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オバマのプロジェクト・チームが続々と形作られているが、今日は環境・エネルギーの分野を見てみよう。エネルギー・気候変動問題監督官(Czar)に任命されたキャロル・ブラウナー(Carol Browner、52歳)、エネルギー省長官のスティーブン・チュー(Steven Chu、60歳)、環境保護庁長官のリサ・ジャクソン(Lisa Jackson、46歳)、ホワイトハウス環境評議会(Council on Environmental Quality)議長のナンシー・サルトリー(Nancy Sultley、46歳)、更にホワイトハウス科学技術政策室の室長にジョン・ホルドレン(John Holdren、56歳)、この5人辺りが中核になるのだろうが、この中からキャロル・ブラウナーと組織的にはその下に属する(?)スティーブン・チューそしてホワイトハウスでオバマにアドバイスするジョン・ホルドレン、この三人に焦点を当ててみよう。チューもホルドレンも超一流の学者だ。チューは中国系アメリカ人二世で、1997年にノーベル物理学賞を受賞し、今回の任命の時点ではローレンス・バークレー国立研究所所長だった(2004年-2009年)。専門は原子物理学と分光学だが、環境に優しい代替エネルギーの開発を唱導してきた科学者の一人でもある。いくつかのチューのインタビューを読むと、地球温暖化が深刻な問題でありそれが人類の化石燃料の使用と密接に関連していると、確信している事がわかる。これがエネルギー政策に反映されることは間違いないだろう。ジョン・ホルドレンも物理畑の出身で、任命の時にはハーバード大学ベルファー・センターの科学・技術・政策プログラムの責任者だった。彼も地球温暖化に警鐘を鳴らす一人で、「地球温暖化」という言葉は誤解を生む、気候の変化はもっと総合的なもので単に温度の問題ではない、と言う。ニューヨーク・タイムズ(2009年12月19日)の記事によると、ホルドレンは1970年代後半のエネルギー危機の時に、将来の資源価格は一般的に高くなっていると予想し、それに反対の予想を立てた学者と賭けをしたそうだ。賭けは、クローム、銅、ニッケル、錫、タングステンの10年後の価格に関するものだったが、ホルドレンの予想は外れた。賭けに負けることは(誤謬を犯すことは)誰にでもあるが、問題はその誤謬から何も学ばない時だ、とこの記事は言う。ホルドレンは、気候変化に歯止めをかけるには温室効果ガスを減らさなければならない、と端的に信じているようだが、異なった見解にも耳を傾けるべきだ、というのがこの記事の主張だ。さて、エネルギー・気候変動問題監督官に任命されたキャロル・ブラウナーであるが、法律の学位をもち、フロリダの下院や議員の補佐役を務めた後、クリントン時代に環境庁長官を8年間務めた。80年代後半には環境団体の役員もしている、熱心な環境保護主義者であるようだ。ブッシュ政権を「環境にとっては最悪の政権だ」と評し、地球温暖化は人類にとって歴史上もっとも困難な問題だ、と主張する。この三人を見る限り、オバマのエネルギー・環境政策は地球温暖化対策という理念の下に進められるだろう。代替エネルギー開発に相当の資金がつぎ込まれるのではないだろうか。メンバーの中に現実的な経済学者が含まれていないことで、このチームは理想に向かって直走りしそうな懸念がある。ホルドレンは政策科学系の学部で働いているので、経済的な視点も持ち合わせているはずだが、上の記事が示唆するように理念に囚われて客観的な視点を失っているようにも見える。ブラウナーも経歴を見る限りは現実性に欠けるかもしれない。チューの科学者としての客観性に期待したい。参考リンクhttp://news.yahoo.com/s/ap/20090128/ap_on_go_pr_wh/obama_team_of_czarshttp://www.washingtontimes.com/news/2009/jan/12/obama-climate-czar-has-socialist-ties/http://merumaga.yahoo.co.jp/Backnumber/21518/269596/http://tierneylab.blogs.nytimes.com/2008/12/19/flawed-science-advice-for-obama/
2009.01.30
