【原注】 *27:私は概念という言葉を関連の無い知覚の要素が一つの統一体に結び付けられる規則であると理解している。たとえば因果性は、一つの概念である。理念はより大きな内容をもった概念でしかない。たとえば有機的組織は、全く抽象的に捉えれば、一つの理念である。ここで我々が先に進む前に、我々はまず可能的な反論を片付けたい。即ち、我々の思考プロセスにおいて無意識に「自我」の表象、「個人的主観」の表象が、或る役割を演じているかのようにみえるかもしれないし、我々が我々の思考の発展の進歩において、それに対する正当性を説明しておくことなしにこの表象を利用しているかのようにみえるかもしれないということをである。それは、たとえば我々が「我が概念を生み出している」或いは「我々があれこれの要請をしている」という場合である。しかし、我々の説明には、このような命題に文体上の表現法以上のものを見るきっかけを与えるものは何もない。認識行為は「自我」に属し、そして「自我」という前提から出発するということ、それは、我々が既に述べたように、単なる認識による考量に基づいてしか確認されえないのである。そもそも我々は、認識行為の担い手に触れることすらせずに、認識行為についてのみ、暫定的に語らねばならないだろう。というのも、ここまでで確定していることの全ては、或る「所与」が存在しており、この「所与」の点から前記に挙げた要請が生じ、最後に、概念と理念はこの要請に対応する領域であるということに限定されるからである。この要請がそこから生じる点が「自我」であるということは、それによって否定されるべきではない。しかし、我々はさしあたり、認識論のあの二つの段階[即ち所与と思考と]を混じり気無しに立てることに限定するのである。 参照画:the big blue moon1