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俺は、今日も酔いどれではない今日は酔いどれだ今日も酔いどれはおまえだなへへ俺はさあ、お客なんだぞ バーローめ俺が200円お金を出しているからお前が歌ってんだぞなあ、そうだろうそれなのによう歌に夢中になりやがって俺の話をちっとも聞かない俺の話を聞けよと文句言ったらピースだとよなにがピースだよ世の中が平和だというのかバーロー ちっとも平和じゃねえよまあ、酔っ払っているから今の俺は平和だなしかしな、昼はな戦争なんだぞ戦争して いつも 俺は負けているんだぞすごいだろうへへピースは俺への皮肉か最近は皮肉の皮は食べているが 肉は食べていないんだぞ分かるか分からないだろう俺もわからない分かっているのは ここが仲ノ町だということだ分かっているのは 俺は少し酔っていることだ少しだぞなに 文句があるのか バーローめへへまあ、いいか仲ノ町だからな
2011/01/31
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風に吹かれて 流されてついたところがコザの街十字路 がじゅまる飛行場旅の空にヘリコプター夢を見ました故郷の幼い俺とスーちゃんが神社の庭で隠れんぼ柿の木の下まあだだよ人が行きます人が来る諸味のバス停 人眺めタバコくゆらし仲ノ町おいらはおいらで生きていく夢のまにまに旅をして旅のまにまに歌うたい歌のまにまに空を見てかわいいスーちゃんを思い出す
2011/01/30
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幸せというものが分からない幸せってどんなものだろう太った幸せ痩せた幸せ若い幸せ年寄りの幸せウブな幸せううん、分からないやかましい幸せだんまりな幸せせっかちな幸せのんびりな幸せしあわせし合せし合わせ仕合せ仕合わせ幸シアワセ理知的な幸せ愚鈍な幸せ神経質な幸せ鈍感な幸せ金持ちの幸せ貧乏人の幸せ賑やかな幸せ孤独な幸せ幸せを考えていることは幸せなのか不幸なのかううんううん分からない
2011/01/29
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「戦を刻む南洋の島」の掲載は昨日から始まり、今日は2回目である。昨日の見出しは、「県人犠牲の実態不明 沖縄と二重写しの悲劇」であった。今日の見出しは「見えない民間人の悲劇」である。フィリピンを旅行していたある若者のブログに、彼がフィリピンの田舎の旅をした時、村の酒座に参加したことがあったが、長老が「戦前、お前たち日本人がフィリピンでどのような残忍なことをしたか知っているな」と問い詰められたそうだ。予想もしていなかった詰問に彼は驚いたが、彼は日本軍による残虐行為を素直に謝ったそうだ。すると長老はにこりと笑い、「反省しているのなら歓迎だ」と言って、仲良く酒を飲んだということを掲載してあった。フィリピンにはまだ日本による植民地支配の傷跡が残っているということを気づかされたとブログは結んでいた。沖縄の人たちの移民で、ブラジルに移民したケースと南方に移民したケースは内容が違う。ブラジル移民は相手国の許可を得、一民間人として移民生活をしている。だからゼロからの出発であり苦労の連続であった。しかし、南方への移民は日本軍による原住民を武力制圧した地域への移民であり、帝国主義日本国家の植民地政策の一環であった。ブラジル移民者が土地を得るためには多くの苦労があったが、南方への移民者が土地を得るのは日本軍が植民地にした土地をあてがうので苦労はなかった。作物もさとうきびを国が指定し、製糖工場も建てられたので、懸命に畑仕事をすればよかった。南方には日本軍が武力で原住民を支配し、国策として砂糖を生産するために多くの沖縄県民を移住させたのだ。南方の原住民を差別し、抵抗するものは有無を言わさず処刑したのが南方の歴史である。沖縄の平和主義者は沖縄が日本やアメリカに差別されていると怒る。そして、本土の人たちが沖縄の差別を知ってくれないことを嘆く。琉球新報に掲載している「戦を刻む南洋の島 2」の題名は「見えない民間人の悲劇」である。沖縄平和ネットワーク代表世話人である村上氏にとって、沖縄県民が移住した南方でその土地の原住民が差別され虐げられたことは全然関心がないようだ。彼にとって「民間人」とは沖縄県民だけであり、原住民は民間人ではない。つまり、原住民は沖縄県民とは異種のものであり、人間として存在するものではないのだ。村上氏はサイパンが戦場となり、多くの沖縄県民が戦争に巻き込まれて死んだことの悲劇を問題にしているが、サイパンを日本の植民地にしなければサイパンが戦場になることはなかった。日本の植民地政策で他人の土地に銃剣で押し入り、原住民を蹴散らして、日本人が我が物顔で住んだ。移民した私たち沖縄の人間も南方を植民地支配した日本の一員であり、南方の原住民を差別しひどいことをしたのだ。差別問題を真剣に考えるなら、沖縄の被害者側からだけの差別を問題にするだけではなく、沖縄の加害者側としての差別も考えるべきだ。
2011/01/29
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計画を立てても、厳しい現実は計画通りにはならない。無難に生きようとした面と自由に生きようとした面がねじりあって線路のようなまっすぐな人生ではなく、山道のようなごちゃごちゃした人生を歩いている。がむしゃらに働いたこともあれば、遊びあるいたこともある。私の人生はごちゃごちゃだな。ごちゃごちゃを楽しむのが私の人生だな。
2011/01/28
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三等星は消え、二等星は消え、一等星は消え、 夜の仲間たちはみんないなくなった。それでも独り堂々と輝いている明けの月孤独なのになんて美しいんだ。孤独なのになんて凛々しいんだ。私から遠い遠い月よ。
2011/01/27
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沖縄の島ぐるみ運動といえば祖国復帰運動である。「祖国に復帰すれば、核も基地もない豊かな生活ができる」というのが祖国復帰運動のうたい文句であり、祖国復帰運動は同時にアメリカ軍事基地撤去運動であった。軍用地料の値上げを主張するということはアメリカ軍基地を認めるということであり祖国復帰運動とは相容れない。軍用地料の値上げに動いたのは基地容認派の自民党系の組織であり、祖国復帰運動を主張する革新系の組織とは対立関係にあった。このことから考えると、島洋子さんの説明では軍用地の値上げを主張する島ぐるみ運動と、祖国復帰運動との沖縄には二種類の島ぐるみ運動があったことになる。しかし、軍用地主たちが大規模な集会を持ち島ぐるみ運動をしていた記憶は私にはない。軍用地主は働きもしないのにお金が入ってくる。だから軍用地をもっていない人間から羨ましがられたりねたまれたりしていた。祖国復帰運動をしている側からは、アメリカ軍に土地を貸すということは戦争に加担していると見られていたし、軍用地主が軍用地料の値上げ運動をしたら、戦争を認めたよくばり人間として非難されていたはずである。だから軍用地主が表だって運動できるはずがなかったし、運動はしなかった。軍用地の値上げは、現在と同じように土地連の代表者が政府と政治交渉をしたのであって、島洋子さんのいうような島ぐるみ闘争はやっていない。アメリカ軍による土地接収への反対運動、米兵による殺人、婦女暴行、交通事故などへの抗議運動や犯罪を犯した米兵がアメリカ軍事裁判で無罪なったことへの抗議運動が島ぐるみ闘争として展開されたのであり、祖国復帰運動とドッキングさせることによって大規模な運動と発展していった。そのような祖国復帰・反基地運動に対して、「米軍は商業に打撃となるオフ・リミッツをちらつかせ闘争の沈静化を図った」のであり、軍用地料値上げ運動に対して、オフ・リミッツをちらつかせたなんてあり得ないことだ。笑ってしまう。戦後のたった60年余の歴史であるのにこんなに事実とずれてしまうとは信じられない。普天間基地の辺野古移設に地元である辺野古は賛成している。辺野古はヘリコプター基地関連の仕事や収入が生じて過疎化にストップができるからだ。しかし、辺野古に基地ができてもなんの収入もない他の地域は辺野古への普天間基地移設に反対している。基地から恩恵を受ける地域は基地に賛成で、基地からなんの恩恵も受けない地域は基地に反対するというのが沖縄の基地に関する基本構図である。沖縄の島ぐるみ運動は、祖国復帰、アメリカ軍事基地撤去のスローガンでもりあがったのであり、共産党、社会大衆、公務員、教員、マスコミが主流になって展開されてきた。それは今も同じである。「中部から人材が輩出されないのは軍用地料がある故、ハングリー精神が失われた」というのは間違っている。中部は軍用地が密集しているために街として発達しにくい。それに比べて那覇は軍用地がすくないだけでなく、県庁、那覇港、那覇空港と経済が発展する条件が揃っている。環境の違いであって軍用地料は関係ない。そもそも多くの人間は軍用地料をもらっていないのであり、軍用地料をもらっている人間の割合は低いのだ。
2011/01/27
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またたき 瞬間美しい闇の中のまたたき闇とまたたき止まりながら究極の動きの刹那の輝き闇 光 しづく
2011/01/26
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戦前の沖縄経済の中心は農業だったことは沖縄は第一次産業の時代であり産業が発達していなかったことを示している。沖縄では軽工業さえなく、着物は各家庭で機織りを使って芭蕉布をつくっていた。農業人口が73%であることは農業が栄えていたということではない。第二次産業が発達していないということだ。産業が発達していな沖縄の人々は農業をするしかなかったし、貧しい生活を送っていたのだ。農業で生活するには広い土地が必要である。しかし、沖縄の土地は狭い。だから親の土地を引き継ぐのは長男に限られ、次男、三男は農業を引き継ぐことができなかった。だから、農業をやりたい次男、三男を中心に沖縄の人々はブラジルや南方に移民した。戦前は農業人口が73%であったことは沖縄の貧しさを現しているのであり、戦前の農業中心の沖縄経済では沖縄の人口の限界は50~60万人という統計もある。島洋子さんは戦前の農業人口が73%であり、小規模農業であったことを述べているが、このような農業が沖縄の人々の貧困の原因であることは無視している。それに、なぜアメリカ軍が「銃剣とブルドーザー」で強引に基地を建設したか、その理由を追及していない。朝鮮戦争・ウィキペディア犠牲 [編集] 板門店ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人が死傷した。毛沢東の息子の一人毛岸英も戦死した[29]。アメリカ国防総省によれば、アメリカ軍は戦死者3万3686人、戦闘以外での死者は2830人、戦闘中行方不明は8176人にのぼる。西側の推定によれば中国人民志願軍は10万から150万人(多くの推計では約40万人)、人民解放軍は21万4000から52万人(多くの推計では50万人の死者)をそれぞれ出している。また約24万5000から41万5000人にのぼる韓国側一般市民の犠牲が明らかにされ、戦争中の市民の犠牲は150万から300万(多くの推計では約200万)と見積もられている。朝鮮戦争では市民の犠牲者が150万人から300万人も出たのだ。沖縄戦で県民が10万人も犠牲を出した悲劇を体験したのなら朝鮮戦争がこんなに多くの犠牲者を出していることに目を背けることはできない。朝鮮戦争は社会主義と資本主義の対立から起こった戦争である。アメリカが社会主義の拡大を防ぐために日本、沖縄の軍事基地を強化したのは当然の流れである。「米軍政下にあった沖縄では海外移民続いた」というのはおかしい。ブラジル移民は戦前に盛んに行われたことである。ブラジル移民が盛んに行われた原因は沖縄の土地は狭くて農家が貧困だったからであり、米軍政下でなくてもブラジル移民は行われていただろう。「沖縄本島中南部の多くの優良農地が米軍に基地として強制接収され」たとする島洋子さんの見解には疑問だ。私は1970年代半ば頃から南部のほうに住んでいたが、島洋子さんのいうような風景は見受けられなかった。南部は広大な土地にさとうきび畑が広がり、米軍基地は見当たらなかった。南部の米軍基地のほとんどは自衛隊基地になっているが、自衛隊機地を見つけるのが難しいくらい基地の敷地は小さい。そのことから推理すると、南部の優良農地のほとんどは強制接収はされていないはずだ。この土地の強制接収の問題を扱うとき、必ずといっていいほど伊佐浜の強制接収のことが扱われるが、むしろ伊佐浜の強制接収は特殊なほうではなかっただろうか。読谷では、渡久地と楚辺はアジア最大の通信基地を建設するために部落ごと強制的に移された。移す場所は米軍が荒地をブルドーザーで整地した。社会主義圏と資本主義圏の対立によって朝鮮戦争が起こり数百万人の犠牲者が出たのだから、私は社会主義圏の拡大を防ぐために、渡久地と楚辺を移動させて通信基地を建設したことに反対はしない。
