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これも、9月27日の写真ですが、読書会の始まる前に自転車で大東市の方まで少し銀輪散歩した際に、恩智川の畔で見つけた秋の実です。 アメリカデイゴは先に(2009年8月12日)本ブログで花をご紹介しましたが、その時、小万知さんが、アメリカデイゴはマメ科の植物だと仰っていたので、秋になったらその実を見てみようと思っていました。確かにマメ科であることが一目瞭然の実です。(アメリカデイゴの実) 莢を開いてみると、中に莢の色と同じ褐色の固い種子が数個入っている。莢の大きさの割には種子は小さく、数も少ない。 次はクチナシ(梔子)の実です。 真上から見ると クチナシという名はその実に口が無いということからだとか。口が無ければ口を割ることもない。悪事を企む相棒には持って来い、なんぞと考えるのは「ヒトデナシ」と言いますな。地方によっては「ロクデナシ」とも呼ぶようです(笑)。 実は染料として使われるということですが、たしかに果皮を剥いでみると、中は美しいオレンジ色ですな。キントンを美しい色に煮るにはこの実が欠かせないらしい。 本日もお願いです。<輸血犬のお願い>ブログ友のnanasuguさんがそのブログで輸血犬のお願いをされています。小生は犬を飼っていないので、協力のしようもありませんが、1歳から7歳までの体重10kg以上の犬を飼って居られる方で、これに協力できる方が居られましたら、宜しくお願い申し上げます。詳しくは以下をクリックして、nanasuguさんのブログ記事にて内容をご確認下さいませ。<緊急!輸血犬のお願い>
2009.09.30
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若草読書会 一昨日、27日は若草読書会でした。本は、村上春樹「国境の南 太陽の西」(講談社文庫)。村上春樹は色んな賞に輝く日本を代表する現代作家の一人であるのでしょうが、余りにも売れ過ぎている、という訳の分からぬ理由で、小生は今まで一作も読まずに来たので、発表者の凡鬼さんが、当初予定の小田実「オモニ太平記」から本書に変更して下さったお陰で、遅ればせながらこの作家の小説に初めて触れることができたのは幸いなことでした。 この本は、心の奥深くにたたまれていた初恋の女性が男の前に立ち現われて・・という小説であるが、作者の意図とかは別にして、小生には比較的面白く一気に読めてしまった。しかし、さて、作者は何を言いたかったのかとなると、いささか茫洋として来てしまう。 人生は、と言うか、人の「今」は過去の様々の「生きざま」と「選択」と「もののはずみ」との結果としてある。恋であれ、結婚であれ、就職であれ、人は節目で何がしかを選択して生きて来た。何かを選ぶということは、選ばなかったその他のものを捨てるということでもある。人生が運命や神の意志によって予め決められていた時代から個人の意志と責任で選択できる時代になって、僕らは今の人生と、もう一つか二つかは知らないけれど、何処かで捨てて来た「ifの人生」を何処かで引き摺りつつ、それとの比較に於いて、今の「人生」の相対的価値づけをするということをしているようにも思われる。 「初恋を想うべし」は我が敬愛する犬養孝先生の言葉だが、初恋の懐かしさには何かもの悲しいものが立ちまじっているのは、過去に捨てて来た「その他のもの」つまり「ifの人生」が象徴されている所為なんだろう。人生は一回きり、非可逆的なものにてあれば、過去の選択をやり直すことはできない。過去の過ちも後悔すべき愚行も心ない行いも、償われることなく永遠に過去に閉じ込められているのだ。だから、僕らはそれとの関係で「今」を、「明日」を生きることになる。しかし、常にifの方が多くなる。選ぶものよりも捨てるものの方が常に多いのだから仕方ありませんな。そのことに気付かず懸命に明日を目指しているというのが青春という奴なんでしょうが、人生の目鼻がついてしまった辺りから、捨てて来た過去が時に立ち現われる。 初恋の女性「島本さん」との再会は、主人公の白昼夢に立ち現われた過去のifであるのだろうか。だから彼女は生活感のない、何か抽象的な存在になっている。 太陽の西が存在しようもないように、ifの人生も存在しようがない。 Reise nach Gomskという短編小説を大学のドイツ語の教科書として若い頃に読んだが、人は何がしかのGomskへの旅をしているのかも。しかし、それは太陽の西にあるのだ。 村上春樹の小説は初めて故、勝手な解釈・感想でした。凡鬼さんのようには深く理解できてはいません。家にありし 櫃(ひつ)に鍵さし 蔵(をさ)めてし 恋の奴(やっこ)の つかみかかりて (巻16-3816)<輸血犬のお願い>ブログ友のnanasuguさんがそのブログで輸血犬のお願いをされています。小生は犬を飼っていないので、協力のしようもありませんが、1歳から7歳までの体重10kg以上の犬を飼って居られる方で、これに協力できる方が居られましたら、宜しくお願い申し上げます。詳しくは以下をクリックして、nanasuguさんのブログ記事にて内容をご確認下さいませ。<緊急!輸血犬のお願い>
2009.09.29
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偐万葉・松風篇(その4) 本日は「偐万葉・松風篇(その4)」であります。 松風6923氏の素晴らしい絵に心動かされて氏のブログに書き込ませて頂いた歌も、その後30首を数え、前回までの106首と合わせて合計136首にもなりました。<参考>松風6923氏のブログ入口 偐家持が松風朝臣麻呂(まつかぜのあそんまろ)に贈りて詠める歌30首道閉ざす 鶴見の丘の 禁野(しめの)ゆき 野守は見ずや 君が絵を描く (鶴見王) 校庭に 児らの声して 誰もなき 美術教室 八月の午後蝉はよし 蟻もゆるせる 夏盛り 虻蜂困る 蚊のなほ憎し (写楽)この国の いづち行くらむ 松陰(まつかげ)の 風を見つつや 秋をし待たむ 咲き匂ふ 花影映し ほのかなる 笑みもぞはしき 歌姫の立つ月ならず 日もや満ち欠け するなれば 世の満ち欠けも あるがままにぞ 日の神と 月の神との 逢へる時 人黙(もだ)すべし 果てもなき宇宙(そら)ひひらぎの 枯れにし枝の 落ち居たり 広場の隅の 夏草の上 夏の丘 雨の後(あと)なる もちの木の 空にのびする 風も吹くらしふたととせ かけてぼくらの うしなひし ものにあるかも 町工場の屋根 青き森 みなそこ深く 吾(わ)にありて 星の明かりの 道もありせば茫洋と してるしかなき 鶴見野の 真夏の緑 いかにかせむや生駒山 見つつも行かむ 川の辺の 風立つ秋の 蝉時雨道 思ほえば 既にありけり ゴムスクの 街の丘なる 日々のこの道少女(をとめ)らの 吹く笛の音(ね)の 風立てば 鶴見の岡に 秋は来るらし 風の音(と)に 秋はひそめり ほつほつと 鶴見大池 風渡りゆく島山を い行きめぐれる 大池の ほとりに樽も 秋や待つらむ (う樽暑さ) 自転車の 親子の行くや 丘の道 なびけ木立ら 生駒山見む (鶴見松麻呂)ベリーズの 椰子の木の間(ま)に 生駒山 霞みて遠き 日々も青めり 水鳥の いづち行きけむ 大池の 鶴見の丘に 秋の風吹くともかくも 行きてみたれど 高みには ただ秋風の 吹きてあるのみ 今はとて 別れ来ぬれば 白雲に 母のまなざし 思ほゆるかも槻の木に 依りて眺むる 枯れ草の 丘吹きゆける 風とならまし 銀輪の 音にも秋の 色ありて 娘子(をとめ)は風と 坂駆け行きぬ 露霜の 思ひのあとや 幹青み ポプラは秋の 強き日に立つ 幻か 夢とうつつの 境なる 鶴見大池 秋の日照れる思ひつつ 吾が恋ひ来れば 風の音(と)の ほか何もなき 森の道なり 秋たけて もみたひやがて 枯れ落つる 季(とき)し思はゆ 恋にやあらむ風とゆく 自転車の人 あり秋の 鶴見大池 道いや白き <注>絵の写真は全て松風6923氏のブログからの転載です。<追記・注>末尾の写真が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月13日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2009.09.28
