1
王子駅から尾久方面に少し歩いていくとある東北本線2か所目の踏切です。住宅地のはずれにあり、交通量は比較的多いです。写真上の高架線は東北新幹線です。反対側から。踏切名は付近の地名が由来ですが、所在地は「北区栄町」で「北区王子」ではありません。「第一」は欠番となっています。尾久方を見ます。赤羽方を見ます。この踏切を通るのは東北本線(宇都宮線)と高崎線の中距離列車のみで、京浜東北線は写真奥の土手を走っています。この先で京浜東北線と合流します。第二王子踏切 9K564M所在地:東京都北区栄町撮影日:15.03.11
2015.07.29
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下土狩駅の長泉なめり方に隣接している踏切です。御殿場線の本線と駅構内の側線が通っており、踏切部分は複線となっています。周辺は新しい住宅が立ち並んでいますが、手前の藍壺踏切の利用が多いためこの踏切は人通りが少ないです。踏切名の由来は不明です。小字でしょうか?踏切から下土狩駅を見ます。左側が御殿場線の本線、右側が側線です。側線は使用されていないようで、本線との差が歴然としています。御殿場線が東海道本線の一部だったころ、下土狩駅は「三島駅」を名乗っていました。そのため、駅構内はかなり広く側線などが何本も存在しています。また、「三島駅」時代は駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道駿豆線)が分岐していました。長泉なめり方を見ます。側線は踏切の先で途切れていますが、用地は東海道本線時代の複線分確保されています。この側線は東海道本線時代の上り線なのではないかと思います。間踏切 55K392M所在地:静岡県駿東郡長泉町下土狩撮影日:13.02.21
2013.03.22
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今回は、静岡地区の211系の中でも異端的な存在となっている6000番台を含む2両編成(GG編成)を掲載します。211系6000番台は、同時期に製造されていた213系5000番台と同様に1M方式を採用した211系で、クモハ+クハの2両編成を組んでいます。元々は御殿場線用として導入されましたが、ロングシートでトイレなしという仕様がローカル運用には不向きであったことから、東海道本線の増結用編成として使用されることが多くなりました。現在でも主に東海道本線で211系3両編成や313系と連結して運用され、2両編成単独での運用はほとんど存在していません。沼津駅で撮影したGG1編成です。編成は(クモハ211-6001・クハ210-5049)です。1990年に製造された6000番台のトップナンバーを含む編成です。クハ210については5000番台の続番となっています。熱海駅で撮影したGG2編成です。編成は(クモハ211-6002・クハ210-5050)です。熱海駅で撮影したGG6編成です。編成は(クモハ211-6006・クハ210-5054)です。上の写真のように、211系の3両編成と併結する運用は多くなっています。熱海駅、沼津駅で撮影したGG8編成です。編成は(クモハ211-6008・クハ210-5056)です。GG編成の車内です。車内設備については、ほかの5000番台と大差はありません。GG編成は211系5000番台の中で最終期に製造された車両のため、貫通扉がほかの5000番台よりも大きな窓を備えたタイプとなっています。各編成の車番プレートです。製造メーカーによってフォントが若干異なっています。(GG2編成→東急車輛、GG6編成→日立製作所、GG8編成→近畿車輌)
2022.02.05
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伊豆箱根鉄道大雄山線で活躍している5000系電車の写真を掲載していきます。5000系は、伊豆箱根鉄道駿豆線用の3000系をベースに、1984年~1996年にかけて大雄山線専用に設計・製造された18m車体、3両編成の車両です。それまで使用されていた旧型電車をすべて置き換え、現在に至るまで大雄山線の主力車両として活躍が続いています。5000系は比較的地味な存在と思っていましたが、製造年次によって仕様が異なる面もあり、面白いと思いました。全部で7編成が存在しています。大雄山駅で並ぶ5000系第6編成(5011+5012+5506)と第1編成(5001+5002+5501)です。第1編成は5000系唯一の鋼製車体となっています。それ以降の車両はすべてステンレス車体なので、異彩を放つ存在です。現在、第1編成はこのカラーリングではなく、旧塗色に変更されています。こちらは第5編成です。(5009+5010+5505)この編成は中間車のみが転換クロスシートを装備するという特徴的な編成です。第1編成~第5編成の先頭車の行先表示器は、「大雄山」「小田原」の表示を後ろから照らすのみというシンプルな方式です。区間運転のない大雄山線ならではの仕様ですね。第5編成は、側面の行先表示器はLED式です。第5編成中間車の転換クロスシートです。転換クロスシートを装備する車両は、関東では少数派なので新鮮に感じます。第6編成です。(5011+5012+5506)この編成は全車が転換クロスシート装備で、前面の行先表示器もLED式となっています。また、スカートもついてより凛とした表情になっています。第6編成の車内です。第5編成のものとはシートの形状が異なっていて、こちらのほうが高級感を感じさせます。(つづく)
2017.05.21
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先述の「農場踏切」から1km離れた場所にある踏切です。国道409号の裏道にあたる道が交差している踏切で、混雑する国道を避けるため多くの車が通行しています。踏切名は交差する道が富里市七栄に通じていることが由来です。この道は現在は県道ではありませんが、かつては県道だったようです。銘板は2種類設置されていて、古いほうの銘板の踏切番号が「NO.20」となっているのでここまでで10ヶ所以上の踏切が廃止されていることがわかります。七栄県道踏切 10K519M 幅員7.1M(7.0M)所在地:千葉県成田市並木町
2017.01.07
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新京成電鉄の主力車両となっている8800形を掲載します。8800形は、新京成で初めて(関東地方の私鉄でも初めて)VVVFインバーター制御を本格採用した形式として1986年に登場しました。当初はすべて8両編成でしたが、京成千葉線への乗り入れをきっかけに2006年から6両編成に短縮される編成が登場しました。さらに2011年以降は新京成線全体が6両化されることになったため、中間車から先頭車に改造される車両が登場し、2014年にはすべての編成が6両編成になりました。また、2014年8月からは新京成のコーポレートカラーである「ジェントルピンク」を採用した新塗装に変更となり、2018年に全編成の塗り替えが完了しました。さらに2017年からは車内をリニューアルした車両も登場しており、ますます注目度は高まっています。8800形の中で最初に6両編成化された8801編成です。8800形の6両編成は、「8801-1~8801-6」というような附番方法をとっています。新京成でこういった附番方法になっているのは、8800形のみです。ちなみに、8両編成時代は第1編成が「8801~8808」、第2編成が「8809~8816」というような附番方法でした。8801編成と同時期に6両編成化された8803編成です。この編成は行先表示器がフルカラーLEDに交換されており、現在は車内のリニューアルも施されています。2007年に6両編成化された8804編成です。この編成は中間車から先頭車へ改造された車両を組み込む編成です。8800形はラッピング車となることも多く、8803編成(2019年度)が「千葉ロッテマリーンズ」、8804編成(2018年度)が「千葉ジェッツふなばし」のラッピングを施されていました。2011年に6両編成化された8805・8806編成です。8804編成の車内です。8800形の大半の車両が、京成3000形や新京成N800形と同型のステンレス製の側面ドアに交換されています。8801・8805編成は側面ドアの交換がされておらず、製造当初からの内側に化粧板が付くタイプとなっています。
