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教育ある社会の機会を活用するには、 学校および教育を 大きく変えなければならないであろう。 われわれが教えなければならないのは、 なによりもまず、学校を出たあとで、 新しいことを学ぶ能力であろう。 反面、各種の学問分野で、 今日に比べてもっと広い、 もっと体系だった知識をもっている人が 必要になるのも明らかである。 ハイスクールを終えない子供に対して 大きな懸念が寄せられている。 しかし二〇年後には、 大学学部を終えなかった若者が、 そうした「中退者問題」を ますます提起するようになろう。 教育ある社会では、職務を果たすには、 今日よりも高い教育がある人が 要求される傾向があるだけでなく、 高い教育を受けた正式の証拠 ――つまり少なくとも学士号を獲得できる人に、 機会が限定されてしまう傾向があるからである。「知識時代のイメージ」 P・F・ドラッカー
2017年01月31日
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米国はまた日本の文化財に敬意を表して 京都を爆撃しなかったと主張する。 そんな風なことを言う 日本人の自称文化人も多かったが、 これも米軍の公式資料を調べれば大嘘と分かる。 即ち原爆の投下候補地は ①直径三マイルを超える都市で ②かつ有効な損害を与えられる地形をもち ③通常爆弾による爆撃をしていないことが条件だった。 これに適うのが京都、小倉、新潟、広島、長崎などで、 中でも盆地状の京都市街は申し分なかったため 本土爆撃が始まってからも 一切の通常爆弾による爆撃は行われなかった。 確かに最終段階で第一候補の京都に 〝執行猶予″がついたのは事実だが、 それをもって「京都を守った」とは、 いけしゃあしゃあとよくも言えたものだ。 広島もまた同じ。 原爆を落とし、それがどれほどの 人的、物的被害を及ぼすかを測るために ここも通常爆弾を落さなかった。 それを元長崎市長の本島等は 「広島は殺人軍団・第五師団の本拠地。 原爆を落とされて当然」と言う。 そんなに危険な軍都なら 原爆ができる前にとっくに 通常兵器で爆撃しているものだ。 こういう馬鹿を言う人につける薬が欲しい。「スーチー女史は善人か」 高山 正之 新潮社
2017年01月30日
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理解したいという欲望は 人間のもつ性質のなかで 最も基本的な衝動の一つであるように思われるし、 この理解ということが人間の魂の調和的因子なのである。 無知なるがためにおこる不安と恐怖とは、 疑問となっている事実なり現象なりが 理解されるや否や消え失せてしまうのだ。 知られていないものに対する恐れの感は 未開人においてはるかに強い。 彼らは非合理の世界に住んでいるのに対し、 文明人はもっと多くの現象を 自分自身に説明することができるからだ。 つまり科学は人間をおちつかせ、 その不安を取り除くのである。 したがってウィーンの精神医学者Ⅴ・フランクルは これを巧みにも 論理療法((ロゴセラピー)とよんでいるのだ。 われわれは人間ひとりひとりの発達のうちに この論理療法の経過を吟味することができる。 例えば青年期には理解できなかったことも もっと成長すれば理解可能となるのである。 文学や芸術において、成熟した創造性の時期は 個人の進化の結果なのであり、 これはつまりなんらかの論理療法の結果なのである。 この点は創造的な芸術家の仕事のうちにみとめられる。 「人間を考える」 ピエール・A・ラドワンスキー 南雲堂
2017年01月27日
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我々は、造物主によって 便利な言葉というものを 人間にだけ与えられているが、 その言葉が、 積極的に表現された時と、 消極的に表現された時には、 直接的に実在意識が受ける影響というのは 非常に大きいのだ。 今日は不愉快ですとか、 頭が痛いとか、熱がありますとか、 どうも気分がよくありませんとか言う言葉を 口から出している時に 非常な愉快を感じないだろう。 今日もうれしいですね、楽しいです、 ありがたいですという言葉をいった時には 非常な何とも言えない快さを感じるであろう。「成功の実現」 中村天風 日本経営合理化協会
2017年01月26日
