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横浜港の旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)は「日本丸メモリアルパーク」となり、帆船日本丸が係留されています。1930年1月27日が進水式(お誕生日)で、今年で満88歳の米寿を迎えます。日本丸は商船系の学校の練習船で、1984年の引退までに約183万キロを航海したそうです。旧横浜船渠株式会社第一号船渠(国指定重要文化財)に係留された日本丸(日本丸も昨年9月に国の需要文化財に指定されました)みなとみらい21の背景に埋もれてしまった感がありますが、総トン数2,278トンの船体は、当時の海原では堂々たる姿だったと思います。現在の日本丸は当時のままに保存され、昔の遠洋航海の様子を偲ぶことができました。船首のバウスプリットストックアンカー甲板にアンカー(錨)が置かれているのは初めて見ましたが、アンカー自体の重量が約2.4トンで、1.5トンの錨鎖が10節付いていますから、総重量は17トンになります。(船は錨そのものの重量ではなく、錨鎖の重量で沖に停泊しています)船首楼甲板から見た船橋(ブリッジ)ウッドデッキの甲板甲板磨きのヤシの実でしょうか。下のデッキに降りて行くと、そこは居住区になっていました。練習生の寝室日本丸の定員は136名ですが、練習航海では200名近くが乗り組んでいたそうです。実は船乗りになりたいと真剣に考えていた時期があり、「商船学部航海学科」を目指していたことがあります。(商船学部のある大学は2つしかありませんでしたが)夢をあきらめずに船乗りを目指していたら、日本丸のような練習船で実習航海に出ていたかも知れません。船長室四本線の肩章入りの制服が掛かっています。こちらの部屋は三本線の肩章、一等航海士の部屋でしょうか。船舶と航空機では共通していることが多々あり、「キャプテン」と言えば船舶の船長であり、航空機の機長です。(いずれも四本線の肩章)航空会社によって呼び方は違いますが、副操縦士は「ファーストオフィサー」で、船舶の一等航海士を意味します。(三本線の肩章)日本丸は帆船ですが、完全に帆走するのではなく、エンジンを搭載しています。さらに下の第二甲板には、機関室がありました。ダイハツ製のディーゼルエンジン音声ガイダンスを聞いていると、600馬力だそうです。初代日本丸は1984年に引退しましたが、練習航海で日本丸に乗組んだ練習生は1万名を超えていました。そして今は二代目の日本丸が練習航海に旅立っており、日本の海運を担う人たちを育て続けています。
2018/01/29
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昨年4月に東京から横浜に引っ越してきて、10か月が経ちました。自宅から100mも離れていない場所に城址公園があるのですが、まだ一度も訪れたことがありませんでした。茅ヶ崎城がその城で、現在は茅ヶ崎城址公園として整備されています。北側の城址公園入口まだ雪が残っています。現地の縄張図を見ると、独立した四つの曲輪が配された、典型的な中世城郭です。縄張図東西に延びる縄張となっており、東に行くほど比高が高くなっています。北側の公園入口から入ると、中郭の土塁が現れ、西郭との間には桝形虎口の跡がありました。虎口跡西郭と中郭の間の空堀は特に幅が広かったため、堀底道が通っていたのかも知れません。西郭と中郭の間の空堀(西郭から見たところ)西郭は最も低い位置にあり、かつての三の丸が改変されたのかも知れません。西郭土塁を見ると、北条流の築城術だと思われます。西郭から北側に回り、中郭の土塁の北側を過ぎると、中郭より一段低い場所に北郭の跡が残っていました。中郭の北側土塁北郭後世になって増築された曲輪かも知れません。北郭から一旦戻って土塁を上がると、中郭の曲輪跡が広がっていました。中郭跡掘立建物の礎石跡が発見され、ここが本丸として機能していたかも知れません。中郭と東郭の間の空堀跡を通って南側の斜面に出ると、腰曲輪らしき跡が残っており、その先には堀切のような跡もありました。腰曲輪跡南側の腰曲輪南側には他にも腰曲輪の跡が見られました。堀切跡?発掘調査の結果、南側にも虎口があったようで、虎口の跡とされています。