2011/01/26
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カニステルはもう少しで実全体が黄色になる。その時が収穫の頃だ。カニステルの形といい色といいうまそうではないか。うまそうではあるが・・・カニステルは木になるさつまいもというところか。カニステルはもう少しで収穫期に入る。
2011/01/25
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私の父は昔気質の農民だった。鍬と鎌だけで数千坪の畑にさとうきびを植え、山奥には田んぼもやっていた。豚とやぎを飼い、早朝から陽が沈むまで働き続けた。あんなに父は働いたのに私の家は貧乏だった。アメリカ軍基地や会社や商店などで仕事をしている親の家庭は普通の生活を送っていたのに、なぜ農民の親を持つ私の家は貧乏なのか。中学から高校生の頃には私悩み、農家の貧乏の原因はどこにあるのかを真剣に考えた。そして、父のような鍬と鎌だけの農業では駄目で、農家が普通の生活をするには機械を使った大規模農業をやるか、ビニールハウスを利用した値段の高いを野菜をつくる方法しかないと私は結論した。私の父のように鍬と鎌だけでの農業は現代社会には通用しない。さとうきび栽培でまともな生活をするには最低五、六千坪は必要であるだろう。いや、もっと必要かもしれない。現在の法律では遺産相続は兄弟が分配するから、一人の所有する農地は小さくなっていくようになっている。これでは農業を専業とするのはますます困難であり、農業が衰退していくのははっきりしている。私の父のような貧しい専業農家や会社勤めをしながら小遣い稼ぎとして農業をしている兼業農家が多い沖縄で、農家をお客にして儲けたのが農協だ。JA沖縄中央会長小那覇安優氏の意見は小規模農家をお客にして儲けるJA体質まるだしの意見である。小那覇氏のいう農家とは小規模農家のことであり、大規模農家や企業経営の農業は対象としていない。そして、特に注目してほしいのはJAは直接農業する気が全然ないことである。いわゆる農業のリスクを取らないのを前提にしてJAは経営しているのだ。農業を大規模化して経費を下げ、販売網を拡大して利益をあげるようにすれば、農家が受け取る交付金は減少させることができる。地域産業の維持は重要であるが、農業だけが産業ではないし小規模農業にこだわればむしろ地域の過疎化は進むだけである。観光業、民宿や加工業などの開発を進め、小規模でも採算の取れる野菜を開発しなければ地域の農業は消滅するしかない。「島で数人の農家だけに農地を集約すれば、人口再生力のある人口構成が失われ、地域社会が崩壊する。」と小那覇氏は主張するが数人の農家で採算が取れるのなら、数人の農家でやるのがいい。採算の取れない小規模農業をしているから畑を放棄して地域から出て行く人が増え、地域の過疎化が進んでいるのだ。小規模農業主義が地域を支えているというのは間違いであり、面積が小さい日本でありながら放棄地が増えているのが現状であり、その原因は小規模農業であるからだ。大規模農業であるなら、少なくても畑だけは放棄されなかっただろう。私も畑地を所有しているが放棄している。小那覇氏は輸出国が輸出を止めたら困ると主張するが、それは安い輸入野菜がなくなるということであり、輸入野菜がなくなれば国内で生産した高い野菜が売れるようになる。すると国内での野菜つくりが盛んになるから日本の農業は発達する。輸入野菜がストップするということは国民の食料がなくなるということではなく国内の農業が盛んになるということである。小那覇氏はなんの予告もなく突然輸入がストップするような印象を与えているが、そんなことはありえない。現在の情報化時代では国々の政情は分かるし、どの国が輸出をストップする可能性があるかどうかも前もって把握できる。だから前もって対応することができる。中国の野菜が農薬濃度が高い理由で突然中国からの野菜の輸入をストップしたのは数年前のことだ。その時、野菜は高騰はしたがパニックなるよう野菜不足はなかった。日本の農業問題は他国の野菜より日本の野菜が高いことである。もし、他国の野菜と同じ値段なら日本の農業もどんどん生産することができる。穀物市場で日本が"買い負けするということは穀物の値段が高くなるということであり、日本の農家にとって歓迎するべきことである。小那覇氏の主張する不安は的外れの不安である。小規模農業を前提とした小那覇氏の主張は、小規模農家が多ければ多いほど儲けるJA側の主張である。TPPとは関係なく、日本の小規模農業主義は農業の停滞を生み出し、畑の放棄地を増やしている。大規模農業と企業参加の農業に転換しないと、TPPとは関係なく日本の農業は高齢化が進み衰退していく。政府は農業の政策転換を早くするべきだ。JAには直接農業をさせるべきである。そうすればJAのほうが大規模農業の推進者の第一人者になるだろう。
2011/01/25
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ある日突然、中学生の娘が、「とうちゃん。芝生を植えようよ」と言った。庭は石だらけて、雑草と白い石だけの庭だった。思春期の娘は、きれいな庭を想像し、芝生を植えようとしたのだ。私は酒と仕事の日々で、庭には関心がなかったが、娘に懇願されるとやらざるをえなかった。芝居を買い、娘と二人で植えたが、その娘も今は家を出て、東京に住んでいる。全然さえない芝生であるのだが、私にとっては貴重な芝生であり、芝生を眺めていると、娘との日々が思い出される。東京は気温が下がったが、娘は大丈夫だろうか。風をひいてはいないだろうか。なあんてね。昨日も電話で話したし、娘は全然元気いっぱいだ。
2011/01/24
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中国政府は過剰なインフレに悩まされている。銀行の利子を上げたりしてインフレ対策をしているがうまくいっていない。ところが日本はデフレ危機が続きね、インフレにしようと日本銀行は0金利にして対処しているが効果がない。日本の国民所得は下がり、物価は落ちている。中国と日本はインフレとデフレという反対の経済状態で悩んでいる。政府や経済専門家は日本経済がデフレスパイラルに陥る危機をずっと以前から忠告している。しかし、デフレスバイルには陥らなかったし、不況は続いているが決定的な経済危機には陥っていない。私は日本のデフレや不況はアジアと日本の人件費の格差にあるのではないかと思う。中国の給料は日本の給料の約十分の一である。これでは中国の製品が安いのは当然であるし、アジアからの輸入品が安いのは当然だ。だから、日本のデフレはアジアと日本の極端な人件費の格差が原因しているのであり、日本のデフレを解決するにはアジアと日本の人件費が接近すること以外にはないかと思う。アジアの人件費はあがりつつあるし、日本の人件費は下がっている。日本の人件費が下がるというのは考えられないこどであるが、事実は下がっているのだ。これは政治の力も及ばない強力な経済法則がもたらしていると私は思っている。関税をなくしてしまうと、生産物はみな平等に扱われるようになり、経済の法則に任されることになる。最初はパニックになると思うが、将来はアジア全体で質の悪いものは安く、質のいいものは高いという共通性が出てくる。中国産だから安いとか、日本製だから高いという国家間の差別はなくなる。そして、人件費の差も縮まっていくだろう。TPPはアジアの国家間のボーダーを低くし、経済共同体を形成してアジア全体の人々が豊かになっていくのを可能にする。
2011/01/24
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なんともひ弱なじゃがいもである。まあ、私の育て方が悪い性なのであるが。じゃがいもが収穫できるか心配だ。じゃがいもよ、頑張れ、私に新鮮なじゃがいもを食わしてくれ。
2011/01/23
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山下氏は農業に従事している側からTPPに反対している。山下氏は20年前の「農業たたき」に反論して、20前に比べて、農家の総所得と生産者米価が半分になり、時給は200円以下になったがサラリーマンの税金は安くなったか、暮らしはよくなったかと述べているが、米は実質的に自由化していない。現在の状況は米の自由化を拒否し、減反政策をしてきた結果である。山下氏の主張する農業のシステムが現状をつくっているのであり、山下氏の反論は反論になっていない。山下氏は、日本の一次産業のGDP比と米国のGDP比が大して変わらないのに米国は第一次産業が他の産業を犠牲していないのだから、日本の農業が他の産業を犠牲にしているという理屈は虚構の論理であると述べているが、アメリカは第一次産業の自由化を推進しているの国であり、アメリカの農家はTPPを歓迎し、日本にTPPを促している。日本とアメリカのGDP比が大して差はないことを根拠にしてTPPを否定するというのは筋が通らない理屈だ。アメリカを例に出すならTPP推進に賛成するべきではないのか。TPPは日本の農業を大規模農業や企業農業に変革するということであり、山下氏の注視する???は関係ないことだ。大型店舗は商品が豊富であり、安くて市民生活に大きく貢献している。商店街がシャッター通りになり、仕事を失ったと、山下氏はまるで小売り業に従事する人間が減ったような印象を与えているが、大型店舗は売り場担当から、経理、営業、開発等々と多くの人間を雇用している。商店街は夫婦でやっている商店が多く、大型店舗のほうが雇用関係でもいい結果をうみだしている。大型店舗は分業化が進み、店員から営業、開発とそれぞれの専門家がお客が満足するように頑張っている。商店街よりサービスがいいから大型店舗の客は多いのだ。TPPとセットの農業の強化策は、山下氏のいう通り農産物の輸出と農業への企業参入である。しかし、それは日本の低所得者は中国の安い米を食えということではない。農業の大型化、農業への企業参入は日本の米生産が増加し、品質も向上することであり、日本の米がもっと安く買え、しかもおいしくなるということだ。農業を企業家すれば米の品質改良はもっと早くなる。山下氏は「この世から年寄りがいなくなるということはない」というが、まさに年寄りが農業をやり、若者の農業への参加がないことが大問題なのだ。年寄りの農業は生産力は落ち、小規模だから値段は高くなる。それが外国からの農産物輸入増加の原因のひとつでもある。大規模農場、企業参加があれば生産力は高まり、値段は安くなる。むしろ農産物の自給率は高まる。農業の専門的な知識もなく、大いなる情熱もないサラリーマンが定年退職をして親の畑を引き継ぐという山下流の農業こそが日本の農業を駄目にしている。親から子に継いでいく小規模農業ではなく、情熱があり、農業につい専門的な知識がある若者がどんどん農業をやるシステムをつくるべきだ。それには大規模農業、企業経営の農業を増やし、若者をサラリーマン並みの給料て雇用できるようにしなければならない。山下氏の主張は日本の農業を衰退させていく農業理論である。
2011/01/23
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ウコンは冬に茎や葉を枯らす。そして春になると芽を出す。それを繰り返しながら根は大きくなる。同時に新しい根を増やしていく。五年前に一本のウコンを植えたが、今はご覧の通りに増えた。私はウコンの根とアロエベラをミキサーにかけてから、お茶と一緒にして飲んでいる。
2011/01/22
