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社会福祉ボランティアの草分け的存在で、東京山谷のバタヤ部落で「アリの町のマリア」と慕われた北原怜子さんは、子供達に「醜いものの中に美しさを 卑しいことの中に尊さを 乏しい暮らしの中にも豊かさを まずいもののなかにも美味しさを 苦しいことの中にも楽しさを ニッコリ笑って発見しよう」と口癖のように話して聞かせていたそうです。和やかな顔や優しい微笑みは、お金や品物がなくても、その気になれば、誰でも、いつでも、どこでもできることです。そのことが、とれだけ人の心を和らげ、周囲を明るくすることでしょう。そんな笑顔の人の廻りには、自然と人も集まってきて運が巡ってきます。生後4,5ヶ月の赤ちゃんに、無表情な母親の顔をみせる実験をしたところ、体温がスーと引いて身体中が真っ青になってしまった。反対に、笑顔を赤ちゃんに向けると、嬉しそうに手足をバタバタと動かして、自分でも笑顔を作ろうとし、体温も上昇して身体もピンク色に染まってきたそうです。無表情というのは、相手にかなりの負担をかけていることになります。楽しいときには自然と笑顔もでるが、「厳しいにもかかわらず」「嫌であるにもかかわらず」「病気であるにもかかわらず」など、「にもかかわらずの笑い」を大切にして下さい。
2013.09.30
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仏教では、和やかな笑顔と優しい言葉を「和顔愛語」といい、それが人に対する親切の一つだと言います。私にとって理想の笑顔は、飛鳥時代の仏教の慈顔です。法蔵菩薩は、悩める人々をどうしたら救えるかと長い修業を積み、いかにすれば人は幸せになるかと深い思索を重ねられたが、その修行の一つに「和顔愛語」があります。物柔らかな微笑みと親愛の籠もった言葉で人々に語りかけ、人々が心中に思っていることを先に察して、その願いに応じたといいます。「今、微笑みを忘れてはいませんか」と、絶えず自分に問い続けたいものです。「微笑みとは、柔軟心に咲く花である」と「南無の会」会長松原泰道さんは言い、朝日新聞論説委員だった扇谷正造さんは「微笑みとは、心の中に化粧が済んだときに出る表情である」と言ったが、単なる笑い顔と微笑みとは違います。笑い顔は、心の化粧がなくてもできます。しかし、微笑みは心の化粧が先立つもので、内面を磨かないと、自然で美しい微笑みはわいてこないものです。心の化粧とは、内面に安らかさや素直さ、誠実さ、思いやりなどが湛えられるように心を丹精していくことです。その結果が顔に自然と滲み出て、美しい表情を創ります。それが、人の心を和ませてくれ人間関係を良くします。
2013.09.29
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現代の布施行、ボランティアにも次の点が大切と池間哲朗さんは言います。一つ目は、現状を良く知ること。例えば、貧しさが原因で毎日4万人以上の人たちが死んでいきます。1年間では1500万人になるが、そのほとんどがなんの罪もない子供達です。そんな現実を、まずよく知ることです。二つ目は、無理は必要なく、「少しだけ分ける」ということ。例えば、1ヶ月で300円もあれば、赤ちゃんのミルクが買えて死ななくても済むし、マラリアの薬代の120円もあればマラリアで死ななくて済みます。私たちには小さなお金でも、それがないために死んでいく命が一杯あります。三つ目は、誰かのためとか、人のためとか、世のため、社会のために何かをするということではなく、一番大切なことは自分自身が先ず精一杯に生きるということです。一生懸命に生きる人でないと、本当の命の大切さは分かりません。真剣に生きる人でないと、人の痛みや哀しみは伝わってこないと思います。若い人たちが就職もせずにボランティアに飛び込んでいくのが凄いことだが、まず自ら稼いだ収入で自分自身がまともな生活ができなければ長続きしません。二宮尊徳は、「慈悲のない経済は悪、経済のない慈悲は寝言」とも言っています。
2013.09.28
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7人掛けの電車のシートに、6人しか座っていないことがよくあります。混んでいるときなど、少し詰めてくれればもう1人座れるのにとイライラすることがありませんか? (大阪のおばちゃんは見逃しませんがね)仏教では布施を教えているが、少し詰めて立っている人を座らせてあげるのも立派な布施です。けれども、あるとき、こんなことを考えたとひろさちやさんは言います。7人掛けのシートに7人が座ると窮屈だが、6人であればゆったりとできます。そうすると、1人が立つことによって、後の6人はゆったりとできます。その意味では、立っている人は、座っている6人に布施をしてあげていることになります。物事は全て相対的なもので、立っている人を座らせ上げるのも、無理すれば座れるのを敢えて座らずにゆっくりと座らせてあげるのも布施で、本人の心の持ち方次第と言えます。また、急に雨が降ってきたときに、傘を貸してあげて自分は濡れていくのが布施ではなく、相合い傘で二人共に多少濡れるのを我慢するのが本当の布施です。こうゆう考え方をすれば、世の中の刺々しさも薄れて、もっとゆったりと楽しく生きていけるのではないでしょうか?
