ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン& オペラとクラシックコンサート通いのblog

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2013年01月27日
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カテゴリ: オペラ
 新国立劇場  14:00〜
 3階正面


 よく調べたら、やっぱりもう一日買ってあったので、都合3回観に行くことに...
 行き過ぎだろ......
 そのせいか、ついプログラムを買いそびれてしまいました。次回は必ず買おう。

 さて。
 今回は最初から観ました。
 基本的に、初日と同じですね。ただ、やはり、端の方で観るのと、正面で観るのとでは、結構違う。

 オーケストラは、基本的に、悪い出来ではないと思います。ただ、くどいようですが、粘りが足りない。もう一粘りして欲しいんですよね。フレーズの一つずつを、最初から最後まで、フレーズの繋ぎまで含めて、気を配り、疎かにせずに伝わるようにする。勿論、前提には、適切なフレージングというのはあるけれど。
 難しいところだというのは分かります。うっかりすると過剰になってしまう。それに、今回聞いていても、よくある「力み返ってテンション掛けまくって演奏する」というのは極力抑えているので、その上で更に粘りを効かせるのは、確かに(特に、標準的な日本のオーケストラである、力んだ演奏に陥りやすい)東響としては、むしろこれでもいい出来だと思います。加えて、3幕ではついに管が力尽きて、ヘロってたし。
 でも、それはそれ、これはこれ。

 合唱は、評価が難しいですが、やはり私はちょっと....ブラボーは飛んでたし、確かに幕切れは力入ってましたけどね。

 問題は、むしろ歌唱の出来ではなく、解釈にあります。
 先にも書いた、第3幕前半の帰還した巡礼の合唱の一言「ハレルヤ!」です。
 やはり、この日もあの部分は抑えた、つまり前後との関係ではほぼ平坦な歌唱になっています。これが、やっぱり、はっきり言って「おかしい」と思うのです。

 今更ですが、このタンホイザーのストーリーには、巡礼が組み込まれています。この「巡礼」というものが身体感覚的にどれほど理解されているのか。
 私はキリスト教徒ではない純正日本人なので、はっきり言ってそれほど正しく理解しているかどうかは分かりません。その上での話ですが、巡礼、ローマに行く、というのを、このオペラを観、上演する上で、どのように理解されているのか。
 タンホイザーがヴェーヌスベルクから戻って来たのは、牧童の歌からみても、春、5月でしょう。一方で、巡礼達が帰って来たのは、木の葉も落ちた秋、ということは、恐らくは9月末から11月初めくらいにかけてのいつか、でしょう。まず恐らくは4、5ヶ月は掛かっている。
 中世に於いて、旅というのはそれ自体が特殊なことでした。そもそも旅をする為のインフラが整っていない。つまり、旅宿というものが整備されていた訳では無い。交通機関だって、郵便馬車の整備が進んだのは精々16世紀。そもそも旅をするという需要が無かった。今のように旅は娯楽ではなかった。しかも、庶民の巡礼者は、目的の所為もありますが、徒歩で行きます。路銀も限られている。その上、庶民が5ヶ月も(それも春から夏、秋にかけての!)仕事をせずに家を空けるということは、その間収入が途絶えるということ。巡礼というのは、人生の一大事なのです。
 にも拘らず巡礼に向かったのは、日々の些細な罪の積み重ね(本当に、キリスト教というのは、仏教なんか比べ物にならないくらい、ただ生きているだけでも犯すことになってしまうようなレベルの罪を殊更に苛むようなドSな宗教だと思います)により、魂が救済されずに死後地獄に堕ちるのではないか、という恐怖から突き動かされて行ったから、なのでしょう。
 日々雨露を凌げる所に寝られるとも限らない。賊に襲われないとも限らない。ヴァルトブルクのあるアイゼナッハからローマを目指すなら、恐らくブレンナー峠あたりでアルプス越えをするでしょう(ローマ語りでタンホイザーが「雪と氷に身を横たえ」と言っているのはアルプス越えの時でしょう)。危険も多い。旅の身で病に仆れないとも限らない(パリの空にモーツァルトの母が仆れたのは18世紀後半です)。それらを乗り越え、人生の一大事として、やっとローマに辿り着き、無事救済を約束されても尚帰り道がある。
 無事巡礼を終え、故郷の地を見た時、救済を約束され、無事帰り着けたことへの神の恩寵へ感謝する。この身を限りに神を讃えんとする。そのハレルヤ!なのです。
 抑えた表現で行こう、それこそがここでの全身全霊を以て神を讃える言葉だ、というのなら、それも一つの解釈でしょう。でも、それならそれで、そこで抑えた表現であることが何を意味するのか、それが伝わるような歌唱でなくてはいけない。記号的な「抑えた表現」ではダメなのです。

 何故ここがそれほどに大事かと言えば、そもそもこのタンホイザーというオペラは、「エリザベートによる救済」という体裁は採っているけれど、その実カソリック的な神の恩寵がテーマだからです。ちなみに、舞台の展開上、エリザベートによってタンホイザーは救済されたように見えるけれど、ロジカルには、それ以前に神のタンホイザーへの恩寵は約束されているわけです。だって、ローマから木の葉の生えた杖が一瞬で届くわけ無いでしょ?そういう意味で言うと、エリーザベトは、強いて言えば、再び迷ったタンホイザーを救済する為の犠牲みたいなもの。そのエリーザベトの犠牲にしても、つまりは神の恩寵を得んが為。
(そりゃ神が一瞬でアイゼナッハに杖を出現させるという奇蹟を成さしめた、という設定は可能かもしれんけど)
 しかも、その神の恩寵を、神の代理人たる教皇は見誤った、という、物凄くラディカルな話でもある。カソリック的な話でありながら、事実上カソリック批判でもある。このオペラに坊主が全く出て来ないのはその点でも示唆的です。

