全4604件 (4604件中 3751-3800件目)
< 1 ... 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 ... 93 >
2020.12.03
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.12.02
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.12.01
コメント(0)
一修身の時間に校長先生がお出になることがあった。 阿部良雄校長は羽黒山の社家(しやけ)のご出身とのことであり、立派な風格の人であった。どういう話だったか覚えていないが、もは天長節や明治節の式などで壇上におられる姿を遠くから見るだけだった校長先生が、教室に入ってこられた時は、ひどく大きな人に思われた。緊張して聞いた話は、よ い教訓であったに違いない。それは覚えていないが、潜在意識に入っていつしかどこかで私を動かしていたのではないだろうか。 二講談社の山本康雄常務は、あの 講談社学術文庫」というすばらしい企画を実現された方である。その山本さんが、「私は『修身』を教える資格を持っているんです。これは校長になる資格だったんですね」といつか話されたことがあった。山本さんは教壇からではなかったが、立派な学術文庫を実現されて、日本人の修身・修養に貢献されたわけである。山本さんの本に対する態度は実にご立派であり、たとえば良書はふり仮名をつけて子どもたちに読みやすくすべきだというお考えであった。『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.30
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.29
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.28
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.27
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)注:この絵に描かれているのは、長野県イオナ氏に伝わる「孝行猿」の物語である。捕らえられた親猿を子猿が助けようと、炉で手を温めて傷口に当てている。
2020.11.26
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.25
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.24
コメント(0)
利尻昆布ラーメン、おいしいです。応援しています。同時に、デジタル通貨「xコイン」も応援しています。人権問題に何の関心も示さない、中国共産党のデジタル人民元に対抗するためにも、xコインを応援してください。利尻昆布ラーメンは、xコインでも使えます。
2020.11.23
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.23
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.22
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.21
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.20
コメント(0)
第30回烏山講演会(講師:江崎道朗氏) karasuyamakouenkai.peatix.com via @PeatixJP city.setagaya.lg.jp/mokuji/kusei/0… 当日会場の受講も可能です。私は、ネット配信と現場と両方に参加します。 江崎先生、よろしくお願いいたします。
2020.11.19
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.19
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.18
コメント(0)
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.17
コメント(0)
2020.11.16
コメント(0)
2020.11.15
コメント(0)
2020.11.14
コメント(0)
もう何十年も前の話になるが、小学校の校長先生たちの集まりで講演する機会があった。その後の茶話会で、ある校長先生がこう言われた。「非行少年が出た場合、その親が教育勅語や修身を教えられた世代の場合は指導に成果が上がりました。しかし親が教育勅語も知らず、修身も教えられていない世代になると手の施しようがありません」と。確かに戦前は親を殺したり、先生を撲ったりする少年の話を聞いたことがなかった。教育勅語と結びついた義務教育は、確かにモンスター・ペアレントや、したがってモンスター・チルドレンの発生を予防する力があったのである。今日には今日にふさわしい道徳教育が行われるべきであるが、教育勅語の徳目は時代や場所を越えて普遍不変の価値があるし、そこに示された徳目を目指して修身に心がけることは、普遍・不変の価値があると思う。『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.13
コメント(0)
2020年米大統領選挙の結果は、まだ最終判断が下っておらず、最高連邦裁判へと委ねられると見られている。大紀元英字版「エポック・タイムズ(Epoch Times)」はこのほど、米トランプ政権大統領補佐官(通商担当)を務める著名な経済学者ピーター・ナバロ氏にインタビューした。ナバロ氏によると、ジョー・バイデン氏の家族を含め、米民主党はこれまで中国共産党と職権濫用のビジネスや人権問題を考慮しない対中投資を続けてきた。また、米民主党と中共は密かに共謀しており、「トランプ打倒」という共通目的を持っていると指摘した。聞き手はエポック・タイムズ上級編集者ヤン・エキレック。ナバロ:中国は20万人以上の米国人を殺しました。中国共産党(中共)は、何百万人もの米国人から仕事を奪い、米国に対して数兆ドルの負担を強いてきました。ヤン・エキレック:今回はピーター・ナバロ米大統領補佐官(通商担当)に、米中貿易政策について伺います。また 米国の団体が中国政権の「有用なバカ」になっていることや、ウォール・ストリートの対中投資、中共とバイデンのビジネス取引を巡る疑惑についても、お話を伺います。アメリカの思想リーダー ヤン・エキレックがお伝えします。ピーター・ナバロさん、ようこそ当番組へ。ナバロ:こちらこそ光栄です。まずはエポック・タイムズに敬意を表したいと思います。あなたたちの報道は素晴らしい。中国が致死性の高いウイルスを世界に広げましたが、エポック・タイムズはそれを時系列で報道し、内容は的を射ています。世界が注目すべき内容です。ヤン・エキレック:それでは その話題から入りましょう。GDPの成長率については後ほど伺うとして、まずは中共について伺いましょう。あなたは最近、「中国のカモーアンティファからNBAまで」という論説文を書きました。米国のビジネス界は実際、中共と協力関係にありますね。これについて どうぞお話下さい。ナバロ:民主党と中国共産党には、胡散臭い同盟関係があります。彼らは結託して、トランプの再選を阻止しています。民主党はもちろん、彼らのアジェンダを遂行するために、権力を取りたいのでしょう。しかし不幸なことに、反トランプ・キャンペーンの過程で、民主党は中共のための「有用なバカ」を、育ててしまったのです。