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本日は元勤務していた会社の元役員であったK氏の葬儀に参列すべく、西宮市まで出掛けて来た。K氏のご冥福をお祈り申し上げます。葬儀の後、入社同期のO君と梅田まで一緒に帰り、昼食を共にして、帰宅。 夕刻は大学同期のF君、D君、M君との会食の約束あり、心斎橋まで再び外出。夜更けての駅からの帰り道、漸く五分咲き位まで咲いた桜の花と三日月との競演を見させて戴きました。 と、まあ、そんな次第にて、本日も「偐万葉」といたします。今回は「カマトポチ篇」であります。この方は、東京在住、ご自宅から勤務先である丸の内の会社まで、自転車でご通勤されることもあるという、言わば「同好の士」のブログ友達である。この方のブログは写真が何と言っても素晴らしい。 偐家持のカマト朝臣ポチ麻呂に贈りて詠める歌37首桜花 散りぬるあとの さみどりの 風もさやけき 銀輪の道銀輪も ふたつたぐひぬ 浜風に 吹かれて妹と 寄り添ひゆけば銀輪を 駆けてや背子の ゆく道を 思ひて我も 草の道ゆくさみどりの 風めぐるらし 銀輪の 背子が見つけし をちこちの景小百合花 後(ゆり)も逢はめや 我妹子の 笑みといふべし 夏野の風も朝露を 負ひて咲くらむ 朝顔の 花も入谷の 江戸町娘安曇野の 夏野の風は 我妹子の 笑みと吹くらし 木陰に寄らむ遠山に 雲は立ちけり 水清み 夢の雫の 隠れ道ゆくさみどりの 風に群れ舞ふ 白鷺の 花と咲きしや 夏草の夢朝露と こぼれし夢の 夏の野に 咲きて舞ひけり 白鷺の花空高く 泳げる魚(いを)の ゆく見れば 水なき空に 波ぞ立ちける卯の鼻の 椅子の陰より 見え隠れ 上目使いに 何や気を引く秋づけば 風もさやけき 墨田川 下りゆくらし 水の旅人甘き香の 風吹き渡りゆく 秋の苑 咲きて思はゆ 薔薇(そうび)の花よ角館(かくのだて) 雨もゆかしき 武家屋敷 濡れてもみつ葉 秋こそ益され秋の野に ダリアの花の 咲く見れば 風立ちぬらし 恋しひとありみちのくの 秋は深みか もみぢ葉に 映えてぞ青き 高々の空金色(こんじき)の もみつ葉光り 黒々と 立ちて語らず 銀杏の古木(こぼく)秋の葉の 匂へる吾妻 相見ての うれし笑まひぞ 高尾の山はいざ行かな 照る日の秋の 高尾山 はしき吾妹と もみぢ葉狩らむもみぢ葉に 染みたるみなも ゆく鴨の 寄りて添ふらし 波の光りてあかがねの 色は年経て 神さぶる みどりあをめる 色とやなれり春立つ日 近づくらしも 寒桜 水仙白梅 咲き競ふ見れば乙女らは 何や語らふ 春待ちの 木立にこぼる 日のやはらかき天地人 いづれがそれと 行く先に 皇子(みこ)とし見ゆる 皇女(ひめみこ)のあり見る人の 見るがままには 皇子(みこ)なれど よく見てひめと 見よといふらんミモザは 青き空にぞ 似合ふらし 背子ゆく道の かたへに咲けば見る人の なけれ春野に 咲きてある 瑠璃唐草(るりからくさ)の ごとくやあらむ 見上ぐれば いつしか我も 異邦人 モスクの屋根に 雲の波立つめくられて 少し慌てて いるならん 水仙水面 見るひまの無き邯鄲の 夢や覚めにし 水仙の 花も己れを 夢と知るなり背子のゆく 雲の山道(やまぢ)の いかなるも ひとり越ゆらむ 照る月もがも葉漏れ日の 椿の森の 道踏みて 春をや行かむ 花の下陰モクレンの 花咲く春の 大空は あまをとめらの さざめくならし桜花 咲くをし待てば 気もそぞろ 魂もあくがれ さ迷ふらんか 桜花 六義園(むくさのその)に 枝垂れては 歌にも詠めと 今盛りなり ナルシスの ことは知らじな 敷島の 大和にしあれ 花うつむきぬ (写真はカマトポチ氏のブログからの転載です。)
2009.03.31
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今日は何故か家で一人お留守番です。 だから、という訳でもありませんが、ビターcさんのブログに書き込んだ偐家持の歌をここに転載して置きます。 ビターcさんは本ブログをお気に入りに登録戴いた最初の方で、長野県上田市ご在住。千曲に旅行した際には、メールを頂戴したりもしたブログ友・メル友であります。この方にお贈りした歌は実に47首にもなっていました。 