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本日は我が家から徒歩数分の距離にある枚岡神社で毎年開催されている、薪能の日。 演目は、狂言「左近三郎」と能「龍田」。 写真撮影禁止とあって、開演前の状態、未だ「火入れ式」もしていない状態の写真を掲載して置きます。開演30分前ですが、もう一杯の人でした。 さて、演目の、狂言「左近三郎」のあらすじは、 猟師の左近三郎は狩に行く途中で一人の僧と出会い、これをからかってやろうと道中を共にする。禅僧と知って、酒は呑むか、魚は食べるか、妻はいるかと質問し、僧が「出家の身、そんなことする訳ない。」と否定するごとに、弓矢で脅し、無理矢理に肯定させて、からかう。そんな中で彼は僧に檀家にして欲しいと願うが、僧は殺生を生業とする猟師は檀家にはできぬと断る。猪(しし)を射殺すと猪(しし)になってしまう、という僧に、左近三郎は、それなら、僧を射殺せば僧になれるのかと僧に弓矢を向ける。そんな禅問答のようなやりとりをしながら、次第に打ち解け、仲良くなって歩いてゆく。 というもの。 殺生を禁ずるのが仏教の教えであるが、一方で輪廻転生も説くから、殺すことはその転生を助けることでもあるということにもなる。この辺りの仏教の教えの矛盾をからかったものでもあるということらしいが、まあ、狂言としては、理屈に走り過ぎて、それ程面白いものではありませんな。 能の「龍田」は、 旅の僧が龍田明神に参詣せむと龍田川の畔にやって来ると、川向こうから女が川を渡ってはいけないと声をかける。この川に散り浮く紅葉は龍田神社の神体であるから、神慮も思わず渡ると神と人との中が絶えることになると言う。僧は今はもう冬で紅葉もなく薄氷が張っているから大丈夫だろうと言う。そこで、女は「龍田川紅葉を閉ずる薄氷渡らばそれも中や絶なん」という藤原家隆の歌を引いて、渡るなと戒める。女は、最初は巫女と名乗っているが、やがて、自分が龍田姫であることを明かすと社殿の中に入ってしまう。僧が在の人から龍田明神の謂れを聞きながら、神のお告げを待っていると、龍田姫が現れ、龍田明神社のことや龍田の山川を詠んだ歌のことなどを語り、あらためてこの川を渡るべきでないと語り、神楽を舞いつつ、夜明けの風に散りまがう紅葉の中を神上がりする。 というもの。 和歌を引用しての風流問答も面白く、龍田姫の舞う神楽なども見どころですが、来月、龍田万葉ウォ-クを案内する予定の偐家持としては、とてもタイムリーな演目でした(笑)。月岡耕魚「能楽百番・龍田」(国立能楽堂所蔵)<東大阪市と能との関係> 三重県伊賀市の上島家に伝えられている「観世系図」によると、観阿弥の母は玉櫛荘(現、東大阪市玉串町)の出身であるそうな。その系図によると、観阿弥の母は河内玉櫛荘の橘入道正遠の娘である、となっている。 橘正遠は楠正成の父に当たるという説もあるので、この説によれば、観阿弥の母は、楠正成の姉か妹ということになり、観阿弥は正成の甥ということになりますな。まあ、こんなことから、「東大阪は能のふるさと」を合言葉に、市民ボランティアの手で、この枚岡薪能が開催されているという次第なのであります。
2009.09.26
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昨日25日は大学同窓会の幹事会にて、神戸まで出掛けて参りました。いつもは梅田で開催するのですが、今回は、神戸でディナークルーズを楽しみながらの幹事会にしようとの企画。 先般の同窓会総会で講演をして戴いた、(株)神戸クルーザーの女性社長Nさんが同窓生でもあることから、同社の運航する「コンチェルト」に乗船しようという話が持ち上がったもの。 乗船は午後7時10分で集合時間は6時45分であったが、少し早目に出て、JR神戸駅近くの湊川神社に立ち寄るなどしてから、神戸ハーバーランドに向いました。(湊川神社)(拝殿)(楠正成墓所) (楠正成墓碑)(末社、菊水天満神社)<参考> 湊川神社 神社を後にして、神戸ハーバーランドに向う。港は漸く暮れかかろうとしている。水辺の夕暮れは、何故か訳もなく、もの哀しい気分を誘う。(街路、暗くなるとイルミネーションが輝く。)(モザイク)(コンチェルトの乗船チケットセンターはこの建物の1階です。)(神戸港夕景、空には三日月が。)(観覧車)(神戸港夜景) 暗くなり、乗船の時間も迫って来ました。(クルージング・レストラン「コンチェルト」)(左から、前菜、ふかひれの姿煮、イカと豆苗の湯引き) (鮭入り炒飯) (左から、車海老とトマトの煮込み、マンゴープリン) チャーハンは撮るのを忘れて、気がついたら食べ終わってました。 食事の途中で甲板に出ると、明石大橋が三日月と競演。(明石大橋)恋ひつつや どちとし来れば さ夜更けて 明石大門(あかしおほど)に 三日月照れり (偐家持)(参加者全員集合)<参考> 神戸コンチェルト・ホームページ 料理もよし、眺めもよし、どうぞ皆さまも是非、神戸コンチェルトにご乗船下さいませ。まあ、恋人同士でとか夫婦でというのが更によいようですな。
2009.09.26
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第44回智麻呂絵画展 さて、本日は智麻呂絵画展第44回目の開催でございます。(竜胆)(をみなへし)(ミラクル・フルーツ)(野菜) この野菜たちは小万知さんが錦織公園の「河内の里」でゲットされて、先日智麻呂邸にお持ち下さったものです。勿論、「食用に」というより「絵の題材に」という方が勝ってのことと思われます。上のミラクル・フルーツも下の栗も同様に小万知さんのお土産だと思います。智麻呂氏もかくて次々と絵を描かねばならず、秋は多忙なのであります。 先日、お邪魔した時は彼岸花が制作途中でしたから、もう完成しているかも知れません。これは次回のお楽しみですな。をちこちゆ 稔りの秋の 土産あり 絵師忙しき ことにやあらむ (偐家持) (果物)(栗)瓜(うり)食(は)めば 子等(こども)おもほゆ 栗(くり)食(は)めば ましてしのはゆいづくより 来(き)たりしものぞ まなかひに もとな懸(かか)りて安眠(やすい)し寐(な)さぬ (巻5-802 山上憶良)(絵手紙・カーネーション) この絵手紙は、今年の母の日に贈られたカーネーションのお礼にと、お嬢様に出されたものですが、この程発見されましたので、遅ればせながら公開するものであります。
2009.09.25
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佐渡銀輪行(1)~(6)にお付き合い下さり、感謝です。付録、新潟の景色を添えて余聞といたします。ええっ?余分でしたか? 飛行機の関係で新潟に一泊して帰阪ということで、午前中から午後3時位まで、新潟市内自転車散歩。ホテルをチェックアウト後、荷物をクロークに預けて、自転車だけを持ち出しての当てのない銀輪散歩。(手荷物預かり札) 信濃川沿いの自転車道や海岸べりの自転車道などを走って来ました。 ついでに会津八一記念館にも入館、見学して来ましたが、以前にもブログで紹介しているので、写真は省略です。詳細は下記をクリックしてご覧下さい。 <参考> 会津八一記念館 信濃川にかかる柳都大橋を渡っていると、川面にヨットの群れ。背後の日航ホテルのビルとの取り合わせがいいので、パチリ。(信濃川と朱鷺メッセ) 昼食は、佐渡へ向かう船の中から見えた入船タワーの隣にある、「入船うどん」という表示のお店で、うどんをいただきました。結構いけます。関西人にも合う味ですな。 このタワーの下から対岸の山ノ下へ海中トンネルがあり、自転車でも走れるようになっている。車とは隔壁で遮蔽されているので、排気ガスに悩まされることもなく、快適に通過できる。第一にとても涼しい。 昼食後、しばらく入船タワーの大階段の上で風に吹かれてから、このトンネルを越えて対岸に渡る。出鱈目に走っていて、気が付くと方向を間違って空港の方に向かっているのでした。Uターンして、小高い丘の上の公園で一休み。 散歩にも飽きたれば、ホテルに戻ることに。自転車を宅配便で自宅へ送る手配を済ませると、少し早いが、空港へのバスに乗車。帰阪の途に就く。 以上、佐渡銀輪行、完結です。
