浜松中納言物語 0
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「ペニシリンショックの後遺症2」2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの後遺症1」からのつづき。(新画像も更新してます)蕁麻疹だけなら未だ良かった。気管支に出来た蕁麻疹の為、咳が止まらなくなってしまった。風邪で気管支を患い、咳が止まらなくなるような症状が続き、中国江蘇省の地元病院に戻って、専門医に見てもらった。薬を2回替えてもらったが、症状は良くはならなかった。喉から胸から脇腹全てに、ジンマシンが出来出した。その後は、咳が1ヶ月以上止まらず苦しんでいた。私がペニシリンのアレルギーショックに、掛かり死ぬ思いをした事は、私の担当する工場へ、すぐに広まった。各工場の董事長や総経理から私の携帯電話へ連絡が入った。殆んどの人が、自分が見聞きした事を私に語った。その内容は、皆一様に、ペニシリンのショックで、亡くなった話ばかり・・・。最後には、電話の応対に疲れ、咳も出るので、携帯の電源を切った。咳が止まらずに、苦しい日々を過していた。上海付近の病院へも行ったが、咳を止める薬は見つからなかった。中国春節(旧正月)まで何とか我慢して、仕事だけは片付けた。(タイのクワイ川遊覧カラオケ)その頃には、私の身を案じて日本から、社長と専務が、駆けつけて下さった。専務は、私の元気な様子を見て、アンタが死にそうだという事で飛んで来た。と、不思議そうに言った。翌日、専務は用事が有るからと、日本へ帰ったが、社長の方は、私を日本へ連れ戻すまで、残ると強情だった。この事で、日本へは社長命令で、社長と共に、強制帰国となり、日本で入院することになった。春節を利用して社長と共に帰国した。空港などでも、荷物を持つ体力もなく、社長が私の重たい荷物を、ふら付きながらも運んで頂いた。日本へ付き、我が家にも戻らず病院へ直行した。初めの病院は社長の友人である個人病院だった。私の咳はというと、それから日夜をとわず続き、日本へ帰ってからも3週間以上続いた。当然、日本の病院へ入院したが、咳を止める特効薬が、見つからなかった。丸一日検査が続いた。内臓がどうなっているとか、そんな事は、どうでもよかった。(クワイ川沿いの尼寺の尼さん)ただ、この咳を止めてほしいと懇願したが、検査の結果が出ないことには、薬も出せませんからねと、医師は申し訳ない顔をした。看護婦は、先生から「これを渡すように」と言われたと、トローチを置いていった。な~んだ!トローチかなどとも思った。一粒舐めてみたが、喉の痛みが、和らいだような、感じがしたが、咳は相変わらず止まらないばかりかひどくなっていった。社長は毎日病室へ通ってくれた。専務は一度見舞いに来てくれたが、その中で、ジョークを飛ばして行った。そのジョークとは、中国へ慌てて行った時に、「あんたが危ないって聞いていたから」数珠を持参して中国へ行ったんだけど、使わずに済んだよ!っと、笑いながら言うものだから、笑うと咳が余計にひどくなった。妻や娘も病院へ駆けつけたが、「何やってんのよ~!」「しっかりしてくれないと!」娘からは、「父さん辛い目に遭ったんだから」「母さん!車の中で言ってた事と違うこと言ってる!もう!」こんな時にも、咳は止まらなかった。1週間を個人病院で過したが、咳が止まらなかった。「ペニシリンショックの後遺症3へ、つづく」 「ペニシリンショックの後遺症3」2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの後遺症2」からのつづき。(新画像も更新してます)社長は意を決したように、「病院を替えよう!」と、病室に飛び込んできた。総合病院に替わることになった。何が何だか分からないまま、病院を替わった。病院を替わったのはいいが、また検査攻めにあった。そして、今までの薬を没収された。2日間薬なしの状態が続いた。検査の結果、腎臓・肝臓は問題なかったが、心臓の不整脈が見つかった。3日後に、薬が出たが、5日間飲んでも症状は、良くはならなかった。最後に程度の酷い喘息者が使用する粉末状の、薬を頂いた。咳がひどくなったら、口にくわえて強く息を吸い込み、粉末状の粉を吸い込んだ。(マレーシアのホリデーインのロビー)(福を反対にする事は、福が来るとの意)日本へ帰国して、直ぐに入院したが、咳が止まらない。付属病院へ入院しても、その咳は止まらなかった。喘息患者が吸う粉末の薬を吸い出してより、3日目より段々良くなっては来たが、一度咳をし出すと、中々止めることが出来なかった。6日ほどして、症状は、相当良くなってきた。帰国して2つの病院へ入院してより実に20日間だった。中国での旧正月の休暇も、相当前に終わり、出勤をしていて、病院へも、営業マンが、技術のことで、私に指示を仰ぎに来ていた。妻は、150キロの道程を、たまに来てはくれたが、いつもバツの悪いことに、営業マンが来て、打ち合わせをしている最中ばかりだった。妻の心は次第に、変化して行った。仕事最前線の姿を見たのか?病院に来ては、商社の仕事を、辞めて欲しいと言っては、帰っていく日が続いた。妻よりの懇願の言葉を耳にする度に、私には、この仕事しか出来ないのに、一体どうすればいいのだとも思った。しかし、咳は止まったとはいえ、体力は落ちてしまい歩く時も、自分の身体ではないような感じだった。(マレーシアのホリデーインのロビー)(福を反対にする事は、福が来るとの意)薬の投与は続けられた。ロキソニン60mg フロモックス100mgそして、吸入専用のフルタイド100マイクロ(μ)医師とマイクロとミクロの違いについて、討論し合ったが、大分よくなったのですね~と、担当医師もうれしそうだった。しかし、私と言えば夜中に襲う、咳き込みにフルタイドティスクヘラーを、使いそのミクロの粉を吸うのであった。総合病院に入院していると、30分毎に救急車の、甲高い音がした。そして、昨日まで元気で、笑っていた人が、今朝には、ベットの上が綺麗に、片付けられているという光景を目にした。私の病室にも人が出入りした。初めは咳がひどいので、敬遠していた人が、慣れてくると日夜を問わずいろんな話に来ていた。看護婦や医師に見つかっては、注意されても、中国の話が聞きたくて、私の病室へやってきた。「ペニシリンショックの後遺症4へ、つづく」
2006.04.27
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「ペニシリンショックの当日3」2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの当日2」からのつづき。(クアラルンプールの新しい画像です)どうしても私の脳では制御できない!車の中でも「苦・・しい!」の、途切れ言葉の連発と、「寒い!」「寒い!」「息が・・出来・・ない!」の連発だったと言う。結構、脳はしっかりしていた。身体の制御の自由は奪われたが、皆の慌てる姿や、女医が今にも泣き出しそうな、表情まではっきり確認できた。病院に着いた。工場より電話をして有ったらしく2人の医師と3人の看護婦が待機していた。治療室に移動ベットで運ばれた。ベットの上に横たわっていても、手だけは大きく左右に振動していた。心電図を測ろうと、看護婦が私の手首に、心電装置を巻こうとするが、手の揺れが激しく何度も失敗した。今度は男性医師が替わって、私に挑戦したが、心電装置を巻くことができず、失敗に終わってしまった。(マレーシアのホテルのプールにて)苦しい中呼吸困難な中でも、脳はしっかりしていた。次に二人掛りで心電装置を、手首に巻きつけた。 心電図の装置から腕で測ったが、震えが激しいために、機械がエラーしてしまう。私は、この世の見納めと必死に頑張った。呼吸と胸の苦しみは極限に達していた。「1500M競争」を全力で、走り抜けた後のような、激しい呼吸が続いた。また、胸が苦しくエビのように、反ったと言う。皆の声が次第に薄れた・・・「走馬灯の様にいろんな思いが脳裏を走った」胸を一生懸命叩いている医師の、顔がぼんやり霞んで見えた。周りからは大きな叫び声が聞こえた。その大きな声も段々と遠くに聞こえ、気を失った後は何も覚えてない。私が意識を無くしている間の事は、周りで私の、状態を見ていた人達の証言を基に書き綴った。医師は私の瞼を開けて、懐中電灯で瞳を照らしていた。瞳孔の変化を確認したのだろう。その後、心電図をとるために、手首から足まで、電極でつまんでいた。そして心電計を作動させていた。殆んど、反応がなかったという。(マレーシアのホテルのプールにて)医師たちは、大慌てで私の胸を何度も叩いたり、押えたりしていた。最後に、電気ショックを使用するため、その装置が治療室へ入ってきたという。電源を入れ、私の胸にあてた。私の上半身がエビのように反(そ)ったという。皆は最悪のことを考えていたようで、特に私に、ペニシリンを打った女医は「私は逮捕されるどうしよう」と、皆にしきりに話していたという。2回の電気ショックの後、心電図が大きく音を刻みだし、それと同時に胃の中の物を吐き戻した。「活き帰った!」と言う声が聞こえた。工場の医務室の「女医は涙をこぼしている」 10人ほど駆け付けた工場の女性管理者も声を上げて泣きじゃくっている。あれほど震えていたのが嘘のように、身体の震えも止まっていた。身体は何とも無かったかのように平常を保っていた。午後2時半担ぎ込まれてから1時間30分の、信じられない出来事だった。皆が「活き帰った」と言うのであればそうしておこう。人民病院の医師は「あなたは心臓が強い!だから助かった!」と言葉を残して行った去った。その頃日本では大騒ぎしていた。何度も事務所へ連絡を入れたり各担当者に連絡していた。「ペニシリンショックの当日4へ、つづく」 「ペニシリンショックの後遺症1」2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの当日4」からのつづき。(古い画像の未更新のものを更新)日本にいるときには陽性だったが20年も前の事。中国でもペニシリンを投与したのは8年程前のこと。そして今回は第一日目に、ペニシリンを打ったが、パッチテストをしてから投与した。しかし、中国の第一病院の医師はこう語った。以前アレルギー反応テストをして問題なかったと、いっても、人の体は大体3年で細胞が入れ替わり、ある種の薬は、拒否反応をしてしまうとの事。このアレルギー反応のバッチテストは、昨日問題無かったからと言って、今回も問題無いとは断言できないという。それが、テストを行わずに投与した場合、最悪ショック死すると言う。患者の疲労状態が悪ければ、アレルギーショック状態になってしまう。15年ほど前の中国では、このショック死事故が多発したと言う。私の場合は点滴を打つ前日に、相当、輸出通関のトラブルで疲れていた。そして、今までの出張の疲れが、一気に身体に現れ、医師は私の身体を早く良くしようとした。その医務室の女医の行為が、逆にあだとなってしまった。しかし、今こうしてタイプできるのも、生きてればこそであると通関する。(タイのエメラルド寺院の壁画)私は誰をも恨んでいないし、女医すらも恨んでなかった。だが、その女性医師は責任を感じたのか、逮捕を恐れてか失脚してしまった。その後、風の便りで広東省にいると、聞いた事があるが、大事に至らなかったため、医師免許も剥奪されず良かったと思う。アレルギーショックの翌日、担当している工場で、セレモニーが行われた。総勢、200人の来賓を招いての式典だった。私は一番前の席に着いたが、ショックの後の、後遺症によるとおもわれる、シャックリが止まらずにいた。シーンと静まり返ったセレモニーの会場、軽く咳払いをしても大きく響くほどであった。それが、横隔膜の痙攣による、シャックリである。昨日のペニシリンショックのことを知らない、来賓の人も多かった。私が、シャックリをするたびに、皆さんの視線が、私に注がれた生理的現象のシャックリは、我慢して、止まるものではなかった。シャックリは突然にやって来た。ある人は、私に水を一気に、飲んできた方が良いと、メモに書き手渡してくれた。しかし、私の場合は、自然に起こったシャックリではなくアレルギーショックによる横隔膜痙攣によるものだった。1時間の来賓挨拶の中に私も入っていた。社長がどうしても日本から来れなく、私が代理で、挨拶をする事になっていた。中国語で話す挨拶にも力がこもってなかった。そして、突然襲ってくる、シャックリ!訳を知らない人たちからは、笑いが起こり、最後には、私のシャックリを期待するような、雰囲気に変わっていった。(クワイ川に架かる鉄橋)私よりは、7・8分間ほどのスピーチを頼まれていた。はじめは、担当している工場のこと、また、皆様からの支援の要請や品質向上について、話していたが、シャックリが起因して笑いの渦になった。私は、突然に話す内容を切り替えた。一昨日起こった事を話し出し話し終わる頃には、私が、シャックリをしても誰も笑う人はなかった。皆さんの挨拶も終了し、宴会に入った。多くの人が、私のところへ来て下さった。そして命を落とさずに良かった事も話しながら、皆さん、ご自分の席に着かれてからも、心配そうに私の方を見ておられた。その後、夜中構わず続いたシャックリは、2日後に止まった。そのときに、シャックリでの、横隔膜の筋肉の痛みと、胸を思いっきり叩かれた痛みだけが、快い気分の中に、痛みとして残った。「シャックリ」でも2時間くらいなら致し方ないと思う。しかし、この横隔膜の痙攣により誘発された、シャックリではあるが、ペニシリンショックの後遺症により、一日経った頃から起こり始め、丸二日間続いた。辛いという度合いを越えていた。そのシャックリも、気が付いた頃には、自然に治まっていた。その次に、私を襲ったのは、全身に出来た蕁麻疹に苦しんだ。口の中や舌にも蕁麻疹が出来、この分では食道や、気管支にまで出来ていると思った。「ペニシリンショックの後遺症2へ、つづく」
2006.04.27