これはマルクスやレーニンの言葉で、真の目的を知らされないまま、無意識にそれを推し進めてしまう、「バカな」国民のことです。私が寄稿したニューヨーク・ポストの論説文は、ハドソン研究所でのスピーチと同じ内容です。米国には中国共産党という化け物に、餌を与え続ける役者が多数いると、私は述べました。例をあげましょう。私はナショナル・バスケットボール・アソシエーション(NBA)の行動を見て、 二度と彼らのゲームを見ないと決心しました。彼らは口を閉ざしながらも、中国に対しては涎を足らしています。彼らは中国の搾取工場で製造した、スニーカーをスター選手に履かせて、米国の子供に売っているのですから。彼らは、新疆や強制収容所での人権侵害や、法輪功学習者を標的にした臓器狩り、香港が強奪されたことなどには、目をつぶっているのです。NBA選手たちは これらを無視するだけでなく、厚かましくも、演台で独善的な言葉を並べて、米国は抑圧的だと非難しています。まったく嫌気がさします。もっと大きな問題は、彼らが中国の全体主義的な制度や、社会主義的な経済制度が、米国よりも優れているという、「ストーリー」を強調していることです。また別の「有用なバカ」は、アンティファやBLM運動で略奪や放火をしていた人々です。彼らは鈍器や凍らせたペットボトルなど、あらゆる武器を持参して、ポートランドやシアトル、ケノーシャなどで街を破壊しました。世界は彼らが店に放火し、略奪しているのを目撃しました。世界は見ていましたが、中国共産党も その一部始終を喜んで見ていましたよ。中国共産党は、「ほら、民主主義で混乱が起きている。我々の独裁国家の方が安定しているだろう」と宣伝できるからです。別の「有用なバカ」はハリウッドです。彼らの映画は中国市場を意識して、完璧に修正されていますよ。またシリコン・バレーやウォール・ストリートも、中国にお金を注入し続けています。彼らの投資先は、米国を狙う武器を製造する中国企業ですよ。非常に残念なことに、今回の選挙では、これらの一連の問題が議論されていません。特にハンター・バイデンのパソコンから、流出した情報は衝撃的でした。このパソコンは彼のもので、パソコンに保存された文書は本物であると、確認されています。しかし主流メディアはそれを報道しません。しかし これは明確な証拠です。バイデン家は犯罪シンジケートで、まさに「ゴッド・ファーザー パート4」ですよ。ジョー・バイデンがゴッド・ファーザー、ジェームズ・バイデンがバイデンの名を利用し、世界で収益を上げる首謀者です。これが違法であることを付け加えておきます。ハンター・バイデンが、父親のためにお金を集める愚か者です。そのリベートで、父親が新たな別荘を買うという仕組みです。これがハドソン研究所で私が講演した内容です。論説文の内容も同じです。しかし主流メディアが史上最悪の、大統領選を巡るスキャンダルを報じないことは、残念なことです。もう一つ言いましょう。私の予測ですが、今年中にジョー・バイデンはいなくなります。健康問題かあるいは弾劾されて消えるでしょう。バイデンが仮に当選しても、民主党の進歩系たちは、ピラニアのように彼を追及しますよ。これが彼らの夢だからです。膨大な証拠でバイデンを起訴し、彼を追い出すのです。その後、何が起こるでしょうか。想像もつかないでしょうが、カマラ・ハリスが大統領に就任します。彼女は外交も経済も全く経験がありません。しかし彼女の大統領就任が中国共産党の夢であり、民主党を操っている極左の夢でもあるのです。ヤン・エキレック:あなたは民主党と中共には、胡散臭い同盟関係があると おっしゃいましたが、何か証拠はありますか?それについて もっと知りたいのですが。ナバロ:私の専門は経済学で、補足的に産業組織論も研究しています。共謀が起こる一つの形式は、「暗黙の共謀」です。民主党と中共は「トランプ打倒」という、同じ目的を持っています。トランプは中共に強硬だったし、民主党は権力を欲しがりました。米国人がウイルスで殺されているのに、民主党は中共を非難することを何度も拒みました。これも“暗黙の共謀”です。中国は20万人以上の米国人を殺しました。中共は米国から数百万人の仕事を奪い、米国に数兆ドルの負担を強いてきました。民主党はそれらのことに関して、中国を非難したくないのです。もし民主党がそれを批判したら、米国民はトランプ大統領を批判しなくなるからです。だから両者は共謀しているのです。民主党と中共は自己利益に基づいた、胡散臭い暗黙の同盟関係を組んでいます。さらにハンター・バイデンのパソコンから、ジョー・バイデン自身が、中国政府に買収されていたという、悲しい事実が発覚しました。これは露骨な事実ですよ。1つ例をあげましょう。ハンター・バイデンと、ジョー・バイデンの弟のジェームズ・バイデンは、中国共産党と取引をしていました。当時バラク・オバマ大統領はジョー・バイデンを、「アジアへの転換」担当に任命しました。このアジア重視政策は、カート・キャンベルとヒラリー・クリントンの戦略で、ジョー・バイデンにそれを任せたのです。彼の任務は中国による南シナ海の軍事化や、サイバー攻撃をやめさせることでした。当時、中国共産党総書記の習近平は、ホワイトハウスで開かれたイベントで、それらの事をしないと約束する文書に署名しました。バイデンがその約束を守らせるはずでしたが、どうだったでしょうか?彼は何もしなかったし、その任務を拒否したのです。その後、中共はサイバー攻撃をやめなかったし、オバマ・バイデン政権の間に、中国は急速に軍事化しました。このストーリーをハリウッドに持ちかけても、あり得ないと言って台本は拒否されるでしょうね。しかし問題は、これが悲しい現実だということです。そういう意味でジョー・バイデンは、米国史上 最も脆弱な大統領候補でしょう。彼は精神的に大統領に向いていないし、なにしろ中共に買収されていますからね。もしバイデンが勝利したら、米国にとって最悪の日となるでしょう。私は米国国民がこれを知って判断し、投票できることを望みます。もう一つの問題は、中共の「有用なバカ」の主流メディアが、一連の出来事を人々に知らせることを拒み、ニュースを検閲していることです。大統領も「自由な報道ではなく抑圧の報道」と、コメントしています。更にシリコン・バレーから台頭した起業家たちがいます。ツイッターCEOのジャック・ドーシーや、フェイスブックCEOのザッカーバーグなど、彼らは全く現実を分かっていません。ニューヨーク・ポストの記事や、米国人のコメントを検閲するなんて、彼らはとてつもない被害を与えました。ヤン・エキレック:エポック・タイムズを含む幾つかのメディアは、ハンター・バイデンのスキャンダルを調査しています。今は司法省がハンター・バイデンについて、調査していると聞きました。その他に何か情報はありますか?ナバロ:いいえ 私が知っていることは、あなたが知っていることと同じです。FBIがこの情報を入手していたのに、1年間放置していたことも知っています。もし彼らが調査をしていたら、トランプ大統領の弾劾はなかったでしょう。これは侮辱的な証拠ですよ。この証拠があれば弾劾騒ぎは消し飛んだはずです。大統領がこの嘘の弾劾に、巻き込まれるよりも、ジョー・バイデンが起訴されていたでしょう。そうすればゴッド・ファーザー パート4が票稼ぎのために出馬して地下に隠れたりせず、おそらくバーニー・サンダーズや、リズ・ウォーレンが候補者となり、より正直でイデオロギーに基づいた選挙戦が、できたことでしょう。厳しく聞こえるかもしれませんが、これは決して綺麗ごとではなく、現実なのです。主流メディアは米国人から、このスキャンダルを隠しています。全く信じられません。こんな事はロシアや中国、ナチス・ドイツのゲッペルスがやることです。それが米国で起きるなんて。なぜNYタイムズや、ワシントン・ポスト CNN MSNBC、CBSニュースは無視しているのでしょうか? 