2020.10.17
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「その3」では、小湊鉄道のキハ40の車内を見ていきます。キハ40 1(旧・キハ40 2021)の車内です。JR化直後に混雑対策で一部ロングシート化と1+2列のシート配置となり、1人がけシートの上部には吊革が設けられています。小湊鉄道でもこの座席配置のまま使用されています。クロスシート部分です。1人がけのシートはコンパクトにまとまっています。ロングシート部分です。すぐわきには出入口があり、整理券発行機を撤去した跡があります。車番プレートと製造・改造銘板です。キハ40 2(旧・キハ40 2026)の車内です。こちらは2+2列のシート配置で、一部ロングシート化されています。クロスシート部分です。車番プレートと製造・改造銘板です。キハ40 2(旧・キハ40 2018)の車内です。キハ40 2と同じく2+2列のシート配置で、一部ロングシート化されています。座席モケットの色が1・2では茶色でしたが、この車両はグレーです。クロスシート部分です。車番プレートです。
2022.08.07
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内房線最初の踏切です。この踏切は複線の内房線と、単線の京葉臨海鉄道が走っていて、渡る線路は3本あります。踏切の幅はこちらのほうが広くなっています。踏切名の「大網里道」は大網街道と同じ意味だと考えています。おそらく、外房線の踏切と紛らわしいためこの名前になっていると思われます。銘板は上の写真から切り取ったもので、ぼやけていて申し訳ありません。大網里道踏切 0K618M 幅員8.0M所在地:千葉県千葉市中央区今井・蘇我撮影日:10.08.17
2013.02.19
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久留里線と並行している国道409・410号(両国道の重複区間)が交差しています。このあたりは住宅も多いため交通量もかなり多くなっています。線路が道路と斜めに交差しているためか、屈折式の遮断機が4本設置されています。踏切名は、千葉市と城下町だった久留里を結ぶ「久留里街道」から取られています。久留里街道のルートは久留里線とほぼ並行しているため、このあとも「第○久留里街道踏切」が登場します。第一久留里街道踏切 3K131M 幅員6.5M所在地:千葉県木更津市祇園
2020.12.20
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水田と住宅地が一体となった場所にある踏切です。先述の「手前土堤踏切」よりも広い道と交差し、交通量も多いです。「落し」というユニークな踏切名が目を引きますが、由来はまったくわかりません。また、この踏切の銘板は「踏切道」という表記になっています。落し踏切 40K824M所在地:茨城県取手市清水
2021.10.24
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今回は、国鉄新性能電車の最初の形式となった101系の試作車、クモハ101-902を掲載します。101系は国鉄初の「新性能電車」として昭和32年(1957年)に登場しました。それまでは戦前以来の吊りかけ駆動方式が用いられてきましたが、競合する私鉄電車にカルダン駆動方式を用いた車両が1950年代に登場すると、国鉄でもこの方式を用いた電車の開発を急ピッチで進めました。そして、昭和32年(1957年)に「モハ90形」としてのちに101系となる最初の試作車が完成し、中央線快速(当時は中央線急行電車)に導入されました。101系は当時の国鉄電車では異例ともいえるオレンジ色(朱色1号)の塗装で登場し、追って導入された山手線や中央・総武緩行線では黄色、大阪環状線ではオレンジ色、関西本線ではウグイス色の塗装をまといました。これらのカラーは各線の「ラインカラー」として定着(山手線は1964年の103系登場時からウグイス色に変更)し、現在まで引き継がれています。外観でも戸袋窓を備え、両開きの扉が片側4か所にあるという国鉄通勤電車の標準的なスタイルを確立させ、以降の103系・201系などに思想が引き継がれただけでなく、片側4扉などは現在の通勤車両にも通じています。クモハ101-902の車内です。のちに登場する103系と基本的なスタイルは同じで、懐かしさを感じさせます。車端部は戸袋窓が残っています。ドアはいわゆる「塗りドア」(鋼製ドア)で、のちに一般的となったステンレス製ではありません。鋼製ドアは103系や113系、115系などの初期車でも見ることができました。天井には扇風機が設置され、そのカバーにはJNRマークがついていました。車内には昭和40年代ごろの国鉄の広告などが多く貼られていました。こういった掲示物を見ることができるのも楽しいですね。車内の車番表記です。プレートではなく、直書きされていました。製造銘板です。試作車は大井工場(現在のJR東日本東京総合車両センター)で製造され、廃車後も大井工場に保存展示されていました。101系が保存展示されていた場所には現在、209系の試作車である901系が保存展示されています。
2021.11.28
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今回は、0系新幹線電車のうち完全な形で保存されている21-2号車を掲載します。21-2号車は、東海道新幹線開業にあわせて昭和39年(1964年)7月に日本車輌製造東京支店で製造された0系の一次車です。当初はN2編成、のちのH2編成の先頭車として活躍し、昭和53年(1978年)に廃車された後は大阪府吹田市にある関西鉄道学園(現・JR西日本社員研修センター)で訓練・研修用車両となりました。研修用車両としての任を解かれたあとも保管されていましたが、平成20年(2008年)に鉄道博物館への展示が決まり、JR西日本からJR東日本へ譲渡されました。JR東日本では同車の復元を進め、平成21年(2009年)10月より新設の展示棟内で公開しています。この21-2号車は開業時の0系の雰囲気を良く残しています。連結器が格納されている前面の丸い部分は「光前頭」と呼ばれる半透明のアクリル製のものとなっており、これは0系の初期車にだけみられた特徴です。「光前頭」は高速走行中に異物との衝突などで割れやすかったことから、のちに廃止されており、鉄製の前頭部に変更されています。21-2号車の「光前頭」は、元々は旧・交通博物館に存在した0系のモックアップに装着されていたもののようです。側面の号車表示と行先表示です。初期車では電動の行先表示器は設置されておらず、行先板(サボ)による行先表示が採用されていました。当時の在来線特急車両と同様のステンレス切り貼り式の車番表記です。車番表記はJR化後も300系まで切り貼り式が採用されていましたが、500系からは車体に直書きされています。車内です。0系新幹線のシートは当初は転換クロスシートで、モケットはブルーとシルバーグレーのツートンカラーとなっていました。東海道新幹線開業時の様子を色濃く残しています。3列シートと2列シートです。一部のシートは実際に転換させることができます。0系の初期車の特徴だった非常口を開けるためのコックです。火災時などの避難用に車両の真ん中あたりに非常口が設置されていましたが後に廃止となり、設置していた車両も使用停止措置が取られ、一部は完全に埋め込まれました。洗面所です。当時の在来線特急車両と同じ形状の洗面器が設置されています。トイレは和式が採用されています。ステンレス製のユニット式トイレとなっており、当時は先進的だったと思われます。冷水器も設置されています。まだ水を購入するのが一般的でなかった時代、冷水器は新幹線開業時から乗客へのサービスとして設置され、喉を潤してきました。コップは新幹線用に開発された封筒型のものが採用されていました。製造を担当した日本車輌製造の銘板です。21-2号車の周囲には開業当時の東京駅ホームの再現がされています。当時の発車標や時刻表を再現したものもあり、開業時の雰囲気が良く出ています。開業当時のダイヤは現在のような過密ダイヤではなく、30分おきに「ひかり」(超特急)、「こだま」(特急)が発車するシンプルなものだったようです。