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「ペニシリンショックの前日2」2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの前日1」からのつづき。(クアラルンプールの画像は重複しています)この私が点滴を受けた所は、市の病院ではなく、工場の医務室だった。何となく身体の震えを感じながらも、今晩一晩様子を見ましょう!と女医の言葉。ペニシリンは5本を使ったようだ。何とも変な後味を残しながらも、医務室を出て、外に出た。その工場の董事長(会長)に会議をすると、伝えて有ったので、董事長より、身体の方はどうですか?との、電話が入った。すぐに大会議室に行くから、管理者を集合さすよう伝えた。私が、その大会議室へ着く頃には、22名ほどの班長や管理者が、揃って待っていた。私は壇上へ立っても、気分が優れなかった。今日の会議は中止した方が、と、總経理(社長)から、心配して言われたが、会議のテーマに沿って話し出した。会議が終わり、再度体温を測った。まだ8度8分の熱があり、早い目にホテルの、部屋まで、送って頂いた。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)その夜は、一緒に血まみれになった、中国の友人と共に、食事を摂った。ビールはやめ、紹興酒を熱くして、結構、その紹興酒を飲んだ。そして、昨夜の出来事のことや、犯人の目星がついた事など、彼は、私に告げるが、私はうわの空で聞いていた。そんな折、友人の携帯が鳴った。短い電話の内容は、警察からであった。殺された青年の両親が、安徽省から来ていて、我々に、お礼を言いたいとの事。私は、身体の不調を理由に、断ろうと思ったが、友人は来て下さいと念を押すので、仕方無しに頷いた。彼は食事をしているホテルの餐館の名前を伝え、電話を切ってしまった。30分足らずで、その両親が来たが、安徽省の田舎から、出てきたのか、よれよれの背広スーツを着用していた。そして、なまりのある共通語で、色々とお礼を言われた。私は座るように促したが、すぐに失礼するからと、立ったままであった。母親は、目に涙を浮かべ、時折、しずくが床に落ちた。長女が居るらしいが、男は彼一人で、これからどうして生きていけば良いのか?分からないとも訴えて来るが、私からは、どうしてあげる事もできない。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)10分ほどの対面だったが、ご両親の気持ちが痛いほど分かった。私とほぼ同じ年恰好だったのも、彼等の気持ちを理解できる要因だった。酔いが醒めたような感じで、紹興酒を再度熱くして頂き飲んだ。その夜中は、玉のような汗が噴出し、布団まで濡れてしまった。翌朝、どうも調子が戻らないので、皆の勧めどおり、再度、同じ医務室に行った。まだ治らないの?と言う女医の声に、どうもしっくり来ない!早く治さないと、仕事に影響を及ぼしてもいけないと話した。そして、女医は昨日と同じペニシリンを用意した。女医は私に「昨日は確か5本のペニシリンを入れたのだけど・・」あなたは、肥えているからと、「ペニシリン5本から8本打ってあげますね!」と、本数を多く打てば治るものなのだろうか?など思った。ホテルの朝食は、日本の味噌汁や、目玉焼き・海苔・漬物といったものではなくバイキング方式で、目玉焼きであれば、先に注文し、出来上がったものを食べる。中国の朝食のベストスリーは、お粥・マントウ、焼きそばである。地域によっても違いがあるが、おかずが旬の野菜類である。「ペニシリンショックの当日1へ、つづく」 「ペニシリンショックの当日1」1つのブログを閉鎖する為に、旧記事をこちらで公開。その後、そのブログから遠ざかり、2つのブログで、日々充実を図って行きたいと思います。「中国語の学習」と「上海発!画像の更新!」2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの前日2」からのつづき。今朝も同じ様に、食堂へ行ったが、熱の為に、朝食に手を付けたものの、味がしないために、少し口にしただけで食べるのをやめた。そんな事を思っている間に、ペニシリンの点滴の準備が、着々と進んでいた。女医は、「ペニシリンの反応試験は昨日したよね?」などといいながら、「今度は量を多くしたから良くなるよ!」と、ペニシリンが大量に入った点滴瓶を、上の引っ掛け棒に吊るし、昨日と同じように、手首を「ビシャ、ピシャ」と叩いた。注射針を血管に差し込みながら、「今日は昨日より30分多く掛かるよ」と、言った。早く治るのなら、30分の時間が掛かっても、問題ないよね!などの、会話が流れた。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)点滴を打つ、2時間の間に、よく眠ったようだ。気が付くと、あと10分ほどで、点滴液がなくなろうとしていた。また点滴を打ち終わった後で、トイレに行きたくなった。2時間以上トイレに行ってないのと、点滴の水分を、取りすぎたのだろう。点滴の注射針を外して頂き、直ぐにトイレへと駆け込んだ。用を足し、病室に戻る折、昨日よりひどい震えに襲われた。病室へ付くなり、その震えの度合いが増した。私から女医に現状の体の変化を訴えた。ペニシリン5本のところを8本にした事で、体がおかしくなったのでは?とか、今回はペニシリンの反応テストを、しなかったから駄目なのでは・・?などと、聞いてはみたが女医よりは、ペニシリンの反応テストは、昨日したから、今日はしなくて良い!量を少し多くしたくらいで、身体に影響はない!と、そのまま、工場の医務室を出て、付き添いの言うとおり事務所に入った。どうも身体が変だ!身体の震えがどんどん酷くなった。日本へ電話をしなければ・・・。今まで起こったことや、これから起こる未知との遭遇を・・。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)会社の誰が信じてくれるだろうか?また冗談をやってるくらいに、片付けられてしまうのでは・・・・。いろんな事が脳裏をかすめた。意を決して受話器を取った。ダイヤルを押そうとするが、ダイヤルを押すことができない。身体の震えが手に伝わり、指先まで伝わっているようだ。その震えの度合いは、横幅で15センチを往復していた。この震えが来る前の医務室での会話は、いつもの点滴を打った後の感じ方と、現在とで違う。この震えは異常発生の前兆では?と、女医に伝えた。医務室の女医は、怪訝な顔で、「変なことを言わないでよ!」と私に言った。さらに、「布団を被って点滴をし、打ち終わった後で、トイレに行ったから、外に出て寒いんですよ」と、そして、取って付け加えたように、「体内の中の暖かい尿を出したから」と、言って口ごもった。しかし、生まれてこの方味わった事の無い、寒さによる震えと、脳では制御できない手や体の震え・・・それでも仕事をしようと思い、ペンを持とうとするが、ペンが持てれない。「ペニシリンショックの当日2へ、つづく」 「ペニシリンショックの当日2」(クアラルンプールの画像は重複してます)2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの当日1」からのつづき。ボールペンを持っても手が左右に15センチ以上、震えるため、左右に線を書くだけ・・・。 電話をしようと、携帯電話を取ったものの、震えのため携帯電話を、落としてしまった。事務員がバラバラに分解した携帯電話を拾って組み立て、私に手渡してくれるが、それを手に、取ろうとしても、手の震えが更に大きくなり、受け取ることもできない。その女子事務員は、始め、甲高い笑い声を、上げていたが、事の異常さに気付いたのか、慌てて総経理室へ電話を入れていた。何とかFAX用紙に今の情況を、書き綴ろうと思うが、手の震えは大きく、15cmをジグザグに、線を描くだけだった。事務室へ行き固定の電話より電話しようと思うが、手の震えにより、プッシュホン押そうと思っても、15cmの手の震えによってボタンが押せれない。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)中国人に頼むが、「冗談ばっかりやってるんだから・・・」と、笑っているだけ・・・そして別の中国人が日本へ電話した。「日本人が出た」と私に告げるが、猛烈な胸の苦しみと、両手の震えと真っ青な顔色に、中国人は「ただ事ではない!」と、この時点で、悟った様である。私は受話器を受け取った。しかし震えのため言葉にならない。商社のアシスタントが、電話に出る。相手の声ははっきり聞こえる。だが私は、一生懸命になり、話そうとするが言葉にならない。元々FAXを書きそれを見て下さいと、言おうとしたのだが、「FA!FA!FA!!」電話の向こうでは、「どちら様ですか?もしもし?」「はぁ!はぁ!」「FA!FA!」「もしもし、どちら様でしょうか?」「もう!もう!ダメ!」「いたずらはやめて下さい!」いたずらではなかった。更に、アシスタントは、「どちら様でしょうか?」「もしもし・・・?」(クアラルンプールの中心街百貨店にて)私よりは、「胸!胸!苦し、、、い!」「FA!FA!FAX!」と、しかし、日本語になってなく、「変な電話はやめて下さい」と、言って電話の音声は途切れた。もうダメか?日本へも知らせれない!そんな折、私は気付かなかったが、「ブーザンが大変なことになった」と、中国人より、私の会社へ連絡が行った。持っていた受話器は、手から離れてしまった。「息が出来ない!」「苦しい!」「事務の男3人が、私を抱えるように、車に乗せ人民医院へ」医務室からも点滴を打った女医が、形相を変え飛んで来ていた。「緊張しないよう!」「深呼吸をして・・・!」この時、女医も事の重大さが分かったようだ。何度も大きな声で、「緊張しないように!」と、掛け声を掛けていた。「ペニシリンショックの当日3へ、つづく」
2006.04.26
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「ペニシリンショックの二日前1」今日も相変わらずADSLは不通のまま、この1週間で、1.6キロ痩せてしまった。1つのブログを閉鎖する為に、旧記事をこちらで公開。その後、そのブログから遠ざかり、2つのブログで、日々充実を図って行きたいと思います。2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。この話は連載で、ブログに載せたことが事が有るが、ここでも紹介しておきたい。以前にも一部の人にはコメントの中で書いたと思うし、まだ最近でも、このペニシリンショック死が上海でもある。その事を、今回ネットの不調で外に出る機会が多くなり、地元中国人から3日前にこの近くの病院で亡くなったと教えてくれた。私は場所と団体名を敢えて伏せさせて頂きました。出張先のホテルの横に1階サウナ2階ボーリング場3階ディスコがあり、私は久しぶりにディスコへ行った。こんな年でと思うかもしれないが、私がモード学園へ、入った頃(32年前)に、ディスコが大流行していた。そのディスコの話はいつかするとして・・・! どんな出来事が起こったかを書いていこう。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)ディスコの中央の私の前で踊っていた青年が、よろよろっと、私に倒れ掛かかってきた。相当酔っぱらってるな?と、思いながらも抱きかかえて、起こすがまた倒れかかるので、これは何か具合でも悪いと、中国の友人に、フロントへ知らせる様連絡・・・係りの人が来る前にブーザンは手に付着した粘っこいものに、気付き友人とその人を引きずりソファーへ寝かせました。女の子の「ギャー!」っと言う声にも、まだ気付かずに、踊っている人達、係員に大声で、「馬上停止音楽!」と、3回の大声でやっと止めてくれた。照明を付けるようにうながし、直ぐに「110番へ」連絡・・腹部の動脈を刃物で一突きされている。四方八方血の海・・・ふと友人の服を見ると、血で真っ赤になっている。友人も私の服を指差す。ブーザンの服も血だらけ・・・皆は私達とその人を遠巻きにしている。「止血をしようと思っても腹部である」私のシャツの袖を、引き千切り力を、込めて押えるるのがやっと・・・彼の頬を叩くが意識朦朧・・・「こんな所で死ぬんじゃないぞ!」「警察はどうした!」「救急車は無いのか?」と、大きな声の中国語で叫ぶが、誰もが只見ているだけ・・・彼の心臓に手をやるが動きが分からない。ワイシャツの袖から、血が溢れ出る。「どんな恨みが有ってこの青年をこんな目に・?」「彼は目を開いたまま身動き一つしなくなった」ブーザンは彼の顔を思いっきり叩いた!叩いてまた叩いた! 堪りかねた中国人が私の腕をつかんだ。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)「そんなに叩かなくても良いではないか!」緊張した雰囲気が流れた。私の友人が医者を呼んでいたらしく20分ほどして近くの医師が来た。 医師はブーザンに「貴方の友人か?」と聞くが、そんな事より「どうですか?助かりますか?」と聞いた所、「脈はかすかに有るが、これでけの血を流している。輸血しても無理かも・・・」医師は車で来たが「この人を乗せる訳にはいかない!」と、シートが血で汚れる事を嫌がった。中国の友人が「誰か担げるものは居るか?」と、大きな声で言うが目をそむけるものばかり・・・「彼の友人は・・・」と聞いても誰も何も答えない!ブーザンと友人で担ごうとするが、180センチの頑丈な身体は、びくともしない!私の友人が「公安警察が来た!」との声に、振り向くと「誰もここから出るな!」と言っている。無線で応援を呼んでいるような感じだった。そして、私の友人を捕まえようとするので、店の支配人が弁明するが、人命救助が先決とののしる!タンカに載せて運ぶが、3階より1階へ、下ろすまでににも、血が流れ落ちる。ブーザンと友人は人民医院へ行きたかったが、それは、警官より許可がでなかった。私と友人また支配人は事情徴収を受けた。「ペニシリンショックの二日前2へ、つづく」 「ペニシリンショックの二日前2」ADSLが直って、外に行かなくとも出来るように、なった。それは嬉しい事ではあるけれども、体の方が、直ぐに切り替えられないでいる。画像はマレーシアの百貨店内の画像であるが、登録する時間が無く、重複している画像が多く、見受けられるとは思うが、無視をして下さい。1つのブログを閉鎖する為に、旧記事をこちらで公開。その後、そのブログから遠ざかり、2つのブログで、日々充実を図って行きたいと思います。2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。「ペニシリンショックの前日1」からのつづき。その事情徴収を受けている1時間くらい過ぎた頃に、先ほどの青年は、輸血の手続き等をしている間に、完全に息き絶えてしまったと一報が入った。私の事情聴取は、簡単な形式程度で終わった。江蘇省の片田舎で、1時間も走れば安徽省だった。ここの街の公安局も貧しい田舎の割りに、立派な建物である。また、幹部の人達とも、2度食事をしていたので、2人の公安幹部も私を知っていた。公安幹部が私を知っていた事も助かったし、私の身分を証明するパスポートも、携帯していたので処理が早かった。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)しかし、中国の友人はかなり厳しく取り調べられていた。ブーザンは通りすがりだったが、この青年を、救えなかった事に腹が立った。ディスコでの暗がりの中での見事な一突き!喧嘩もしてない!恨みを持った犯行であるとは思うが・・・真相は本人が死亡し、犯人は早くから逃走!彼の交友関係を洗うしかないだろう??? ブーザンと友人も血のりが乾きだした服を、着たまま取調べを受けていた。取調べを受けていた2時間の間にも、いろんな犯罪者が連行されて来ていた。取調べの最中にいきなり大きな声がしたかと思い、そちらの方を振り向くと、当に手錠を掛けるところ、泣き出す中国人青年の顔・・・。私の友人の取り調べもそろそろ終わりに近づいた。顔馴染みの公安の幹部のうちの1人が、「その血だらけの服装ではどうにもならないですね」「これはそんなに綺麗とは言えないが、この服に、着替えて直ぐサウナに行き血を洗い流してください!」詳しく聞くと、清掃作業員の服らしいが、血のりの着いたジャンバーやシャツよりは、まだましと思いそれを羽織った。そして私たちの後に背の丈185cmはあろうかという、男性が仁王立ちに立っていた。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)「非番の警官を同行させますから・・・」そして、遊戯施設一階のサウナに、ハイエースバンのパトカーに乗せられ一緒に行った。サウナのフロント嬢や支配人は、その非番の警官を見るなり、「さっきこの3階で殺人事件が有ったって本当ですか?」などと聞いていたが、「この人達を中へ入れてやってくれ!」と、二人分のサウナ代を支払うと、私達に一礼して帰ってしまった。サウナ室の方へ行くと「や~!ブーザンさん!」と、いつもの掛け声!その掛け声と同時に、「どうしたんですか?その血は?」皆さんビックリ顔!!サウナには、顔見知りのメンバーもいたが、何があったのか?と、いう顔で、身体を洗う手をとめて我々を見入る者や、バイブラバスより身を乗り出して、面白そうに見入る者。また、近くまで来てこの3階で起こった事を、いかにもその場に居たような感じで、得意げに話す者、様々だった。そして皆が驚いて見るのも、不思議ではなかった。下着は替えなかったので、白の下着の両腕に血が染み込んでいた。「これは捨てて下さい!」と言い置き、代わりの下着を買ってくるように促した。夜も10時過ぎと遅かったが、個人の店で、買って来てくれたようだった。そして、血のりの付着したジャンバーや、シャツや、ジーパンをサウナの中へ持っていった。「ペニシリンショックの前日1へ、つづく」
2006.04.25