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「そもそも人の心は、 皇国も外つ国も、ことなることなく、 善悪是非(ヨサアシサ)に二つなければ、 別(コト)に漢意といふこと、 あるべくもあらずと思ふは、 一わたりさることのやうなれど、 然思ふもやがてからごゝろなれば、とにかくに此意は、 のぞこりがたき物になむ有ける」 といふこの一節は、今の世にも変りなき 「漢意」の本質をこの上なくはつきりと 露き出してゐると言へる。 元来が 「これは人類普遍の原理である」といふ言ひ方は、 或る一つの文化が他の文化に、 自分達のものの見方を押しつけようとするときの 決り文句であるが、 それを日本人達は疑はぬばかりか、 自らの言葉として繰り返してゐる。 これこそが「漢意」といふ名の 文化的倒錯の構造である、 と宣長は見抜いてゐるのである。 この迷妄を醒ましうるのは、 「善悪是非(ヨサアシサ)に二つなしともいふべからず」 といふ、文化相対論へと人の目を開くことである。「からごころ」 長谷川三千子 中公文庫
2017年01月25日
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『子路が政治についてお尋ねした。 孔子言う。 「先頭に立って骨を折ること。ねぎらうこと」 「もっとありませんか」 孔子はいつでも簡にして要を得た答えをされる。 だから子路はときどきわからなかったり、 簡単に考えたり、つまらなかったりする。 もう少し聞かせてほしい。 ところがそこは孔子、よく心得ておりま。 「倦むことなかれ」――途中で嫌になってはいかんぞ、 と言われた』 仕事に倦む、会社に倦む、家庭に倦む、 自分の専門領域に倦む――、そんなとき、 人間は転職を考えたり、離婚に踏み切ったりするが、 多くは自分の姿勢に問題があって 「倦」んでいることには気づかない。 「継続は力なり」とよくいわれる。 継続は「倦」を乗り越えない限り 成就されることはない。 つまり、継続自体、 弱音を吐きがちな自分との闘いを意味している。「安岡正篤人間学」 神渡良平 同文館
2017年01月24日
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ミャンマーことビルマは、もともとは 仏教を信ずるビルマ人の国だつた。 十九世紀、この国を征服した英国は すぐに大量のインド人と華僑を入れて 金融と商売をやらせた。 さらにモン、カチンなど周辺の山岳民族を 山から下ろしてキリスト教に改宗させ、 彼らに警察と軍隊を構成させた。 単一民族、単一宗教のビルマはこれによって 多民族、多宗教国家に改造され、 この国の主だったビルマ人は農奴に落とされてしまった。 第二次大戦後、ビルマの歴史は ビルマ人が再び国を取り戻すための涙ぐましい努力 で彩られている。 ネ・ウインは鎖国を命じ、ために経済は停滞して ビルマは最貧国に落ちた。 彼はまたデノミと徳政令を何度もやった。 貿易をとめられたうえに徳政令では 経済と金融を握っていた華僑やインド人には 何のうまみもなくなって、ビルマから出て行った。 残るは警察と軍隊を握る山岳民族だが、 ビルマ人は山に帰れとは言わず、共存を訴えた。 その証としてビルマ人の国を意味する「ビルマ」を ミャンマーに変えた。 植民地支配の残した負の遺産を だれのせいにするでなし、国名も変え、 貧しさに耐えつつ平和的に解決した例を 他に知らない。 そういうビルマ人の努力を すべてぶち壊しているのが性悪の アウンサン・スーチーだ。 彼女は植民地時代の支配階級だった 山岳民族やビルマ人不満分子を糾合し、 政権奪取を狙う。 彼女の後ろで英国が舌なめずりしているのを 彼女自身も知らない。「スーチー女史は善人か」 高山 正之 新潮社
2017年01月23日
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第三は、「日本人の労働観」です。 欧米では労働に対して 苦痛や罰というイメージが一番に浮かぶのに対し、 なぜ日本人はそういったイメージを持たず、 勤勉なのかを考えてみますと、 やはり、そこに宗教による「刷り込み」が あるのではないかと思うのです。 例えば、旧約聖書を共通の経典とする ユダヤ教や、キリスト教、イスラム教の中において 書かれている「楽園」は、労働なき世界です。 それがアダムとイブが 禁断の果実を食べて神の怒りに触れ、楽園を追い出され、 罰として男には労働が、女には出産が課せられるのです。 ただプロテスタントにおいては、 自分が地獄に堕ちる定(さだ)めになっていないことを 確信するために一生懸命働くという勤勉さで 資本主義を栄えさせたと言われますが、 心の奥底には労働不要の「楽園」の イメージが「刷り込み」されています。 