ヴィーテ・イタリア高岡(Hiruccio)のイタリアワイン&主夫日記

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2008/02/07
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カテゴリ: 映画と読書

塩野七生ルネサンス著作集(3)

「コンスタンティノープル」「ロードス島攻防記」「レパント
の海戦」の地中海三部作につづいて、再び手に取ったのが
この本でした。


歴史的年表が全く頭に入っていない僕は、この激動期の
群雄割拠としたイタリアの都市国家群とその周りを
囲み始めたトルコ帝国やらフランス、スペインといった
巨大国家の台頭を整然と整理することはまだまだ不可能
です。


おぼろげながらでもイタリアを中心とした歴史が
徐々に頭の中で明確になってくることを望みながらも
目の前に繰り広げられるスペクタクル性豊かな歴史の
面白さをワクワクと楽しんでいるだけに過ぎないの
かもしれません。


チェーザレ・ボルジアとは、15世紀後半から16世紀に
かけて、父である法王アレッサンドロ6世の強力な
権力を背景に、当時忘れ去られていた概念としての国
「イタリア」に王国を打ち立てる野望を実現しようと
した法王領総司令官のこと。


ボルジアとは(イタリア語ではBorgia=ボルジャという
発音)、元々はスペインの南アラゴンのヴァレンシア
の豪族なんですね。


「ヴァレンシアの」という意味のイタリア語が
ヴァレンティーノ、つまりヴァレンチノの語源という
わけです。


ということは、ハリウッド映画黎明期のルドルフ・ヴァ
レンティノは、南イタリアからの移民ですが、彼の
ご先祖さんは、ヴァレンシア地方の人だったんでしょう。
南イタリアって、アラゴンが支配していましたから。


言葉をたどるとキリがありません(^^;)



最初に、ユリウス・カエサルという人がヨーロッパと
いう概念として地図上に線を引き(ゲルマンは
入ってませんけど)、その帝国なき後は、キリスト
教がその地盤を固める。


その教皇領の思惑と元々自己主張の強い権力のバランス
が存在していたからなのか、特にイタリアは群雄割拠の
戦国時代になる。


そこに現れたのが、同じカエサルという名前、
イタリア語でチェーザレという名の男。


「毒薬使いのボルジア」などといわれ、権謀術数の人で
あった彼は、マキャヴェッリの「君主論」著作を促した
ことでも知られているだけに、冷酷非道な極悪人の
イメージが強かったそうですが、塩野七生さんの筆は
そういう彼の人間性を否定することも肯定することも
避け、徹底的に「行動の軌跡」を描いています。


その中でも、「うわ~、力籠もってんなあ」と思わせた
部分がレオナルド・ダ・ヴィンチとの邂逅の章でした。


『歴史上、これほどに才能の違う天才が行き会い、
 互いの才能を生かして協力する例は、なかなか
 見出せるものではない。

 レオナルドは思考の巨人であり、チェーザレは
 行動の天才である。

 レオナルドが、現実の彼岸を悠々と歩む型の
 人間であるのに反して、チェーザレは、現実の
 河に馬を昂然と乗り入れる型の人間である。

 ただこの二人には、その精神の根底において
 共通したものがあった。

 自負心である。

 彼らは、自己の感覚に合わないものは、そして
 自己が必要としないものは絶対に受け入れない。

 この自己を絶対視する精神は、完全な自由に
 通ずる。宗教からも、倫理道徳からも、彼らは
 自由である。

 ただ、窮極的にはニヒリズムに通ずるこの
 精神を、その極限で維持し、しかも、積極的
 にそれを生きていくためには、強烈な意志の
 力を持たなければならない。

 二人にはそれがあった。  』


 『レオナルドとチェーザレ。この二人は
 互いの才能に、互いの欲するものを見たのである。

 完全な利害の一致であった。ここには芸術家を
 保護するなどという、パトロン対芸術家の
 関係は存在しない。

 互いの間に、相手を通じて自分自身の理想を
 実現するという、冷厳な目的のみが存在する
 だけである。

 保護や援助などに比べて、また与えるという
 甘い思いあがりなどに比べて、どれほど
 誠実で美しいことか。 

 このよう関係では、互いに自己の目的を
 明確にする者の間にのみ存在する、相手に
 対する、真摯な尊重の気持ちが生まれてくる。

 二十六歳のチェーザレも、そして五十歳を
 迎えていたレオナルドも、互い相手に対して
 真摯であった。 』


マキャヴェッリが多く登場する後半の章にも行間
からにじみ出る迫力ある文章に出会いました。


 『 しかし、イタリアの統一は、チェーザレに
 とっては使命感からくる悲願ではない。

 あくまで彼にとっては、野望である。

 チェーザレは、使命感などという、弱者にとっての
 武器、というより拠り所を必要としない男で
 あった。

 マキャヴェッリの理想は、チェーザレのこの
 野望と一致したのである。

 人々のやたらと口にする使命感を、人間の本性に
 向けられた鋭い現実的直視から信じなかった
 マキャヴェッリは、使命感よりもいっそう信頼
 できるものとして、人間の野望を信じたのである』


ミッションという言葉をよく聞く昨今の世の中ですが
それよりも野望を信じるというのは分かるような気が
します。

大いなる野望がない時代だからこそ、あれだけの
『美』が完成した時代ということもできるだろうし
野望という『愚かな徳』がない時代は、さもしく
安っぽく、こじんまりとして、平和なんですね。



チェーザレ(1)





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Last updated  2008/02/14 03:48:07 PM
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