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「ペニシリンショックの二日前1」今日も相変わらずADSLは不通のまま、この1週間で、1.6キロ痩せてしまった。1つのブログを閉鎖する為に、旧記事をこちらで公開。その後、そのブログから遠ざかり、2つのブログで、日々充実を図って行きたいと思います。2002年1月の出来事で、以前の商社時代の話です。この話は連載で、ブログに載せたことが事が有るが、ここでも紹介しておきたい。以前にも一部の人にはコメントの中で書いたと思うし、まだ最近でも、このペニシリンショック死が上海でもある。その事を、今回ネットの不調で外に出る機会が多くなり、地元中国人から3日前にこの近くの病院で亡くなったと教えてくれた。私は場所と団体名を敢えて伏せさせて頂きました。出張先のホテルの横に1階サウナ2階ボーリング場3階ディスコがあり、私は久しぶりにディスコへ行った。こんな年でと思うかもしれないが、私がモード学園へ、入った頃(32年前)に、ディスコが大流行していた。そのディスコの話はいつかするとして・・・! どんな出来事が起こったかを書いていこう。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)ディスコの中央の私の前で踊っていた青年が、よろよろっと、私に倒れ掛かかってきた。相当酔っぱらってるな?と、思いながらも抱きかかえて、起こすがまた倒れかかるので、これは何か具合でも悪いと、中国の友人に、フロントへ知らせる様連絡・・・係りの人が来る前にブーザンは手に付着した粘っこいものに、気付き友人とその人を引きずりソファーへ寝かせました。女の子の「ギャー!」っと言う声にも、まだ気付かずに、踊っている人達、係員に大声で、「馬上停止音楽!」と、3回の大声でやっと止めてくれた。照明を付けるようにうながし、直ぐに「110番へ」連絡・・腹部の動脈を刃物で一突きされている。四方八方血の海・・・ふと友人の服を見ると、血で真っ赤になっている。友人も私の服を指差す。ブーザンの服も血だらけ・・・皆は私達とその人を遠巻きにしている。「止血をしようと思っても腹部である」私のシャツの袖を、引き千切り力を、込めて押えるるのがやっと・・・彼の頬を叩くが意識朦朧・・・「こんな所で死ぬんじゃないぞ!」「警察はどうした!」「救急車は無いのか?」と、大きな声の中国語で叫ぶが、誰もが只見ているだけ・・・彼の心臓に手をやるが動きが分からない。ワイシャツの袖から、血が溢れ出る。「どんな恨みが有ってこの青年をこんな目に・?」「彼は目を開いたまま身動き一つしなくなった」ブーザンは彼の顔を思いっきり叩いた!叩いてまた叩いた! 堪りかねた中国人が私の腕をつかんだ。(クアラルンプールの中心街百貨店にて)「そんなに叩かなくても良いではないか!」緊張した雰囲気が流れた。私の友人が医者を呼んでいたらしく20分ほどして近くの医師が来た。 医師はブーザンに「貴方の友人か?」と聞くが、そんな事より「どうですか?助かりますか?」と聞いた所、「脈はかすかに有るが、これでけの血を流している。輸血しても無理かも・・・」医師は車で来たが「この人を乗せる訳にはいかない!」と、シートが血で汚れる事を嫌がった。中国の友人が「誰か担げるものは居るか?」と、大きな声で言うが目をそむけるものばかり・・・「彼の友人は・・・」と聞いても誰も何も答えない!ブーザンと友人で担ごうとするが、180センチの頑丈な身体は、びくともしない!私の友人が「公安警察が来た!」との声に、振り向くと「誰もここから出るな!」と言っている。無線で応援を呼んでいるような感じだった。そして、私の友人を捕まえようとするので、店の支配人が弁明するが、人命救助が先決とののしる!タンカに載せて運ぶが、3階より1階へ、下ろすまでににも、血が流れ落ちる。ブーザンと友人は人民医院へ行きたかったが、それは、警官より許可がでなかった。私と友人また支配人は事情徴収を受けた。「ペニシリンショックの二日前2へ、つづく」
2006.04.25
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「反日感情に思う」今日もネットは回復しないまま5日目の朝を迎えた。今日はこれから上海中心街へ、地下鉄で中山公園まで行き、その後バスで、虹橋の方へ行って食事会に合流する。ちょうど1年前に反日デモがここ上海でも起こって、日本でも大きなニュースとして取り上げられた。その事によって、中国への旅行者が半減する事態となった。日本から中国へ良好に来ていた人は結構多かった。その反日デモの時の前には、上海公安局から私の携帯にまで、デモには参加しないようにという呼びかけ携帯メールと、反日デモは、人民人場からどのようにデモ行進をするなど、事細かに記した反日デモ参加への呼びかけメールも、私の携帯へ流れた。私はその日を、何とも言えない感じで、迎えたが、その朝から色々な情報が私の電話に入った。今日は、反日感情についてと題して、書き綴ってみたいと思う。先日から、多くの中国人が私と討論になる事は、反日感情。どうして我々は反日感情を露わにしているか分かるか?との、話しにも、人が4人・5人と増えれば増えるほど複雑になる。4年に一度行われる歴史教科書の改竄問題に文句を言う者、日本国首脳陣の靖国神社参拝問題に触れる中国人。尖閣列島の領有権・釣魚島問題や、最後には中国には関係ない竹島問題まで飛び出す。中国人7・8人と食事に行き、酒が入ると皆が、挙って日本人である私に意見を言うが、「私は日本を代表して、ここへ来ている者でもないでも何でもない。私こそ、この問題で迷惑を被っている一民間人である」事を伝えた。すると、彼らは、「勿論そんな事は百も承知している。周りに日本人が居ないし、例え居ても中国語が充分に、理解できないので差し障りのない話しをしている。だから、貴方が考えてる事で言いから話して下さい」と、私はその前に「まず乾杯をしましょう」と杯を、ターンテーブルガラスに打ち付けて白酒を飲み干した。そして「一人づつ何が聞きたいのか手を上げて質問して下さい。また、私が話しをしている時に、横槍が入った場合は、私は一切話しをしない。この事柄を、貴方達は守って頂けるなら、話しても良い!」と言うと辺りは騒然となった。一番若い人が地元で有力者の社長の子息で大学院の24歳!一番年配者は、鎮政府を既に退職した63歳の人だが、未だに共産党員で手強い。まず多くの従業員を抱える工場の中国人社長が手を挙げた。48歳の彼から質問の内容は以下の通り。「あなたは、一年前の反日デモの事を、どんな気持ちで、見守ったのか?」との質問だった。そしてどう答えれば良いか、考えていると「早く答えて下さい!」と、私より、「先ほど注意をしましたね。幾ら酒の席でもルールはルール!横槍は入れないように、守る事は守って頂きます。今日の食事会には、日本からのお客さんは誰も居ませんが、礼儀作法だけは紳士で行きましょう」と、結構強い口調で彼らに話した。私も幾分酒が入って、興奮気味になっている事が自分でも分かった。前回の上海でのデモに関しては、私の携帯にも参加呼びかけの、メールが、3通入って来ていた。メールを送って来た中国人に「何故私にまで送り付ける」と、叱責したりもした。「相手構わず、手当たり次第にメールを送った」と、そして「悪気があって送ったのではない」と言い訳をしていた。ゆえに、このデモの内容については、早くからキャッチしていたが、出来うるならば、反日デモを行わずにいて欲しかったと、言うのが本音であった。大部分の中国人とも反日感情についてどのように思っているのかを、聞いてみたが、明確に答えれない人が多いのには驚いてしまった。反日デモに参加した彼らが、教科書の改竄問題など何処まで、知っているのであろう?日本には、学校用に作られている歴史教科書は、幾つかの、団体が作っており、また改竄点について、右翼団体の作った歴史教科書に、日本軍は国民党政府の首都である南京を、陥落させれば蒋介石は直ぐに投降すると考え、ゆえに日本軍は南京を占領した。当時日本軍と中国軍、民間人に多数の死傷者が出た事を、彼らに話した。この他にも、この南京事件の死亡者数の実際の、状況においては、資料上疑問点が存在し、各種の見解があり、未だに論争が続いている。教科書は日本の発動した侵略戦争を、大東亜戦争!資源供給を、絶たれた為と綴っている個所があったことは事実のようだ!と、話し終わった時に、横槍が入った。「その事は、ブーザンも認めるのですか?」と、2人がほぼ、同時に立ち上がったが、質問している中国人社長が彼らを静止し、その間に、続けて彼らに話した。「私は見てないが、そう書いて有るようだ!しかし、どんな事が書かれているにせよ、学校側はそれを選ぶ権利がある」事も告げ、この本を授業に、使うのは日本の一部分である事も告げた。そして、靖国神社問題も彼らに話した。靖国神社の歴史について、1863年の薩英戦争の事を、話し出すと、彼らはそんな昔の事ではなく、この前の戦争の事と、言い出し、中国人がまたそれを静止した。そして薩摩藩の島津公が江戸から参勤交代で帰国途中、現在横浜の生麦村を通過の時に、島津公の行列に馬で乗り入れた上海のイギリス商人ら4人を殺傷した事件で、イギリスの軍艦と戦いになり60名余りが戦死し靖国神社に奉納の基盤を築いた。つまり、明治天皇の意向で、第一次・二次長州征伐や鳥羽伏見の戦い五稜郭の戦い等、国事に殉じた官軍の戦没者を慰霊するために、1869年、東京・九段に東京招魂社として明治政府によって設立され、1879年に靖国神社に改称された事などを、ノートに文字を書き、ピンインを付け加え彼らに説明。彼らは聞く事に疲れてきたらしく、言葉少なかったが、明治維新から日清戦争や日露戦争、そして太平洋戦争までの、戦没者約250万人が祀られていると話すと、彼らの中から、「東条英機も祀られているのか?」と声があがったが、それには簡単に頷いただけだった。そして多くの遺族会からの要請で、靖国神社が戦没者靖国合祀を行った。「問題はここからだ」と話し出すと、「まだあるのか!?」と、言うので「ここからが、あなた達の知りたがっているところだ」と、「私達の知りたいのは、あなたが今回の反日デモをどう思ったか?」で、あって、そんな事聞いてない。もう、30分以上話してきたので、皆疲れきっているのだろうとも、思ったが、そんな事には構わず「我慢して聞きなさい」と言うと、顔を見合わせ、とんでもない人に、反日感情の事を話したものだと、言った感じだったが、小さいノートを手に話し出した。1978年10月、靖国神社は、密かに極東軍事裁判で有罪判決を、受けた東条英機らのA級戦犯を「昭和受難者」として合祀。この事が、1979年4月に各国へ判明し、中国や韓国など近隣諸国から、戦争犯罪人を祀った靖国への参拝は、日本が戦争を反省していない証拠との非難が上がった。このニュースは実際に耳にし目にもした。1985年8月、中曽根首相が、「二十一世紀へ向けての前進の体制をつくる」と述べ公式参拝をした。中国や韓国などで激しい抗議運動が起こり、1986年、後藤田官房長官が、「A級戦犯を合祀している事もあり、平和友好への決意に誤解と不信が生じる」と、公式参拝は見送られた。そして2001年8月、公式参拝は「憲法に違反しない」と公言していた小泉首相が、内外の激しい批判を無視して靖国神社参拝を強行した。この時、私は丁度、南京に居たので、皆より本当に辛くなるような話しや罵声を浴びる事になった。つまりは、この私自身が、日本で何が起こったのかを、把握してなかったので、戸惑いは隠し得なかったし、今より中国語も流暢ではなかった。ここまで話して、ビールを頼んだ!のどが渇いて仕方なかった。聞いている彼らも、相当疲れているに違いないと思ったが、それには構わず、「で、先日の反日デモの、私の思いを話す!」と、冷たいビールを飲み干し彼らに言った。私もかなり興奮していたのだろう「どうして、一年前に投石や、あそこまでヒドイ事をしたんだ!」と、立ち上がって彼らに言ったら、質問をした人は、「まあまあ、落ち着いて下さいよ!貴方が興奮したら洒落にもならない」と、言って、私の肩を手で、軽く叩き、座るように促した。思わず私は、日本の国家を歌わず、中国の国家を、「起来!不願做奴隷的人們・・」と歌い出したので、中国人からは「誰この人?!」と、あきれる人も・・・。そして、「あの時の反日デモで器物損壊をした中国人45人ほどが、逮捕され、厳しい5年以下の懲役刑」になる事を告げると、「それは日本人を騙すためのものでしょう?」と言うものですから「中国中央電視台」と告げると、皆は黙ってしまった。そして、彼らは疲れた表情で、「歴史の事実を変えてはならない!真実を語るべきだ!」と、言うものですから、再度「起来!・・」と歌い始めると、「もう分かった!」と、それから皆で、ナイトクラブへと繰り出した。先ほども、彼らの中の2人から携帯へ電話が入り「有難う!私達の思っていた事と違う事が聞けれた。貴方が言った事が真実かどうかと言う事よりも、腹を割って話しが、出来た事に感謝する」と、更には、「我々には過去の歴史だが、このような事実を踏まえて、お互い分かり合えれば、素晴らしいと思う」と・・・。
2006.04.22
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「泰国西部桂河(クワイ川)遊」タイのクワイ川遊覧で、船上にての食事の模様です。私達は、船上レストランに乗り、そのレストランを、ボードで引いてもらいながら、食事やカラオケなどを、思いっきり楽しんだ。画像のようにモーターボートにて水上レストランを、牽引しクワイ川を遊覧した。川岸の色んな風景をも見ながら船はゆっくりと、クワイ川を進んでいった。牽引しているボートを撮影しようとするが、上手く撮影できない。この部分でも20枚ほど、露出補正をしながらシャッターを切った。露出補正をするとは、写真画面の全体的な明るさや、暗さを調整するというものである。一般の人はまずこの部分の調整はしないであろう。昔、フィルムを使って写真撮影していた頃は、この露出補正で写真の仕上がりが違っていた。だから、同じ画像を露出を変えて5・6枚撮った。その中で一番良いものを選び出していた。それでも、思い通りの色には仕上がってない。だが最近はデジカメになり、デジカメ画面で、大体の仕上がりの色を確認する事ができる。ピントについては、色々な諸問題によって、手振れや遠近感でピントが合ってない等の問題で、意外とがっかりした出来上がりのものも経験する。出来るならば、最低同じ場面の画像を2枚撮影すると、ある程度問題も削減する。問題発生率が50%になる。オートだけで撮影して来ても良い画像は取れると思う。私の言っている事は、より良い画像を追求としようするならば、この露出補正は欠かせない重要なポイントになる。確かに、スクープと呼ばれるようなシャッターチャンスが、1回しかない場合には、露出補正をしている時間などないので、そのまま、シャッターチャンスを優先して撮影するべきであり、例え色が悪くとも例えピントが合ってなくとも、価値はある。あくまでも、風景写真やポートレートのような場合には、この露出補正は重要になってくるのである。ゆえに、最近、忘れかけていた一眼レフデジカメの存在を、気にして何とか手に入れたいなどとも思っている。露出補正をしながら撮影した「私のスープ」があるので、このあとに更新してみたいと思う。
2006.04.06
