全15件 (15件中 1-15件目)
1
夏のヴェローナは野外オペラがアレーナで催されることもあって結構混んでいる。歳をとって人がわさわさ沢山いる所はあまり歩きたくなくなった。が、この町もユネスコ世界遺産に指定されている。宿がサンゼノ大寺院の近くだったために町の喧騒からはちょっと離れていたのは良かったが、旧市街に行ったり来たりでかなり歩いた。街の保護聖人を祀るサンゼノ大寺院は美しく、街を流れるアデイジェ川沿いに旧市街に向けて歩くとカステルヴェッキオにぶつかる。城砦内部は美術館になっている。スカリジェロ橋から町の眺めを見る。スカリジェロ橋ここからローマ通りを歩くと突当りがアレーナのあるブラ広場。ちょうどトルナトーレが夜かかる予定だったそう、前に使われた舞台道具は広場に置きっぱなしにされているのがオカシイ。そういった舞台関係に詳しい家人に依れば何年も同じ舞台背景を使うのだという。(使い切れるまで使うってことね)アレーナ(古代ローマ円形劇場)は混んでいるかと思いきや(コロッセオの混みように慣れているので)空いていてチケットをゲットしてすぐに内部を見学出来た。が、内部はオペラ用に座席が作られていて昔の座席は見えない。はっきり言ってコロッセオの方が内部は面白い気がする。それでもヴェローナ特有のピンクの石で作られた外側は趣がある。アレーナ街一番のショッピングストリート、マッツイーニ通りを通り、ここも敷石がヴェローナのピンクの大理石であることを見直す。この辺は何だか豊か。お店をひやかしながらエルベ広場に到着。エルベ広場ここからもうひと踏ん張りして古代ローマ時代の橋、ポンテ デイ ピエトラを見てジュリエッタの家へ。いつもながらすごい人。ジュリエッタの家ポンテ デイ ピエトラ途中シニョーリ広場とスカリジェリ廟を見る。ヴェローナは結構見る所があるけれど、私たちはそれで足が痛くなったので宿に帰り休憩。(本当はこのポンテイ デイ ピエトラを渡って古代ローマ劇場がある辺りから対岸を観るのもいいのだけれど。)お夕食はジュリエッタの家近くにあるオステリア ダ ウゴへタクシーで。混んでいたけど、悪くなかった。サンゼノ大寺院近くの広場にも沢山軽食が食べられる所があったけれど、何と言っても食べ盛りの息子のために旧市街のレストランに出かけることになったと言うわけ。ヴェローナは飛行場がある街だが、今回はフェッラーラからローカル電車乗り継いで(パドヴァで乗り換え)約2時間の旅だった。高速電車もいいのだけれどローカルでのんびり風景を見ながら行くのも旅をしていると言う感じで悪くない。ちなみにヴェローナはヴェネト州になり、こうして旅しながらローカルな人々のアクセントを聞くのも楽しかった。
2016.08.31
コメント(0)
ローマからフェッラーラはボローニャ乗り換え。イタリア国鉄が誇る高速列車のフレッチャアルジェントでボローニャまでは約2時間、ボローニャ・フェッラーラ間はレジョナーレ ヴェローチェ(早いローカル線)で約30分。だが、旅にハプニングはつきもの。何年か前にやはりこの時期家族で旅をして北イタリアに行った際には高速列車が何故かキャンセルになってテルミニ駅で大騒ぎだった。今回はそれよりはずっとマシで、高速列車のエアコンがあまり効かないということだけ。それでも2時間道中車掌さんが頑張ってくれて、全く効かないということはなく、私たちは他のお客さんのようにエアコンが効く場所に移動することもなく自分たちの席で大丈夫ですと車掌さんを励ましたりしていた。エステ城フェッラーラはご存知の方も多いと思うが、エステ家の街だった所で、街の見物は何と言ってもこのエステ城。お堀にはちゃんと水が入っているし、週末にはボートでのお堀巡りを楽しむことが出来る。エステ家はルネッサンス時代に多くの芸術家を保護したためにこの町にはルネッサンス時代のフェッラーラ派と言われる画家たちの足跡が沢山残っている。