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今回は、青梅鉄道公園に保存されている蒸気機関車のうち、大正時代に製造された8620形と9600形を掲載します。8620形のトップナンバーである8620号です。8620形は旅客列車にも貨物列車にも使用できる汎用性の高い国産蒸気機関車として1914年(大正3年)から製造開始され、主に東海道本線や東北本線などの幹線で活躍しました。昭和初期からは地方線区への転出が始まり、戦後は主に地方での貨物列車牽引や入換用に活躍し、国鉄での蒸気機関車の末期にあたる1960~1970年代まで残った車両もありました。現在でもJR九州に58654号機が残り、「SL人吉」などの観光列車として活躍していますが、SL人吉は2024年3月で運行を終了することがアナウンスされています。また、2020年には人気アニメ「鬼滅の刃 無限列車編」に登場する「無限列車」の牽引機関車のモデルになったといわれています。8620形のトップナンバーとなるこの車両は1914年(大正3年)に汽車製造で製造されました。ナンバープレートです。番号下部に「形式 8620」と刻印されています。9600形9608号です。9600形は国産初の貨物列車牽引用蒸気機関車で、1913年(大正2年)から製造開始されています。それまでの輸入蒸気機関車を参考にしながらも日本の路線状況を考慮した設計とされ、主に幹線での貨物列車牽引に活躍しました。後継の蒸気機関車と比較すると速度は劣るものの、強力な牽引力が評価されたため戦中は中国や樺太に送られた車両も存在し、戦後は主に石炭輸送列車の牽引機として北海道や九州で活躍しました。この9608号は、日本国内に現存する9600形のうち最も番号が若い車両となっています。1913年(大正2年)に川崎造船所(川崎重工業を経て現・川崎車両)で製造されました。ナンバープレートです。番号下部に「形式 9600」と刻印されています。
2024.02.04
2024年最初の記事になります。今年も、「わさびくま日記」をよろしくお願いします。今回から、2023年8月末で一時休園となった「青梅鉄道公園」に保存されている車両を掲載していきます。青梅鉄道公園は鉄道開業90周年記念事業の一環で、1962年に開園しました。園内には明治期から昭和期までの蒸気機関車をはじめ、電気機関車や電車などの展示もあります。2023年には鉄道開業150周年記念事業の一環として青梅鉄道公園のリニューアルをすることになり、同年8月末から2025年度末まで休園中となっています。休園直前となる2023年8月にここを訪れ、保存車両の撮影を行いました。「その1」では明治期に日本に導入された蒸気機関車を掲載します。鉄道開業から明治時代末期まで、イギリスやアメリカなどから輸入された機関車が活躍しました。5500形蒸気機関車の5540号です。5500形は1897年(明治30年)にイギリスのべイヤー・ピーコック社で製造された旅客用機関車で、官設鉄道をはじめ現在の東北本線などを運営していた日本鉄道や現在の総武本線を運営していた総武鉄道などで主力として活躍しました。明治末期、大正から昭和初期まで第一線で活躍し、一部の車両は関東大震災や太平洋戦争をも生き抜いて戦後まで活躍をつづけた車両もありました。この5540形は戦後まで活躍した車両のうちの一つです。ナンバープレートです。製造銘板は当時のものが失われており、小型のものが取り付けられています。2120形蒸気機関車の2221号です。2120形は主に貨物用の機関車として輸入されたもので、通称「B6」とよばれていました。この2221は1905年(明治38年)にイギリスのノース・ブリティッシュ・ロコモティブ社で製造され、当初は日本陸軍が満州で使用していた車両でした。日露戦争後に国鉄に移籍し、戦後の1960年まで活躍しました。ナンバープレートです。こちらも製造銘板は当時のものが失われています。青梅での展示に向け大宮工場(現・JR東日本大宮総合車両センター)で整備された際の銘板が残っていました。
2024.01.12
今回は、真岡線の普通列車で活躍する気動車、モオカ14形を取りあげます。モオカ14形は開業時から活躍していたモオカ63形の老朽化に伴い、2002年(平成14年)~2006年(平成18年)にかけて9両が導入されました。それまでのモオカ63形は、第3セクター鉄道向けにバス用の部品やエンジンなどを使用した「LE-Car」というシリーズのひとつで、従来型の気動車よりも小型でラッシュ時には輸送力を欠くという問題点がありました。モオカ14形は大型化したことで輸送力の向上を図っています。折本駅で撮影したモオカ14-1です。2002年に導入された初期型の1・2は富士重工業製で、同社の鉄道車両事業最終期に製造された気動車のひとつです。この2両のみセミクロスシート車となっており、前照灯の位置などが3以降と異なっています。茂木駅で撮影したモオカ14-4、モオカ14-8です。2003年以降に導入された2次車にあたる3~9は日本車輌製造製で、オールロングシート車となっています。前照灯の位置が左右の窓上に移動し、貫通扉上部には「ワンマン」を表示しています。このモオカ14形の2次車は、同じ日本車輌製で2007年に導入された松浦鉄道のMR-600形のベースとなっています。真岡駅で撮影したモオカ14-8です。真岡駅構内には車両基地があり、多くのモオカ14形が見られます。
2023.01.14
あけましておめでとうございます。2023年も「わさびくま日記」をよろしくお願いいたします。新年最初の記事は、真岡鉄道の「SLもおか」に使用されているC12形と50系客車を取り上げます。真岡鉄道では1994年からSL列車「SLもおか」の運行を行っています。「SLもおか」は臨時快速列車として土日祝日を中心に運行され、2022年6月には累計乗客数が100万人に達した人気の列車となっています。1994年の運行開始当初はC12 66号機のみが運行されていましたが、1998年には予備機としてC11 325号機が導入されました。2機体制となってからは重連運転やプッシュプル運転などが行われ、人気を集めていました。しかし、SL2機を維持するために莫大なコストがかかっていたこともあり、C11は2019年をもって東武鉄道に売却されることとなりました。これ以降はC12の1機体制になって現在に至ります。現在「SLもおか」で活躍するC12 66号機は1933年(昭和8年)に日立製作所で製造され、鹿児島県や東北地方、長野県、福島県などで活躍したのちに1972年から福島県内で静態保存されていました。観光列車用のSLを探していた真岡鉄道がこの車両に着目し、1993年よりJR東日本大宮工場で復元作業がスタートしました。1994年3月より真岡鉄道で営業運転を開始しています。JR東日本乗り入れ用のATSも装備されていることから水戸線などで営業運転されたこともあります。C12 66号機のナンバープレートと製造銘板です。製造銘板は簡略化された小型のものが取り付けられています。現在、営業運転に使用されているC12形はこの66号機が唯一となっています。茂木駅で撮影したC12 66です。「SLもおか」に使用されている50系客車です。50系客車の元々のカラーは赤色ですが、SL列車のイメージに合わせ旧型客車と同じぶどう色に赤帯というカラーとなっています。オハ50が2両、車掌室付きのオハフ50が1両の、計3両が活躍しています。50系は地方路線で使用されていた旧型客車を置き換えるための新型客車として1977~1982年(昭和52~57年)にかけて製造されましたが、1987年の国鉄の民営化前後に気動車や電車への置き換えが急速に進んだため、製造から5年~10年前後で廃車された車両も非常に多くなっています。残った車両も観光列車などに改造されたものが多いため、原形のまま運用に就いている50系はこの3両しかなく非常に貴重な存在です。オハ50 11(旧・オハ50 2198)です。オハ50 22(旧・オハ50 2039)です。オハフ50 33(旧・オハフ50 2054)です。3両の50系はいずれもJR東日本上沼垂運転区に所属し、主に羽越本線などで活躍していた車両でした。元車番の2000番台は、寒冷地用に電気暖房を設置している車両となっています。50系の車内です。座席モケットが交換されている以外大きな改造は施されておらず、ほぼ原形のままとなっています。近郊型電車と同じボックスシートが並びます。50系はそれまでの客車と異なり、地方での通勤通学輸送を考慮して設計されたためデッキ付近にはロングシート部分があります。車番プレートです。改番が行われているためオリジナルのものとは異なっています。製造を担当した新潟鐵工所(現・新潟トランシス)の銘板です。地元を走る車両を地元のメーカーで生産した良い例といえます。
2023.01.07
今回は、「夢空間」の車両のうち東京都内で保存されている寝台車「デラックススリーパー」(オロネ25 901)を掲載します。現在はレストランの一部として使用されており、個室で食事をすることが可能となっています。寝台車「デラックススリーパー」は、豪華ホテルのような設備を誇る個室「エクセレントスイート」1室と「スーペリアツイン」2室を備えた車両です。1989年に日本車輌製造で製造され、内装は百貨店の髙島屋が担当しました。外観は青とシルバーグレーに金色のストライプが入り、1988年に来日した「オリエント急行」の車両を意識したデザインとなっています。「エクセレントスイート」は、車両の3分の1を占める広い空間にソファーやテレビのあるリビング、セミダブルベッドを備える寝室、バスタブのある浴室を設けていました。「スーペリアツイン」はリビングこそないものの、シングルベッドが2つ並び、ソファーやテレビ、バスタブのある浴室を備えていました。現在では「四季島」や「トワイライトエクスプレス瑞風」などの豪華列車でスイートルームを備える車両がありますが、当時は破格の豪華さを誇っていました。周囲に木が植えられていることもあり、車両全体を撮影することはなかなか難しいです。車番表記です。独自の書体を使用したほかの2両とは異なり、伝統的な国鉄フォントを使用しています。所属表記と銘板です。「夢空間」の車両はすべて尾久車両センター(東オク)所属でした。
2022.12.24
今回は、前回紹介した「ダイニングカー」と同じ「ららぽーと新三郷」に保存されている「夢空間」のラウンジカー「クリスタルラウンジ スプレモ」(オハフ25 901)です。この車両は休憩スペースとして車内に入ることができます。ラウンジカー「クリスタルラウンジ スプレモ」はホテルのラウンジのように休憩したり歓談したりするための空間を備えた車両です。1989年に富士重工業(現・SUBARU)で製造され、内装は百貨店の松屋が担当しました。外観はえんじ色に金色とクリーム色の帯が入る独特なもので、ステンドグラスがはめこまれた丸い窓が特徴的です。従来の「ブルートレイン」とは全く異なるコンセプトで製造された車両ということが良く伝わってきます。車内は鉄道車両とは思えないほど豪華な空間となっており、お洒落なデザインの調度品はまるで高級ホテルのようです。半円形のカウンターはバーカウンターとなっていました。なんとピアノまで備えられていました。このピアノは自動演奏機能を備え、音楽が流れる中で歓談を楽しむことができました。天井もとっても豪華です。車内のトイレは使用できませんでしたが、洗面台はアクリル板越しに見ることができます。洗面器は(おそらく)輸入品で、温水の出る自動水栓が備え付けられています。車番表記と製造を担当した富士重工業の銘板です。どちらも高級感あふれるデザインで、他の車両では見られないタイプとなっています。非常用ドアコックの表示までも凝っていてびっくりしました。独特な書体の車番表記です。