2022.02.12
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線路沿いに広がる工場地帯から海側の住宅地に抜ける踏切で、小さいですが交通量は比較的多いです。第二踏切と同様、所在地は「西間門」という地名です。ちなみに、第三踏切は欠番です。貨物駅への線路はここまで来ており、入換作業中のDE10型を見ることができました。沼津駅手前から貨物駅周辺までの複雑な配線はこの辺りでようやく終わり、以降は複線の本線のみとなります。第四間門踏切 127K964M所在地:静岡県沼津市西間門撮影日:13.06.01
2013.12.16
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塩崎駅の韮崎寄りに隣接する踏切。周辺は住宅地となっており、塩崎駅近くにあるガードが狭いこともあって車の通行がかなり多くなっています。大型車も通行するので歩行者にとっては危険な踏切です。踏切名は所在地の小字が由来です。塩崎方を見ます。この先が駅になります。韮崎方を見ます。山本踏切 141K437M 幅員7.0M所在地:山梨県甲斐市志田撮影日:14.04.12
2014.05.27
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今回から2回にわたり、鹿児島県内で活躍する415系500番台を掲載していきます。415系500番台は常磐線の混雑緩和を目的として1982年から製造されたオールロングシート車です。それまではすべての編成が常磐線で活躍してきましたが、1985年に開催されたつくば万博輸送が終了した1986年に5編成20両が九州地区に転属しました。現在、鹿児島地区で活躍する415系はこのときに九州に転属した車両が中心ですが、2008年にJR東日本から譲渡された1編成も存在しています。主に朝夕のラッシュ時に持ち前の収容力を生かして活躍しています。2016年に国分駅で撮影したFK514編成です。415系はステンレス車の1500番台しか見たことがなかったので、初めて鋼製車を見ることができて嬉しかったです。こちらは2017年に鹿児島中央駅で撮影したFK515編成です。カラーリングは九州地区のキハ40系などと同じ「九州色」ですが、常磐線時代のカラーリングも白地に青帯が入るものとなっていました。(常磐線の青帯のほうが色が濃くなっています。)車外の車番表記です。2017年に鹿児島中央駅で撮影したFK517編成です。夕方のラッシュ時には415系が多く運用され、通勤通学客の集中に対応しています。FK517編成の車内です。リニューアル工事などは施されておらず、内装はほぼ登場時のままとなっていますが、座席モケットは茶色のものに張り替えられています。車内の車番プレートです。オリジナルのアクリル製プレートが残っていました。(つづく)
2018.01.10
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大崎支線は、東海道本線の貨物線である品鶴線と、山手線に並行する山手貨物線とを短絡する目的で建設された貨物線です。当初は貨物列車の通過が多かったですが、2001年の「湘南新宿ライン」開業後は旅客列車が激増し、現在は湘南新宿ラインの列車が数多く走行しています。大崎支線は現在は大崎駅の構内扱いとなっているようで、正式な路線とはみなされていないものの、独自のキロ程(起点は品鶴線との分岐点となっている蛇窪信号場)があり線内には2か所の踏切があります。ここは大崎支線1番の踏切で、住宅密集地の道路と交差しています。周辺には「しながわ中央公園」もあり、人通りはかなり多いです。踏切名は「なえぎはら」と読み、このあたりの旧町名が由来です。苗木原踏切 0K740M所在地:東京都品川区西品川撮影日:16.07.10
2017.04.09
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国道50号から分岐する幹線道路が交差していて、交通量が非常に多くなっています。また踏切の幅もかなり広く取られています。この踏切は水戸線の直流電化区間で最後の踏切で、ここから小田林寄りに進んだ場所にデッドセクションがあります。踏切名は付近の地名「雨ヶ谷町」「雨ヶ谷新田」に由来していますが、ここからは離れています。雨ヶ谷踏切 1K910M 幅員16.0M所在地:栃木県小山市城東
2022.06.10
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18
中央本線で横須賀色の115系(豊田車両センター所属)とともに運用される長野色の115系(長野総合車両センター所属)。しかもこのC5編成は数少ない300番台のみで組成された編成です。車内は長野仕様のリニューアルがなされています。1000番台は車端部はロングシートとなっていますが、300番台はこの部分にもボックスシートが設置されています。車番プレートと製造、改造銘板です。リニューアルは平成13年に大宮工場で行われています。撮影日:12.07.01
2012.07.04
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下溝駅のすぐ近くにある小さな踏切です。幅が狭いため大型車の通行ができません。付近は古くからの住宅地で、この踏切は地元住民の利用があるのみです。踏切名は所在地の字が由来となっています。下溝駅方面を見ます。下溝駅は列車の行き違いができない駅です。架線が張られたあとも、非電化路線の雰囲気が漂います。横浜支社の踏切でよく見かける踏切銘板。キロ程のほか、所在地の住所が記載されています。中島第二踏切 23K377M 幅員2.1M所在地:神奈川県相模原市南区下溝撮影日:13.03.19
2013.04.18
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地下鉄博物館に展示されている、丸ノ内線の初代車両300形のトップナンバー、301号車を掲載します。1954年の丸ノ内線開業前の1953年に製造された車両で、国内で唯一残る300形として貴重な存在となっています。博物館に入るとすぐに見えてくる鮮やかな赤色の電車、それが301号車です。赤色の鮮やかな車体に白い帯が入り、銀色の波模様(サインウェーブ)が入るお洒落なデザインです。当時は非常に画期的で斬新なデザインで、初めて見た人は驚いたことでしょう。前照灯も点灯した状態で展示されており、まるで現役の車両のようです。300形、400形、500形の一部(569~645号車)では行先表示器の両脇に標識灯が設置されていました。当初、この標識灯は行先を示しており、青色(「池」のイメージ)が池袋行き、緑色(「お茶」のイメージ)が御茶ノ水行きとなっていました。標識灯は丸ノ内線の延長に伴って、のちに点灯が停止されています。車内です。特徴的なピンク色の壁面と、えんじ色の座席モケットが特徴的です。吊革は当初「リコ式」と呼ばれる、ばねを用いた跳ね上げ式のものが設置されていましたが、後年の更新工事に伴って丸型の通常のものに交換されています。運転台もピンク色に塗装されています。車内に複数設置された非常灯です。当時の丸ノ内線はポイント通過時に通電が一瞬停止しており、その際に点灯していました。1950~60年代の路線図も見ることができました。窓には「帝都高速度交通営団」のステッカーが残されていました。車番表記です。プレートではなく、壁面に直書きされていたようです。以前「ポッポの丘」で撮影した454号車も同様でした。製造銘板です。昭和28年(1953年)、汽車会社東京製作所で製造されています。