北側と南側に虎口があったことになりますが、どちらが大手なのか判然としませんでした。南に位置する小机城の支城として機能していたならば、南北に虎口があるのは自然な気がします。東郭は最も高い位置にあったようで、再び階段を登った先に曲輪の跡がありました。東郭向こう側に見えるのが中郭の土塁と空堀跡で、ほぼ同じ高さにあります。それにしても港北NTの住宅地の真ん中に、こんなに城郭遺構が残っているとは全く想像していませんでした。(ちなみに横浜市都筑区の旧国名は、相模国ではなく武蔵国です)発掘調査の結果、茅ヶ崎城の築城時期は14世紀末から15世紀前半と考えられ、北条氏以前の室町時代には築城されていたことになります。この頃の武蔵国と相模国は関東管領上杉氏の支配にあり、その頃から小机城とは連携していたとも考えられます。16世紀中頃には小田原北条氏の支配下となり、茅ヶ崎城も小机衆の配下にあったと思われます。
2018/01/28
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「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城と曰う」と、日本書紀に登場するのが水城(みずき)です。水城の遠景水城は土塁と濠で造られた古代城郭で、土塁は長さ約1.2km、高さ約10m、最大幅が約80mありました。土塁跡(断面)東西に延びる土塁の北側には、かつて幅約60m、深さ約4mの外濠が巡らされていたそうです。博多湾側(北側)の土塁と外濠跡反対側の太宰府側(南側)には、土塁の下を通って水濠に給水する「木樋」も発見されました。土塁の東西にはそれぞれ門が設けられ、西門のあった場所からは、大宰府(政庁)と鴻臚館(迎賓館)を結ぶ官道の跡も発見されました。西門跡水城は古代城郭でありながら、築城年、築城目的とも明らかになっています。663年の白村江の戦いで倭国が唐・新羅の連合軍に敗戦すると、唐・新羅連合軍の侵攻に備えるため、九州や瀬戸内海の沿岸各地に朝鮮式山城などの防御設備が造られました。そしてその防衛のために配備されたのが、防人です。白村江の戦いの翌年の664年、大宰府の防衛のために築かれたのが水城で、翌年の665年には、同じく日本書紀に登場する大野城が築城されています。水城から見ると、その大野城のある四王寺山が間近に見渡せます。白村江の戦いでの敗戦と、それに続く唐・新羅連合軍侵攻の脅威は、国家としての「日本」が独立を危ぶまれる最初の危機だったと思います。友好政策によって危機を脱し、その後の日本は中央集権体制を強めていきましたが、この1200年後にも同じような出来事はなかったでしょうか。すなわち黒船の来航から、明治維新への歴史がまさに同じ歴史だと思います。日本城郭協会「続日本100名城」
2018/01/25
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平成18年(2006年)4月6日の「城の日」、日本城郭協会によって「日本100名城」が選定されました。100名城の選定基準は3点あって、日本城郭協会の公式ガイドブックによると、1. 優れた文化財・史跡であること国宝(当時)である姫路城・彦根城・犬山城・松本城・二条城(障壁画)や世界遺産の沖縄のグスクなど2. 著名な歴史の舞台であること楠木正成の千早城や、天下統一の拠点となった安土城・大阪城・江戸城、さらには戊辰戦争の会津若松城など3. 時代・地域の代表であること古代城跡である古代の城柵、中世の居館や戦国山城など問題なく100名城に「当選」した城郭から、惜しくも当落線上から「落選」した城郭など、公式ガイドブックでは、全て実名入りで紹介されていました。(落選した城郭でも「名城」が並んでいるので、いかに厳しい戦いだったがわかります)個々の城郭の選定にあたっては、個人的に不平感もありましたが、「史実に基づかない模擬建造物」を排除する基準には、大いに共感できました。これまでも「ここに城があった」というだけで、時代背景も考えずに安易に模擬天守などを建設してしまう残念なケースは、多々目にしてきました。私も時代錯誤の模擬建造物には大反対で、100名城の3番目の基準でもある「時代・地域の代表」では、到底受け入れられないことでしょう。一方で地道な発掘調査と時代考証に基づき、時代錯誤の模擬天守などではなく、掘立の建物や門を忠実に復元する自治体もあり、こちらは大いに感服致します。