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中国漁船の船長を逮捕して以後は中国漁船の侵入は激減している。中国には毅然とした態度で対応することが最良であることを示している。マスコミは尖閣問題で盛んに中国観光客の激減を報道し、中国と対立することは日本のマイナスであるように報じていたが、中国への日本の観光客も減るのであって中国も打撃を受けるのだ。実際に、日本からの中国観光は激減している。中国の場合は国民が日本への観光を自主的にやめたのではなく、中国政府が強引に日本への観光を禁止した。だから、政府が禁止を解くと再び中国からの観光客は増えた。中国のほとんどの国民は尖閣問題を知らないし、興味もなかったのだ。観光については結果的には中国のほうが打撃を受けている。アメリカは中国との貿易は歓迎しているし積極的である。中国の経済成長はアメリカと貿易をしたからだ。しかし、アメリカは中国と貿易を推進しているからといって中国批判を遠慮しないということはない。アメリカは中国の人権問題には厳しい発言をしているし、ノーベル平和賞を受賞した劉氏の釈放を要求している。台湾が中国との軍事バランスを保つために台湾に戦闘機の売却をしたこともある。それでも、中国とアメリカの経済関係が悪化したことはなかった。日本が尖閣問題で中国と対立すると経済に悪影響を及ぼすというのは間違った考えだ。日本は法治国家なのだから法に従って行動すればいい。漁船が日本の領海内で漁をすれば取締り、巡視船に衝突すれば逮捕して裁判をする。日本もアメリカと同じように毅然とした行動をすればいい。尖閣諸島の領海は日本の領海としてちゃんと守り、日本の漁船が安心して漁ができるように日本政府は努力しなければならない
2011/01/22
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今が真冬の候なのだが、チキナーは春真っ盛りのように、黄色の花を満開にしている。お前、頭がおかしくないのか。と言いたくもなる。ムーチービーサから旧正月までは冬の盛りと昔から言い伝えられているのだからせめて、旧正月までは咲いてほしくなかったな。まあ、咲く咲かないはチキナーの勝手ではあるけれど。
2011/01/21
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琉球新報で「ひずみの構造」の連載が始まった。第1部は「依存神話」という題名である。依存というのは沖縄経済が基地に依存しているという考えのことであり、それは神話であり事実ではないということを主張しているのが「依存神話」である。島洋子さんは、アメリカ基地として貸すよりは返還された方が土地の価値は高くなっているという事実を、那覇新都心や北谷町のハンビー飛行場跡を例に上げている。那覇市には県庁があり、港、空港と三拍子が揃っていて沖縄で一番経済が発展している場所であり、これからもどんどん発展していく場所である。その那覇市の最後に残っていた空き地が那覇新都心である。那覇新都心は国道58号線に面し、交通は便利であり、新聞にも書いてある通り、土地の3割は道路や公園に提供することによって理想的な街つくりができた。那覇新都心は軍用地よりも民間地にしたほうが価値があがるのは当然である。同様に、北谷町の美浜、ハンビー地区も国道58号線にあり、北谷町、嘉手納町、沖縄市、宜野湾市からの集客力が高い最高の商業地である。アメリカ軍用地より民間地にしたほうが価値が高くなったのは当然である。20以上前に那覇新都心やハンビー飛行場や美浜を開放したのは政府である。政府は20年以上も前に現在の状況を予想して軍用地を解放したのだ。このことから理解できるのは政府が沖縄の20年30年後の経済発展を予想し、計画を立てていることである。しかし、那覇新都心経済効果については注意しなければならない問題が二つある。第一の問題那覇新都心やハンビー飛行場や美浜の経済効果をそのまま鵜呑みにすることはできないことである。確かに軍用地料に比べて民間利用したほうが経済効果ははるかに高い。しかし、その効果は限定された地域で起こった経済効果であり、沖縄全体への経済効果の波及については疑わしい。例えば那覇新都心に高層マンションや住宅、アパートが建ち、多くの人々が住むようになった。しかし、彼らは県外からやってきたのではない。その多くは那覇市や周辺の市町村から移ってきている。喫茶店が建ち、病院が建ったとしても、喫茶店や病院に来る客は他の喫茶店や病院から移ったのであり、沖縄全体から見れば新しいお客が増えたわけではない。那覇市ではドーナツ化現象が起き、那覇都心の人口は減り、廃校になる小学校も出てきている。覇新都心の人口増加は県内の他の地域から同じ県内の那覇新都心に人口が移動しただけであり、那那覇新都心の経済発展は他の地域の経済沈下と関連しているのだ。厳しい見方をすれば、沖縄全体から見れば那那覇新都心の経済効果はプラスマイナス0である。北谷町のハンビーや美浜の商業地は嘉手納、沖縄市、宜野湾市からお客が来る。ということは三市町の商業地は客が減る。沖縄市の一番街やゴヤ一帯は客が減ったのでつぶれる店が増え、空き店舗が増えている。宜野湾市も同じことが起こっている。注意しておかなければならないのは、沖縄県全体の使うお金は決まっているということである。だから沖縄全体のスーパーが100店舗から200店舗になれば売り上げも2倍になるというものではない。第2の問題軍用地料は政府が支払う。それは県外から県内にお金が入ってくることになる。一方、商業は県内のお金がAからBへと県内でお金が移動するだけである。それだけではない、多くの商品は本土から入っていくからその代償としてお金が県外に出て行くことになる。軍用地料は県にお金が増えるから商品を買う力が増す。ところが那覇新都心やハンビー、美浜はお金が県外に出て行くから商品を買う力が落ちていく。もし、沖縄全体が那覇新都心やハンビー、美浜のようになったら沖縄からお金がなくなり沖縄は破産する。島洋子さんは、那覇新都心やハンビー、美浜を例にあげて、軍用地より民間に開放したほうが経済効果は高いと説明しているが、基地跡地を全て那覇新都心やハンビー、美浜のようにすればうまくいくと考えるのは間違いであり、まやかしの理論である。
2011/01/21
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シークワァーサーの木である。苗から育て、十年以上も経過して、大きな木となり、毎年たくさんの実をつけるようになった。ところが、数年前の夏に日照りが続き、カミキリムシが大量に発生した。カミキリムシはシークワァーサーの木の皮が好物だ。カミキリムシに枝の皮が食われ、シークワァーサーはいくつもの枝が枯れた。被害は枝だけだと思っていた。ところが、シークワァーサーの木は毒を盛られたように次々と枝が枯れ、幹が枯れ、根まで枯れてしまった。すると、すっかり枯れたシークワァーサーの根から新しい芽が出てきた。十年以上も根から新しい芽が出たことはなかったのに、親が枯れたら新しい子の芽が出た。生命力の不思議な現象。数年後には新しいシークワァーサーの木が花を咲かすだろう。白い花を。
2011/01/20
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「琉球処分」は明治政府の近代化推進である廃藩置県のことであり、明治政府が全国でいっせいに実施したことの沖縄版である。明治政府の沖縄の近代化に抵抗した王朝の姿を描いたのが大城立裕の小説・琉球処分である。小説・琉球処分に描かれているのは明治政府の役人と沖縄の支配者である琉球王朝の駆け引きであり、支配者同士の物語である。沖縄の農民や庶民からの視点は全然考えていない小説である。明治政府は大日本帝国憲法を制定して、法の下での平等を目指して身分制度を廃止し、武士の特権をなくし、廃藩置県を実行し、日本の近代化を進めた。武士の特権を奪われた武士たちは明治政府に反発し、佐賀の乱、秋月の乱、神風連の乱、思案橋事件などを起こした。反乱を起こしたのは無給になったことに反発した下級武士たちであり、意外にも殿様はあっさりと廃藩置県を受け入れている。その理由はほとんどの藩は莫大な借金を抱えていて経済が危機に瀕していたからだ。琉球王朝も他の藩と同じように莫大な借金を抱えていて、廃藩置県は琉球王朝の借金を明治政府が肩代わりするのが条件にもなっていた。廃藩置県を琉球処分と解釈して非難するということは日本の近代化に反対して武士階級の支配社会である琉球王朝を肯定することである。福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず。人の下に人をつくらず}の民主主義思想を否定し、琉球王を崇めて「天は武士の上に王をつくり、武士の下に農民をつくった」という思想を肯定することである。小説琉球処分はヤマトであまり読まれていないことに大城氏は不満のようだが、坂本竜馬たちが活躍した幕末思想を否定するような王朝支配肯定の小説琉球処分をヤマトの人間が好んで読むはずがない。沖縄の人たちのほとんどが琉球処分に反発したかといえばそうではない。琉球処分に反発したのは身分が高く財産のある武士階級であり、沖縄の全体から見れば少数派である。彼らは頑固党を結成したが、下級士族が中心となって、開化党を結成し琉球処分を積極的に支持し、 明治政府に協力した人たちも多くいたし、琉球王朝に苦しめられてきた宮古、八重山も琉球処分に賛成している。彼らのような存在が沖縄の近代化を急速に進化させたのだろう。大城氏は普天間問題を第二の琉球処分と呼ぶのにふさわしいと述べているが、とんでもない話だ。明治の琉球処分は王朝支配の身分制度社会から四民平等の近代国家へと沖縄の社会を根本から変革させていった。それに比べて、普天間問題は普天間基地を辺野古に移設するのを反対し、県外・国外に移設させる運動であり、運動は大きく広がっているが、沖縄の社会を変革するようなものではない。共通しているのは明治の反琉球処分運動も現在の反琉球処分運動も民主主義思想を根としていないことだ。普天間問題を訴える集会で、普天間第二小学校の近くをヘリコブターが飛んでいる映像を見せて集会に参加した人たちを驚かせているという。私ならもう一回驚かすことができる。「普天間第二小学校は、ベトナム戦争が激しかった1969年に、アメリカ軍が普天間基地の危険地域として設定して黙認耕作地にしてあった場所を宜野湾市はアメリカ軍に開放させて、その場所につくった小学校である」といえば、参加した人たちは再び驚くだろうな。
2011/01/20
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インゲンです。はじめて植えたのだが、実がなっているとは知らなかった。こんなに小さいのに大きな実をつけているのには驚いた。
2011/01/19
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JAは肥料、飼料、農機具販売と生産物の卸業だけでなく、金融や車販売などと手広く農家相手の商売をしている。JAは零細農家から利益を得るシステムをつくったために、農業が大型化したり会社化したりすればJAにとって死活問題になるから、JAは農業の大型化への転換を阻んでいるのだ。小泉首相時代に農業特区をつくり、農業の企業化を実験しようとしたがJA関係の議員の激しい抵抗にあって断念した。衰退し続けている日本の農業を救うには農業の大規模化や企業化に転換しなければ駄目だ。
2011/01/19
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ダンボールで苗床をつくり、大根の種を蒔いた。数センチ伸びたときに小さなポットに移し代える積もりでいたが、なまけものの私は移しかえするのをついつい延び延びさせてしまい、気づいたら、写真のように大根の苗は移しかえするには大きくなりすぎていた。しまったと思ったが、苗床で密集した状態をそのままにしておくわけにもいかないので、急いで庭の菜園に移した。するとごらんの通り、みんなへたってしまった。水をいっぱいまき、生き返ってくれと私は祈った。大根は枯れるのか。それとも生き返るのか。立ち上がってくれ大根!あしたのジョーのように。
2011/01/18