最悪なのはPBSニュースアワーです。ここは公平で正直で客観的な報道姿勢を犠牲にしました。このメディアは最初から、バイデン・スキャンダルは有り得ないから、報道しないと宣言していました。ジョー・バイデンの口癖を真似て、「冗談じゃないよ」と言いたいところです。ヤン・エキレック:大統領はウォール・ストリートに重点を置いていると、批判されています。人々は中国とのデカップリングや、サプライチェーンの回帰について話していますが、ウォール・ストリートは引き続き、エンティティ・リストの中国企業も含めて、中国市場へ巨額の投資を行っています。それについてお話いただけますか?ナバロ:もちろんです。歴代大統領の中で、トランプ大統領ほど、中国に立ち向かった人物はいません。ニクソンとキッシンジャーの頃に、米国は誤って「共産主義のフランケンシュタイン」に、扉を開けてしまったと、ニクソンは後に述懐しています。トランプ大統領は強硬な対中政策を、実行してきました。3250億ドルの関税、ファーウェイに対する厳しい制裁、新疆の奴隷労働に関与する企業への制裁、香港の優遇措置の撤廃などです。南シナ海での「航行の自由」作戦も活発です。大統領ははっきりと、中国と一線を画していますし、引き続きそうするでしょう。ですからウォール・ストリートを重視しているというコメントは、誤解を招きます。ジョー・バイデンは47年間、中国に対してソフト路線で、中国の言いなりでした。今後 米国は中国から資本を撤収します。特に共産中国の軍事産業へ流れた資本です。我々はこれを懸命にやっています。二期目も強硬な対中政策は続くでしょう。中国共産党は悪すぎますよ。彼らは我々の工場と仕事を奪い、米国人を殺しているのですから。ひとつ残念なことは、主流メディアがそれを取り上げず、米国人の認識を高められないことです。中国共産党からやってきたウイルスが、米国人を殺しているのですから、我々は憤りを感じるべきだし、この問題が選挙に反映されるべきです。選挙まで後少しですが、このインタビューが視聴者にとって、少しは助けになるかもしれません。ヤン・エキレック:なぜウォール・ストリートは、今になっても中国市場に対して、強気の見通しを持っているのでしょうか?ナバロ:ウォール・ストリートには、ソシオパス(反社会的人格障害者)が多いのです。彼らには倫理も道徳も愛国心もなく、すべてはお金です。ですから彼らはどこへでも投資します。ジョー・バイデンが当選すると信じていれば、より多くの資本が中国へ流れるでしょう。米国の年金基金は、米ドルが中国航空工業集団(AVIC)への投資を、許可していました。AVICはボーイングに匹敵する中国企業で、ミサイルを製造しています。米国の航空機や空母を撃沈させる武器を、製造している企業です。全く狂っています。これが退役軍人の年金だったら最悪です。こんな事はやめるべきです。しかしウォール・ストリートやシリコン・バレーには、ソシオパスが多いですからね。ヤン・エキレック:米国のエンティティ・リストは、一部の中国企業との取引を禁止していますが、投資については規制を設けていませんね。今後は資本投資にも、規制がかかると思いますか?ナバロ:我々はそれを始めたところです。我々は米証券取引委員会に書簡を送り、年金保証公社(PBGC)の対中投資を止めさせるよう、求めています。今後の展開を見てみましょう。もしバイデンが当選したら、それもムダになります。バイデンが当選すれば、共産中国への投資がもっと増えるでしょう。ヤン・エキレック:最近GDPの数値が発表されました。GDPは予想より好調で、私の知る限り特に民間セクターが伸びましたね。次の四半期はどのようになると予測しますか?ナバロ:我々は困難があることを事前に知っていました。この歴史的な経済のV字回復は、偶然ではありません。トランプ大統領は経済の運営と成長のやり方を、知っているからです。この流れの途中で大統領が変わり、ジョー・バイデンになったら、経験したことのない大恐慌を迎えると断言します。我々が経済成長のためにやってきた事は、減税、規制緩和、戦略的なエネルギー支配とフラッキングです。グローバリストによる貿易ではなく、公平な貿易です。また防衛予算も増やしました。これはすべてなくなりますよ。このパンデミックの最中で、我々がやってきたこれらの全てがなくなれば、ジョー・バイデンとカマラ・ハリスによる、大恐慌が待っています。ヤン・エキレック:ナバロさん 今日はありがとうございました。ナバロ:あなたも どうぞ身体に気をつけて。
2020.11.12
コメント(0)
今年、私は八十二歳《この書籍が発行された平成24年のことか》になるが、この年になって幼少時に「よい話」を聞かせることの重要性に偶然気がついた。それは古い『キング』という雑誌の付録の小冊子を書庫を片付けながら広げた時のことである。そこには大チェリストのカザルスがパリーに住んでいた貧学生のころ、日記を二週ぐらいまとめてはスペインにいる母に送り続けて、母を安心させたという話が書いてあった。それを見て私はアッと驚いたのである。私が東京に出たのは昭和二四(一九四九)年で、まだ東京の大部分は焼け野原にバラックで、食糧事情は緊迫していた。寮の夕食では米がなく、サツマイモ三、四本と福神漬だけということもあった。もちろん郷里の親はそれを心配していた。それで私は毎日簡単な日記――たいてい食事の中身——を書いてまとめて送った。また後にアメリカに客員教授で出かけた時は——当時の条件で家族同伴は許されなかった――東京で子ども三人と留守居をしている家内に簡単な日記を送り続けていた。私はこの「日記を送る」という行為を自分で考え出した名案と思っていた。そうではなかったのである。小学生のころにカザルスの話を読んでいたのだ。私はカザルスの名も知らず、チェロという楽器を見たこともなければ聞いたこともなく、その名も知らなかったが、この話を読んで、「いい話だな」と思ったらしいのである。それつきり私の潜在意識の底に沈みっぱなしになっていたらしい。ところが自分が敗戦後間もない東京に出て、郷里の母が心配していると思った時、日記を送ることを思いついたのである。もちろんその時はカザルスの話は念頭にない。「ああ、こういうのが子どもに修身のような話を聞かせることの意味なのか」と私は悟った。子どもはいい話を聞いた時には素直に感動する。子どもは善悪には不思議に敏感なところがあり、テレビの物語でも絵本の物語でも、主人公的な者を指しつつ「これは良い人?悪い人?」と聞くものである。子どもの時に読んだ話は、その時に感心してもすぐ忘れる。しかし十年も二十年も経ってから、人生のある局面においては、昔読んで、感心して、忘れていたような行動を選択するものなのではないか。昭和一七(一九四二)年二月のジャワ沖開戦で、イギリスの重巡洋艦エクゼター、駆逐艦エンカウンターが撃沈された時、日本の駆逐艦「雷(いかづち)」は四百名以上のイギリスの軍人を救い上げた。敵潜水艦がいるかもしれない危険な海上で、工藤俊作艦長の行ったすばらしい行為はイギリス軍人たちを感激させた。その様子は恵隆之介『海の武士道』(産経新聞出版)に詳しい。日本海軍は日露戦争の時、蔚山(うるさん)沖でロシアの軍艦リューリック号を沈めた際、上村彦之丞提督は戦闘を中止して海中の敵兵を助けるという国際的美談を残した。これは日本人の誇りでもあり、佐々木信香作詞佐藤茂助作曲の『上村将軍』という歌になった。駆逐艦「雷」の艦長だった工藤艦長も若いころにこの歌を歌っていたのではないか。この工藤艦長の行為のおかげもあって、戦後もイギリス海軍には反日感情が薄かったという。『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.12
コメント(0)