(そういった城郭は、「日本100名城」には選ばれなくとも、「続日本100名城」で見事復活当選しています)その「日本100名城」をめぐってみたいとは思ったものの、一番厳しい選定条件があって、当初は夢のような話でした。「1都道府県に最低1城以上(ただし5城以内)」がその選定条件で、100名城すべてを訪れるには、47都道府県すべてを訪れる必要があります。100名城のためだけに時間を使うのはあまりにナンセンスだと思っていて、その時間があれば他の城跡をめぐっていたいところでした。(1年間で1城を訪れたとしても、100年かかる難行です)それでも気が付けば100名城を意識していて、振り返れば100名城のうち90城を訪れていました。いよいよカウントダウンとなった今、以下がこれまで訪れた90城です。(当ブログでご紹介した城跡は、記事にリンクしています)【北海道】根室半島チャシ跡群 、五稜郭、松前城【青森県】弘前城、根城【岩手県】盛岡城【宮城県】多賀城、仙台城【秋田県】久保田城【山形県】山形城【福島県】二本松城、会津若松城、白河小峰城【茨城県】水戸城【栃木県】足利氏館【群馬県】箕輪城、(新田)金山城【埼玉県】鉢形城、川越城【千葉県】佐倉城【東京都】江戸城、八王子城【神奈川県】小田原城【山梨県】武田氏館(躑躅ヶ崎館)、甲府城【長野県】松代城、上田城、小諸城、松本城、高遠城【富山県】高岡城【石川県】金沢城【福井県】丸岡城、一乗谷城【岐阜県】岐阜城【静岡県】山中城、駿府城、掛川城【愛知県】犬山城、名古屋城、岡崎城、長篠城【三重県】伊賀上野城、松阪城【滋賀県】彦根城【京都府】二条城【大阪府】大阪城、千早城【兵庫県】明石城、姫路城、赤穂城【奈良県】高取城【和歌山県】和歌山城【島根県】松江城、月山富田城、津和野城【岡山県】津山城、備中松山城、鬼ノ城、岡山城【広島県】福山城、(吉田)郡山城、広島城【山口県】岩国城、萩城【徳島県】徳島城【香川県】(讃岐)高松城、丸亀城【愛媛県】今治城、湯築城、(伊予)松山城、大洲城、宇和島城【高知県】高知城【福岡県】福岡城、大野城【佐賀県】名護屋城、吉野ヶ里、佐賀城【長崎県】平戸城、島原城【熊本県】熊本城、人吉城【大分県】大分府内城、岡城【宮崎県】飫肥城【鹿児島県】鹿児島城【沖縄県】今帰仁城、中城城、首里城以上90城いまだ未訪問の10城が、以下の城です。【新潟県】新発田城、春日山城【石川県】七尾城【岐阜県】岩村城【滋賀県】小谷城、安土城、観音寺城【兵庫県】竹田城、篠山城【鳥取県】鳥取城意外な城が残った感じがあって、果たして100/100はどこになるのでしょうか。そうこうしているうちに日本城郭協会より、10年後の平成28年(2016年)4月6日に「続日本100名城」が選定されました。こちらは選定前から訪れている城もあるものの、ようやく50/100です。(「続日本100名城」の選定については、「100名城」より秀逸だと思います)個人的には、実戦を経験した城こそが「名城」だと思っています。熊本城や五稜郭を除き、実戦経験がある城は中世の戦国城郭ばかりですが、「続日本100名城」ではそんな城がいくつも選ばれています。城のつくり方図典歴史群像シリーズハンディ版 日本100名城公式ガイドブッ【1000円以上送料無料】
2018/01/23
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12月に沖縄でグスクと世界遺産を巡っている途中、沖縄平和祈念公園とひめゆりの塔に立ち寄りました。ひめゆり学徒隊の慰霊碑実はここを訪れるのは初めてです。慰霊碑の前にある「ひめゆりの塔」沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒によって編成された「ひめゆり学徒隊」、そのひめゆり学徒隊が避難していた「伊原第三外科壕」は、今も残っています。この狭いガマ(洞穴)の中に避難していました。そしてごの外科壕の中にアメリカ軍による手榴弾攻撃があり、約80名が命を落としたそうです。ここは修学旅行の定番にもなっているようで、隣接するひめゆり平和祈念資料館からは、笑い声を上げながら出て来る修学旅行生たちの姿がありました。今回は修学旅行コースの1つだったかも知れませんが、いつかはきっと自分たちの意思でここを訪れる日があると信じています。そしてひめゆり学徒隊だけでなく、「鉄血勤王隊」や「通信隊」など、沖縄戦では多くの学徒隊が命を落としていることも忘れてはならないと思います。沖縄平和祈念公園の「全学徒隊の碑」