2009.09.24
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佐渡飛鳥碑に別れを告げて、国分寺を目指すが道がよく分からぬ。仕方がないので、真野御陵○kmの道路標識に従い、真野御陵を目指す。真野御陵は以前訪れたことがあるので、何となく道に記憶がある。 真野御陵入口バス停の先の信号を左に入って、道なりに行くと、左手に真野宮と佐渡歴史伝説館が見えて来る。(真野宮) 真野宮は、元は真言宗真輪寺という、順徳陵に奉仕をしてきた寺であったらしいが、明治元年(1868年)の廃仏毀釈で寺が廃され、寺僧は神職となり、本堂を改修して宮としたもの。 明治7(1874)年8月県社に認められ「真野宮」と称した。祭神は順徳天皇で、菅原道真、正中の変で佐渡に殉節した日野資朝も配祀している。 順徳天皇の遺品とされる短刀、硯、扇子などを社宝として保管している。 真野宮の隣が佐渡歴史伝説館で、日蓮や世阿弥など佐渡に流された人物について、ドラマ仕立てで解説するなどの展示があるのだが、以前入館したことがあるので、パス。 今回はここのレストランで昼食だけをお世話になろうと裏から入って行くと、道の奥からやって来たおじさんから「何処へ行かれるのかな。」と声を掛けられた。「食事を・・」と告げると、自転車を駐輪する場所、レストランへの道順を懇切に教えて下さった。 昼食を済ませて出て来ると、先程の道で、今度は反対側から来た神官装束の男性から「これから何処を回られるのかな。」と話掛けられる。聞き覚えのある声、口調なので、よく見ると、先程の冴えない(失礼)「おじさん」ではないか。神官装束にて別人の如き立派な出で立ち。見間違う処でした。 おじさんは真野宮の神職の男性であったのだ。「真野御陵へ行く」と言うと、かなりの坂道だから気を付けて行け、と優しきお言葉。礼を言って御陵への坂道にとりかかる。 その前に、ちょっと。 食堂を出た処の土産物売り場の「お煎餅コーナー」でジェンキンスさんを見かけました。 煎餅売り場で販売のお仕事をされているのですな。観光客のご婦人が握手を求めたり、一緒に記念撮影をしたりされていました。この煎餅を買うと拉致被害者奪還運動への支援に売上の一部が回されることになっているらしい。(ジェンキンスさん)(石抱き梅)(真野御陵への道)(真野御陵)<参考>承久の変 順徳天皇 (順徳天皇御遺愛石道) 順徳陵を下って来ると道標に国分寺の標識。 分り難い矢印表示なので迷っていると、「国分寺はこっち」と散歩の方が教えて下さる。佐渡の人は皆親切だ。 しかし、国分寺は何度もアップダウンを繰り返してやっとという、思いの外の遠さであった。ただ、その道すがらの風景は長閑な田園風景。明日香を走っているような気分になってしまう、何とも素敵な秋の道でありました。 (真野御陵から国分寺への道) やっと、国分寺に到着。道は、真野御陵からは登りもあるが、総じては下りが多いので、巡るコースとしてはこちらが正解のようだ。(佐渡国分寺・仁王門)(瑠璃堂) 佐渡国分寺の詳細は下記の<参考>をクリックして下さい。 <参考> 佐渡国分寺(客殿) 白萩の 咲きか散るらむ みほとけの 笑みにもあるや 佐渡国分寺 (偐家持) (仁王像) 現在の国分寺の隣に旧国分寺跡がある。(佐渡国分寺跡) (国分寺道の道標) 小さな地蔵堂の脇の桜の木の下葉が色づき始めている。既に落葉して枯葉となったのが、カサカサと乾いた音を立てて風に吹かれて行く。 総社神社とある処までやって来ると10名余の人だかり。佐渡ではこの程度の人数でも十分に目を引く人だかりなのだ。(総社神社) 何をしているのかと思いきや、新潟市内からの狂言体験ツアーにて、只今、先生から狂言の手ほどきを受けている処とか。しばらく見学させていただいた。 かくするうちにバスの時間も近付いて来たので、真野新町バス停へと向かう。初日、自転車で走った道をバスで両津へ。 両津港到着。いよいよ佐渡ともお別れである。(両津港) 船が出る。 両津港は何やら水墨画の中のよう。 背景の山の左の一番高い山が金北山だろうか。 金北山に登ったのは、もう、随分昔のことだ。(佐渡ヶ島)(佐渡の夕日)(日本海の夕日) 新潟港に着く頃は夕日が日本海を朱に染めていました。 やっと、佐渡旅行終了です。 長らくお付き合い下さり、有難うございました。
2009.09.23
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宿根木に別れを告げて、小木港へと来た道をとって返す。(矢島入口バス停)(小木港・城の腰公園)(小木港) 小木港に帰って来ると、フェリーが入港していました。 しばし、港周辺を銀輪散策。 海は青く、風は爽やかである。(小木の海)(小木から真野への道) 早や、夕景となりぬれば、真野はまたしても巡るは無理と、翌日に延期して、バスで相川へ戻ることに。 上小川のバス停に着いた頃は日も沈み、残照が微かに西の空を赤く染め残していました。 薄暮の中、自転車でホテルに戻る。(上小川に着いたのは夕闇迫る頃)(上小川バス停) 朝です。 今日も好い天気。 今日こそは真野を走らむと、佐和田までバスで。 今回の旅のコースなら、ホテルの場所を佐和田にして置けばよかったかも。(バス停前の稲田) 10時17分妙宣寺門前に到着。 この辺りは佐渡飛鳥路と呼ばれ、道の辺の眺めも奈良・明日香路を彷彿とさせる。(妙宣寺山門) (仁王像) (五重塔)(妙宣寺境内) 妙宣寺は、佐渡配流となった順徳上皇に供奉した遠藤為盛が、上皇崩御後に日蓮に帰依して建立した寺である。(本堂)(祖師堂)(本堂内)(本堂から祖師堂への廊下)(庫裡)(日野資朝の墓) <参考>日野資朝(日野資朝歌碑) 秋たけし 檀(まゆみ)の梢 吹く風に 雑田(さはだ)の里は 紅葉(もみぢ)しにけり <参考>謡曲「檀風」 妙宣寺から世尊寺、大膳神社、飛鳥碑と、佐渡飛鳥路を軽快・爽快に銀輪散策です。(世尊寺)(本堂内)<参考>世尊寺 大膳神社(大膳神社) 境内に「行啓の地」の碑がある。今上天皇が皇太子の時に、この能舞台で演じられた能「檀風」をご覧になったらしい。 因みに、天皇の場合は「行幸」と言い、皇后や皇太子の場合は「行啓」と言いますな。 然らば、偐家持の場合は?「??」 「行倒」にならぬよう、気をつけまする(笑)。(能舞台)(佐渡飛鳥の碑) 佐渡飛鳥碑の由来は、亀井勝一郎が、この丘に立ってその感動を記したという、彼の紀行「佐渡が島」の中の一文「飛鳥の風光を愛した人が佐渡に渡って、ここに望郷の思ひを託したのかもしれない」に依るとのこと。(佐渡飛鳥碑からの眺望)丹の穂満つ 稲田の秋の 風清み 佐渡の飛鳥路 大和し思ほゆ (偐家持) またもや写真掲載限度に達しました。真野御陵、国分寺など続きは、また明日です。今日もご覧いただき有難うございました。(いつになったら佐渡から帰って来るんや。という声もする(笑)。
2009.09.22
