Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年02月15日
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カテゴリ: 絶対存在論



ルドルフ・シュタイナー 初期哲学論文-1
真理と学問
エドゥアルト・フォン・ハルトマン博士に著者より尊敬の念を込めて本書を献く
一叶 知秋(いちようちしゅう) 訳
目 次
1892 年初版への前書き---------------------------------------------2
導入----------------------------------------------------------------------6 Ⅰ:序章----------------------------------------------------------------8
Ⅱ.カントの認識論の根本問題--------------------------------10
Ⅲ:カント以降の認識論-----------------------------------------17

Ⅴ:認識と現実-----------------------------------------------------34
Ⅵ:無前提な認識論とフィヒテの知識学--------------------40
Ⅶ:認識論の帰結--------------------------------------------------51
Ⅷ:実践の帰結-----------------------------------------------------53
1892 年初版への前書き
 今日の哲学は不健全なカント信仰に罹患している。本論文はその超克に寄与するためのものである。ドイツの学問の発展に関するカントの不朽の業績を貶めようとすることは、恥知らずなことであろう。しかし我々は、我々がカントの精神と決定的に対決したときにのみ、真に満足した世界観及び人生観の基礎を築くことができるということを、最終的には理解しなければならない。カントが成し遂げたこととは何か?彼は独断論の哲学者たちが誤解の上に築かれた概念形成の助けを借りて探求した感性界及び理性界の彼岸にある事物の第一原因が、我々の認識能力にとっては到達不可能なものなのだということを示した。このことから彼は、我々の学問的努力は経験的に把握しうる範囲にとどまらなければならず、超感性的な根源即ち「物自体」の認識に到達することはできないと結論付けた。しかし、独断論者たちの言う感性界及び理性界の彼岸にある事物の第一原因もろともに、カントの「物自体」もまたただの幻影に過ぎなかったとしたらどうであろうか。実はこうしたことを見通すことは困難なことではない。事物の最も深い本質、即ち事物の究極的な原理を研究することは、人間の本性と不可分な衝動である。これは全ての学問の営みを基礎付けているのである。しかし、あらゆる側面からこの世界を徹底的に研究することにより、世界の外部からの影響を示す全ての諸要素が世界の内部に見つからない限り、我々は、感性界及び精神界の外部にこの根源を探し求める気にはならないであろう。さて、我々の論文は、我々の思考にとって、世界の究明のために必要なもの全てが到達可能であることを証明しようと試みる。我々の世界の外側にある原理を仮定することは、空虚な独断論的な空想の中で現実感覚を失った哲学の偏見として示される。カントが、我々の思考がどのような素質のあるものであるかを現実に即して研究していたならば、彼はこの結論に至ったに違いない。けれども、彼はそうするのではなく、我々の認識能力が予め制約されているために、我々の経験の彼岸にある究極的な原理に到達することはできないのだということをくだくだしい仕方で証明したのである。しかし、我々はそのような原理を経験の彼岸に移してはならない。カントはなるほど「独断論」哲学を論駁した。しかし彼はそれに代わるものを何も置かなかった。それ故に、カント以降のドイツ哲学は、常にカントとの対立において発展した。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルは、カントによって定められた我々の認識の限界についてもはや顧慮することなく、事物の根源的な原理を、人間の理性の此岸の内部に探し求めた。カントの理性批判の成果を永遠に覆しえない真理だと主張するショーペンハウアーでさえも、究極的な世界原因の認識に対して、カントとは異なる道をとらざるをえなかった。彼らの不運は、認識そのものの探求を通じて、究極的な世界原因のための基礎を築くことなしに、最高の真理の認識を探し求めたということにあった。それ故にフィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルの堂々たる思想の建造物は、土台無しの状態である。そしてそのような欠陥は、この哲学者たちの思考の歩みに有害な影響を与えさえした。純粋理念界の意味、及びその純粋理念界の感覚知覚の領域との関係の意味を知ることなしに、この哲学者たちは誤謬の上に誤謬を、一面性の上に一面性を、打ち建てたのである。非常に大胆な体系が、哲学に対して敵意を持った時代の嵐に逆らうことができず、それらに含まれる多くの善いものが、悪いものもろとも無慈悲に吹き散らされたということは、何ら不思議なことではない。

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最終更新日  2024年02月15日 06時59分39秒
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