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「バトンが回ってきました」「○o。.マリーのお部屋.。o○さん」からBBSにカキコあり!「バトンを回させていただきました。お手数ですが、引継ぎをお願い致します。」只これだけしかBBSには有りませんでしたが、今日マリーさんの、ブログを見て何となく「連想尻取り」などと感じました。。何でも3人に送らなければ駄目との事です。この前バトンを送って、気不味い思いをされた人もいます。ですから、今回は慎重に人選しないといけませんね。前回のバトンがまだ終了してない人もいらっしゃいますので、今回は、サッチャーさんや美智子妃殿下の前でハーフを、演奏された「47弦の詩人さん」がまずお一人・・。バリ島で頑張ってらっしゃる「JLmamoさん」そして、最近友達になりました「ぐびっとさん」の、この3人の人にバトンをタッチさせて戴きます。ルールが分からないので、私がルールを作ります。バトンが回ってきたら、連想するものを一つ書いて下さい。そして3人と書かれてますが、最低お1人の人にバトンして下さい。現状の最後は「ハリーポッター」です。「ハリーポッター」から連想するものを一つ書いて、次の3人の人にバトンタッチして下さい。皆様、お忙しいところ申し訳御座いませんが、何卒、ご協力の程宜しくお願い致します。私は、7つ書きましたが、1つでいいですよ!バトンが回わって参りました内容は下記の通りです。海⇒川⇒水⇒雨⇒雲⇒空⇒青⇒ポカリスウェット⇒スポーツ飲料⇒潤う⇒汗⇒夏⇒クーラー⇒寒い⇒冬⇒雪⇒雪だるま⇒白⇒白熊⇒カキ氷⇒祭り⇒混雑⇒ラッシュアワー⇒電車⇒通勤⇒会社⇒深夜残業⇒深夜営業⇒コンビニ⇒新商品⇒春物⇒ピンクの唇⇒ちゅうしてぇ!!⇒おんな心⇒秋の空⇒毎年恒例冬の大放出⇒福袋⇒わくわく⇒日記コメント⇒交流⇒仲間(心の繋がり)⇒輪⇒ノット(結び目)⇒風呂敷⇒東京ぼんた⇒あの世⇒星⇒プラネタリウム⇒星座⇒占い⇒細木数子⇒ポマード⇒永ちゃん⇒キャロルそして、私からは下記の通りです。キャロル⇒ルイジアンナ⇒ヘイ・タクシー⇒グッド・オールド・ロックン・ロール⇒エルヴィス・プレスリー⇒監獄ロック⇒ワーナー映画⇒ハリー・ポッター⇒(このあとつなげて下さい。)私は、トラックバックを上げてないので、皆さんにコピー&ペーストして、回りますので宜しくお願い致します。バトンされる場合は、「海⇒川⇒・・・ワーナー映画⇒ハリー・ポッター⇒」と言うように全てコピーして、3人の人の掲示板に貼り付けますので、何卒宜しくお願い致します。「掲示板に行きましたら、半角1600文字の所、現在: 半角2170文字で送れないとメッセージありでこちらまで、ご足労でも見に来て頂かなくてはならなくなってしまいました」以上 ブーザン@上海
2006.04.02
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「家族と私」最終回40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。--------18--------「家族と私」もこの章で最終回です。私の実家へもそうであるが、妻の島根県の実家へ行く事は、中国へ出てより全く実現しなかった。島根の義父は酒が好きで、私も中国へ出るまでは義父と、よく酒を飲んだ。晩年義父は葉巻の葉の栽培に追われ、お盆などに妻の実家へ着くなり、葉の乾燥作業を、手伝ったものだった。温厚ないつも笑顔の絶やさない義父であった。その娘である私の妻が自分の嫁との何かのトラブルで、一人取り残されてしまった。私というと母の元へ妻と一緒に住むことを相談に来ている。過去、15年の間に何度も、実家に入るように母より言われてきた。しかし、色んな事情で、それを妻が断ってきた。「子供と共に住みたい」その母の思いと妻の思いとが、オーバーラップして脳裏に浮かんだ。幸せに、息子とその嫁と生活をしていくというその妻の思いは、一瞬のうちに打ち砕かれて、大きな亀裂が入り、思い悩み苦しみ、以前44キロあった体重が39キロまでに痩せてしまった。我が家の問題も仕事中は忘れており、忘れられる。移動中の車の中で現れては消えまた現れては消えるが、このように我に返ると、妻のことが不憫でならなく思う。我が家の問題も、何とか解決しなければならないとは、思うが、所詮、焦ってみてもどうなるものでもない。覆水盆に帰らずというこの世間一般の慣わしは、夫婦の事に対して語った諺のようであるが、我が家の人間関係もまた、姑と嫁の人間関係である。しかし、まだ盆を傾けて水をこぼした訳でもない。まだ姑と嫁の人間関係が始まったばかりで、それにまつわる私も、心悩ます問題に直面し「家族と私」のエッセイに織り込んだ。姑の夫である私は、嫁の夫である次男が、不憫でならない。だが、その中にあり妻の心の内を察すると私も辛い。どこの家庭でも通り抜けなければならない問題でもある。これだけは、避けては通れないので、どんな方法が、この場合に適しているのかも思い悩んだりもした。そして、2年後には新たな姑と嫁人間関係が始まる。つまりは、私の母と私の妻の間に入らなければならない。全てを捨て、私の母の元に身を寄せよるよう話したが、私の一存によって、妻の一生を左右しようとしている。この世に生まれた時が、プロローグ・・・・。そして、よちよち歩き出したときが人生第1章・・・。母の、乳房を離れるときが人生第2章・・・・。言葉が話せるようになった時が第3章・・・・。人生なんて長くもあるが、振り返ってみると実に短いと、実感する。あの時は、あのようにすれば良かった。またあの時は・・・。妻は、いつも私の後から付いて来てくれた。結婚してから、妻には苦労の掛けっぱなしだった。そして、13年前には妻の反対を押し切って中国へ出てきた。その間、3人の子供を育てるために精神的に苦労を掛けた。3人の子供達も伸び伸び育ってくれた。3人の子供達も、それぞれの人生に旅たってくれた。あとは、3つの人生を見守るだけである。私自身、このように中国で子供のように伸び伸びと、人生を送れるのも、妻のお陰だ。今でも、妻の行為に甘えてしまっている私。何も文句を言わずに、ここまで有難う!今まで言葉に出して言えなかったけど、私が倒れて、のたれ死にするその、死ぬ時に、「おまえのお陰で良い人生だった」と妻に告げたい。 ↑会員でないと見れません。このフレーズは、歌にも歌われたが好きなフレーズ。別の「ソーシャル・ネットワーキングサイト」で、そのフレーズに賛同した366名の若者の名を連ねる。「○○○と私」のバトンリレーも今回で最後となった。「40-loveさん」から受け継いだバトンも確実にリレーされた。既に「○○○と私」のお題で更新されたブログです。「でお0308さん」「dadaozhixingさん」「HOROGOさん」「桃麻さん」「ピーコ1750さん」現在考慮中の人のブログを、ご紹介致します。「rafiaさん」「更年期かあちゃんさん」「ゆかりんさん」「家族と私」は、これで終わりです。あとは、画像の更新の通常の更新に戻りたいと思います。この連載は、フリーページへ更新致します。
2006.03.22
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「家族と私」その17 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。 私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。 --------17--------私の実家で弟が話していた。その兄貴が日本に居ない間、残された兄弟で、何度喧嘩した事か、兄貴は知らへんやろ?妹の旦那も「お兄さんが、ハッキリして中国へ、行かなかったから、財産の問題でももめた。」と、俺達の間が変になったのも兄貴がハッキリしないからや。お袋が話の中へ入った。弟に「あなあたは黙ってなさい」何かと言うと、訳の分からない事を、言ってちょっとは、黙ってなさい!と・・・。母は、私の方は、いつでも良いよ。○○さんには、明日からでも、良いから早く来て下さい。って、伝えておいて下さい。妻の心配は「こんな長い間、お母さんの所へ来ないで、今更来なくても良いよって、言われたらどうしよう?」と、不安がっていた事を母に告げた。母は、「そんな事は何も考えなくて、足も弱ってきたから、来てもらうだけで、もう十分と伝えて下さい」と付け加えた。私は母と血がつながってないが、弟は母が産んだ実の子で、あり本来なら弟がこの家に入るのが自然だった。そのような弟の気持ちを思うと、何も言えなかった。弟は苦労して美容師を目指し勉強して、いくつもの店で修行し、自分の店を出し土地を購入し店舗と住宅を建てた。私といえば、プレタポルテの修行後、デザイナーを夢みた。しかし、今まで半ば軽蔑していた縫製工場を経営していた。25歳だったが、この時に長女もできた。25歳から40歳までの好景気も、1991年末に起こったバブル崩壊の2年後より段々とかげりが見えはじめ、崩壊の波が押し寄せて、来るのが肌で感じられた。工場を大幅縮小今で言うリストラを行い、妻に工場を任せ以前より話の有った中国の仕事を承諾した。その中国へ行く8ヶ月前に父を見送り、中学2年と高校1年、そして高校3年の3人の子供を残し中国へ向かった。バブル崩壊で私の友人たちも財産を失った者や、一瞬にして2億の借金を背負った者もいた。多くの悲惨な状況をも目にしたが、友人などは負債が負債を、呼び、追いやられ、悲惨な最期を迎えた者までいた。私が中国へ行く気になったのは、そのような背景もあってのこと。自分が培ってきた腕が、どこまで通用するのか、試したい気持ちもあった。しかし、そんな自分を飾り立ててもどうなるものでもない。そして私が中国へ来て5年を過ぎた頃、私が妻に託した工場の、お客様が倒産し、当然のごとく、1ヵ月半の加工費が入らず、中国にいる私は工場の閉鎖を通達した。妻は、もう少し頑張って仕事をして行きたいと懇願もしたが、これ以上の負債は命取りになると説得仕方なく応じてくれた。すべて清算した。私が思っていたより負債額は少なかった。早く決心して、工場を閉鎖したからだとも思った。25歳で工場を経営し、気付いてみたら何も残っていなかった。残ったのは思い出だけのようにも思えてならなかった。そして、妻が必死の思いで建てた家も、あと2年で私から子供の名義に替えようとしている。妻はそんなにあわててあなたから子供に名義を変えなくてもいいのではありませんか?とは言うけれど・・・。三番目の次男が結婚する前に妻から来たメールには、○○ちゃんともうまくやってるから、私は黙ってみてます。しかし、その喜びも束の間次男と嫁は結婚式を挙げた後、嫁の言いなりで外に出てしまった。やはり、名義は次男に変更し、彼らの幸せを願うのが一番、良いと思う。そして妻の幸せをも考えるとその方が得策なのではと、私が判断した事である。そして、母一人で、ほったらかしていた実家に妻を行かせて、ゆくゆくは、実家に私も入ろうとしている。私は今まで、何でも自分で判断し決定して、それを家族に、押し付けていたように思い「兄貴は勝手過ぎる」と、弟が文句を言いたいその気持ちがよく分かった。「家族と私」その18へつづく
2006.03.22
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「家族と私」その15 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。 私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。 「バトンリレー」でブログに「普段書かない記事」を、書いて下さいとの条件付です。ですから私の心を、さらす事になってしまいますね。そして、ブログを飾る事も出来ませんね。 「家族と私」のタイトルで記事を書いて行きます。 --------15--------ここまで、いろんな事が有ったが、何とか、長女・長男・次男の結婚式も、無事終了という、運びになったのである。長男には5歳の女の子が、長女には間もなく、1歳になる女の子がいる。子供が生まれたら生まれたで、その成長振りを、写真に撮りメールで、送ってくれた。また、「ID・PASS」の掲示板に貼り付けては、私を楽ませてくれた。しかし、私には悩み事があった。私の実父は13年前に他界していたが、私の義母(実母と同じ感覚)は一人でいる。私は長男であり、この中国から日本へ帰国するならば、現在、妻が住む家は、次男が継ぐ事になっていた。そのような将来の話になると困り果てた。自分達の老後の生活にも関係してくるゆえに、慎重になるが、仕事とは別な慎重さであった。特に妻との話し合いには特に慎重さが増した。母一人で住む家に妻に行って欲しいためでもあった。命令口調も言えないし、懇願する勇気も無かった。まずは母の元へ行った。140kmの道程であった。3年ぶりに訪れる実家で、夕飯には早かったが、近くのスーパーで、買い物をした。だが、買い物などしたこと無い私にとって、その時間が楽しくも感じた。一晩泊まるのに9千円もの刺身や出来合いの、惣菜類を買ったものの、私を待っていた母は、私が、家に着くなり「こんな沢山誰が食べるの?」と、言いながら、早速お湯を沸かしていた。そして刺身類などは冷蔵庫にしまった。弟を電話で呼び、妹の旦那も呼んだが、妹が既におかずを用意しており、母の家に着くなり、少し話をして帰って行った。弟も来たが、ビールを飲むばかりで、買って来たものは減らなかった。弟は相変わらず取り留めのない事を話しては、自分で受けていた。自分で話し、自分で、面白いのか自分の言葉に笑い声を上げていた。私は重要な用事で来ているとも思いながらも、半分は弟の取り留めない言葉に耳を傾け、半分は母の行動を目で追っていた。私は3年間実家へは来なかったが、長女の結婚式で、会っていたが、親戚や多くの人の中で、注意してみなかった。今回も次男の結婚式で、母も参加してくれたが、あまり気に留めなかった。だが、実家で普段着の、母の姿や動きを見るにつけ、年老いたな~と実感した。父が他界して既に14年が過ぎた。父は血圧が高くいつも寝ていたように思う。父が倒れたのが58歳だった。それから亡くなるまでの、16年間病院を出たり入ったりし、その間、母の苦労は、いかばかりだったか?父の最期のとき、医師は延命措置を取りますか?と、母は、お願いしますと言ったが、私は、もうこれだけ、父の為に尽くしたのだから良いよと、医師に延命措置を断った。延命と言っても5時間か6時間であろう。もう既に16年間苦しんできたのである。その後、私は父の死を見届けた。母は育ての母であり、世間では継母ともいうが、その感情は全くなかった。一生懸命生きてきた母の後姿や肩をすぼめた姿に自分の家族の事だけを考え生きてきた、自分が恥ずかしかった。私の横では相変わらず弟がいろいろと話をしていた。母は私が買って来た刺身を綺麗に皿に盛ってテーブルの上において更にビールの栓を抜くべく「栓抜きをどこに置いたかな~」と言いながら、茶箪笥の引き出しの中をまさぐっていた。弟は缶ビールをそのまま口に運んでいたが、母は私が、瓶ビールの方が好きな事を覚えているようであった。栓抜きが見つかり、栓を抜くが、2回3回とビール瓶の口に持って行きカシャカシャ音がするだけで、ビールの栓は、なかなか開かなかった。「家族と私」その16へつづく 「家族と私」その16 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。 私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。 「バトンリレー」でブログに「普段書かない記事」を、書いて下さいとの条件付です。ですから私の心を、さらす事になってしまいますね。そして、ブログを飾る事も出来ませんね。 「家族と私」のタイトルで記事を書いて行きます。 --------16--------母は、「普段は私一人だからビールの栓を、抜くこともないな~」と、言いながらやっと、「よっこいしょっと!」と言いながら椅子に座った。そして、弟の話を制止するように「今日はまた何か、大事な話ですか」と、私に切り出した。私は、「次男が結婚して、これで3人の子供達は、順調に結婚した」と語ると、母も「そうだね~」と、相槌を打って、「あなたの所が、一番順調片付いているね」と、頷きながら親戚の例を挙げ、活き活きと話し出した。弟は、母に、「そんな事どうでもええやん!」と「今兄貴に話しとるさかいに、ちょっと黙っといてんか」などと話すものだから、実家の近くに住む弟との会話に、半ば、羨む思いをも感じた。母は、弟に、「少し黙ってなさいな」と、「お兄ちゃんは、久しぶりに帰って来たんやのに、あんたの話は、もうええ!」とすこし、苛立つ思いで話した。私は、何から切り出してよいか母の元へ来る道程に、いろいろと考えてはきたのではあるが、いざとなると、何から話してよいか?一瞬考えてより話し出した。母は何かを期待するような表情で私の顔を見入った。あなた「髪の毛どうしてそんな茶色や金髪に染めているの?」と聞かれ「今流行ってるんですよ」というと、「三人目が結婚する年なのに、そんな子供より派手なのでは?」