論」や「全体論」がシステムのありかたとしては、先駆的な方法論であったと言えるかもしれない。しかしながら、環境のとらえ方が、やや人間あっての環境であり、社会文化的環境の次元からとはいえ、あまりに人間に身近な環境のみを対象としているものも多く、一方で、人間中心、すなわち、人間を宇宙における特別な存在とする近代科学の特徴も有していることは否定できず、改善発展の余地を残しているものと考えられる。一方で、人間環境学は、人間の「外的・物質的なものの拡大から、より内的・精神的なものの充実」を唱えてきたとも言え、それはまた、21世紀科学に対しても重要な貢献であるといえよう。すなわち、人間中心に物質的なものを科学するのみならず、「環境と共にいる人間」として精神的なものをより充実させていくことが必要なのである。また、20世紀のパラダイムであった「科学のための科学」に固執することなく、「人類の生存のための科学」として、21世紀に必要な変革を受け入れることが、今後の人間環境学の発展につながることであろう。引用参考文献:1) ドネラ・H・メドウズ、デニス・L・メドウズ、ジャーガン・ラーンダズ、ウィリアム・W・ベアランズ三世、成長の限界─ローマクラブ「人類の危機」レポート─、ダイヤモンド社、19722) 松井孝典、21世紀問題群ブックス6 地球倫理へ、岩波書店、19953) 伊東俊太郎編、講座「文明と環境」14 環境倫理と環境教育、朝倉書店、19964) 松井孝典、宇宙人としての生き方、岩波書店、20035) 月尾嘉男、縮小文明の展望─千年の彼方を目指して─、東京大学出版会、20036) 日本経済新聞、2005年3月28日(月)夕刊第2面記事
Feb 1, 2006
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