ラッコの映画生活

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2008.05.22
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カテゴリ: フランス映画
SUZANNE SIMONIN DE DIDEROT
Jacques Rivette
141min
(所有VHS)

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というわけでジャック・リヴェットの『修道女』ですが、この作品の製作・成立と公開禁止処分にまつわることは、 5月6日の日記 に書きましたので、そちらもご参考になさって下さい。確かに修道院が舞台のこの作品が宗教界からの反発にあうのは理解できますが、マルローも言ったように「誰も映画を観る前から」公開禁止への動きが始まった。実際に見ると、内容的には1960年代に教会が目くじらをたてるようなものではない感じです。1960年代的な意味の教会批判が皆無だとは言わないけれど、そういう意図はリヴェットにもそれほどなかったと思います。それをしたければもっと別の作品になっていたはずです。

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で原題が「シュザンヌ・シモナン ディドロの修道女」っていうのが良いですね。フランス共和国的思想から言っても既成の価値として認められている百科全書派のドゥニ・ディドロの名を入れてあります。公開禁止騒動当時の首相であったジョルジュ・ポンピドゥーの名を冠したパリの文化施設ポンピドゥー・センターで、例えば昨年のリヴェット特集でこの『修道女』が上映されているのは、なんとも皮肉なものです。

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映画の重層性についてボクは良く書きますが、リヴェットの作品にはその傾向が強いと思います。そしてこの人は、何かのテーマをそのまま解りやすく直裁には描かないですね。解りにくくしようというわけではなくって、直裁に描いたのでは伝わらない「含み」を、映画の持っている性格を利用して表現しようというのだと思います。

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フランス革命を歴史で勉強したときに「三部会」とか出てきましたね。三部会の三部というのは、フランス版「士農工商」とでも言うか、第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)の3つの身分で、もちろん社会は第一と第二身分が牛耳っていた。そして貴族社会にとって修道院はある意味世俗権力の届きにくい場所でもあり、貴族社会の補完施設や貴族社会からあぶれた人の収容施設という性格を持っていた。子供の教育は面倒、特に結婚前の思春期の娘の管理は面倒だから修道院に入れる。世俗世界で失敗したり、居場所がないから修道院に入る。そして地獄の沙汰も、いや天国の沙汰もと言うべきか、金次第だから、修道院長なんて職も金で買うことも出来た。まあそんなわけだから、自分の意志で入るのは勝手だけれど、邪魔者だからと強制的に入れられてしまってはたまらない。本来カトリックの聖職者というのは「神の召命」を受けて感じている者が誓願をたててなるもの。その辺は アントニオーニのオムニバス『愛のめぐりあい』

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時代は18世紀半ば。姉娘2人には持参金つけて結婚させようとしているシュザンヌの両親なのだけれど、修道院に入れる持参金はたぶん結婚のための持参金よりかなり少なく、シモナン家の経済事情もあって、シュザンヌを修道院に入れてしまおうとする。修道僧も修道尼も薬指には指輪をしている。修道僧(尼)になるということは、神と結婚することなんですね。だから誓願たてて修道尼になる儀式では白いウェディングドレスを着ています。彼女は神の召命を持たないから、一度は儀式で誓願を拒否してスキャンダルとなる。でも実はシュザンヌが母の不実の子だということを明かされて、しぶしぶ彼女は説得される。そして別の修道院での誓願。それは彼女の悩みを理解して導いてくれた修道院長モニへの信頼があったからなのでしょう。

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しかしそのモニが死に、後任の修道院長となったのがクリスティーヌ。度量の狭い彼女は独裁的な支配を始める。モニへの信頼があってこそなんとか修道生活を送ろうとしていたシュザンヌは、新院長への反発をあらわにする。ここで描かれるクリスティーヌは、女の女に対するシュザンヌへの対抗意識だ。シュザンヌは記憶にもない誓願の無効を主張し、誓願取消しの訴訟を起こす意図を秘かに弁護士マヌリに書き送る。面会に来たマヌリは、この訴訟が含む色々な困難を彼女に告げる。身を持ち崩すのでなければ女が結婚もせず一人で生きていくのは難しい社会。彼女には両親も2人の姉もおり、姉にはやがて子供もできるだろう。シュザンヌ自身が彼らに何も求めなくとも、彼らの対面としてはそれは出来ないだろうから、必死の反発をするだろう。もちろん教会もスキャンダルを回避しようとする。

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そんな中でクリスティーヌは彼女を悪魔憑きと断じ、食物も与えずに監禁する。事態の進展を憂慮した教会はセルファン神父を派遣する。セルファンは2人それぞれを問いただし、事態の真相を理解した。彼はクリスティーヌを嫌うと同時に、無垢で真摯なシュザンヌのあり方に共感した。枢機卿(赤い法衣だからたぶん)に相談もするが、クリスティーヌは有力者の娘であり、誓願取消しの判決が出れば教会にとってはスキャンダルだ。教会は先手をとって事態を有利に進め、結局シュザンヌは敗訴する。この辺を見ていると、この映画に込めたリヴェットの1965年的テーマの一つがあるのではないだろうか。政治の世界のメタファーとしてだ。

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リヴェットという人の映画を見ていると、中心的女性登場人物の、人生のある時点での出来事による変化の過程のようなものが描かれることが多いような気がする。ここではシュザンヌが修道院に入れられ、そこでは色々な人や事態と遭遇する中で、段々に自分にも目覚め、人をも知るという過程だ。そして残念ながら最後はああなる彼女なのだけれど、それがディドロの原作にあるものなのかどうかは、読んでないのでわからない。リヴェットの場合には、対社会的(政治的)にも、個人的にも、決して純粋無垢には生きられないという世界へのペシミズムだろうか。

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画像引用のタグを入れると10,000字はオーバーしそうだし、この辺から先はネタバレになることでもあるので、 次日記 に続きます。

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Last updated  2008.06.01 01:35:18 コメント(4) | コメントを書く


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