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バス待ちの時間を利用して相川の天領通りを自転車で散策。(天領通り) 天領通りで写真を撮っていると右手の指にトンボがとまった。なかなか逃げようとしないので、左手で写真に撮って上げた(笑)。撮影が終わると待っていたように飛び去った。 「お前は観光協会から頼まれてやって来たのか?」 小生が雄略天皇なら、これをキッカケに「天領通り」を「秋津通り」と改名させたことでしょうな(笑)。 さて、バスの時間となりました。自転車をたたんで収納袋に入れバスに乗り込む。小木まで1時間余のバス旅である。石川県からというご老人もバスで一緒でしたが、小木からフェリーで帰途につかれるのですな。何十年かぶりの佐渡旅行とか。 午後1時38分小木港に到着。何処かで昼食をと探すが店が閉まっていたりで、見つからない。仕方なく遊覧船乗り場の売店で味噌ラーメン。シルバーウィーク前の平日とあってか、観光客の人影もなし。閑散としている。(小木港遊覧船乗り場)(小木港) 面白い家並があると聞いていた宿根木(しゅくねぎ)を訪ねるべく、港の売店で道を教えて戴いて、トレンクル、GO!! 小木の町並みが切れると田園と山並の長閑な風景が広がる。そして山の切れ目からは海が見える。(宿根木への道)(手前は蕎麦の花です。)(千石船展示館) 千石船展示館からS字カーブの坂道を下って行くと重要伝統的建造物群保存地区、千石船の里・宿根木である。(坂道の途中から眺める宿根木の町並) 手前の家のように、昔はどの家の屋根も杉板を敷き詰め、押さえの石を並べるというもので、漁村の村らしい美しい景観が広がっていたのだという。 村の男達は漁に出るため、2~3年に1回は葺き替えるという、この屋根仕事は村の女達の仕事であった。昭和30年代になって、村のご婦人方からの発案で瓦葺屋根が普及したとかで、今は多くが瓦葺きである。 では、素晴らしい家並をとくとご覧下さいませ。 迷路のような狭い路地が何ともいい。 この素敵な家並。ブロ友の松風さんやひろろさんに是非描いて戴きたいものであります(笑)。 (宿根木公会堂)(称光寺)(白山神社)(宿根木郵便局) さて、それでは小木に引き返すことといたしましょう。来る時に見つけた岩屋洞窟と幸福地蔵を見て行くこととする。(岩屋洞窟)(岩屋洞窟前の石仏群)<岩屋洞窟案内板説明文>標高約百米にあり、間口六間、高さ二十尺の海蝕洞である。その奥行は不明であるが、伝説には外海府の岩屋口洞窟まで続いていると言われている。古くから摩崖仏、八十八仏、観音堂等を建造し広く霊場として親しまれている。窟洞の壁に刻まれている摩崖仏は、弘法大師作と伝えられているが定説はない。また境内に半円形に取りまく八十八躰の石仏は小泊石工の名人五平の作といわれる。(小木町)(幸福地蔵) 間もなく小木港に帰り着きますが、またしても一日の写真掲載量限度に達し、これ以上は本日、写真のアップが出来ません。よって、続きは明日です。 楽天さん、一日の写真アップ限度、もう少し多くしていただけませぬかな。これではなかなか佐渡から帰れないではありませぬか(笑)。まだ、真野にも行かなくてはならないのに。
2009.09.22
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佐渡銀輪行2日目は相川の上小川から出発です。(ホテルの部屋のテラスから日本海を望む。)(ホテルのアプローチ道路からの眺め) 本日は、佐渡金山、佐渡奉行所など、銀輪万葉には不似合いなれど観光スポットも訪ねてみむと。しかし、奉行所、金山へはかなりの坂道にて結構骨が折れるのでありました。最初の坂道を登り切ると一気に坂を下り、佐渡スカイラインと表示された急な坂道を再び登る。坂を下りた処に「良寛母の碑」なるものがありました。良寛さんの母は相川のご出身でありましたか。(佐渡の町名標識) (良寛母之碑) たらちねの 母がかたみと 朝夕に 佐渡の島べを うち見つるかも (良寛) <参考>良寛の家族(佐渡奉行所・正面)(奉行所建物全景)(奉行所・勝場<えりば>) ここで金鉱石を砕き、金を採取したとのこと。(奉行所・大広間) 建物の中を見学していると、団体さんがやって来ました。その群れに紛れて説明を聴きました(笑)。 <参考>佐渡奉行所(お白州) お白州にも大小あるようで、被告人の数によって使い分けたのでしょうか。お白州と言うと何となく炎天下の庭を想像していましたが、ここは、屋内にあります。やはり、冬の寒さを考えてのことでしょうな。 奉行所から更に延々と坂道を登って行くと佐渡金山である。近付くにつれて「道遊の割戸」が見えて来ました。そこが、金山の入口らしい。(道遊の割戸) 手掘りで堀り進むうちに山が二つに割れてしまったということらしいが、人の営みはかくもあるか、という感慨が自ずと湧いて来る。(反対側から見た、道遊の割戸) <参考>道遊の割戸・拡大写真(間ノ山石積アーチ橋)(無宿人慰霊碑) 無宿人小屋のあった跡地に慰霊碑が建てられている。 碑文の内容は次の通り。「佐州金銀山水替人足として江戸、大阪、長崎からおおよそ二千人の人たちが唐丸籠で金山に送られ、地底の水汲作業をした。諸国を流浪しながら天領都市に集まった失業者、無罪の無宿者たちで、島送りの発意は都市の治安維持。遠島刑による島流しの流人たちとは区別される。多くはニ十歳から三十歳代で、奉行所では江戸水替と呼び、島の人たちは江戸無宿または小屋場と呼んだ、金山の栄光を地底でささえた人たちである。収容所が置かれていたここ江戸水替小屋跡に、有志相はかって、つつしんで追悼の碑を建てる。建碑の費用は、金山を訪れた全国の人々の投げ銭浄財によるものである。(1985年皐月)」(宗大夫坑)(佐渡金山・・こちらは見学者出口になっている。)(佐渡金山・・見学者入口)<参考>佐渡金山 金山から相川バス停(佐渡会館)への道は殆どが下りにて爽快そのもの。秋風が涼しく心地良い。 バス停でバスの時刻表を見ているうちに、相川からバスで小木に出ようと思いつく。 バス待ちの間、天領通りを自転車散歩。 しかし、本日の写真掲載限度オーバーで、残念ながらこれ以上写真アップができません。今日はここまでです。続きは、また明日です。今日もご覧戴き有難うございました。
2009.09.21
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根本寺を後にして再び走り出したのは午後4時25分頃。宿は相川の先の上小川であるから、これでは明るいうちに辿り着くのはとても無理。真野御陵や国分寺などは翌日に延ばすこととし、佐和田バスセンターまでともかく走ることに。 20分位走った処で「史蹟安寿塚」の標識。道脇の坂を入ってみると。(安寿塚) 塚の傍らの碑文の説明文は次の通り。__________________________ 安寿姫は弟の厨子王と共に、丹後国で山椒大夫に酷使されていたが、厨子王を京へ逃がした後、付近の池に入水したと言われているが、発見されてその後も凡ゆる迫害に耐えている中、厨子王が丹後守になった時、救い出され、風説をたよりに母を探す為、姉弟して佐渡へ渡った。 手分けして方々探す中、安寿姫と姥竹の子の宮城の小八(後の胎空法印)の一団が、海府の鹿之浦で母を探し出し、茲に安寿姫、厨子王は母との再会を果し、親子喜び乍ら帰途についた。しかし、安寿姫は長い間の労苦から衰弱甚しく、畑野で息を引き取ったと言われている。 その辞世の歌に 陸奥に住みもはてなで菫咲く 畑野の里に果てなんとする その時一行に親切を盡した村人の願を容れて、安寿姫の櫛と笄を残して行ったので、その火葬場跡に村人により塚が作られ、塚の中には之等の遺品が埋められていると伝えられている。 この塚に生える木は安寿姫の霊がこもって真直に育たず、二股に分かれている。古くよりこの塚は豊作祈願、縁結び、眼病早癒の霊験ありとして尊崇を受けたということが佐渡の古文書にも見えています。 安寿奉賛会 佐渡市観光協会_____________________________ 安寿塚から更に10分程走ると、「順徳上皇第一皇女墓」の標識。右脇道に入って行くと。(順徳天皇皇女、慶子女王墓) 承久の変で父の後鳥羽上皇は隠岐に流され、息子の順徳上皇は佐渡に流される。慶子女王は順徳にとっては3番目の娘になるが、佐渡に流されてから生まれた最初の娘ということで、佐渡では「第一皇女」と表示されているのでしょう。