2022.12.04
24系「夢空間」は、1989年にJR東日本が開発した豪華寝台車両です。「ブルートレイン」として親しまれていた24系客車のイメージを大きく覆すお洒落で独特なデザイン、豪華な内装や設備を誇ったバブル期ならではともいえる車両でした。食堂車「ダイニングカー」(オシ25 901)、ラウンジカー「クリスタルラウンジ スプレモ」(オハフ25 901)、寝台車「デラックススリーパー」(オロネ25 901)の全部で3両が製造され、当初は桜木町駅や海浜幕張駅などで展示されたあと、主に「北斗星」や臨時のイベント列車などで他の24系と連結して運行されていました。2008年に引退しましたが、3両とも保存車両として現存しています。今回は、埼玉県の「ららぽーと新三郷」に保存されている食堂車「ダイニングカー」(オシ25 901)を取り上げます。この「ダイニングカー」は列車の最後尾に連結される展望室を設けた食堂車です。1989年に東急車輛で製造され、内装は東急百貨店が担当しました。青緑色に金色のラインが豪華な雰囲気を漂わせていますね。展望室は大きな窓や曲面ガラスを使用して、風景を楽しめるように設計されているのが特徴です。また個室も設置されていました。この車両は日本の食堂車としては初めて編成の最後尾に連結されることを考慮した構造になっています。過去に車内が公開されたことがあったようですが、現在は車内は非公開となっているのが残念です。カーテン越しにお洒落な照明器具が見えます。「ダイニングカー」のエンブレムです。長年屋外にあるためか塗装やメッキの劣化が見られるようになっています。車番表記です。独特なフォントで表記されています。「夢空間」のテールマークです。
2022.11.06
鉄道博物館の「キッズプラザ」内に展示されている、103系のクハ103-713を掲載します。この103系は、保存車両としては唯一の高運転台車です。103系は国鉄を代表する通勤車両で、日本の電車としては最大の製造数となる3447両(改造車などを含めると3503両)もの車両が製造されました。首都圏・関西圏を中心に幅広い路線で活躍し、各線の通勤輸送を担いました。ここに展示されているクハ103-713は昭和52年(1977年)に近畿車輌で製造され、当初は京浜東北線、後に京葉線で活躍しました。2005年に廃車された後に車体をカットされて鉄道博物館に入りました。当初は京葉線時代のままスカイブルー色でしたが、現在は公募によって決められた103系に塗られたカラーをあしらった水玉模様のカラーリングとなっています。正面から眺めます。京葉線時代の「302」の編成札が付いたままになっています。車内です。吊革が三角形に変更されている以外、製造時の面影を良く残しています。天井には扇風機も残されています。ドア上には中央線の路線図が掲示されていました。車内の車番ステッカーです。
2022.08.28
今回は、DD13形の奥に展示されているキハ11 25を掲載します。キハ11形は、液体変速機を初めて実用化して気動車の「総括制御」(複数の車両を一人の運転士が制御すること)を可能としたキハ10系のうち、トイレ付きの両運転台仕様車です。キハ10系は、まだ蒸気機関車が牽引する客車列車が多数を占めていた地方線区において「無煙化」を推し進め、その後に登場して普及することとなるキハ20系やキハ40系などの基本となった車両として、日本の気動車の歴史を語る上でも外せない車両です。非電化ローカル線では北海道から九州まで全国的に活躍し、路線の近代化をすすめました。しかし、非力なエンジンを搭載した関係で車体の軽量化を進めすぎたことや、客席が狭く乗り心地が悪かったことなど問題点も多く、キハ40系など後継車の登場で次第に廃車されたり地方私鉄などに譲渡されたりする車両が続出し、国鉄では1980年代にほぼ全廃されてしまいました。現在鉄道博物館に展示されているキハ11 25は、昭和31年(1956年)に東急車輛で製造され、真岡線(現・真岡鉄道真岡線)に導入されました。真岡線一筋で活躍し、国鉄での廃車後は茨城交通(鉄道部門は現・ひたちなか海浜鉄道)に譲渡され、同社の湊線で活躍しました。キハ10系としては最後まで活躍した車両で、平成16年(2004年)に引退しました。引退後は国鉄時代の姿に復元されて鉄道博物館で動態展示されることとなりましたが、のちに静態保存に改められています。側面窓は通称「バス窓」といわれる、上段を固定し下段を開閉可能としたタイプが採用されています。ドアは開けるときは手動、閉めるときは自動となる半自動式となっており、「このドアーは手であけてください」の表記があります。車番表記と所属表記です。真岡線時代の「水モウ」(水戸機関区真岡支区)となっています。ちなみに、真岡駅のひらがな表記は国鉄・JR時代「もうか」となっており、第三セクター化される際に「もおか」と改められました。
2022.08.20
今回は、屋外展示されているディーゼル機関車のDD13形を掲載します。DD13は、主に貨車や客車の入換用蒸気機関車を置き換えるためのディーゼル機関車として昭和33年(1958年)から製造開始されました。昭和30年代はまだ都市部でも多くの駅で蒸気機関車が活躍していましたが、国鉄の「動力近代化計画」の一環として蒸気機関車を撤退させて近代化したディーゼル機関車を導入することになりました。先に製造されていたDD11形よりも出力をアップし、入換用に特化した車両として全国の貨物駅や貨物線などで活躍しました。水郡線など一部のローカル線では旅客列車の牽引に用いられていた例もありました。DD13形は改良を重ねながら昭和42年(1967年)まで製造が続きました。国鉄ではその後DE10やDE11といった新しい機関車が増備されていったため徐々に引退が進み、JRに引き継がれた車両は1両もありませんでした。しかし、臨海鉄道や専用鉄道では現在でもDD13をベースにした車両が現役で使用されている例もあります。このDD13 1は昭和33年に汽車製造で製造されたトップナンバーです。貨車や客車の入換をメインとしていた品川機関区(現在は廃止)に配置されていました。廃車後も保管されており、鉄道博物館には開館当初から展示されています。かつては屋内でEF66などとともに展示されていましたが、2017年以降は屋外展示に変更されています。車番表記です。品川機関区を表す「品」の区名札が入れられています。製造を担当した汽車製造(汽車会社)のプレートです。
2022.08.13
今回は、新幹線で初のオール2階建て車両となったE1系の先頭車、E153-104を掲載します。E1系は通勤客の増加していた東北・上越新幹線で、大量輸送の切り札として導入されたオール2階建て車両です。愛称は「Multi Amenity Express」を略した「Max」で、この車両を使用する便名は「Maxやまびこ」「Maxとき」などとなりました。すべての車両が2階建てとなり1編成の輸送量が大幅に増加した反面、普通車の座席は新幹線では異例となる3+3列のシート配置になっているため通路や座席幅が狭いという問題がありました。しかし、新幹線による通勤需要を取り込んで輸送量を格段に増やしたE1系は、東北・上越新幹線の中でも特筆すべき名車といえると思います。E1系の設計思想は後継のE4系に引き継がれ、引き続き着席定員の増加に貢献しました。主に上越新幹線を中心に活躍していたE1系は2012年をもって全車両が引退しました。そのうち、このE153-104号車のみが保存され、鉄道博物館の展示車両となりました。屋外展示で、通常は車内は公開されていません。「Max」のロゴ部分です。
2022.08.10
鉄道博物館には以前掲載した「455ランチトレイン」と並び、食事や休憩ができる車輌として183・189系の「183ランチトレイン」があり、車内に入って食事や休憩をとることができます。クハ183-1009、モハ189-31、モハ188-31、クハ183-1020の4両で、この4両は幕張車両センターに在籍していたC4編成の一部でした。幕張時代には主に房総地区の特急や臨時列車のほか、中央本線の「中央ライナー」などで活躍し、最後まで国鉄色を維持していました。ヘッドマークは定期的に変更されているようで、撮影時は「白根」「あずさ」でした。189系となっている中間車です。貫通扉の部分から車内に入ることができます。別日に訪問したところ、ヘッドマークは「踊り子」「湘南新宿ライナー」になっていました。モハ189-31の車内です。この車両は「あさま」で使用されていた当時にグレードアップ改造を受け、側窓の拡大や座席部分の床のかさ上げ、座席の交換や化粧板の交換などが行われています。リニューアルに合わせて車内の車番表記もステッカー式になっています。車外の車番表記です。183系のクハはステンレス切り貼り文字、189系のモハは直接車体に記載されています。「千マリ」の所属表記が残っていました。
2022.08.01
今回は、鉄道博物館の休憩や食事スペースとして開放されている車両のうち、455系を掲載します。※新型コロナウイルスの影響で、現在は利用が中止されています。白地に緑帯の「東北色」が印象的な455系です。鉄道博物館には同じ455系のクモハ455-1の展示がありますが、そちらが国鉄急行色で前面が原形をとどめているのに対して、この455系は民営化後に更新工事をうけているため、前面の形状が異なっています。この455系は仙台車両センターに所属していたS-4編成のクハ455-2+モハ454-4です。元々は東北本線系統の急行列車用として活躍し、1985年からは普通列車として東北本線・常磐線・仙山線などで活躍しました。ドア数が少ないことやデッキ付きでラッシュ時に使用しにくかったこともあり、701系やE721系などに置き換えられる形で2008年に引退しました。高崎線・川越線沿いの屋外に展示されており、電車内から見ることもできます。館内からは写真の撮りにくい場所にあり、このように木や周辺の構造物等にさえぎられてしまいます。クハ455-2とモハ455-4は、2両連結して展示されています。モハの車端部は、貫通路をアクリル板でふさいでいます。車外の製造銘板、改造銘板です。昭和40年(1965年)日本車輌製です。クロスシートが並ぶ車内は、更新工事を受けているため原形とは印象が異なっています。座席モケットはモハが青色、クハが緑色となっています。クロスシート部分です。バケットシート化されているのが特徴です。「ランチトレイン」になってから、車内でお弁当などを食べられるようにテーブルが設置されています。ラッシュ時に対応するため、一部がロングシート化されています。この部分に元々は吊革が設置されていましたが、現在は取り外されています。急行型電車の特徴だったデッキ部分です。洗面所もありました。洗面所もリニューアルされており、サーモスタット式温調ハンドル+自閉水栓(TOTO製と思われます)が取り付けられています。車内の車番プレートです。国鉄書体とは異なる書体のものが取り付けられていました。