偐家持がビター朝臣C麻呂に贈りて詠める歌47首信濃路を ゆける五輪の 聖なる火 ひとを繋げる 火とやならまし神の火に ひと争ひを 止むなるを 国威の火とや いつしなりけむ信濃なる 浅間の山に 立つ雲の なびける見れば 妹し恋ふらし春暮れて 千曲の川の さや風は 浅間の山ゆ 吹きて来るかも雪柳 白き焔(ほむら)に 咲き群れて 我を迎へし ふるさとの家ほのぼのと ま白き花の 好き好きに 風にぞ揺れし 花ゆきやなぎゆきやなぎ 咲きて何やら うれしきに 妹としゆける ふるさとの道モクレンの 花の下かげ 信濃路を ゆけば遠山 霞みてはるかモクレンの 香りほのかに 夕影の 信濃の春を うらうらゆかむ我()を待ちし 固きたけのこ 父の笑み 何とは言はね ふるさとの風八重原の 田の面(も)の風の 道ゆけば 父とゆきにし 日にや恋ふらむ我が背子の 愛(め)でし茄子はも 紫の 花の咲き初(そ)め さ夜葉々包(ははつつ)みくちなしは 咲けど悲しき 片恋の 花にしあれば 涙含(ふふ)めりくちなしの 花咲く朝の 道ゆく子 露に濡らさね 赤き裳裾を上田原 暮れかかりぬる 黒雲(くろくも)の 空に戦(いくさ)の 影や見えけるもののふの 残せる思(も)ひの 上田原 雲立ち風は 徒(いたづら)に吹く夕照の 光やはらに 銀輪の 影に暮れゆく 日をぞ惜しまむスローライフ なりせば見ゆる もののあり 過ぎゆく道の 草もいとしき珠敷くや 苔さみどりに 木末(こぬれ)吹く 湿(しめ)れる風の 我包みゆく朝露も 赤きトマトに 残るらむ 我育みし いのち斎(いは)ひつ我が背子は 空の詩人(うたびと) 雲とゆく 夏野の朝の 空駆けるらし浅間山 遠みはるけく 白雲の 立ちてありけり 雷電の里夏草は 風にさやぎて 道の駅 寄れば浅間の 山に雲立ち千曲川 流れ流れて ありにけり 大屋が原の 夏の夕暮れ青き実は 空の色にぞ 染むなれば 遠き夏野の 空の味する玉かぎる ほのかに見えし 大空の 二人の道の 今日は逢ひてし山の端に いざよふ雲は いちしろく まろびぞ出でし 恋の色かも笑みし子の 手に金色(こんじき)の 光あり 明日をはばたく 翼とならめ夕されば 胡瓜の蔓を つたひ来る 天使の影の 空に見ゆらし夕されば 水面(みなも)鏡に 背子の思(も)ひ 映しゆくらし 千曲の川はくれなゐに 空燃ゆるらし 夕暮れて なほしぞ行かむ 千曲川の辺よきことの よしとあれかし 千曲なる 上田の空も 山も燃ゆなる蝉鳴ける 朝にオクラの 花咲きて やはらに時は 流れゆくなりなすことも なしや上田の 茄子の朝 オクラ枕き 朝寝するらしぬばたまの 黒きアゲハの 舞ひ来れば 夏野の空に 小百合花咲くをのこやは 悲しかるべき かまきりの 妹し恋ふれば 命果てなむ穂の上(へ)吹く 薄(すすき)の風に あきらけき 月は照りたり 千曲ぞ恋ひし柿の実の 枝もたははに 日は照りて 白き浅間の 山に向かひぬ白鹿と なりて菩薩の 導ける かけゆゆかしき 湯里のけむり蓼科の 山青みかも 南風 連れ来や春の 近づくらしも春待ちの 雪野の原は 光りてし 花咲くときの 近づくらしも春待つや 関の松が枝 渡る風 雪の浅間の 山ゆ吹くらむ五郎兵衛の 桜の枝の 芽吹く風 雪の浅間も 春や待つらし春浅き 信濃外山(とやま)の 城跡に 浅間見むとて 我は来にけり信濃なる 外山(とやま)の城の 跡踏めば 雪の浅間に 雲立ちなびく浅間山 雲立ちなびき いや遠に ゆきて見が欲し 千曲の春を布引きの 岩に糸引く 白滝の 絶えずもあらめ また還り見む(写真はビターc氏のブログからの転載です。)
2009.03.30
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本日は本ブログ1月17日の記事でも紹介した、大阪よみうり文化センター主催の万葉講演会「万葉集の魅力」を聴講して来ました。会場入り口で若草のメンバーの凡鬼さんとその夫人景郎女様と小万知様と合流し、席を並べて聴講いたしました。佐々木幸綱先生の、「われ」に焦点を当てて、万葉歌をその当時の我が国の在り様、人々の意識の在り様から読み解くという、分かり易いお話も面白かったし、壇ふみさんの万葉歌の朗詠も素敵でした。天理大学雅楽部による、舞楽「柳花苑」も雅にて楽しませて戴きました。と言うか、よい心地にさせて戴きました。第二部の坂本信幸先生、佐々木幸綱先生、壇ふみさんによる万葉鼎談も親しみやすく、楽しいお話で、万葉の世界にしばし遊ぶという心地でありました。(左から、坂本先生、壇ふみさん、佐々木先生) 会場では、大学同期のF君と久しぶりに顔を合わせた他、茨田童子さんやヤカタノオオキミさん等もお見えになっていて、ご挨拶させて戴きました。(舞楽「柳花苑」 by天理大学雅楽部)<追記>siinomiさんのコメントへの返事を書いていて思い出しましたので、追記して置きます。本日の講演をもっと深く理解したい方には佐々木幸綱著「万葉集の<われ>」(角川選書)がお薦めです。
2009.03.29
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第30回智麻呂絵画展 本日は銀輪散歩の途中で、久しぶりに智麻呂邸にお邪魔させて戴いた。沢山の絵がたまっていたので撮影させて戴きました。よって第30回絵画展という次第。第30回記念に絵画の点数も12点と少し多めになりました。(椿・羽衣)(椿・羽衣)(椿・朴伴)ひと枝の 椿の春を 持ち来たる 人の心も 春もやさしき (偐家持) (ヒヤシンス) 上の絵と下左の絵のヒヤシンスは共に、小万知さんがお届け下さったもの。下右の赤い花はよく見かける花だが、名前がど忘れして思い出せない。先週に彦根に小旅行をされた時に、智麻呂氏が鉢植えを買って来られたものである。