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TPPにらみ 全農が丸紅と戦略提携 丸紅は17日、全国農業協同組合連合会(全農)とコメの集荷や販売、輸出などで戦略提携すると発表した。丸紅の持つスーパーやコメ卸向けの販売網を活用することで、共同で付加価値の高い精米したコメの販売量を拡大する。 全農がコメの分野で民間企業と大規模に提携するのは初めて。農作物を含むすべての関税を原則撤廃する環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)参加の議論が高まる中で、貿易自由化に反対一辺倒だった全農も方針転換し、民間企業と手を組むことで活路を見いだす決断をしたとみられる。 今後は精米設備を含め保有施設の再編なども迫られそうだ。 丸紅はグループのダイエーなどスーパーやコメ卸などの流通網を活用し、全国に約30カ所の全農の精米設備の稼働率向上を支援する。また、消費者ニーズに合わせたコメの商品開発なども提案したい考え。 全農が集荷する300万トンのコメのうち、精米したコメ販売はわずか80万トンにとどまる。丸紅とあわせた精米したコメの販売量を現在の92万トンから3年後に150万トンに引き上げる計画だ。 さらに、丸紅は、中国最大の流通集団の百聯集団との合弁会社などを通じて輸出を拡大する計画で、同日会見した丸紅の食料分野を統括する岡田大介常務は「輸出は日本農業の閉塞感を打破できる大きな挑戦になる」と強調した。」産経新聞 1月17日(月)17時39分配信農家を巻き込んでTPPへの反対運動を展開しているのに、一方では丸紅と提携してTPP対策をはじめた。農家に肥料、飼料、器具を売り、農産物を中間搾取するシステムを守るためにはTPP反対運動もTPP対策もなりふり構わずやるわけだ。JA、全農は日本農業の発展は考えていない。今までに築き上げた自分たちが儲かるシステムを守りたいだけだ。個人商店から大規模スーパー、モール、コンビニ等に転換し経済が発展したように、小規模農業も大規模農業に転換しなければ日本の農業の発展はない。JA、全農はTPPを認め、小規模農家から中間搾取するのをやめ、直接大規模農業をやればいいのだ。今日の琉球新報にTPPに賛成する投稿があったので掲載する。
2011/01/18
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庭のノニの木は、冷たい北風が吹くと、いっせいに大きい葉を落とした。木の根に落ちた枯れ葉は、冬の雨に叩かれ、次第に朽ちていく。
2011/01/17
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阿久根市長選で竹原氏は落選した。竹原氏は落選の原因を「西平氏にではなく、市職員組合に負けた。今回の選挙は彼らの力が大きかった」。と語った。全国的に地方は市職員の政治力は強い。市職員と竹原氏と対立する市議会議員は自分たちの既得権益を守るために必死に選挙運動をしただろう。その結果西平氏が勝利したといえる。竹原氏の強引な専決処分のやり方は問題であるが、マスコミはなぜ竹原氏が強引に専決処分をしたのかということは余り報道してこなかった。先決処分の内容は市民生活にとってプラスなのかそれともマイナスなのか。公務員の給料は適正か否か、役所仕事は今のままでいいのか、議員の給料と定数は適正かどうかという最も重要な問題を竹原氏は提起したのであり、そのことをマスコミは軽視している。私も新聞等で読んだ時は竹原氏を単なる我がままで横暴な市長という印象しかなかった。しかし、竹原氏のインタビューを見たときに、彼が専決処分をする理由と内容をを知って彼の政治姿勢に興味を持った。議員の給料と定数問題、地方公務員の給料と定数問題はこれからの地方政治の大きな課題だ。沖縄県民の平均年収は全国最下位であるが公務員の給料は30番台であり、しかも、国家公務員の給料の99%もある自治体もある。沖縄は県税収入よりも人件費のほうが上回っている。自治体は人件費を減らして、その金を民間の経済活力化や社会福祉に回したほうがいい。 ◇「阿久根変えて」複雑な市民の声 鹿児島県阿久根市の出直し市長選に投票した有権者に投票先を尋ねた。「竹原市政」の是非を巡って市を二分した選挙戦。西平良将氏を「市の将来像を示した」と期待する声と、竹原信一氏を「市を変えられる」と評価する声とに割れ、複雑な民意が浮き彫りになった。 行政経験のない新人の西平氏だが「新しい人で再スタートを」と前向きな評価にもつながっていた。建設業の女性(60)は「竹原さんはやり方がむちゃくちゃ。改革は必要だが、あれは破壊」と語気を強めた。男性会社員(53)も「市職員の給与カットなどは良いことだが、自分勝手で子供のようだ」と語った。 一方、竹原氏へ投票した人に共通するのは「阿久根を変えてほしい」との思い。「昔の市長はなあなあだった」「市職員の対応が見違えるように(良く)なった」と以前の市政への不満があふれた。無職男性(65)は「暮らしにお金がかからないように減税するなど期待できる」と「実績」を評価した。 ただ、投票先を明かさずに足早に立ち去る人も少なくなかった。ある高齢女性は自転車にまたがりながら「話したいけど、今は面倒な時期だから」と苦笑した。【河津啓介】マスコミは竹原氏の「独善的やり方」と西原氏の「法律を守り、対話を尽くした手法で、地に足をつけた改革を断行する」を対決させて、西平氏が当選したことで「竹原流」に終止符などと報道していて、竹原氏の目的である、阿久根市の政治改革を西平氏もおなじように掲げていることを余り報道していない。西平氏は竹原氏を「独善的で市長の資質がない」と批判し市政の正常化を訴える一方、▽市職員給与を4年間で15%削減▽議員定数(16)の2~6削減--などの行政改革を公約に掲げている。竹原氏は専決処分で強引に改革をしようとした。一方西平氏は話し合いで政治改革をすると公約しているのであって、公約の内容では西平氏はどちらかというと竹原氏に近い。竹原氏と西平氏の政治公約に大差はない。果たして西平氏は話し合いで市職員給与を4年間で15%削減し、議員定数(16)の2~6削減ができるのか。西平氏も議会と市職員の激しい抵抗に会うのは確実である。竹原氏は市会議員で過半数を目指す闘いをはじめればいい。竹原派が市議会の過半数を勝ち取れば、竹原氏の政治改革はやりやすくなる。
2011/01/17
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オオタニワタリを石に植えてから7年くらいになる。石の上だから成長がとても遅い。オオタニワタリは、水を与えなくてもねばり強く生き抜くすごい生命力がある。コーヒーの木の下で、ひそやかにオオタニワタリは生きている。
2011/01/16
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TPPに賛成派の私は、TPP反対派の金城氏に反論する。金城氏はトウモロコシなどの資料穀物や肥料原料は無税で輸入されているから関税撤廃では安くならないと主張しているが、現状の小規模農業ではてはJAが肥料、飼料、種、苗の独占販売していて、JAに中間マージンを取られてしまうシステムになっている。大規模農場経営であれば直接外国から輸入できるので中間マージンがなくなる。それだけでも原価コストの低減ができる。それに経営者は原料を安くする努力を絶え間なくやるから、JAよりも原料を安く輸入するようになるだろう。そして、加工コストもJAよりは安くできるはずだ。金城氏は規制緩和により食品表示がいい加減になると述べているが、それは規制緩和の本質から外れたひどい拡大解釈だ。TPPの規制緩和で著作も規制緩和されてコピー商品が黙認されるだろうか。そんなことはあり得ない。食品の安全を求めるのは世界共通であり、これからも食品の安全は日本だけでなくアジアの人々も意識が高まっていく。日本の食品の安全性の信用はこれからも高まっていくのであり、日本ブランドの農産物の輸出はどんどん増えていく可能性が高い。金融、保険、郵政、医療などの規制緩和は進めるべきであり、閉鎖的な日本の企業を規制緩和をして解放すれば日本経済はもっと発展する。金城氏は、TPPは農業を犠牲にするというが、農業を犠牲にするのではない。TPPを導入すれば、JAが小規模農家を支配するようなシステムが通用しなくなるということである。小規模農家は破綻する可能性があるが、大規模農業経営や質の高い農産物を生産する農家は生き残り発展していく。TPPは現在の日本の小規模農業による農業従事者の高齢化やJA支配体制を変革して、世界に通用する農業を作り出す、日本の農業に変革をもたらすものである。
2011/01/16
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茄子は多年草で来年の春には芽が出てくるが、ネリは一年生草だから、これから枯れていき、茄子のように来年の春に芽をだすことはない。それがネリの運命だ。普通は根を掘り返して捨てるのだが、私はそのまま放置している。根を掘り返すのがおっくうだし、掘り返した跡に植える野菜もない。いや、新たに野菜を植える気がない。夏は一週間ずっとネリを食べることが何度もあった。ネリは大きくなると筋ができて硬くなり、食べられなくなる。なすびやキャベツなど他の野菜や果物は筋はできないから急いで収穫する必要はないが、ネリだけは特別で筋ができる前に食べないといけない。だから、ネリの盛りの時は毎日ネリを食べることになる。でも、ネリは毎日食べてもあきない。春になればネリの苗を植えよう。
2011/01/15
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菅直人首相の再改造内閣が発足した。まあ、色々言われているが、とにかくずっこけてくれないでほしい。安倍内閣、福田内閣、麻生内閣そして鳩山内閣と四内閣がずっこ続けた。特に民主党に政権が移って新しい政治が始まると国民が期待した鳩山内閣がずっこけたのは大きい。そして、菅内閣も発足した途端に尖閣問題でずっこけたのは大きい失態だ。野党であるなら与党の政治に批判するだけであり発言に責任は取らされないが、政権を握れば発言や行動に重い責任を取らされる。判断のミスや軽はずみな発言や行動が命取りになることを菅首相は肝に銘じてほしいものだ。とにかく、民主党政権が最低数年は運営しないと、二大政党時代にはならない。ここは菅再改造内閣にふんばってもらって長期政権を維持してほしい。政権を維持するには強い信念で自分の目指す政治を実現するのが重要であるが、政権は国民の支持がなくなれば破滅するから、優秀なスタッフを集め、より慎重に国民の支持を得るようにしてほしい。とにかく、二大政党を実現するためにも菅内閣はずっこけてほしくない。
2011/01/15
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背景があるとバナナの様子が分かりにくかったので背景を消した。庭のバナナは、気温が13度まで低くなり、冷雨が振った途端に葉が枯れ始めた。やはりバナナは熱帯植物だ。亜熱帯地方の沖縄では、熱帯植物と温帯植物が混在していて、季節ごとに違う反応を見せるからおもしろい。
2011/01/14