アンドレア マンテーニャやピエロ デッラ フランチェスカの影響を受けたと言われる画家、コスメ トウラは注目だ。また、この町出身だったサヴォナローラ像は見逃せない。残念だったのは町のドウオモファッサードが修復中だったこと。街はルネッサンスの街としてユネスコ世界遺産に指定されている。残念なことに私たちがフェッラーラを訪ねたのは月曜日の午後でお城内部(中庭は見学できる)や絵が保存されるスキファノイア館デイアマンテ城内部は見学できず仕舞い。ダイヤモンド館私が最後にこの町を訪れたのは約20年前だったけれど、今回は8月のヴァカンスシーズンであったこともあって特に町は静かだった印象を受けた。例のごとくお城の裏あたりの旧市街をブラブラ歩き、街一番のアイスクリーム屋さんラ ロマーナで休憩。お夕食はミシュランのフォーク付になるca d-fraraにて。この町名物がいくつかあって、ひとつは変わった形をしたパン。コッピアとも呼ばれているらしい。もうひとつはアンテイパスト(前菜)でサラミや生ハムをいただくときに出てくるピンツインと呼ばれる薄い小さなピッツア。これを割って中にハムを入れていただくのだが、ここでいただいたものは本当に神業と思えるくらいに美味しかった。この辺(私たちが今回旅したあたり)はかぼちゃのトルテッリ(カッペラッチともここでは呼ばれる)が名物だが、それにやはりこの辺名物のラグ(ミートソース)でいただく。トルタ(パステイッチオ)と言われるパスタは、中に小さなマケロニ(長いパスタの場合もある)が入っていてそれをケーキのように焼いたもので、(甘いものではない)やはりここ名物。このレストランは結構混み合うので要予約。フェッラーラの宿はお城の傍にあるアヌンツイアータだった。快適でいいのだが、唯一の難点は窓からの眺めは良くなかった。お城が見える部屋は数少ないのでホテルのサイトから直接予約をするのが良いと思う。フェッラーラを含めてこの辺のエミリアロマーニャ州は平野が多いため人々が自転車で行き来するのがとっても印象的。また近くを流れるポー川で捕れる丸い石を使っての道路の敷石が素敵。フェッラーラにはまたゆっくり来たい。
2016.08.30
コメント(0)
今回の旅行については私はノータッチ、家人と息子が計画してくれたものだった。(私が計画していたらおそらくかなり違ったものになったと思うのだが、仕事がら昔イタリア中を旅した家人が、昔良かったと思った町町を子供たちに見せてやりたいということで、今回こんな感じになったようだった。)まずフェッラーラ、そしてヴェローナ、マントヴァ、最後パルマと言う感じで旅して来た。その旅の記録と思っていただければいいと思う。旅行はイタリア人なら大概車を使うと思うのだけれど我が家は極力電車で行く。今回も電車を乗り継いでの旅になった。詳細は追々に書いて行きたい。
2016.08.29
コメント(0)
今日は伊大統領マッタレッラ氏が震災の被害が大きかったアマトリーチェからアスコリピチェーノなどを訪問している。余震はやはりまだ続いているとのことだった。亡くなった沢山の人たちを思って今日はルット ナツイオナーレ(国全体で喪に服す)。追伸:我が家は全く影響がなかった。遠くにいる家族や友人たちで心配してくれている方たちに感謝。
2016.08.27
コメント(0)
今週は家族旅行で出かけていた。ちょうど地震があったのを知ったのは24日の朝ヴェローナでだった。今回の地震はイタリア中部(ラツィオ州リエーティ県,ウンブリア州テルニ県,マルケ州アスコリ・ピチェーノ県及びフェルモ県並びにアブルッツォ州テーラモ県)を中心にマグニチュード6の地震が8月24日明け方起き、その後も昨日までの時点で余震が特にアマトリーチェで続いているものだ。首都ローマでもマグニチュード4の地震があったらしく、大部分の人が地震を感じたという。現在の時点では268人の人が亡くなっており、怪我人はその倍くらいになるという。古い建物が多かったアマトリーチェの街の旧市街は崩壊の状態にあるらしい。一方耐震を考慮しての建物が多かったノルチャの街は被害が少ないという話だった。不幸なことにアペニン山脈が走るイタリアの中部地方は時々地震が起きる。古い建物が多い街は地震対策をもっと考えておくべきではなかったのだろうか。今の時期イタリア中部を旅行なさる方はご注意ください。