今、思い出しました。ゼラニウムですな。ヒヤシンス 咲ける窓辺の 春の風 吹かれて我も 蝶にもがもな (偐家持)(柚子) 此の絵は、智麻呂氏の大学時代からの無二の親友K氏の智麻呂氏への最後の便りに描かれてあった絵を、智麻呂氏が写生されたもの。群馬在住のK氏も絵がご趣味で油絵を描いて居られたそうですが、先般お亡くなりになりました。智麻呂氏にとってはお寂しい限りとご推察いたしますが、きっと、この絵は亡き友人を偲び、その鎮魂の意味でもあるのかも知れません。小生も、あらためて、茲に、K氏のご冥福をお祈り申し上げるものであります。柚子の実も 二つやあるを 君逝きて 青める春の 空のかなしき (偐家持)(蜜柑) こちらの蜜柑は、智麻呂氏の「ガールフレンド」なるご婦人が智麻呂氏に下さったものとか、奥様の恒郎女様曰く、「うちのお父ちゃんはモテ過ぎて困ります(笑)」。ごもっとも。誰からも好かれ、愛される智麻呂氏なのである。ファンがあちらこちらにいらしても、何らおかしくはないのである。(蘭と鈴蘭水仙<スノーフレーク>)スズランの 軽(かろ)き風の音(と) まどろみの 夢にも聞かな 少女(をとめ)らのゆく (偐家持)
2009.03.28
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最近、他人様のブログを訪問しては、コメントに和歌を書き入れたりすることが多いのですが、そのうちの一つ松風6923氏のブログに書き込んだ歌も数えてみると本日で35首にもなっています。折角なので、これも本歌集に掲載して置くこととします。その他の方に贈った歌も折々に本歌集に掲載することと致します。<偐家持が松風麻呂に贈りて詠める歌35首>くれなゐの 花咲く見れば あづま屋の 風車の丘に 春の来るらし神さぶる 古木(こぼく)の皺に 光降り 野火の煙に 春立つらしも朝寒に 冬は残れど 光降り 鳥鳴き飛びて 春となるらし降り積める 檜葉の道ゆく 樹の下の かたへに草も 春や待つらむ 大池の 東は春の 苑ならし とりどり色の 遊べる見れば風花の 舞ひてや来らむ 鶴見なる 野の上(へ)のポプラ ひとりかも立つ沫雪(あはゆき)の 流れゆくかも ポプラの樹 白き真綿の 種散るも見むゆりかもめ いづちゆくらむ 大池の 空に飛び立つ 春べの青き大石の ひとつありけり 日の差せば 陰影(かげ)の生まれて ものや云ふらし野芥子(のげし)咲く 庭の片辺(かたへ)の 春や見む 背子が見しまま 描きしままに朝寒の 冬の名残りや 吹く風の 流るる色に 春の覚めゆく大池も 花の祭の 年経(ふ)りて 鴨ゆく波の 白くのみ立つ青々と なびける春の 生駒山 背子に恋ひつつ 笑みや贈れるただそこに ありてありける 倒木の 片辺に枯れて 草の揺れけり 雨止みて 君が手熟(てな)れの 筆走り 濡れて黒める 木々の息づく ポプラらも 並びて背伸び するならむ 空に駆け行く 児らの声して雑木らも 人のまだ来ぬ 朝の間を 枝さし交はし 春をや踊るたな曇り 春風寒き 丘辺には まだ見ぬ夢の 薄き色ありがまずみは 照れる冬日に 散らずあり いのちの痕(あと)ぞ 葉に残しつついづちやも 魂のゆくらむ 蟋蟀の 夢と見えきや ひがれ葉の陰やはらなる 春日の照れば 木々もまた ゆるり語らひ 始むるならし太古より 我ここに在り 水底(みなそこ)の 青き孤独の 時の記憶の教へ子の 笑みの嬉しみ 大池の 水面に春の 空も笑むらし大池の 水面に映す 春の笑み 見よとや背子の さし招くらむ我が行きは 風のまにまに 生駒山 雲な隠しそ 見つつぞ行くに薄ぎぬの 淡き紫 立ち流る 色にもはやしの 春見む我は春風は 淡き色にぞ 吹くならむ 木の影揺らし 渡りゆく見ゆあした見る 今日の夢かも 春日(はるひ)照る 白き坂道 来る人のあり鶴見なる 風の丘辺の 白き道 ゆくなる背子に 春の日照れり菜の花の 風吹き渡り ゆく丘の 風車は赤き 色の春なれ風吹けば 風がままにと 大木(おほき)あり 春の日照らば 何や求めむ鶴見野は 春野の花の 盛りなり 照る日が丘の 木も芽吹くらし野守ゆく 鶴見の広野 春霧れて 朝風寒く 大和し思ほゆ 橡(つるばみ)の 鶴見の杜の 細き道 行けばうつぎの 芽吹きの青き春の道 日の照る丘辺 やはらかく 行かめや我も 芽吹くその道
2009.03.27
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今日は母校の卒業式。全学の卒業式の後、各学部に分かれての学位授与式があり、法学部同窓会長としての祝辞を述べるため、学位授与式に出席。その後の卒業記念パーティーは、我々同窓会主催、学生たちの企画運営という方式でやるので、これにも出席。今月末日に任期満了で会長職を退任するので、これが会長としての最後のお勤めでありました。やれやれです(笑)。 祝辞は大したことも話せないので、最後に、例によって、自作の万葉調の和歌を「犬養節」で朗誦してお祝いとした。後のパーティーの時に、学生から、「みんな決まり切った形の祝辞が多いので、万葉の話と歌は意外で、新鮮で、印象的でした。」と好意的な言葉を戴き、嬉しく思いました。 前会長他に無理矢理に引受けさせられた会長職であったが、まあ、いい経験をさせて戴いたものだと、今は思っています(笑)。いざ出でな 道の幸(さ)きけと 桜花 今し咲くらむ 待兼の山 (偐家持)(卒業記念パーティー) お陰でWBC決勝戦最後までは見れなかったが、夜のニュースなどでたっぷりと見させて戴きました(笑)。サムライ日本(ジャパン)、おめでとう!