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1月27日、イスラム世界への呼びかけ先週のことになるが、ヒラリー・クリントンが上院の承認を受けて国務長官に就任、彼女は早速中東特使にジョージ・ミッチェルを任命した。もと上院議員で75歳という高齢だが、北アイルランド和平合意に尽力したことでも知られ、平和的な手段のみを用いることを原則にした姿勢は、中東和平にも期待できる。ミッチェル特使のエジプト到着に時期を合わせるように、26日夜オバマがドゥバイの衛星テレビ局アルアラビーヤのインタビューに応じた。オバマの発言の中のキーワードは、「今すぐに取り掛からなければならない」、「我々はイスラム世界に手を差し出す」、「イスラム世界への敬意」などだ。就任演説にもあったように、オバマは対決の外交から相互利害と相互尊重に基づいた協調へと方向転換を約束している。「ミッチェル特使には、まず耳を傾けるように指示した、アメリカは時に指図したり命令したりしてきたが、これではいけない。・・・イスラエルと共存する形でパレスチナ国家を樹立することは、可能だと思う」もちろん、オバマはイスラエルとの関係を軽んじるわけではなく、イスラエルの安全保障は重大なものと考える。しかし、イスラエルの中にも平和が大切なことを知っている人達がいて、時期が来ればある程度の犠牲を払ってでも平和を築かなければならないこともわかっている、とオバマは信じる。就任演説でもはっきりと示したことだが、オバマはイスラム世界の過激分子を対話の相手とは考えていない。過激分子の人たちのことに触れて、「紛争を起こすことだけを目的とし、自分達の社会の病弊が西欧社会によって押し付けられたものと考える」人たちだと決め付けた。と同時に、例えばイランに対して、彼らがその握り締めたこぶしを開いてくれれば、我々は喜んで手を差し出すだろう、とも付け加えた。人間関係は、何を語るかよりもどう語りかけるかで大きく変わるものだ。その点、オバマの姿勢は平和を呼び寄せる可能性があることは確かだ。ただもっと確かなことがある、それは中東の歴史が信じられないほど泥沼である、ということだ。
2009.01.28
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1月23日、メキシコシティ・ポリシーを撤廃メキシコシティ・ポリシーと呼ばれる堕胎に関する政策があって(最初に発表されたのがメキシコシティで開催された国際連合の人口に関する国際会議だったのでこう呼ばれている)、連邦政府から補助金を貰うNGO(非政府)国際団体が堕胎をしたり堕胎を奨励するような活動をしてはいけないというルールで、レーガン大統領が1984年に大統領の権限で制定した。クリントン大統領が1993年1月22日にこれを撤廃、ブッシュ(ジュニア)大統領が2001年1月22日に復活させる、という具合で共和・民主の大統領が就任するたびにこのルールをオンにしたりオフにしたり、滑稽で象徴的なことだ。1月26日、自動車排ガス規制強化ブッシュ前大統領はもちろんキリスト教右派と富裕層とビッグ・ビジネスの利害を代弁する大統領だったわけで、それは堕胎を抑制するための数々の政策(例えば上記のメキシコシティ・ポリシー)、富裕層のための減税、そしてビッグビジネスが儲けやすくする政策に力を傾けてきた。例えば、地球温暖化の悪影響が騒がれている中、自動車の排ガス規制を強化しようとする動きにはストップをかけてきたし、言うまでもなく京都議定書には反対してきた。カリフォルニアを筆頭にいくつかの州は、連邦政府の排ガス規制を上回る規制をしようと、連邦政府の許可を申請したが、ブッシュの指示のもと環境庁はこれを却下した(2007年)。ある種の規制は州が独自で決定することが出来ないので、連邦政府の許可が必要なのだ。ブッシュのとった行動は明らかにビッグ3を保護するための政策であった。26日、シュワツネガー・カリフォルニア知事の要求に応えて、オバマは環境庁に申請の再考を命令した。オバマ曰く、「長い間、決定的な行動をとる代わりに日延ばしにしてきた。凝り固まったイデオロギーに目が曇り、健全な科学をないがしろにしてきた。利害団体に影響されて常識を忘れていた。詭弁を弄して結果を出すことをしなかった・・・連邦政府は州と力をあわせて排ガスを削減しなければならない」最初からカリフォルニアのいうとおりにやっておけばよかったのさ。
2009.01.27
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So far, so good という感じで始まった、アメリカの44代大統領、バラク・オバマの第一週、世界とアメリカ国民の高すぎる期待にどう応えるのか注目されるところだが、就任演説の調子は「高らか」とか「華やか」という感じではなく、幾分沈痛なもので、アメリカの抱える問題の大きさをオバマが国民へと投げかけたものだった。就任演説では、社交辞令としての前大統領への謝辞も早々に、大統領の就任式がときに国家の危機と重なることがあり、立ちこめる暗雲と吹き荒れる暴風雨を乗り切るためには、単に指導者達に頼るのではなく我々国民がアメリカ建国の理念に忠実でなければならない、といきなり国民の責任を喚起した。畳み込むように、我々が危機の真っ只中にいることは今や明らかで、その危機とは二つあり、際限のない暴力と憎悪のネットワークに対する戦争(イスラム原理主義のテロリズムとの闘いを指しているのは言うまでもない)と極度に悪化したこの国の経済であり、この経済の悪化は、一部の人達の強欲と無責任が原因なのは言うまでもないが、我々自身のいい加減な選択と無責任さにも起因していることを認めなければならないし、更に、これら実体的な危機の底を流れる国民心理の危機も如実で、それは自信の喪失、アメリカが没落していくのではないかという怖れ、となって表われていると的確に指摘した。