2013.09.27
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『少女ポリアンナ』にこんな話があります。ポリアンナが孤児のジミーの面倒を見てくれる人がいないかと、教会の婦人会の人たちに一所懸命に話をします。誰もが黙りこんでしまうが、牧師夫人が「毎年インドの子供たちに送っているお金の一部を、その子に回してはどうか」と提案をします。すると活発に意見が出始め、この教会はインドに寄付をすることで有名だったので、今年から減らすのは言語道断ということになりました。教会の名前が報告書のリストのトップに出ていれば、お金がどう使われようが構わない。報告書の名声を保つために、自分たちの街にいる独りぼっちの子供を助けるよりも、インドへ金を送る方選んだのです。そして、ポリアンナに、「あの人たちは遠い所にいる子供たちのことばかり考えていて、身近にいる困った子を救おうとしないのですもの。ジミーの方を大切にすべきじゃないのかしら、報告書なんかよりもさ」と言わせます。私たちにも耳の痛い話です。大地震や海外の災害などのニュースに接すると、沢山の救援物資が集まるが、身近な不幸な人々には見向きもしない傾向があります。近くのお年寄りに声を掛け、話を聞いてあげるだけでもいいのですよ。
2013.09.26
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昔、大飢饉に襲われたとき、継母が二人の子供を無人島に捨てます。死に際に弟が、「兄さん、僕達の一生は哀しい一生だったね。母には早く死に別れ、最後は信じ切っていた継母にも捨てられてしまった。ぼくはこの悔しさの仕返しをするために、生まれかわり死にかわりして、あの継母を呪い続けてやりたい」と言った。すると、兄は弟を抱き締めて、「お前の言う通りだ。僕たちは世の中で最も惨めな一生を送り、どんな人よりも苦しみの辛さを心の底まで知り尽くしている。だから、それを憎悪し呪うよりも、生まれかわり死にかわりして、悩み苦しむ人々、悲しみ泣く人の心の支えになってあげようよ」と言った。不幸体験の生かし方によって、兄弟のように二通りの生き方に大別されます。弟のように自分の不幸を恨み、世の中の人に報復してやろうと思う生き方の人が、新人や後輩虐めに見られるように9割方ではないでしょうか。兄のように自分の体験した不幸を他人には味わわせないように、慈悲の実践をしようと心掛ける生き方の人は少ないが、それこそが真の共生きの生き方だと思います。私も会社を辞めて浪人したとき、多くの友達が去るなかで代わらずに付き合ってくれた一握りの友に救われ、後者のような生き方を自分に誓いました。(なかなかできませんが)
2013.09.25
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現代では何事も自己責任の時代だというが、『喜びを人に分かつと喜びは二倍になり、苦しみを人に分かつと苦しみは半分になる』とティートゲ(ドイツの詩人)は言っています。マラソンの増田明美さんも駅伝に出場して優勝したときのインタビューで「マラソンに比べて、今日の優勝は?」と聞かれて、「はい、九人で走りましたので、喜びも九倍です」と答えていたのが印象的でした。一つの幸せを、人と一緒に喜べば、幸福感が共鳴して大きくなります。人と共有の目標を達成できれば、その喜びはさらに大きいでしょう。苦しい時にそばにいてくれる人がいれば、つらさも少しは減るでしょう。人に悩みを聞いてもらうだけでも、少しは気もちが楽になります。人と問題を共有し、協力し合えば、負担は軽くなります幸せを分けてくれる相手がいる人は、幸せです。苦しみを共にしてくれる人がいる人は、また幸せです。幸せな時には、人に幸せを分けることを考えてみる。身近に不幸な人がいる時には、共に苦しんであげることを考えてみる。このようなことが自然とできるようになれたら、いいのかもしれません。
2013.09.24
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ボランティアは現代版の布施だが、ボランティアというのは、決して無理せず、もっと気楽にすることです。「遠くに出かけられなければ、隣の家の前の道を掃除してあげるだけでもいい。無理しなくてもいいのよ。ボランティアだと肩肘張らないで、自分のできる範囲で手伝いましょうよ、そうしないと長続きしない。ボランティア活動のために家族を犠牲にする必要はない」とマザー・テレサの仕事を手伝っていた上流社会の婦人であるクマールさんは言います。目の不自由な人がそばにいれば、自分が読んでいる新聞を声を出して読んでやるだけでもいい。それも、自分が読みたい時間で充分です。年取った人のために窓を拭いてやったり洗濯してあげることだって立派な愛の表現です。いや、何をしなくても、苦しんでいる人がいるということを知っているだけでもいいのです、とマザー・テレサも言っていました。親切で慈しみ深くありなさい。あなたに出会った人が、誰でも前よりももっと気持ち良く明るくなって帰るようになさい。親切があなたの表情に、眼差しに、微笑みに、温かく声をかける言葉に現れるように・・・。何も特別のことをしなくても、普段の何気ない対応の中で布施はできます。
2013.09.23
