ラッコの映画生活

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2007.01.15
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カテゴリ: デュラス関連映画
HIROSHIMA MON AMOUR


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この映画、ボクが最も評価し、また最も好きな作品の一つです。ただ今回また見て、やはり一種の時代感を持ちました。1970年代に見ていたときにはあまり感じなかった。この四半世紀で世界が随分と変貌したということでしょうか。1960年生まれの諏訪敦彦監督が2001年にこの作品のそのままのリメイクをしようとし挫折するという 『H story』 を撮ったのも同じ感覚かも知れません。ちなみにこの映画は大映との合作なので、正式に日本版のプリントではタイトルは『二十四時間の情事』、配役等も日本字で出ます。

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(ネタバレ)
以下ネタバレです。そうしないと書けないので。(2人の登場人物には名前がないので、役者の名前エマニュエル・リヴァの「リヴァ」と岡田英次「岡田」を主に使います。)フランスの女優リヴァが平和をテーマとした映画の撮影のために広島に来ている。朝の飛行機で帰る前々夜にフランス語を話す建築家の岡田と行きずりに出会い、2人が深夜リヴァの泊まるホテルの部屋で抱き合っているシーンから映画は始まる。抱き合っているといっても腰から肩あたりまでのアップの暗い映像で、体の断片が絡み合っているようだ。原爆の死の灰を象徴するように特撮で皮膚に砂や灰、そして抱擁による汗に覆われたりする。「ヒロシマで私は全てを見た」というリヴァと「君は何も見ていない」という岡田の対話が繰り返される。彼女は原爆記念館で、病院で、「ヒロシマを見た」と言い、記念館や病院の映像、当時の記録フィルム等の映像が挿入される。「何も見ていない」というのは、ヒロシマを知識的に頭で理解することは真のヒロシマ理解ではないということ。ヒロシマを語ることはできない。語ることの不可能性を語れるのみなのなのだ。ヒロシマを話題にすることなど何処でもできる。一夜限りの不倫のベッドでも話すことができる。これが不謹慎と言うなら、広島になされたことの方が不謹慎なことなのだ。そして人がヒロシマについて何を語ろうが、結局のところ個人その人の人生の方が各自にとってはヒロシマよりも重要でしかない。

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先に起きたリヴァは、うつ伏せに寝ている岡田の手が震えるように動くのを怯えた表情で眺める。かつての失われた愛の物語、戦争中に恋人だったドイツ兵が狙撃され、死んでいくときの記憶が蘇ったのだ。リヴァは映画の役の赤十字看護婦の衣装で、その彼女に岡田はまた会いたいと言うが、彼女は拒絶する。別れ際リヴァは「かつて私はヌヴェールで狂気にあった。狂気は知性と同じで、説明はできない。狂気にあるときは理解しているけれど、そこから去るともう理解はできない。」と言う。

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映画の撮影はほとんど終わっていて、最後の平和行列のシーンが残るのみだ。この映画が真面目なものであるにしても、単なる同じような映画の上塗りでしかない。岡田は木陰で居眠りをしているリヴァを見つける。二人は岡田の家に行く。原爆が落ちたとき岡田は戦地に行っていて助かったが妻は死んだ。リヴァも岡田も今の夫や妻と子供と、平凡に幸せだと語る。二人はまた抱き合うが、その愛の行為の中でリヴァはヌヴェールでの過去を語り始める。

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翌日の出発までの時間を過ごさなければならない。その時間の減少に反比例して二人の愛は強くなっていく。16時間後には否応無しにそれぞれ自分たちの日常に戻っていくしかない。しかしまだまだ16時間は長い。川に面したカフェ「どーむ」。リヴァはヌヴェールでの狂気を話し始める。ドイツ占領中のフランスのヌヴェール、リヴァは19才。初恋の相手は敵兵のドイツ人だった。ヌヴェール解放の直前、恋人のドイツ兵は何者かに狙撃され、倒れた彼が死ぬまで、死んでも彼女は彼の身体を抱きしめていた。直後にヌヴェールは解放され、敵国の兵士を愛したゆえに、彼女は辱めを受け、髪を坊主にされた。リヴァが愛した相手が敵兵で人々から辱めを受けたこと、これは一人の女の個人的な物語でしかないが、人が人に成す愚かさであり、広島になされたことと本質は同じだ。薬局を営んでいた両親は不名誉の娘を死んだものとして家に閉じ込め、彼女が叫ぶので地下室に幽閉した。段々に理性が戻り、ある日母親が来て20才になったことを教える。そして髪も伸びてきた彼女、狂気から抜け出した始めた彼女は、人気のない夜中にパリへと向かい、そこで広島の原爆投下のニュースを知る。ヌヴェールとドイツ兵への愛、広島と岡田への愛、すべてが混ざり合い、彼女がヌヴェールを語るのは、理性的記憶ではなく、無意志的回想で当時の狂気を生き直す狂気の中で語られる。

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夜明け前にホテルの部屋に帰ったリヴァ。ドアをノックして入ってくる岡田。何も起こらないし、話すこともない。周囲にはホテルの部屋という外界世界があるだけ。ヌヴェールの不幸そのものであるリヴァと、ヒロシマの不幸そのものである岡田、その二つは呼応し合い、対応するかのように、既に名もなき二人は互いにヌヴェールとヒロシマと名付け合うことができるだけだ。

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広島の原爆を普通に原爆の物語としてまた新たに描くことには意味が少ない。なぜなら語る者にとっても、聞く者にとっても他人事だからだ。それぞれの人にはそれぞれの人生があるのみで、それぞれの人にとっては過去の広島の悲劇よりも重要なのだ。それは映画の冒頭でリヴァが「私はヒロシマで全てを見た」と主張するような理性的理解でしかない。だから広島を広島の原爆の物語として語るのではなく、リヴァにとって本質的に同じ意味を持つヌヴェールの物語として描き直す。そうすることで見る我々に、リヴァと同じように広島を自分の物語として生きる可能性を与え、結果として広島の本質を我々は生きたものとして捉えることができる。デュラスの小説を読むとき我々は理性的言語で書かれた内容を読むののではなく、彼女の提示する情念や愛の狂気に浸らされる。このような形でヌヴェールの物語を映画は我々に提示するから、リヴァのヌヴェールの物語を通して我々はヒロシマの本質を生き直すことができる。デュラスとレネの共作によって希有に成功した広島映画。そしてヒロシマを抜きにしても、本人以外の監督作品でたぶん唯一の真にデュラス的世界を描いた映画作品。まぎれもなく映画史上の傑作の1本。

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Last updated  2007.01.15 00:22:28
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