この方の歌としては、 松あれば 佐渡ヶ島なる から崎も しかすがにこそ 見まくほしけれというのがある。 傾きかけた秋の日差しが長い影を作って、ただ風のみが渺と吹いている。周囲は丹の穂満つ秋の稲田である。 墓の柵石の一つに、蝗のカップルが恋を語らって居りました。(イナゴの夫婦)人も無き 国もあらぬか 吾妹子と たづさひ行きて たぐひてをらむ (巻4-728 大伴家持) 家持卿のこの歌を思い出しつつ、蝗の恋路、邪魔するは無粋なりとて早々に退散する。(橋の欄干の「家持蛙」・・何処へカエル?) 何故か橋の欄干の「玉葱」が「蛙」になっていましたが、何故?(大佐渡の山並。中央、山頂に自衛隊レーダーの見えるのが金北山)(小佐渡の山並) 真野に向かう道中、右を見やると大佐渡の山々、左には小佐渡の山々。やがて、やや大きい川に。国府川とある。橋の上から眺めると既に日は日没近しの金色に輝いて低い位置に。あちらこちらと寄り道していると知らず時間が経過していて、もう5時半を回っている。急げ、メロス。(国府川、下流方面)(国府川、上流方面) 真野新町交差点で右折して佐和田バスセンターへ。薄暮の中到着。バスの時刻表を見ていると、おばさんが声を掛けて来て、行きたい先を告げると、親切にこれこれのバスに乗れと教えて下さる。佐渡のお方は大阪の人みたいに親切ですな。6時24分発のバスで宿へと向かう。バス停に降り立つと真っ暗。ホテルへ電話をして、道を尋ね、ライトを点灯させて海辺のホテルへ。 本ページはここまで。ひとまず休憩です。続きはページを改めることとします。それにしても、はかどりませんな(笑)。
2009.09.21
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9月16~19日と佐渡に行って来ました。先般、村上市沖合の粟島を走った時に、次は佐渡と思っていたこともあっての佐渡銀輪行。久しぶりの佐渡です。かなり以前に金北山に登り、下山の際に林道に迷い込み、折角下って来た道を、かなり疲れた足でまた登り、元の場所に引き返すという苦い経験もした佐渡ですが、今回は自転車持参で走ってみようというもの。しかし、佐渡は広い。特段の準備も計画もなく漠然とやって来たので、道もよく分からない。アバウトな地図を頼りの行きあたりばったりの自転車旅、とても全部は回れませんな。今回は両津、真野、小木、佐和田、相川など国中と小佐渡の一部を走っただけ。トレンクルでは距離がはかどりませんな。北の大佐渡の方は次回の楽しみと致しましょう。 両津港でロードバイクの男性から、「トレンクルですか。僕も持っているんですが、最近ずっと乗っていなくて・・」と声を掛けられましたが、長距離をトレンクルで走ろうというのは、やはり邪道なのかも(笑)。でも、疲れたら、折りたたんで、バスでもタクシーでも乗れてしまうという処が安心である。 新潟空港から佐渡汽船乗り場までタクシーで。新潟港からはジェットフォイルで1時間、カーフェリーで2時間半。船旅はフェリーの方が趣があっていいのだが、今回はジェットフォイルで。途中で、30分先に出たフェリーを追い抜き、フェリーより1時間先に到着とあっては、勝負あったようなもの。 では、佐渡銀輪行、何回かに分けてご紹介することと致しましょう。(ジェットフォイル・・小生が乗船したのとは別のものです。)(新潟港)(新潟港・入船タワー)(両津港)(両津港バス停) さて、どちらへ行くか。取り敢えず真野方向に走ることにする。既に午後2時を回っているので、途中までバスを使うことに。新穂で下車。(加茂湖)(土田麦僊・杏村記念碑) 新穂バス停から少し西へ行くと、土田麦僊・杏村記念碑があった。土田麦僊は日本画の画家、弟の杏村は哲学者。このお二人のことはよくは知らぬが、ここ新穂村の出身とあっては、この地から銀輪行を始める偐家持としては、ひとまず敬意を表して置く。 記念碑の先の日吉神社の前で左折すると真野方面への道。 清水寺(せいすいじ)を訪ねることに。清水寺(きよみずでら)を模した舞台があるとかで、それを見てみようと、ゆっくりした坂道を山の方へと向かう。道の両脇は黄金なす稲田が広がっていて、美しい眺め、と言うか、心和む懐かしい景色である。(日吉神社)(清水寺への道-稲田)(清水寺への道-彼岸花)(清水寺山門)(清水寺・救世殿) <参考>佐渡清水寺 清水寺から下って来ると根本寺という大きな看板。立ち寄ってみる。 <参考>根本寺ホームページ 日蓮が流された当時、この地には塚原の三昧堂が建っていて、死人の捨て場になっていたとか。日蓮はこの三昧堂に入って、佐渡での生活を送ったのである。その跡地に建てられたのが根本寺である。(根本寺本堂と日蓮像)(仁王門)(太鼓堂)(祖師堂)(味方家墓地・・相川金山の領主、味方但馬の墓) <参考>味方但馬守(芭蕉句碑) 佐渡にある芭蕉句碑では、最も古い句碑と説明書きがあったのは記憶しているが、肝心の句は思い出せない(笑)。 この後真野へと向かいますが、続きは明日です。ブログアップは自転車で走るよりくたびれる(笑)。 上の芭蕉の句、思い出しました。「春もやや 景色ととのふ 梅と月」でした。
2009.09.20
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先日(9月11日)の日記で葛(くず)の花をアップし、葛に因んだ万葉歌をご紹介申し上げましたが、万葉歌は「葛の花」ではなく「葛の葉」を詠んでいるのが殆どであるとも申し上げました。そして、「真葛原」という言葉で始まる和歌も掲載しましたが、葛の生い茂る様の写真がなくて、ちょっと歌とマッチしていなかったようにも思いましたので、本日は銀輪散歩の道すがらに「真葛原」の写真を撮って来ました(笑)。赤駒の い行きはばかる 真葛原 何の伝言(つてごと) 直(ただ)にし良(え)けむ (巻12-3069)(赤駒が行きなやむ一面の葛原のように、人をはばかる伝言は何の役にも立ちません。直接に仰るのが良いでしょうに。) 葛の葉だけでは色合いに欠けますので、秋の赤い実をご紹介して置きましょう。この実は何の実か分かりますか? 正解は柿です? いや、下記です(笑)。 正解はハナミズキでした。
2009.09.14
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本日は中学の同級生たちと恩師のお墓参りに行って来ました。 これは、本来、今年5月24日に実施予定のものであったのですが、諸般事情で中止となり、本日になったものです。 (関連記事:5月24日の日記) 参加者は、男性がK君と小生の2人。女性がYさん、Tsさん、Toさん、Nさんの4人。男性のH、Ka、M、Ta君は他用とぶつかり、また女性のSさんは体調を崩されていて、不参加でしたが、全6名、久しぶりの再会で旧交を温めました。まあ、ミニ同窓会ですな。体調不良で不参加のSさんも一日も早く元気になられて、またこの仲間の集まりに復帰されることを皆願っています。 墓参の後、先生宅を訪ね、奥様にご挨拶、お昼をご馳走になり、午後4時少し前まで、色々と楽しい語らいの時を過ごさせて戴きました。 今日、集まった仲間と欠席のH君、Sさんと現在は東京方面在住のHe君、A君と今は亡きT君を加えた男女11名は、中学卒業後も、高校時代からずっと何かというと集まっては、先生宅を訪問したりして来た仲の良いグループである。このようなグループが今なお続いているというのは、考えてみれば不思議なことである。世間にそうざらにあることでもないと思うので、そういう中の一人として自分があり得たということは、幸せなことであったと思う。そして、そのことは、I先生やI先生の奥様のお陰と言うべきで、お二人に感謝すべきものであるだろうと思うのである。 (霊山寺霊苑入口のお堂)秋風の 矢田の岡辺の 奥津城に 君し慕ひて 我ら今日来し (偐家持)秋づけば 桜葉もみつ 矢田の丘 君が笑みとし 風の吹くなれ (偐家持)(恩師、I 先生墓) (注)今回はお墓の写真を撮っていない。上記のお墓の写真は、前回(5月 24日)に小生が一人でお参りした時のものを使っています。