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房舎施(ぼうしゃせ)は、風や雨露をしのぐ所を与えることで、例えば、求める人があれば一宿一飯の施しをするとか、軒下など風雨をしのぐ所を与えることや、自分が半身濡れながらも相手に雨がかからないように傘を差し掛ける思いやりの行為などです。人を家に泊めてあげたり、休息の場を提供することは様々な面で大変なことだが、普段から来客に対して温かくおもてなしをするように心掛けてみませんか。平素から喜んでお迎えできるように、家の整理整頓や掃除も心がけたいものです。広島市から3時間もかかる過疎の村でユースホステルを経営している88歳(97年当時)の森岡まさ子さんの所には、特別に施設がいいとか、料理が美味しいとか、いい温泉があるという訳ではないのに、沢山の若者たちが押しかけて利用者数は全国でトップという。彼女は「逢う人も逢う人も福の神」をモットーとし、誰の話も「うん、うん」と熱心に耳を傾けて聞いてくれます。みんな、そんな彼女と話がしたくて全国からやって来るのです。私もよく若者たちを家に招いたり、ときには家に泊めたりします。特別に持てなそうとすると大変だが、普段通りのものでもてなし、話を聞いてやるだけで良いのです。私の子供の頃は、母たちはお寺の本堂に食べ物などを持ち寄ってよくおしゃべりをしていたものです。田舎だったので、縁側に近隣の人が寄ってきて茶飲み話も弾んだりもしたものです。でも、この頃ではそんな風習もなくなりました。今は、街中のお店がそれに代わったようだが長居は気兼ねします。この頃では街中でも独り住まいとか、家が大きすぎて老夫婦二人では持て余すという方も見えるが、そんな家を開放してみては如何ですか。実際に、観光地にある自宅リビングを飲食スペースに、町屋のサロンをギャラリーに、応接間をチョットしたお茶会やランチ会、プチ教室に解放したり、市が高齢者の交流の場として解放支援をしている所もあります。毎日では大変だから、曜日を決めて解放するのも良いでしょう。交流の輪が広がり、賑やかになりますよ。私も独り住まいの学生たちを呼んで飲食をしながら話し合ったり、ときには泊めたりしています。簡単な手料理でのもてなしだが、その方が却って喜んでくれます。最初に面倒みた若者たちも30歳を過ぎ、結婚相手や子供を連れて挨拶に来てくれたりして嬉しいものです。私は現代版里親だと言っているが、京都のお父さんと呼んでくれる娘さんも何名かいます。あなたもどうですか?
2013.09.22
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牀座施(しょうざせ)は、例えば電車や会場などでお年寄りや身体に障害を持っている方に「どうぞ」と場所や席をゆずる親切をいいます。座席だけでなく、全てのものを分かち合い、譲り合う心が大切であるという意味が含まれ、場合によっては自分の地位を譲って後のことを託すという意味も含まれます。ほとんどの人は見得や意地で「俺が、俺が」と我を通そうと、小さなことでもゆずる事がなかなかできません。意見がぶつかったとき、欲しいものがかちあったとき、譲ると負けたと思われるのがシャクだからです。逆に、相手に譲らせて、自分の強さを見せつけたいという自己顕示欲に振り回されています。乗り物の座席の取り合いから、権力の座の争奪に至るまで、今日の世相をみれば、いかに床座施が必要かを知らされます。例えば、意見が衝突したとき、下らぬことに目くじら立てて我を通そうとするのは心に光のない人です。つまらぬ意地の張り合いをやめて、相手に一歩譲り花を持たせてあげることです。相手に勝ちを譲れる人こそ、本当の心の強さをもった人ではないでしょうか。一歩を譲るとも、生涯に100歩を出でずと言います。少しでもこの床座施の心があれば、この世は気持ちよく住みやすく変わると思います。歩道を歩いていてスピードを出して横をすり抜ける自転車にヒヤッとしたり、駅などの人混みで危うく「ごっつん」という危険を感じたことはありませんか。これらも、自分のことしか考えない譲り合う心の欠如から起きます。歳を取って自分の動きが鈍くなったせいかなと思ったが、繁華街やターミナル駅で出会い頭の人と人との衝突が増えているそうです。1日70万人が乗り降りする東京駅では、人とぶつかって転倒し、怪我をして救護センターに運ばれる人が1週間で5.6人もいるそうです。相手を避けたり、道を譲ろうとしない人が増えたばかりでなく、歩きながら携帯電話をする人が増えたことも少なからず影響しているようです。狭い道ですれ違うときには、肩を引いて斜めに歩いたり、傘を外側に傾けて雨露を掛けまいと気遣ったり、道の真ん中を歩かずに橋を空けたり、座席が込んできたら拳一つ分腰を浮かして詰め合って座るなど、相手を慮る江戸の仕草「傘傾げ・肩引き・七三の道・こぶし浮かせ」の伝統もどこへやらです。 ぶつかる側の身勝手さや注意力もさることながら、自分の行為がどんな結果を招くかの想像力(=思いやり)欠如が感じられます。
2013.09.21
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心施(しんせ)は心慮施ともいい、他のために心をくばり、心底から共に喜び共に悲しむ,他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れる心持ちをいいます。心の持ち方で物事の見方が変わってしまうように、心はとても繊細なもので、自分の心が言葉遣いや態度に映し出されます。自分だけがよければいいというのではなく、心底からともに喜び、ともに悲しむことができ、他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れれば言うことはありません。慈悲の心、思いやりの心から、自然とやさしい顔や眼差しにも表れてくることでしょう。仏教では、心や口や体の行いの中でも一番重たいのは心だといわれます。心(=思い)が、口や体を動かすからです。面倒くさい一杯の私達が人のために何かをするということは、それだけの心がなければできません。