ところが日本では『古事記』を読むと、 天照大神が機(はた)織り小屋を持って 機を織られていたと書かれており、 ほかの男神たちも 田畑を耕していたことが記されているのです。 象徴的な行事ではありますが、 系譜で神とつながる天皇陛下は、 いまでも五月の末ごろに泥田に入って 田植えをなさり、秋にはそれを刈り取られるのです。 一国の君主が泥田に入るということは、 西欧では一般に見られない現象です。 つまり日本では古来、神様ですら働かれるのです。 それが国民の「刷り込み」になつていますから、 決して労働が罰だとか卑しいとかいう イメージがないのです。「私の人生観、歴史観」 渡部昇一 PHP
2017年01月20日
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第一に、日本は、科学技術問題についての トータル・パースぺクティヴをつかむよう 努力すべきである。 科学技術は、すでに幾度も強調したように、 もはや純粋学問的な問題ではなく、 経済、産業、国防、社会などと有機的に結びついた 総合性をもった事柄である。 したがって、それぞれのセクターとの結びつきについて、 原理原則を明確にしておく必要があり、 そのためにも学界と官、産業界との 恒常的な意見交換も重ねられるべきである。 あわせて社会科学者からも科学技術のあり方について 意見を求めてみることが望ましい。 とくに、科学技術のあり方が、今後ますます 独創・イノベーション・拡散という三つの柱の 適正なバランスで評価される時代であるだけに、 日本は、その点での理論武装を心掛けねばならない。 そのばあい、発展や「近代化」などについての 理論や洞察が求められることになる。 いわゆる(模倣)ということひとつとっても、 それはど単純な現象ではない。 このような近代日本の科学技術をめぐる さまざまな問題について、理論的に きちんとしたわきまえをもっておかないことには、 科学技術大国としての資質が いつまでも問われ続けることになろう。「フローの文明・ストックの文明」 矢野暢 PHP
2017年01月19日
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要するに、われわれは 全国的な尊敬欠如の発生に苦しんでいるのではない。 われわれは、自己憐憫の流行におぼれているのである。 アメリカのどの職業グループも、 英国ビクトリア女王時代の 三文小説にでてくるヒロインのように、 自分が描き出した悲境に ひとりよがりの泣き声をたてなければ 落ち着いていられないのだ。 自己憐憫から共同謀議の幻想までは、 ほんの一歩である。 ジョンソン大統領が、 アメリカのビジネスマンに全米商業会議所総会で、 「殉教者コンプレックス(被害妄想)」を 捨てるようにと忠告したのは、正しかった。 ある職業グループがこぼす「尊敬欠如」の不平が、 本当はそのグループが 他のグループよりすぐれているので 尊敬をはらってもらいたいという意味であれば、 それは同情するにも支援するにも値しない。 それこそ、声高に、下卑た言葉で 軽蔑してやるに値するのである。「知識時代のイメージ」 P・F・ドラッカー ダイヤモンド社
2017年01月18日
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ひとことで言えば、自他ともに幸せになり、 その社会を人間の望みうる理想のものとするには、 日本を見ならうべきだということなのである。…… もし自然が生活に必要なもの、すべてを与えたとしたら、 そして、もしその国が国民の勤勉により、 世界に例を見ないまでに発展しているとしたら、 その国は外国に頼ることなしに存在できるのである。 これは大きな利点である。 これによって他国より来る 邪悪、放蕩、軽薄、戦争、変節などに 乱されることなく、 国内に大きな問題も起こらず、 危急の場合、 外国の攻撃から身を守ることができるのである。 これこそ日本が他国よりすぐれている点である。 (ケンペル著『日本誌』の一節から)「奇跡の日本史」 増田悦佐 PHP研究所
2017年01月17日
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彼は三民主義の一つに民族主義を掲げ、 漢民族の国を再建すると訴えた。 漢民族は秦以来の万里の長城の内側を その国土とした。 ところが満州族の清王朝が倒れると急に欲が出た。 清王朝の版図、つまり満州やウイグルも 自分たちの領土にしたい。 それで「民族主義の民族とは 漢とその周辺の五族の共和を言う」と言い出したのだ。 孫文の嘘は毛沢東が引き継ぎ、 今もさも当然のように人種も言語も宗教も違う チベットやウイグルを支配している。「サダム・フセインは偉かった」 高山 正之 新潮社