明治維新によって藩校はなくなった。明治五(一八七二)年に「学制」頒布がなされ、その時の指令書(『被仰出書』(おおせいだされたるふみ))の中にも「身ヲ脩メ智ヲ開キ才藝ヲ長スル」ことの重要性が指摘されている。そして修身科で「修身口授(ぎょうぎのさとし)」があり、教師が口でよいお話を聞かせることにした。しかし実際には欧米の新知識を与えることに熱心であった。小学校の先生を作るために幕府の昌平黌(しようへいこう)の跡を師範学校にしたが、その指導者はアメリカ人スコットであった。その後、明治一二(一八七九)年の「教育令」は自由を重んじ、放任をも認める感じであり、授業を視察された明治天皇が「これでよいのか」と心配されたという話も残っている。それで明治一四(一八八一)年の「小学校教則綱領」が出され、修身が各教科の首位に置かれたが、実際は格言や史実についてよい話を聞かせ、作法を教えることであった。そうしたやり方ではまだ不十分があるということから、憲法発布の翌年の明治二三(一八九〇)年に「教育に関する勅語」いわゆる「教育勅語」が下賜された。この勅語にはここで立ち入ることはしないが、誠に立派なもので、明治天皇側近の儒学者・元田永学(もとだながざね)と、近代派の学者的官僚の法制局長官・井上毅が中心となってまとめた。これ以降、アメリカ占領軍の干渉があるまで、日本の道徳教育問題は全く安定していたのである。欧米は道徳教育は主として教会がやることになっていたが、日本では宗派学説・洋の東西・時の古今を問わず、万人が認める徳目を学校が教えることにしたのであった。教育勅語は英・仏・独・漢の訳本も作られ諸外国に配布されたが、どこからも反対・批判はなく、称讃の反響のみがあった。日本の学校での道徳教育は修身と称され、教育勅語に添ったものとなった。欧米諸国では修身に相当するものは、十九世紀末まで宗教教授であった。宗教と分離した道徳教育は、日本が明治五(一八七二)年の「学制」頒布以来、欧米諸国に先んじ、フランスが一八八二年以来、公立小学校で宗教科を廃止したのがこれに次いでいる。教育勅語下賜の翌年(明治二四年)の「小学校教則大綱修身ハ教育二関ス勅語ノ旨趣二基キ、児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ、人道実践ノ方法ヲ以テ要旨トシ……」(傍点筆者)として教育勅語の徳目を並べてある。これは戦前の修身教授の大綱を確定したものであって、その後、字句の修正があったものの、昭和二〇(一九四五)年一二月に連合軍が修身、日本歴史、地理の授業停止と従来の教科書の破棄を指令するまで続いたのである(ちなみにこの連合軍の指令は「ポツダム宜言」違反、国際法無視の命令と考えられる。)明治三三(一九〇〇)年の「小学校令施行規則」によれば小学校では一週二時間、中学校では師週一時間、高等女学校では三年生まで毎週二時間、四年生以上一時間となっている。私が小学生のころは侮週一一時間だったことになる。修身の時間にはたまに校長先生が来てお話しなさることもあった。中学校の時はもう大戦中であり「修練」、というのがあった。これは修身と勤労奉仕の働きぶりを一緒にしたようなもので、他の全学科に相当する比重が置かれていたようである。小学校の修身の時間についての記憶はほとんどない。本書に出てくる鈴木今右衛門の話は、自分の家の近所のことだから驚いたことがあったくらいである。当時の小学校の教科書は修身も国語も国史も似たようなものだったという気がする。ただ四年生以上の修身の教科書の冒頭には教育勅語がついていた。『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.11
コメント(0)
国があり、家があり、自分がある「修身」という言葉が普及したのは、徳川時代に儒学が普及し、四書(『』論語』『孟子』『大学』『中庸』)が各地の藩校などで読まれ、その中でも『大学』の中の教訓を『修身・斉家・治国・平天下』(しゅうしん・せいか・ちこく・へいてんか)という言葉に要約したものが、主として武士階級の人々に記憶されるようになったからである。この『大学』の言葉は支配階級の人たちの心がけの順序として教えられたのであった。天下を治めようとするなら、まず自分の国(領地)をよく治めなさい。自分の国を治めるには、まず自分の家をよく平和に保つように斉えなさい。自分の家を斉えるには、まず自分自身が修養して立派な人格を作らなければなりませんということである。これは朱子学のエッセンスとして受け取られた。中江藤樹(一六〇八~四八)は十一歳の時、初めて『大学』を読み、「天子ヨリ庶人二至ルマデ―ニコレミナ修身(身ヲ修ムル)ヲモッテ本トナス」というところに至るや、深く感嘆して涙を流したという。それは徳川家康が亡くなって二、三年後の話である。当時、庶民も天子も、人間としての基礎になるのは同じこと、つまり修身なのだと感奮したのである。そして彼自身は近江聖人といわれる人物になったのだった。また荻生狙棟(一六六六~一七二八)は少年のころ、南房総に父と共に流落しており、学問の師となる人もいなかったが、たまたま父(将軍綱吉の侍医だったが流罪)の持ち物の中に『大学諺解(だいがくげんかい)』があった。諺解というのは和文の注釈である。彼はこの本一冊を十二年間読み続け、そのため後に江戸に戻ってみると、他の漢籍を注釈なしに読めるようになっていたという。こうした逸話が伝えられるほど、『大学』は普及しており、その「経一章」に述べてある修身の大切さを学んだのであった。『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)
2020.11.10
コメント(0)
斯の道は實に我が皇租皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すべき所之を古今に通じて謬らず之を中外に施して悸らず朕爾臣民と倶に拳拳服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾うこの一段には、前の第二段にお諭しになった道は、明治天皇が新たにお決めになったものではなく、実に高祖高宗がお残しになったご教訓であって、皇宗の御子孫も一般の臣民も共に守るべきものであること、またこの道は古も今も変わりがなく、どこでも行われるものであることを仰せられてあります。『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.11.09
コメント(0)
爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭倹己れを持し博愛衆に及ぼし学を脩め業を習い以て智能を啓發し徳器を成就し進で公益を広め世務を開き常に國憲を重じ國法に遵い一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし是の如きは獨り朕が忠良の臣民たるのみならずまた以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らんと仰せられてあります。この一段には、初に天皇が我等臣民に対して爾臣民と親しくお呼びかけになり、我等が常に守るべき道をお諭しになってあります。其の御趣旨によると、我等臣民たるものは父母に孝行を尽くし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互いに分を守って睦まじくしなければなりません。また朋友には信義を以て交わり、誰に対しても礼儀を守り、常に我が身を慎んで気ままにせず、しかも博く世間の人に慈愛を及ぼすことが大切です。また学問を修め業務を習って、知識才能を進め、善良有為の人となり、進んでこの智徳を活用して、公共の利益を増進し、世間に有用な業務を興すことが大切です。また常に皇室典範・大日本帝国憲法を重んじ、其の他の法令を守り、もし国に事変が起こったら、勇気を奮い一身をささげて、君国のために尽くさなければなりません。かようにして天地と共に窮ない皇位の御盛運をお助け申し上げるのが、我等の務めであります。終には、以上の道をよく実行する者は、忠良な臣民であるばかりでなく、我等の祖先が残した美風を表す者であることをお諭しになってあります。『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.11.08