 そんなに宗教的なものか、だって?タンホイザーは物凄く宗教的なオペラですよ。パルジファルなんかよりよっぽどベタです。聖杯の騎士なんて居たのかどうかもわからんけど、教皇は居たし、巡礼だって居たわけですから、よほど設定的にはリアルだし。

 そこまで読み込まなくても、まぁ、タンホイザーというオペラは上演可能でしょう。でも、元々はそういう話ではないのかと。そのくらいの読み込みをやった上での演出・演奏であるべきだと思うのだけれど、演出はともかく演奏としてはどうなのか...
 そうは言っても、実のところ、今回の演出、初演の時はどうだっけ、と思ってブログを読み返してみたら、当時は 「幕切れでやってくれました」みたいなことを書いている ので、こっちも解釈が変わってる訳で、まぁ、偉そうなことは言えないんだよなぁ...

 閑話休題。
 歌手の話。
 ヴェーヌスのエレナ・ツィトコーワが随分力の入った歌唱で、初日3幕の歌唱はやはりそれだけじゃなかったようで、これは重畳。
 ヘルマンとヴォルフラムはやはり良い。安定した歌唱、でしょうか。ちょっとヴォルフラムが2幕いまいちピリッとしなかったけれど。一方、エリーザベトは、2幕冒頭、少なくともこの日は、ヴィヴラートがかかりまくり。これで力が無いと「ちりめんビブラート」って呼ばれる類いの、良く言えばナチュラルな、悪く言えばコントロール出来てないヴィヴラート。後々それなりに安定はしてきましたけれど、ちょっと宜しくないですねぇ。少なくとも私の好みではない。
 不思議だったのは、タンホイザーにブーイングが掛かったこと。確かに、ワーグナーを歌うテノールとしては、比較的力の弱いタイプではあるのでしょう。圧倒的に場内を圧倒するような歌唱ではない。ただ、そもそもタンホイザーってそういう役柄じゃないし、ローマ語りあたりはそれなりに出来ている。上手いとは思わないけれど、これでブーイングというのなら、基準は何なんだ?というのを明示しろよ、と思います。個人的には、ブーイングってのは、歌手に対する限りは、解釈が変とか、手抜いてるとか、よっぽど不出来とか、そういう時に出すもので、この程度の、まぁ厳しく言っても「凡庸」というくらいで出すもんじゃないと思います。そういうことされると、ブーイングの意味が訳分からなくなって、即ち聴衆と演奏者との間のコミュニケーションが阻害されるから、困るんですよね。やたら連発されるブラヴォーもそうだけどさ。
 後は、まぁ、牧童の國光ともこの声が、清澄感の割に大きかったかな、というくらいか。

 長くなりましたが、演出。
 基本的に2007年演出の再演なので、改めてどうこういう話はないのだけれど、先に書いたハレルヤ!の話が一つ。それはそれ演出の問題でもあるので。それはそれとして。
 初演時のブログでは、タンホイザーの衣装がちょっとね、みたいなことを書いていて、ああ、同じこと思ってるな、と(笑)同じ衣装だったかどうかは覚えてないですが、少なくとも今回のあの下着だかパジャマだかみたいなのはどうなんだろう...
 特にヴェーヌスベルクの所で、映像を多用しているのは、前回あったかなぁ。ヴェーヌスを後ろに大写しにする、というのは、恐らくはヴェーヌスを女神として具現化する方策、なのでしょう。そりゃあまぁ、曾ての紅白に於ける小林幸子みたいなのをやる訳にはいかんだろうし、まぁいいんじゃないでしょうか。
 まぁ、強いて言えば、一種のショボさ、でしょうかね。反射する板組の、隙間の見える円筒が幾つか立って、それが色々なものを表象する、筈なんですが、あんまり具体化した感じではない。舞台としての説得力がいまいちなんですね。それでも、タンホイザーというオペラは話がはっきりしているし、この演出も新解釈を施す類いのものではない。タンホイザー以外の人物の衣装はこちらの割と典型的なイメージを裏切らない程度のもの。つまり、全般的にはノイズが少ない。だから、これはこれで一応成立はしていると思います。
 つまらないって言えばつまらないんでしょうけど。去年の春に観た、神奈川県民ホールでの、びわ湖ホールと共同で出したミヒャエル・ハンペ演出のは、もっとベタだったけれど、ある意味落ち着きはいいかも知れません。

 一つだけ苦言を呈すると、2幕の歌合戦、大荒れの中ヴォルフラムが再び立って事態を収拾しようと歌うのだけれど、ここでビーテロフが荒れて暴れるのですね。まぁそれは演出だから仕方無いのだろうけれど、手に持った剣を乱暴に置く、椅子を蹴飛ばして倒す、と、随分と物音が立っていて、これじゃぁ折角のヴォルフラムの歌が聞こえないじゃないか、と。歌手の暴走なら止めて欲しいし、演出指示ならば、少々見直して頂きたい。このキャスティング、ヴォルフラムは「聞きたい方」に入るので、邪魔しないで欲しいのですよ...暴れていいから、静かにお願いします。






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最終更新日  2013年01月27日 21時05分10秒
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