2016.08.26
コメント(0)
仕事がら様々な人に会い、色んな話をしたり聞いたりする。昨日はヴァチカン美術館のチケット売り場で顔見知りのイタリア人に会った。う~ん、年はどのくらいか、良く分からない。ひょっとすると40歳前くらいかなと思う。人の好さそうな感じを受ける。季節柄、ヴァカンスは?と聞くと、なしという。(本当かしらね)へえ~と言うと、中国人の彼女に振られてねというのでビックリ。(結構若かったりして)まあ若いんだし、これからまたいい出会いがあるよと慰める。彼曰く、泣いて泣いてハートがオカシクなったからもうコリゴリ。まあ失恋するとそう思うんだけどね。人生の中では後になって考えて見るとまた違うように思えるからね。人間臭いイタリアらしいお話でしょ。
2016.08.20
コメント(2)
ヴァテイカン美術館内、現代美術のコーナーにあるマテイスの部屋は2011年に出来た場所で、システイーナ礼拝堂に行く前にいつも私が一息入れる、ちょっとホッとする所。そこは、北フランス生まれだったマテイスが晩年を過ごしたプロヴァンスのヴァンスに作られた礼拝堂のステンドグラスの下絵や彼がやはりデザインした十字架などが、彼の死後次男のピエールさんによって寄付されて近年出来た場所になる。昔からマテイスの絵には興味を持っていたことから、ちょっとこんな本を友人に教えてもらったので読んでみた。感想は、結構面白かった~!著者のジェームズ モーガンはアメリカの元雑誌編集者で、50歳を超えてから奥さんとアメリカでの生活をたたみ、大好きなマテイスの足跡をたどろうとフランスに移住する。勿論、フランス語も勉強し、各分野に協力をお願いしながら、様々なハードルを越えてそれを実現してしまう所がすごい。各所にモーガンさんが描くスケッチなどが入っていて(彼曰くマテイスをめざしたそうだけれど)、それも楽しい。最後にモーガンさんが達するのはこんな感じ。「マテイスはただ絵を描いただけではない。線と色と光をもって、自分の世界を創り上げたのだ。非現実的人生、つまり空想的人生の中で、静物は小道具となった。(途中略)マテイスにとって究極の開かれた扉とは自身のカンヴァスだったのであり、彼はついにそこを通って姿を消し、アラベスク模様の中に永遠に生き続けることになった。」よく言われるようにマテイスとピカッソの対決も所どころに描かれているし、私が知らなかった晩年のマテイスの様態(車椅子だったことは知っていたが、人工肛門だったとは。)も改めて勉強になった。この本はマテイスのことを学びながら、様々な人生についてもまたアートについても考えさせてくれた。オススメの一冊。マティスを追いかけて [ ジェームズ・モーガン ]価格:3024円(税込、送料無料) (2016/8/18時点)
2016.08.18
コメント(0)
ここ何日かローマの旧市街は走っている車の数がめっきり減って、ようやく8月が来た!という感じ。いつもだったら混みこみの通りもスイスイ車で通ることが出来るこの季節は、ある意味では天国のよう。皆バカンスでお休みだから、空いているレストランやタクシーを見つけるのは至難の技といえる。今年は不景気だから空けているレストランが多いのではと思ったのだが、知っているレストランの90%が閉めているのには驚いた。ヴァカンスは仕事の効率を高めるためにも必要だというヨーロッパの人の考えがここに表れているように思う。でも、スペイン階段周辺のブテイックはほとんどがお店を開けていた。おそらく、店員が交代してヴァカンスをとり、お店は開けることにしているのだと思う。ブオネ ヴァカンツエ!!(楽しい夏休みになりますように)