2020.03.04
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今回は、DD13形の奥に展示されているキハ11 25を掲載します。キハ11形は、液体変速機を初めて実用化して気動車の「総括制御」(複数の車両を一人の運転士が制御すること)を可能としたキハ10系のうち、トイレ付きの両運転台仕様車です。キハ10系は、まだ蒸気機関車が牽引する客車列車が多数を占めていた地方線区において「無煙化」を推し進め、その後に登場して普及することとなるキハ20系やキハ40系などの基本となった車両として、日本の気動車の歴史を語る上でも外せない車両です。非電化ローカル線では北海道から九州まで全国的に活躍し、路線の近代化をすすめました。しかし、非力なエンジンを搭載した関係で車体の軽量化を進めすぎたことや、客席が狭く乗り心地が悪かったことなど問題点も多く、キハ40系など後継車の登場で次第に廃車されたり地方私鉄などに譲渡されたりする車両が続出し、国鉄では1980年代にほぼ全廃されてしまいました。現在鉄道博物館に展示されているキハ11 25は、昭和31年(1956年)に東急車輛で製造され、真岡線(現・真岡鉄道真岡線)に導入されました。真岡線一筋で活躍し、国鉄での廃車後は茨城交通(鉄道部門は現・ひたちなか海浜鉄道)に譲渡され、同社の湊線で活躍しました。キハ10系としては最後まで活躍した車両で、平成16年(2004年)に引退しました。引退後は国鉄時代の姿に復元されて鉄道博物館で動態展示されることとなりましたが、のちに静態保存に改められています。側面窓は通称「バス窓」といわれる、上段を固定し下段を開閉可能としたタイプが採用されています。ドアは開けるときは手動、閉めるときは自動となる半自動式となっており、「このドアーは手であけてください」の表記があります。車番表記と所属表記です。真岡線時代の「水モウ」(水戸機関区真岡支区)となっています。ちなみに、真岡駅のひらがな表記は国鉄・JR時代「もうか」となっており、第三セクター化される際に「もおか」と改められました。
2022.08.20
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続いて、展示されている気動車を見ていきます。私は国鉄型気動車が大好きなので、最も見たかった展示です。先頭に立っているのはキハ56 23です。かつては日本全国で見られたキハ58系急行型気動車のうち、北海道用に防寒対策を徹底しているのがこのキハ56系(キハ56、キハ27、キロ26)です。本州向けのキハ58との違いは窓の大きさで、防寒対策のため小さな窓を採用し、さらに二重式になっています。このキハ56系は北海道の地域輸送改善のため、キハ58系グループの中で最も早く登場しました。キハ56は民営化後も活躍していましたが、2002年に全廃されてしまいました。このキハ56 23はかなり塗装もくたびれてきています。真ん中に連結されているグリーン車、キロ26 107は塗装工事中だったため外観を撮影しませんでした。こちらはキロ26の後ろに連結されるキハ27 11です。こちらは塗装が塗りなおされ、綺麗な外観になっています。キハ56と異なり、キハ27は1エンジン車となっています。キハ56 23の車内。本州向けのキハ58とは異なり、床が木製の板張りとなっているのが大きな特徴です。モケットは汚れていますが、車内の状態は比較的良いです。車内の車番表記と車外の製造銘板です。昭和36年(1961年)、新潟鐵工所(現・新潟トランシス)製です。外観を撮影しなかったキロ26 107の車内。キロ26は貴重な急行型のグリーン車です。本州向けのキロ28との違いは、普通車と同じく窓が小さいものを採用し、二重になっている点です。回転式のクロスシートが並び、快適さを演出しています。車内は何故か大型のディスプレイが設置されています。洗面室です。洗面台の形状がレトロで素敵です。キハ27 11の車内。キハ56と同様、青モケットのクロスシートが並びます。この後は急行型以外の気動車を見ていきます。(つづく)
2014.11.02
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八王子や橋本で横浜線の車両を撮影しました。横浜線には国鉄民営化直後の1988年より導入された205系が活躍中です。H28編成を除き、6ドア車も連結しています。JR東日本の発表によると、2014年度よりE233系が導入される予定で、205系の活躍も残りわずかとなります。(このレポートの写真は、2012年5月に撮影したものも含みます。)H1編成。横浜線の205系の中では最初期に導入されたクハ205-61の編成で、1988年製です。この編成からドアの窓ガラスが大きいものに変更となっています。車内の表記です。205系など国鉄型車両のプレートは盗難にあったりしているのかシールになっているものも多いですが、この車両はしっかりプレートがありました。こちらはH11編成。クハ205-71の編成です。橋本で撮影しました。クハ204-71の車内です。ドア部分の窓が大きいのがわかります。車内の表記です。こちらもプレートが残っています。H1編成のものより幅が少し大きいです。こちらはH25編成。クハ205-85の編成です。この編成の中間車であるモハ205・204-230とサハ205-145は大船工場製。大船工場のプレート。大船工場で製造された車両は少ないため貴重な存在です。相模線の車両などでは既になくなっていました。H25編成の6ドア車、サハ204-125の車内。真中にあるポールが特徴的で、通勤ラッシュに対応する構造です。シートの色が埼京線(元山手線)の0番台と異なり、211系(デビュー当時)などと同様のえんじ色です。(参考)埼京線用0番台(12.03.14 新宿駅)サハ204-7の車内です。シートの色は緑色で、一般的な205系と同様です。座席上の棚が0番台は茶色の樹脂製、100番台は金属製です。(横浜線では、元山手線のH27編成にこの0番台が連結されていますが、今回は撮影できませんでした。)車内の表記は、国鉄方式ではなくシール式でした。書体も209系などと同様。橋本駅で撮影したH25編成。こちらはH26編成。クハ205-136の編成で、元京浜東北線の205系です。京浜東北線にいた期間はわずか3年程度で、すでに横浜線での活躍期間のほうが大幅に上回っております。ちなみにこの編成のサハは205系0番台最後の新製車で、吊革がすべて三角形であるなど細部が異なっています。(今回は撮影できませんでした。)今回最後の紹介となる205系はH28編成。元京葉線、武蔵野線のクハ205-15の編成。京葉車両センターの前は山手線で活躍していました。この編成には6ドア車が連結されておらず、横浜線の中でも特徴的な編成の一つです。そして、製造が国鉄時代のため車内も微妙に異なります。ドア窓が小さく、座席上の棚も金網です。[おまけ]八王子駅に停車中のDE10 1554。205系H12編成と並びました。横浜線の205系は、まだまだ撮影できていない編成も多いのでこれからも撮影し続けていく予定です。
2012.08.13
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「その1」に引き続き、新京成電鉄8800形です。今回は車内のリニューアルが施されている編成を中心に掲載します。8802編成です。この編成は2019年にリニューアル工事が施されました。8807編成です。8800形の中で最初にリニューアル工事が施工された編成(2017年)となります。リニューアル工事が施された車両の車内です。床や側面の化粧板の張替え、座席モケットをピンク色+グレーのものに変更、吊革を三角形のものに変更、座席端部に仕切り板の設置などが行われ、見違えるようになりました。また、2018年に導入されたN800形N858編成も同じような内装となっています。ドア上には、このようなLCD式ディスプレイが千鳥配置で設置されています。リニューアル工事未施工車両の車内と比較すると、リニューアル工事が施された車両は車内が明るくなり、イメージが大幅に変わっていることがわかります。車内の車番プレートも、リニューアル工事施工車両ではステッカー式、未施工車両ではプレート式と、違いが見られます。