2009.03.24
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もう10日位前のことになるが、友人の蝶麻呂氏が蝶と遊びに八重山諸島に出かけ、旅先から蝶の写真を送って来てくれていたので、紹介して置きます。彼とは1月に山登りを一緒にして以来ご無沙汰している。(八重山の海)(ヤエヤマカラスアゲハ)<写真提供:虫養蝶麻呂氏>
2009.03.23
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本日は久しぶりに偐山頭火氏との銀輪万葉の旅である。 飛鳥、甘樫丘地区にある国営飛鳥歴史公園の駐車場に車を停め、自転車を降ろして出発。 さて、何処へ行く?行く先は大和高田市の奥田蓮池にあるとかいう役の行者(役小角)の母親、刀良売(とらめ)の墓と決めていたが、どういうコースで行くかは決めていないという、いつもいい加減な二人なのである。偐山頭火氏の「大神神社に寄ってゆこうか。」との言葉に従い、取り敢えず三輪山方向に走ることに。初瀬川(大和川)を渡って、先ず、海石榴市(つばいち)観音の辻にて、今東光筆の歌碑(巻12-3101)に挨拶。(万葉歌碑3101)紫は 灰さすものぞ 海石榴市の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 逢へる児や誰(たれ) (巻12-3101)たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路(みち)行く人を 誰と知りてか (巻12-3102) 次に、志貴御縣神社に立ち寄る。ここは第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮の跡とされている。境内にはその旨の石碑があり、山口誓子筆の万葉歌碑もある。 山辺の道は歩く細道なので、我々はMTB故、その道は取らず、広い道を迂回し、大神神社の鳥居前に向かう。そこで昼食を取ろうという次第。(志貴御縣神社)(万葉歌碑・巻13-3249)しき島の 日本(やまと)の国に 人多(さは)に 満ちてあれども 藤波の 思ひまつはり 若草の 思ひつきにし 君が目に 恋ひや明かさむ 長きこの夜を (巻13-3248) 反歌しき島の 日本の国に 人二人 ありとし思はば 何かなげかむ (巻13-3249)(崇神天皇磯城瑞籬宮址碑) 大神神社の鳥居前で昼食後、大和三山を一望できる道に行き、カマトポチ氏のご期待にいくらかでも添うべく、三山を写真に撮りましたが、山が遠過ぎますかな。(大和三山――左から香具山、大鳥居、畝傍山、建物の後に耳成山)香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくなるらし いにしへも しかなれこそ うつせみも つまを 争ふらしき (中大兄皇子 巻3-13) 箸墓古墳が目に入ったので、立ち寄って行く。古墳の前の池の堤に立って、来た方向を振り返ると、右に三輪山、左に穴師山、その間の奥に巻向山と弓月が嶽が見える。人麻呂も眺めた風景であるか。さらに左に目を転じると、写真には入っていないが、引手の山、竜王山が続いている。 箸墓を後にして大和高田の奥田蓮池を目指す。泊瀬川(大和川)を渡る。川面が光って眩しい。(初瀬川<泊瀬川>) 大和高田は思った以上に遠かったが、飛鳥川、寺川などを越えて、葛城川に辿り着く。ひとつ西の高田川は桜の美しいことで有名であるが、ここ葛城川も桜並木がある。未だほんの一部咲き初めたばかりにて、見頃は少し先のよう。 期待した刀良売の墓は、どうやら最近出来たばかりのようで、新しくて、古めかしさ、趣きに欠けるものでありました。まあ、墓に趣きも何もあったものではないのではあるが・・。 刀良売(とらめ)の墓の場所を地元の方に尋ねると、「とらめさんの墓は・・」と教えて下さった。「〇〇さん」と、まるでご近所の先頃お亡くなりになった「おばあちゃん」ででもあるかのような、その呼び方からして地元の方が刀良売に親近感を抱いて居られ、彼女のことを大切に思って居られることがよく分かるのであった。(とらめの墓)<墓の後方に見える山は二上山である。>(奥田蓮池)(役小角生誕伝承地の碑) 上の碑に記されている文章は以下の通り。 