ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン& オペラとクラシックコンサート通いのblog

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2024年02月02日
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なんというかですね........
 先月から世間でそこそこ騒ぎになってる、「漫画原作のドラマ化を巡る騒動の末漫画家が自ら命を絶った」という話がありましてですね。どっかの記事にリンク張ればいいのかもしれないけれど、なんか陳腐化しそうだしね。
 いや、このブログでそんな話書く筋合いじゃないんですが、ちょっと気になったもので。

 で、ですね。この話を渦の中からでなくて、関係ない視点で抽出すると、タイトルに書いたような問題が出てくると思うのですよ。
 この話がそもそもネット的に問題になったらしいのは、原作をドラマ化した際に担当した脚本家が愚痴ったらしいんですね。脚本にダメ出しされて、最後は結局原作者が書いた、と。で、それに対して、原作者が反論したと。要するに、原作の本来の意図を逸脱するから修正を試みたが、最後は自分で書かざるを得なかった、という。で、それがいわば脚本家に対する攻撃だ、みたいに受け取られて責められた、と、少なくとも原作者は思ったのではないかと、で、自ら命を絶つに至った、という流れみたいです。

 で。ここからはその話には全く直接リンクしません。上記に書いた通り、これって関係ない視点で問題を抽出するとタイトルのようなことではないのか、というのを、こちらの領分に引き付けて考えてみたわけです。

 今これを書きながら、モーツァルトのピアノソナタを聴いています。CDで、弾くのは去年亡くなったイングリッド・ヘブラー。昔フィリップスに入れた録音の比較的最近のリマスター版です。当然古いですね。
 こうさらっと当たり前のことを書いていますが、つまり、クラシック音楽では、或いはオペラでは、これがごく当たり前のこととして行われています。つまり、「イングリッド・ヘブラー」という20世紀のピアニストが、「モーツァルト」という18世紀の赤の他人の書いた作品を演奏する、ということ。別に我々は日頃からそれを不思議に思っていませんよね。このブログで言えば、最近のエントリーでは、ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団が、ヨハン・シュトラウス2世やらなんやらの書いた作品を演奏するのを聞いた話を書いてます。どっちも同じです。演奏者は赤の他人の作品を演奏する。それがクラシック音楽の演奏です。
 クラシック音楽では、今回騒ぎになっているような事態はかなり起きにくい。理由は簡単、クラシック音楽で演奏されるのは、大半がとっくに原作者は物故者になっている作品だからです。

 では、クラシックの演奏家は、作曲者には遠慮なく自由気ままに演奏すればいいのか?というと、大抵の場合、そうはいかない、ということになっています。無論、たとえば、モーツァルトのピアノソナタをジャズアレンジして演奏する人はいます。或いは、ホルストの「惑星」の「木星」をJupiterという歌に編曲して歌った人もいましたね。一方では、私はそういうのいちいち聞きに行かないけれど、中村紘子の「チャイコフスキー・コンクール」など読むと、コンクールの予選段階では勝手気ままと思えるような演奏者もいたりしたようだし。そして、著作権が残っている事例も過去にはあったろうけれど、今ではどれもこれも著作権上の問題はない、ということになっている筈。まぁ、3番目のは、「作曲者の意図に沿って弾いたんだ!」って言うのかもですけど。
 一方で、今聞いているモーツァルトのソナタ、これを、発表当時はこんなに装飾音を付けていのか、と物議を醸すような演奏をした、フリードリヒ・グルダなんて人もいました。
 ヘブラーのモーツァルトをいわば基準とするならば、これは一番「クラシックらしい演奏」ということになるのでしょう。グルダのは「作品に忠実に演奏しているのか」という問題になる。これが、コンクール予選の「?」な参加者になると、そもそも弾けているのか?みたいな問題も含めて「作品に忠実に弾くべきところを弾いていない」となる。ジャズアレンジした演奏は、そうした基準からは恐らく外れますよね。Jupiterは、もう別の作品だけれど、でも、原曲へのリスペクトはある、というのでしょう。リスペクト。便利な言葉です。そう表明すればなんでも許されるのだから。いや、あの曲を批判しているのではないですよ。平原綾香でしたっけ。ああいう曲を作り、それをリスペクトしている、という言葉も、実際の楽曲も、その点に於いては誠実なんだと思います。ただ、言葉としては便利に如何様にも使えてしまうよな、というね。

 音楽、特にクラシック音楽が、たとえば漫画なんかと決定的に違うのは、クラシック音楽の作品は書いただけでは現実には音楽作品として完成していないので、それを実際に具現化して初めて作品として完成する、という点にあります。無論、ピアノ曲とか、ピアノ伴奏の歌曲くらいなら、作曲家が自ら音楽として完成させることは可能でしょうが、それ以上の編成の場合は一人では無理です。物理的に。いや、自分で弾き語るのだって限界はあって、そもそも作曲者より演奏が上手い人はきっといるので、そういう人に任せた方がいいかも知れない。その意味で、クラシック音楽の作曲家は、現代に生きる人でも、自分で完結することはほぼ無理。まして既に物故者となった人の作品は、必ず第三者の介在を必要とする。ここはもう関係者全ての共通理解でしょう。その前提で皆演奏をし、聞いている。それは大きい意味での信頼関係であり、クラシック音楽に於いて、演奏の技術だけでなく解釈の妥当性が問われるのも、オーセンティシティが問われるのも、恐らく根底には「この演奏は常識としての役割分担上の信頼関係を担保する気があるのか?」という感覚があるのではないかと思います。