2022.07.09
今回は、「その16」で掲載した400系の隣に展示されているE5系を掲載します。この車両は実際に使用されていた車両ではなく、展示用に新たにつくられたものです。内外装ともに実車と同じように仕上がり、かなりこだわって作られています。現在の東北新幹線のエースとして活躍するE5系は、2011年に「はやぶさ」の運行開始とともに導入されました。日本で初めて時速320kmでの運転を行い、グリーン車を超える車内設備やサービスを実施する「グランクラス」を設定するなど、新しい東北新幹線のイメージを決定づけました。「シンカリオン」などのアニメにも登場し、子どもたちからも大人気の車両となっています。展示用のE5系は日立製作所製で、「E514-9001」の車番が与えられています。先頭車(10号車)のE514形はグランクラスとなっています。車内に入ることはできませんが、グランクラスの豪華な座席を見ることができます。側面のフルカラーLEDを使用した行先表示器も作動しています。車番です。E5系の試作編成は「1」を名乗っているので、900番台や9000番台は存在していません。
2022.06.20
今回は、山形新幹線用の初代車両400系、411-3号を掲載します。日本初の「ミニ新幹線」(既存の在来線を改軌して新幹線車両を走行できるようにした新幹線)に対応する車両です。400系は、東北新幹線と既存の在来線の奥羽本線を直通できるように設計された車両で、規格は在来線に合わせられているためほかの新幹線車両よりも一回り小さいサイズになっています。1990年(平成2年)に試作車が、1992年(平成4年)から量産車が製造され、同年の山形新幹線の開業当初から主に200系と連結して東京~福島間、単独で福島~山形間を走行していました。当初は6両編成でしたが、1995年(平成7年)からは中間車(429形)を連結して7両編成となりました。1999年(平成11年)からは同年に増備されたE3系1000番台と同じカラーリングに変更されています。またE4系と連結して運行される列車も登場しました。その後はE3系1000・2000番台の増備が進んだため運用を離脱する編成が増加し、2010年(平成22年)に運用が終了しています。鉄道博物館に保存されている411-3号車は1992年に川崎重工業で製造されたL3編成の先頭車で、400系の中で最後まで残った編成でした。鉄道博物館入りする際に登場当初のカラーリングに復元されています。「400」をあしらった側面のロゴマークです。それまでの200系とは大きく異なる未来的なデザインで、現在多くの新幹線車両の側面に施されているロゴマークのはしりといえます。行先表示器は幕式のものとなっていました。所属銘板と製造銘板です。「山形ジェイアール直行特急保有」という、山形県やJR東日本などが出資する第三セクターが車両を所有していたことから、「JR東日本」の銘板が付いていないのが特徴です。
2022.04.29
今回は、東北新幹線・上越新幹線の初代車両である200系新幹線電車、222-35号車を掲載します。200系は昭和57年(1982年)の東北新幹線(大宮~盛岡)、上越新幹線(大宮~新潟)の開業に先立つ昭和55年(1980年)から製造が開始されました。東海道新幹線と異なり寒冷地・積雪地を通ることから徹底した寒冷地対策が施されていることが特徴です。東海道新幹線用の0系と前面の形状は似ているものの、前面下部にスノープラウが付いていることや機器の耐寒性向上のための二重床構造の採用、軽量化のため車体をアルミ合金製にするなど、多くの点で0系とは異なっています。また、塗装はクリーム色(クリーム10号)に緑色(緑14号)の組み合わせで、東海道新幹線とは異なったイメージを醸し出しています。この222-35号車は東北・上越新幹線開業に合わせて昭和57年(1982年)3月に近畿車輌で製造されました。当初はE35編成、のちにF56編成→K11編成→K31編成に組み込まれていました。ステンレス切り貼り式の車番表記です。車内です。200系では登場時から簡易型のリクライニングシートを装備していました。この車両ではシートの交換が施されており、登場時とは異なるリクライニングシートを装備しています。シートモケットは暖色系を採用しています。
2022.02.19
今回は、0系新幹線電車のうち完全な形で保存されている21-2号車を掲載します。21-2号車は、東海道新幹線開業にあわせて昭和39年(1964年)7月に日本車輌製造東京支店で製造された0系の一次車です。当初はN2編成、のちのH2編成の先頭車として活躍し、昭和53年(1978年)に廃車された後は大阪府吹田市にある関西鉄道学園(現・JR西日本社員研修センター)で訓練・研修用車両となりました。研修用車両としての任を解かれたあとも保管されていましたが、平成20年(2008年)に鉄道博物館への展示が決まり、JR西日本からJR東日本へ譲渡されました。JR東日本では同車の復元を進め、平成21年(2009年)10月より新設の展示棟内で公開しています。この21-2号車は開業時の0系の雰囲気を良く残しています。連結器が格納されている前面の丸い部分は「光前頭」と呼ばれる半透明のアクリル製のものとなっており、これは0系の初期車にだけみられた特徴です。「光前頭」は高速走行中に異物との衝突などで割れやすかったことから、のちに廃止されており、鉄製の前頭部に変更されています。21-2号車の「光前頭」は、元々は旧・交通博物館に存在した0系のモックアップに装着されていたもののようです。側面の号車表示と行先表示です。初期車では電動の行先表示器は設置されておらず、行先板(サボ)による行先表示が採用されていました。当時の在来線特急車両と同様のステンレス切り貼り式の車番表記です。車番表記はJR化後も300系まで切り貼り式が採用されていましたが、500系からは車体に直書きされています。車内です。0系新幹線のシートは当初は転換クロスシートで、モケットはブルーとシルバーグレーのツートンカラーとなっていました。東海道新幹線開業時の様子を色濃く残しています。3列シートと2列シートです。一部のシートは実際に転換させることができます。0系の初期車の特徴だった非常口を開けるためのコックです。火災時などの避難用に車両の真ん中あたりに非常口が設置されていましたが後に廃止となり、設置していた車両も使用停止措置が取られ、一部は完全に埋め込まれました。洗面所です。当時の在来線特急車両と同じ形状の洗面器が設置されています。トイレは和式が採用されています。ステンレス製のユニット式トイレとなっており、当時は先進的だったと思われます。冷水器も設置されています。まだ水を購入するのが一般的でなかった時代、冷水器は新幹線開業時から乗客へのサービスとして設置され、喉を潤してきました。コップは新幹線用に開発された封筒型のものが採用されていました。製造を担当した日本車輌製造の銘板です。21-2号車の周囲には開業当時の東京駅ホームの再現がされています。当時の発車標や時刻表を再現したものもあり、開業時の雰囲気が良く出ています。開業当時のダイヤは現在のような過密ダイヤではなく、30分おきに「ひかり」(超特急)、「こだま」(特急)が発車するシンプルなものだったようです。
2022.02.12
今回は、鉄道博物館に2両展示されている0系新幹線電車のうち、前頭部のみの保存となっている21-25号車を掲載します。世界初となる時速200km以上での営業運転を行った高速鉄道用車両として名高い0系は、東海道新幹線開業用に昭和39年(1964年)から昭和61年(1986年)までの20年以上にわたって改良を重ねながら製造されました。空気抵抗を減らすために航空機からヒントを得た前頭部の丸いデザインや、白地に青というスマートな塗装など、新幹線のイメージを人々に確立させた車両といえます。この21-25号車は新幹線開業にあわせて昭和39年(1964年)に日立製作所で製造された0系の1次車です。当初はH1編成、のちのH25編成の先頭車として活躍し、昭和53年(1978年)に廃車された後は前頭部のみ万世橋に存在した旧・交通博物館に展示されることとなり、同じく現在は鉄道博物館に展示されているD51形蒸気機関車の426号機の前頭部とともに旧・交通博物館の外部に展示されていました。車内は運転台とデッキ部分のみが残されており、客室部分は残っていません。車番プレートや非常用ドアコックのプレートは(おそらく)オリジナルのものが残っていました。
2022.01.23
今回は、国鉄新性能電車の最初の形式となった101系の試作車、クモハ101-902を掲載します。101系は国鉄初の「新性能電車」として昭和32年(1957年)に登場しました。それまでは戦前以来の吊りかけ駆動方式が用いられてきましたが、競合する私鉄電車にカルダン駆動方式を用いた車両が1950年代に登場すると、国鉄でもこの方式を用いた電車の開発を急ピッチで進めました。そして、昭和32年(1957年)に「モハ90形」としてのちに101系となる最初の試作車が完成し、中央線快速(当時は中央線急行電車)に導入されました。101系は当時の国鉄電車では異例ともいえるオレンジ色(朱色1号)の塗装で登場し、追って導入された山手線や中央・総武緩行線では黄色、大阪環状線ではオレンジ色、関西本線ではウグイス色の塗装をまといました。これらのカラーは各線の「ラインカラー」として定着(山手線は1964年の103系登場時からウグイス色に変更)し、現在まで引き継がれています。外観でも戸袋窓を備え、両開きの扉が片側4か所にあるという国鉄通勤電車の標準的なスタイルを確立させ、以降の103系・201系などに思想が引き継がれただけでなく、片側4扉などは現在の通勤車両にも通じています。クモハ101-902の車内です。のちに登場する103系と基本的なスタイルは同じで、懐かしさを感じさせます。車端部は戸袋窓が残っています。ドアはいわゆる「塗りドア」(鋼製ドア)で、のちに一般的となったステンレス製ではありません。鋼製ドアは103系や113系、115系などの初期車でも見ることができました。天井には扇風機が設置され、そのカバーにはJNRマークがついていました。車内には昭和40年代ごろの国鉄の広告などが多く貼られていました。こういった掲示物を見ることができるのも楽しいですね。車内の車番表記です。プレートではなく、直書きされていました。製造銘板です。試作車は大井工場(現在のJR東日本東京総合車両センター)で製造され、廃車後も大井工場に保存展示されていました。101系が保存展示されていた場所には現在、209系の試作車である901系が保存展示されています。
2021.11.28