親や家族、友人から何かをしてもらったとき、目に見えるものから目に見えない思いやりの心を感じ取ることができれば幸せです。何かをしてもらったら、心から感謝の言葉をのべるようにすることです。「ありがとう」「すみません」のたった5字の音声ですが、世の中をどんなにか明るく住みよくするか知れません。世の中の人間関係は、心と心の繋がりから始まります。そんな和の裏には、他人に対する思いやりがなければなりません。でも、喜びはまだしも、人の痛みや苦しみを分かるというのは難しいことです。渡辺淳一さんが『外科医の反省』という文の中で、「外科医の友人二人がガンの手術を受けたが、その医者が『今まで何気なく手術をして、苦しむ患者に“頑張りなさい”なんて言ったけど、切られる方はまさに死ぬ思いだよ。手術を受けて、患者の苦しみが本当に分かった』と述懐した」と書いてみえました。患者の本当の苦しみというのは自分が患者になってみなければ分からないように、震災でも何でも、人の苦しみや悲しみ、苦労などというものは、自分が実際にその立場に立ってみないことにはなかなか分からないものです。「他人の苦しみを自分のことに置き換えて、その2割でも考えられるようなら真の友人であり、5割も考えられたら聖人で、8割を超すようならもはや神が仏であろう」と言った人がいるが、それほど他人の辛さや悲しみを自分のものとして感じることは難しいものです。簡単に「頑張って下さい」と言う前に、相手の立場と気持を思いやるイマジネーション力をもっと養いたいものです。
2013.09.20
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アジアの医療向上に尽力してきた岩村昇さんは、ネパールのある村で一人の老女が倒れているのに出会った。早く病院に連れて帰りたいと思っていたとき、ちょうど通りかかった若い運搬人が彼女を三日間担ぎ、三つの山を越して岩村さんらが基地にしている病院まで運んでくれた。労賃を倍はずんでお礼をしようと財布を出したところ、ボロボロの服を着た運搬人に「ドクター、馬鹿にしてくれるな。おれはどんなに貧乏しても、この3日間、金儲けをしようとしてこのおばあさんを運んでのではない」と叱られた。「では何のために」と聞くと、「共に生きるために。生きるとは、弱き者と分かち合うことだ。だってドクター、おれは若い。おばあさんは歳をとっている。おれは健康で体力が余っている。おばあさんは病気で体力をなくしている。おれに余っている若さと体力を、それをさくしているおばあさんに、長い一生の旅路のほんの三日間、おすそわけしただけだ」と答え、素足の足の裏から出た血の跡を地面に残して去っていったという。共生とか弱者との分かち合いということがよく言われるが、何も特別なことや難しいことではなく、この若者のような気持ちを誰もが持つことです。
2013.09.19
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身施(しんせ)は捨身施ともいい、肉体を使って人のため、社会のために働く無料の奉仕をすることです。重い荷物を持ってあげる、困っている人を助ける、お年寄りや体の不自由な方をお手伝いするというような身体でできる奉仕です。子供なら、料理を並べるお手伝いや買い物のお手伝い、掃除や落ち葉拾いのお手伝いなど、誰かのために何かをすることです。日本を美しくする会など、人が嫌がるトイレ掃除を進んでするボランティア団体もあるが、自ら進んで他のために尽くす気持ちこそ大切です。自分を認めてもらいたいために人が見ている時にだけするのではなく、人が見ていなくても誰かのために良いことが出来ないと本物ではありません。家族のために料理をすることでもいいのです。冷凍食品よりも手料理がおいしく感じられるのは、そこに思いやりの心がこもっているからだと思います。 少しでも世の為、人の為になることを思いついたら、すぐに行動することです。どんなによいことと思っても、それが実行できなければ意味をなしません。よいことを思いついたら実行し、自ら進んで他のために尽くすことです。その結果、相手に喜んでいただくと同時に、自己の心も清められるはずです。
2013.09.18
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ある保険会社の支部長の方の話です。伊藤さんは、優秀営業員でもなく、組織に協力的な人でもなかった。どちらかといえば、上司にとっては扱いにくい部下ともいえました。そんな伊藤さんが、「性格的にも無理かな」と周囲の人が懸念するなか、支部長を引き受けることになった。それから十数年、部下を採用し、育成し、陣容35名を誇る優秀支部長として表彰されることになりました。経緯を知る役員の方が成功の秘訣を聞くと、「ありがとう」の一言ですと答えられた。支部長になった後、すぐにご主人が脳溢血で倒れ、命は助かったが障害が残り、今も入院中という。そのご主人が、看護婦さん、付添婦さん、お見舞いの人、同室の人などに、不自由な言葉で「ありがとう」を繰り返す。その後ろ姿に教えられ、自分の部下に対して「ありがとう」を繰り返していたら、組織が伸び始めたっていう。軽々しく「ありがとう」というのは、権威が落ちるとばかりに、いつもムッツリと陰気な顔をしていませんか? そんなことでは部下も楽しくないし、やる気も出ません。笑顔と感謝の心を大切にしたいのです。
2013.09.17