奥田蓮池のひとつ目蛙 役の行者の母刀良売は この蓮池の近くで療養していましたが ある朝 池の中の捨篠神社に詣でました すると 池の中から光かがやく蓮の茎がのび ふたつの白蓮が咲いたのです 蓮のうてなでは金色の蛙が鳴いていました 刀良売は何げなく 萱を一本抜きとって蛙に投げると あろうことか蛙の目を射ぬき 片目を失った蛙は水の中へ沈んでいきました そして あたり一面を彩っていた五色の露と白蓮は消えて もとの土色になったひとつ目蛙が浮かび上がってきたのです 刀良売はそれから重態になり とうとう亡くなってしまいました 母を失った役の行者は このことを契機に発心 葛城山で修行を積み修験道を開いたのです そして 吉野の山奥にわけ入り 蔵王権現をあがめ 蛙の追善供養と母の菩提をとむらいました いまも毎年七月七日には 奥田の村人が早朝から蓮池の蓮一〇八本を切り取り刀良売塚に詣でた後 吉野山蔵王堂に持参し 蓮華会の行事の一つである「蛙とび」がおこなわれます そして翌日 蔵王堂から大峰山への沿道のお堂に蓮を献じて 蛙の供養をしています<奥田蓮池の一つ目蛙>――――――――――――――――――後日に偐家持の詠める歌三首忍坂(おっさか)の 山はいづこや 分け入れば 行けども行けど 辛(から)き坂道つばいちの 八十のちまたに 逢へる児は いづち行かめや 春日の照れり枯れ果てぬ 奥田の池の はちす葉の 水面(みなも)の影か 刀良売の悲しーーーーーーーーーーーーーーーーー
2009.03.20
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本日は大学の同窓会の新会長副会長懇親会ということで、前会長も参加せよとの新会長の仰せに従い、参加すべく、梅田まで出かけた。4月1日からお世話いただく新しい役員の方々と楽しい会食のひと時を過ごさせて戴いた。 出がけに、拙宅から駅への道の辺にあるM邸の庭のハクモクレンが見事に咲いていたので、写真に撮りました。「大和はまほろば」氏のブログでハクモクレンが紹介されていたのと、カマトポチ氏のブログで美しいピンクのモクレンが紹介されていたことに触発されての、小生の一枚、という訳である。輝く白さが写真ではうまく出ていませんので、失敗作ですな。(白木蓮) 懇親会の会場へと向かう途中、中之島公園を通ったので、公会堂なども写真に撮ってみました。今回も「人が写ってない」、とnanasuguさんに言われそうですが。(水晶橋)(中之島公会堂)
2009.03.19
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<昨日の続きです。>和歌の浦、片男波公園に紀伊万葉に関する展示をしている「万葉館」がある。覗いてみることにした。 万葉館の先に「万葉の小道」と名づけられた散歩道があり、万葉歌碑がいくつか並んでいる。しばし万葉の世界をお散歩下さいませ。衣手の 真若の浦の 真砂子地(まなごつち) 間なく時なし わが恋ふらくは (巻12-3168)玉津島 よく見ていませ あをによし 平城(なら)なる人の 待ち問はばいかに (巻7-1215)玉津島 見るが善(よ)けくも 吾は無し 京(みやこ)に行きて 恋ひまく思(も)へば (巻7-1217)名草山 言にしありけり わが恋の 千重の一重も 慰めなくに (巻7-1213)若の浦に 袖さへぬれて 忘れ貝 拾(ひり)へど 妹は忘らえなくに (巻12-3175)若の浦に 白波立ちて 沖つ風 寒き暮(ゆふべ)は 大和し思ほゆ (巻7-1219) 万葉館の庭から東方を見やると、正面に名草山が見える。(名草山) 万葉館の写真、撮り忘れていました。館内の展示の人形「斑鳩の春」が唯一の写真なので、載せて置きます。紀伊万葉と関係ないようにも思いますが(笑)。(「斑鳩の春」) 和歌の浦と言えば山部赤人のこの歌であるが、この歌碑や不老橋、玉津島神社など和歌の浦の写真を撮り忘れたのは迂闊でした。 いずれまた、偐山頭火氏と訪ねることとなるでしょうから、その折のお楽しみにして置きます(笑)。若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る (山部赤人 巻6-919)<付録>(片男波海水浴場)(紀州東照宮)(和歌山城)
2009.03.18
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<昨日の続きです。>JR岩代駅まで電車で行き、そこから自転車で白浜を目指すこととする。昨年の2月14日に切目から岩代まで歩いた(「切目から岩代へ」)ので、今回はその先を自転車で走ってみようというもの。 まず、前回も立ち寄った岩代王子、「有間皇子結び松記念碑」、光照寺(門前に「有間皇子の歌碑」と「犬養万葉歌碑」がある。)に立ち寄りご挨拶をしてゆくことに。(岩代王子) 「熊野に向かう参詣道は、岩代王子から千里浜に出ます。天仁2年(1109)、熊野に参詣した藤原宗忠は、10月21日に「岩代王子」に奉幣し、その約100年後の建仁元年(1201)、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家も、10月12日に「磐白王子」に参拝しています。