今回は、初代「ブルートレイン」の20系客車を掲載します。20系客車は、昭和33年(1958年)に登場した寝台特急列車用の客車で、のちに標準的なシステムとなる電源車方式(専用の電源車を連結し、電力を各車両に供給する方式)を採用した最初の客車です。20系は全車に冷房が付き、個室寝台や食堂車なども連結した当時としては豪華な寝台列車で、「走るホテル」とも称されていました。鉄道博物館では編成の最後部に連結され、展望室を設けたナハネフ22形のトップナンバー、ナハネフ22 1を展示しています。大きな窓と丸みを帯びたデザインが印象的なナハネフ22 1です。のちの寝台特急列車のイメージを確立した青色の塗装に白色のラインが、高級感と長い旅への期待感を演出しています。このナハネフ22 1は昭和39年(1964年)に日本車輌製造で製造されました。乗客が入れる展望室は向かって左側にあり、右側は車掌室となっています。反対側は連結面のため、シンプルな構造となっています。「B寝台」の表示と行先・号車表示です。車両の等級を表示する部分はのちの24系などにも引き継がれましたが、行先・号車表示は20系独特のデザインのものとなっています。車内です。座席と寝台を切り替えることが可能で、寝台をセットすると3段寝台となります。展示では、座席使用時と寝台使用時の両方を見ることができます。車外の車番表記です。ステンレス切り抜き文字となっています。
2021.09.04
今回は、昭和40~50年代に製造された電気機関車を掲載します。まずはEF66 11号機です。EF66形は、昭和43年(1968年)から製造がスタートした高速貨物列車用の直流電気機関車です。それまでに例がない高運転台構造と車体中央部がくの字に突き出した独特のスタイリングで、電気機関車のイメージを一新した形式といえます。また100キロ走行が可能な高性能さ、重量のある貨物列車を牽引できるパワフルさもあり、現在でも人気のある機関車のひとつです。登場時は貨物列車の牽引が主でしたが、昭和60年(1985年)からは寝台特急列車(「はやぶさ」「富士」「さくら」など)の牽引機に抜擢され、そのスタイリングで多くのファンを魅了しました。平成元年(1989年)から製造されたモデルチェンジ版の100番台は、現在でも貨物列車の牽引機として東海道本線などで活躍しています。11号機は昭和43年(1968年)に川崎車輌(現・川崎重工業車両カンパニー)、川崎電機(現・富士電機)が製造を担当しました。銘板は「川崎」という表記になっています。こちらはED75 775号機です。ED75形は、昭和38年(1963年)から製造された交流電気機関車です。東北本線用の0番台、九州地区用の300番台、北海道地区用の500番台、高速貨物列車用の1000番台といったバリエーションがあり、展示されている700番台は耐塩害仕様機で、主に東北本線や奥羽本線、羽越本線などの東北地区の交流電化区間における貨物列車や寝台特急列車の牽引で活躍しました。撮影時は「あけぼの」のヘッドマークを取り付けていました。鉄道博物館に展示されている775号機は、JRマークの付いた現役時代末期の姿で展示されています。現在でも700番台は5両がJR東日本に在籍していて、主に東北地区の臨時列車や工事列車の牽引で活躍中です。775号機は昭和50年(1975年)に東芝が製造を担当しました。
2021.07.21
今回は全国の特急列車で活躍した485系を取り上げます。485系は、直流・交流50ヘルツ・交流60ヘルツの3電源に対応した国鉄特急型電車の決定版ともいえる形式で、近年まで全国的に活躍していました。鉄道博物館にはクハ481-26とモハ484-61の2両が展示されています。ボンネット型の構造が印象的なクハ481-26です。この車両は初期型のクハ481形0番台で、昭和40年(1965年)に汽車製造で製造されました。新製時は仙台運転所(現・仙台車両センター)、のちに勝田電車区(→勝田車両センター)に所属し、東北本線の「ひばり」「あいづ」、常磐線の「ひたち」などで運用されてきました。最末期は勝田車両センターの訓練車となっていました。モハ484-61です。昭和47年(1972年)に日立製作所で製造された485系の電動車で、屋根にパンタグラフを2基搭載しています。こちらも仙台運転所から勝田電車区へと転属しています。この車両は最末期には訓練車のモヤ484-2となっていましたが、鉄道博物館への保存に際して原形のモハ484へ復元がなされています。側面の車番表記です。先頭車の側面にあるステンレス切り貼りの「JNRマーク」です。正面の三角形の「特急マーク」とともに、国鉄の特急型車両ではおなじみの装飾となっていました。側面の方向幕は、「ひばり 仙台行」となっています。「ひばり」は昭和36年(1961年)に登場した東北本線上野~仙台間の特急列車で、東北新幹線開業前の東京と仙台を最速で結んでいました。幕が破れてしまっているのが残念ですね…車内は回転式のクロスシートが並んでいます。車内の車番プレートです。
2021.07.11
今回は、首都圏と新潟を結ぶ特急列車で活躍した181系を取り上げます。181系は、国鉄初の直流用特急型車両で新幹線開業前に東京~大阪を結んだ「こだま」で活躍した151系、上野~新潟間の特急用として耐寒・耐雪設備を付加した161系を統合した系列です。それまでの151・161系よりパワーアップが図られ、勾配の続く路線にも対応できるようになりました。高い位置に配置した運転台と、ボンネット型の先頭車が特徴的です。このスタイルは後に続く485系の初期車でも採用されました。高運転台で視認性を高め、機器類をボンネット内に収めることで客室内の静粛性を保つことが目的だったといわれています。側面の車番表記です。特急型車両は登場当初からステンレス切り抜き文字による車番表記となっていました。このクハ181-45は、当初は161系として発注され、製造途中に181系へと形式変更されました。昭和40年(1965年)に汽車製造で製造されています。181系は国鉄時代の昭和57年(1982年)、上越新幹線の開業に伴って上越線特急「とき」が廃止されたことで運用を失い、JRに引き継がれたものは1両もありませんでした。しかし、クハ181-45は新潟運転所(新潟車両センター)内で保存され、晴れて鉄道博物館に保存されることとなりました。また、151系のトップナンバーだったクハ151-1(→クハ181-1)は製造メーカーだった川崎重工が引き取り、同社の兵庫工場に保存されています。側面には差し込み式の行先表示が設置されています。車内です。2人がけの回転クロスシートが並び、のちの485系や183系などで、14系客車の座席車などでも採用されました。座席モケットは国鉄標準の青色です。車内では車内販売の再現も行われていました。当時販売されていたお菓子類がありました。キャラメルや都こんぶなども販売されていたのですね。車内の車番プレートです。アクリル製のものが設置されています。
2021.06.25
今回から、昭和戦後期の車両を掲載していきます。「その7」では、全国の急行列車で活躍した455系のトップナンバー、クモハ455-1を取り上げます。455系は、昭和37年(1962年)に登場した451系・471系をベースに、出力アップや勾配対策などの仕様向上を行って昭和40年(1965年)に登場しました。451系・471系は国鉄初の交直流急行型電車として、先に登場していた直流専用の153系と同じくデッキ付き2扉、全席ボックスシート(向かい合わせ式のシート)という仕様で登場しました。形式名は電源周波数の違いによって分けられており、交流50ヘルツ対応が「451系」、交流60ヘルツ対応が「471系」とされました。主に451系は東北地区の、471系は北陸地区の急行列車に導入され、客車列車からの置き換えで好評を博しました。その後、出力アップした453・473系が昭和38年(1963年)に、453・473系に勾配対策を施した455・475系が昭和40年(1965年)に、直流・交流50ヘルツ・交流60ヘルツの3電源に対応した457系が昭和44年(1969年)にそれぞれ登場し、主に東北・北陸・九州地区で活躍しました。鉄道博物館に展示されているクモハ455-1は、東北地区で使用する455系のトップナンバーとして、昭和40年(1965年)に日本車輌製造で製造され、仙台運転所(現在の仙台車両センター)に廃車まで在籍しました。急行列車から普通列車へと活躍の場を移し、晩年は訓練車となっていました。国鉄の急行列車は1960年代~1970年代に全盛期を迎えたものの、1980年代ごろからは特急列車への格上げ、東北新幹線の開業などで急行列車は徐々に廃止となり、昭和60年(1985年)には全廃されています。そんな中で、455系・475系はローカル輸送に活躍の場を移していくことになります。ローカルに転用された455系・475系は、座席の一部ロングシート化、使用しないトイレや洗面台の撤去などの工事が行われました。しかし、出入口にデッキが残っていたためラッシュ時への対応が難しかったことや老朽化の進行などもあり、東北地区は平成20年(2008年)に運用終了しています。最後まで残った北陸地区についても、平成27年(2015年)に運用終了しています。クモハ455-1の車内です。ボックスシートが並び、急行列車の雰囲気を今に伝えています。ちなみに、東北地区の455系には車内をリニューアルしたものもありましたが、この車両は一部ロングシート化されたのみで、ほぼ原形のままとなっています。鉄道博物館には、車内をリニューアルした455系が「ランチトレイン」として屋外に展示されていますが、これも追って掲載していきます。ラッシュ時対策のため、ロングシート化された部分です。この区画には吊革も設置されていましたが、撤去されています。車内の車番プレートです。車内・車外の製造銘板です。
2021.06.06
今回も昭和戦前期の車両です。今回は、機関車にスポットを当てていきます。C51形5号機です。C51形は大正8年(1919年)から製造が始まった幹線向けの大型蒸気機関車です。幹線を高速で走行できる機関車として、当時のアメリカ製機関車の技術などを参考にしながら製造されました。高速性能に優れていたため、大正・昭和初期の幹線路線の主力機関車として全国で活躍しました。また、C51 239号機はお召し列車の牽引にも多数抜擢された経歴があり、こちらは京都鉄道博物館で保存されています。鉄道博物館に保存されている5号機は現存するC51の中で最も初期に製造されたもので、大正9年(1920年)鉄道院浜松工場(現・JR東海浜松工場)製です。現役引退後は長らく青梅鉄道公園で保存されていましたが、鉄道博物館のオープンに合わせて移設されています。撮影時はお召し列車をイメージし、日章旗と菊の御紋が取り付けられていました。C57形135号機です。C57形は昭和12年(1937年)、先に製造されていたC55形の63号機として製造がスタートしました。しかし、ボイラー圧力を大きいものに変更したため出力が増加したため「C57」という新形式が与えられました。その後は大量生産が進められ、主に本線用の機関車として特急・急行などの優等列車牽引機関車として全国で活躍しました。C51形などとともにお召し列車の牽引にも多用され、126号機や139号機などお召し列車専用機となったものもあります。性能が安定していたために日本の蒸気機関車の中では長く活躍し、135号機は北海道の室蘭本線で国鉄最後の蒸気機関車牽引の旅客列車を牽引したことで知られています。また、そのスタイルの美しさから「貴婦人」という愛称で呼ばれ、現在も人気の高い機関車となっています。鉄道博物館に保存されている135号機は「車両ステーション」中央部にある転車台に配置され、汽笛の吹鳴が行えるようになっています。訪問時(2020年1月)は汽笛吹鳴の体験をすることも可能となっていました。電気機関車EF55 1号機です。EF55形は昭和11年(1936年)に3両が製造されました。当時は世界的に流線型の車体デザインがブームとなっていたことから、国鉄は流線デザインを採用した電気機関車を製造することになり、誕生したのがEF55形です。大胆でインパクトのある前面デザインで、当時はまだ珍しかった電気溶接技術を採用し、車体からリベットやボルトが排された美しい仕上がりの車体となっているのが最大の特徴です。斬新なデザインを生かして当時の花形列車であった「富士」や「つばめ」(東海道本線の特急列車)を牽引しました。EF55形の最大の特徴は、電気機関車としては珍しく前後でデザインが大きく異なっていることです。このため、運用当初は蒸気機関車のように終着駅での方向転換が必要となっていました。また、特殊なデザインのため保守の手間がかかるといった問題もあり、量産はされることなく3両のみの少数派形式となっています。戦後になると3号機が交直両用試作機関車ED30形に機器を流用することとなって解体され、続いて2号機も廃車解体されました。残る1号機は国鉄の教育施設であった「中央鉄道学園」の研修用車両として保管されました。昭和61年(1986年)には一度抹消されていた車籍が復活し、民営化後はJR東日本管内でイベント列車の牽引などに多く使用され、人気を集めました。しかし、機器などの老朽化が進んだことから平成21年(2009年)に運用を終了し、平成27年(2015年)には再び車籍が抹消され、現在は鉄道博物館に保存されています。1号機は日立製作所が製造を担当しました。2号機は日本車輌製造(車体)・東洋電機(電装品)、3号機は川崎車輌(現・川崎重工業車両カンパニー)の製造です。