と、私は、今まで考えていた言葉を一瞬にして見失った。今日来たのは、妻の事についてでもあり母にも大きく、関わって来る事柄であったが、突然髪の毛の事を、切り出され、出端をくじかれてしまった。この頃には、弟も私が何を言い出すのかと固唾を呑んで、聞いているようであった。私は、刺身の一切れ箸で、つまんで、わさびをたっぶりつけ、口へ運んだ。突然、「弟が兄貴!何でも話したらええやん!俺が、おってあかんのやったら、出とってもええで~」と、関西訛りの口調で話す。私は、「いやっ!お前にも聞いておいて貰ったほうがいい」と、言いながら、再度話し出した。実は、次男が結婚したのは、お袋も結婚式に参列したので、分かっていることだが、私は、次男たちが、妻と一緒に、住むものばかりと思っていた。しかし、どうも妻と嫁が、しっくりこないらしく、外にアパートを借りて住むと言い出し、すでに、アパートの手続きも済んだとか。次男は嫁の言いなりで、何も話せないでいるようだ。話すのが怖いようにもみえる。私は中国で好き勝手な事をして、妻をほったらかしていて、こんな事は言いにくいのだが、気の毒でならない。それで、昨夜は次男と妻に、はっきり伝えたことがある。その内容について協力して頂きたいと思い今日来たと話した。弟は大体分かってきたが、妹を呼んで、俺達家族で話した方が良いのではないかと、私に言うが、母が口を挟んだ。すでに、旦那とともに食事をしている最中だから、あとから母さんが話しておくと、私に早くその内容を、話しなさいと、急かしているようでもあった。2年の年月で、今の家を、次男の名義に変更する。妻は、その2年の間に次男の妻や、次男と話し合い、家に戻るよう説得し、妻自身も、身の回りの整理や、自分の心の整理をするようにと伝えた。2年のその前になるのか?その後になるのか?この家に入り、お袋と一緒に住む。勿論、明け渡した「家」へは、いつでも妻が遊びに行けれる、環境を作っておく事も必要だが、まずは、お袋や皆の意見を、聞きたいと今日は来たのであると話した。その話が終わらないうちに、弟が口を挟んだ。「じゃ兄貴は、お袋の面倒を、見てくれると言う事?」俺の女房も、いつもその事を、口に出していた。「兄貴は親父が亡くなった13年前の、葬儀の中でこの家に、入るって、参列した人達に喪主の話で話しとった」と語った。「それが兄貴は家に入るどころか中国へ行ってしまった。」「家族と私」その17へつづく
2006.03.21
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「家族と私」その13 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。 私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。 「バトンリレー」でブログに「普段書かない記事」を、書いて下さいとの条件付です。ですから私の心を、さらす事になってしまいますね。そして、ブログを飾る事も出来ませんね。 「家族と私」のタイトルで記事を書いて行きます。 --------13-------- 「娘と結婚したいのですか?」と聞くと「ハイ!」と、「いつ結婚式を挙げるんですか?」と再度聞くと、「お父さんが中国から帰ってこれる日にしようと、二人で話しているのですが・・・。」と言った。 「よし!来年の中国春節に帰ってくるから、その時で、予約を取ったほうが良いよ」と言うと「そうですね~」と、なんだか拍子抜けした様子だった。 そして、その中国春節で日本へ帰国し、バタバタの日々。いよいよ長女の結婚式の当日になってしまった。娘から「お父さん!お母さん!長い間・・・」と、言い出し困ってしまった。私は「まだいつでも会えるんだから」と、そして、まだ言っているので身の置き所に困った。妻に、「お前もこのように言ったの?」と聞くと、私は、家を飛び出して、あなたの所へ来たので、親不孝者で後悔してますなんて言われて、薮蛇だったと思ったりもした。妻は「折角覚えたのですから聞いてあげたら」などと、「そんなもの覚える必要はなかったのに」と、言ったものの、「いつでも帰って来いよ!」と、言うと、妻は「どんな事があっても我慢して、帰ってくるなよ!と言うのが普通でしょう?」と・・。私も「結婚してからでも、気兼ねなく帰って来なさい」と、そのような意味で話しているのに、どうして、話しが飛躍してしまうのかとも思った。結婚式場は仏前結婚だった。仏前結婚と聞いていたので、すぐに思った事は、正座など出来ないが困った事になったと思った。しかし、会場に着くと、テーブルや椅子が設置してあり、今は相当変わったんだな~などと思い、ホッとした。長男の時は、教会で結婚式を行った。賛美歌を歌い、アメリカ人牧師の日本語の、イントネーションが、まだ耳に残っていた。それから比べると、仏前結婚は、葬儀をしているような、感じだったが、段々と式が進むにつれ、厳粛な感じで身が引き締まった。結婚披露宴会場に車を置いていた人もあるので、大型バスで移動したり、自分の車で移動したりして、結婚披露宴会場に着いた。私は、親戚関係に来て頂いたお礼を回っていた。そして、娘婿の親戚や友人にも挨拶して回った。しかし、誰が誰だか分からず、全く関係のない、人にまで、挨拶に行っていたので、妻から、「どんと構えて座っていて下さい!」と注意を受けた。落ち着かない時間が過ぎた。長男の時には、感じなかった感覚で、何とも変な感じだった。いよいよ披露宴も始まり、披露宴も終盤に・・。父親が長女の花嫁をエスコートして、花婿に、手渡す場面になったが、リハーサルもなかったせいか、私は花嫁の手を持ち、拍手の中を歩いた。司会者から、「お父さん!おとうさん!」と、呼ぶ声がしたが、音楽に合わせて花嫁の手を引っ張り、いつまでも歩いていた。会場の進行補助の女性が小走りに来て、「お父様、花嫁の手を離されて花婿に手渡して下さい」などと、言われてから、やっと自分の置かれている状況を、把握する事ができた。司会者がマイクで「お父様が、いつまでも花嫁の手を、離したくない気持ちよく分かりますね」とフォロー。私は、呆然と立っている花婿を、手招きして、やってきた花婿に「この手を離すんじゃないぞ!」と、言って手渡すと、会場から拍手が舞い起こった。妻からは、「もう恥ずかしいですよ」と言い、更に、「あのまま黙っていれば花婿の席に座っていたのでは?」実際に「お父さん!早く早く」と、進行役の人から、いきなり「娘の手を引いていって下さい」などと、言われた時には、心が舞い上がったのも事実だった。「家族と私」その14へつづく 「家族と私」その14 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。 私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。 「バトンリレー」でブログに「普段書かない記事」を、書いて下さいとの条件付です。ですから私の心を、さらす事になってしまいますね。そして、ブログを飾る事も出来ませんね。 「家族と私」のタイトルで記事を書いて行きます。 --------14--------妻からは、「もう恥ずかしいですよ」と言い、更に、「あのまま黙っていれば花婿の席に、座っていたのでは?」と言われてしまった。実際に「お父さん!早く早く」と、進行役の人から、いきなり「娘の手を引いていって下さい」などと、言われた時には、心が舞い上がったのも事実だった。式が終わり、長女や娘婿の友人から、「すごく楽しかったですよ」とか、「いいノリで良かったですよ」などと握手・・・。長女からも「一時は、どうなるかと思った」と、「父さんは、いつもの父さんと違ったね」などとも、言われながら、取りあえずは無事に終了した。次男から「父さん!僕っときには、あんな恥ずかしい事せんどいてよ!」と生意気。その次男から中国の私の元へ「結婚するから」と、いきなりメールが入ってきた。私は「それは良かった」と送信したら、「もっと他に適当な言葉がなかったの」と、自分のメールの事を棚に上げていた。結婚式の日取りが決まってから、次男に「先方のご両親と会って話しをしたい」と、メールを打ったが、「その当日でいいよ」と、素っ気無いメールが来たので悲しかった。そして、「結婚式の当日に、始めまして!なんて、挨拶をするなんておかしいのでは・・」と、更に「いくら非常識なお父さんでも物の良し悪しは、分かるぞ!」などとタイプしメールした。いつの間にか、「妻と長女・長男・次男、相手のご両親と長女で会食会を済ませたから、やっぱり父さんは、結婚式の当日で良いよ」などと馬鹿げたメールを送りつけて来た。しかし、どうしても納得がいかない、お父さんを、一生の笑い者にするつもりですかと日程を調整して、会う事になったが、結局、当日になり、相手の、父親が来れないとの連絡が入った。私は、一人娘を取られるようで、「私と会いたく、ないのだろうか?」とも思ってみたりした。仕方なしに母親に会った。娘とは2回ほど、既に会っていたので「元気?」と言うと、「はい!」と答えてくれた。相手の父親に会えなかったが、母親が携帯電話で、撮影した父親の写真を見せてくれた。残念な思いもしたが、また中国へ戻った。次男の結婚式は、中国の春節ではなかったが、自分の子供の晴れ舞台であるので飛んでいった。次男の結婚式は、教会で行った。長女の時と違い、結構落ち着いていた。しかし、花嫁の父ばかり気になり目で追っていた。なぜならば、一人娘で、兄弟姉妹が居ないので、その心境を思うにつけ、心が痛んだからだった。花嫁の腕を取りバージンロードを歩く父親の、姿を見ていると、私の長女の時の事が浮かんだ。花嫁のウェーディングドレスの後の丈が長く、子供が2人で持ちながら、あとを歩いていた。一番前に座っていた私と父親との目が合ったが、緊張している雰囲気が伝わってきた。披露宴も終盤になり、皆様にお礼の挨拶を申し上げたが、花嫁の父親は、花嫁の父としての挨拶をしなかった。妻や娘から、「花嫁のお父さんは男らしいですね」と、私に嫌味を言っていた。私も何を言っているのか、分かったので何も言わなかった。長女が結婚する時に、花嫁の父として、話しをさせてほしいお願いして、実際に長々と、スピーチをしてしまったからである。こうして私の長女・長男・次男の結婚式も、無事終了という運びになりました。長男には5歳の女の子が、長女には間もなく、1歳になる女の子がいる。「家族と私」その15へつづく
2006.03.21
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「家族と私」その11 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。「バトンリレー」でブログに「普段書かない記事」を、書いて下さいとの条件付です。ですから私の心を、さらす事になってしまいますね。そして、ブログを飾る事も出来ませんね。「家族と私」のタイトルで記事を書いて行きます。--------11--------3人の子供とは、私が中国へ来てから1年ほど経ち、メールのやり取りを始めた。子供3人と妻には、パソコンを購入してあったが、相当古いパソコンであった。3台を買い換え、3人の中で一番新しかった、パソコンを妻が引き継いだが未だに難しいらしい。長女からは、高校での友達関係(人間関係)に、悩みながら、それに対する質問メールが多かった。私の高校生活では、先生から言わせると、結構、悪い生徒であったそうであるが、自分では悪い生徒と思ってないので始末が悪い。友人は多かった。不良の友人から文学学生まで、幅広く付き合ったため、色んな勉強をした。他の高校の生徒と殴り合いの喧嘩をし、お互い血を流し、最後には握手をし友達になった。高校生でありながら、夜の街を徘徊したり、ある夜には、「生田春月」「太宰治」「生田葵山」の文学者の入水自殺について、夜が明けるまで、文学青年と話し合った事もある。その中での、娘とはいえ、女子高生の交友関係の相談メールには、どう答えていいか分からず、人生についてとのテーマで送信した事もあった。長男からは、私が日本へ帰る度にプレゼントした時計やゲームなどを、盗られてしまったと、嘆きのメールが届き、物を盗るより盗られた方が、どれだけ気が楽か分からない。あなたの物を盗った友達はきっと後悔しているに、違いないだろう。あなたと会う度に苦しい思いを、しているだろうから、逆の立場にならないようと、結構長いメールのやり取りをしていた。長男が高校から推薦で就職し、次男が大学へ、行くようになってからも、「父さん!元気ですか」と、始まるメールは続いたが、次男は皆に比べ少なかった。そんなメールのやり取りも時は過ぎ、1月15日のスキー場問題で大騒ぎの中で生まれた長男から、「結婚」と言う事に対してメールが来た。私と妻の時の結婚の事をメールに託した。お父さん達は、反対されていたが、父さんの、最後の「家から出て来いよ」という一言で、母さんは、島根から愛知までバッグ一つで出てきた。街の公衆電話から「私来ちゃった」と、迎えに行き、父さんがその時のお母さんを見た時は「可愛かったよ」と書き、お母さんとの出会いがなかったら、あなたは、生まれてはいなかった。とも付け加えた。その後、長男は半年もしない間に、結婚してしまった。私も当然中国から結婚式の為に参加し、披露宴の父親の、お礼の言葉で1月15日のスキー場の事も話ながら、皆に見守られ、実に幸せな人生の出発点だった。今素晴らしき伴侶を得て、彼もこれから私が羨むような、家庭を築いてくれる事でしょう。とのお礼と祝辞を、父親の挨拶の中で述べ終わり、ふと長男を見ると、一筋の涙がスポットライトに照らされ、光っていた。長男は22歳であったが大学へは行ってなかった。親戚のまだ早いという反対を押し切って、私のみ、お互いの愛を引き裂いてはいけないと賛成した。私は、長男の心の動きをメールではあるが、何度ものメールのやり取りで把握していたと、親戚の人達にも、説明したが、「たかが文章で、人の心の何が分かると言うのか」と、笑われてしまったが、長男達の心は理解していた。その長男もやはり大学の大切さを感じたのか、結婚してからも勉強をし、3度目の挑戦で合格し、会社のお金で大学へ行っていた。今は、5歳の娘がおり、家族で元気な姿を妻の所へ、連れて来て見せるようで、その報告メールを読むだけで、私は何とも言えない幸福感に浸ったものだった。我が家では、長男がいち早く結婚し、一番早めに、結婚しなければならない長女が後になってしまった。「家族と私」その12へつづく 「家族と私」その12 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。 私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。 「バトンリレー」でブログに「普段書かない記事」を、書いて下さいとの条件付です。ですから私の心を、さらす事になってしまいますね。そして、ブログを飾る事も出来ませんね。 「家族と私」のタイトルで記事を書いて行きます。 --------12-------- 中国にいる私と、我が家の4人との連絡は、1995年よりメールでやり取りをしていた。 だが、2001年以降になると私のHPの「中国ひとりぽっち」に「IDとPASS」を設定し、その中でのやり取りになった。しかし、私も何日経っても返事をしないと、携帯から直メールで「掲示板見ました?」と。我が家では、長男がいち早く結婚し、一番早めに、結婚しなければならない長女が、後回しになってしまった。メールのやり取りでも、色んな事を書いていたが、自分の伴侶になる人の事を書き込むのが、恥ずかしいのか結婚を決意してより連絡があった。 中国より娘の婿になる人を見に帰った。娘からどんな人なのかと色々と聞いてたが、会えば分かるからと中々話さなかった。妻よりは会えば分かるけど、とにかく肥えた人だと、その肥えている表現を、いつも連れて来る前に、ご飯を炊くんだけど、どんぶりでお代わりと、そして、3杯も食べるとご飯も無くなってしまう。そんな人と結婚して、うまくやって行けれるのか?聞いたが、ご飯なんて安いものだから問題ないと言う。そして、妻に何だか文句を言っていた。