上皇や女院の御幸の時に、この王子社と那智浜の宮では、拝殿の板を削って、供奉人の名前と参詣の回数を連署し、打ち付ける習わしがありました。この習わしの様子は、定家の日記のほか、藤原頼資の承元4年(1210)、建保5年(1217)の日記にも記されています。また、「新古今和歌集」には、この習わしを真似て、拝殿の長押に書き付けた 「いはしろの神はしるらんしるべせよ頼む憂き世の夢の行くすゑ」という歌が載せられています。時代は降りますが、応永34年(1427)、熊野に参詣した足利義満の側室・北野殿は、9月25日に岩代王子の前で海に潜っていた「海士」に絹布などを与えています。明治時代には王子神社となり、後に八幡神社(現、西岩代八幡神社)に合祀されましたが、旧地に社殿は再建されました。」(現地案内表示板より)(有間皇子結び松記念碑)磐白の 濱松が枝を 引き結び まさきくあらば またかへり見む (有間皇子 巻2-141) 岩代の海岸に出ると遠く白浜の崎が望める。有間皇子は引き立てられてゆくかの地を望みながら、逃れられない死を覚悟しつつも、或いはと一縷の望みに賭けて、無事に帰って来てこの松を見ることができるようにと、祈る思いで枝を結んだのであろう。皇子は藤白坂で殺されているから、行きに結んだ岩代の松は無事に見ることが出来たことになるが、その後直ぐに殺されているのは皮肉なことである。この地まで帰って来た彼はどのような思いで自分の結んだ松の枝を眺めたのであろうか。(光照寺) この寺の門前左脇に上記の歌の歌碑と犬養万葉歌碑がある。(犬養万葉歌碑)君が代も わが世も知るや 磐白の 岡の草根を いざ結びてな (中皇命 巻1-10) この歌の作者の中皇命については、斉明天皇、間人皇女、倭大后などの説があるが、間人皇女と見るのが自然だろう。 光照寺を後にしてJR線と国道42号線を目印としつつ、これとつかず離れずに旧道などを走って、南部(みなべ)を目指す。程なく登り道に入り、岩代峠を越えると一気に爽快な下りとなる。峠で一休みして、見上げると早くも山桜が咲いていた。目の前を南部方面から坂を登って来た自転車旅行と思しき青年が小生の来た道へと通り過ぎて行った。春の午後の日差しがやわらかい。 岩代峠から国道42号線の坂道を下り切り、南部(みなべ)川にかかる南部大橋を渡ると海辺の道となる。目の前にエメラルド・グリーンの南部湾(みなべの浦)が開け、海面はキラキラと日に輝き、眩しい。少し冷たい風が火照った体に心地良い。(南部川ーー南部大橋から上流を望む。)(南部湾ーー沖に見える小島は鹿島。)三名部の浦 潮な満ちそね 鹿島なる 釣する海人(あま)を 見て帰り来む (巻9-1669)(南部の海辺) 南部の海辺の道から鹿島を写真に撮っていたら、ウォーキングの女性と行き合った。枚方の香里園に住んでおられたが、ご主人が定年退職されたのを機に、7年前にご主人のご出身地であるこちらに移り住まれたとのこと。 「いい処ですね。」などと申し上げると、「何にも無い処で、移って来た当座は、うつ状態になりました。」などと明るい声で仰る。(森の鼻から鹿島を望む。) 森の鼻から少し行った先の突堤で、今度はオートバイの男性と行き合う。話しかけると和歌山なまりの人懐っこい感じの方。白浜まで行くと言うと、あちらこちらの見どころを説明して下さって、気を付けてゆけと励まされる。(白浜への道)(白浜の道)(白浜) 岬を廻って牟婁の湯に立ち寄ってという計画だったが、地図を見ると、JR白浜駅とは随分遠くなってしまうので、途中で引き返し、駅への道を取ることにする。(白浜駅)風莫(かぜなし)の 濱の白波 いたづらに ここに寄り来る 見る人無しに (長意吉麻呂 巻9-1673) さて、和歌山まで戻って、明日は和歌の浦にでも行ってみるか。夜は和歌山城を散策してみましたが、殆ど人影もなく、ライトアップされた天守閣が幻想的。(和歌山城 夜景)(夢かうつつか幻か)
2009.03.17
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気分一新、久しぶりに電車&自転車で遠出をすることとした。 有間皇子ゆかりの藤白坂、岩代を訪ね、岩代からは、白浜まで折りたたみ自転車「トレンクル」でサイクリングして来ました。和歌山に宿泊し、ついでに和歌山城や和歌の浦を訪ね、片男波公園の万葉館も見学して来ました。 有間皇子は孝徳天皇の子である。大化改新の後、天皇に即位したのは皇極女帝の弟の軽皇子(孝徳天皇)であったが、政治の実権は中大兄皇子に握られ、孤立する中で、654年10月孝徳帝は病床に臥し、そのまま帰らぬ人となってしまう。天皇位は皇極が重祚(斉明)。有間皇子は天皇の子であるから、皇位継承権ありであるが、中大兄皇子が実権を掌握している政治状況では、むしろそれは生命の危険を意味していたのであろう。 