2021.04.18
「その4」に引き続き、「その5」では昭和戦前期の車両を掲載します。40系「クモハ40074」です。40系は鉄道省初の20m級車体を持つ鋼製電車として、昭和7年(1932年)から製造が開始されました。当初は片町線(現在の愛称は学研都市線)と城東線(現在の大阪環状線の一部)の電化に伴って関西地区で運用開始され、遅れて首都圏の京浜線(のちの京浜東北線)で運用開始されました。現代の電車にも通じる3ドア・ロングシートといった通勤路線向けの設備をもち、首都圏と関西圏の輸送事情の改善に大きく貢献しました。鉄道博物館に展示されているクモハ40074は昭和11年(1936年)に川崎車輌(現・川崎重工業車両カンパニー)で製造され、中央線などで使用されました。昭和54年(1979年)には国府津電車区(のちの国府津車両センター)の開設に伴って、同じ系列のクモハ40054とともに職員輸送車や牽引車として使用されました。JR発足後はイベント列車などにも使用されましたが、平成18年(2006年)に廃車され鉄道博物館に保存されることになりました。ちなみに、国府津電車区で職員輸送車として使用されたクモハ40054は、廃車後に東京都青梅市の「青梅鉄道公園」に保存されています。車内はロングシートとなっており、吊革やポール(握り棒)が設置され大量輸送に適した構造となっています。床や窓枠は木製で、温かみがありあすね。前面の運転室付近です。現代の電車のように全室が運転室ではなく、半室のみが運転室となる構造でした。そのため乗務員扉付近まで座席が設置されています。キハ41300形「キハ41307」です。国鉄の非電化路線向けには、昭和初期からガソリンエンジンを搭載した気動車が導入され始めていました。このキハ41300形も、当初はガソリンエンジンを搭載していました。キハ41307は昭和9年(1934年)に川崎車輌(現・川崎重工業車両カンパニー)で製造された車両です。戦後にはディーゼルエンジンに換装され、小海線など非電化路線で活躍しました。昭和32年(1957年)には形式称号の変更に伴って「キハ04 8」に改番されました。キハ04に改番された1年後の昭和33年(1958年)には遠州鉄道に譲渡されました。遠州鉄道では非電化路線の国鉄二俣線(現・天竜浜名湖鉄道)に直通するための気動車が必要となったため、国鉄からキハ04の払い下げを受けました。二俣線乗り入れが終了すると、北陸鉄道→関東鉄道と移籍を繰り返し、昭和60年(1985年)まで筑波線(現在廃止)で活躍しました。廃車後は鉄道愛好家たちの手で整備が進められ、茨城県つくば市の「さくら交通公園」に昭和62年(1987年)より保存されました。保存後も定期的な修繕などが行われていましたが、平成19年(2007年)に東日本鉄道文化財団に寄贈されました。その後はキハ41307時代への復元が進められ、同年より鉄道博物館で展示されています。車内の写真は人が多く撮影していませんが、当時キハ41307が活躍していた小海線の映像が車窓に映し出されていました。車外の製造銘板です。「昭和9年 川崎車輌 製造」と表記されています。
2021.02.16
「その4」では昭和戦前期の車両を掲載していきます。「マイテ39 11」です。マイテ39は、昭和5年(1930年)に特急「富士」用の展望車として製造されたスイテ37010→スイテ39を戦後に改造した車両で、昭和24年(1949年)より特急「へいわ」用の展望車として活躍しました。製造は鉄道省大井工場(現在のJR東日本東京総合車両センター)が担当しました。展望車は主に特急編成の最後尾に連結され、乗客が景色を楽しめるよう車端部に開放式のデッキを備えている客車です。乗客が運行中にデッキに出るといったことは少なく、始発駅で見送る客に手を振って応えるといった利用が多かったようです。また「イ」の記号が示すように当時最高級の一等車であり、富裕層や外国人観光客に利用されたといわれています。車端部の展望デッキ部分です。デッキ部分には「富士」のテールマークが掲げられています。また窓は非常に大型のものが取り付けられています。マイテ39 11の大きな特徴といえるのが、「桃山式」と呼ばれる和風の豪華な内装です。日本の伝統的な建築様式を鉄道車両に取り入れた桃山式の内装は、当時の鉄道省が外国人観光客を誘致しようと努めていたことが反映されたもので、実際に外国人からは非常に好評だったようです。しかし、戦後になると「霊柩車のようだ」などと言われるなど次第に人気に陰りが出てきたため予備車となり運用から外れてしまいました。1963年からは東京都青梅市にある青梅鉄道公園に保存されました。しかし屋外展示だったため状態が悪くなり、かつて製造を担当した大井工場に引き取られたあと可能な限りの修復をおこなって鉄道博物館に展示されています。車番表記です。「東シナ」はかつて所属していた品川客車区(のちの品川運転所)の略称です。続いては「オハ31 26」です。オハ31形は鉄道省初の鋼製車体を持つ客車として、昭和2年(1927年)から製造されました。この時期は鉄道車両の車体材質が木製から鋼製へと移り変わっていく時期で、国内でも全鋼製車体を採用した電車などが私鉄を中心に導入され始めていました。また、木造車体では事故時に安全性が保てないといった問題もあり、鉄道省でも鋼製車体の客車を製造することとなりました。オハ31形は当初は「オハ44400」と称し、「オハ32000→オハ31」という改番を経ています。主に急行列車や普通列車に使用された三等座席車です。車内は木材を多用したクロスシートが並んでいます。背の部分にはモケットが貼られていないのも特徴的です。網棚と日よけ用の鎧戸です。かつての鉄道車両はカーテンなどはなく、日よけには鎧戸を用いていました。現在はあまり見ることができなくなっていますが、阪急電鉄など一部私鉄では現在も鎧戸が使用されています。このオハ31 26は国鉄での廃車後に津軽鉄道に譲渡されており、「ストーブ列車」として運用されていたため車内にはダルマストーブも残されています。
2021.01.30
「その3」では大正時代の車両を掲載していきます。1913年(大正2年)から中央線・山手線などの電化区間で活躍した「ナデ6141」です。先述した「デ968号→ハニフ1」が活躍していた中央線では利用者の増加によって車両も大型のものが要求されるようになり、当時の鉄道院は独自設計の電車として「ホデ1→ホデ6100→デハ6250」を登場させました。これは16メートル級の木造車体を持つ電車で、デ968などよりも大型の車体を採用していたため一度に多くの旅客を運べるようになりました。ここに展示されている「ナデ6141」は、16メートル級車両の増備の過程で大正2年(1913年)に登場しました。両運転台で、片側に3つの扉を備えています。製造は鉄道院新橋工場(のちの大井工場→現在のJR東日本東京総合車両センター)が担当しました。ナデ6141の車内です。木造車なのでニス塗りとなっており、重厚感があります。天井は二層式(ダブルルーフ)となっており、座席はオールロングシートです。この車両は鉄道院から目黒蒲田電鉄(現在の東急電鉄)に譲渡され、さらに鶴見臨港鉄道(現在の鶴見線)→日立電鉄と譲渡されました。国鉄が昭和47年(1972年)の鉄道100周年を記念して日立電鉄から引き取り、製造元の後身である大井工場で復元したうえで展示されています。電気機関車ED40 10号です。1919年(大正8年)に登場した国産初の電気機関車で、鉄道院大宮工場(現在のJR東日本大宮総合車両センター)で製造されました。この機関車は信越本線横川~軽井沢間(1997年廃止)のアプト式(線路の真ん中に凹凸のあるラックレールを敷き、車両の下部に設置された歯車と嚙み合わせることで急勾配を登る方式)区間専用に導入されたもので、箱型の車体を持つ独特なスタイルが特徴的です。碓氷峠での運用終了後に東武鉄道に譲渡され、同社の日光軌道線(1968年廃止)で貨物列車を牽引していました。日光軌道線の廃止後に国鉄に譲渡され、製造を担当した大宮工場で保存されたのちに鉄道博物館での展示が決まりました。電気機関車ED17 1号です。1923年(大正12年)にイギリスから輸入した機関車(製造元はイングリッシュ・エレクトリック・カンパニー)で、東海道本線電化の際に導入され、主に旅客列車の牽引に使用されました。東海道本線時代は「1040形→ED50形」でしたが、中央本線への転属に合わせて改造が行われ、「ED17形」に変更されました。中央本線で活躍した後は身延線などに移り、廃車後は山梨県甲府市の舞鶴城公園に展示されていたものをJR東日本が引き取り、鉄道博物館で展示されることになりました。
2021.01.21
「その1」に引き続き、明治期の車両を掲載していきます。「1290形1292号機関車」です。この機関車は1881年(明治13年)製で、主に鉄道建設工事や入換用として活躍しました。展示されている1292号は東北本線などを開業させた日本鉄道が工事用に導入したもので、「善光号」の愛称で知られています。この機関車は日本鉄道から鉄道院に引き継がれ、後に東武野田線の前身である千葉県営鉄道野田線で資材輸送用などとして活躍しました。「善光号」の知名度があったことから、廃車後に保存されることとなり、1942年(昭和17年)に東京・神田の交通博物館に移され、2007年からは鉄道博物館で展示されています。「ハニフ1」形です。この車両は、現在の中央本線の一部を開業させた「甲武鉄道」【1906年(明治39年)国有化】が1904年(明治37年)の電化(飯田町~中野間)に合わせて製造した、「デ968形」という電車を改造したものです。甲武鉄道は都市内の路面電車的な電車とは一線を画す、都市と郊外を結ぶ通勤電車的な電車を日本で初めて運行し、「郊外から都市への電車による通勤」というスタイルを確立させたことで知られ、「国電の始祖」ともいわれています。デ968など甲武鉄道時代の電車は、国有化後にさらに大型の車両を導入したことで余剰となり、各地方の私鉄などに譲渡されていきました。この車両は現在の大糸線を開業させた信濃鉄道(現在の「しなの鉄道」とは別会社)に譲渡され、さらに現在のアルピコ交通上高地線(松本電鉄線)を開業させた筑摩鉄道に譲渡されました。筑摩鉄道時代に荷物室を設ける改造を受け、「ハニフ1」に形式を変更しています。筑摩鉄道→松本電鉄では、廃車後も長らく保存されていましたが、国電の始祖としての価値を認められ、晴れて鉄道博物館入りすることができました。この車両は復元が困難なことから、現在は筑摩鉄道時代のまま展示されています。