また、苗字を聞いたり、家を聞いたりしているうち、偶然にもその彼の、ご両親を知っていた。楽しみに待っていると、車の音がしてホープが、吼えると同時に、長女から「お父さん!来たよ!」と、座敷の方に座って頂きますからねと妻も促す。私は彼より早く座敷に行く為、小走りに走った。廊下と座敷との3センチほどの敷居につまづき、座敷に手を突いて倒れ込むように転んだ。娘は「お父さん!何を遊んでるの!」と私を急かすが、余り慣れてない家の作りに肘を、摩りながら、結婚相手入って来る時「そこ気をつけて下さい」と、敷居を指差し注意すると「知ってますから大丈夫です」と頭を下げた。結構、毎日のように来ているようで、嫉妬心が湧いた。妻が座布団を差し出したが、その上には座らなかった。色々な質問を、私の方からしたが、結婚に関しては、中々切り出す事が、出来ずに困っていると、娘が入ってきて「何処まで話が進んだ~」と聞いていた。お父さんからは「仕事は何をしている?楽しいか?」その他は「車は何に乗ってるとかガソリン代は?」とか、「朝はすっきり起きれるか?正座して足が痺れないか」「それから・・・」と言って、「父さん・・・」と、長女は「お母さ~ん」と妻を呼びに行った。その暫しの間にも「娘と一緒にいて楽しいですか?」など、聞いていると、妻がやってきて、「今日は結婚の事で、折角来ているのですから、その話をしてほしいのです」と。私は、「一番大事な事ばかり聞いていますよ」と言うと、どうしてなのかと言うような顔で私を見た。「仕事が面白いか、車に金を掛けすぎてないか?や、朝はすっきり起きれる事は一番重要だからね」と言うと、妻から彼に「ごめんなさいね、内の人は、ちょっと、変わってますから」などと、言っているので、「私達二人にしてくれないか?」と、娘達を追い出した。私は「あなたのご両親は偶然にも知っています」と言い、続けて「娘をどうしたいと思っているの?」と聞くと、言葉を見失ったように黙ってしまった。「娘と結婚したいのですか?」と聞くと「ハイ!」と、「いつ結婚式を挙げるんですか?」と再度聞くと、「お父さんが中国から帰ってこれる日にしようと、二人で話しているのですが・・・。」と言った。「よし!来年の中国春節に帰ってくるから、その時で、予約を取ったほうが良いよ」と言うと「そうですね~」と、なんだか拍子抜けした様子だった。私が「妻と娘を呼んできて下さい」と言い、彼は立ち上がったものの、巨体で正座をしていた為、痺れが切れたらしく、這う様にして座敷を出た。中国では私も、椅子の生活なので、痺れた。彼が呼びに言っている間に、足を投げ出したり、屈伸運動をしたりしていた。 「家族と私」その13へつづく
2006.03.20
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「家族と私」その10 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。「バトンリレー」でブログに「普段書かない記事」を、書いて下さいとの条件付です。ですから私の心を、さらす事になってしまいますね。そして、ブログを飾る事も出来ませんね。「家族と私」のタイトルで記事を書いて行きます。--------10--------このままでは工場の印象まで悪くなると、妻が、長女・長男を連れて、大自然の島根県の、妻の在所へ送り届ける事を私は決断した。妻の居ない9ヶ月以上の私の生活は大変だったが、新しい生命の誕生の為には仕方ないと思った。愛知から島根までは今でこそ高速道路が、開通しているが、その頃はまだ開通してなく、京都から9号線をひた走った。島根の妻に実家に着いたが、妻のお腹の事も、考慮して休み休み車を運転してきたので、出発が夜の9時で、着いたのが、朝の6時で11時間掛かった。私と友人は仮眠を取り、昼に出発し愛知へ向けに戻った。3人目の次男が生まれたとの連絡が入ったのは、長女と同じ1月19日の午後3時ごろだった。こうして3人目も子供の出産に立ち会う事が、出来なかったので、親戚からは、大変な人と、結婚したものだねとか言われたそうだ。ある親戚は、もう3人も子供がいるんだから、離婚なんて考えたらいかんよ!などと、妻に話したというが、非常識な人も、世の中には居るもんだと思った。妻にはそんな気持ちは、さらさらなく、人は面白がって色んな事をもっともらしく、言うと思ったが、この時私は29歳だった。子供が生まれてから3ヶ月が過ぎた頃の、ゴールデンウィークを利用して、妻と3人の子供達を私一人で迎えに行った。妻のご両親に深々と頭を下げ、子供達や妻の事などもお礼を言って、帰ってきた。その夜、妻の父は、声を押し殺して泣いたと連絡が入った。9ヶ月の間、長女と長男がお世話になり、その間の出来事を、泊まった3日間の間に、酒を交わしながら色々と話してくれた。今まで毎夜、賑やかで子供達の世話に、忙しいながらも幸福感に満ち足りていた。それを、私が全て簡単に持ち去ってしまった。島根の夜は車も少なく、心悲しむには、十分すぎるほどであったようだ。その義父も8年前に他界して、その時は、中国から取る物も取りあえず駆けつけた。子供の成長と共に、工場も大きくなっていった。それに比例して妻の仕事の負担も段々と、増えて行ったように今思う。幼稚園時代、小学校時代、中学、高校、大学と成長する中、私は子供が、中学生・高校生の時に中国へ出てきてしまった。その頃には仕事が中国へ流れ、日本での仕事が、年々少なくなって行ったのである。私が中国行きを決意し、妻一人では工場の、運営は負担が多すぎると考え、外注先は全て、他の工場に分散し従業員も、妻の人脈を選ばせ、退職金を手渡し、妻がやり易いようにした。そのようにして、中国へ出て来たつもりだったが、実際にはそんな簡単ではなかったようだ。父親参観や、進路決定のときの教師との語らい等、色々と大変であったと長女は語る。最近、日本へ帰った折に、自分の人生を棒に振って、貴方のため、子供の為に頑張って来た奥さんに、感謝をしないと罰が当るよと親戚の人達に言われた。その事に関しては、難しい事であり理解し難かったが、そうですねなどと言いながら笑うしかなかった。3人の子供とは、私が中国へ来てから1年ほど経ち、メールのやり取りを始めた。3人にはパソコンを、購入してあったが、相当古いパソコンであった。2台を買い換え、3人の中で一番新しかった、パソコンを妻が引き継いだが未だに難しいらしい。「家族と私」その11へつづく
2006.03.19
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「家族と私」その8 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。「バトンリレー」でブログに「普段書かない記事」を、書いて下さいとの条件付です。ですから私の心を、さらす事になってしまいますね。そして、ブログを飾る事も出来ませんね。「家族と私」のタイトルで記事を書いて行きます。--------8--------私は長女を背負い、帯で私の身体に巻きつけ、運転をしなければならなかった。交差点などで、隣の車線で信号待ちのため、停車し、背伸びをして、大あくび・・ふと私の方を見てから、前を向くが、驚いて、慌てて私の方を、目を凝らして見ている。私は信号機を指差し、ギヤーチェンジし、その人も、状況を察したのか苦笑いして去った。メーカーに着いてからがまた大変である。デザイナーやパターンナーが、私が行くと、皆、赤ちゃんの周りに集まり「可愛い~い」「奥さんに逃げられたのですか?」って、冗談を言うデザイナーもいたが、メーカーの社長が来ると、さっと潮が引くように席へ戻った。「ちょっと大き目の荷物も一緒に持って来るって、聞いていたが・・」赤ちゃんとは思わなかったようだ。テーブルの横のソファーに寝かせ商談を始めた。商談になれば、お互い必死である。その当時は、物を作れば売れる時代であった。30分ほどで、仕事の受注するデザインが決まったが、だが、加工賃がどうしても決まらなかった。5品番(5デザイン)の全てエレガントな婦人服。1枚100円アップの加工賃の攻防が続いていた。そんな折、寝かせてあった長女が泣き出した。どうして泣いてるのだろうと、デザイナー達も、来て見ていたが、メーカーの社長から、従業員に、貴女、この前子供さんを育てていたでしょう?と、そのパターンナーを手招きして呼んだ。お腹が空いたのかな~?とか、怖い夢を見たのかな~?などと思い思いに言ったが、どちらも間違いであった。私は、布製の手提げ袋から、オシメを取り出した。そして、オムツカバーの大きなスナップを外し、下に広げ、更にサイドへ広げた。離乳食とミルクだけなので、便は硬くはなかった。そして、手早くオシメの綺麗な所で、お尻の周りを、拭き取り、軟らかいティッシュでお尻を拭いた。8人ほどのデザイナーやパタンナー達が、固唾を呑んで、只黙って見ていた。両足を持ち上げオムツカバーを抜いて、そのお尻の、下に先ほどの汚れたオムツを丸めて敷いた。そして、用意していたオムツをカバーの上に載せて、再度両足を持ち上げオムツカバーをお尻の下に、差し入れ、先にオムツでお尻を包み、更にオムツカバーで、オムツの上から包みホックを止めた。ファッションメーカーの社長と副社長は、「慣れてますね~」「○さん!もうすぐ結婚でしょう」「さっきの方法を見てましたか」などと言っていた。そして、商談の続きに入ったが、「もう分かりました!」と、社長の一声。先ほどのオシメを交換する姿に感動しましたと、その後、5品番4000枚全てに100円アップされた。オシメの交換ショーを披露しただけで、40万儲かったと、娘を背負い、背負い布の脇に付いたプラスティックの環に紐を通しながら思ったりしていた。メーカーから帰ってくる幹線道路は、それほど渋滞もなく走ることが出来た。走りながらも、あなたのお陰で商談も上手くいったねと言いながら、室内灯を点けると、寝入った娘の顔が、窓ガラスに反射して映っていた。その長女が2歳になった時に、長男の誕生の折、スキー場へ行っていて、後々まで取り沙汰された。妻は、仕事に、家事に、育児に毎日大変な日々を、過ごしている折、長男が1歳2ヶ月の時に妊娠した。長女は3歳2ヶ月で、4年保育に行かせていた。その送り迎えも大変な事で、私の当番だった。長男は1歳2ヶ月で、これから段々と、手が掛かり出す頃だった。「3人目のお産は妻の実家になった原因」の続きは、「家族と私」その9へつづく「家族と私」その9 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。「バトンリレー」でブログに「普段書かない記事」を、書いて下さいとの条件付です。ですから私の心を、さらす事になってしまいますね。そして、ブログを飾る事も出来ませんね。「家族と私」のタイトルで記事を書いて行きます。--------9--------長女は3歳2ヶ月で、4年保育に行かせていた。その送り迎えも大変な事で、私の当番だった。長男は1歳2ヶ月で、これから段々と、手が掛かり出す頃だった。長女を風呂に入れるために早く仕事を、切り上げて、風呂に入る用意をした。長女はお湯が顔に掛かっても、両手を振って喜んでいたが、長男は違った。風呂の中で、身体をお湯に浸けたり、持ち上げたりと、耳を塞いで、上下に動かすと泣き出した。案の定、その後の水泳等の競技は、不得意な部門となってしまった。長男が1歳半頃になると、あちらこちらへ歩き回るようになったので、紐で縛った。ウエストに紐でベルト代わりにし、そこへ、2mほどの太いゴムを付けた。近所からは、何故そんな動物のような扱いを、するのかと苦情が来て困った。工場の前には6mの幅の道路が通っており、国道から国道へ早く抜けれるために、大型車もここを通り抜け、交通量が多かった。もし、ゴム製のベルトを外したならば、どんな事になるのかと想像しただけでも、そのゴム製のベルト紐は外す事が出来なかった。裏には車が15台ほど駐車できるスペースが、有ったが、こちらは目が届かず、返って危険だった。町内会の役員で夜の会合に出ても最後には、仕事をせず奥さんが子供さんの面倒を見たらと、意見も出だしたが、その討論をし出すと、本来の議題が出来なくなるので黙っていた。妻が面倒を見るためには、外注回りの人材を、確保せねばならず、服作りの技術が出来て、外注を回っても問題を解決できる人材は、中々見つからなかった。工場の入口の柱に、2.5mの長さの太いゴムを、縛っておき、朝子供が工場に来ると、自然に手を挙げる姿を従業員も見ていた。社長!この方法は、「子供さんに悪い影響を与えますよ!」と、他の従業員から、その人に、「放したら車にはねられれてしまうわよ」と、二人で言い合ってました。30名ほどの従業員(全て女性)は、見て見ぬふりをして、仕事をしていた。妻が、外注から帰って来て、次の外注先へ車に乗って行こうとすると後を追って走るが、3mほどでゴムの弾力で引き戻された。車に乗せて回ればいいのではないか?と、妻に言ったが、長女を乗せ外注に行き、カーブを曲がった時に、バックミラーを、見たときに、15mほど後で転んで手を、振っている子供が見えておかしいと思った。そして、助手席を見ると長女の姿はなく、すぐに車を停めて、長女を助け上げたそうだ。もし、後に車が着いていたらと思ったそうだ。そして、夜で後も見えなかったらと、その後、仕事で車に乗せることはしなくなった。今の車のように、チャイルドロックもない頃の、話であるが、一歩誤れば、長女は車に、はねられていたのかも知れない。町内会でも、喫茶店内でも、寿司屋でも噂が噂を呼び、1月15日に生まれたあの子が、犬のような待遇を受けているなどと・・。このままでは工場の印象まで悪くなると、妻が、長女・長男を連れて、大自然の島根県の、妻の在所へ送り届ける事を私は決断した。妻の居ない9ヶ月以上の私の生活は大変だったが、新しい生命の誕生の為には仕方ないと思った。「家族と私」その10へつづく
2006.03.19
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「家族と私」その7 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。「バトンリレー」でブログに「普段書かない記事」を、書いて下さいとの条件付です。ですから私の心を、さらす事になってしまいますね。そして、ブログを飾る事も出来ませんね。「家族と私」のタイトルで記事を書いて行きます。--------7--------長女のお産の時も、長男のお産の時も、私は、付き添う事が出来なかった。しかし、義母や近所の人達また従業員の、ご主人により、無事出産する事ができた。だが、3人目ともなれば考えなくてはならない。そう!3人目が出来てしまった。この3人目の次男は、妻の在所の島根県で、お産をする為、出産予定日の半年前から、友人二人で、交替で車を運転して送り届けた。何故に、妻を在所に送り届けたかと言う事を、これから順追って書いていきたいと思う。一番の原因は、長女と長男の面倒を見ながら、再度、私が居ないような事にでもなったら、パニックでは済まなくなるとも思ったからだ。妻は、長男を身に宿す前に、1ヵ月半ほど、入院をしてしまった事があった。内臓の病気ではなく、ある部分の手術の為に、友人の紹介してくれた病院に入院した。しかし、長女はその頃9ヶ月位だったが、病院へ一緒に入院させる事も出来ずに、私が朝から寝るまで長女の面倒を見ていた。勿論、社長業という仕事もこなしながら、食事の世話から、入浴、着替え、洗濯もこの当時は、今と違い「オシメ」ウンチのついた「オシメ」を水道の水を、流しっぱなしにしては、手で洗った。不思議なもので、慣れてくると、それも汚くないと思い出すから人間って不思議である。さすがに、従業員達は、社長やお嬢ちゃんの、衣類だったら洗濯して差し上げてもいいですが、オシメだけは、ごめんなさいと、結局、私が洗うしかなかった。食事の世話なども、離乳食を作るのが大変で、「やさしいお母さんの離乳食法」の本も、買ってきたり、作り方が面倒と他の本を、買ったりして、3冊の離乳食の本があった。どの本も、おかゆが主体にしてあった。おかゆを作ることの難しさをこのときに、体験し、今では作る事さえ拒否反応起こす。しかし、その時は必死で作った。おかゆも作っては、翌日に持ち越しては、赤ちゃんの健康に悪いと書いてあり残った分は、私が食べたが、不味いと言うものではなかった。仕方無しに、近所の喫茶店のママさんが、ブーザンさんの赤ちゃんの為の特別メニューと、約、3週間離乳食を作って下さった。離乳食は問題解決、洗濯も入浴も問題なし、しかし、ファッションメーカーへの商談には、40分ほど運転をして、商談後帰宅までの、時間は、2時間半ほど、その間、長女を家に一人で置いておく訳にはいかなかった。私は長女を背負い、帯で私の身体に巻きつけ、運転をしなければならなかった。交差点などで、隣の車線で信号待ちのため、停車し、背伸びをして、大あくび・・ふと私の方を見てから、前を向くが、驚いて、慌てて私の方を、目を凝らして見ている。私は信号機を指差し、ギヤーチェンジし、その人も、状況を察したのか苦笑いして去った。「3人目のお産は妻の実家になった原因」の続きは、「家族と私」その8へつづく