コメント(0)
教育に関する勅語は明治二十三年十月三十日、明治天皇が我等臣民のしたがい守るべき道徳の大綱をお示しになるために下し賜ったものであります。勅語を三段に分けますと、其の第一段には朕惟うに我が高祖高宗国を肇ること宏遠に徳を樹つること深厚なり我が臣民克く孝に億兆心を一にして世々厥の美を済せるは此れ我が國體の精華にして教育の淵源亦實に此に存すと仰せられてあります。この一段には、まず皇室の御祖先が我が国をお始めになるにあたって、其の規模が誠に広大で、且ついつまでも動かないようになされたこと、御祖先はまた御身をお修めになり、臣民をお愛しみになって、万世にわたって御手本をお残しになったことを仰せられ、次に臣民は君に忠義を尽くし親に孝行を尽くすことを心掛け、皆心を一つにして代々忠孝の美風を全うして来たことを仰せられてあります。終に以上のことが我が国体の生粋な立派な所であり、我が国の教育の基づく所もまたここにあることを仰せられてあります。『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.11.07
コメント(0)
吉田松陰は長門の人であります。十一歳の時、初めて藩主に召し出されて兵書の講釈をいいつけられました。家の人たちはいろいろと気づかったが、松陰は藩主の前に進み出て大勢の家来の列んでいる中で、少しも臆せず、自分の知っている通りはっきりと講釈したので、藩主をはじめ皆大そう感心しました。松陰は外国の事情がわかるにつれて、我が国を外国に劣らないようにするには、全国の人に尊王愛国の精神を強く吹き込まなければならないと、かたく信じて、一身を捧げてこのことに尽くそうと決心しました。二十七歳の時、郷里の松本村に松下村塾を開いて、弟子たちに内外の事情を説き、一生懸命に尊王愛国の精神を養うことに努めました。松陰は至誠を以て人を教えれば、どんな人でも動かされない者はな いと、深く信じて、「松本村は片田舎ではあるが、この塾からきっと御国の柱となるような人が出る。」と言って、弟子たちを励ましました。松陰が松下村塾を開いていたのは、わずかに二年半であったが、はたしてその弟子の中から立派な人物が出て、御国のために大功をたてました。身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂(五年生)『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.11.06
コメント(0)
吉田松陰は長門の人であります。十一歳の時、始めて藩主に召出されて兵書の講釋をいひつけられました。家の人たらはいろ/\と氣づかったが、松陰は藩主の前に進み出て大ぜいの家来の列んでゐる中で、少しも臆せず、自分の知ってゐる通りはつきりと講釋したので、藩主をはじめ皆大そう感心しました。松陰は外國の事情がわかるにつれて、我が國を外國に劣らないやうにするには、全國の人に尊王愛國の精神を強く吹込まなければならないとかたく信じて、一身をささげて此の事に盡さうと決心しました。二十七歳の時、郷里の松本村に松下村塾を開いて、弟子たちに内外の事俯を説き、一生けんめいに尊王愛國の精神を養ふことにつとめました。松陰は至誠を以て人を教ヘれば、どんな人でも動かされない者はないと、深く信じて、「松本村は片田舎ではあるが、此の塾からきっと御國の柱となるやうな人が出る」と言って、弟子たらを勵ましました。 松陰が松下村塾を開いてゐたのは僅かに二年半であったが、はたして其の弟子の中 からりつばな人物が出て、御國の為に大功をたてました。 身はたとひ武蔵の野邊に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.11.05
コメント(0)
明治四十三年四月十五日、第六潜水艇は潜航の演習をするために山口県新湊沖に出ました。午前十時、演習を始めると、間もなく艇に故障が出来て海水が浸入し、それがため艇はたちまち海底に沈みました。この時、艇長佐久間勉は少しも騒がず、部下に命じて応急の手段を取らせ、出来るかぎり力を尽くしましたが、艇はどうしても浮き揚がりません。その上船ガスがこもって、呼吸が困難になり、どうすることも出来ないようになったので、艇長はもうこれまでと最後の決心をしました。そこで、海面から水を通して司令塔の小さな覗孔に入ってくるかすかな光をたよりに、鉛筆で手帳に遺言を書きつけました。遺書には、第一に艇を沈め部下を死なせた罪を謝し、乗員一同死ぬまでよく職務を守ったことを述べ、またこの異変のために潜水艇の発達の勢いを挫くようなことがあってはならぬと、特に沈没の原因や沈んでからの様子を詳しく記してあります。次に部下の遺族が困らぬようにして下さいと願い、上官・先輩・恩師の名を書き連ねて告別の意を表し、最後に十二時四十分と書いてあります。艇の引き揚げられた時には、艇長以下十四人の乗員が最後まで各受け持ちの仕事につとめた様子がまだありありと見えていました。遺書はその時艇長の上衣の中から出たのです。格言 人事を尽くし て天命を待つ(六年生)※佐久間勉…明治一二(一八七九)年~明治四三(一九一〇)年。日露戦争にも出兵した軍人で、殉職時は三〇歳。遺書は三九ページにも及び、最期まで落ち着いて潜水艇に残った佐久間や乗組員の姿は世界的にも話題となり各国から弔電が届いた『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.11.04
コメント(0)
明治四十三年四月十五日、第六潜水艇は潜航の演習をするために山口縣新湊沖に出ました。午前十時、演習を始めると、間もなく艇に故障が出來て海水が浸入し、それがため艇はたちまち海底に沈みました。この時艇長佐久間勉は少しも騒がず、部下に命じて應急の手段を取らせ、出來るかぎり力を盡しましたが、艇はどうしても浮揚(うきあが)りません。その上悪ガスがこもつて、呼吸が困難になり、どうするこども出來ないやうになったので、艇長はもうこれまでど最後の決心をしました。そこで、海面から水をとほして司令塔の小さな覗孔にはいつて來るかすかな光をたよりに鉛筆で手帳に遺言を書きつけました。逍書には第一に艇を沈め部下を死なせた罪を謝し、乗員一同死ぬまでよく職務を守つたことを述べ、又この異變のために潜水艇の發逹の勢を挫くやうな事があってはならぬと、特に沈没の原因や沈んでからの様子をくはしく記してあります。次に部下の遺族が困らぬやうにして下さいと願ひ、上官・先輩・恩師の名を書連ねて告別の意を表し、最後に十二時四十分と書いてあります。艇の引揚げられた時には、艇長以下十四人の乗員が最後まで各受持の仕事につとめた様子がまだあり/\と見えてゐました。遺書はその時艇長の上衣の中 から出たのです。格言 人事ヲ盡シテ天命ヲ待ツ『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.11.03
コメント(0)