2016.08.16
コメント(2)
久しぶりにオステイアアンテイーカに行って来た。オステイアは、古代ローマ第一の港町だった所で、中世から近年にいたるまで砂に埋もれていたのを19世紀から正式に発掘が始まって遺跡が見られるようになっている。ローマからはオステイエンセ駅からオステイアリド(海)に行く電車があり、リドの手前がオステイアアンテイーカの駅になる。電車は時間帯にもよるけれど、20分に一本はあるのだろうか、結構トロトロ走るので約30分くらい所要時間を見ておくといい。駅についたら駅前にカフェテリアがあり、その先歩道橋を渡り、→に従って歩いて行くと遺跡のチケット売り場に着く。チケット売り場で入場料ひとり8ユーロを払って2ユーロの地図を買えるので、ガイドなしでいらっしゃる方はゲットするといいと思う。内部一番の見どころはおそらくギリシャ劇場とそこに隣接するコルポラツイオニ広場、ネプチューンの浴場、カピトリーノの近くににあるテルモポリウム*食べ物、飲み物やさん*とデイアナの家などかと思う。ギリシャ劇場コルポラツイオニ広場のモザイク昔は入れたフォロの浴場隣にあるフォリカつまり公衆トイレは現在外から見えるけど内部は立ち入り禁止、20人同時に座れた便座は全て大理石で穴が空いている。夏は正午くらいにどっと混んでくるので、朝早くいらっしゃることをお奨めしたい。月曜日はお休み。
2016.08.12
コメント(0)
ローマの街を歩いていてバシバシ水が出ている泉に気が付かれた方はままあると思う。これ実は名前があり、皮肉っぽいローマっ子からは大きな鼻(ナゾーネ)と呼ばれているもので旧市街だけで200もの泉があるらしい。その中でも最も古いとされているのが、パンテオンのある広場にある泉で、水がいつもひっきりなしに出ている。このナゾーネが作られ始めた1874年のものだという。泉は色々なタイプがあり、ナゾーネのオリジナルはこのパンテオンのような形で銑鉄を使っているらしいが、トラバーチンで作られているものもあるし、1980年から作られ始めた水を必要なときだけ押して出せるようになっているものなどもある。(これは実はローマっ子には人気がなかったという)ローマの街を歩いていくつ泉を見つけられるか、お時間があったらやってみてください。ちなみにローマの水道局ACEAではこのナゾーネの地図をサイトから見られるようにしている。
2016.08.12
コメント(0)
最近日本映画に凝っている我が家では小津安二郎の映画を結構見たりしている。この映画は最近のもので、映画監督の是枝祐和氏については全く知らなかったのだが、知人のドイツ人が彼の作になる「そして父になる」(イタリア版ではファザーアンドサンという題らしいが)を観てすごく良かったと言っていたのでちょっと気になっていた監督だった。鎌倉の古い家で暮らす姉妹3人が父の残した母親の違う妹と一緒に暮らすことにするのだが、人間関係が結構ややこしく最初理解するのに時間がかかった。鎌倉のローカル電車も海も私は覚えていないのだけれどなかなかいい雰囲気で映画が作られていた。最終的には奥さんのいるお医者さんを好きだった一番上の姉がお医者さんの提案したアメリカ行きを断って家に残ることにしたのが印象的だった。この姉妹生涯一緒に暮らすような気がしてまあそれもいいじゃんと思ったりした。海街diary Blu-rayスペシャル・エディション【Blu-ray】 [ 綾瀬はるか ]価格:6804円(税込、送料無料) (2016/8/7時点)注目の監督のような気がする。
2016.08.10
コメント(0)