 オペラの場合、この信頼関係がかなり歪んでいるきらいはあります。実は昔から、クラシック音楽でも、「演奏上の音楽的理由」という名目で、演奏の都合上編集したりするケースはあります。シューベルトのピアノソナタなんか、「長過ぎる」という理由で繰り返し削られたり、なんてのは当たり前にあります。そんなことしてシューベルトが悲憤慷慨して世を儚んだりしたらどうするんだブレンデル!とか言っても、もう物故者だから誰も問題にしないのですが。オペラの場合は更に「演出上の新解釈」とか言って、全然違うストーリー、プロットにしてしまうなんてのが横行してます。正直言うと、私はあれはやはり勝手な改変だとは思っています。思っているけれど、オペラというシステムが風前の灯にある中で、如何にオペラを現代のものとして生かしていくか、という断末魔ののたうち回る様であると理解しているので、それもそれでやむを得ないのだとも思っています。言い換えれば、オペラがシステムとして生きていたことがない日本ではただの真似事なのだと思っているので、理解してるのかやってる方もみてる方も?とは思ってますけれども。
 ただ、いずれにせよ、クラシック音楽の場合は、演奏者がどのように解釈したとしても、「それは私の作品である」と言い出す人は殆どいません。「私が解釈したモーツァルトはこういうものだ」くらいまで言う人はたまにいますけれども、でも、「これはモーツァルトにインスパイアされた私の音楽だ」とか言い出す人は、まともな演奏家では、まぁ、いません。ポゴレリッチでもそこは言わないんじゃないかな。

 オペラの場合、しかし、ある種の演出家の中には、「これは私が解釈した「魔笛」だ」とか言い出す奴は、まぁいるようなので。誰とは言いませんけどね。でも、往々にしてそれは、結局のところ、「自分で何某かの作品を紡げばいいところ、オペラという枠を借りて、"誰もが知ってる「魔笛」という作品"に乗っかって、自分の言いたいことを喚いて悦に入っている勘違い野郎」でしかなかったりするのですよ。要するに他人の褌で相撲を取って、オリジナリティだのなんだのがあると勘違いする奴。そんなにオリジナリティあるっていうなら、手垢のついたオペラの演出なんてやらずに映画撮れよ、と思うんですけれどね。まぁ、確かに、モーツァルトもシカネーダーももう物故者だから、「権利のある人」として文句言う人はいない。卑怯だけど無害ではあります。
 とはいえ、これは、もう「元の作品」ではないんですね。ではオリジナルかというと、そうでもない。それは、作品としては、一種の批評に近い。言ってしまえば、たとえば私がこうやってブログで書いている、やれあれは良かったの悪かったのと勝手に論評するのと同レベルなんですよ。無論それだけではないでしょうけれどね。でも、オリジナリティというのを作品性の要素と考えるならば、そういうものは、むしろ批評なんです。或いは二次創作と言ってもいいかも知れない。コミケで売ってる同人誌と同じ。馬鹿にして言うのではないですよ。ただ、あそこに出品している人達の中でも、ちゃんと理解している人は、自分の薄い本がメジャーな作品のパロディだったりするならば、それが二次創作で、そこにオリジナリティはない、ということは理解している。決定的にオリジナリティがないんです。本編に出てこない言葉、出てこない行動、そういうものはあるかも知れないけれど、そもそも借り物の舞台の中でのものである以上、それ自体はやはり二次創作なのです。そこに独自性があるとすれば、それは、「自分はこの世界の中でこういう設定のこういう場面が見たかった」といったものなのです。ファン同士としてはそういうことで盛り上がる限りでは全く真っ当なんですけれどね。それをあたかも一次創作者のような顔をして「この世界はこうだ」的に言うのは、やっぱり違うだろ、とは思ってます。まぁ、オペラの場合、そういうタイプの演出が求められてしまっているからそういうのがでかい顔してしまう実情はあるので、仕方ないとは思いますけれども。

 クラシック音楽全般も、オペラもそうなのだけれど、結局それは「他人の作品」なんですよ。でも、じゃぁ、そこで演奏している人達は皆作品に従順な、オリジナリティが無いつまらない人達なのか、というと、それは断じて違います。「他人の作品」を理解し、共感することで初めて音楽として完成させる作業が出来る、ということだと思います。「他人の作品」を演ずるには、そうした態度と知性が不可欠なのだと思います。リスペクトなんて薄っぺらい術語ではなく、自らに根差した知性があるか、それに基づいた、作品に対して誠実な態度があるか、ということ。ヘブラーもグルダも、音楽としては異なるものに仕上がっていたとしても、この二人には、そして多くのクラシックの演奏者には、モーツァルトに対して、モーツァルトの作品に対して、その時代に対して、それぞれの知性に根差した理解と、彼らなりの誠実さがあるのです。だから、どちらの演奏も「あり」であり、モーツァルトに忠実なのです。自戒を込めて言うならば、受け取る側、つまり、聞く側も、それを理解することが求められるのだと思います。


 ここからいろいろ言えること、言いたいことというのもあるにはあるんですけれど、キリがないのでこのへんで。恐らくはシステムの中でマネタイズするための犠牲になったのであろう、少なくとも当人にとって誠実と思えるような演奏者を得られなかった不運な一次創作者の魂に慰めのあらんことを。





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最終更新日  2024年02月02日 03時24分27秒
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