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成功している人に共通することは、「ありがとう」の言葉が自然に出てきて、普通の人の何十倍も使うことです。逆に、一時的に羽振りがよくても、人をぞんざいに扱い、「ありがとう」と言えない人は必ず失敗していきます。どんな些細なことでも「ありがとう」と言える人は、会社では仲間に尊敬され、家庭では幸せと平和を創る人です。逆に成功できない人は、「ありがとう」よりも文句、グチ、不平不満、陰口の否定的な人が多いと、日本創造教育研究所の田舞徳太郎さんは言う。素直、従順、感謝、信頼といった性質を持っている人は、当たり前のことでも「有り難し」と感謝する気持ちがあって、「ありがとう」が素直に口をついて出てきます。不平不満ばかり言う人がよくいるが、どんな職場にも家庭にも制約はつきものです。その制約を百%受け入れた上で、自分の人生をどう創り上げるかが大切です。言葉が人生を創り出します。否定的な言葉を多く使う人からは遠ざかるのが無難です。「ハイ」という素直な心、「ありがとう」という感謝の心、「私がします」という奉仕の心、「お陰様」という謙虚な心、「すみません」という反省の心を大切にしたいものです。
2013.09.16
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「勝つか負けるか。厳しい競争でギリギリの日常も、『ありがとう』の一言で変えられる。自分以外の全てに感謝することで、挫折続きの人生(戦争の空襲で鹿児島は丸焼け。家は貧しく、受験はことごとく失敗。大学を出たら就職難。やっと入った会社は潰れそう)が本当に一変した・・・。私も現役時代は忙しく、重圧が掛かる毎日でした。でも、会社が急激に発展していった40代半ばから、瞑想のまねごとをした。毎晩寝る前に深呼吸して、声を出して“ありがとう、ありがとう・・・”と唱えるだけで波立った心が静まりました」と京セラ名誉会長で僧侶の稲盛和夫さんは言う。良いときも悪いときも、嘘でも良いから「ありがとう」と言ってみることです。まず自分が心地よくなります。明るくなって周囲も優しくなり、生活に潤いが満ちてきます。この快感は、欲望を満たしたときとは違って爽やかです。ギリシャには、「一番早く歳をとるものは何か? それは感謝の心」という格言があるそうです。会社でも、お客様、取引先、部下に一言「ありがとう」「ご苦労さん」という感謝の言葉をかけるだけで、あなたの職場は明るくなり、活気のある集団になると思います。夫婦や家族の間でも同じです。
2013.09.15
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愛語施は言辞施(ごんじせ)の別称もあるが、文字通り優しい言葉、思いやりのある態度で言葉を交わす行ないをいいます。言葉は、人と人との関係を円滑にするコミュニケーションの大事な方法です。言葉一つで相手を喜ばせたり、逆に悲しませたりする場合もあります。昔から「ものは言いよう」というが、良寛さんが「すべて言葉というものはしみじみと言うべし」と言ったように、相手の心の琴線に触れる言葉を心がけることが大切です。相手を思いやる優しい言葉で接したいものです。それには、相手に対して誠実で優しい心を持ち、相手の良いところだけを見るように心がけることだと思います。ツルゲーネフがある時、玄関先に立った物乞いに、何一つ与えるものがなかったので済まないと思い、相手の手を握りしめて「兄弟!!」と涙ぐみました。永年の間、多くの人からいろいろの物をもらったが、あの時ほどうれしかったことはなかったと物乞いの彼は述懐したといいます。心からの優しい言葉は、どんなに相手を喜ばせるか計り知れないものがあります。「こんにちは」「ありがとう」「おつかれさま」「お世話になります」など、何事にもあいさつや感謝の言葉がお互いの理解と人間関係を深める第一歩です。
2013.09.14
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「私は小学校四年生まで本当に無口で、学校では言葉どころか声さえ発することなく帰るような子供でした。ある日、教育実習で若くて優しい女の先生がやってきました。私はその先生が大好きだったのですが、話しかけることもできず、一カ月後、先生は去れました。翌日の朝、クラスの生徒それぞれの机の中に小さなメモが入っていました。いてもいなくても同じ存在だと思っていた私の机の中にも、『笑顔のかわいいYさん。そういえば音楽の時間、一生懸命に聞いてくれましたね。でんでん虫の踊り、また教えてあげますからね』という手紙がありました。もう嬉しくて嬉しくて、はねるように帰宅したことを覚えています。それ以来、どんな時でも笑顔でいることができるようになりました。そうすると面白いように友達や親友ができ、将来の夢も持てるようになり、今もこうしてピースボートに乗ってアジアの仲間と出会うために港を回っています」と灰谷健二郎さんがピースボートで出会った若者は語ってくれたそうです。人は、笑顔の人の所に集まってきます。自分のことだけしか考えられない人はどこか暗い感じを受けるが、自分につながる命を見つけた人は見違えるように明るくなります。まず、自分から笑顔で話しかけてみることです。
2013.09.13