2009.09.12
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阪神タイガースがクライマックス・シリーズ進出を目指して3位争いを頑張っているが、本日は友人の蝶麻呂君が「蝶」を追い掛けるのを一休み、「虎」の応援に甲子園に出掛けたようである。金本がホームランを打った処で下記の写真を添えて、「今日は勝つでえ!」とメールして参りました。その言葉通り2-1で阪神は横浜に勝ちました(笑)。 もっとも、蝶麻呂君は近々またマレーシアまで蝶を求めてお出掛けとか、今夜の電話でのたまふて居られましたが・・(笑)。 (甲子園球場) さて、タイガースや蝶のことはさて置き、本日の銀輪散歩では葛(くず)の花が咲き始めているのを目にしました。萩も尾花も秋なれど、葛の花も亦、秋の七種の花の一つです。山上憶良の作れる、かの有名な、「秋の七種の花」の歌をご紹介して置きましょう。 山上憶良、秋の野の花を詠める歌二首秋の野に 咲きたる花を 指折(ゆびを)りて かき数ふれば 七種(ななくさ)の花萩の花 尾花(をばな)葛花(くずはな) なでしこの花 女郎花(をみなへし) また藤袴(ふぢばかま) 朝がほの花(くずの花)夏葛の 絶えぬ使いの よどめれば 事しもあるごと 思ひつるかも (万葉集巻4-649 坂上郎女)(夏の葛のように絶えなかった使いも滞りがちになっていましたから、あなたの身に何事か起ったのでは、と思ってしまいましたことよ。)真葛原 なびく秋風 吹くごとに 阿太の大野の 萩の花散る (万葉集巻10-2096)(一面の葛原の葛の葉をひるがえすように秋風が吹くたびに、阿太の大野の萩の花が散ることだ。) 上の2番目の歌のように「真葛原」と歌い出されているのに、散る花として登場するのは、葛の花ではなく、萩の花の方である。 葛は「延ふ葛の」とか「真葛はふ」のように、その蔓性に注目されたり、「葛葉」と葉の方で登場したりと、花そのものが歌われないのは、ちとお気の毒なことである。花が大きな葉に隠れ勝ちで、目立たない所為なのか、その花のボッテリとしたスマートさに欠ける形の所為なのかは存じませぬが、憶良が「七種の花」の一つに挙げたにしては、花は無視されていますな。 しかあれば、偐家持にて1首、葛花を詠みてもみむと。真葛原 吹く秋風の 夕暮れも 葉陰に咲ける 葛の花あり (偐家持)
2009.09.11
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偐万葉・大和はまほろば篇(その4) 大和はまほろば氏のブログに書き込みたる歌が39首となりましたので、ここで、偐万葉・大和はまほろば篇(その4)として纏めました。(例によって、赤字部分は大和はまほろば氏の俳句で、下2句は偐家持が付しました。) 偐家持が大和の国まほろばの麻呂に贈りて詠める歌39首蝉の声 突如静まる 広島忌 祈りの道の 果てもなかりき 酔芙蓉 朝から酔った 顔をして くだまく花の 興醒めの風 (酔不況)瓢箪の 末葉(うらば)に成れる 青成の 白きうぶ毛に 朝の露あり問ひかけば 川面が答ふ 夏の川 さやけき見つつ またも走らな (偐泉川)オクラ花 今も咲くらむ 夏ならむ それその横に 実もなるらむぞ (山下オクラ)つき草の はかなき色の 消(け)ぬるとも 葉月の空の 青な忘れそ池の水 撥ねる音する 盆の雨 ジャンべ打つらし 睡蓮の花理由(わけ)ありが どさと捨てある 西瓜畑 ひとくせありて 朽ちゆく惜しも (偐人事部長)曲がりても 太り過ぎても 駄目胡瓜 すいかのことは 知らずはあれど (瓜売り)蝉時計 クマは朝鳴き アブラらは 午後より鳴きて 時分かつらし (偐蝉持)まほろばの 影にありけり 夕影の 穂波に見えて 奈良は秋なり終戦日 植物園の 水枯れる 六十年(むそとせ)越えて 揺らぐこの夏 (偐九条の会)ユーターン ブルーマンデイ 萩の風 いたくな吹きそ 背子がゆく道捕へては 子に手で渡す 秋あかね その手触りの ごとに日は暮れ 櫨(はぜ)の実に 生駒の山並 迫り来る 包める皮の まだし青きにさっと来て さっと飛びさる 夏の蝶 選挙カーなら 連呼もするや (夏選挙) 「秋に寄す」 フルートの音の 風に舞ふ をとめの淡き 恋にやあらむ 凌霄花(のうぜんか) 平屋の家の 軒を越え 目指すは高き 青空なるか (ジャック) 蟷螂の 動かぬと見せ 襲ふかな 規制緩和の 所為にはあらね (竹中純一郎翁)秋風や 窓開け放つ ローカル線 袖に汲入(こき)れな 稲田のそよぎ 落(おち)蝉(せみ)や 過労で逝きし 友悼む 端正に生きし そのまなざしの遊び惚け 羽ぼろぼろの 夏の蝶 責任力も ちゃんちゃら可笑し (鳩ぽっぽ) 蓮の実の 飛ぶまで待てぬ いらちかな せいてはことも おしゃかなりける (江戸の人)大糸瓜 サヨナラすれば 首を振る 何のへちまと 思ふて居たに (ひょっこりひょうたん島)二匹去り また二匹来る 赤蜻蛉 投票済ませ 秋風待つや (蜻蛉絵日記)秋風や ゆるりと歩く 奈良の町 格子の道に 萩も咲きたり水澄むや 川魚影を 引き連れて 水の盆なり ならの小川は (小川水の盆)土塀みち 色なき風の 通りけり 吹かれ遊子も 秋をぞ行かむ 瑞々し 青きその棘 な忘れそ 実り弾ける 時にありても先駆けて 桜並木の 紅葉す 佐保姫なるも 頬は染むらし 柘榴熟れ きっと獲りに来る 鬼子母神 サトリアヌスは ご遠慮いたす (入谷のゴヤ)いち早く 櫨の枝先 紅葉す 実はまだ青く 秋は浅けどせんべ屋に 屯してゐる 神の鹿 恋の秋にも 腹は空くとふ (もみぢよりせんべ)奈良大路 せんべをねだり ゐ群れたる 鹿見る秋の 鼻の白けき (奈良の猿丸)願かけて 不動にかける 秋の水 さらしに巻ける 包丁なけど (今来(いまき)の法善児) 水都行く 巡航船に 秋の風 吹きてとんぼり 夜待つらむか天高し 九輪の塔に 鳩とまる しかと先行き 見てぞ飛び立て (国野先行(くにのさきゆき)) 秋の山 雲の崩れる 速さかな いづちはぐれて ちぎれ雲ゆく (白雲斉)難波津(なにはづ)に 空(す)くやこの腹 秋づけば 今も食はむと 空(す)くやこの腹 (此腹空耶姫(このはらすくやひめ))
2009.09.10
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元の勤務先の会社のOB会のサークル「囲碁の会」の日にて、梅田へ。 書道、絵画、写真、囲碁、将棋、パソコンなど色んなサークルがあるのだが、小生は「囲碁の会」で第一、第二水曜日の月2回に顔を出すだけである。今日は、はるばると、大先輩のTs氏が鳥取から参加されたのは、愉快なことでありました。 戦績、勝敗はまあ、余り拘ってもいないのであるが、何と言って記すべきこともないので、どなたも興味のないことなれど、紹介申し上げると、先週は3勝1敗と珍しく好調だったが、本日は1勝1敗と実力通りでありました。 OB会の部屋は再開発中の大阪駅北ヤードに隣接してある梅田スカイビルの9階にある。窓からは、移転予定のJR梅田貨物ヤードや再開発中の北ヤードが眼前に望める。(正面が工事中のJR大阪駅ビルです。手前が貨物ヤード)重陽の 節句もへぼ碁 菊も見ず (筆蕪蕉) 本日は重陽の節句でしたが、新暦ですから、未だ「菊」という感じではありませなんだ。古典や俳句や和歌や歴史の世界に遊ぶと、決まってこの暦の新旧のズレによる「季節感のズレ」に戸惑うこととなりますなあ。まあ、本日は節句と何の関係もない囲碁三昧でありましたから、その点はどうでもよいことではありましたが・・。
2009.09.09