2020.10.23
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今回は、鉄道博物館の休憩や食事スペースとして開放されている車両のうち、455系を掲載します。※新型コロナウイルスの影響で、現在は利用が中止されています。白地に緑帯の「東北色」が印象的な455系です。鉄道博物館には同じ455系のクモハ455-1の展示がありますが、そちらが国鉄急行色で前面が原形をとどめているのに対して、この455系は民営化後に更新工事をうけているため、前面の形状が異なっています。この455系は仙台車両センターに所属していたS-4編成のクハ455-2+モハ454-4です。元々は東北本線系統の急行列車用として活躍し、1985年からは普通列車として東北本線・常磐線・仙山線などで活躍しました。ドア数が少ないことやデッキ付きでラッシュ時に使用しにくかったこともあり、701系やE721系などに置き換えられる形で2008年に引退しました。高崎線・川越線沿いの屋外に展示されており、電車内から見ることもできます。館内からは写真の撮りにくい場所にあり、このように木や周辺の構造物等にさえぎられてしまいます。クハ455-2とモハ455-4は、2両連結して展示されています。モハの車端部は、貫通路をアクリル板でふさいでいます。車外の製造銘板、改造銘板です。昭和40年(1965年)日本車輌製です。クロスシートが並ぶ車内は、更新工事を受けているため原形とは印象が異なっています。座席モケットはモハが青色、クハが緑色となっています。クロスシート部分です。バケットシート化されているのが特徴です。「ランチトレイン」になってから、車内でお弁当などを食べられるようにテーブルが設置されています。ラッシュ時に対応するため、一部がロングシート化されています。この部分に元々は吊革が設置されていましたが、現在は取り外されています。急行型電車の特徴だったデッキ部分です。洗面所もありました。洗面所もリニューアルされており、サーモスタット式温調ハンドル+自閉水栓(TOTO製と思われます)が取り付けられています。車内の車番プレートです。国鉄書体とは異なる書体のものが取り付けられていました。
2022.07.09
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鉄道博物館の「キッズプラザ」内に展示されている、103系のクハ103-713を掲載します。この103系は、保存車両としては唯一の高運転台車です。103系は国鉄を代表する通勤車両で、日本の電車としては最大の製造数となる3447両(改造車などを含めると3503両)もの車両が製造されました。首都圏・関西圏を中心に幅広い路線で活躍し、各線の通勤輸送を担いました。ここに展示されているクハ103-713は昭和52年(1977年)に近畿車輌で製造され、当初は京浜東北線、後に京葉線で活躍しました。2005年に廃車された後に車体をカットされて鉄道博物館に入りました。当初は京葉線時代のままスカイブルー色でしたが、現在は公募によって決められた103系に塗られたカラーをあしらった水玉模様のカラーリングとなっています。正面から眺めます。京葉線時代の「302」の編成札が付いたままになっています。車内です。吊革が三角形に変更されている以外、製造時の面影を良く残しています。天井には扇風機も残されています。ドア上には中央線の路線図が掲示されていました。車内の車番ステッカーです。
2022.08.28
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あけましておめでとうございます。2023年も「わさびくま日記」をよろしくお願いいたします。新年最初の記事は、真岡鉄道の「SLもおか」に使用されているC12形と50系客車を取り上げます。真岡鉄道では1994年からSL列車「SLもおか」の運行を行っています。「SLもおか」は臨時快速列車として土日祝日を中心に運行され、2022年6月には累計乗客数が100万人に達した人気の列車となっています。1994年の運行開始当初はC12 66号機のみが運行されていましたが、1998年には予備機としてC11 325号機が導入されました。2機体制となってからは重連運転やプッシュプル運転などが行われ、人気を集めていました。しかし、SL2機を維持するために莫大なコストがかかっていたこともあり、C11は2019年をもって東武鉄道に売却されることとなりました。これ以降はC12の1機体制になって現在に至ります。現在「SLもおか」で活躍するC12 66号機は1933年(昭和8年)に日立製作所で製造され、鹿児島県や東北地方、長野県、福島県などで活躍したのちに1972年から福島県内で静態保存されていました。観光列車用のSLを探していた真岡鉄道がこの車両に着目し、1993年よりJR東日本大宮工場で復元作業がスタートしました。1994年3月より真岡鉄道で営業運転を開始しています。JR東日本乗り入れ用のATSも装備されていることから水戸線などで営業運転されたこともあります。C12 66号機のナンバープレートと製造銘板です。製造銘板は簡略化された小型のものが取り付けられています。現在、営業運転に使用されているC12形はこの66号機が唯一となっています。茂木駅で撮影したC12 66です。「SLもおか」に使用されている50系客車です。50系客車の元々のカラーは赤色ですが、SL列車のイメージに合わせ旧型客車と同じぶどう色に赤帯というカラーとなっています。オハ50が2両、車掌室付きのオハフ50が1両の、計3両が活躍しています。50系は地方路線で使用されていた旧型客車を置き換えるための新型客車として1977~1982年(昭和52~57年)にかけて製造されましたが、1987年の国鉄の民営化前後に気動車や電車への置き換えが急速に進んだため、製造から5年~10年前後で廃車された車両も非常に多くなっています。残った車両も観光列車などに改造されたものが多いため、原形のまま運用に就いている50系はこの3両しかなく非常に貴重な存在です。オハ50 11(旧・オハ50 2198)です。オハ50 22(旧・オハ50 2039)です。オハフ50 33(旧・オハフ50 2054)です。3両の50系はいずれもJR東日本上沼垂運転区に所属し、主に羽越本線などで活躍していた車両でした。元車番の2000番台は、寒冷地用に電気暖房を設置している車両となっています。50系の車内です。座席モケットが交換されている以外大きな改造は施されておらず、ほぼ原形のままとなっています。近郊型電車と同じボックスシートが並びます。50系はそれまでの客車と異なり、地方での通勤通学輸送を考慮して設計されたためデッキ付近にはロングシート部分があります。車番プレートです。改番が行われているためオリジナルのものとは異なっています。製造を担当した新潟鐵工所(現・新潟トランシス)の銘板です。地元を走る車両を地元のメーカーで生産した良い例といえます。
2023.01.07
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尾久車両センターに隣接する場所にある踏切です。この踏切は尾久駅から歩いて行けますが、上中里駅からのほうが近いです。東北本線最初の踏切で、住宅や商店などが密集している場所にあります。車は少ないですが歩行者が意外に多かったです。踏切名は付近一帯の地名が由来です。尾久方を見ます。尾久車両センターの広い構内を見ることができます。赤羽方を見ます。右側2本が東北本線列車線、左側は尾久車両センターへの引き込み線です。梶原踏切 9K077M 幅員6.0M所在地:東京都北区上中里撮影日:15.03.11
2015.07.27
