Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年02月16日
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カテゴリ: 絶対存在論
ルドルフ・シュタイナー 初期哲学論文-2
真理と学問
 以下の考察は、以上のことに関して示唆された欠点を補う予定である。この考察は、カントがしたように、認識能力に何が不可能なのかを説明しようとするのではない。むしろこの考察の目的は、認識能力に実際に何が可能であるかを示すことにある。この考察の結論は、真理とは、ひとがふつう仮定しているような何らかの現実の理念的反映なのではなくて、もしも我々が自分でそれを生み出さないならばそもそもどこにも存在しないような、人間精神の自由な産物なのだということである。認識の課題とは、既に他の場所にあるものを概念の形式で繰り返すことではなく、感覚的所与の世界と一つになって初めて完全な現実を生み出す、一つの全く新しい領域を創造することである。認識によって人間の最高の活動である精神的創造行為が普遍的な世界事象に有機的に組み込まれる。この活動なしに世界事象をそれ自身の中で完結した全体として考えることは決してできないだろう。人間は、世の成り行きに対して、宇宙の中で自分と無関係に起こることを自分の精神の内部で表象によって繰り返すだけの何もしていない傍観者ではなくて、世界プロセスの活動的な協同創造者である。そして、認識する者は宇宙万有の有機体の中で最も完全な一分枝なのである。我々の行為の法則にとって、つまり我々の道徳的理想にとって、この見解はこれらの法則や理想もまた我々の外にあるものの模像ではなく、我々の内にのみ現存するものとして見ることができるという、重要な論理的帰結をもっている。従って、我々が我々の道徳法則を権力の命令とみなさざるをえないそうした権力も、やはり斥けられる。「定言命法」、言ってみれば、我々が何を為すべきか、或いは為すべきでないかを我々に命じるところの彼岸からの声を、我々は知らない。我々の道徳的理想は、我々自身の自由な産物である。我々はただ、我々の行為の規範として我々が我々自身に命じることだけを遂行せねばならない。自由な行為としての真理についての見解は、それ故に完全に自由な人格が基礎である倫理学をも基礎付けるのである。これらのことは、もちろん、我々がより完全な認識において我々の行為の法則を理念的に自分のものにする、そういった我々の行為の一部についてのみ、妥当する。これらの法則がただ自然的な動機ないし概念的にはなお不明瞭な動機である限りは、精神的により高次の立場に立つ者は、どのような点で我々の行為のこれらの法則が我々の個性の内部で基礎付けられているかを、なるほど認識することができる。しかし我々自身はこれらを外部から我々に作用するもの、我々を強制するものとして感じるのである。我々がこうした動機を明瞭に認識しつつ自分のものにすることができたときにはいつでも、我々は自由の領域を獲得するのである。 我々の見解が、現代の最も重要な哲学的現象である、エドゥアルト・フォン・ハルトマン(Karl Robert Eduard von Hartmann/1842年2月23日-1906年6月5日)の世界解釈に対してどんな関係にあるのかを、認識の問題を問う限り、読者は一層詳しい仕方で我々の著作から見て取るであろう。 我々がこの論文でそのための序曲を奏でているものが、「自由の哲学」である。この著作自体が、一層詳しいかたちでまもなく出版されるであろう。人間の人格の存在価値を向上させることが、全ての学問の最終目標である。究極的にこの意図をもって働かない者は、単に彼の師からそのようなことを見て取ったからという理由だけで仕事をするのである。その者は、まさに偶然、それを学んだという理由で「研究する」のである。その者は「自由思想家」とは呼ばれ得ない。諸学に初めて本当の価値を与えるのは、諸学の成果の人間的な意味を哲学的に説明することである。私はこの説明に寄与したいと思う。しかし、ひょっとしたら現代の学問は、哲学的な正当性を全く必要としないかもしれない。その場合、次の二通りのことが確実である。即ち第一に、私が或る無用の論文を著したということ。第二に、現代の学識は闇雲にその成果を受け入れており、自分が何を必要としているかを知らないということである。この前書きを締め括るに際して、私は個人的なコメントを差し控えることができない。私はこれまで常に、私の哲学的見解をゲーテの世界観に結び付けて説明してきた。というのも、ゲーテの眼差しは常に個々のものを超えて、理念に向かっているからである。私にとって、ゲーテ研究の中で極めて高いところにいる、私が最も尊敬するカール・ユリウス・シュレーアーによって初めて、私はゲーテの世界観に導き入れられたのである。 しかし、今や私は、この論文で、私の思想的建造物がそれ自身の内に基礎付けられた一つの全体であり、それはゲーテの世界観から導き出される必要のないものであるということを示したと思っている。この論文及び後に「自由の哲学」として出版されるような私の思想は、長い年月の経過の中で生まれた。私がウィーンのシュぺヒト家の子どもたちの家庭教師をしている間に、シュペヒト家が私を出迎えてくれた心のこもったやり方が、私の理念の拡充のための唯一つの望ましい「環境」を提供してくれたこと、加えて、私が差し当たり最終章「実践的帰結」で萌芽的に素描した私の「自由の哲学」の多くの思考内容を最終的に仕上げるための気分は、その繊細で高貴な芸術家の本性から生じる文学的な仕事がじきに公表されるであろう、私の非常に尊敬する友人ローザ・マイレーダとのウィーンでの示唆に富む会話のおかげであるということをなお述べるならば、それはまさに深い感謝の念から生じるのである。
 ウィーンにて、1891 年 12 月 ルドルフ・シュタイナー博士
参考:Immanuel Kan



参考:エドゥアルト・フォン・ハルトマン




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最終更新日  2024年02月22日 13時24分16秒
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