ラッコの映画生活

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2008.04.15
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カテゴリ: アメリカ映画
WHAT'S EATING GILBERT GRAPE

117min
(レンタルDVD)

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いつもレンタルDVDを持ってきてくれる知人とは別の友人が、中三の時に見て感動した映画だと、一緒に見ようと持ってきてくれた。最初のタイトルロール見ていたら Lasse Hallstrom と監督名。o の上にはチョンチョンがついている。カメラはベルイマン映画の名撮影監督でもあるスウェーデンのスヴェン・ニクヴィスト。友人に監督は北欧の人か?と尋ねたけれど知らないと言う。後で調べたらスウェーデンの人で、また別の友人がいちばん好きな映画と言っている『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』の監督だった。一見素朴な作りに見えて、実は少し技巧的なところを感じたけれど、なかなか良い映画でした。18才ぐらいのディカプリオの演技(ここではしっかりとした演技!)が光っていました。主演のジョニー・デップや、一風変わったジュリエット・ルイスも良かったです。余談だけれど、日本は人口が一億もいるし、東洋と西洋の差がある。フランスなどは文化的中華思想があるし、そこそこ人口(や資本)もあって、独自の映画世界がある。それに対して北欧の国々はたかだか人口何百万とかだから、監督にしてもカメラにしても、アメリカに行って活躍する人も多いのでしょう。アメリカ映画にして、お決まりハリウッド映画ではない作品をどんどんこういう人たちに作って欲しいものです。

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コロラド州のエンドラという架空の町。町外れの田園の中、車もほとんど通らない静かな一本道があって、主人公のデップ(ギルバート・グレイプ)と弟の自閉症か何かで知的障害のディカプリオ(アーニー・グレイプ)が何かを待っている。やがて遠くで何かが太陽の光を反映してピカリと光る。嬉しそうなアーニー。毎年この時期に通過するたくさんのトレーラーハウスの列を見るためにここで待っていたのだ。映画のラストは1年後の同じ光景。でも1年前には木陰に座ったままで大して関心を示さなかった兄ギルバートが、今度はアーニーと一緒に立ってトレーラーの来るのを待っていた。映画はこの変化にまつわる1年(描かれる実質はもっと短い数週間?)の物語だ。トレーラーの人々は広いアメリカ全土を走り回って生活している。この映画は色々な視点から見ることが出来る構造なのだけれど、一つは町から出ない主人公ギルバート、あるいはエンドラの人々の閉塞感でもある。ギルバートには有閑夫人の愛人ベティーがいるのだけれど、何故自分を選んだのかという彼の問いにベティーは答える。あなたなら町から決して出ないと思ったから、と。

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ギルバート・グレイプはジョニー・デップ演じる青年の名なのだけれど、原題は「ギルバート・グレイプが食べているもの」ないし「ギルバート・グレイプは何を食べるか」となっている。 (追記:英語としては「何がギルバートをイライラさせているか」という意味だという貴重なご指摘を だんさん からいただきました。しかし下のレスに書いたように、内容に関する感想にはほとんど影響はありません)。 この映画ではギルバートは食料品店で働き、上の妹ローラは学校の給食室で働いていたといい、下の妹エレンはアイスクリーム店でバイトをし、友人ケビンは進出してくるハンバーガーチェーン「バーガー・バーン」に就職している。そしてもう一人の友人は葬儀屋。母は17年(実は15年)前の夫の死以来過食を続けて家を出ることはなく、200キロはあるのではないかと思われるほどの巨体の肥満だ。死んだベティーの夫の葬式の際にはちょうどバーガー・バーンの店鋪がトレーラーで引かれて来るのが見え、それを見てアーニーは喜ぶ。このようにこの映画では食べることに関することがたくさん出てくるのだが、実は食はここでは「不動」(町から出ない停滞)の象徴であり、それは「死」(死んでいるも同然)の象徴でもある。もちろんトレーラーの人々はその対極にある。マタイ伝の「人はパンのみに生きるにあらず」ではないが、エンドラの人々はそのパンのみに生きている。もちろんもう一つ別の視点で見れば過食の母親は消費文化の象徴でもある。

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ギルバートはまさしく生きる屍として描かれる。車が故障してこの町に足留めされていたベッキーが明日去るという日、「私を引き止めたい?」というベッキーの問いに、「行くなら行けばいい」と答える。ただ無感動に忍従しようとするだけで、感情を露には出来ない彼だ。バーでの友人とのシーンにしても彼だけは一人上の空。給水塔に登ってしまった知的障害のアーニーを見事下ろすことに成功しても彼は感慨を示さない。配達に行ってベティーに迫られても、ただずるずるされるがままで、積極性をも拒否をも示さない。ここでも始まりはアイスクリームを食べることであった。外から来たベッキーはそんな彼に夕日の美しさに気付かせ、内心を語らせることに成功する。そう言えば拒否する彼を水に浸って泳ぐ気持ち良さに誘うのもベッキーだ。

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ベティーを狭い町に縛り付けていたもの、それは夫との生活であったわけだが、それが取り払われたとき(同時に多額の生命保険金を得て)町を去っていく。やはり食べ物(誕生ケーキ)がらみでギルバートが初めて怒りを露にしたとき(ベッキーに初めて本気で弟を殴ったと言っている)、彼は町、州(?)からの逃走を試みる。わざわざ画面には町だか州の境を示す標識が写されている。一夜をベッキーと草原で過ごしたギルバートは弟の18才の誕生日パーティーの開かれている家に戻る。母親はギルバートを見て、王子様のように光り輝いていると言う。死から生への回帰であり、彼は生に輝いていたのだ。だから食べるだけという死んだ状況で、町はおろか家、家はおろか1階の(特に居間)を動こうとしなかった母は、思いたって階段を登り、2階の寝室へと昇っていく。

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映画の中でテレビに写っていたのはデ・シーカの『終着駅』だった。これも喪失感の物語だけれど、別のシーンで母親がテレビをつけたままソファーで眠ってしまっているシーンがあった。ギルバートはリモコンでテレビを消すのだけれど、すると母は目を覚ましてしまう。そこで再び彼がテレビをつけると、母親は安心してまた寝入る。母親の恐れるのは喪失なのだ。それは夫の突然の死の心理的精算が出来ていなかったからであり、生きたままの死である過食に逃避していた。肥満の身体を人目に晒す恥を忍んで一度だけした外出も、逮捕された息子を取り戻そうとした行為で、喪失を恐れたのだった。ベッキーがギルバートを、そしてそのギルバートが母を目覚めさせたのであり、彼女には本物の死が与えられる。こうして1年後の同じ時期になり、アーニーとギルバートはトレーラーに乗ったベッキーが来るのを待っていた。既に母はなく、妹たちの世話も段取りをつけ、彼(と弟)をこの地に縛り付けるものはなくなっていた。

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Last updated  2008.05.18 22:05:51
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