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田端駅と尾久駅の中間地点にある回送線の踏切です。田端機関区(田端運転所)と尾久車両センターをつなぐ回送線が道路と交差する場所にあります。周辺は鉄道施設が広がっていて、機関区に所属する機関車を踏切から見ることができます。反対側から。線路は道路を斜めに横切っています。踏切名は交差する道が古くから「王子街道」(王子道)と呼ばれていたこと、「南亘り」は、線路が尾久方面から南に横切っていくことが由来であると思われます。交差する道は王子までつながっています。田端機関区方を見ます。尾久車両センター方を見ます。付近にあった道標です。「右 □阿弥陀 西新井弘法大師道」「左 王子道」と記載されています。古くから存在する古道のようで、当踏切が交差する道はこの「王子道」にあたります。王子街道南亘り踏切 7K644M所在地:東京都北区東田端撮影日:14.11.25
2015.03.05
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富士宮駅の西側に隣接している踏切です。先述の「黒田踏切」同様、富士宮の市街地にあって県道414号(旧国道139号)と接続する道路が交差しています。さらに、付近には「イオンモール富士宮」があるため終日にわたって交通量が多く、混雑しています。2012年に富士宮~西富士宮間が高架化されましたが、駅自体は高架化されなかったためこの踏切もそのまま残ってしまいました。スムーズな交通のためにはこの踏切と手前の「黒田踏切」を高架化したほうがよい気がしますが、駅の高架化が必要になり莫大な費用がかかるためか、これ以上の高架化は行われないようです。踏切名は「イオンモール富士宮」の場所に存在した紡績工場「オーミケンシ富士宮工場」の前身である、「日本ペニー紡績大宮工場」が由来となっています。工場がなくなっても、踏切名だけは「日本ペニー紡績」の記憶をしっかりと受け継いでいます。富士宮方を見ます。左に見えるのは臨時列車用のホーム(1番線)で、奥に見える2、3番線に通常の列車は入ります。西富士宮方を見ます。この先が2012年に高架化された区間となります。ちなみに、複線区間は富士宮駅までで終わり、ここから甲府まで単線区間が続きます。ペニー紡績踏切 10K464M所在地:静岡県富士宮市中央町・大宮町撮影日:15.12.20
2016.02.08
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新京成電鉄で現在最古の系列となっている、8000形を掲載します。8000形は京成3500形をベースに、通称「タヌキ」と呼ばれる独特なデザインの車体で1978年に登場し、その後1985年まで増備が進められ、新京成の主力車両となりました。しかし、N800形など新車が続々と登場したことで8000形は置き換えられることなり、2011年から廃車が始まりました。2019年現在では6両編成2本のみが残っている状態でしたが、2020年1月には唯一ジェントルピンクの現行カラーになっていた8518編成が80000形に置き換えられて運用離脱し、現在はクリーム色に茶色帯のリバイバルカラーとなった8512編成のみが残っている状態です。新津田沼駅で撮影した8512編成です。この編成は新京成全体で唯一のクリーム色に茶色帯のカラーリングとなっています。また、2020年1月以降は唯一の8000形でもあります。8000形は、前面の大きな2枚窓に窓周りの大きな縁取り、丸いライト、側面の2段窓など、特徴が非常に多い車両です。京成津田沼駅で撮影した、ジェントルピンクカラーをまとう8518編成です。8800形と同じく、白地に下部をピンク色としたデザインとなっていますが、前面の縁取りの部分は8512編成よりも濃い茶色となっています。松戸駅で撮影した8518編成です。この編成は2020年1月まで残りましたが、残念ながら現在は廃車となってしまいました。側面の方向幕です。8518編成は廃車が見込まれていたためか、最後まで駅ナンバリングのない旧式の幕を装備していました。8512編成の車内です。新京成の車両で標準的な赤色の座席モケットや、ドア脇の鏡などが特徴的です。新京成の現役車両では唯一、天井には扇風機が設置されています。東芝製で、「傘マーク」と呼ばれる旧ロゴが残っています。車内の車番プレートです。
2020.02.06
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今回は、真岡線の普通列車で活躍する気動車、モオカ14形を取りあげます。モオカ14形は開業時から活躍していたモオカ63形の老朽化に伴い、2002年(平成14年)~2006年(平成18年)にかけて9両が導入されました。それまでのモオカ63形は、第3セクター鉄道向けにバス用の部品やエンジンなどを使用した「LE-Car」というシリーズのひとつで、従来型の気動車よりも小型でラッシュ時には輸送力を欠くという問題点がありました。モオカ14形は大型化したことで輸送力の向上を図っています。折本駅で撮影したモオカ14-1です。2002年に導入された初期型の1・2は富士重工業製で、同社の鉄道車両事業最終期に製造された気動車のひとつです。この2両のみセミクロスシート車となっており、前照灯の位置などが3以降と異なっています。茂木駅で撮影したモオカ14-4、モオカ14-8です。2003年以降に導入された2次車にあたる3~9は日本車輌製造製で、オールロングシート車となっています。前照灯の位置が左右の窓上に移動し、貫通扉上部には「ワンマン」を表示しています。このモオカ14形の2次車は、同じ日本車輌製で2007年に導入された松浦鉄道のMR-600形のベースとなっています。真岡駅で撮影したモオカ14-8です。真岡駅構内には車両基地があり、多くのモオカ14形が見られます。
2023.01.14
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栄町と印西市との境にある、長門川近くの踏切です。ここから印西市に入ります。県道12号が交差し、狭いですが交通量が多いです。踏切名は「ふるはた」と読み、このあたりの小字が由来です。また、所在地は「安食卜杭」(あじきぼっくい)と読み、踏切名(小字名)・所在地の地名ともに難読地名となっています。古圃踏切に隣接する、成田線長門川橋梁です。橋脚部分は石と煉瓦で作られた歴史を感じる橋梁です。古圃踏切 23K901M 幅員4.0M所在地:千葉県印西市安食卜杭撮影日:17.10.30
2018.04.20
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非常に小さな踏切です。幅は1M程度と非常に狭く、人以外の通行は困難です。この先には通称「興津不動尊」と呼ばれる浪切不動尊があり、そこへの参道となっています。踏切名もそこから取られています。ちなみに、不動尊は先述の「耀海寺」の敷地内にあります。不動尊踏切 164K927M所在地:静岡県静岡市清水区興津本町撮影日:16.01.09
2016.05.08
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河口湖駅に隣接した場所にある踏切です。周辺は住宅地で交差する道路は比較的広く、交通量はそこそこあります。踏切名は河口湖駅の構内にあることが由来と思われます。富士急ハイランド方を見ます。単線の線路が駅に向け3本に分岐しています。河口湖方を見ます。奥に河口湖駅のホームが見え、周辺には電車の留置線もあります。河口湖第一踏切(キロ程不明)所在地:山梨県南都留郡富士河口湖町船津撮影日:15.11.05
2016.07.29
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国道126号の陸橋の下にある小さな踏切です。写真奥には住宅地が広がっているものの、周辺は昼でも薄暗いので人気はほとんどありません。踏切も国道から見えない、目立たない場所にあります。踏切名は所在地の地名が由来です。田間踏切 7K167M 幅員3.5M所在地:千葉県東金市田間撮影日:16.06.12
2016.10.24