サンタマリアデッラパチェ教会はナボナ広場にある素敵な教会。以前ブログに書いたことがある記憶がある。しばらく閉まっていた教会が最近また内部を見られるようになって、特にラッファエッロのシビッレ(巫女たち)の壁画などが有名だが、嬉しい限り。その横にあるブラマンテのキオストロはブラマンテがローマに来てすぐに作ったものとされている。その内部では時折素敵な展覧会が行われるのだが、現在9月初めまでマッキア派展覧会を見ることが出来る。マッキア派はイタリアの1850年代から1900年代に特にフィレンツエのカフェ ミケランジェロを中心に始まったものとされている絵のスタイル。もちろん、フランスの印象派との関連もさることながら、アートは必ず時代背景と関係があることから当時のイタリア統一運動(リソルジメント)との関連も強い。色の陰影がマッキア(しみ)のようにも見えることからこの名前があるのだが、世界的にはあまり知られていないかもしれない。今回の展覧会は全く混んでいず、ゆっくり絵を見ることが出来たのは良かった。残念ながらカフェテリアは夏休みでお休みだった。
2016.08.08
コメント(0)
長年イタリアに来てくれている母を観劇に連れて行ったことが考えてみるとなかった。そこで今年は思い切ってローマオペラ座が設けている夏のカラカラ帝大浴場での観劇に行って観ることにした。私もオペラを見に行くのは久しぶり。チケットは前もってオペラ座のサイトからゲット。余裕をもって予約をすると結構いい席がとれる。サイトで直接座席がどこになるのか見られるようになっている。ただ、観劇は終わるのが夜遅く家に帰る電車がない。ということでカラカラ帝大浴場に近い、アヴェンテイーノの丘にある宿をとった。サンタンセルモは旅行会社をしていた友人Pお奨め。ひとつひとつ違うお部屋が変わっているし、朝食会場も気が利いていて私は結構気に入った。ホテルのサイトから予約をすることをお奨めしたい。眺めのいいお部屋などのリクエストが出来るからだ。(アヴェンテイーノはローマの旧市街の中でも閑静なところで昔はここに家を買いたかったのだが)さて、地下鉄B線駅チルコマッシモ辺りからは沢山の観劇への人が歩いていた。劇開幕は21時予定だったので、早めに20時ごろ宿を出る。案の定結構遅れてくる人が多く、結局開幕は21時15分すぎ。でも、5000人の会場は一杯だった。入場は混雑もなくスムーズに入れた。(セキュリテイもなし)出し物はマダムバタフライかセヴィリアの理髪師か迷ったのだがマダムバタフライは何度も見ているし、悲劇よりは明るい喜劇の方が楽しいだろうということで、セヴィリアの理髪師にしてみた。今回の喜劇はハリウッド風に演出されていてとっても変わっていた。最初はいきなり古代ローマの衣装をつけた人たちが踊っていたが、あれはローマでの観劇だからわざとつけたものかと思った。字幕は左右にイタリア語と英語で出るし、予めストーリーは予習していたので母も分かりにくくはないようだった。あれやこれやであっという間に3時間が過ぎ、終幕は24時20分ごろ。タクシーが並ぶという話だったが、空いているタクシーを見つけることができなかったので、宿にぶらぶら歩いて帰った。日没の綺麗な夕暮れの空と夏の大浴場跡を吹いていた風を忘れたくないなと思った夜だった。追伸:会場の上空をずっとヘリコプターが飛んでいたが、あれは警備のためだったと思う。
2016.08.05
コメント(0)