2018/01/22
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伏見城本丸がある「桃山」の地名は、伏見城の廃城後に付けられた名前です。豊臣秀吉の時代には「桃山」の地名は登場していないので、「安土桃山時代」や「桃山文化」の呼称よりも、「安土伏見時代」や「伏見文化」の方が適切なようにも思います。それでも関西圏で「伏見桃山城」の名前が定着しているのは、やはり「伏見桃山城キャッスルランド」遊園地の影響でしょうか。伏見桃山城キャッスルランドはずっと以前、小学校の遠足で訪れたことがあり、天守が建っていたのを覚えています。キャッスルランドはすでに閉園となり、跡地は運動公園に変わっていましたが、天守などの城郭建築だけは残っていました。模擬大手門大手門横に建つ「伏見桃山城」の城跡碑大手門から中に入ると、キャッスルランドの面影は全くないものの、大天守と小天守はまだ建っていました。洛中洛外図屏風を基に外観復元された模擬天守ながら、5層6階の最上階には花頭窓が置かれ、いかにも桃山時代の天守です。(耐震基準を満たしていないため、中に入ることができません)この模擬天守を設計した人が誰なのかよくわかりませんが、注意して見てみると、ディテールにかなりのこだわりを感じました。天守の前には桝形虎口の石垣があります。(縄張のセオリーからすると、桝形は右折れになるのですが、ここは左折れになっていました)さらには付櫓のような門まで付いていました。それにしても付櫓に櫓門を備えている城郭は、これまで見た覚えがありません。実際に伏見城に天守は建っていたようですが、本丸や二の丸があったのは南側の桃山丘陵一帯で、現在は明治天皇の桃山陵となっているため、立ち入ることはできません。伏見城は1592年に豊臣秀吉の隠居場所として建てられ、指月城と呼ばれていました。1596年の慶長の大地震によって指月城が倒壊すると、桃山丘陵のある木幡山に新たに伏見城が築城されました。1598年に豊臣秀吉が伏見城で死去すると、留守居として徳川家康が入城してきました。1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦では、島津義弘軍の攻撃によって、伏見城は落城しました。よく知られているエピソードですが、この時島津義弘は東軍につく目的で伏見城に入城しようとしていました。しかしながら徳川家康配下の守将鳥居元忠にその情報が伝わっておらず、島津軍は伏見城入城を拒否されたため、やむなく伏見城を攻撃して西軍についた経緯があります。関ヶ原の戦い後の1602年、徳川家康によって伏見城は再建され、1603年には征夷大将軍宣下が伏見城で行われました。しかしながら1615年の一国一城令で、京都は二条城を残したため、伏見城は廃城となっています。廃城後、伏見城の城郭建造物は、各地に移築されました。特に福山城には多くの建造物が移築され、うち伏見櫓と筋鉄門が現存しています。福山城伏見櫓(現存、国指定重要文化財)(2008年8月)解体修理した際に発見された墨書から、伏見城松の丸東櫓を移築したことが判明しました。筋鉄門(現存、国指定重要文化財)伏見城からの移築とされていますが、確証はないようです。
2018/01/19
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京阪伏見桃山駅から続く通りには「大手筋通り」の名前が付いており、この道が伏見城に至る大手筋でした。大手筋に建つ御香宮神社の鳥居御香宮神社の表門は、伏見城の大手門を移築したと伝えられています。表門(移築現存、国指定重要文化財)御香宮境内に入って見ると、伏見城石垣石の残石が置かれていました。伏見城の石垣に使われていたようで、矢穴(ミシン目)も残っています。豊臣秀吉が伏見城を築城するにあたり、御香宮神社は伏見城の鬼門除けとして、本丸の北東に移されました。1605年には徳川家康によって現在の場所に戻され、境内には徳川家康によって造営された本殿が現存しています。本殿(国指定重要文化財)御香宮の土塀脇には史跡案内板があり、見てみると「『黒田節』誕生の地」とありました。