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第43回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展の開催でございます。皆さま多数のご来場お待ち申し上げます。 智麻呂 偐家持(アメリカ芙蓉) 車椅子での散歩でアメリカ芙蓉が咲いているのを見つけ、炎天下でその写生を始められた智麻呂氏。付き添って居られた奥方の恒郎女様も、こうなると絵が完成するまでずっと炎天下で立ち尽くすしかないのであります。 「もう、早く描き上げてよ。」という恒郎女様の汗と涙(?)の叫びが、この絵の裏側にはあるのであります(笑)。(ムクゲ1)(ムクゲ2)(ゴーヤ)白露に 濡れてゴーヤの 色深み すがし朝風 よき日なるらむ (偐家持)(ゼリーのお菓子) このお菓子は小万知さんのお土産です。前回、智麻呂邸にお邪魔した際に、小生もひとつお相伴に与りました。(梨)梨の実の 連れ来たりける 秋の風 (筆蕪蕉)(葡萄)(瓢箪) 上の瓢箪と茄子は偐山頭火君のお土産です。瓢箪は智麻呂氏にこれを描かせようという魂胆が明白ですな(笑)。しかし、芸術作品はこのようにして生まれるのである。これを「瓢箪から駒」いや、「瓢箪から茄子」と言いますな。(茄子)
2009.09.08
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小生のお決まりの銀輪散歩コースの一つである緩衝緑地公園の北端の出入り口の西側に土木工事などに使う建設工事用特殊車両が沢山駐車していました。これは昨日のことですから、日曜日ということで工事現場がお休みで、みんなここに集まっていたのでしょう。何ということはないのだけれど、このように居並ぶと圧巻で、力強い美しさというものを感じます。こういう感性というのはちょっと危険な気がしないでもない。戦車や地対空ミサイルなどの兵器のパレードなんかを「美しい」と感じてしまう感性と共通する何かがあるようだから(笑)。 まあ、これは人殺しの兵器ではなく、土木工事など平和的な機器ではあるのですが・・。(この写真の背後の緑が公園の緑地の一部です。) 昨日は夕陽が綺麗でした。真っ赤な太陽が沈んだ後の夕映えも美しく、吹き来る涼しい風に秋を感じながら、虫の声を聴いていると、何やら心地よくもありまして・・。 写真は花園中央公園から野球場のネット越しに見る昨夕の西空です。(夕照)
2009.09.07
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(その3)神南備神社・犬養万葉歌碑・磐瀬の杜から龍田越え 龍田大社からJR三郷駅へは急な坂道を下って行く。坂を下った処に小さな森がある。神南備神社である。(神南備神社) 神南備の磐瀬の杜はここ?三室山の対岸に「岩瀬の森」の看板がありましたが、見渡せど森はなく、稲田が広がっているのみ。万葉の頃の「磐瀬の杜」は何処なんでしょうね。JR三郷駅の西側の龍田大社の飛び地にも「磐瀬の杜碑」が立てられていますが、現況からはどちらも??である。 神南備とは神様がお住まいになる森という意味で、神名火、甘南備とも書き、「かむなび」と読む。山が平地に接する端山にある。立野の神南備は、飛鳥の神南備と共に有名であり、万葉集にも十首以上詠まれている。清き瀬に千鳥妻喚(よ)び山の際(ま)に霞立つらむ甘南備の里 (万葉集巻7-1125)神南備の伊波瀬の杜の呼子鳥いたくな鳴きそ我恋益る (万葉集巻8ー1419)神名火の磐瀬の杜のほととぎす毛無(ならし)の丘にいつか来鳴かむ (万葉集巻8ー1446)(磐瀬の杜の碑は、この坂を下り、三郷駅西50m左側にある。) このあたり、大和と河内の境になるので、奈良から難波(なには)への要路でもあり、愛情をこめて別れを惜しんだ所でもあった。わが行は七日はすぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし (万葉集巻9-1748)妹が紐解くと結びて立田山今こそもみち始めてありけれ (万葉集巻10-2211)秋されば雁とびこゆる立田山立ちても居ても君をしぞ思ふ (万葉集巻10-2294)龍田山見つゝ越え来しさくら花散りかすぎにしわが帰るとに (万葉集巻20-4395)‐‐‐‐‐‐上の写真の看板の内容を転記して置きました。(JR三郷駅)(犬養万葉歌碑) わが行(ゆき)は 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風にな散らし (万葉集巻9-1748 高橋虫麻呂)(私たちの旅は七日を越えることはあるまい。竜田彦よ。この花を決して風で散らしたりしないで下さい。) 犬養万葉歌碑の傍らに黄花コスモスと共に、ランタナの花が咲いていました。偐家持も一首詠まむとて。我妹子と 添ひてもがもな ランタナの 花もたぐひて 二つぞ咲きぬ (偐家持) (磐瀬の杜碑) (鏡王女歌碑)神奈備の 磐瀬の杜の 呼子鳥 いたくな鳴きそ 我(あ)が恋益さる (万葉集巻8ー1419 鏡王女)(神なびの磐瀬の社の呼子鳥よ。そんなにひどくは鳴かないでおくれ。わたしの恋の思いがつのるから。) (注)神なび=神のおいでになるところ。 呼子鳥=カッコウのことと思われる。 磐瀬の杜で「万葉ウォーク」は終了であり、下見はここまで。あとは自転車で立田越えして、自宅まで走り帰ろうと存じ候。 大和川を左に見つつ山を越えると大阪府柏原市である。ことのついでと河内国分寺跡を訪ねることに。竜田道とは大和川を挟んで対岸にあるのだが、これがまた、結構高みにあって、坂道を喘ぎつつ自転車で登る。(河内国分寺七重塔跡) 国分寺跡から坂を下って、国分神社に立ち寄って行くことに。神社の裏山に古墳があったことを思い出したので、これも覗いてみようかと。(国分神社) この神社の祭神は大国主命である。(松岳山<まつおかやま>古墳) 帰途は、いつものコース、恩智川沿いの道である。八尾市に入った辺りで、小さな公園の木陰にて水分補給のため休憩していたら、近くのベンチで何やら辞書を広げて勉強されていた男性から話しかけられる。 自転車談義をひとしきりして、何を勉強されているのか、とお訊きすると、朝鮮語、ハングルの勉強とのこと。定年で会社を辞めたので、ハングルを学び始めた処らしい。こういう方を目にすると、何かすがしい気分になる。 余り長くお話して勉強のお邪魔をするのも憚られたので、「ハングル、頑張って下さい。」とおいとますることに、「お気をつけて。」という言葉を背中で聞きつつ。
2009.09.06
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(その2)三室山から龍田大社まで 三室山は竜田川の右岸にある小さな丘である。古来からの歌枕。 <参考>三室山(斑鳩町)-Wikipedia- 登り口に在原業平と能因法師の和歌の刻まれた石板がある。(三室山登り口) 東側・竜田川側の入口は、ご覧の通り、階段ですから、自転車を担いで登るしかない。南側の入口はスロープになっているが、通常は閉ざされている。但し、横合いから入れるので、自転車なら、こちらの入口がお勧め。まあ、下に停めて置くならどちらでもいいが。 山の木は全て桜である。桜の林の下の急坂を登り切ると、頂上にあづま屋があり、近くに能因法師の供養塔と伝えられる五輪塔がある。(三室山頂上のあづま屋)(五輪塔)(この蝶は、ジャノメチョウまたはクロヒカゲ) (注)友人の蝶麻呂氏から、この蝶はジャノメチョウ科の ヒカゲチョウであるとご指摘ありましたので、謹ん で訂正いたします。(9月6日) あづま屋で休憩しながら、水分補給をしていると、あづま屋の柱にこの蝶が飛んで来ました。(三室山頂上付近からの眺め)(中腹の神岳神社への道からの方が木立が切れて眺望がいい。)(神岳神社拝殿)(神岳神社境内)(神岳神社鳥居) <参考>神岳神社 神岳神社(2)(竜田川左岸の道・大和川との合流点付近)(大和川に合流する竜田川<右手前>) 合流点からは大和川の堤防の道を行く。この道はこれまでも何度か自転車で走っているお馴染の道である。