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和顔施は和顔悦色施ともいい、いつもなごやかで穏やかな顔つきで人や物に接する行為です。眼施と同様、顔はその人の気持ちを表します。ステキな笑顔、和やかな笑顔を見ると幸せな気持ちになります。そして周りにも笑顔が広がります。心からの美しい笑顔こそ、まさに人生の花ともいえます。純粋無垢な笑顔に接するとき、人は一瞬人生の苦労を忘れ生き甲斐さえ感じます。笑顔は周囲全体を和ませ、トゲトゲしい対人関係をスムーズにします。ちょっと微笑むだけで、「私は貴方に関心を持っています」というメッセージになります。逆に、硬い表情は、「あなたに無関心です」とか、「あなたを拒否します」というメッセージにとられます。この世には腹の立つことも沢山あるが、いつもニコニコ、和やかで穏やかな笑顔を絶やさぬよう心がけたいものです。追手門学院大の吉川左紀子さんは、同一人物の普通の顔、笑顔、怒った顔、驚いた顔の写真を1枚ずつ学生にせる実験をしたところ、怒ったり驚いた顔はあまり印象に残らないが、最初に笑顔を見せておくと、次に違う表情の写真を見せても、「これはさっき見た人」と判断する成績が一番よかったそうです。そんな実験から、「人間の表情の中で一番記憶に残るのは笑顔」だと言われます。
2013.09.12
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相手に好意を持っているときは自然と相手の目を見つめるように、好意を伝えるための重要な非言語表現としてアイコンタクトとスマイルがあります。表情や身ぶりで意思を伝えるいわゆるボデーランゲージで最も大事なのが、「あなたに敵対しません」「あなたを大切に思っています」という優しい目です。そして、優しい目で見つめた後、お互いの人間関係を認め合う微笑みやうなずき、挨拶などを行うことです。これがなければ、ただの凝視で終わってしまいます。言葉がどんなに綺麗で丁寧だったとしても、目が死んでいたら逆効果です。以前の我が家の隣に外人専門のインがあったが、彼らを見ていて感心するのは、エレベーターでもどこでも、見知らぬ人であっても、顔を合わせたときに笑顔というよりほんの目顔でニコッとして、「どうぞ・お先に・ありがとう・お待たせ」などを、見事なまでに目顔一つで表現することです。舞踊家の志賀山勢州さんが共演者に挨拶回りをしたとき、「お早うございます」と手をつくと、化粧中で口を動かせない長谷川一夫さんが鏡の中から目で答えました。その表情の素晴らしさに、一瞬、吸い込まれるかと思ったそうです。目は外に出ている脳ともいうが、優しい眼差しを大切にしたいものです。
2013.09.11
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眼施は慈眼施ともいい、慈しみに満ちた優しい眼差しで接することをいいます。温かい心は、自らの目を通して相手に伝わるものです。「目は口ほどにものを言う」というように、相手の目を見ると、その思いはある程度わかります。相手を思いやる心があれば、自然にやさしい眼差しになって、これが相手の心をうって、相手も優しい心になってきます。また、安心もします。目を通して相手に思いが伝わって、相手も自分の気持ちを理解してくれ、お互いが打ち解けることができるようになるはずです。逆に、相手と目を会わさない無視の目やジロリと見てから目をそらす冷視、喧嘩腰の敵視、ジッと見続ける凝視などの目つきになると、相手は不快になり、逃げ出したくなったり、戦闘的にさえなります。仕事も上手く進みません。貴方が眼施をすれば、世の中は和やかになります。相手を思いやる心で見つめると自然に優しい眼差しとなります。人を見るとき意識して見ていますか?常に人を思いやる目で見、目に優しさをたたえたいものです。ふと知り合いとすれ違ったときなども、とっさに言葉が出なくても目で挨拶をするだけで心が通じ合い、心が和やかになります。
2013.09.10
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どんなに偉い人でも、自分独りで生きていくことはできません。すべては天地万物のおかげと感謝する心があれば、自ずと貪りの心がなくなり、布施の心となって現れてきます。布施には、財施・法施・無畏施の三つがあるが、物でも心でも自分のできる小さなことでいいから、人に喜びや安らぎを与えることです。そうすれば、必ず自分に返ってきて心安らかに生活できます。財貨や人に教えたりする特別なモノが無くても、「仏説きたまうに七種の布施あり、財貨を損せずして大果報を獲ん」と『雑宝蔵経』にあるように、その気さえあれば次の七つの布施をすることができます。●眼施 常に人に温かい視線を送り、優しい眼差しで接する。●和顔悦色施 いつもニコニコと、温かく、優しい顔で接する。●言辞施 常に温かい思いやりのある言葉で接する●身施 人が困っている時に、そっと手を差し伸べて手助けをする。●心施 「情けは人のためならず」と思い情を込めて接する●床座施 体の弱い人や困っている人に優しく席を譲る●房舎施 宿に困っている人があれば泊めて心からもてなしてあげる◆土曜日にパソコンが壊れ、メーカーからは修復不可能と言われましたが、昨夕友人が3時間かかって修復してくれました。一時はバックアップをしていないファイルもあり真っ青になりましたが、一安心です。地獄で仏に会った心境です。
2013.09.09
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知識のある人が誰かに教えたり、時間のある人がそれを使って誰かの役に立つなど、誰かに何かを与えること総てが布施で、人は他人に何かをしてあげることによって社会の中で役に立つ存在となり、その生き方が意味のあるものとなります。布施の心を、ひろさちやさんは次のような例話で説明されています。姉がケーキをもらってきたので、お母さんが「弟と半分ずつ食べなさい」と教え、食べ終わってから「なぜ分けないといけないのか分かる」と聞きました。姉が「分けてあげないと弟が可哀相でしょう」と答えると、弟は「僕がもらってきたときは半分お姉ちゃんにあげるから、お姉ちゃんが半分くれたのだね」と答えた。姉のように「相手が可哀想だから分けてあげる」というのはお恵みでしかなく、喧嘩しているようなときなどは分けてあげないとなります。弟のような気持では、お返しをくれそうにない人にはあげる気持ちが起きません。「あなたが一緒に食べてくださったので、美味しくいただくことができました。ありがとう」と思えるようになると、ケーキは一層美味しくなるはずです。「1つのケーキを2人で分けて食べた方がおいしい」と思える心、つまり、人のためだけではなく、自分も共に楽しく生きるための智慧と言えます。