2006.03.19
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「家族と私」その5 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。「バトンリレー」でブログに「普段書かない記事」を、書いて下さいとの条件付です。ですから私の心を、さらす事になってしまいますね。そして、ブログを飾る事も出来ませんね。「家族と私」のタイトルで記事を書いて行きます。--------5--------つづきから今すぐに帰って来た方が君の身のためだぞ!」と、警官の仕事に戻ってしまっている言い方だった。そして、私は決断を迫られ、決断を下した。ヒュッテで食事中の皆は全員で10名。私を入れて11名で、男は5名、女は6名だった。テーブルに着くなり皆からは「どうだった?」と、聞いてきた。彼らも私が電話をしている間に、大体の意見が、まとまっていた様であった。「家では大騒ぎになっていたよ!」というと、「そりゃそうですよ!」と女性の声がして、続けざまに違う女性の声で「私ならそんな時に、絶対スキーなどに行かさなかったわ!」と・・・。 彼達は一斉に私を見て「お前はどうするんだよ~!」と、私は、「皆には申し訳ないが帰ろうと思う」と言った。「よしっ!それでこそ男だ!」と、そして、「それが一番いいですよ!」と、女性の声がして、更には、「帰らないって言ったら、引っ叩いてやろうと私達で相談していたところよ!」と彼女達・・。皆も1泊する予定で来ていたので、私の知ってる民宿まで案内すると言うと、「私達も貴方一人で帰したりはしませんよ!」と結局、その昼食代は私の、おごりと言う事で、皆には許してもらった。遅い昼食だったので、時間は既に、3時になろうとしていた。スキー板を担ぎ11人は駐車場まで行き、来る時と同じく、私は2人の女性を乗せて、車を運転した。帰りには結構空いていた。しかし、結局は1月15日の成人式の日で、車の台数も多く渋滞している所もあった。私達はアマチュア無線をそれぞれの車に、搭載していたので、常時、連絡を取り合っていたので、極端に車同士が離れることもなかった。6時ごろに、高速道路のレストランへより、夕飯を皆さんへ振舞った。皆は無線で、「早く奥さんの所へ行ってやれよ!」と、しかし、このまま家に帰ったのでは、夜9時近くになる為途中で食事をした。食事をした1時間ほど遅くなってしまったが、途中で道が違うので皆と別れ、私は彼女達をそれぞれの家に送り届けた。お母さん達は、「今日泊まってくるのではなかったの?」と、私には、その説明をしているような時間の余裕もなく、彼女達に説明を任せた。私は先に、自分の工場へより、それより、寿司屋へ行ったが、友人2人がまだ居た。私を見るなり「お前って言う奴は・・!」と、寿司屋は柳包丁を振るので、友人が制していた。その日の大変さ、長かった一日を聞かされたが、寿司屋は友人に向かって、「そんな話しは後にしろ!」と柳包丁で、「お前は早く病院へ行って来い!」と話しを止めた。1月15日成人式の午前10時に、長男は生まれた。私が病院へ着いたのが夜の11時だった。長男が生まれてより、13時間が経っていた。病院の前に立ったが、正面玄関は閉められていた。「家族と私」その6へつづく「家族と私」その6 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。「バトンリレー」でブログに「普段書かない記事」を、書いて下さいとの条件付です。ですから私の心を、さらす事になってしまいますね。そして、ブログを飾る事も出来ませんね。「家族と私」のタイトルで記事を書いて行きます。--------6--------1月15日成人式の午前10時に、長男は生まれた。私が病院へ着いたのが夜の11時だった。長男が生まれてより、13時間が経っていた。病院の前に立ったが、正面玄関は閉められていた。辺りは暗く目を凝らして正面玄関を見た。正面玄関の右側へ歩いていくと扉があり、マジックで夜間御用の方は、このベルを押して下さいと書かれていた。私は押してみたが、鳴っているのか鳴ってないのか?分からなかった。夜も11時過ぎると外は寒かった。女の人の声で、ご用件はなんでしょうか?「○○と言うものです。妻が入院してると、思うのですが」と言うと、「面会は9時までです」更に名前を伝えたが「そのような名前の人は、入院されてませんよ」と、致し方なく電話を切った。この病院とは違うのかとも思いながら、普段から、もっと妻と一緒に病院へ来ていればなどと思い、再度車に乗り、その場を離れて公衆電話を探した。公衆電話は、それほど遠くない所にあった。その公衆電話に入り受話器を持つが、電話番号が、分からないので、電話番号案内に電話して聞いた。運の悪い事に、同じ名前の産婦人科が2件あった。2件とも教えて頂き1つ目に電話した。「もしもし」「私は○○と申します」「はい?ご用件は?」「子供に会いに来ました」「あなたは、どちら様ですか?」と、いい加減に、イライラするほどであった。名前を再度伝え、妻の名前も伝えたが、「そんな人はこちらにはいませんよ」と、虚しく電話は切れプップップッと音がしていた。仕方なく、もう一つの病院へ電話した。時間は既に12時近くなっていた。「○○ですが、○○おりますでしょうか?」「今どちらにいらっしゃるのでしょうか?」手堪えは十分である。場所を伝えると、この病院の近くですから来て下さいというが、「先ほど行きプッシュホンを押した」と、伝えると、「とにかくすぐ来て下さい!」と、また車を運転してその病院へ行った。正面玄関に着き、先ほどの誘導された通り、左側の扉に設置されたプッシュホンを鳴らした。「鍵は空いてますから3階へ上がって下さい」先ほどの右側の扉のプッシュホンは何だったんだと、3階に上がってすぐに聞いたら小児科と言うから、ため息をついて、看護婦に名前を言った。私がスキーの格好をしているので変に思われた。理由を話してようやく「貴方がお父さんですか??」と、頭の先から爪先まで、じっと見られた。私は早く子供が見たいと思っていると、ナースセンターから、2人の看護婦が出てきて、「○○さん!○○さんでしょう!」と、「今日はあなたの為に、一体何人の人が来たか?知らないでしょう?」と言われても分からなかった。早く子供が見たいのに、今日一日の説明をし出した。まず、妻を病院へ運び、待合室で看護婦が応対した従業員のご主人をお父さんと勘違いした事。その後、赤ちゃんが生まれてから、私の友人が2人、病院へ駆けつけ、どちらがお父さんですか?と、聞いた事。妻の姉婿が慌てて病院へ駆けつけ、その人をお父さんかなと思ってしまったなど、この看護婦は良くしゃべる人だなとも思った。私共の看護婦も一体誰が、お父さんなのか?お父さんは何処に行ってるのか?奥さんに聞いても、「ちょっと。。」と言うだけで何も話さない。やっと、お父さんが現れたと思ったらスキーの格好?私も長い間、産婦人科の看護婦してますが、こんな奇妙な一日はないですよ。と早口で話す。私は、「子供に会いたいんですけど・・」と言うと、「まだ赤ちゃん見てないんですか?」と、やっと連れて行ってくれた。大変な中で生まれた子は、男の子で、3680gあり、長女の時と違い大きかった。それから、妻の病室「只今戻りました」と入たら、親戚の人達が、まだいて、「何が只今だよ!」兎に角、散々な長男の出産の日だったが、実に思い出に深く、いまだに話しが受け継がれている。次は、次男の出産ですが、「家族と私」その7へつづく
2006.03.18
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「家族と私」その3 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。「バトンリレー」でブログに普段書かない記事を、書いて下さいとの条件付です。ですから私の心を、さらす事になってしまいますね。そして、ブログを飾る事も出来ませんね。「家族と私」のタイトルで記事を書いて行きます。--------3--------長女はすくすくと育った。もっぱら長女を風呂に入れるのは、私の担当であった。仕事も忙しく結構遅くなってしまった。妻から先にお風呂に入って下さいと、言われていたが、先に風呂へ入り、また仕事をするのは気が引けた。だからいつも10時ごろの入浴になった。妻が、長女を裸にし、私にバトンタッチ。しかし、私も仕事で疲れすぎ、また、快いお湯にいつも肩まで浸かってしまう。そして、暫くして「ブクブクブク・・」と、言う音にハッとして、長女を見ると、すっぽり頭までお湯の中に・・・。 慌てて身体を持ち上げると目をパチパチして、喜んでいる。この事がキッカケかどうかは、分からないが小学校の水泳大会でも、皆から期待されるほど水泳が上手くなった。そして、長女が1歳2ヶ月を過ぎた頃に、妻は長男を身篭った。長男の出産予定日は長女と同じ、1月19日だった。1月15日・16日を利用してスキーの計画をし、1月15日の朝早くスキーに出かけた。妻もおにぎりを作ってくれ、「気をつけてね」と、見送ってくれた。だが、私を見送った後、2時間ほどして、陣痛がはじまり、必死の思いで受話器を取り、従業員に電話をして、そこのご主人が、病院へ運んだそうだった。そんな事とは夢にも思わない私は、4時間掛けスキー場へ3台の車で向かっていた。「家族と私」その4へつづく「家族と私」その4 40-loveさんから「バトンリレー」が、回って来ました。彼女からバトンされた、テーマは、「家族と私」でした。私のブログ「上海発!画像の更新!」は、旅行などの画像を更新するためのみ、記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。「バトンリレー」でブログに「普段書かない記事」を、書いて下さいとの条件付です。ですから私の心を、さらす事になってしまいますね。そして、ブログを飾る事も出来ませんね。「家族と私」のタイトルで記事を書いて行きます。--------4--------私は皆と示し合わせたとおりの、場所で落ち合い、私の車へ待っていた2人の、女の子を乗せ、4時間掛けスキー場へ、3台の車で向かっていた。スキー場へ着いたのが、午前10時過ぎだった。長野県木曽駒御岳のスキー場で、昔は、6時間ほどかけて行った時もある。15日の夜も宿泊する予定で妻にも話してあり、着替えもバッグに入れてあった。予定では民宿に先により、チェックインしてスキーを存分楽しむはずであったが、雪を見た途端に、民宿の事など吹き飛び、リフト券を購入し、思う存分滑っていた。 私は女の子2人を連れて頂上で滑っていた。一番上のリフトは結構急勾配で、気を抜くと怪我をし兼ねなかった。もうそろそろ、皆で落ち合い昼食でもと思い、下へ降りて行った。降りるのは滑って、降りれば良いので簡単だった。トランシーバー3つを用意していたので、何が起こっても直ぐに連絡が付いた。そんな折、トランシーバーから声がした。「おい!子供が生まれたらしいぞ!」一瞬自分の妻の事を忘れていた為、「誰の子が生まれたんだ!」と聞き返していた。予定日まで、あと4日有ったし、出発する時は、そんな風でもなかったがと思ったりもした。別のトランシーバーから、今事務所へ行って、聞いてきたら、やっぱり私の子供だと言う。どうやら、友人の寿司屋から連絡が入った。私の妻もスキーに行った事は知っていたが、私が何処のスキー場に居るのかは知らなかった。私の地元のスキー仲間が集まり私の行きそうな、スキー場に片っ端から、私の住所と氏名と、子供が生まれたから、直ぐに戻れ等の内容を入れ、8箇所のスキー場も訳が分からないまま放送した。8つのスキー場の中のその一つに、私が滑っていた、御岳スキー場があったと言うことだった。他のスキー場にも、私の住所と名前がアナウンスされ、私を知っているものから後日電話があったりして、とんでもない噂を巻き起こしてしまった。皆で集まり、食事をしながら相談した。男連中は帰る帰らないと半分に意見が分かれた。女の子の意見は、絶対に帰るべきだとの意見。後は、私が決断を下さなければならなかった。しかし、まず家に電話して情況を収集した方が、得策であるとの事で、ヒュッテから電話をした。寿司屋に電話をしたら「馬鹿も~ん!」と、私は「ま~!落ち着いて下さいよ」というと、「これが落ち着いていられるか!」と大きな声。寿司屋から電話を替わったのが飲み友達だった。「皆で手分けしてスキー場に電話したんだぞ」手分けして電話してから、1時間半も経っているが、消息が分からない為、皆が寿司屋に集っていた。そして、また電話を替わった。「直ぐに帰れるか?」と私に聞いたのは、これも友達の警官で今日は非番だった。「今何してるの?」と聞かれたので、「皆で食事してます」と答えると、凄い勢いで、「今すぐに帰って来た方が君の身のためだぞ!」と、警官の仕事に戻ってしまっている言い方だった。そして、私は決断を迫られ、決断を下した。「家族と私」その5へつづく
2006.03.17