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橋本大阪府知事や河村たかし名古屋市長の人気は民主党政権への不信感の拡大とは関係がない。橋本大阪府知事は民主党政権が誕生する前から人気が高かったし、河村たかし名古屋市長は民主党の議員であったし、名古屋市長選に立候補したときは民主党が支持していた。だから、二人の人気は民主党政権への失望とは関係がない。中島氏は橋本知事と河村市長は中身がない独断的なリーダーであり、単純化されたテーゼを繰り返しているだけの政治家と決め付けているが、中島氏がそのように述べているのは、中島氏が二人の政治理念と活動について情報を全然集めていないからである。それに中島氏が現代の日本の政治について真剣に追求していないし、中島氏自身が民主主義思想家ではないからである。河村市長の主張する「減税論」は日本の政治を根本から変革しようという理念のもとに主張している。政治を市民レベルでやっていくことによって議員や公務員の給料を半減するという論理である。河村市長の理論を無視しているのは既成の政党であり、市議会議員だ。真剣な論争を避けているのは名古屋の市議会議員のほうだ。橋本知事が知事に就任してすぐにやったことは、大阪府の公務員との討論だったではないか。そこである女性公務員が過度な残業をさせられていると橋本知事を口撃されて橋本知事はたじたじになった。ところが後になって本人は残業をした経験ないし、彼女の話したことが嘘であることがばれて話題になったことがあったではないか。大阪は全国学力テストの成績が悪いので、成績を上げるために教員組織と対立しながらも教育改革を進めた。その他にも彼は多くの改革を実践している。橋本知事は大阪都構想だけをアッピールしていると思ったら大間違いだ。大阪の中小企業をグループ化し、大阪府がバックアップして中国に進出するのも実践している。中国に進出する企業は個別で工場をつくるのではなく、大阪の下町工場のように企業団地を中国でもつくる方法だ。そうすることによって中国との交渉も強気にやれるし、大阪府がバックアップするので中国側の信頼度も高くなる。中国は官僚社会であり、企業が個別に進出するのは困難である。しかし、大阪府がバックアップすると進出がしやすい。尖閣諸島での問題で中国がどんどん日本攻撃をした時、オリンピックへの招待を中国がキャンセルした時に堂々と中国を断罪したのは橋本知事だけだった。中国はあわててキャンセルを取り消して橋本知事を招待した。中国にも堂々ともの申すのは信念と実行力があるからである。橋本大阪府知事は「巨大な抵抗勢力・既得権益と闘っている」のは単なる構図ではなく、本当に闘っているのだ。「一気に変えてくれるカリスマ的リーダー」に国民が期待するのは当然だ。しかし、政治は結果的には実績がものを言う。国民は「一気に変えてくれるカリスマ的リーダー」として民主党に期待した。そして、中島氏のいう「断言型リーダー」の筆頭である鳩山氏が首相になった。彼は「断言」を繰り返した。しかし、政治実績をつくることができなくて首相の座から堕ちた。政治家はみんな公約を掲げて立候補する。政治家はみんな断言型リーダーであり、政治公約を断言しない政治家なんてあり得ない。中島氏が橋本大阪府知事と河村名古屋市長たけを断言型リーダーとするのは間違っている。むしろ、断言型リーダーの代表格は鳩山前首相だ。彼ほど次々と断言した首相はしない。しかし、政治家は権力を握った瞬間から実績が問われていく。だから、鳩山前首相のように断言するだけで実績が作れない権力者は権力の座から引きずり落とされる。それに比べて、橋本大阪府知事と名古屋河村市長はまだ人気が高い。それは彼らの政治実績を市民が認めているからだ。橋本大阪府知事と名古屋河村市長でも実績が作れなかったら首長の座から下ろされていた。中島氏は、議員定数や給与の削減よりも住民と議会の信頼関係が構築されることこそが重要だともっともらしく主張しているが、給与が高く、議員になることが自己目的化している政治こそが問題であり、今のような制度では市民の信頼を得られる政治ができないと主張しているのが河村名古屋市長である。中島氏は河村名古屋市長の政治論を全然理解していない。河村氏は、給与が高いがゆえに議員を職業化している現在の政治を否定している。議員や公務員の高給制度を廃止し、給与を半減することによって高額な選挙運動をやめさせ、お金のない人間でも社会をよくするために頑張れる人が議員なれるようにし、区単位では市民がボランティアとして政治活動ができるような政治を目指している。つまり、河村氏は政治の根本的な変革を目指しているのだ。中島氏が主張している地方議会の改革論なんて、今までもいろんな評論家が述べていることであり、そんなことで地方議会が改革できるわけがない。中島氏の主張は既成の首長や議員の現状維持論であり、政治の腐敗を進めるだけの理屈である。
2011/01/14
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ちんぬくとは里芋の方言名である。しかし、本土の里芋とは味は違うと思う。ちんぬくじゅーしい(じゅーしいとはおじやのこと)という民謡があるように、ちんぬくは昔から親しまれた野菜である。お祝いのときにはちんぬく料理はかかせない。ちんぬくの苗は農協などで売っていないので私はちんぬくを植えていなかったが、何年ぶりかで会った友人が畑をやっていて、彼の畑に遊びに行ったらちんぬくが植わっていた。彼の話ではちんぬくは放っておいても生えるそうで手間が全然かからないという。なまけものの私にはうってつけの野菜なので、さっそく苗をもらって植えた。彼のいうとおりちんぬくは手間をかけなくてもすくすく育っている。ちんぬくには冬の寒さも夏の暑さも関係ないようだ。年がら年中のんびり陽気に生えている。
2011/01/13
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竹原陣営◆ 小雨が降る中、市内の選挙事務所前で出陣式に臨んだ竹原氏は、笑顔でミカン箱の上に立った。 「私がやってきたことは市民に真実を知ってもらうことだ」と強調。「公務員はどれだけ給料をもらっているかを隠し、特権を拡大しようと、あらゆる所と手を握っている。政治家はこの圧力にいつも負けてきた」と持論を展開すると、支持者からは「その通りだ」と声が飛んだ。 最後に「一人ひとりが全体のことを考え、次の世代のために苦労しようという気持ちになれば素晴らしい阿久根になる」と叫ぶと、約200人(陣営発表)の支持者から大きな拍手が起き、握手攻めにあった。 この後、選挙カーに乗り込んで山間部や漁村を回り、家の窓を開けて手を振る市民らに応えた。スーパー前などでも演説に立ち、「この国はいつのまにか役人がすべてを握る社会になってしまった」などと訴えた。 竹原氏が取り組んだ浄化槽管理費やごみ袋料金の引き下げなどで「生活が楽になってきた」という会社員新田正子さん(52)は、「改革を最後までやり遂げてほしい」と竹原市政の継続を求めた。羽牟(はむ)百合子さん(75)は「職員の給与を削減して、若い人の雇用を生むような施策に使ってほしい」と話した。(2011年1月10日11時52分 読売新聞)調査では竹原氏はリードされているということだ。 議会を開かずに専決処分を繰り返すなどしてきた「竹原流改革」が市民の反発を受けるのは仕方がないことである。しかし、竹原氏の狙いは竹原氏の政治変革を全国に知らせる目的があったから、掟破りの専決処分を次々とやったことは、ある意味では成功したと言える。全国も注目するようになったから、次は阿久根市の政治変革を実現するために本格的に行動をしなければならない。政治変革を実現するには議員の過半数は必用なわけで、市長選の後は市議会戦戦で味方の議員を増やすのに力を注いでほしい。もし、市長選に敗れたら議員に立候補すればいい。市議会の過半数を握れば立法権を掌握できる。竹原氏が市長選に敗れても、竹原氏の政治変革は実現する方向に進むと私は考えているから、楽観視している。
2011/01/13
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六本のキャベツの苗を去年の十月に植えた。キャベツを植えるのは初めてだ。キャベツには青い虫がつき葉を食いつぶす。そのことに気づいたときはすでにキャベツの葉はぼろぼろになっていた。それからの私は毎日青虫を退治した。ところがだ。信じられないことに、青虫は退治しても退治としても次の日には新しい青虫が現れた。たった六つのキャベツなのだから隅々まで調べて青虫を退治した。それでも翌日には新しい青虫が現れた。こんなに青虫がつくとは信じられないことだ。気温が低くなり、冷たい小雨が降るようになったので、私は青虫を退治するのをやめた。青虫よ、お前にキャベツはあげるとあきらめの気持ちになったというわけだ。それからはキャベツを見る気になれなかった。数週間が過ぎて、青虫に食い尽くされた無残なキャベツを写真に撮ろうと思ってキャベツを見ると、なんと、キャベツは頑張って玉を作っていた。どうやら、気温が低くなり小雨も振ったので、青虫が居なくなったようだ。玉の周囲の葉が穴だらけなのは青虫に食われた跡だ。青虫がいなかったら穴の開いている葉も玉をつくる葉になり、大きなギャベツになっていたはずだ。来年は青虫の被害を防ぐために寒くなる直前に植えることにしよう。
2011/01/12
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目取真俊氏は新春エッセーで、中国の観光客を呼び寄せるのに沖縄に米軍基地があることを懸念しているが、軍事基地にアレルギーがあるのは革新政治家や反戦平和主義者たちであり、一般人には軍事基地アレルギーはない。嘉手納基地を見渡せる嘉手納町の駅の道には連日観光客が押し寄せて賑わっている。それに嘉手納軍基地内への観光も取り組んでいて、けっこう観光希望者がいるようだ。中国やアジアの人も東南アジア最大の空軍基地には興味があり人は多く、観光コースになっていると聞いている。中国人が沖縄の米軍事基地を忌み嫌うと予想するのは間違いで、むしろ興味を持っている人のほうか多いということを目取間氏は知っていない。目取真氏は9・11事件が発生したときに沖縄の観光が大打撃を受けたので、中国と日米間の軍事的緊張が高まり、沖縄周辺で武力衝突が起こり、沖縄観光が大打撃を受けるのを危惧している。そして、大打撃を避けるためには沖縄から軍事基地を撤去するべきと主張している。しかし、沖縄から軍事基地を撤去したときに中国はどのように行動するだろうか。目取真氏は政治、経済、芸能、文化などの多様な交渉を作り出すことで相互理解を深めることで沖縄の平和は保たれると主張しているが、目取真氏は中国という国を理解した上で主張しているのか疑問だ。中国は内陸のウイグル地区やチベットを武力で制圧し中国の属国にした。現在も武力で制圧し続けている。アメリカ軍フィリピンから引き上げた後に、ベトナムやフィリピンの領海であった南沙諸島や西沙諸島を中国軍が武力で制圧している。目取真氏の主張通りに沖縄から軍事基地を撤去すれば尖閣諸島を中国の領土であると主張している中国は確実に尖閣諸島を実力で中国の領土にしてしまうだろう。そして、宮古、八重山も制圧し、沖縄をも中国の属国にしてしまうに違いない。私の予想は現実離れしているように見えるが、もし、中国に侵略されても沖縄が無抵抗であり、国際的な抗議も大きくないという前提があってのことである。中国は自国の領土を少しでも拡大しようとする覇権主義国家でありり、覇権主義の中国は国境を接している全部の国と領土争いをしている。尖閣諸島は中国の領土であると主張しているのだから中国が尖閣諸島を占領するのはこれまでの中国の行動をみればはっきりしている。中国に目取真氏の主張は全然通用しないのは明らかである。目取真氏は「軍隊が守るのは領土であっても住民ではない。沖縄戦の教訓を思い出した」と革新政党の決まり文句を述べているが、沖縄戦で日本兵はアメリカ軍と壮絶な戦いをして10万人もの兵士が戦死している。アメリカ軍と決死の覚悟で戦ったのは領土を守ることであり沖縄の住民を守ることでもあったのだ。しかし、圧倒的なアメリカ軍の軍事力に日本軍は壊滅させられた。壊滅させられた日本軍がどうして住民を守ることができようか。南部の戦場で、住民を避難壕から追い出したり、住民を危険な目にあわすような日本兵もいたが、彼らは極一部の兵隊であり、その事実を取り上げて、「軍隊が守るのは領土であっても住民ではない。」と決めるのは軍隊への偏見だ。それに戦前は政治が軍国主義になっていき、女子供も国を守る兵隊にされていった。女子供も兵士として竹やりを持って戦うような国家であったのだ。目取真氏の軍隊論と戦前の軍隊論は違っているのにそのことには注意を払わずに、一方的な自論で戦前の軍隊を避難している。戦前は軍部が政治の実権を握った軍国主義国家の軍隊であり、戦後の民主主義国家である日本のシビリアンコントロールされた自衛隊や、アメリカの軍隊を戦前の日本の軍隊と同一視するのは間違っている。私たちは軍国主義国家を非難し、軍国主義国家の軍隊を非難すべきである。戦前の日本軍は軍国主義国家の軍隊であり、戦前の沖縄戦における日本軍の行動から軍隊一般論を導き出すのは間違っている。目取真氏は沖縄戦で軍隊は住民を守らなかったと非難しているが、しかし、軍隊が住民を守るうんぬんではなく、むしろ他国の軍隊に侵略されたときは自分の国を守るために住民も軍隊と一緒に戦うのが当然ではないのか。シャンソン歌手のイヴ・モンタンはドイツ軍がフランスに侵攻したときレジスタンスとしてドイツ軍と戦ったことで知られていた。私は祖国アランスのために戦ったイブ・モンタンを尊敬する。私は民主主義国家におけるシビリアンコントロールされた軍隊は認めるが、政治の実権を軍隊が握った軍国主義国家の軍隊は認めない。また、中国の人民解放軍のように政治の実権もある軍隊は否定する。
2011/01/12