2021.01.16
2020年1月に、大宮の「鉄道博物館」に行った際に撮影した保存車両の写真を掲載していきます。私としては10数年ぶりの鉄道博物館で様々な見どころがありすべてを回り切れていないため、注目する車両を中心に掲載していくことにします。まず掲載するのは、日本初の鉄道開業時に使用された記念すべき車両となる「1号機関車」です。1872年(明治5年)の新橋(のちの汐留駅で、現在の新橋駅とは別)~横浜(現在の桜木町駅で、現在の横浜駅は1915年開業)間の開業に際してイギリスから輸入された蒸気機関車で、1871年にバルカン・ファウンドリー社で製造されました。鉄道開業後は客車や貨車を牽引して人々の注目を集め、後に関西地区などでも入換用などとして活躍していました。1909年には「150形」という形式名が付され、その後の1911年には長崎県の島原鉄道に譲渡され、同線の開業時から活躍しました。日本の鉄道開業時に導入された貴重な車両であることから保存の機運が高まり、1930年には島原鉄道から国鉄に譲渡、1936年からは神田に存在した「交通博物館」の展示物となりました。戦災もくぐり抜け、2007年からは大宮の鉄道博物館で展示されています。こちらは「7101号機関車(弁慶)」です。北海道最初の鉄道(官営幌内鉄道…現在の函館本線など)開業時にアメリカから輸入された機関車で、アメリカ製の古典機関車らしい外観を持っています。1880年ポーター社製で、開業時に最初に導入された機関車のうちの1両となっています。北海道で活躍し、1940年に交通博物館の展示物となり、2007年から鉄道博物館で展示されています。「弁慶」の後ろに連結されている「開拓使号客車」です。こちらも1880年に官営幌内鉄道がアメリカから輸入した車両のひとつで、主に開拓使などの要人輸送や明治天皇のお召し列車として使用された実績があります。車内は転換式のクロスシートを備え、トイレやストーブが設置されるなど、当時最先端の客車でした。1923年には保存のために東京・大井工場(現・東京総合車両センター)に移され、1948年から交通博物館で展示されていました。
2021.01.09
地下鉄博物館でカットモデルでの保存となっている、東京高速鉄道(→営団)100形129号車を掲載します。現在の銀座線渋谷~新橋間を開業させた東京高速鉄道が開業時に導入した車両です。東京高速鉄道は東京地下鉄道への乗り入れを行っていたため、先述の東京地下鉄道1000形と並んで日本の地下鉄の黎明期を飾りました。角ばったデザインが特徴の東京地下鉄道1000形と異なり、丸みを帯びたデザインが大きな特徴となっています。また、カラーリングも1000形の黄色に対して、100形はクリーム色+緑色となり、独自性を主張しています。このデザインやカラーリングは、親会社だった東京横浜電鉄(のちの東急電鉄)の影響を受けているといわれています。100形は東京高速鉄道の開業後、1941年の営団の成立で1000形とともに銀座線で長く使用され、1000形とともに1968年まで使用されました。1962年には丸ノ内線分岐線(中野坂上~中野富士見町)の開業に伴って一部が丸ノ内線で使用されるようになり、こちらも1968年まで使用されました。引退後、129号車を含む2両が中野検車区の牽引車(事業用車両)となりました。1981年に2両とも使用停止となり、1986年には129号車の車体がカットされ、現在のように地下鉄博物館で保存されることとなりました。博物館では車両の仕組みを学べるような展示物となり、ドア開閉の体験やモーター、ブレーキの操作が体験できます。側面に貼られている東京高速鉄道の社章です。車内には当時の路線図も掲示されていました。自社線だけでなく、乗り入れ先の東京地下鉄道の駅名もしっかり表記されています。イラストを多用し、当時の東京の街の様子をうかがい知ることもできます。
2020.03.22
地下鉄博物館の保存車両となっている東京地下鉄道(→営団)1000形1001号車を掲載します。1000形は、1927年(昭和2年)の上野~浅草間の地下鉄開業(のちの銀座線の一部)に合わせて東京地下鉄道(現在の東京地下鉄【東京メトロ】とは別会社)が導入した車両で、日本初の地下鉄車両です。それまでの日本で例がなかった地下鉄車両ということで徹底的な不燃化対策が施されており、当時は珍しかった全鋼製の車体が採用されました。また、外観は暗い地下鉄で明るさや温かさを感じてもらうことを意図して黄色一色の塗装を採用し、現在の銀座線1000系にもこの塗装が受け継がれています。黄色一色の車体と、屋根部分の茶色が印象的な1001号車です。先述した丸ノ内線301号車と並んで展示されています。現役末期のころの姿で保存されている301号車と異なり、1001号車は製造当初の姿に限りなく近い姿で保存されているのが特徴です。この1001号車は、開業から1960年代まで銀座線の主力車両として活躍し、1968年に廃車となりました。その後は旧万世橋駅跡地にあった交通博物館に譲渡され、製造当初の姿への復元作業が行われました。そして、1986年の地下鉄博物館の開館時に同館に保存されて現在に至っています。1001号車は2017年に国の重要文化財に指定されており、車内見学はできなくなっています。(以前は車内の見学もできました。)「T」と「C」をかたどった東京地下鉄道の社章と、車番表記です。東京地下鉄道は現在の銀座線のうち浅草~新橋間を開通させ、その後に新橋~渋谷間を開通させた東京高速鉄道(当時は東急系列)との乗り入れを開始し、現在の銀座線の基礎を確立します。1941年に両社は合併し、国策で設立された「帝都高速度交通営団」(営団)となります。営団が民営化され「東京地下鉄」(東京メトロ)となるのは2004年のことです。1001号車の車内です。車内には立ち入れないため外からの撮影となります。照明を天井方向に向けて照らす間接照明や、木製車両が当たり前の当時において違和感を感じさせない木目調の内装など、随所に工夫が光ります。また、吊革はばねの力で跳ね上げる「リコ式」と呼ばれるタイプを採用しています。このタイプの吊革は1000形以降も営団の車両で広く採用されていました。車掌用のドアスイッチです。1000形では、当時としては極めて珍しい自動ドアを採用しており、車掌が「此の戸」(スイッチに隣接する扉)のボタンを押して一か所のドアを開いて安全を確認し、「他の戸」のボタンで全部の扉を開くという仕組みが採用されていました。運転台です。人形が配置されているため良く見えませんが、路面電車などと同様の運転台となっているようです。車内での禁止事項を記した注意書きです。現在のマナー啓発ポスターにも通じるものがあります。製造銘板です。1001号車は昭和二年(1927年)日本車輌製で、銘板はお洒落なデザインです。ちなみに、現在東京メトロ銀座線で活躍している1000系も全編成が日本車輌製となっています。1001号車の展示されているスペースは、開業当時の上野駅をモチーフにしています。当時の駅名標や広告も復元されています。広告にある「地下鉄ストア」は現在の「駅ナカ」のルーツにあたるもので、東京地下鉄道が地下鉄の需要喚起と増収を意図して直営で運営していました。上野駅の「地下鉄ストア」は現在の「エチカフィット上野」の前身となっています。
2020.03.11
地下鉄博物館に展示されている、丸ノ内線の初代車両300形のトップナンバー、301号車を掲載します。1954年の丸ノ内線開業前の1953年に製造された車両で、国内で唯一残る300形として貴重な存在となっています。博物館に入るとすぐに見えてくる鮮やかな赤色の電車、それが301号車です。赤色の鮮やかな車体に白い帯が入り、銀色の波模様(サインウェーブ)が入るお洒落なデザインです。当時は非常に画期的で斬新なデザインで、初めて見た人は驚いたことでしょう。前照灯も点灯した状態で展示されており、まるで現役の車両のようです。300形、400形、500形の一部(569~645号車)では行先表示器の両脇に標識灯が設置されていました。当初、この標識灯は行先を示しており、青色(「池」のイメージ)が池袋行き、緑色(「お茶」のイメージ)が御茶ノ水行きとなっていました。標識灯は丸ノ内線の延長に伴って、のちに点灯が停止されています。車内です。特徴的なピンク色の壁面と、えんじ色の座席モケットが特徴的です。吊革は当初「リコ式」と呼ばれる、ばねを用いた跳ね上げ式のものが設置されていましたが、後年の更新工事に伴って丸型の通常のものに交換されています。運転台もピンク色に塗装されています。車内に複数設置された非常灯です。当時の丸ノ内線はポイント通過時に通電が一瞬停止しており、その際に点灯していました。1950~60年代の路線図も見ることができました。窓には「帝都高速度交通営団」のステッカーが残されていました。車番表記です。プレートではなく、壁面に直書きされていたようです。以前「ポッポの丘」で撮影した454号車も同様でした。製造銘板です。昭和28年(1953年)、汽車会社東京製作所で製造されています。
2020.03.04
今回は、183系・113系の隣に保存されている24系客車を見ていきます。DE10 30号機の後ろに、かつて「日本海」などで活躍したオロネ24 2、オハネフ24 2の2両が保存されています。オロネ24 2です。オロネ24は、2段式(プルマン式)のA寝台車として製造された車両で、3段式寝台よりも少し豪華な寝台を備えているのが特徴です。最後まで残ったのは2、4、5の3両で、「日本海」で活躍しました。オロネ24は最後まで残った3両すべてが保存されており、「ポッポの丘」の2のほか、京都鉄道博物館に4、岩手県岩泉町の「ふれあいらんど岩泉」に5が保存されています。オハネフ24 2です。オハネフ24は3段式B寝台を備え、ブレーキを装備した緩急車です。こちらの車両も「日本海」で活躍し、最後まで残ったオハネフ24の中で最も若い番号でした。車両の方向幕は破れてしまっています。
2019.12.24
