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第一次世界大戦で敗戦したオスマン帝国は解体し、ヴェルサイユ講和会議で領土の西をギリシアに、東をアルメニアに、南東部をクルド人に割譲し、首都イスタンブールを国際管理にすることになった。この仕打ちに対して一九二〇年にアンカラで招集された大国民会議は、ガリポリの戦いで活躍したムスタファ・ケマルを指導者として祖国回復運動を展開していった。トルコ革命である。その成果は一九二三年のローザンヌ条約となり、エーゲ海島嶼をギリシアに渡し、トルコ領内のキリスト教徒とギリシア領内のイスラム教徒を交換するという条件を獲得して、トルコ共和国の樹立にいたった。問題は南下政策をとりつづけるロシア(ソ連)による共産化の波をどうはねのけるかだった。
2026年08月07日
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加藤内閣は首相の病歿で短命に終わり、山元権兵衛に組閣の命が下りた。1923年九月一日の正午の関東大震災による震災恐慌に対して、政府は 震災手形割引損失補償令を出して銀行救済を行ったが、この震災手形が結果的に昭和 2(1927)年の金融恐慌の直接的原因をなしたのである。国内では大戦時の過剰な投資により経済は危機に瀕するようになってい た。昭和2年(1927年)に始まった金融恐慌でそれが一気に表面化し、その後の世界恐慌の余波に巻き込まれるにあたり経済的な逼迫感はピークとなっ た。当時、列強はそれぞれ他国からの輸入品には多額の関税を課すなどの施策 により自前の経済圏を形成していくことで経済の建て直しを図っていた。資源に乏しく国内消費力が落ち込み、貿易によって経済を立て直さなくてはならない日本にとってまさに満洲が生命線であると広く認識されていった。
2026年08月06日
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第一次世界大戦による異常な物価騰貴は、1914年を100とすると4年後の1918年には230と130%も上昇した。工業の発展と人口の都市集中による消費量の増加と米の買い占め・売り惜しみが原因です。富山県下の住民が発端の米騒動は全国に広がりました。政府は治安維持のために軍隊を出動せざるを得ませんでした。この結果寺内内閣は倒れ、原内閣が誕生しました。原内閣は第一次世界大戦の終幕、ベルサイユ条約の締結、ワシントン条約の調印を行ったが、1921年にテロにより暗殺されました。原内閣の後を受けた高橋内閣は改造に失敗し瓦解し、加藤友三郎が組閣を行った、
2026年08月03日
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