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チキナは本当はチキナーというが俳句では字余りになるのでチキナにした。チキナーは雑草のように強い。このチキナーも私が植えたものではなく、自然に生えたのにちょっと肥料をやったらすくすく育った。チキナー料理は葉を塩でもんでから、豆腐などと一緒に油でいためる。というくらいしか私は料理法を知らない。私は美食家ではないから、チキナーだけでも油で炒めて食べている。チキナーを日本語で書くと「漬け菜」というところか。写真に撮った後に葉っぱをちぎっておかずにして食べた。
2011/01/11
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目取真氏は中国の軍備強化に反対し、自衛隊の島嶼防衛のための自衛隊の沖縄派遣の増加にも反対している。そして、琉球列島が中国と軍事的にせめぎ合う場となれば沖縄の衰退と破滅しか見えないと断言している。果たして、目取真氏のいうとおりだろうか。中国は市場経済を導入し、アメリカとの貿易で莫大な利益を得ている。もし、アメリカと軍事的な対立をしてアメリカと軍事衝突を起こせば、中国はアメリカだけでなく日本やヨーロッパの国々との貿易が断絶してしまい一気に経済は破綻してしまうだろう。だから、中国はアメリカと軍事的な衝突は徹底して避けざるをえない。アメリカも中国との軍事衝突は避けようと努力している。しかし、アメリカは中国が軍事的な優位を背景にして台湾に圧力をかけるのを避けるために、台湾に戦闘機等を売却して、中国と台湾の軍事バランスを保とうとする行動もしている。そんなアメリカに反発してアメリカ軍との共同演習を中国は中断させた。しかし、アメリカとは友好関係を維持したい中国は一年ぶりにアメリカとの共同演習を回復させた。中国を冷静に分析すれば、尖閣諸島で9・11のような軍事衝突は起きないことは容易に推察できる。目取真氏は自衛隊が琉球列島の防衛に力を入れれば、中国との軍事的衝突の危険性が増すと予想しているが、それはあり得ないことであり、今まで尖閣諸島の警戒を怠った性で中国漁船の日本領海での漁を許していたことが問題なのだ。中国漁船が巡視船に衝突した映像を見ても分かるとおり、中国漁船は日本領海内で堂々と漁していた。復帰前は沖縄の漁師が自由に漁をしていた場所をアメリカから日本に施政権が移り、日本の領海監視が甘いことに乗じて中国漁船団は沖縄の漁師に嫌がらせをし、沖縄の漁師を追い出して尖閣諸島の海を占領したのだ。中国漁船による尖閣諸島の領海の占領は本当に責任があるのは、しっかりと領海を守らなかった日本政府の方にある。日本政府が領海内で漁をする中国船を最初から徹底して取り締まっていれば、中国漁船が尖閣諸島の領海で漁をすることはなかった。その証拠に、今回衝突した中国漁船を厳しく取り締まり、船長を逮捕し、尖閣諸島の領海を厳しく取り締まるようになってからは中国漁船の領海侵犯はなくなっている。日本政府は尖閣諸島の監視を徹底し、沖縄の漁師が復帰前のように日本の領海で自由に漁ができるようにするべきだ。ところが日本政府は中国の圧力に屈して、八重山の市長や議員の尖閣諸島への上陸を禁止し、海域での漁も自由にはやらせない。こんなことでは尖閣諸島が本当の日本の領土、領海とはいえない。日本政府はもっと警戒を強化することによって尖閣諸島と領海を日本の漁師に開放するべきだ。沖縄が「政治、経済、芸能、文化など多様な交流を作り出すことで相互理解を深め、そのことによって自らを守ることに力を尽くした」という目取真氏のいうような歴史的事実は存在しない。1609年に薩摩藩に支配された後の琉球王朝には戦闘能力はなかった。それに戦闘能力があったとしても、巨大な中国と戦争するのは負けが目に見えているし、戦争を仕掛けるはずがない。一方中国にとって貧乏な沖縄を支配するメリットがなかったから支配しなかっただけである。「政治、経済、芸能、文化など多様な交流を作り出すことで相互理解を深め、そのことによって自らを守ることに力を尽くした」のではなく、薩摩藩に支配された琉球王朝は戦争をやる必要のない状態が続いたということにすぎない。日本も江戸幕府になり、三百年近く戦争のない平和な時代が続いた。中国は共産党一党独裁国家であり、人々の自由、人権は抑圧され、民主主義が否定されている国である。民主主義思想家の劉氏は中国の民主化を訴えただけで刑務所に入れられている。戦前の日本の軍国主義国家に近い中国をなぜ目取真氏は友好的に見るのか疑問だ。「中国との関わりにおいて、沖縄はヤマトゥとは異なる歴史を持つ」という見解には反対だが、百歩譲って、もしそうだとしても、中国は毛沢東を中心に社会主義革命を起こし、王朝時代の政治、経済、文化を否定したところから始まった国家である。過去の王朝との交流実績なんかなんの役にも立たない。共産党一党独裁国家でありながら市場経済を導入して大きく経済発展をしている現在の中国の政治、経済、文化を冷静に判断して中国と交流をしていくのが一番いい方法だ。それを一番に実践しているのが、目取真氏が嫌っているアメリカである。アメリカは中国との貿易を受け入れ、そのことによって中国は飛躍的に経済は発展した。しかし、アメリカは中国と貿易をどんどん拡大する一方で、台湾に戦闘機などの武力を売り台湾の軍事強化にも手を貸している。そして、中国の期限が悪くなるような、表現の自由や劉氏の解放や人権回復の要求もどんどん中国にやっている。そうかと思えば中国との合同軍事演習も積極的にやっている。目取真氏のいう沖縄式よりもアメリカ式のほうが中国との友好はうまくいっている。最後に、中国の民主活動家、劉暁波氏がノーベル平和賞を授賞したことに対して中国政府はノーベル平和賞授賞式への参加を拒否するように他の国々に働きかけて、19カ国を欠席させた。そのことに非難の一言のコメントも目取真氏はない。非常に残念に思う。
2011/01/11
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赤くなると収穫する。下の写真は庭のコーヒーの木から収穫したコーコーヒーの実だ。実の味は甘い。コーヒーを作るには、コーヒーの実の皮を剥いで中の豆を取り出す。取り出した豆はぬるぬるしている。豆を乾燥させたあとに豆がくろっぽくなるまで鍋で煎る。煎った豆をミルで粉にすればできあがり。一番手間がかかるのが皮を剥く作業だ。私は皮を剥くのが面倒くさくて、コーヒーを焙煎をするまではやらないことが多い。しかし、一昨年に大発見をした。コーヒーの木の下に置いておくと数ヶ月で微生物がコーヒーの実の皮を食べてしまうのだ。去年は実験をしたが、余りにも長い間放置したので、豆から芽が出てしまった(苦笑)。今年は成功するぞ。
2011/01/10
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新聞に掲載する沖縄の知識人のほとんどが反米親中国の傾向がある。芥川文学賞を受賞した目取真氏がそのような傾向の一人であることは残念なことである。目取真氏は尖閣諸島の中国漁船の巡視船衝突事件以前からインターネットでは、中国に対し感情をむき出しにして罵倒を連ねるブログが目立つと述べているが、本当にそんなブログが多いのか疑問だ。ニュース等では中国のネットのほうが日本を罵倒するブログが多いと伝えている。それに多くあるブログの中で中国について語るブログの占める割合いは非常に低い。政治問題を扱っているブログは日本国内の話題を扱っているのが圧倒的に多い。私は政治関係のブログを探し回っているほうだが、中国を罵倒するブログはまだ見たことがない。目取真氏のいう排外的ナショナリズムを煽るブログは極少数派である。ところが目取真氏は戦前の軍国主義政府が率先して流布させた「鬼畜米英」と重ね合わせて、まるで日本の国民全体が戦前のような差別感情を持ってしまう恐れがあるように書いている。しかし、「鬼畜米英」は国家の実権を握った軍部が軍隊、公務員、教員、マスコミを利用して全国に広めたのだ。国家権力が広めたものと民間のインターネットの少数のブログに書かれているのと同等に扱うのは余りにもひどい妄想だ。戦前は言論統制されていて、国に反論すれば殺されるか刑務所行きだった。だから、国が仕掛けた「鬼畜米英」に反論するものは誰もいなかった。だから国民全体に浸透していったのだ。しかし、現在は軍国主義国家だった戦前とは違う。現在の日本は言論は自由であり、色々な主張ができるし、ブログも右翼系統から左翼系統まで自由に主張している。戦前のように理不尽な思想が国民に浸透していくことはない。戦前でも、マスコミの報道が自由であり、国民も自由に発言できたのだったら、「鬼畜米英」が国民に浸透することはあり得なかった。一部のブログでは中国を小馬鹿にしている・・・その裏は大国への脅え・・・相手の言動に過剰反応・・・世論となって適切な交渉が行えなくなる・・・中国との関係が悪化目取真氏の五段論法には笑える。極一部のブログの言動を引用した目取真氏の妄想は拡大し続け、ついには中国国家と日本国家との関係悪化までいってしまう。そんなありえない話を展開していき、「中国との関係を悪化させていくとしたら、これ以上愚かなことはない」と断言している。こんな断言をしてしまう目取真氏の五段論法ほど愚かなものはない。中国の台頭に脅えているのは輸出産業の経営者であって日本国民ではない。なぜ日本国民が中国の台頭に脅えなければならないのだ。国民が中国に脅えるのは毒入り餃子などのように中国の商品や野菜に毒が入っていないかどうかであったり、中国で反日運動が高まり、中国にある日本のスーパーや商店を破壊したり、日本車を燃やしたりしたことに対してである。中国の日本批判は下劣と思わせるひどい言動がが多い。日本の国民が中国のブログや言動にに反感を持つのは当然だ。中国と交渉をするのは国家であり国民ではない。国民の圧力で中国との関係が悪化したことは今までない。尖閣領海の衝突事件でも次々とあくどい仕掛けをしたのは中国であり、日本政府はひたすら中国との関係を改善しようとした。多くの国民も中国のやり方に反感を持ったが、中国との関係を悪化させるような大規模な行動はやっていない。ごく一部のブログの内容を誇大化してしまっては客観的な判断をすることはできない。目取真俊氏は誇大妄想癖を直したほうがいい。
2011/01/10
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庭の隅に植えたサンニンがこんなに繁茂した。サンニンとは月桃のこと。沖縄ではムーチーといって旧暦の12月8日にはサンニンの葉で包んだ餅を作る。ムーチーは子供の健康を祈るもので、昔は子供の年齢の数だけつくった。それに力ムーチーといって、一個は特大のムーチーを作って、子供が力強くなることを祈って食べさせた。サンニンは高貴な香りがするのでサンニンから抽出した液で香水をつくっているし、防虫防腐の効果もあるので防虫剤や防腐剤もつくって商品化している。ムーチーを子供のために作るのは昔の人はサンニンの効果を知っていたからかもしれない。サンニンの茎は頑丈な綱が作れる。私が子供の頃はサンニンの茎で作った綱でさとうきびの束をくくっていた。私も父の綱作りを手伝ったことがある。多分戦前はさとうきびを束ねるのにサンニンで作った綱を使っていたのだろう。その名残りだと思うが、サンニンが隅に植わっている畑が見受けられる。先週からさとうきびの収穫もはじまった。ムーチービーサといって、ムーチーの頃が一番寒くなる時期とも言われている。確かに、ムーチーの頃はいつも寒い。ムーチーが過ぎ、旧の正月から次第に春に近づいていく。季節の移り変わりは旧暦のほうがあっている気がする。
2011/01/09
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市長選は一月だ。竹原氏が市長に当選し、市議選でも竹原氏支持派の議員が過半数になれば、阿久根市の政治は革命的に変革する。名古屋市長選では自民、民主どころか社民、共産党までが反河村で結束した。今の政党すべてが民主主義を徹底することができない体質の政党であることを暴露したようなものだ。市民の意見を聞くとか、反映させるとかというのを公約にするのを民主主義と履き違えている沖縄の政治家は多い。民主主義は政治の専門家である政治家がどのような政治をするかを公約し、政治家の公約を検討して選挙民が選ぶというのが本来の民主主義政治だ。県民の意見を募集しても、採用するかしないかを決定するのは県の役人たちである。むしろ、役人や県会議員や、経済や生産の専門家が日夜を問わず沖縄振興について考え、いくつもの計画を策定して、県民が計画案を選択するというのが民主的な方法だ。懸命に働いて、税金を払っている県民に沖縄振興までも考えさせるなんて、役人の怠慢だ。前の市長が約束していた辺野古移設計画をを蹴ったのだから、防衛庁の予算を使わないのは当然である。前の市長が約束したということは名護市が約束したということであり、新しい市長になったからといって約束を反古にするというのは、名護市が国との約束を一方的に破ったことになる。約束を破ったのは名護市のほうなのだから、辺野古移設を前提で受けた今までの交付金は全て返還するのが筋である。ところが稲嶺市長は今までの交付金を返還しないどころか、継続中の事業分の交付金が計上されてもお礼の一言もない。それどころか事業完了までの交付継続を要求している。民間なら今まで交付した金の返却を求めて裁判をかけられるだろう。余りにも傲慢な稲嶺市長の態度だ。いやらしい「アメとムチ論」である。 alt="" >