続いては113系です。私が通学などでお世話になった車両で、房総地区の普通列車といえば113系といえるほど定着していました。保存されている2両とも、私の思い出の車両です。左からクハ111-1072、クハ111-2152です。このように並ぶと、113系1000番台と2000番台の顔の違いがよくわかります。クハ111-1072です。総武快速線用として製造された113系1000番台で、当初は大船電車区(現在の鎌倉車両センター)に配置され、のちに幕張電車区(幕張車両センター)に転属しました。総武快速線で活躍し、同線へのE217系導入後は房総各線で活躍していました。末期には4両編成のマリ218編成に組み込まれていました。製造から廃車まで一貫して横須賀色でした。千葉駅で撮影したマリ218編成の現役時代の写真です。幕張の1000番台クハは踏切事故対策で前面が強化されアンチクライマーを装備した車両が多かったものの、この編成はアンチクライマーがなく、比較的原形をとどめていました。クハ111-2152です。東海道線用としてシートピッチの改善などの改良を施した113系2000番台で、当初は田町電車区(現在の東京総合車両センター田町センター)に配置され、その後国府津電車区(国府津車両センター)に転属し、東海道線へのE231系導入に伴って幕張車両センターに転属しました。幕張では4両のマリ117編成に組み込まれました。幕張への転属時に横須賀色に変更されましたが、2009年に湘南色に変更され、廃車まで湘南色のまま房総各線で活躍しました。また、湘南色であることを生かし、東海道線のリバイバル運行などにも使用された実績があります。千葉駅で撮影したマリ117編成の現役時代の写真です。多数の横須賀色の中に混じって湘南色が活躍する姿は、房総各線に花を添える存在でした。2両の113系はいずれもカットモデルですが、1000番台・2000番台の保存車としては唯一の存在で、113系が使用されていた房総各線の思い出をよみがえらせてくれます。
2019.12.19
今回は、「ポッポの丘」の保存車両の中でも象徴的な存在の、183系と113系を掲載します。「その5」では、房総特急で活躍した183系を取り上げます。「その4」までで掲載した車両の置いてある場所から、坂道を上った丘の上に113系と183系が保存されています。左から183系のクハ183-1527、クハ183-21、113系のクハ111-1072、クハ111-2152です。クハ183-1527のみ完全な形で保存され、残る3両は先頭部のみのカットモデルとなっています。まずはクハ183-1527です。183系1000番台(1500番台)のこの車両は当初「クハ183-1027」として新潟に配置され、「とき」などで活躍しました。上越新幹線の開通に伴い、1982年にATC取り付け改造が施されて幕張に転属し、「クハ183-1527」と改番されました。JR化後も主に房総特急用として活躍しましたが、E257系が導入された2005年に波動輸送用として新前橋→大宮→長野と転属を繰り返しました。「ポッポの丘」には引退後の2015年に保存されました。ヘッドマークは「わかしお」を表示しています。現役時代の写真を撮影した記憶がありますが、探せませんでした。こちらはクハ183-21です。183系0番台は、東京地下駅に乗り入れさせるために当初からATCを装備し、前面に貫通扉が装備されているのが大きな特徴です。0番台は登場から廃車まで房総特急で使用され続けた車両が多く、このクハ183-21も2005年の廃車まで房総特急で活躍していました。カットモデルですが、0番台の保存車両はこの1両しかないため貴重な存在です。
2019.12.15
今回は、営団丸ノ内線で活躍した400形454号車を掲載します。丸ノ内線の初代車両で、赤い塗色と「サインウェーブ」と呼ばれる波型が入る白い帯で丸ノ内線のイメージを決定づける車両となった300形の改良型として生まれた400形の、数少ない保存車両となっています。丸ノ内線454号車は、場内の奥に展示されています。現役時代と変わらない鮮やかな赤色が良く目立っています。400形を含む丸ノ内線の初代車両は地下鉄博物館をはじめ、日本の様々な場所で展示されているほか、遠く離れたアルゼンチン・ブエノスアイレス地下鉄に渡ったものもあります。ブエノスアイレスに渡った車両も置き換えが始まっており、そのうち4両を東京メトロが買い戻して復活させたというニュースは大きな話題となりました。400形は、300形の改良版として1956年に登場しました。屋根の形状が300形と比べて変化していたり、軽量化が図られるなどマイナーチェンジが施されたモデルで、431~468号車までが存在します。(下2ケタは300形からの続き番号となっています。)導入当初は1両での運転もあったことから両運転台となっていますが、徐々に編成の中間に組み込まれることも多くなりました。しかし、300形のように運転台を撤去して中間車となった車両は1両もなく、300形の全廃よりも早い1991年に全車両が引退しています。引退後は数両が民間に売却されることとなり、この454号車もそのひとつで都内の幼稚園に売却されましたが、2012年にポッポの丘に移されています。車内です。座席モケットはビニール製のものに張り替えられていますが、網棚や吊革などはしっかりと残っています。車内の製造銘板です。川崎車輌(現・川崎重工業)製で、昭和31年(1956年)に製造されました。このタイプの銘板は初めて見ました。運転台です。レトロな雰囲気が漂います。車内には、営団時代の懐かしい路線図やステッカーが多く残っています。路線図はこの車両が活躍していた1991年ごろのものと思われ、西新宿駅(1996年開業)が未開業です。丸ノ内線・銀座線の旧型車両に特徴的だったのがこの非常灯です。第三軌条方式の車両は、主にポイントを通過する際に一時的に電気供給が行われなくなることから車内が消灯しており、その時にこの非常灯が点灯していました。ポイントは駅の直前にあったことから、消灯が駅に到着する合図のようになっていました。
2019.12.03
今回は、2012年まで久留里線で活躍していたキハ38 1を掲載します。キハ38は、国鉄時代末期の1986年に八高線用の車両として、キハ35を改造して生まれました。トイレ付きの0番台(1~4)と、トイレなしの1000番台(1001~1003)の7両が改造され、全車両が八高線で活躍しました。1996年の八高線八王子~高麗川間電化後は全車が久留里線に転属し、老朽化したキハ35系を置き換えました。1999年には写真のカラーリングに変更され、久留里線の主力車両として日々活躍しましたが、2012年のキハE130系導入により引退が決まりました。そのうち、0番台トップナンバーを「ポッポの丘」で保存することになり、現在に至ります。現役時代のキハ38 1です。上は木更津駅の留置線に停車中の姿(右側の車両)、下は久留里線を走るキハ38 1です。(前の車両)キハ38の保存車両はこの1両のみで、このほかにキハ38 1003が水島臨海鉄道に、残りの5両はミャンマー国鉄に譲渡されています。水島臨海の車両は国鉄標準色に変更され、ミャンマーではこの塗装のまま運用に就いているようです。車内です。キハ38のシートは1人分が独立した形のバケットシートとなっています。現在は写真などが展示されています。現役時代の車内です。現在は見ることができないので懐かしいです。トイレ前の座席はクロスシートとなっており、キハ38に乗る際には必ずこの部分に座っていました。天井に設置された扇風機と、半自動ドア用の押しボタンです。久留里線の国鉄型車両についていたマークです。木更津・君津・袖ヶ浦の3市をイメージしたマークでした。このマークも非常に懐かしいです。
2019.11.16
前回に引き続き、「ポッポの丘」の保存車両を掲載します。今回は千葉都市モノレール1000形第2編成です。1000形は1988年の千葉都市モノレール2号線の開業時に導入された懸垂式モノレール車両で、先に開業した湘南モノレールの車両をベースにしています。千葉都市モノレールの路線の延伸に伴って増備が進み、1999年まで断続的に製造されました。初期車は新型の0形「アーバンフライヤー」への置き換えが進められましたが、後期に製造された車両を中心に現在でも活躍しています。ポッポの丘では地面に直置きされています。車内です。初期車は吊革が丸型になっているのが特徴です。(後期車は三角形を採用)車内にはポッポの丘への搬入時の写真や、鉄道・バス関係のイラストなどが展示されています。この車両は運転台も見学できるようになっています。写真撮影用に帽子も置いてあります。車内にはプレート類も残っていました。千葉都市モノレールの車両は全車が三菱重工業製となっています。
2019.11.11
2019年9月に、千葉県いすみ市にある「ポッポの丘」に行ってきました。ここには、主に千葉県内を走っていた車両が屋外展示され、私設の保存車両を集めた施設では日本最大規模となっています。今回は銚子電鉄で活躍したデハ701・デハ702を掲載します。写真はデハ701です。デハ701・702は元々、近江鉄道が発注した1928年製の電動貨車(郵便荷物電車)デユワ101を1941年に旅客用車両として改造し、モハ51・52としたものです。1941年の改造時に車体は新製され、近江鉄道初の自動ドアを装備する車両として活躍していました。その後、1978年に2両とも銚子電鉄に譲渡され、2010年までの長きにわたり銚子電鉄で活躍し続けました。引退後にポッポの丘に引き取られ、2両なかよくのんびりと過ごしています。デハ701は、デハ801などと同じ茶色+赤色の銚子電鉄標準色で保存されています。車内はロングシートで、当時の吊革や網棚などが残ります。現在は鉄道関係の書籍を閲覧できるコーナーとなり、車内に家庭用エアコンが設置されています。車両前面部は備品などが置かれています。側面窓には、日よけとして木製の鎧戸が装備され、戦前製の電車の雰囲気を今に伝えています。デハ701・702は最後まで非冷房のままだったので、天井には扇風機が設置されています。こちらはデハ702です。デハ702は塗色が異なり、銚子電鉄の1960年代の水色ベースのカラーリングとなっています。現在は物販コーナーとなっています。
2019.11.08
JR横芝駅からほど近い場所に、かつて国鉄で使用されていた冷蔵貨車「レム5000形」の廃車体が置かれていました。有蓋車の廃車体を倉庫などとした例は数多いですが、冷蔵車の廃車体の利用例はあまり見かけないのではないでしょうか?レム5000形は1964年から製造開始された荷重15tの2軸冷蔵貨車で、主に鮮魚輸送などに使用されていました。かつて「レム」を名乗ったレム1形、レム400形では保冷性能の不足などの問題点があり、イメージアップのため青帯を巻いていたことが大きな特徴です。この廃車体は「レム6049号」で、白い車体と特徴の青帯もそのまま残されています。車番表記です。検査表記類です。最終の検査は昭和54年8月となっています。「釧路車管」とは「釧路車両管理所」(現在のJR北海道釧路運輸車両所)の略で、北海道内で使用されていた車両のようです。貴重な冷蔵貨車でしたが、2018年5月に撤去作業が行われ、現在は姿を消しています。撮影は2011年1月です。
2018.05.16
こちらは上り線のトンネル名称一覧です。下り線同様、名称が不明なトンネルはありません。この区間では複線化時に建設されたトンネルを使用しているため、すべてのトンネルの名称に「新」がついています。〈中央本線 甲府~大月間上り線のトンネル一覧〉 ()は駅名、※は複線化されているトンネルを指す。番号は暫定、トンネル名称は太字で表記甲府~塩山 トンネルなし (塩山)1:新牛奥2:新岩戸 (勝沼ぶどう郷)3:新大日影4:新深沢5:新鶴瀬 (甲斐大和)6:新笹子 (笹子)7:新天神山※ (初狩) (大月)合計7か所
2015.08.26