2013.09.07
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「人に親切に」とは、布施の心を実践することです。布施というと、今ではお寺へのお礼のことのように思いがちだが、元々はお釈迦様の大切な教えの一つで、人に自分が大切にしているモノを差し出すことです。モノといっても品物とは限りません。笑顔や優しい言葉など目に見えない気持ちでもいいのです。電車で青年に席を譲られたお婆さんが、「ありがとうございます。立たせてしまってすみませんね」と言いました。青年を立たせてしまったことへの思いが素直に伝わってきて、席を譲った青年も嬉しそうでした。周りの人の顔も、心なしか爽やかになりました。このように、たった一つの思いや言葉が、人々の心を温かくしてくれます。でも、何か善いことをしたとき、ふと我に返ってみると、相手の人への労りの気持ちよりも、善いことをしたという自己満足の方が強いことがよくあります。憐憫の気持ちや優越感からの好意では、本当の布施にはなりません。そんな自分の小さな心を離れて、人と心から喜びを分かち合う気持ちが大切なのです。自己満足の気持ちを離れて、どんな小さいものでも分かち合うことができたら、どんなに素晴らしく清々しいことでしょう。
2013.09.06
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荒れ果てた小さなお堂に、身動きもできない重い病気で独り捨て置かれているお坊さんが気になっていたお釈迦様は、彼を見舞って「何故、誰も看病してくれないのかね」と問うと、「私は今まで、他の人々の世話をしてあげたことがなかったからです」と答えた。お釈迦様は、自分のこれまでの冷たい心の姿がわかり始めて懺悔の様子が見て取れたので、優しくうなずかれ介護された。あくる日、お釈迦様は精舎で修行する僧たちを集めて、「小さなお堂に、一人の僧が病気で寝ていることを皆は知っているだろう。なぜ看病してあげないのかね」と問うと、「彼は、自分のことばかり考えていて、誰にも親切にしてくれたことがありません。だから見舞ってやる気にもならないのです」と答えた。すると、「それ見ろ、そうなるのが平生の振る舞いの報いなんだと言って、平気でいていいのかね。仏さまのお恵みとは、してくれたから返すというものではなく、してくれようがくれまいが、してあげずにはおられないという、清らかで優しい心なのですよ。それがわからないのかね」と諭されました。私たちの日頃はまさにこの通りで、見返りを求めずに慈悲を実践することは難しいが、「情けは人の為ならず」で何時か巡り巡って自分に還ってくると信じることです。
2013.09.05
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誰でも自分を喜ばせることには熱心だが、他人を喜ばせることのない人は長く喜びを持続することはできません。なぜなら、自分が喜びたいという意識が強くなると、大概の場合、それは自分本位になって相手には面白くないことが多いものです。すると応報の法則で、相手はその感情をこちらに返してきます。それでは、結局は自分を楽しませることはできません。(敵対的買収も同じ)私たちは自利ばかりを求めがちだが、逆に、まず人が喜ぶことをしてあげると、相手も良いことを返してくるので自分も楽しむことができます。「してあげる幸せ」により、人を喜ばせることで自分の命が輝くことを知りたいものです。つまり、たった一度しかない人生を「明るく、楽しく、心豊かに」イキイキとして生きるために、何かを他人に求めるのではなく、自らが慈悲喜捨の心を持って布施・愛語・利行・同事を具体的に実践することです。アメリカのように力で相手を変えようと思っても、なかなか思うように変えることはできません。「自分が変われば相手が変わる。相手が変われば周囲が変わる。周囲が変われば世界が変わる」と信じて、まずは自分の心の持ち方を変え、自らが最初の一人となって実践することから始まるしかありません。
2013.09.04
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四無量心を実際行動として実践する手段が、四摂法(事)=布施・愛語・利行・同事の四つの実践行動です。布施=大切にしているものを差し出して精神的・物質的な恵を与える愛語=相手の身になって親身に話しかける利業=相手の役に立つことをする同事=相手の身になって苦楽を共にする「四摂法」の本質は「あなたからどうぞ」と相手を先にする心で、精神的、物質的な恵みを人に与えたり、人に優しい言葉をかけたり、相手の利益になることをしたり、相手と同じ気持ちになって考えることを心がけて行動すれば、みんなが仲良く心安らかに生きていくことができる。つまり、何事にも偏らない優しい心をもって慈しみあい、人と悲しみを分かちあい、良いことが有れば人と一緒に喜びあい、過分な欲望を捨てて持てるエネルギーを人々のために尽くそうという心を養うことが大切だという教えだと思います。「他人さまのお役に立つことは、人生を2倍生きることだ」と言った人がいたが、あなたも釈迦の教えを生かして人生を2倍生きてみませんか?