黒田長政の家臣である母里太兵衛が、福島正則の屋敷を訪れた際に何杯も酒を飲み干して、約束通りに名槍「日本号」を福島正則から貰い受けたという逸話です。(なぜかこの手のエピソードには、福島正則がちょいちょい絡んできます)黒田長政や黒田節と言えば福岡博多のイメージが強いのですが、実は黒田節の発祥は京都伏見だったようです。実際の福島正則の屋敷は御香宮より北にあったようで、現在も「桃山福島太夫南町」などの地名が残っています。伏見城の大手筋近くには、他に「桃山毛利長門西町」(毛利輝元)、「桃山長岡越中北町」(細川忠興?)、「桃山三河」(徳川家康)など、かつての大名屋敷跡と思われる地名が多く残っていました。戦国時代には争い合っていた武将たちも、豊臣秀吉の統一政権の伏見城下では、屋敷を並べて仲良く住んでいたようです。
2018/01/18
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二条城本丸は周囲を内堀で囲まれ、虎口には櫓門が建っていました。本丸櫓門(現存、国指定重要文化財)本丸櫓門(城内から見たところ)本丸にも庭園があり、明治29年(1896年)に明治天皇の指示によって造られた庭園です。本丸庭園本丸には1626年に伏見城から天守が移築されましたが、1750年の落雷によって焼失してしまいました。以後は再建されておらず、現在は天守台だけが残っています。天守台と内堀天守台には登ることもでき、天守台からは本丸内がよく見渡せました。天守台から見た本丸御殿天守台から見た西門(桝形が残っています)本丸に建つ御殿は、京都御所の北隣にあった桂宮家の御殿の一部が移築されたものです。本丸御殿(国指定重要文化財)14代将軍徳川家茂と和宮親子内親王の婚姻、いわゆる和宮降嫁の時、和宮が江戸に向けて出立したのもこの御殿でした。その本丸御殿の玄関は、なぜか櫓門と反対側にありました。徳川家康が征夷大将軍就任の祝賀を行った二条城は、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を諸大名に諮った場所でもあります。二条城の歴史は、徳川将軍家の栄枯盛衰の歴史だと言えるでしょう。日本城郭協会「日本100名城」ユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」
2018/01/17
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慶長の一国一城令や明治の廃城令による破却、自然災害や太平洋戦争の戦災による消失、そして戦後の都市整備を生き抜いてきた城郭は、本当に数少ない存在です。かつては数万もあったとされる中世の戦国城郭については、それこそ戦国時代を生き抜いてきたため、曲輪や土塁・空堀跡の遺構が一部でも見つかればまだいい方です。(それだけに戦国の城跡ハントには駆り立てられるものがあるのですが)近世城郭について言えば、石垣が残っているのも貴重なほどで、櫓や門などの建造物が1つでも残っているならば、希少な存在かと思います。二条城については築城時の建造物が数多く残っており、二の丸から本丸へ至る途中にある門は、いずれも建造時から現存しているものです。北中仕切門(内側)1626年の行幸時に建てられたもので、重要文化財に指定されています。反対側には南仕切門が対で立っており、こちらも現存建造物です。本丸の虎口近くには、二つの門がやはり対で建っていました。鳴子門(内側)城郭ではあまり見ないのですが、四脚門形式です。鳴子門と対になって本丸を防御しているのが桃山門です。桃山門(現存、国指定重要文化財)こちらも城郭では珍しい長屋門形式です。城郭に現存する長屋門を見たのは岩槻城以来でしょうか。さらには土蔵なども現存していました。土蔵(北)(現存、国指定重要文化財)やはり1626年の行幸時から現存する建造物で、城郭で土蔵が残っているのは二条城だけでしょうか。400年前から残る建造物がこれだけ多く現存していると、感覚が麻痺してしまいそうです。
2018/01/16