それではどうやってこの難関に立ち向かうか、オバマが提唱するのは、怖れではなく希望、対立や不和ではなく目的を一にすること、長い間我々の政治を閉塞させてきた些細な不満やいい加減な約束そして擦り切れたドグマを捨て去ること、とまずは理念的な処方箋。そしてオバマは国民に要求する、アメリカの偉大さは黙っていれば空から降って来るものではなく、自分で勝ち取らなければならない、その道に近道はなく、働くことより遊びを好む人達、富という快楽に浸る人達、意気地のない人達、こういう人達には向いていない、偉大さへの道を進めるのは、リスクを厭わず行動できる人達、自分の手で物を作り出す人達、それはアメリカの繁栄と自由を築いて来たごく平凡な人達だ。今日この日を初日として我々はアメリカの再生に向けて立ち上がらなければならない。陳腐な政治論議に囚われているときではない、政府は大きくあるべきか小さくあるべきか?そんな論議より大事なのは、職を創出して家庭を援助することが出来るか、家計が支払うことの出来る医療サービスを確保できるか、自立した老後を迎えることが出来るか、こういった質問にイエスなプログラムを推し進め、ノーというプログラムはどんどんカットしていく、そういう政府を作ることだ。更に政府の税金を運営する役人は効率的に資金を使い、悪習を捨て、仕事振りを白日の下に曝さなくてはいけない。そうして初めて、国民と政府との間の信頼関係を回復することが出来る。市場経済は善か悪か?そんな論議より大事なのは、富を創出し自由を拡大することが出来るかということで、適切な監視なしには市場が暴れだすことは今回の危機がはっきり教えてくれた。もう一つ大事なことは、富裕層だけを優遇していては繁栄は続かないし成長もしないということだ、繁栄の波を出来るだけ多くの人に広げることがより高い繁栄への近道なのだ。演説のあちこちにブッシュへの批判が見え隠れしている。キリスト教原理主義者たちを後ろ盾にしたブッシュの怖れを煽っての対立姿勢、擦り切れたドグマにもとづいた経済社会政策、野放しにされた市場経済の悪弊、富裕層におもねる政策、などなど、アメリカの良識の大部分がもううんざりだよと嘆いてきたブッシュへの訣別が語られている。このあとオバマの就任演説の焦点は世界との関係に向けられた。
2009.01.23
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十二支と十干の組み合わせが一回りするのが六十年、だから還暦は六十歳、僕も今年はようやくそこに至るわけだが、約半世紀のリスナー生活で和物洋物いろいろなポピュラー音楽を聴いてきた。で最近ふと感じたのは、森山直太郎の「さくら」が流行った頃からやけに「桜」の入った曲名が多いことだ。これは単なる言葉の流行なんだろうか、それとも桜に代表される日本の伝統の美しさを強調することが若者たちの間ではカッコイイことになり始めたんだろうか?後者だとすれば、それはイデオロギー的な転換なんだろう。僕たちの青春のときにはGHQなどの指導する教育方針のせいもあり、日本的なことは否定するような傾向があったけど、その反動で今度は日本的なことを過度に肯定しようとしてるんだろうか。とにかく僕には、若者たちが桜ないしはさくらになぜそれほどまでにこだわるのかよくわからないのだが、まあとりあえず、その桜現象の曲を集めてみた。福山雅治に「桜坂」という曲があり、2000年に発売され売上が200万枚を超え、東京都大田区にある桜坂が人気のデートスポットになったという話もあるが、「揺れる木漏れ日、薫る桜坂、悲しみに似た、薄紅色・・・愛と知っていたのに、春はやってくるのに、夢は今も夢のままで」という内容で、桜という言葉あるいはイメージの中から特に何かを抽出しているわけではなく、しいて言えば春と重なるイメージ、淡い思いのイメージが漂うくらいである。桜現象をリードする曲ではないだろう。コブクロの「桜」はどうだろうか。「ここにしか咲かない花」でメジャー・ブレークをした後の2005年にリリースされたのだが、実は1998年にコブクロが出来ちゃった結成をした時の作品で、時間的には森山直太郎や福山雅治を先行している。コブクロの「桜」で、「桜の花びら散るたびに・・・そしてまた大人になった」というサビで歌われているのは、時間の経過で成熟してゆく若者のことで、これまた桜のイメージはそれほど強くない。曲全体のテーマからすると「桜」という曲名にする必要はなかったように思う。「君の中に咲くLove」という部分でsakuraという音にかけているから使いたかったのかもしれない。河口恭吾の「桜」(2003年)、この曲はカラオケでは歌いたい曲なのだけれど、内容的には詞曲とも貧弱な作品で、「桜舞う季節数えキミと歩いていこう」というだけのお粗末な話、桜で時間の経過を表したのはコブクロと同じかもしれないけど、彼らの場合はちゃんと別のメッセージがある、河口君の場合、僕がそばにいてキミを笑わせるから、ただそれだけ。