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今回は、九州地方(鹿児島県・宮崎県)の国鉄型駅名標を掲載していきます。九州地方では国鉄型駅名標が数多く残されていて、特にローカル線ではレトロな駅舎とともに雰囲気を盛り上げています。九州地方に残る国鉄型駅名標は、現代的なゴシック体を使用したものも多くありますが、中には国鉄時代の標準書体だった「スミ丸ゴシック」書体を使用している駅名標を使い続けている例もあり、非常に好感が持てます。指宿枕崎線二月田駅の電照式駅名標です。「スミ丸ゴシック」書体を使用したもので、おそらく国鉄時代から使用し続けているものだと思われます。この書体自体はJR東海の駅名標などで使用されているため、東海管内では一般的に見ることができますが、黒文字と黒い線のみで構成されるタイプのものは貴重な存在です。肥薩線嘉例川駅の電照式駅名標です。肥薩線は国鉄型の駅名標を良く見かけることができる路線でした。嘉例川駅は登録有形文化財に指定された開業時からの木造駅舎が残る駅で、その駅舎の壁面に取り付けられています。書体が現代的な太いゴシック体なのがちょっと残念です。肥薩線大隅横川駅の電照式駅名標です。先述の嘉例川駅同様、開業時からの木造駅舎が残り、その駅舎の壁面に取り付けられています。嘉例川駅のものより細いゴシック体を使用しています。この書体を使用した国鉄型の駅名標はJR九州管内では多数見ることができます。肥薩線栗野駅の電照式駅名標です。大隅横川駅と同様な書体を使用しています。肥薩線真幸駅の電照式駅名標です。こちらは国鉄書体の「スミ丸ゴシック」書体を改良した「JNR-L書体」を使用した珍しいものです。「JNR-L書体」は名所案内や乗場案内などで使用されていることが多く、駅名標に使用されている例は少ないと思われます。ちなみに、東北新幹線の開業時に設置された駅名標はすべて「JNR-L書体」を使用していたようです。
2017.12.15
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小山駅では水戸線のほか、両毛線も少し撮影できました。まず見かけたのは107系100番台。今回のダイヤ改正で引退した日光線の107系0番台と異なり、この100番台はまだまだ活躍を続けてくれそうです。4両編成で、前2両は100番台トップナンバーのR1編成でした。回送車のため、車内の撮影はできませんでした。後2両はR9編成。逆光でかなり光ってしまいました……続いてやってきたのは湘南色の115系1000番台。湘南色115系の撮影は初めてで、かなり興奮しました。以前は身延線や御殿場線でも活躍していた湘南色の115系ですが、現在は北関東エリアと岡山エリアのみの活躍となっているようです。4両のT1145編成です。高崎車両センターの115系は、編成番号がモハ114の車両番号に合わせられているようです。両毛線のホームは高架下にあるため、どことなく重厚な雰囲気が漂います。車内も撮影。非リニューアル車で中央線で活躍する長野色の1000番台と大差はないようです。かつて房総地区の113系でも見られた、ドア上部の広告枠が使用されているのはうれしい限り。撮影日:13.03.06
2013.03.27
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天神踏切から100Mほど片浜方にある踏切。こちらも自動車の通れない小さな踏切です。6月の探索はここまでで、これより先の踏切は未調査です。踏切名は所在地の地名が由来となっています。第一松長踏切 129K521M所在地:静岡県沼津市松長撮影日:13.06.01
2013.12.30
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今年1月7日に引退した485系ジョイフルトレイン「NO.DO.KA」を以前、小山駅に行った時に偶然撮影していました。「NO.DO.KA」は新潟車両センターに所属していたカーペット車両で、主に団体・臨時列車で活躍していました。189系のグリーン車の改造扱いですが、車体は新規に製造されており、機器類は485系のものを流用したことから485系の一員となっていました。1990年の登場当初は「シルフィード」という名称でした。1号車のクハ484-701です。1986年に登場した「パノラマエクスプレスアルプス」と同様に、先頭車の前方は展望室となっており、特徴的なデザインの車体です。2号車のモハ484-701です。この車両には「NO.DO.KA」のロゴが描かれており、寒冷地を走るため115系1000番台のようなルーバー(雪切室)が側面に設置されています。3号車のクモハ485-701です。こちらも前方には展望室が設けられています。国鉄末期~JR初期に登場したジョイフルトレインの中でも長期にわたって運用された「NO.DO.KA」ですが、ついに引退してしまいました。貴重な車両を見ることができてよかったです。
2018.01.26
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軍畑駅周辺に広がる集落の中にある小さな踏切。幅は狭いため車の通行ができず、おそらく周辺住民のみが利用していると思われます。反対側から。このあたりは標高が高く、坂道がいたるところに存在しています。踏切名は付近にある寺院「東光寺」が由来です。東光寺踏切 24K689M 幅員1.8M所在地:東京都青梅市沢井撮影日:14.05.03
2014.07.09
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武蔵白石駅の安善駅寄りに隣接している踏切です。その名の通り、日本鋳造の専用踏切となっていて一般客は立ち入れません。写真は敷地外から撮影しています。この踏切は鶴見線本線では唯一の第4種踏切です。普段は門が閉まっており、出勤・退勤時間など通行のある時だけ利用されるようです。武蔵白石駅から踏切を眺めます。上の写真は本線側、下の写真は貨物線と踏切直前で本線から分岐する大川支線です。銘板がないためキロ程、幅員は不明です。日本鋳造踏切(キロ程、幅員不明)所在地:神奈川県川崎市川崎区白石町撮影日:15.02.11
2015.05.26
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2013年6月に訪れた沼津駅。ここで見られる車両は以前紹介しましたが、車両の他に注目すべきなのがホームのたたずまいです。大正時代ごろから変わっていないものといわれ、大幹線の主要駅としての風格を感じさせるものとなっています。長大なホームには木造の屋根が設置されており、モダンな雰囲気を醸し出します。日中やってくるのは短編成の列車が多いため、現状では大部分を持て余しています。列車が停車するホーム中央部には目新しい電光表示機や自販機が設置されています。1番線、2番線ホームを見ます。時代に合わせてホームのかさ上げが行われてきたことがよくわかります。こちらにも木造の屋根があります。ホーム上には立ち食いそば屋があります。こうした光景も、近年では見られなくなってきています。ホームをつなぐ地下通路です。コンクリートの壁面部分には装飾が施されています。5番線、6番線ホームを見ます。こちらもいい雰囲気の屋根があります。沼津駅は現在高架化の計画があり、それが実現されるとこのホームは見られなくなってしまうものと思われます。駅舎は近代的ですが、こうしたレトロなホームが現在まで残っていることは素晴らしいことだと私は思います。撮影日:13.06.01
2013.12.20
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下吉田地区の街中にある大きな踏切です。通称「おひめ坂通り」と呼ばれる広い道路が交差していて交通量は周辺の踏切の中で最も多く、さらに踏切と交差点が一体化していて交差点は合計7差路にもなるためとても危険な踏切です。赤白模様の屈折式遮断機が4本設置されています。踏切名の「小舟山」はこの付近に昭和30年代ごろまで存在した小さな山の名前で、当時は富士吉田のシンボル的な存在だったそうです。しかし、山は中央道の建設工事のため崩されてしまい、現在は跡形も残っていません。この踏切名が小舟山の存在を現代に伝えているといえます。小舟山踏切(キロ程不明)所在地:山梨県富士吉田市下吉田撮影日:15.09.11