万葉ウオークでは昭和橋を渡って左岸を歩き、多聞橋で右岸に渡り竜田大社へと向かう予定にしているが、今回は右岸の丘の上にある春日神社にも立ち寄ってみることに。境内奥に一針薬師笠石仏がある。(春日神社) <参考>一針薬師笠石仏(春日神社前の石仏) 多聞橋から県道を西に入って坂道を登ってゆくと龍田大社である。(多聞橋)(龍田大社)<参考>龍田大社 龍田大社拝殿の脇に高橋虫麻呂の長歌の万葉歌碑がある。(万葉歌碑)島山を い行きめぐれる 河副(かはそひ)の 丘辺(をかべ)の道ゆ 昨日(きのふ)こそ わが越え来(こ)しか 一夜(ひとよ)のみ 宿(ね)たりしからに 峯(を)の上(うへ)の 桜の花は 滝の瀬ゆ 落ちて流る 君が見む その日までには 山下(やまおろし)の 風な吹きそと うち越えて 名に負へる社(もり)に 風祭(かざまつり)せな (万葉集巻9-1751 高橋虫麻呂)(島山を行き巡っている川沿いの岡辺の道を、昨日私は越えて来たばかり。たった一晩泊っただけなのに、山の上の桜の花は、激流の早瀬の上に落ちて流れている。君がご覧になるその日までは、山おろしの風は吹かないでくれと、竜田道を越えて、風の神として名高い社で、風祭をしよう。) (注)島山=水に面した土地を水面を隔てて眺めていう語。 ここでは 大和川に沿った対岸の山地をいう。 風祭=風災を鎮め豊作を祈る祭。または、花を散らさ ないでくれと風に祈る花鎮めの祭。 この歌には反歌1首がある。歌碑には出ていないので下に掲げて置く。い行相(ゆきあひ)の 坂のふもとに 咲きををる 桜の花を 見せむ児もがも (万葉集巻9-1752 高橋虫麻呂)(行き合いの坂の麓に、今を盛りと咲いている桜の花を見せてやる、可愛い少女がいたらいいのだが。) (注)い行相の坂=国境の坂。隣り合った国の境は双方の国 の神様が、同時に出発して出会った地点 を国境と定めたという伝説から来る表現。 この後、JR三郷駅方向へ向かい、神南備神社、犬養万葉歌碑、磐瀬の杜(三郷町立野)へと続くのであるが、いささか疲れたので、本日はここまで。続きは、また明日です。
2009.09.04
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(その1)平群から三室山まで 案内役を頼まれている来月の万葉ウォークの下見をして来ました。 近鉄生駒線の平群駅下車、駅前で持参の折りたたみ自転車「トレンクル」を組み立て、出発。 駅前で同じ電車に乗り合わせていた「おばちゃん」達に「兄ちゃん、何処まで行くのん?気いつけていきなはれや。」と見送られて、先ず長屋王・吉備内親王のお墓へ。 長屋王の墓は平群駅の東北東5~600メートルの処、住宅街に囲まれるようにして、ひっそりとある。 長屋王は、続日本紀によると、「左大臣正二位長屋王ひそかに左道を学びて国家(みかど)傾けむと欲す」と密告され、謀反の罪で自殺に追い込まれた(729年2月)、という奈良時代初期の、悲劇の宰相である。 当時の政界地図は藤原勢力と反藤原勢力とに二分されていて、長屋王は反藤原勢力の旗頭であったと思われる。天皇家の外戚として自己の勢力伸長を図ろうとする藤原氏にとっては、長屋王は邪魔な存在の最たるものであったろう。 光明子を皇后にしようと目論む藤原氏はこれに反対することが明白な長屋王を排除して置く必要があった。長屋王謀反事件は、かくして藤原氏によって、仕組まれた冤罪事件である。 2月10日 中臣宮処連東人密告。 同夜、藤原宇合率いる六衛府の兵が長屋王邸を 包囲する。 2月11日 舎人親王、新田部親王、多治比池守、藤原武智 麻呂、小野牛養、巨勢宿奈麻呂らの窮問使派遣。 2月12日 王自尽せしむ。室・吉備内親王、男・膳夫王、桑 田王、葛木王、鉤取王も自経。 2月13日 長屋王、吉備内親王の屍を生駒山に葬らしむ。(長屋王墓)(吉備内親王墓) 万葉集に出て来る長屋王関連の歌 <長屋王の死を傷む歌ほか>大君の 命(みこと)恐(かしこ)み 大殯(おほあらき)の 時にはあらねど 雲隠ります (万葉集巻3-441 倉橋部女王)(大君のお言葉を恐れ謹んで受けて、お亡くなりになるべき時でないのに、お隠れになられました。)世の中は 空しきものと あらむとぞ この照る月は 満ち欠けしける (万葉集巻3-442)(世の中は空しいものだということを示そうというのか、この照る月も満ち欠けするのであることよ。) (注)この歌は長屋王の子、膳部王(膳夫王)の死を「悲傷しぶる」歌である。 <長屋王自作の歌> 佐保過ぎて 寧楽の手向に 置く幣(ぬさ)は 妹を目離(か)れず 相見しめとぞ (万葉集巻3-300)(佐保を過ぎて、奈良山の手向けの地で幣を神に奉るのは、妻にいつも逢わせて下さいという気持からです。)宇治間山 朝風寒し 旅にして 衣貸すべき 妹もあらなくに (万葉集巻1-75)(宇治間山の朝風が寒い。旅先にてあれば、衣を貸してくれる筈の妻もいないというのに。)(竜田川) 竜田川沿いの道を行くと川に沿って緑地がある。竜田公園である。 竜田川と言えば、在原業平のちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとはや、能因法師の嵐ふく 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけりを持ち出すまでもなく、秋の紅葉であるが、まだ秋の入口を過ぎたばかりにて、もみぢならぬ萩の花が咲き匂っていました。(竜田公園の萩)(竜田公園・堂山橋)(竜田公園・紅葉橋)(竜田公園の道) 竜田公園は竜田川の右岸に沿っているが、それが途切れる処に架かっている橋が岩瀬橋である。右岸をそのまま行くと三室山(標高82mの小山)。左岸に渡ると白山神社、岩瀬の森である。(白山神社)(白山神社境内)(岩瀬の森?) 万葉の昔は森が広がっていて「磐瀬の杜」と歌われたらしいが、今は田畑と住宅となり、森の欠片もない。いや、ありました。でもこれを森と言うのは無茶ですな。せめてもアト2本は木が欲しい(笑)。神奈備の 磐瀬の杜の ほととぎす 毛無(ならし)の岡に いつか来鳴かむ (万葉集巻8ー1466 志貴皇子)(神なびの磐瀬の社のほととぎすは、毛無の岡にいつ来て鳴くのだろうか。<早く来て鳴いて欲しい。>)もののふの 石瀬(いはせ)の社(もり)の ほととぎす 今も鳴かぬか 山の常陰(とかげ)に (万葉集巻8ー1470 刀理宣令(とりのせんりやう))(もののふの磐瀬の森のほととぎすよ。今、すぐにも鳴いてくれないものかなあ。この山のいつも日陰になっている処で。) こんな看板が立っていたが、見渡せど「塩田の森」らしきものも見えませぬぞ。 むしろ、対岸の三室山や白山神社の森がそれらしい風情である。(岩瀬の森跡地から眺める三室山)(竜田川に架かる岩瀬橋上からみる三室山)(竜田川左岸から眺める三室山) 三室山に植わっているのは殆どが桜の木。春は花の山となり、秋深まれば能因法師さんの期待に応えて桜葉の紅葉が錦織りなすこととなります。 万葉とは少し外れますが、三室山にも登って来ましたので、それは、次回にご報告ということで、本日はここまで。
2009.09.04
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本日は、竜田万葉ウォークの下見に。折りたたみ自転車「トレンクル」を持って、電車で近鉄・平群駅まで行き、そこで自転車を組み立てて、長屋王墓に立ち寄った後、竜田川沿いの道を走って、三室山、大和川、竜田大社まで、ウオーキングの予定コースをざっと下見して来ました。 ついでに、竜田山越えの竜田道を走ってそのまま自転車で自宅まで。その様子は追ってご報告申し上げることとし、本日は、カエルさんのユーモラスな姿をアップして置きます。 自動販売機にカエルがやって来ていました。カエルも買えるのかなあ?(どれにする~?)(これに決めた~っと。)
2009.09.03
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