日本書紀の記述によると、そのことを感じていた有間は狂人を装うが、斉明天皇、中大兄皇子らが牟婁の湯(紀の温泉。現、西牟婁郡白浜町湯崎)に出かけて都を留守にしている時に、留守官の蘇我赤兄から謀反をそそのかされ、これに乗せられてしまう。しかし、これは中大兄側の謀略で、その夜のうちに市経(いちぶ)にあった有間皇子の屋敷は赤兄の命を受けた役人たちに取り囲まれてしまう。謀反の嫌疑でとらわれた有間は紀の温泉に護送される。中大兄皇子の喚問に対し、有間は罠にかかったことを悟ってか、「天と赤兄と知る。吾、全(もはら)知らず。」とのみ答える。そして、都へと帰る有間皇子の一行が藤白の坂にさしかかった時に、丹比小沢連国襲(たぢひのをざはのむらじくにそ)に襲われ、有間はくびり殺されてしまう。時に有間19歳。非業の死である。 小生が高校一年の時、古文のA先生(彼女は、生徒からは「おばあちゃん」と呼ばれ、親しまれていた、名物先生であった。)が、授業で、この有間皇子の和歌を感情込めて朗誦され、決まって涙を流されたことが、忘れ難い思い出となっている。この先生の万葉歌の朗誦が強い印象となって、万葉歌に興味を覚えたのであったような気もする。まあ、そんなことで、本日は有間皇子が殺されたという藤白の坂を紹介して置きます。(藤白神社)(有間皇子歌碑)家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草まくら 旅にしあれば 椎の葉に盛る (有間皇子 巻-142)(有間皇子の墓) 歌碑と墓のある処から坂道は登りになってゆき、やがてきつい坂道となり、「藤白のみ坂」となるが、藤白の坂は、自転車では無理にて、肩にかついで歩いてゆくという「偐家持スタイル」で登り始めたが、前日からの雨のせいか、道は川のようになっていて上の方からどんどん水が流れて来て、まるで沢登りだ。靴が濡れ切ってしまう前に、途中で諦めて引き返すことにした。進む勇気はなくても、引き返す勇気なら、偐家持は持っているのだ。(藤白坂への道)(藤白坂)(藤白坂)藤白の み坂を越ゆと 白たへの わが衣手は ぬれにけるかも (長意吉麻呂 巻9-1675)藤白の み坂小川と なりぬれば わが靴濡れて 越えかてぬかも(偐家持)(藤白坂)(藤白坂からの眺め)<付録>藤白神社の境内には「芭蕉翁藤塚」の碑もありました。(芭蕉翁藤塚)藤の実は 俳諧にせむ 花の跡 (芭蕉)
2009.03.16
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去る10日義弟(妹の夫)が急逝した。49歳の早過ぎる死。どうしてこのようなことに・・。悲しく、辛く、悔しい。逝きし弟のことも心痛く悲しいことであるが、我が妹や姪たち他の遺された肉親の心根を思いやると、更にも心ふたぎ、悲しく、辛く、一層胸が痛む。 そんな次第にて、お通夜、葬儀とバタバタと心落ち着かずして、ブログを更新する気にもならなかった。ようやく葬儀も終り、一段落したので、義弟の死を傷む意味でも、茲に追悼の歌を掲載して置くこととします。 弟よ、安らかに眠れ。君の優しい笑顔、眼差し、立ち居振る舞いなど、あれやこれやを、私たちは忘れない。合掌。君が思ひ 生駒高嶺に 立ちなびく 雲とし見れど 知るすべのなき桜花 咲くをし待たず 逝く背子の 思ひかなしき 春日は照れり妻や子の 嘆き悲しみ 何とかも 知りてか君の 逝くが恨めし高々に 渡れる月の いや冴えて 背子の逝きぬる 春の夜は更け我妹子に 泣けよと言ひて 肩むだき すべも知らなく この身の悔し我妹らの 思ひ泪の 悲しかり などて君はも 言ふも虚しき高々に 昇りゆくらし 我背子の ひとすじ白き 雲立ちゆけば春雨の しくしく降るに しくしくと 心ぞ痛き しくしく悲し別れ花 叫び泣きぬる 声いかに 君聴くらむや いでましの時我背子と 今し別れの 時の雨 煙れば見えず 山も泣くらし
2009.03.13
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第29回智麻呂絵画展 お待たせ致しました。 第29回智麻呂絵画展を開催致します。(木瓜) 前回、前々回に続いての「木瓜(ボケ)」の登場です。智麻呂邸の鉢植えの木瓜の花も蕾の状態から満開へと変化していることが見て取れます。比較して戴くため、これらを下に再掲しておきましょう。赤帽の 園児ら早も 木瓜の花 盛りと咲きて 乙女なるらし (偐家持)(第27回) (第28回)(水仙) 庭の片隅に忘れ去られていた水仙が、ある日小さな花を付けました。ひとつ、ふたつと黄色い花を咲かせました。そのけなげさに心動かされた恒郎女様は、木瓜の鉢植えの隣にこのけなげな水仙の鉢植えを置いてみました。かくて、この水仙に再びスポットライトが当たることとなりました。(下の写真がその水仙です。上の写真は花園中央公園の水仙です。)黄水仙 けなげに咲くや 若草の 里に神はも 笑みてやあらむ (偐家持)(ミモザ1)(ミモザ2) このミモザは先日小万知さんが智麻呂邸にお届け下さったものです。偐家持もその場に居合わせたのに、ミモザ様を撮るのを失念しました。我妹子と 訪ね来たるや 我が屋戸に ミモザの春は 咲きて揺れける (偐家持)ーーーーーーーーーー<追記>夜9時小万知さんが本記事をご覧になってミモザの写真をメールで送って下さいましたので、掲載して置きます。ーーーーーーーーーー(シクラメン)かがり火の ふたつありけり シクラメン 添ひてたぐひて 冬こそ咲くや (偐家持)