2016.01.04
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十島駅の稲子寄りに隣接している踏切です。十島地区の集落の生活道路が交差し、住民の利用が多いと思われます。踏切名は小字が由来です。「角川日本地名大辞典」の小字一覧では、「下谷戸」(読みは「しもがいと」)として掲載されています。ちなみに、この踏切はおそらく山梨県内最南端の踏切だと思います。稲子方を見ます。山に沿って線路は走っています。十島方を見ます。下外戸踏切 25K685M所在地:山梨県南巨摩郡南部町十島撮影日:15.12.20
2016.02.19
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カマド神社踏切から南御殿場寄りに進んだところにあります。こちらは「玄清寺」という寺院の敷地内を横切る踏切です。写真では普通の踏切に見えますが、手前には石碑などがあり玄清寺の参道の一部だったようです。踏切名は「寺踏切」と、とても簡潔なネーミングです。踏切の手前はこのようになっています。周囲が固められていますが、古い石碑などが残っています。寺踏切 38K045M所在地:静岡県御殿場市竈撮影日:16.01.16
2016.04.09
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千葉県横芝光町に2016年5月末まで存在したショッピングセンター、「サビア横芝」。1994年にスーパーマーケットの「いなげや」を核テナントとし、1階と2階に衣料品店や雑貨店などの専門店を入居させて開業したサビア横芝は、開店以来横芝光町や匝瑳市、山武市など広範囲から集客するこのエリアの商業の中心的な存在でした。そんなサビア横芝も、開店から22年が経過して老朽化が進んだことや、商業情勢の変化もあり2016年5月末をもって完全閉店することになりました。現在、ここで掲載する建物はすべて解体され、サビア横芝の跡地にはスーパーマーケットの「カスミ」が進出し、カスミ横芝光店を中心としたロードサイド型モールの「ピアシティ横芝光」となっています。ここでは、閉店間際の2016年5月に撮影した写真を掲載していきます。写真は吹き抜けがある正面入口です。ただし、この入口は駐車場から遠いためいなげや側の入口が事実上のメインエントランスでした。こちらは店舗裏手の入口です。この入口の脇には美容室があり、さらに奥には書店がありました。ちなみに、美容室は町内の別の場所で、書店は跡地に開業したカスミ横芝光店の敷地内で現在も営業中です。正面入口を入ると広大な吹き抜けとなっており、エスカレーターがありました。現在はイオンモールやアリオなどで同様の構造を持つショッピングセンターは多数ありますが、1994年当時は珍しい構造だったのではないでしょうか。1階エスカレーター下の店舗です。奥にはハンバーガーショップ「サンテオレ」がありました。撮影時は閉店間際だったこともあり、どの店舗でも閉店セールを実施していました。外側から見た「サンテオレ」です。かつて明治乳業(現・明治)が運営していたハンバーガーショップで、横浜市の日本大通り、能見台や戸塚、千葉県内では成東や茂原などにもありました。現在はほとんどの店舗が閉店しており、かなり貴重な存在となっています。事実上のメインエントランスだったいなげや側の入口です。すぐ脇にいなげやがあり、ここは終日にぎわっていました。いなげやは千葉県東部(東総・山武・長生エリア)では横芝店しかなかったこともあり、サビアの閉鎖後は東部から完全撤退しています。かつて蕎麦店があった場所です。それ以前はラーメンなど麺類を扱うお店で、遊びに来た鹿児島や大阪からの親戚と一緒に行ったことがありました。1階部分の店舗です。楽器店や玩具店などがありました。1階には横芝光町のサービスセンターも併設され、住民票などの取得が可能でした。「センターコート」と呼ばれていた中央部の吹き抜けです。ここでは抽選会などのイベントや地方産品の即売会などが行われていました。私は中学時代に吹奏楽部所属だったので、この場所で演奏したこともあります。エスカレーターの下には、山武エリア初の設置だった電子マネー対応の自動販売機も見えます。センターコートの2階部分にはマッサージチェアが置かれ、憩いの場となっていました。左奥のシートがかかっている場所には「パシオス」(衣料品店)がありましたが、一足早く閉店していました。2階の売り場は100均と衣料品が多かったです。こちらでも閉店セールを実施中で、100均と一部店舗を除いてピアシティには引き継がれませんでした。小規模ながらゲームコーナーもありました。雑貨などを扱うお店もありました。地元の子どもたちが多く来店していましたが、こちらもピアシティには引き継がれていません。末期はさみしい状態となっていたサビアですが、横芝光町や周辺地域のにぎわいの中核であったことは言うまでもありません。小規模ながら地域に密着したショッピングセンターの最後の姿を記録することができて本当に良かったです。※サビア横芝の建物のすべては、現在は解体されています。
2018.10.14
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県道141号が交差している踏切です。周辺は住宅が多く、付近に高校があるほか伊豆縦貫道の大場函南ICもあるため交通量は非常に多いです。撮影当時は踏切の拡幅工事が行われており、設置されたばかりのオーバーハング式警報機がよく目立っていました。踏切名は、交差する道が通じている函南町の地名(函南町上沢)が由来となっています。上沢踏切 5K362M所在地:静岡県三島市大場
2019.12.29
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佐原駅の香取駅寄りに隣接している踏切で、大型のオーバーハング式警報機が良く目立ちます。周辺は古くからの商店や公共施設などが集積する香取市の中心地ですが、観光客の多く訪れる歴史的な街並みからは少し離れた場所になります。踏切名は付近の小字(地区名)が由来となっています。東関戸踏切 27K085M 幅員8.7M所在地:千葉県香取市佐原イ
2020.05.09
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久留里線で2012年から活躍している、キハE130系を取り上げます。それまでは国鉄時代に製造されたキハ30・37・38が運行されていましたが老朽化が進んだこと、加えてワンマン運転を実施することとなったために新型車両として導入されました。久留里線は直接的に新車が導入された事例が少なく、おそらく1983年(昭和58年)のキハ37の新製配置以来の新車導入だったと思われます。久留里線に導入されたキハE130形は100番台となりました。先に水郡線に導入されていた0番台をベースに、通勤輸送に対応したオールロングシート仕様となりました。また、トイレは未設置で、屋根には衛星携帯電話用アンテナの設置などが行われています。写真は小櫃駅で撮影したトップナンバーのキハE130-101です。カラーリングはキハ37や38に施されていたカラーを継承する、緑・黄色・水色の3色となっています。久留里駅で撮影したキハE130-105です。ワンマン運転の開始から、単行(1両)で運行される列車が増加しています。大勢の観光客を乗せて久留里駅に到着したキハE130-106です。久留里線用のキハE130形100番台は10両が導入されました。久留里駅で撮影したキハE130-107です。車内はロングシートで、暖色系のモケットを採用しています。座席の間にはE233系と同様の手すりがあります。優先席のまわりは吊革や手すりを黄色くして目立たせるなど、バリアフリーにも配慮した設計となっています。車内の製造銘板と車番ステッカーです。100番台は全車が新潟トランシスで製造されました。
2021.06.11
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