おまけに、以前の日記でも触れたがメロディに盗作の匂いが漂うのはいただけない。桜現象の最前線と考えられるのはやはり森山直太郎の「さくら」で、インディーズ時代の2001年に出た「乾いた唄は魚の餌にちょうどいい」というアルバムに収録されていたようだが、メジャー・レーベルからシングルとして出されたのが2003年5月、このあたりからJポップス桜現象が波に乗り始めた。「僕らはきっと待ってる、キミとまた逢える日々を、さくら並木の道の上で手を振り叫ぶよ」とはじまり、「さくら、さくら、今咲き誇る」と日本人ならなじみ深い古謡で文部省唱歌の旋律「さくら、さくら」を想起させるように三度上げて微妙に変更したさくらフレーズは見事に人の心を捉え、「刹那に散りゆくさだめと知って」と美文調で心に揺さぶりをかけ、「さらば友よ旅立ちの時、変わらないその思いを今」で明らかになる友人との別れで感傷の堤防を突き崩す、これが卒業式の情感と重なり合ったのだろう、高校生や中学生の合唱曲としてあちこちで使われ始めた。いずれにしても、メロディ・心象風景ともに、この曲が桜現象の起爆剤になったことは間違いないように思う。日本古謡の「さくら、さくら」フレーズと言えば、これより先1994年に坂本冬美の「夜桜お七」で三木たかしが巧みに取り入れていた(三木は二度目の「さくら」の音階をこれまた微妙に変えている)。この曲は演歌の部類に入り、Jポップスのリスナー層がどれだけ聴いたかわからないが、桜現象を意識下で準備したかもしれない。ところで三木たかしには、なかにし礼作詞で「さくらの唄」(注)という曲もある。美空ひばりが歌ったのが1976年のことだそうで、三木たかし(そしてなかにし礼)はずいぶん昔から活躍しているんだ。この曲、なんだかひどく絶望的な歌詞で、「何もかも僕は失くしたの、生きてることがつらくてならぬ・・・愛したキミも今頃は僕のことを忘れて幸せだろう、おやすみをいわず眠ろうか、やさしく匂うさくらの下で」という、明らかに自殺を前にした傷心の男の歌だ。桜というと美しさとともに潔さ、そしてそれに通じる儚さのイメージがある、あるいは儚さのせいで余計に美しいのだ、という日本的な感覚がある。桜の下の死、というイメージはいつごろから日本人の意識に忍び込んだのだろう。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ」と書いた梶井基次郎は、真っ盛りの桜の神秘的な美しさが信じられず、不安を覚え憂鬱になり空虚を感じる。なぜ、梶井は満開の桜の美に素直に酔うことができないのか。あるブロッガーによると「あの美しすぎる華やかさは、自分の醜さを感じざるを得ません。そのために、その劣等感から逃れるためには、その美しさの裏には、こうした不快があるのだと敢えて自分の中に言い聞かせようとするのです」と推察している。僕には、梶井が自分の醜さに劣等感を抱いているとは思えない。梶井にとっては、美「それだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。」彼には「惨劇が必要なのだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る」のだ。渓の水しぶきの中からアフロディテのように生まれて美しく結ばれる薄羽かげろう達、その陰には産卵を終わった何万匹という薄羽かげろうの屍体が重なり合ってちぢれた翅が油のような光彩を放っている。美は美自体で美となるのではなく不可欠不可分の反物質のような影があり、一般にそれは醜と捉えられているが、美醜合わさったものこそが現実なのだ、と梶井は主張しているのではないだろうか。「ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。」梶井基次郎の「桜」は、儚さでもなく潔さでもなく時間の移ろいでもない、満開の桜の美という現象の向こう側に屍体を想像することで現実感覚を獲得しようとする、世界に対する一つの姿勢だ。(脱線してしまったこの項、もしかして続く)(注)1991年ごろにヤングマガジンという雑誌に連載された安達哲「さくらの唄」という青春漫画があるそうで、後半はめちゃくちゃにすることだけを考えて描いたとかで、単行本化されたときに近親soukanや叔父殺しのための爆弾制作などがちりばめられた第3巻だけが成人指定になっている、この頃に青春を送った人たちには際どく心に残っている作品のようだ。(ああ驚いた、近親soukanを漢字で書いたら、公序良俗に反すると判断された表現が含まれています、というメッセージが出て公開することができなかった。楽天もここまで表現の自由を規制し始めたか。これは問題だな。レヴィ・ストロースの著作とか文化人類学の論評なんかできないな、ここでは。)
2009.01.03
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