2013.09.03
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良い人間関係を築く究極は、お釈迦様の説かれた「慈悲喜捨(=四無量心)」の心を持って見返りを求めず、「四摂法」を実践することに尽きます。最澄は「己を忘れて他を利する(忘己利他)は慈悲の極みなり」と言ったが、「私も他の生命も皆、幸福になりたい。慈悲の心をもって互いに仲良くしなければ幸せに生きることはできない」という教えだと思います。慈悲の「慈」とは、人を楽しませてあげたい、楽にしてあげたいと願う心です。簡単に言えば、みんな仲良くしましようという感情で、親しみをもって相手に心の安らぎを与える親愛のことです。大勢の人と仲良くしたい、みんなで楽しく暮らしたいと思う感情です。「悲」とは、人の苦を和らげてあげたい、取り除いてあげたいと願う心です。簡単に言えば、悲しんでいる人を助けてあげたい、苦しみの渦中にある人を救ってあげたいと思う感情で、悲しみ苦しんでいる相手に寄り添う憐憫の心情です。誰かが困っていればすぐ助けに行ってあげる、そのときの助けに行く自分も気持がいいはずです。例えば、阪神大震災や東関東大震災のときも、日本中の人々が何とかしてあげたいと立ちあがりました。その心です。私たちは、自分の周りの誰かが仕事で成功したり、大金を手に入れたり、素適な恋人を持ったりすると素直には喜べず、嫉妬という感情に苦しめられ、心安らかに過ごすことができません。そこで、気持を切り替えて、人の喜びを我が喜びとし、「ああ、よかった」と共に喜ぶ、それが「喜」の心です。 私たちは、人に善いことをしてあげても、その一方で「~をしてやったのに」という気持が生じ、恩着せがましくなりがちです。そして、「あいつは恩知らずだ」と怒ったりしがちです。それでは心安らかに過ごせないので、そんな恩や恨みの感情に流されないよう戒める心、それが「捨」の心です。 人間は誰でも自分が一番愛しいものだが、辛い経験の中で人の情けが身に染みたときに始めて、人に喜んでもらうことの大切さも分かってきます。大事な人に喜んでもらうことは何よりも嬉しいものだし、自分自身が励まされる面もあります。子供のころ、正月前になると寒い中障子洗いをさせられたものだが、おふくろは「お陰でこんなにきれいに張り替えられた」と言って喜んでくれました。それが嬉しくて、心にポッと灯がともるような気がしました。このように、人の喜びを自分の喜びとして単純に喜べばいいのです。
2013.09.02
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自分本位で「自愛」と「我欲」の心が先に立ち、世界中で未だにいさかいが絶えないが、チョット息抜きに地獄・極楽の例え話をご紹介します。部屋の真ん中に置いている大きな釜においしいうどんが煮えていて、つけ汁も置いてあります。だが、食べ方のルールが決まっていて、三尺三寸(約1m)の長い箸で、しかもその端を持って食べなければなりません。地獄も極楽も、部屋の大きさも、釜の大きさも、釜を囲んでいる人数もまったく同じです。違っているのは、そこに住んでいる人の心だけで、地獄には自分のことしか考えない利己的な人が住んでおり、極楽には思いやりにあふれた利他の心を持っている人が住んでいます。さて、食べるときが問題です。地獄では、自分の箸でうどんをつかむが早いか、自分の側にあるつけ汁につけます。でも、箸が長すぎて自分の口には入りません。反対側からは、こいつに食われてたまるかというので、人の取ったうどんを箸で引っ張ります。こうして阿鼻叫喚の図が出現し、釜の周辺にはせっかくのうどんが飛び散って、結局誰も一口も食べることができず、人は餓鬼道に走ってしまいます。ところが、極楽には思いやりにあふれた人たちだけが住んでいます。「うどんができましたよ。みなさん、一緒に食べましょう」と言い、箸で釜の中のうどんを取り、つけ汁につけて、「はい、あなたからどうぞ」と箸を伸ばして向こう側の人に食べさせてあげます。すると、前の人は「ああ、おいしゅうございました。今度はあなたがどうぞ」と言って、その人にうどんを取ってあげます。うどんは少しもこぼれないし、誰もが穏やかに食べることができます。そして、人々は手を合わせて感謝しながら食べています。お風呂バージョンでは、風呂の広さも人数も一緒です。地獄では各々が好き勝手に振る舞い、「お湯がかかった」「腕が当たった」と喧嘩が絶えません。極楽では、輪になって座り、各々が和気あいあいと前の人の背中を洗っています。このように、地獄も極楽も何一つ外見は変わりません。地獄も極楽も、自分の心が創り出すものでしかないという例え話です。つまり、一人ひとりが「わたし」にこだわるから、争いが生じ、苦(ストレス)が生じるのです。私は、あの世に極楽を求めるのではなく、この世こそ極楽にすべきだと思います。それは、ブータンのように和=絆を大切にする心から始まります。
2013.09.01
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