2011/01/09
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葉が落ち、茎はしろっぽくなった。この写真を見て、誰も茄子とは思わないだろう。しかし、写真の茎は茄子の茎だ。茎も枯れてしまうが根は生き残る。春になると新しい芽を出して成長していく。そして、花が咲き、茄子の実ができる。実はこの茄子がそれを実行したのだ。去年、ほっといたら、春には根から新しい芽が出て、実をつけるまで成長した。今年もそうするだろう。
2011/01/08
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桃の木は春先に花が咲き、それから葉が出てくる。春の半ばほどに花は落ち、実が出る。そして、初夏の6月に実は赤く熟して食べごろになる。夏の盛りに葉は青々と茂り、秋になると葉に勢いはなくなり、次第に枯れて、冬には、ご覧の通りに葉は全て落ちる。亜熱帯の沖縄でも、桃は四つの季節のめぐりを守って生きている。
2011/01/07
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太田氏の琉球の歴史ついての説明が事実とは違うということを歴史専門家は説明しています。「目からウロコの琉球・沖縄史」はネットで沖縄の歴史について広い範囲で解説しているサイトです。掲載者のペンネームはとらひこといい、「目からウロコの琉球・沖縄史」は人気を得て、本にもなりました。上里 隆史はテレビ出演したり講演したりで有名人になりました。興味がある人は下の「目からウロコの琉球・沖縄史」をクリックしたらブログに行きます。目からウロコの琉球・沖縄史2007年11月14日 (水)のサイトに太田氏の説明が史実ではないことを証明しているので引用しました。武器のない国琉球?(1)琉球といえば、「武器のない国」としてイメージされる場合が多いと思います。平和を希求する尚真王が武器を捨て世界にさきがけて“非武装国家宣言”をしたとか、ナポレオンが武器のない琉球の話に驚いたというエピソードも、これらを根拠づけるものとしてよく引き合いに出されます。しかし歴史を詳しく調べていくと、事実は全くちがうことがわかります。まず尚真王は武器も廃棄していないし、“非武装国家宣言”も出していません。刀狩りの根拠とされた「百浦添欄干之銘」(1509年)という史料にはこう書かれています。「もっぱら刀剣・弓矢を積み、もって護国の利器となす。この邦の財用・武器は他州の及ばざるところなり」刀狩り説は、これを「武器をかき集めて倉庫に積み封印した」と解釈していました。しかしこの文を現代風に訳すると、何と「(尚真王は)刀や弓矢を集めて国を守る武器とした。琉球の持つ財産や武器は他国の及ぶところではない(他国より金と軍備を持っている)」という意味になるのです。尚真王は武器を捨てるどころか、軍備を強化しているのです。実際に1500年の王府軍による八重山征服戦争では軍艦100隻と3000人の兵が動員され、1609年の薩摩島津軍の侵攻に対しては、琉球は4000人の軍隊で迎え撃ち、最新兵器の大砲でいったんは島津軍を阻止しています。尚真王が軍備を廃止した事実はなく、この時期にそれまでの按司のよせ集めだった軍団から、王府指揮下の統一的な「琉球王国軍」が完成したというのが真実なのです。再度強調しますと、琉球は刀狩りやそれに関連するような政策は一切とっていません。古琉球の歌謡集『おもろさうし』には数々の戦争をうたったオモロ(神歌)が収録されています。そのなかでは、琉球王国の軍隊のことを「しよりおやいくさ(首里親軍)」と呼んでいます。聞得大君に関するオモロを集めた巻では、全41首のうち、実に4分の1にあたる11首が戦争に関するオモロです。古琉球時代では武装した神女(ノロ)が霊的なパワー(セヂといいます)を兵士たちに与え、戦争にのぞんでいた様子をうかがうことができます。沖縄には「イナグヤ戦ヌサチバイ(女は戦のさきがけ)」という言葉も残っています。当時は霊的なパワーも実際の戦闘力と同じように考えられていたので、兵士たちが戦う前には、両軍の神女たちがお互いの霊力をぶつけ合う合戦が行われていたようです(映画スターウォーズの“フォース”で戦う感じでしょうか)。当時の琉球の人々はこの霊力(セヂ)の存在を本気で信じていたようです。島津軍が琉球侵攻の準備を着々と進めていた時期、琉球に渡航した中国の使者は、王府の高官たちに「日本が攻めてきそうだ。ちゃんと備えているのか」とたずねたところ、高官たちは「大丈夫です。我々には琉球の神がついております!」と自信満々に答えて使者を呆れさせたことがありました。琉球の高官たちは、強力なフォースを持つ聞得大君をはじめとした神女たちが電撃ビームで島津軍の兵士たちを次々と倒していく光景を想像していたかのかもしれませんね。実際には戦国乱世をくぐりぬけてきた島津軍には全く通用しませんでしたが…武器のない国琉球?(2)それでは近世(江戸時代)の琉球はナポレオンが聞いたように「武器のない国」だったのでしょうか。答えは「ノー」です。たしかに薩摩に征服されてからは、かつてのように琉球王府が自在に動かせるような軍隊はなくなったようです。そのかわり琉球の防衛は、幕藩制国家のなかの薩摩藩が担当することになりました(「琉球押えの役」といいます)。薩摩藩は琉球に軍隊を常駐させることはありませんでしたが、有事の際には薩摩からただちに武装した兵士たちが派遣されました。つまり琉球は近世日本の安全保障の傘に入っていたのです。琉球は薩摩藩の支配下に入っていたので、当たり前といえば当たり前です。また琉球の貿易船が出港する際には、薩摩藩から貸与された鉄砲や大砲を装備して海賊の襲撃に備えていました。琉球国内では鉄砲以外の武器の個人所有は禁止されていませんでした。その証拠に、戦前には士族の所蔵していた武器の展覧会が開かれたこともあります。それに注意しなくてはいけない点がひとつ。近世の琉球はたしかに大きな戦争もなく「平和」な状況が何百年も続きましたが、それは琉球だけにかぎったことではありません。江戸時代の日本は「天下泰平」といわれた、かつてないほど平和だった時代。もともと軍人であった武士も、戦いより学問や礼儀を重んじる官僚となっていきます。さらに周辺諸国でも大きな戦争はなく、それ以前の時代では考えられないほど東アジア世界全体が「平和社会」となっていた時代だったのです。琉球だけが平和だったのではありません。さらにナポレオンが聞いた話は、琉球を訪れた欧米人バジル・ホールの体験談であって、彼は琉球社会のほんの一部分を見て判断していたにすぎません。ホールはさらに「琉球には貨幣もない」とまで言い切っています(もちろんそんなことはありません)。琉球の「武器のない国」というイメージはどのように作られ、広がっていったのでしょうか。それは琉球を訪れた欧米人の体験談が、19世紀アメリカの平和主義運動のなかで利用されていった経緯があります。好戦的なアメリカ社会に対し、平和郷のモデルとして自称琉球人のリリアン・チンなる架空の人物が批判するという書簡がアメリカ平和団体によって出版され、「琉球=平和郷」というイメージが作られました。このアメリカ平和主義運動で生まれた琉球平和イメージ、史料の解釈の読み違いから出た非武装説に加え、さらに戦後の日本で流行した「非武装中立論」や「絶対平和主義」が強く影響して、今日の「武器のない国琉球」のイメージが形作られていったのです。そもそも琉球史の戦争をめぐる問題の核心は、武器があったかどうかという単純な話ではなく、琉球という国家が自らの政治的意志を達成するために、暴力(軍事力)を行使する組織的な集団を持っていたかどうかを探ることです。武器はあくまでもその組織(軍隊)が目的を達成するための道具にすぎません。これまで「軍隊とは何か、戦争とは何か」という問題が非常にあやふやなまま議論されてきたのではないでしょうか。このような僕の意見に対して「事実そのものにこだわっていて物事の片面しか見ていない。この言説を生んだ沖縄の平和を求める心こそが大事なのだ」という批判がありましたが、僕はそうは思いません。沖縄の平和を求める心が大切なのは同意しますが、これまではそればかりを強調して、歴史の実態を見てこなかった(もしくは知りながら見ようとしなかった)のが問題だったと思います。つまり物事の片面しか見てこなかったのです。医者が患者を治すため病気の実態を研究するように、平和を求めるのは何も「戦場」の悲惨さを訴えるだけではないと思います。病気の恐ろしさと健康を求める心を訴えることも大事でしょうが、病気(軍事・戦争)の実態を探ること、それを僕は大事にしたいし、“治療”にもつながるものだと思っています。 参考文献:照屋善彦「『リリアン=チン書簡』再考」(『琉大史学』12号)「武器のない国琉球?」で述べられていることは「目からウロコの琉球・沖縄」を掲載している上里氏だけの見解ではなく、参考文献があるようにむしろ歴史学者には一般的な見解であると理解できる。太田氏の見解というのは歴史的根拠はあいまいで巷の噂話程度のものであるということである。学者であり、琉球大学の学長であった太田氏が歴史学者にとっては通説となっている琉球史を捻じ曲げているということは遺憾なことである。琉球の歴史に伝統的な平和文化はなかったし、「命どぅ宝」の格言も太田氏のいう戦争を忌み嫌う理由から生まれてきたのではないことは明らかである。太田氏は「命どぅ宝」は「物食ゆすどぅ我が主」とセットになって琉球王朝時代から伝えられてきたことを本当は知っているはずである。そして、「命どぅ宝」の昔から伝えられてきた本当の意味を戦後生まれの私でさえ知っているのだから太田氏は当然知っているはずである。知っていながら、「命どぅ宝」の本当の意味を捻じ曲げて反戦・平和の思想から生まれた言葉として説明するのは政治に利用する目的があるからである。戦後生まれの私は小学生、中学生、高校生の時に先生から「命どぅ宝」と「物食ゆすどぅ我が主」についての説明を何度も聞いた。ある先生は「命どぅ宝」と「物食ゆすどぅ我が主」は琉球の民の座右の銘であり、私たち沖縄に生まれた者は胸に深く刻み込むべきであるとまで言った。そのくらい「命どぅ宝」と「物食ゆすどぅ我が主」は重たい格言であり有名な格言であった。「命どぅ宝」と「物食ゆすどぅ我が主」は琉球の民の生きるだけで精一杯であった貧困の中の生きるための処世術としての格言であると私は先生から聞いた。
2011/01/07
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パパイアの木は、本来なら下の写真のように上のほうには葉がいくつも生えている。小さなパパイアは夜中に激しい寒風が吹いて上の葉っぱが取れてしまった。上の葉を飛ばされたパパイアは帽子を風に飛ばされておたおたしている坊主頭の少年のようだ。
2011/01/06