2017年01月16日
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彼は先づ、革命家の道徳的体系を説いて、 「政治闘争に於ては逃口上や嘘言も必要である」 ことを公然と主張し、 「共産主義者は、いかなる犠牲も辞さない覚悟が なければならない。――あらゆる種類の詐術、 手くだ、および策略を用ひて非合法的方法を活用し、 真実をごまかし且隠蔽しても差支へない」 「共産党の戦略戦術は、 できるだけ屈伸自在でなければならない。 党は武装蜂起から最も反動的な 労働組合および議会への浸透にいたるまで、 あらゆる闘争方法の利用を学ばねばならない」 「共産主義者は、大胆に恐れなく攻撃する一方、 整然と退却すること、 『悪魔とその祖母』とさへ妥協すること を能くしなければならない」 「党はブルジョア陣営内の小競合ひ、衝突、不和に乗じ、 事情の如何によつて、不意に急速に 闘争形態を変へることが出来なければならない」 「共産主義者は、 ブルジョア合法性に依存すべきではない。 公然たる組織と並んで、革命の際非常に役立つ 秘密の機関を到るところに作らねばならない」 「われわれは即時二重の性格をもつ 措置を構ずる必要がある――、 党は合法的活動と非合法的活動を 結びつけねばならない。――」「戦争と共産主義」 三田村 武夫 民主制度普及會
2017年01月13日
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歴史的考察について 理論的に明らかにされた技術が まだ全然存在しないということは明白である。 そうだという名だけ借りているものは、 その方法をもっぱら、認識の方法を ただひとり厳密に完成された知識の領域から、 つまり物理学から引き出している。 そこで原因結果の客観的な関係を追求しさえすれば、 それで歴史研究をおこなっているのだ と信ぜられるのである。 旧式哲学が 人間の理解的覚醒存在とその周囲の世界との関係を、 それ以外に決して考えることができなかったというのは 驚くべき事実である。 カントはその主著において、 認識の法式的な規則を確定したのであるが、 その際、悟性作用の対象として自然だけを考察した。 そうして彼もほかの誰もこれに気がつかなかった。 知識とは彼にとっては、数学的な知識である。 彼は直観の先天的な形式と悟性の範疇とについて語るが、 歴史的印象という、 まったく異なった性質の理解については考えない。 そうしてカントの範疇のなかで、 とくに因果の範疇だけを重視したショーペンハウエルは、 歴史を軽蔑だけで語っている。 原因結果の必然性―― これは空間の論理といっていい―― のほかに、生命にあっては、 その上に運命という有機的必然性―― 時間の論理――があるということ、 これは最も深い内的確信の事実である。 この事実は、神秘的な、宗教的な、芸術的な 意想のすべてに充ち満ちていて、 自然と対立するあらゆる歴史の本質と核心とを 形成するものであるが、「純粋理性批判」の探究する 認識形式の近づくことのできないものである。 このことは、理論的な公式化の領域のなかに まだ入って来ないのである。「西欧の没落」第一巻 O・シュペングラー 五月書房
2017年01月12日
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第二は、「相対化された宗教観」です。 日本人は神仏混淆で、神道もよし、 仏教もよし、時には道教もよし、 キリスト教もよしという精神風土です。 そういう「刷り込み」が日本人にはあります。 世界の民族紛争の多くが宗教紛争であることや、 今後さらに世界は緊密になっていくことを考えると、 自分の宗教だけが正しいという 絶対化は望ましくなく、 日本人の「相対化された宗教観」が 世界中に求められていくのではないでしょうか。「私の人生観、歴史観」 渡部昇一 PHP
2017年01月11日