鷹山は人民の難儀を救うために、倹約を勧めた上に、なお産業を興して領内を富まそうとはかりました。荒地を開いて農業を営もうとする者には農具料・種籾などを与え、三年の間、租税を免じました。また命令を出して村々に馬を飼わせたり、馬の市場を開かせたりなどして農業を盛んにする助けとしました。鷹山はまた養蚕を勧めました。領内には、貪しくて桑を植えることの出来ない者が多かったので、自分の衣食の費用の中から、年々五十両ずつを出して、桑の苗木を買い上げて分けてやり、または桑を植える者に貸し付けてやって、その業を励ましました。なお鷹山は奥向で蚕を飼わせ、その糸で絹や紬を織らせました。また領内の女子に職業を授けるために、越後から機織りの上手な者を雇い入れて、その方法を教えさせました。これが世に名高い米沢織のはじめであります。なせばなるなさねばならぬ何事もならぬは人の なさぬなりけり(五年生)
2020.11.02
コメント(0)
鷹山は人民の難儀を救ふために、倹約を勧めた上に、なほ産業を興して領内を富まさうとはかりました。荒地を開いて農業をいとなまうとする者には農具料・種籾などを與へ、三年の間、租税を免じました。又命令を出して村々に馬を飼はせたり、馬の市場を開かせたりなどして農業を盛にするたすけとしました。鷹山は又養蠶を勧めました。領内には、貪しくて桑を植ゑることの出来ない者が多かったので、自分の衣食の費用の中から年々五十兩づつを出して、桑の苗木を買上げて分けてやり、又は桑を植ゑる者に貸付けてやって、其の業を動ましました。なほ鷹山は奥向で蠶をかはせ、その絲で絹や紬を織らせました。又領内の女子に職業を授けるために、越後から機織の上手な者をやとひ入れて、其の方法を教へさせました。これが世に名高い米澤織のはじめであります。 なせばなるなさればならぬ何事も ならぬは人のなさぬなりけり 『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.11.01
コメント(0)
上杉鷹山は十歳の時に、秋月家から上杉家へ養子に來て、十七歳で 米澤藩主となり、よい政治をして評判の高かった人であります。鷹山が藩主となった頃は、上杉家には借財が大そう多く、其の上、領内には不作がつゞいて、人民も難儀をしてゐました。鷹山は此のまにしておいてはならない、と思ひ、倹約をもととして家を立直し、人民の難儀を救はうと決心して、まづ江戸にゐる藩士に其の志を告げました。しかし、藩士の中には鷹山に従はないで、「殿様は小藩にお育らになったから、大藩のふりあひを御存じない」などと言ふ者がありました。鷹山は少しも志を動かさず、領内に倹約の命令を出し、まづ自分のくらしむきをずつとつゞめて、大名でありながら食事は一汁一菜、着物は木綿ものばかりときめて、實行の手本を示しました。鷹山の側役の者の父が、或日、在方に行って知合の人の家に泊ったことがありました。其の人がふろにはいらうとして着物をぬいだ時、粗末な木綿の襦袢だけは、ていねいに屏風にかけて置きました。主人はふしぎに思ってたづねますと「この襦袢は殿様がお召しになつてゐたもので、それを倅がいたゞいて歸つたのを、私がもらったのです」と答へました。主人はそれを聞いて、大そう鷹山の倹約に感心し其の襦袢を家内の人たちにも見せて、いましめました。(五年生)※上杉鷹山…寛延四(一七五一)年~文政五(一八二二)年。上杉治憲とも呼ばれた。出羽国米沢藩の第九代藩主。江戸時代屈指の名君として知られる。米沢藩は現在の山形県東南部。「国民の修身」一三一頁参照※秋月家:日向国高鍋藩主。高鍋藩は現在の宮崎県東部※在方:いなか『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.10.31
コメント(0)
アメリカ発見で名高いコロンプスは、イタリアの海岸に生まれ、海が好きで、十四の年から船乗りになりました。その頃はまだ地理の学問が開けず、またさまざまな迷信などがあって、遠くに航海する者はありませんでした。コロンプスはいろいろの記録や報告を深く研究して、大地は水と陸とで出来ていて、その形は球のようなものに違いないから、ヨーロッパから西に向かって、どこまでも進んでいけば、きっとアジアの東に達することが出来ると言い出しました。しかし、その頃の人は大地は平たいものとばかり思っていたので、コロンプスの言うことを誰一人として信じる者がなく、嘲り笑うばかりでした。コロンプスはそれに少しも屈しないで、熱心に研究を積んで、いよいよ自分の考えていることに間違いがないと信じました。そこでどうかしてそれを実行しようとしたが、自分にはとても航海の費用を出す力がなく、さりとて事業を助けてくれる人もありません。いろいろ苦心したけれども、久しい間、その志を遂げることが出来ませんでした。後にイスパニアの皇后イサベラに知られ、その助けを受けて、やっと年来の志を実行する時節が来ました。そこでコロンプスは喜び勇んで、三艘の船に百二十人の水夫を乗せ、イスパニアを出帆することになりました。それから大西洋を西へ西へと進んでいったが、日数が経っても、陸地の影さえ見えません。水夫らは、この先どうなることかと、次第に恐ろしくなって、このまま引き返そうとコロンブスに迫ったが、コロンプスは落ち着いて、いろいろ水夫らを諭しました。かようにして進んでいくうちに、陸地が見えたと喜んでいると、それは雲であったことがたぴたびでありました。水夫らは失望して、もうとても辛抱しきれず、コロンプスがどうしても引き返すことをきかないなら、海の中に投げこもうと企んだ者さえありました。けれども、コロンプスは忍耐の心の強い人であったから、騒いでいる水夫らを慰めたり、おどしたりして、なお先へ先へと進んでいきました。出帆後七十日経って、ついに新しい島を発見しました。これが今のサンサルバドル島です。それからコロンブスはいったんイスパニアヘ帰って、このことを皇后に報告し、その後、何べんも航海して、とうとうアメリカ大陸を発見することが出来ました。※イスパニア…スペインのこと※サンサルパドル島…西インド諸島バハマにある島(五年生)『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.10.30
コメント(0)
アメリカ發見で名高いコロンブスは、イタリアの海岸に生まれ、海が好きて、十四の年から船乗になりました。其の頃はまだ地理の學問が開けず、又さまざまな迷信などがあって、遠くに航海する者はありませんでした。コロンブスはいろ/\の記録や報告を深く研究して、大地は水と陸とで出来てゐて、其の形は球のやうなものに違ひないから、ヨーロッパから西に向って、どこまでも進んで行けば、きっとアジヤの東に逹することが出来ると言出しました。しかし、其の頃の人は大地は平たいものとばかり思ってゐたので、コロンブスの言ふことを誰一人として信じる者がなく、あざけり笑ふばかりでした。 コロンブスはそれに少しも屈しないで、熱心に研究を積んで、いよ/\自分の考へてゐることに間違がないと信じました。そこでどうかしてそれを實行しようとしたが、自分にはとても航海の費用を出す力がなく、さりとて事業を助けてくれる人もありません。いろ/\苦心したけれども、久しい間、其の志を遂げることが出来ませんでした。後にイスパニャの皇后イサベラに知られ、其の助を受けて、やっと年来の志を賓行する時節が来ました。そこでコロンブスは喜び勇んで、三ぞうの船に百二十人の水夫をのせ、イスパニャを出帆することになりました。それから大西洋を西へ/\と進んで行ったが、日敷がたつても、陸地の影さへ見えません。水夫等は、このさきどうなることかと、次第に恐しくなつて、このまま引返さうとコロンブスにせまったが、コロンプスは落ちついて、いろ/\水夫等をさとしました。かやうにして進んで行くうちに、陸地が見えたと喜んでゐると、それは雲であったことが度々てありました。水夫等は失望して、もうとても辛抱しきれず、コロンプスがどうしても引返すことをきかないなら、海の中に投げこまうとたくらんだ者さへありました。けれども、コロンプスは忍耐の心の強い人であったから、さわいでゐる水夫等を慰めたり、おどしたりして、なほさきへ/\と進んで行きました。出帆後七十日たつて、遂に新しい島を獲見しました。これが今のサンサルバドル島です。それからコロンプスは一たんイスパニャヘ歸つて、このことを皇后に報告し、其の後、何べんも航海して、とう/\アメリカ大陸を發見することが出來ました。『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.10.29