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二の丸の周囲だけでも多くの建造物が現存しており、これだけでも見ごたえは十分なのですが、二の丸の中はさらに圧巻でした。二の丸の唐門と築地(国指定重要文化財)1626年の行幸時に建てられたもので、唐破風を備えているため、唐門と呼ばれています。唐門日本の城郭建築の中で、御殿が現存するのは川越城・掛川城・高知城と二条城の4城しかありません。そのうち二の丸御殿が現存するのは掛川城と二条城だけですが、二条城の方は別格かも知れません。二の丸御殿「遠侍及び車寄」(国宝)二の丸御殿は、遠侍及び車寄・式台・大広間・蘇鉄之間・黒書院・白書院の6棟がつながっており、いずれの建物も国宝に指定されています。二の丸御殿は中に入って見学することもできますが、内部は撮影が禁止されていました。二の丸御殿は1603年に徳川家康によって造営され、その後1626年の御水尾天皇の行幸に備え、徳川家光によって現在の姿に改造されています。建造物もさることながら、狩野探幽など狩野派の障壁画も当時のままに残っていました。二の丸庭園に回ってみると、外から二の丸御殿を見ることができます。奥から遠侍及び車寄・式台・大広間(いずれも国宝)大広間第15代将軍徳川慶喜が大政奉還を諸大名に諮ったのも、この大広間でした。(内部は人形によってその様子が再現されています)武士による封建制度が終わりを告げ、日本の歴史も中世から近世へと移り変わった瞬間を、リアルに見ているような感じでした。白書院(国宝)二の丸御殿の最も奥にあり、将軍の休息所や寝所となっていた場所です。二の丸御殿に面しているのが二の丸庭園で、作庭の名手として知られる小堀遠州(小堀政一)の作事です。桃山様式の池泉回遊式庭園です。二の丸庭園と大広間ところで二条城の二の丸御殿と言えば、鴬張りの廊下で知られています。現地の解説板にはその仕組みが図入りで書かれていました。外部からの侵入者に備えるためとばかり思っていたのですが、その解説板によると築造当初はその意図はなく、経年劣化によって自然と音が鳴るようになったとのことです。
2018/01/15
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京都に住んでいる頃、何度も前を通りながら、訪れたことがなかったのが二条城です。二条城は二の丸と本丸だけの輪郭式の縄張となっており、二の丸は外堀で囲まれています。二条城外廻絵図東側の外堀二の丸に建てられた隅櫓のうち、東南隅櫓と西南隅櫓が現存しています。東南隅櫓(国指定重要文化財)東南隅櫓(城内から見たところ)二条城に限ったことではありませんが、隅櫓は城外と城内で外観が全く違ってきます。やはり隅櫓は城外から見るのが一番でしょうか。二の丸へ入る門としては、東大手門・北大手門・西門・南門があり、大正時代になって造られた南門以外は、いずれも現存しています。北大手門(国指定重要文化財、城内から見たところ)1603年の築城時からここにある門ですが、現在の姿は築城時のものか、1626年の行幸時に改築されたものかについてはわかっていません。門の先には京都所司代があり、その連絡門として使われていたようです。東大手門(国指定重要文化財)築城時からこの場所にありますが、1626年の行幸時に建てられた後、1662年に改修されて現在の姿になりました。現在は東大手門のみ通行可能となっており、東大手門を入ったすぐ右側には番所がありました。東大手門と番所(城内から見たところ)番所(現存)二条城には9棟の番所がありましたが、現存しているのはこの東大手門の番所だけです。また、番所が現存する城郭は久保田城・江戸城・掛川城・丸亀城しか記憶になく、いずれも日本100名城に選ばれた名城ばかりです。
2018/01/14
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ラーメンの激戦区となっている一乗寺・北白川界隈、ここは宮本武蔵の決闘の地でもありました。宮本武蔵の決闘では巌流島があまりにも有名かと思いますが、「一乗寺の決斗」は小説や映画でも取り上げられており、その舞台となったのが「一乗寺下り松」です。一乗寺下り松現在の松は四代目で、その横には「宮本 吉岡 決闘之地」の碑が建っていました。現地の解説板によると、ここは近江から比叡山を経て京に至る交通の要衝で、一乗寺下り松は旅人の目印となっていたそうです。アスファルト舗装道を挟んだ向かい側には、かつての道標が残っていました。宮本武蔵が吉岡一門と決闘するにあたり、戦勝祈願を行った場所が八大神社でした。