前回の東京~大月間に続き、大月~甲府間のトンネル名称をまとめました。名称が不明なトンネルはありません。〈中央本線 大月~甲府間下り線のトンネル一覧〉 ()は駅名、※は複線化されているトンネルを指す。番号は暫定、トンネル名称は太字で表記 (大月) (初狩)1:新天神山※(笹子)2:笹子 (甲斐大和)3:鶴瀬4:新深沢第二5:新大日影第二 (勝沼ぶどう郷)6:岩戸7:牛奥第一8:牛奥第二 (塩山)塩山~甲府 トンネルなし合計8か所
2015.08.26
「その1」の続きです。東亜建設踏切からしばらく進むと安善運河を渡ります。鉄橋は近年塗り替えられたのか非常に綺麗でした。道路橋「安善橋」から安善方を見ます。旅客営業が行われていた当時、この付近に「安善橋駅」がありました。鉄橋を渡り終えた場所です。線路の脇にコンクリート製の車止めがありますが、かつてはもう1本線路があったようです。3か所目の踏切「三栄レギュレーター専用踏切」です。踏切から安善方を見ます。踏切の直前で分岐があり、線路が2本になります。4か所目の踏切「ニヤクコーポレーション踏切」です。手前の踏切とは10M程度しか離れておらず、隣接しています。浜安善方を見ます。このあたりから旧浜安善駅(かつての石油駅)の構内になります。かつては多くの線路が敷かれていたであろうヤードも縮小され、現在は線路が2本のみの小規模なヤードになっています。このヤードから米軍鶴見貯油施設エリアIへの専用線が分岐しています。上の写真が分岐部分で、下の写真が道路を横断する専用線です。道路を横断する部分には「とまれみよ」が設置されています。名称は「日石カルテックス踏切」です。道路を横断すると、そのすぐ先が米軍鶴見貯油施設エリアIへの入口です。ここにはゲートが設置されています。専用線は敷地内に入り、見えにくいですが写真真ん中の屋根のある部分が終端となっているようです。ここで石油を貨車に積載するようです。一方、旧石油支線は専用線の分岐部分から先で線路の数が減り、再び1本になります。そして、昭和シェル石油横浜事業所の付近が終点となります。この付近に近年まで旧浜安善駅の駅舎が残っていたほか、昭和シェルへの専用線などもありました。今回は鶴見線の支線の中で、私が最も見たかった石油支線を見ることができてよかったです。撮影日:15.04.26
2015.07.09
今回レポートするのは、鶴見線安善駅から延びている「旧石油支線」です。旧石油支線は鶴見線の前身、鶴見臨港鉄道の弁天橋~浜川崎間開業の1か月後の1926年4月に開業しました。終着駅は周辺に石油関連の企業が集中していたことから「石油駅」(のちの浜安善駅)という名称で、当初は旅客営業も行われていました。現在は支線全体が安善駅の構内という扱いになっていて、この支線とそこから分岐する米軍鶴見貯油施設専用線を利用し、横田基地へジェット燃料が輸送されています。以前はいくつかの企業の専用線が接続していましたが、現在は米軍専用線のみが残されています。写真は安善駅の駅名標と貨物ヤードです。写真ではほとんど見えませんが、旧石油支線はヤードの一番奥側から分岐しているようです。安善駅付近の「安善通り踏切」近くにある日本通運、JR貨物の関連施設です。この建物の裏手を旧石油支線が走っています。かつての旅客線は道路沿いに走っていて、この付近に旅客駅の「安善通駅」があったようです。この駅の先で安善駅からの線路に合流します。上の写真からしばらく海側に進むと、線路が見えるようになります。奥が安善駅で、フェンスの向こうは米軍鶴見貯油施設エリアIIです。かつての旅客線は写真奥のカーブ直前で分岐し、上記の「安善通駅」へまっすぐ向かっていたようです。ちなみに、この支線は非電化となっています。かつては電化されていたのか、気になりますね。旧石油支線から米軍鶴見貯油施設エリアIIに続く専用線が分岐しています。専用線の入口にはゲートがあり、英語で「GATE R.R. NO.1」と記載されています。(R.R.はRailRoadの略と思われます。)この専用線は2本あり、少し先にも同じような分岐とゲートがありました。この辺りは線路が2本敷設されています。フェンスの向こうは米軍施設なので、やたらと撮影できませんね。しばらく行くと最初の踏切が見えてきます。奥の線路は踏切直前で途切れています。旧石油支線最初の踏切である「日石踏切」です。この踏切は米軍鶴見貯油施設エリアIIへの入口となっています。踏切の詳細は別記事「踏切の旅~鶴見線」で紹介する予定です。日石踏切の少し先にある2か所目の踏切、「東亜建設踏切」です。このあたりの踏切はほとんどが沿線にある企業や施設のためのものとなっています。東亜建設踏切から安善方を見ます。浜安善方を見ます。踏切の脇に0.5キロポストがありました。(つづく)
2015.07.08
昨日、尾久車両センターの保留車だった14系「ゆとり」の展望車2両(スロフ14 701、スロフ14 702)が長野総合車両センターへ回送されたようです。「ゆとり」は、1983年に「サロンエクスプレス東京」の名前で登場したジョイフルトレインの先駆け的存在。コンパートメント座席と大きな窓を備えた展望室が印象的で、車体の上品なマルーン色とともにお洒落なイメージを醸し出す列車でした。「サロンエクスプレス東京」としては1997年に運用を終えましたが、その後にお座敷に改造され「ゆとり」と改められました。この時には車体の外観や車両番号は変化せず、「サロンエクスプレス東京」の上品なイメージを残していました。しかし客車列車の運用に手間がかかることや車両の老朽化などもあり、2008年に引退し中間車は廃車されてしまいました。展望車だけはその後も残っていましたが、長年屋外にあったため塗装の色あせや車体の腐食が進んでいました。そして、今回ついに廃車されることになったようです。この車両の消滅で、JR東日本の14系客車は名実ともに全廃となります。写真は昨年11月に尾久駅で撮影したもので、「尾久車両センターの留置車両」として当ブログで記事にしています。私は実際に乗ったこともなければ運用されていたところを見たこともありませんでしたが、こうした輝かしい経歴を誇る車両がなくなってしまうことは悲しいの一言です。14系「ゆとり」、本当にお疲れ様でした。
2015.07.08
足利駅前の広場に、かつて両毛線の貨物列車牽引で活躍したEF60形123号機が保存されています。EF60形は主に貨物列車の牽引用に製造された機関車で、東海道本線や東北本線など主要な幹線での貨物輸送に活躍しました。EF60形は途中で設計変更がされており、この123号機は前照灯が2灯になった後期型(5次車)です。前照灯が1つの前期型は現在も動態保存機として活躍する19号機がありますが、後期型は現在活躍しているものはなく貴重な存在です。パンタグラフを上げ、現役時代のように展示されています。車番部分です。製造銘板はなくなっています。運転台も見学できました。アナログな計器類が並びます。この123号機は貴重なEF60形後期型です。末永くこの地で保存されることを願っています。撮影日:14.09.20
2015.03.09
今日は1月15日、「115系の日」ということで、私が各地で撮影してきた115系電車を紹介していきます。まずは横須賀色。中央本線で長年活躍する115系300番台の塗装として親しまれてきましたが、2014年12月に豊田車両センターの115系300番台は引退しました。現在は長野総合車両センターのC1編成1本のみが横須賀色をまといます。写真は豊田車両センターの115系300番台、M9編成です。現在唯一の横須賀色となった長野総合車両センターの1000番台、C1編成。この編成がなくなると、115系の横須賀色は全滅となってしまいます。115系の代表的な塗装である湘南色。かつては高崎線、東北本線上野口や御殿場線、身延線などでも活躍していましたが、現在は両毛線、上越線など高崎地区のローカル線で活躍しています。写真は高崎車両センターの1000番台、T1143編成です。甲信地区でおなじみの長野色。中央本線をはじめ、篠ノ井線、大糸線、信越本線など広範囲で活躍しています。現在は211系の導入で数を減らしつつあり、徐々に貴重な存在になってきました。写真は長野総合車両センターの1000番台、C14編成です。新潟地区の115系の標準塗装となっている新潟色。新潟の115系の中でも、大規模なリニューアルがなされていない車両に施されることが多いようです。信越本線をはじめ、越後線、白新線など広範囲で活躍していますが、新潟地区では昨年E129系が導入され、徐々に数を減らしています。写真は新潟車両センターのL5編成です。先頭車は2000番台、中間車は0番台という変則的な編成です。最後を飾るのは新新潟色。車内の大規模なリニューアルがなされた編成に施されている塗装のようです。こちらも新潟地区の各線で活躍しています。写真は新潟車両センターの1000番台、N3編成です。115系は国鉄近郊型電車のベストセラーとして、現在でも各地で活躍を続けています。しかし、製造から35~40年近く経過した車両も多くなり淘汰が進みつつあります。115系の活躍を、今後も見守っていきたいと思います。
2015.01.15
今日は1月13日、「113系の日」ということで、私が撮影した房総の113系を掲載していきます。東海道線で活躍していた0番台、2000番台で構成されるマリ107編成です。こちらはマリ111編成。107と同様、東海道線で活躍していた0番台、2000番台で構成されています。総武快速線用として製造された1000番台で構成されるマリ211編成。1000番台の編成の多くは、前面が強化改造され力強い表情になっていたのが特徴的でした。こちらのマリ218編成はオリジナルの表情を維持していました。湘南色で人気の高かったマリ117編成。2000番台のみで構成されています。こちらも湘南色のマリS62編成。千葉方の先頭車は1000番台なので、マリ117とは表情が異なります。房総の113系はすでに全車が引退してしまいましたが、思い出深い車両としてこれからも心の中に生き続けていくと思います。
2015.01.13
先述のオシ24とともに保留車になっている、オロネ25 7です。こちらもオシ24と同様、2006年まで「出雲」で活躍しました。オロネ25型は、個室A寝台車として1976年から製造されました。それまでは開放式のA寝台が主流でしたが、この車両の登場により寝台列車の個室化が進み、プライバシーが守られるようになりました。1986年からは「シングルDX」の愛称がついています。「北斗星」用として、オハネ25から改造された500番台もありますが、この車両は当初からオロネ25として製造されています。「出雲」の貴重な方向幕です。車番です。オロネ25の後部には、「北斗星」で活躍するオロハネ24 501も連結されていました。この車両は14系のオハ14形から改造された車両で、オハネ24から改造されたオロハネ24 550番台とは車内の構成が異なります。オロハネ24 500番台はこの1両しかなく、予備扱いで使用される機会も少ないため今回見られてよかったです。「北斗星」として実際に運行されているところを見てみたいです…尾久駅のホームから、こんなに貴重な車両たちを見ることができて本当に嬉しく思いました。撮影日:14.11.25
2014.12.26
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