コメント(0)
イギリスのジェンナーはふとしたことから、牛痘を植えて疱瘡を予防することを思いつきました。友だちにその話をすると、友だちはみな嘲り笑って、「つきあ いをやめる。」とまでいいました。それでも少しも構わず、二十年あまりの間さまざまに工夫を凝らし、とうとう種痘の法を発明しました。まず自分の子に種痘を植えてみた上、書物に書いて世間の人に知らせました。ジェンナーはその後もいろいろと悪口をいわれましたが、ますます志を堅くして研究を続けていました。そのうちに種痘が人助けの良い法であると知れて、広く世間に行われるようになりました。今では我等もそのおかげを被っているのでございます。(四年生)『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.10.28
コメント(0)
イギリスのジェンナーはふとした事から、牛痘をうゑて疱瘡を豫防することを思ひつきました。友だちにそのはなしをすると友だちはみなあざけり笑って、「つきあひをやめる。」とまでいひました。それでも少しもかまはず、二十年あまりの間さま人ざまにくふうをこらし、とう/\種痘の法をはつめいしました。まづ自分の子に牛痘をうゑてみた上書物に書いてせけんの人に知らせました。ジェンナーはその後もいろ/\とわる口をいはれましたが、ます/\志を堅くしてけんきゆうをつゞけてゐました。そのうらに種痘が人だすけのよい法であると知れて、ひろくせけんにおこなはれるやうになりました。今では我等もそのおかげをかうむつて居るのでございます。『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.10.27
コメント(0)
高崎正風は薩摩の武士の家に生まれました。九歳の頃、ある朝、食事の時に「御菜がまずい。」といって食べませんでした。召使は何か他に御菜をこしらえようとしますと、隣の間に居た母が来て、「お前は武士の子でありながら、食物についてわがままをいいますか。昔いくさの時には殿様さえ召し上がりものがなかったこともあるというではありませんか。どんな苦しいことでも我慢をしなければ、よい武士にはなれません。この御菜がまずければ食べないがよろしい。」といって正風の膳を持ち去りました。正風は一度母の言をひどいと思いましたが、ついに自分のわがままであったことに気がついて、何遍も母に詫び、姉もまた詫ぴてくれましたので許されました。その時、これからは食事について決してわがままをいうまいと誓いました。それから正風はこの誓いを守るばかりでなく、どんな難儀なことでもよく我慢したので、後には立派な人になりました。(四年生)※高崎正風…天保七(一八三六)年~明治四五(一九一二)年。幕末の志士、歌人。幕末に薩摩と会津を結ぴつけた。維新後、初代國學院院長などを務める『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.10.26
コメント(0)
高崎正風は薩摩の武士の家に生れました。九歳の頃、或朝、食事の時に「御寀がまづい」といつてたべませんでした。召使は何か他に御寀をこしらへようとしますと、隣の間に居た母が來て「お前は武士の子でありながら、食物についてわがまをいひますか、昔いくさの時には殿様さへ召し上がりものがなかったこともあるといふではありませんか。どんな苦しいことでもがまんをしなければ、よい武士にはなれません。この御寀がまづければたべないがよろしい]といつて正風の膳を持去りました。正風は一度母の言をひどいと思ひましたが、遂に自分のわがままであつたことに氣がついて、何べんも母にわび、姉もまたわびてくれましたのでゆるされました。その時、これからは食事について決してわがまをいふまいと誓ひました。それから正直も風はこの誓を守るばかりでなく、どんななんぎなことでもよくがまんしたので、後には、りつばな人になりました。『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.10.25
コメント(0)
近江に高田善右衛門という商人がありました。十七歳の時、自分で働いて家を興そうと思い立ちました。父からわずかの金をもらい、それを元手にして、灯芯と傘を買い入れ、遠いところまで商売にでかけました。道には険しい山坂が多かったので、善右衛門はかさばった荷物を担いで登るのに、大そう難儀をしましたが、片荷ずつ運び上げて、ようよう山を越えたこともありました。また時々はさびしい野原をも通って、村々を廻って歩き、雨が降っても、風が吹いても、休まずに働いたので、わずかの元手で、多くの利益を得ました。その後呉服類を仕入れて方々に売りに歩きました。いつも正直で、倹約で、商売に勉強しましたから、だんだんと立派な商人になりました。善右衛門は人に頼らず、一筋の天秤棒を肩にして商売に励みました。ある時、善右衛門は商売の荷物を持たないで、いつも の宿屋に泊まりました。知り合いの女中が出て来て「今日はお連れはございませんか。」といいました。善右衛門は不思議に思って、「始終一人で来るのに、お連れとは誰のことですか。」と尋ねましたら、女中が「それは天秤棒のことでございます。」といいました。善右衛門は常に自分の子どもに教えて、「自分は初めから人に頼らず、自分の力で家を興そうと心がけて、精出して働き、またその間倹約を守り、正直にして無理な利益をむさぽらなかったので、今のような身の上となったのである。」といって聞かせました。(四年生)※高田善右衛門…寛政五(一七九三)年~明治元(一八六八)年。後に呉服などにも進出した近江商人※灯芯…あんどん、ランプなどの芯『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.10.24
コメント(0)
近江に高田善右衛門といふ商人がありまし た。十七歳の時、自分ではたらいて家をおこさうど思ひ立ちました。父からわづかの金をもらひ、それをもとでにして、とうしんとかさを買入れ、遠いところま中て商賣にてかけました。道にはけはしい山さかが多かったので、善右衛門はかさばった荷物をかついで登るのに、大そうなんぎをしましたが、片荷づつはこび上げてやう/\山をこえたこともありました。又時々はさびしい野原をも通つて村々をまはつてあるき、雨が降つても、風が吹いても、休まずにはたらいたので、わづかのもとでで、多くの利益をえました。その後呉服類を仕入れて方々に賣りにあるきました。いつも正直で、けんやくで、商賣に勉強しましたから、だん/\と、りつばな一商人になりました。 善右衛門は人にたよらず、一すぢのてんびんぼうをかたにして商賣にはげみました。ある時善右衛門は商賣の荷物を持たないで、いつもの宿屋にとまりました。知合の女中が出て来て「今日はおつれはございませんか」といひました。善右衛門はふしぎに思って、「しゞゆう一人て來るのに、おつれとは誰のことですか」とたづねましたら、女中が「それはてんびんぼうのことでございます。」といひました。善右衛門はつねに自分の子供にをしへて、「自分ははじめから人にたよらず、自分の力で家をおこさうと心がけて、せいだしてはたらき、又其の間けんやくを守り、正直にしてむりな利盆をむさぼらなかったので、今のやうな身の上となったのである。」とつてきかせました。『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.10.23