2009.03.09
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今月は少し遅くなって、今日が墓参。うらうらに晴れたる春の道をゆく。墓は生駒山系の山裾の高みにあるので、結構、坂を登らなくてはならないが、墓まで来ると大阪平野が一望である。 線香の煙が風に流れてゆく。瞑目して祖父母、父、妹、娘と生前の彼らの面影を順に思い浮かべてゆく。亡き人のことを思い出すことが墓参りだと思っている。 「お墓の前で泣かないで下さい。そこに私は居ません。♪」 この歌に言われるまでもなく、亡き人達は墓に居るのではないのだ。僕らの思い出の中にこそ居るのだ。その面影を思い出の中から引き出してやるために、僕らは墓にやって来るのだ、と偐家持は考えている。思(しの)ふれば いざよふ雲か 山の端に 直には逢はね 面影立ちぬ (偐家持)(お墓から枚岡梅林への山裾の野道) 墓参のあと、枚岡梅林、枚岡神社へと野道を散歩。土筆はないかと道の辺の草むらに目をやるが、それらしきものはなかった。(この古墳は、最近までは墳丘にクヌギなどの雑木が生い茂ってい たのだが、今は丸坊主同然。)(枚岡梅林の梅)(手前が枚岡梅林で、この奥に枚岡神社本殿がある。)(枚岡神社本殿)(枚岡神社拝殿脇の梅)(沈丁花)甘過ぎる 春風となり 沈丁花 (筆蕪蕉)(馬酔木)わが背子に わが恋ふらくは 奥山の 馬酔木の花の 今盛りなり (万葉集巻10-1903)
2009.03.07
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「Azbyブログひろば」というのがあり、先日、注目記事ランキングで4位になったことをご報告させて戴きましたが、今日、またまた、「偐万葉田舎家持歌集」が、「今週のゴールドブログ」に選ばれるという、思いもかけないことが起こりました。 その部分をコピーして貼り付けると、以下の通りです。ーーーーーー今週のゴールドブログ 紹介日:2009年3月3日偐万葉田舎家持歌集けん家持とても丁寧に日々を過ごされている様子が伝わってくる"けん家持"さんのブログには、ご自身が詠まれた和歌や俳句が掲載されています。 ご自身が撮影された写真やご友人の描かれた絵とともに紹介されていて、歌だけでなく画像からも四季を感じることができます。 高校時代から万葉歌に親しみ、結婚式のスピーチなどで朗誦もされ、我流でも歌を詠まれるようになったとのこと。「座右の書」という万葉集の文庫はとても年季が入っていて、長年愛読されていることがわかります。次に詠まれる歌が楽しみですね。ーーーーーー こんな風にご紹介下さり、有難いことです。これも、ご覧戴いている皆さま方や素敵な絵を描いて下さる智麻呂氏ほかの若草の友人方のお陰でありますなあ。<3月5日追記> 偐山頭火さんが当該ページのコピーをしてメールで送って下さったので、下記に貼り付けて置きます。小生のやり方が悪かったのか、文字しかコピーできてなかったので、上のように、PC画面を写真に撮って貼り付けるという、妙なことをしたのですが、これを見ての、コピー提供ということでもあったのでしょうか。ご厚意忝く存じまする。
2009.03.03
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第28回智麻呂絵画展 今日から3月。今月最初の記事は、智麻呂絵画展です。第28回目となります。皆様の多数のご来場お待ち申し上げます。(木瓜の花<2>)木瓜(もけ)の花 今か咲くらむ 園児らの 赤き帽子の 好きずきに群れ (偐家持)(木瓜の花<3>)(菜の花)大空の 青き水面(みなも)に 菜の花の 波立ちゆける 風も恋ふらし (偐家持) (菜の花<2>)(葱・わけぎ)(注)これは偐山頭火氏が持って来られた「わけぎ」です。 「わけぎ」って何?という方は下をクリックして下さ い。 野菜図鑑「ねぎ」 ワケギ(ウィキペディア<Wikipedia>)(ガーベラ)(百合)さ百合花 後(ゆり)も逢はむと 思へこそ 今のまさかも うるはしみすれ (大伴家持 巻18-4088)さ百合花 後(ゆり)も逢はむと 下延(したは)ふる 心しなくは 今日も経(へ)めやも (大伴家持 巻18-4115)(バレンタイン・ドッグ)(注)これは、さる若きご婦人からの智麻呂氏への バレンタインチョコであります(笑)。
2009.03.01
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