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太田氏は、かつての琉球の人々は「命どぅ宝」を合言葉にして友好的共生を心掛けてきたと述べているが、かっての琉球にそのような時代があったかを検討してみる。琉球王朝時代を大別すると薩摩藩に支配された琉球王朝時代とそれ以前の尚家が支配していた琉球王朝時代に大別される。琉球は中山、南山、北山に分かれていたのを尚巴志王が三山を統一する。尚巴志王の年賦をウィキペティアから引用する。尚 巴志王(しょう はしおう、1372年 - 1439年6月1日、在位1421年 - 1439年)は、尚思紹王の子で、琉球王国・第一尚氏王統第2代目の国王。初代琉球国王。神号は勢治高真物(せじたかまもの)。父・思紹、母・美里子の娘の長男として生まれる。父の思紹は、「鮫川大主(さめかわうふぬし)」ともいわれ、伊平屋島から馬天港へ渡ってきた。21歳のとき、父の後を継いで南山の佐敷按司となる。1406年、中山王武寧を攻撃して察度王朝を滅亡させ、首里(現在の那覇市)を首都とした。また父・尚思紹を中山王に即位させた。1416年、北山国を討伐し、次男尚忠を北山監守として北部の抑えにした。1421年、尚思紹の死去により中山王に即位。1429年、南山王他魯毎を滅ぼして三山を統一、第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝を成立させた。在位中は首里城を拡張整備し、王城にふさわしい城とした。あわせて安国山に花木を植え、中山門を創建し外苑を整備した。また那覇港の整備を進め、中国をはじめ日本、朝鮮、南方諸国等、海外諸国との交易を盛んに行い、琉球の繁栄の基礎をもたらした。このように尚巴志は武力で三山を統一したのであり、太田氏のいうような話し合いで物事を決める時代ではなかった。尚巴志が三山を統一した以後はどうだっただろうか。オヤケアカハチの乱は、1500年に琉球王国石垣島大浜(現在の石垣市大浜)の豪族・オヤケアカハチが蜂起した事件で、尚真王が派遣した征討軍3,000人の軍勢によって鎮圧、首謀者のオヤケアカハチは討ち取られた。 1458年には護佐丸・阿麻和利の乱 が起こっている。 計らずも王位継承者となり首里にやってきた尚泰久(しょう・たいきゅう)は、早速首里城の再建にとりかかりました。財政を担当したのは尚泰久のブレーンである金丸(かなまる)でした。また、仏教の発展にも力を注ぎ、このころ万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘を作らせています。 王国の再建に取り組む尚泰久の耳に、不穏な動きがあるとの情報が入ります。中城城(なかぐすくじょう)の城主護佐丸(ごさまる)が謀反を企てているというのです。情報をもたらしたのは勝連城主阿麻和利(あまわり)でした。これは琉球王国にとっても尚泰久にとっても大事件でした。 というのも、護佐丸は父尚巴志が北山攻略の際に一軍を率いて共に戦った功労者であり、琉球王国の用心棒とも言うべき最高実力者だったのです。しかも座喜味城主であった護佐丸を、北部勢力の脅威から王国を守るためにわざわざ中城城に居城させたのは首里王府の意向でした。護佐丸は王府に忠誠を尽くす最も信頼できる忠臣の鏡だったのです。 一方の阿麻和利は勝連城を拠点とする按司で、貿易によって勝連を繁栄させ日増しに勢力を伸ばしてきた首里王府が最も警戒する要注意人物です。実は護佐丸を防衛線である中城城に配置したのも、阿麻和利の脅威を意識してのことでした。その阿麻和利の情報を何故尚泰久が信じたのか?そこには複雑な事情がありました。 度重なる政権交代によって首里王府の権力は次第に弱まり、地方按司への統率力は衰えてゆきました。そして、権力基盤の衰退は志魯・布里の乱で決定的となりました。その間に地方の按司は力を蓄え、ついには護佐丸や阿麻和利のように王府にとって無視できない存在にまで成長したのです。そこで首里王府はこれらの有力按司を抑えるために彼らと婚姻関係を結ぶことで解決を図りました。尚泰久の妻は護佐丸の娘であり、阿麻和利の妻は尚泰久の娘でした。つまり、尚泰久にとって護佐丸は義父、阿麻和利は娘婿になります。 ですから、忠臣護佐丸は安心で阿麻和利は危険、という単純な構図ではなかったのです。首里王府にとってはどちらも勢力を拡大してきた警戒すべき相手だったのかもしれません。しかもこの情報を確かめるために遣わされた王府の密偵は、兵馬の訓練をする中城城の様子を目撃します。 そして尚泰久は護佐丸を討伐する決断をします。王府軍を任されたのは誰あろう阿麻和利でした。阿麻和利は王府の大軍を率いて中城城に向かいました。謀反の疑いをかけられた護佐丸は真意を試されることになりました。はたして護佐丸は王府軍に立ち向かうことなく無抵抗で落城、一族と共に自刃しました。尚巴志と共に琉球統一を成し遂げ、最後まで首里王府に反旗を翻さなかった護佐丸は、今も忠臣として語り継がれています。 王府の力を借りて見事宿敵護佐丸を亡き者にした阿麻和利の次のターゲットは首里でした。計画は阿麻和利の目論見どおり進んでいました。しかし、ここで一つの誤算が生まれます。もともと政略結婚で嫁いできた尚泰久の娘百度踏揚(ももとふみあがり)と付き人の大城賢雄(うふぐすくけんゆう)がこの策略に気付き、勝連城を抜け出したのです。行き先はもちろん父尚泰久のいる首里城です。 これを知った阿麻和利は策略の発覚を悟り、急遽兵を率いて首里へと向かいます。一足先に首里に到着した百度踏揚たちの報告で王府はあわてて防衛の準備をし、阿麻和利軍に立ち向かいます。最初は防戦を強いられた王府軍でしたが、次第に劣勢を挽回しました。首里城を攻め落とすことをあきらめた阿麻和利は勝連城にもどり篭城します。 首里王府は体制を立て直し、阿麻和利討伐軍を勝連城に向かわせます。軍を率いたのは大城賢雄でした。勝連城は勝連半島の根元に位置する小高い山の頂上にそびえる難攻不落の城でしたが、奇策を用いて大城賢雄が勝利し阿麻和利と勝連城は滅亡しました。1458年のことでした。 こうして首里王府は琉球王国最大の危機を脱しました。王府を脅かす二大勢力を一気に排除することに成功したのです。これら一連の事件が偶然だったのか、あるいは首里王府の計略だったのか、その真相を知る者は誰もいません。 (ネットサイト「沖縄の世界遺産」から引用。)薩摩支配以前の琉球は武力で覇を競い、武力で勝る者ものが国を制したのだ。このあと琉球王朝は武力で奄美も支配した。薩摩藩に支配される前の琉球王朝時代も武力で支配する社会であり、太田氏のいう「命どぅ宝」の精神とはほど遠い時代だったのである。1609年(慶長14年)、琉球に出兵して琉球王国を服属させ、琉球の石高12万石を加えられた。奄美群島は琉球と分離され、薩摩藩が直接支配した。薩摩藩の琉球支配は、年貢よりもむしろ琉球王国を窓口にした中国との貿易が利益をもたらした。また、薩摩には奄美産の砂糖による利益がもたらされた。(ウィキペティアから引用)薩摩に支配された後の琉球王朝は当然のことながら武器を持つことを禁じられ戦争をする能力を失う。琉球王朝が自ら平和主義になったわけではない。薩摩藩に上納したのは中国から輸入したものだけではない。琉球絣や陶器等の琉球の名産も上納した。琉球王朝が薩摩藩に支配されるようになると、琉球王朝と薩摩藩の二重の搾取により琉球の民はますます苦しい生活を強いられた。以上のように、琉球王朝時代には薩摩藩支配の以前も以後も、太田氏のいう、「いかなる武器も持たず。戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに解決する伝統的な平和文化を培ってきた」ことはなかった。封建時代は武力を用いた戦争で領土を奪い合いをする武力支配の時代であり、太田氏のいう平和主義であるはずがない。このように、「命どぅ宝」の格言が平和主義の象徴として語られたことは琉球王朝時代から戦前までなかったことが明らかになった。「命どぅ宝」が反戦・平和の格言として流布されるようになった発端は、1968年11月に嘉手納基地で発生したB52墜落事故をきっかけに結成された「命を守る県民共闘会議」のキャッチフレーズとして使われるようになったてからである。はっきりとは覚えていないが、「命を守る県民共闘会議」による与儀公園の県民大会で瀬長亀次郎氏の演説で聞いた記憶がある。その時が、「命どぅ宝」が反戦平和のキャッチフレーズとして使われた最初であったと思う。若い私は反戦平和のキャッチフレーズとして「命どぅ宝」が使われたことに愕然した。「命どぅ宝」と「物食ゆすどぅ我が主」は私にとっては反戦・平和よりももっと深くて重い格言だったからである。
2011/01/06
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コーヒーの木は潮風に弱い。渡久地の浜から一キロ近く離れているのだが、台風の時には潮を含んだ風が我が庭を襲う。微量の潮だから他の植物は平気だが、コーヒーの木は影響を受ける。バックの緑の葉はコーヒーの葉で反対側は大丈夫だ。コーヒーの実は赤くなると収穫する。そろそろ赤い実だけを収穫しなくては。
2011/01/05
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革新政治に捻じ曲げられた「命どぅ宝」「命どぅ宝」の格言はいつの時代からあるのだろう。私は中学や高校生の時に昔からの格言であると先生から聞いた。1960年代のことだ。ところが新聞のコラムに若いジャーナリストが「命どぅ宝」はいつごろから言われるようになったか不明であるといい。恐らく40年くらい前ではないだろうかと推察しているのを読んで私は驚いた。ただ、彼女の推察にはそれなりの理由があった。1968年に嘉手納飛行場にB52重爆撃機が墜落炎上して、沖縄中が大騒ぎになり、一気に反戦ムードが盛り上がって、1969年には「命を守る県民共闘会議」が結成された。「命を守る県民共闘会議」による最初の県民大会が与儀公園で行われたが、その時に「命を守る県民共闘会議」の代表者の演説で「命どぅ宝」が反戦・平和のキャッチフレーズとしてが使われた。その時から「命どぅ宝」が盛んに使われるようになった。だから、若いジャーナリストが「命どぅ宝」は40年くらい前に生まれたと思ってしまうのは無理のないことである。その記事を読んだ時、私はたった40年で「命どぅ宝」の出所が不明になっていることに驚き、「命どぅ宝」は琉球王朝時代からの格言であることを新聞に投稿しようと思い、ネットで「命どぅ宝」について詳しく説明しているサイトを探した。ところが詳しく書いているサイトを見つけて私は再び驚いた。ネットでもっとも権威アルある辞典ウィキペディアでは「戦さ世んしまち 弥勒世ややがて 嘆くなよ臣下 命どぅ宝 (戦いが終わり、平和になるのだ。国民よどうか耐え忍んでくれ。命あっての物種だ。)」 という琉歌に由来する。この歌は琉球国最後の王である尚泰王の作とも伝えられるが、実際には日本政府による琉球処分の決定を受け、国を明け渡さざるを得なくなった王の断腸の思いを表現した芝居の中で創作された台詞である。と説明されている。他には、何をおいても命こそが大切であるという意味。沖縄戦の際、難民の一人によって叫ばれたとも伝えられる。1950年代に伊江島土地闘争のスローガンとして用いられ、さらに1980年代の反戦平和運動のなかで広く普及した。 幾多の苦難を体験したウチナーンチュが共有する反戦と平和の願いを込めたメッセージ。何をおいても命こそが大切であるいう意味。沖縄戦の際、難民の一人によって叫ばれたとも伝えられる。などがあった。ネットの「命どぅ宝」の説明を見て、私は苦笑せざるをえなかったもし、「命どぅ宝」が芝居のセリフであったなら、軍国主義へと進んでいった戦前であったのにその言葉が語り告げられたのはおかしい。それに、戦前生まれであり、学者である太田氏は琉球王朝時代の格言としている。私も生徒の時に、「命どぅ宝」は琉球王朝時代の格言であると先生から聞いた。実は私が先生から聞いた格言は「命どぅ宝」だけではなかった。「物食うすどぅ我が主(しゅう)」という格言についても教えられた。。「物食うすどぅ我が主(しゅう)」とは物を恵んでくれる人が私のご主人という内容で反戦・平和とは前々関係ないことわざである。しかし、先生が説明するときは必ずこの二つの格言を出し、二つの格言の内容は共通するものがあった。「命どぅ宝」だけなら反戦と平和の願いとしての格言として説明できるが、「物食うすどぅ我が主(しゅう)」と一緒にすると「物食うすどぅ我が主(しゅう)」と反戦・平和とは内容がかけ離れすぎて「命どぅ宝」の説明とはバランスの取れる説明ができなくなる。つまり、私は「命どぅ宝」を反戦と平和の願いとしての格言としては説明されなかった。私が高校を卒業したの1967年である。1967年当時は「命どぅ宝」は反戦・平和の格言ではなかった。「命どぅ宝」が反戦・平和の格言として流布されるようになったのは1969年の「命を守る県民共闘会議」主催県民大会以後である。太田氏は琉球王朝時代からの反戦・平和の格言であったと書いてある。明日は太田氏の矛盾を指摘していきたい。
2011/01/05
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