Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年02月27日
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カテゴリ: 絶対存在論
ルドルフ・シュタイナー 初期哲学論文-11
真理と学問
Ⅳ:認識論の出発点
 認識論の研究を開始するにあたり、我々がこれまで見てきたもの全てに従えばそれ自身既に認識領域に置くのが当然であるものを斥けなければならない。認識とは、人間によって成し遂げられた何か、人間の活動を通して生み出された何かである。認識論が認識の領域全体にまで本当に解明を及ぼすべきならば、この活動によって全く手つかずのままである何か、この活動がむしろそれ自身最初に刺戟を受け取る何かを、認識論は出発点にしなければならない。認識論を始めることができるものは、認識の外部にあり、それ自身まだ認識ではありえない。そして、我々はそれを認識以前に直接探求しなければならない。その探求の結果は、人間が認識論を始めることができるものから踏み出す次の一歩は既に認識活動であるということになる。さて、この絶対的に最初のものを規定すべき方法は、認識に既に起因するものが何もその方法へと一緒に流れ込まないというような仕方でなければならない。そして、そのような始まりは、ただ直接的に与えられた世界像をもってのみ作られうる。即ち、人間が世界像を何らかの仕方で認識プロセスの下に置く以前に、つまり人間が世界像に関するほんの少しの言述でさえもする以前に、人間が世界像に関する思考上の規定を為す以前に、人間の前に置かれている、あの世界像のことである。そこで我々の側を通り過ぎるもの、及び我々がその側を通り過ぎるもの、この関連の無い、しかし個別のものに分割されていない。世界像、その中では何も互いに区別されておらず、何も互いに関連付けられておらず、何も他のものによって規定されて現れていない。それが直接的に与えられたものである。現存在、我々がこの表現を使用してもよければ、この段階では、どんな対象も出来事も、他の対象や他の出来事と比べて重要でも意義深くもない。認識によって既に明らかにされた後の現存在の段階にとってはひょっとしたら動物の発達と生存のためには何の重要性もないかもしれない動物の痕跡器官は、ちょうど、有機的組織の最も貴重で最も必要不可欠な部分と全く同様の、注意を向けるべきとの要求を具えてそこに存在する。一切の認識活動以前には、世界像の中で何も本質、偶有、原因或いは結果としては現れていない。物質と精神、身体と魂の対立は未だ作り出されていない。しかし我々は、どの他の述語も、この段階に固定した世界像から遠ざけておかなければならない。この段階の世界像は、現実とも仮象とも、主観的とも客観的とも、偶然的とも必然的とも把握され得ない。それが「物自体」か単なる表象かどうかは、この段階では決定できないのである。というのも、所与を前記のカテゴリーの下に包摂することへと誘う物理学と生理学の認識が認識論の先端に置かれてはならないことを、既に我々は見てきたからである。
【原註】
*25:全く区別されない与えられた世界像から個別のものを選り分けることは、既に思考活動の営みである。
 もし完全に発達した人間的な知性を具えた存在が、突然無から作られ世界に立ち向かうならば、その存在の感覚と思考に対して世界が与える最初の印象は、我々が直接的に与えられた世界像と呼んだ何かとなるだろう。もちろん、この直接的に与えられた世界像は、人間の一生のどの瞬間にもこのかたちで現実に人間にとって存在するわけではない。人間の発達において、直接的に与えられたものの方へ純粋に受動的に向かうことと、直接的に与えられたものを思考によって認識することとの間の境界は、どこにも存在しない。この事情は、認識論の始まりに関する我々の立論に対する懸念を呼び起こすかもしれない。たとえば Ed.v.ハルトマンは次のように言う。「我々は、意識を持ち始めたばかりの子ども或いは生物の最低次の段階にある動物の意識内容がどんなものであるかを問うべきではない。というのも、哲学する人は以上のことについて経験していないからであり、この生物発生的或いは個体発生的な原始の段階の意識内容を再現しようとするときに試みる推論は、繰り返し彼の個人的な経験に基づかなければならないからである。それ故、我々は、哲学する人によって哲学的反省の始まりのところで見出される意識内容が何であるかを最初に確かめるべきなのである」。しかし、以上のことに対しては、我々が哲学的反省の始まりに持っている世界像は、ただ認識によってのみ媒介される諸々の述語を既に纏っていると反論しなければならない。これらの述語は無批判に受け入れてはならない。そうではなく、認識プロセスを通じて付け加えられる一切のものから完全に純粋な世界像が現れるために、世界像から丁寧に剥き出されなければならないのである。所与と認識されたものの間の境界は、人間の発達のどんな瞬間とも一致することなど全くなく、人為的に引かれなければならない。そしてこのことは、我々が思考上の規定なしに認識以前に我々のほうに近づいてくるものと、認識を通じて初めてそこから作られるものとの間にただ切り込みだけを正しく入れるならば、どの発達段階でも生じうるのである。
【原注】
*26:Ed.v.ハルトマン『認識論の根本問題』p.1

【原注】
*27:私は概念という言葉を関連の無い知覚の要素が一つの統一体に結び付けられる規則であると理解している。たとえば因果性は、一つの概念である。理念はより大きな内容をもった概念でしかない。たとえば有機的組織は、全く抽象的に捉えれば、一つの理念である。ここで我々が先に進む前に、我々はまず可能的な反論を片付けたい。即ち、我々の思考プロセスにおいて無意識に「自我」の表象、「個人的主観」の表象が、或る役割を演じているかのようにみえるかもしれないし、我々が我々の思考の発展の進歩において、それに対する正当性を説明しておくことなしにこの表象を利用しているかのようにみえるかもしれないということをである。それは、たとえば我々が「我が概念を生み出している」或いは「我々があれこれの要請をしている」という場合である。しかし、我々の説明には、このような命題に文体上の表現法以上のものを見るきっかけを与えるものは何もない。認識行為は「自我」に属し、そして「自我」という前提から出発するということ、それは、我々が既に述べたように、単なる認識による考量に基づいてしか確認されえないのである。そもそも我々は、認識行為の担い手に触れることすらせずに、認識行為についてのみ、暫定的に語らねばならないだろう。というのも、ここまでで確定していることの全ては、或る「所与」が存在しており、この「所与」の点から前記に挙げた要請が生じ、最後に、概念と理念はこの要請に対応する領域であるということに限定されるからである。この要請がそこから生じる点が「自我」であるということは、それによって否定されるべきではない。しかし、我々はさしあたり、認識論のあの二つの段階[即ち所与と思考と]を混じり気無しに立てることに限定するのである。
参照画:the big blue moon1




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最終更新日  2024年02月28日 06時50分07秒
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