八大神社鳥居参道はアスファルト舗装されていますが、ここから300mほど行った場所に本殿があります。八大神社にあるイラスト(やはり二刀流です)そう言えば、一乗寺から叡山電鉄で鞍馬に行く途中には、マンガ学部で知られる京都精華大学があります。八大神社の境内には、一乗寺の決闘の時に植えられていた「一乗寺下り松」の古木が祀ってありました。その一乗寺下り松の前に立つのが、二刀流の宮本武蔵像です。子供の頃に剣道を習っていたことがあるのですが、個人的には千葉周作の北辰一刀流(赤胴鈴之助)が好きです。ところで、一乗寺下り松の「宮本 吉岡 決闘之地」碑の横には、もう一つ碑が建っていました。「大楠公戦陣蹟」碑傍らにある碑文を要約すると、足利尊氏と楠木正成がここで対陣し、楠木正成軍が足利尊氏軍を追撃したとあります。「太平記」の世界では、足利尊氏は九州から瀬戸内海を海路で進軍しており、楠木正成の相手は足利尊氏ではなく、陸路で進軍してきた尊氏の弟、足利直義でした。さらにその舞台は京都一乗寺ではなく、兵庫湊川です。宮本武蔵が一乗寺で戦った吉岡一門は、「扶桑第一之兵術」として代々足利将軍家の師範役でした。もしかしたら「一乗寺の決闘よりもずっと前、すでに楠木正成が初代足利尊氏とここで戦っていた」というシャレなのでしょうか。(まさかこれが史実ならば、桜井の訣別とかって、一体何だったんだろうって話です)関連の記事巌流島(2011年4月)→こちら宮本武蔵全一冊合本版【電子書籍】[ 吉川英治 ]
2018/01/13
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大阪梅田で妹夫婦と食事をした後、帰りの飛行機まで時間ができたので、少し寄り道してみることにしました。伊丹空港の最寄り駅である阪急宝塚線蛍池駅から一駅、降りた駅は阪急宝塚線の石橋駅です。昔ながらの古いアーケード商店街を過ぎ、母校のある待兼山を目指しました。阪大坂以前は細いアスファルト道でしたが、きれいな石畳になっていました。30~50万年の日本にはワニが住んでいたようで、日本で最初にワニの化石が発見された場所が待兼山で、「マチカネワニ」と命名されました。阪大坂の途中、かつての医療技術短大の跡地には大阪大学総合学術博物館が出来、ここにマチカネワニの化石が展示されているそうです。残念ながら休館でした。初めて知ったのですが、待兼山からは弥生時代の集落跡が見つかり、待兼山全体が「待兼山遺跡」となっているそうです。中世の火葬墓跡阪大坂を登り切ると、石橋口(裏口)へやって来ました。正門は大阪モノレール柴原駅の近くにあり、理学部や基礎工学部、吹田キャンパスなどへ行くには正門を使うのが便利かと思います。私の在学時は阪急石橋駅から遠い上に、理学部や基礎工学部、吹田キャンパスにも用がなかったので、正門はほとんど使ったことがありません。(吹田キャンパスは行ったこともありません)石橋口から入ると最初に見える建物が、旧浪速高等学校時代の校舎(大阪大学会館)です。当時は「イ号館」と呼ばれていました。イ号館から右に曲がると、私のいた経済学部の校舎があるのですが、当時よく通っていたのが「明道館」です。これでもきれいになった方で、当時は本当にスラム街のような場所でした。そして2階の中央には、今でも探検部の部室がありました。遠征に行っているのでしょうか、扉には「不在」の表示と鍵がかかっていました。入口の横に安全環付のカラビナがぶら下がっていて、アプザイレン(懸垂下降)の練習でもしているのでしょうか。さらに「山猫出没注意」のステッカー、後輩たちも西表には行っているみたいです。インターネットも普及していない時代、この扉の向こう側では限られた情報で行動計画を立て、装備品を並べていたのを思い出します。もちろん遠征では予想外のことが多々起こったりしましたが、その都度仲間で知恵を出し合って乗り切ってきました。そんなことを思い出していると、原点に帰ってきたような思いです。私の在学時はすでにバブルは崩壊していたものの、明道館にはまだまだ熱気があふれていたように思います。冬休みとあってか、学生の姿もまばらだったのですが、何だかおとなしい感じがして、少し寂しい気もしました。時代が違うと言われればそれまでですが。
2018/01/07
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