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日中が手を携えれば欧米列強の横暴に対抗できる と日本は思った。 それで日本は中国人青年に教育の場を提供し、 彼らの軍の近代化も図った。 欧米はそれを恐れた。 「極東の小さな巨人が 眠れる隣人を目覚めさせたとき、 この二国が世界のヘゲモニーを取らないと だれが言い切れるか」 というムッソリーニの言葉が その思いをよく言い表している。 だから英米は蒋介石を抱き込んで 日中の離間を図った。 蒋に金をやるだけでなく、英領ビルマから 武器弾薬を蒋のもとに送り込んで 日本と戦わせた。 これが援蒋ルートである。 日本はそれを断ち切りたかった。 折りしもフランスがドイツに降伏し、 親独のビシー政権が成立した。 日独は同盟国だ。 ということはビシー政権とは友達の友達で、 仏印植民地政府もお友達になる。 それで日本は援蒋ルートを叩くために ビシー政権に仏印に進駐したいといった。 一九四〇年のことだ。 日本人は無理のない頼みだと思ったが、 欧米諸国にはパスコ・ダ・ガマからの四百年で 最大のショックだったと 英戦史家クリストファー・ソーンは書いている。 なぜなら植民地はその資源も労働力も 宗主国の不可侵の財産であって、 その不可侵性はガマがアジアを発見して以来、 白人国家が第三世界に確立した 尊厳に裏打ちされたものだった。 しかし非白人の日本人に白人の尊厳に従えとは言えない。 ビシー政権は中立の米国に働きかけ、 さらにはヒトラーにまで頼んで 日本の仏印進駐を思いとどまらせようとした。「サダム・フセインは偉かった」 高山 正之 新潮社
2017年01月10日
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「日本的なもの」を どこまでも追求してゆかうとすると、 もう少しで追ひつめる、といふ瞬間、 ふつとすべてが消えてしまふ。 我々本来の在り方を損ふ不純物をあくまでも取り除き、 純粋な「日本人であること」を発掘しようと 掘り下げてゐて、ふと気が付くと、 「日本人であること」は、 その取り除いたゴミの山の方にうもれてゐる―― 至る処で繰り返されるさうした逆転 それ自体に注目すること。 それを教へてくれたのは、 この「からごころ」といふ言葉である。 それまでは、 ただの濃密な「謎の気配」でしかなかつたものが、 この言葉によつて、 にはかに形をなし、動き始めたのである。 われわれ日本人の内には、確かに、 何か必然的に我々本来の在り方を見失はせる機構、 といつたものがある。 本居宣長はそれを「からごころ」と呼んだ。「からごころ」 長谷川三千子 中公文庫
2017年01月06日
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政治学者のマイケル・ストール (パードウ大学教授・政治学部長) の言葉を引いてよかろう。 「国際条約によって――強調しなければならないのは、 条約によってのみ行われるということである」 ――大きな力の行使、 あるいは力を行使するぞという威嚇は、 ふつう威圧外交と呼ばれ、テロの一形態とは呼ばれない。 しかし、そうした外交に伴うのは、字義に従うなら、 「そうした戦術を用いているのが大国でなければ、 おそらくテロリスト的と呼ばれるであろう 目標のための暴力の威嚇、しばしば行使」である。 西側の知的文化が字義通りの意味を 喜んで採択するという(想像不可能な)状況下では、 テロに対する戦争は、 まったく異なる形態をとるであろう。 まともな規範になることはない文書に 詳しく書かれた方針に沿って行われるはずだからだ。 引用した文章は『西側国家のテロリズム』 と呼ばれる調査研究書にあるもので、 一〇年前アレックス・ジョージの編集により、 大手出版社から刊行されたが、 米国では書名を口にするのもはばかられる本である。 ストールの指摘したことは、 全巻にわたって詳しく例証されている。 例えば公式の政府文書のような 最も信頼できるソースから 広く集めた例証がたくさんあり、 米国では口にも出せないが、 他の英語圏諸国ではタブーは米国ほど厳密ではない。「9・11」 ノーム・チョムスキー 文藝春秋
2017年01月05日
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一、年頭まず自ら意気を新たにすべし。 新晨・曙色の気象もて。 二、年頭古き悔恨(かいこん)を棄(す)つべし。 堕したる甑を顧みて何かせん。 三、年頭決然滞事(たいじ)を一掃すべし。 衣を振ふ千仭の丘。足を濯ふ萬里の流。 四、年頭新たに一善事を発願(ほつがん)すべし。 一念・光明蔵。十分自由郷。 五、年頭新たに一佳書を読み始むべし。 読書随處浄土。閉門即是深山。「渋谷の窓から」 岩松 茂輔 日立印刷出版センター
2017年01月04日
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