コメント(0)
我らが学校に入ってから、もう六年になります。入学した頃は、まだ幼くて、ものの道理もわかりませんでした。それが今では、日常必要な知識や技能も進み、また人の行うべき道も一通りわかるようになりました。我らがこれまでになることが出来たのは、教育を受けたおかげです。人は誰でも教育を受けて、初めて叡距布為の人となることが出来るのです。世に立って、農・工・商その他どんな職業に従事するにしても、教育を受けていなければ、よい成績を挙げることは困難です。まして職業について改良進歩をはかるには、なおさら教育を受けていることが大切です。我らが善良有為でよく務めを果たせば、我らはすなわちよい日本人であるのです。我が国民の一人一人が皆かような人であれば、国は盛んになります。我が国では、明治五年に学制が定められて義務教育の基が立ち、同二十三年には教育に関する勅語が下って教育の大方針が決まりました。今日の制度では、各市町村が、その区域内の児童を皆就学させるに足るだけの尋常小学校を設けることになっています。国民はその子弟を満六歳から必ず尋常小学校に入学させて、六箇年の課程を卒えさせる義務があります。世界の文明国は皆義務教育の制度を敷き、しかもなるべく修業の年限を長くすることにつとめています。一国の文明の進歩も産業の発達も主としてその国民の教育の程度によって決まります。国の繁栄を願う者は教育を受けることの大切なことを知らなければなりません。我らは尋常小学校を卒業して後も、身体の発達に注意し、徳行を修め、知能を磨くことを怠らないようにしましょう。また事情が許せば、高等小学校や実業補習学校に入り、あるいは他の学校に進んで、十分に教育を受け、益善良有為の人となるようにつとめましょう。(六年生)『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.10.22
コメント(0)
我等が學校にはいつてから、もう六年になります。入學した頃は、まだ幼くて、ものの道理もわかりませんでした。それが今では、日常必要な知識や技能も進み、また人の行ふべき道も一通りわかるやうになりました。我等がこれまでになることが出来たのは、教育を受けたおかげです。人は誰でも教育を受けて、はじめて善良有為の人となることが出来るのです。世に立って、農・工・商その他どんな職業に従事するにしても、教育を受けてゐなければ、よい成績を攀げることは困難で す。まして職業について改良進歩をはかるには、なほさら教育を受けてゐることが大切です。我等が善良有為でよく務を果たせば、我等はすなはちよい日本人であるのです。我が國民の一人一人が皆かやうな人であれば國は盛になります。我が國では、明治五年に學制が定められて義務教育の基が立ち、同二十三年には教育に闊する勅語が下つて教育の大方針がきまりました。今日の制度では、各市町村が、その區域内の兒童を皆就學させるに足るだけの尋常小學校を設けることになってゐます。國民はその子弟を滿六歳から必ず尋常小學校に入學させて、六箇年の課程を卒(お)へさせる義務があります。世界の文明國は皆義務教育の制度をしき、しかもなるべく修業の年限を長くすることにつとめてゐます。一國の文明の進歩も産業の發逹も主としてその國民の教育の程度によってきまります。國の繁榮を願ふ者は教育を受けることの大切なことを知らなければなりません。我等は尋常小學校を卒業して後も身體の獲逹に注意し、徳行を修め、知能を磨くことを怠らないやうにしませう。又事情が許せば、高等小學校や實業補習學校に入り、或は他の學校に進んで、十分に教育を受け、益々善良有為の人となるやうにつとめませう。『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.10.21
コメント(0)
新井白石は九歳の時から、日課を立てて少しの暇でもむだにせず、一生懸命に学業に励みました。後、木下順庵という名高い学者の弟子となってからも、貧苦をこらえて、ますます勉強したので、日に日に学問が深くなりました。ある時、順庵は白石を加賀侯に推薦しようと思って、そのことを白石に告げました。その頃、やはり順庵の弟子で岡島石梁という人がありましたが、そのことを聞いて、白石に、「加賀は私の郷里で、家には年寄った母がたった 一人で、私の帰るのを待っている。もし先生の御推薦で私が加賀侯に仕えることが出来たら、母もどんなに喜ぶだろう。」と言いました。白石はそれを聞くとすぐに順庵のところへ行き、そのわけを話して、「私の仕えますのは、どこでもよろしゅうございます。どうか私の代わりに、岡島を加賀へ御推薦下さい。」と願いました。順庵は白石が友情に厚いのに感心して、その通りにしました。二年ほど経って、白石は順庵の推薦で、甲斐侯に仕えることになりました。侯が後に将軍となってから、重く用いられました。(五年生)※木下順庵…元和七(一六二一) 年~元禄一一(一六九九)年。江戸時代前期の儒学者※加賀候…前田綱紀のこと。寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年。教養人として知られる名君※甲斐侯…後の第六代将軍・徳川家宜『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.10.20
コメント(0)
新井白石は九歳の時から、日課を立てて、少しの暇でもむだにせず、一生けんめいに學業に動みました。後、木下順庵といふ名高い學者の弟子となつてからも、貧苦をこらへて益々勉強したので、日に/\學問が深くなりました。或時、順庵は白石を加賀侯に推薦しようと思ってそのことを白石に告げました。其の頃、やはり順庵の弟子で、岡島石梁といふ人がありましたが、その事を聞いて、白石に、「加賀は私の郷里で、家には年よった母がたった一人で、私の歸るのを待ってゐる。もし先生の御推薦で、私が加賀侯に仕へることが出來たら、母もどんなに喜ぶだらう。」と言ひました。白石はそれを聞くとすぐに、順庵のところへ行き、其のわけを話して、「私の仕へますのは、どこでもよろしうございます。どうか私の代りに、岡島を加賀へ御推薦下さい。」と願ひました。順庵は白石が友情に厚いのに感心して、その通りにしました。二年程たって、白石は順庵の推薦で甲斐候に仕へることになりました。侯が後に将軍となつてから、重く用ひられました。 『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.10.19
コメント(0)
忠敬の先生の至時は幕府の天文方でした。四十歳の時オランダの新しい暦法の書物を得たので、わずか半年の間に、不十分な語学の力でそれを読み終わった上に、その書物について著述までもしました。もとから病身であった至時は、この激しい勉強のために大そう健康を損じて、翌年亡くなりました。至時は忠敬の根気のよいのに感心し、特に力を入れて教え、また後には北海道その他の測量を忠敬にさせるように幕府にとりなしました。そうして新しい知識を得ると、すぐ 忠敬にそれを伝え、忠敬はすぐまたそれを実地に応用して、師弟一体になって学問のために力を尽くしました。至時の死んだ時には、忠敬は非常に力を落としましたが、先生の教えを空しくしてはならぬと思い、その後は一そう骨折って、とうとう日本全国測量の大事業を成しとげました。忠敬は七十四歳で亡くなりましたが、死ぬ時に「自分にこれだけのことが出来たのは全く高橋先生のおかげであるから、自分が死んだ後は先生の側に葬ってもらいたい。」と家族の者に言いのこしました。今でも浅草の源空寺には、この師弟の墓が並んで立っています。(六年生)『国民の修身』監修 渡辺昇一
2020.10.18
コメント(0)
全4604件 (4604件中 3751-3800件目)