聖十字架物語は、アレッツオにある聖フランチェスコ教会大祭壇の壁画として1400年代半ばにピエロ デッラ フランチェスカが描いているものだが、そのほかに例えばフイレンツエのサンタクローチェ教会の(教会自体聖十字架という意味がある)主祭壇礼拝堂側壁にもアニョロ ガッデイ(ジオットの弟子になるタッデオ ガッデイの息子になる)が描いている。あまり知られない聖十字架物語について簡単に説明してみよう。1200年代のヤコポ ダ ヴァラジネ「黄金伝説」は、特にフランシスコ修道会に重要視されたもので、中世に流行った、十字架の勝利を表わしている。(キリストの磔に使われた十字架の木にまつわる伝説)アダムの死に際して妻のイブが息子セツを使いにやり、静かな死を迎えることが出来るように大天使ミカエルから慈しみの香油をもらおうとしたが、天使は埋葬の際にアダムの口に入れるようにと命の木の枝を与える。この木は成長し、サロモン大王の、エルサレム神殿建設中に発見されたために、王は神殿の一部にと木を倒してしまった。が、どうも神殿に使うにはうまく行かなかったために川に架けられた。シバの女王がサロモン大王を訪問した際にこの橋を渡り、将来救世主がこの木に架けられて亡くなるでしょうと予言をしたため、大王は木を地中に埋めることにした。しかし、キリストが十字架にかけられたとき、この古い木はユダヤ人たちによって再発見され、十字架が作られたときに使われた。312年マクセンテイウス帝を破ったコンスタンティヌス帝の戦い前夜、彼の夢に出たのが、輝く十字架で、それには「これを持って勝て」と書かれていたという。熱心なカトリック教徒であったコンスタンテイヌス帝の母エレナは、彼の願いもあり、聖地エルサレムを巡礼して聖十字架を探すことにした。ありかを知っていた唯一の人物の口を割らせるために井戸の中で1週間水もパンもなしで過ごせることになった。こうして、ようやく聖十字架を発見したが、その際に3つの十字架が出てきたので、本物を見極めるために死人に木を近ずけると、死人が行き返った。エレナは聖十字架をいくつかに分け、主要部分はエルサレムに置いたという。7世紀、ビザンチン帝国が重大な危機に陥った時、特にペルシア帝国からの攻撃に悩んでいたが、コスロの率いる軍隊が614年にエルサレムに入り、宝物を奪った。当時のビザンティン帝国の皇帝ヘラクレイオスは十字架を取り戻すために全力で戦うことにした。戦いは長く続き、628年にようやくペルシア帝国を破り聖十字架を取り戻すことができた。アレッツオの壁画では最後にヘラクレイオスがエルサレムに十字架を返しに行く場面で終わっている。壁画を見る際にお話がある程度分かっていると更に面白くなると思う。
2016.08.02
コメント(0)
アレッツオでの宿泊は駅近くのB&B52centを使ってみた。口コミがまあまあだったので心配していた通り部屋は広くていいのだが、細かい所に配慮がなくとにかく泣きたくなったのは日曜日夜だったせいか夜遅くまで外がとても煩かったために寝付かれずに困った。旧市街の静かな所の方が良かったかもしれない。でも、駅にはすぐだったし、便利な場所ではあった。帰りの日は郊外のサンタ マリア デッレ グラツイエという綺麗なルネッサンス時代の教会を見たり旧市街を散策しなおしたりしたあと出発。アレッツオのメインストリート、コルソ イタリアにはままお洒落なブテイックが入っている。今回はでもお買い物はあまりなく、フィレンツエのサンタマリア ノヴェッラ薬局ショップが、泊まったB&B近くにあったのでちょっと覗いてリップクリーム(19ユーロ)のみをゲット。コルトーナ旧市街にはウンブリアの陶器ショップやペルージアの織物やブサッテイがあった。ペルージアのブサッテイは昔妹と出かけたことがあり、懐かしく麻やコットンの素敵な模様を眺めた。トスカーナのアレッツオやコルトーナに何故ウンブリアのものがあるかと言うと、ここはウンブリアとの州境に近いからだと思う。行き同様ICという特急電車だったが、途中オルテの手前で電車が故障し、故障した車両をオルテで置いて故障した3両に乗っていた乗客を残りの車両に移動してもらい、再出発したが、結局1時間の遅れ。まあ1時間の遅れで済んだからいいとしよう。一緒だった母は、イタリア人は電車が止まってもあまり騒がないのねと感心していた。
2016.08.01
コメント(0)
全15件 (15件中 1-15件目)
1