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「家族と私」その1 バトンリレーの記事を書き出しました。テーマは「○○○と私」そして、皆さんの所へバトンリレーのご連絡に、「○○○と私」の○に、どんな文字を入れても、構わないのであるが、実際に自分が書こうと、キーボードに手を触れてみたが結構進まない。「上海発!画像の更新!」は旅行などの画像を、更新するためで記事を書いていますが、今回は、バトンリレーでブログに普段書かない事と言う事。ブログを飾る事も出来ませんね。「家族と私」で記事を書いてみます。------1------私の結婚と工場の立上げとが、ほぼ同じ時期でしたので、結婚式にお金を使うよりも、その資金を工場のために使いたいと、妻に了解を貰ったのも、もう遠い昔の事。しかし、妻のウエーディングドレスは、私のデザインで私が必死になって作成した。結婚式も実に質素なもので、親戚からこんな結婚式に出て、とても恥ずかしかったと後から耳に入った。工場の設備などは新品で、気持ちよかったが、自分達の食卓もなく、木製のみかん箱の上に、コンパネ板を乗せた質素なものでした。夜ビールを飲み、少し酔っ払って、間違ってコンパネ板の上に手でも、突いて起き上がろうものならコンパネ板の、上のもの全てがひっくり返ってしまった。その事を聞きつけた家具屋のご主人が、立派なテーブルやら茶箪笥などを、プレゼントして下さいました。結婚する前に、その家具屋の奥さんが、困っていた時に助けた事があり、私が困っていると言う事を聞きつけ、プレゼントを思い立ったそうです。仕事も軌道に乗ってきた頃、妻が長女を身篭りました。その頃は、従業員も20名ほどで、それほど多くはなかったのですが、あまり仕事に長けた人がいなく、私達2人で夜中までの仕事が連日続いた。そんな中での妊娠でした。仕事が忙しく、保健所での妊婦の集いにも、仕事を手伝うよう妻に指示した。ゆえに、妊娠中の食事も私と同じ物を、食べつづけた為、妊娠中毒症で、体が腫れてしまった事もあった。「家族と私」その2へつづく「家族と私」その2「上海発!画像の更新!」は旅行などの画像を、更新するためのみ記事を書いていますが、今回は、バトンリレーでブログに普段書かない事と言う事。ブログを飾る事も出来ませんね。「家族と私」で記事を書いてみます。------2------妻の在所である島根県から、妻の母が、娘の初産の2週間前から、愛知県の我が家に来て、家事を手伝った。私は、近所のスナックで友達と、飲んでいる時に義母から連絡が入った。何か有った時はと、スナックの電話番号のついたマッチを渡していた。夜10時半頃に病院から生まれたと、連絡が入ったそうである。義母が今夜は遅くまで付き添うとの、事だったので安心して、友人とスナックで、酒を飲みながら、色々と語っている時だった。友人に訳を話し11時に家に着き、義母を乗せて、病院へ向かった。長女の誕生は雪の深々と降る、1月19日の夜でした。雪が7cmほど積もりタイヤと雪の、擦れるような音が聞こえるようだった。義母を乗せている事も手伝いゆっくり走った。余り大きくない産婦人科の駐車場に車を停めた。義母は、ドアーを開けると小走りに、部屋に入って行ったので後を追った。何処にいるのかと探していると、義母がこちらですよと私を呼びに来た。妻の顔を見ると上気した様な感じだった。「私は生まれたのか?」って言って、「どこにいるの?」と聞いた。看護婦さんが私を案内してくれ、入ろうと思ったら、消毒した白衣を、着て下さいと、そして、初めての子供を見た。これが俺の子供か?と思った。無菌室だからあまり長居は駄目で、外に回りガラス越しに子供を見た。私の長女は、2350kgと小さかったが、未熟児ではなかったので、保育器に入る事もなかった。しかし、左の赤ちゃんが4120kgと右隣が、3660kgと大きく、余りにも私の子供が、小さく、看護婦さんを呼び聞いてみた。「この子って、本当に私の子供です?」看護婦さんは笑いながらも、無菌室に入り、私に、その子の足の裏を見せてくれた。確かに私の姓名が書かれていた。さらには、隣の子供の足の裏も見せてと、頼んで見せて頂いたが、違う姓名だった。看護婦さんは外に出て来て、納得されました?と、言った後、「お父さんにそっくりですよ!」と、更には「綺麗なお嬢さんになりますよ」と・・・。この看護婦さんは誰にでも同じ事を、言っているのでは?とも思ったが、妻の所へ戻った。既に義母が先ほどの看護婦と私との、やり取りを話したらしく、「あまり変な事言わないでよ~」と、私は「もう帰るわ!」と言い「義母さんは?」と、聞き、「今晩はここへ泊まります」と言った。「家族と私」その3へつづく
2006.03.17
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やっと見つかったタイバンコクから2時間半でパタヤへ着く。私は上海からのツアーに参加したのですが、日本の旅行社のこのバンコクやパタヤのセールスポイントこのようなのがあった。大人気のバンコク・パタヤのコースを、厳選しました!あなただけの旅が、きっと見つかりますよ!!キャッチフレーズは、どのようにでも、書く事が出来るが、「微笑みの国」のタイの中で、バンコク・タイは結構楽しかった。次回また行く機会が出来るのであるならば、一人で自由気ままに旅がしたいと思った。私が、色々なオープンバーのお嬢さん達に、気を取られているときに、現地ガイドと中国人の人達を見失ってしまった。私は、慌てて小走りにパタヤの歓楽街通りを、走った。そして色々な通りに分かれており、元来た道に引き返し、彼達が一体何処に、行ってしまったのか?考えながら歩いた。見失った地点から、200mほどの間を、2往復したが、彼らの姿を見つける事は、出来なかった。船上のレストランからの踊りから、堤防を歩き、今も歩き詰めなのと、皆の姿が見つからないので、少々疲れ、オープンバーのお嬢さんに椅子を借りた。ビールか何かドリンクを飲めと言うが断った。そして、椅子代として20B(60円)のチップを出した。彼女もニッコリ笑いながら、ポケットの中に、しまいこんでいた。私は仕方なく、デジカメを再生側にし、今まで撮った画像を店の彼女達と確認していた。そこに現地ガイドが、何食わぬ顔で、「日本先生!そろそろ行きましょうか」と、上海のツアー客を連れて迎えに来ていた。上海のツアー客の中国人は、「この人はこの小姐達ともう友達になってる」と、何か不満そうであったが、不満なのは私の方であった。「何処へ行っていたのですか?」と聞くと、指を差し、キックボクシングの試合を見ていたと言う。私が、オープンバーのお嬢さん達に手を、振っている時に、見失った場所の前の店に、「ムエタイ」からの出店があり見ていたと言う。私は一気に疲れが出たような感じがした。私が、皆さんを何度探した事かと言いかけ、そんな事を言っても、パタヤのお嬢さんに、気を取られていた私がいけなかったと反省した。先ほど2度も見た刺青「TATTOO」の店の、画像を取り込み、彼らの後にぴったり着いていった。現地ガイドが、大通りで「トゥクトゥク」と、値段の交渉をし、その後の荷台を座席にしたシートに座った時には実にホッとした。皆の顔を見渡しながら、微笑んだら皆も笑った。
2006.03.13
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中国で迎える誕生日2月26日は私の誕生日。昨夜は、皆さんで食事に行きました。料理が出てくる前に、中国のレストランの標準テーブルを、画像に収めてみました。このあと料理が並びますが、皆さん、画像に撮って頂くとと、ちょっと問題がという事で・・・、先に、テーブルの画像のみ更新。上海で迎える4回目の誕生日で、中国では12回目の誕生日である。若いうちは誕生パーティも、結構待ち遠しく、友達も呼んだが、この年になると、お誕生日おめでとうと言われても、余り嬉しいものではないが、それでも、皆から祝福されると嬉しいものである。このバースデーケーキは直径が50センチあり結構大きい。日本の趣味とちょっと違うが、有難うと受け取った。このケーキは、先ほど30人の管理者達が来て平らげていった。皆からは、ブーザン幾つになりました。もう忘れてしまったよ。これからはプラスするのはやめよう。マイナスにしていこうと言ったものの、こればかりはどうにもならない。しかしこのケーキを見ていると、何となく、人の顔に見えてくる。中国では「誕生日おめでとう」を、生日快楽(sheng1ri4kuai4le4)と書き、ハッピーバースデーと同じ意味。何かを新しい目標にしなければ・・。いろいろ考えたが、やはり、「健康」と「希望」にした。そして、プレゼントされたのは、北京の高級ワイン「豊収」今晩は、これを飲んで健康を考えよう!
2006.02.26
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鉢植えの花近くに歩み寄り鉢植えの花を、画像に収めてみた。だが、遠くから眺めている方が、感動の度合いは多く感じた。鉢植えの花を撮ってみたものの、花の名前は、やはり分からない。鉢植えを置く為に椰子の木を切って、その高さを色々変えて、鉢植えを置く高さを調整していた。その椰子の幹と鉢と花が、非常にマッチしていた。この右側奥に道があり、その道の向うに、次のガーデンがあったが、私がツアー客の中で、一番最後のため、その奥には時間的余裕がなく、見に行く事を断念せざるを得なかった。皆からも、「早くして下さい!」「皆さん待ってますよ!」と、一番後から回った事を後悔しかけていた。
2006.02.25
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「青い色の睡蓮の花」2日前に画像を更新した蓮の花の画像。「ある女性」より「多分睡蓮だとおもいます」とのご連絡あり。「睡蓮」で検索したところ、同じような花が続々と出てきました。そして、モネの睡蓮の絵画の事が、書かれてありました。また、モネが晩年を過ごしたのは、戦争の舞台となったノルマンディー地方。「青い色の睡蓮の花」は、モネが何としてでも咲かせたいと、願ったが叶わなかった。その睡蓮の花・・・。この蓮の花には瑞々しさがない。それだけに、毎日咲き、咲き疲れた姿・・。何となく哀愁を感じる。睡蓮の花言葉は「心の純潔、純情、信頼、復活」蓮の花言葉は「神聖・沈着・休養・遠くへ去った愛」花言葉って実に勇気付けられる。それぞれの花に言葉が有る。誰が付けたのかは知らないが、赤コスモスの花言葉は「乙女の愛情・調和」白コスモスの花言葉 は「乙女の純潔・美麗・優美」濃桃コスモスの花言葉は「愛情」黄花コスモスの花言葉は「野生美、チョコレートコスモス」そして、画像は「蝴蝶園」に、咲いていた一輪の「睡蓮の花」モネが咲かせたいと願った「青い色の睡蓮の花」
2006.02.24
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「上海でも雪化粧」今年日本では50何年ぶりの、大雪の報道を、こちら上海にて、連日衛星放送でBS1で見ていた。昨年は上海でも雪が降った。昨年と言っても今年の冬ではなく、2004年から2005年にかけての冬だ。この冬は上海でも結構寒かった。しかし、雪が降ることはなかった。今朝起きて、カーテンを開けたら、雪が降り積もっていた。子供頃は、朝雪が降り積もっていると、取る物も取りあえず、外に飛び出したものだ。しかし、今ではその感動も薄れ、工場管理職を乗せた車は問題なく工場へ到着するだろうかなどと、そのような心配をし、身支度をした。今日は、出かける予定があったので、心配した車がまだ工場に着いてないので、どうしたのかと、電話した。私の胸騒ぎが的中し、事故に巻き込まれて、交通警察が来るのを待っているという。どうやら、後から追突されたようだ。上海で雪が降るのも少ない。朝の慌てているなかで、いつもの車間距離。いつものタイミングでブレーキを踏んでも、間に合わなかったのだろう。人には何の影響も無いとの事で、工場の事は心配しないで処理して下さい。と伝え外に出てより、工場付近の雪化粧を画像に納めた。工場裏の竹林・工場入口脇の庭等、画像に収めてより、工場に入った。下の画像は、工場の私の事務所から、上海の古い家屋の雪化粧を撮った。この古い家屋は、2ヶ月以内に解体され、新しく高層マンションが出来上がる。
2006.02.18
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「情人節」バレンタイデーを中国語で「情人節」といい、何となく「情人」から受ける印象は「愛人」のようですね。私が中国で「我的愛人(wo3 de ai4ren)」と言ったら、私の妻と取って頂けなかった。何となく恋人というように、理解されたようです。「情人」の「情」とは、物事に感じて起る心の動きであり、主観的な意識や気持ちや心。また思いやりの心や情け。そして異性を慕う気持ちや趣や味わいなどの意。「愛人」の「愛」とは、親兄弟の慈しみ合う心であり、男女間の相手を慕う情であり、それは恋ともいう。また愛とは大切にすることや自分を、犠牲にして相手を慈しむの意。日本では、バレンタインデーというと「恋人」を思い浮かべます。「恋人」とは、恋しく思う相手。おもいびとといい、「恋人」の「恋」とは、一緒に生活できない人に強く引かれ、恋しく思うことで、男女間の思慕の情から恋慕、恋愛。ある特定の異性に対して平常心でいられない心の揺れが恋で、その心の揺れをもたらすのが「情」という事でしょうかね。しかし、実際のバレンタイン・デーの意味は、西暦269年に殉教死したローマの司祭を、聖バレンタインと呼び、2月14日が聖バレンタインの記念日となった。この2月14日に愛する人に贈り物をすること。特に女性から男性に贈り物をし、日本では1958年頃より流行し始めたが一部分。年に一度女性からが男性にチョコレートをプレゼントして、愛を告白するという、このしゃれた風習は、欧米からわたって来たのではあるが、日本人の創作であり、仕掛け人は当然の如くいるのだが、その仕掛け人までが驚くほど日本の文化になってしまった。私の携帯電話にも、中国語で「情人節快楽」と、既に12通のメールが届いている。
2006.02.14
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今日は中国では元宵節です。旧暦1月15日に当たる今日は家族団らんで、団子を食べながらこの日を祝い皆の健康を感謝します。今タイプしていても外では花火の音が賑やかに鳴り止む様子もみせませんね。また灯篭を飾って見物する風習があるので、この日を灯節(灯篭祭)ともいう。今日あたりの夜は、上海豫園では大賑わいだろう。古代に夜を宵と言い、正月を元月と言った。漢の文帝はこの正月十五日を元宵節と名づけた。
2006.02.12
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中国へ帰ってより画像の更新を始めます。
2005.11.05
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11月6日~19日まで日本出張になった。約2週間上海に不在です。東京・仙台・横浜・名古屋・大阪と目まぐるしく動きます。「画像の更新」も保留のままになる事と思いますので、あと2日で出来るだけ多く更新しよう。
2005.11.04
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今日9月18日は、旧暦の8月15日で中秋節(中秋の名月)である。昨夜の月が目の前に大きく綺麗に輝いていたので、5分ほど立ち止まり、子供の頃に、祖母がススキと白玉粉の団子を前に語ってくれた時の事を思い浮かべた。昨日は、上海にて6個入り月餅(yue4bingゲッペイ)500袋余りを購入し、午後に従業員さん達皆さんへ手渡した。日本では、この習わしは少なくなったが、中国では根強く残っています。皆は、中秋節が近づいて来る頃には、月餅の話題になるのだが、実際に甘い月餅(yue4bingゲッペイ)を手にすると、うれしそうな表情も、一瞬で消え失せ、「これって甘くって、あまり美味しくない!」なんて声が耳に入ると、何となく、来年の中秋節は現金を配ろうと幹部で相談するのだが、相変わらず、恒例の如く月餅(yue4bingゲッペイ)を買ってくるのである。中国で調査した所、ゲッペイをもらって、うれしくないと思う人が、もらった人の70%以上と言うから、来年からはやはり現金にしようかな・・・?
2005.09.18
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明日9月18日(日)は、中国旧暦で8月15日で、中秋節の日である。日本では毎年9月15日に中秋の名月として、私が小学校6年まで、家では白玉粉で団子を作り、皿の上に盛りあわせ、ススキを細い花瓶に挿し、そのたお酒も用意し、月の見えるベランダに供え、長い間、月の様相を見ていた。兎が餅を搗いている姿など想像しながら・・・。あの頃は良かったな。風流だったな~。などと古きよき時代を思い起こした。今日は、550袋の月餅(ゲッペイ)を購入してきた。午後には、恒例である中国工場の管理者・作業員達に配る。
2005.09.17
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大成功だ!友人の言った事がこれで立証された!友人の折角「ieiri7」を立ち上げて慣れたのだから、「ieiri8」は、画像使用する場所にとのことだったが、やはり時間を選んでしまった。カウント数も楽しみの一つではあるが、時は金なりである。この場を借りて、お礼と謝罪を致します。-------------------------------補足説明:上記の「やはり時間を選んでしまった」について、元々、私の使用方法が雑でありまた無知であったという事が問題である。つまりは、はじめに「画像オプション」で登録し5MBを使い果たしてしまった。友人は、「画像の倉庫」を利用すれば、最大100枚まで利用出来ると教えてくれた。しかし、この時点で「ieiri8」に移行しており、もう一度「ieiri7」を、使用し続けるのは、気後れしていた。またそれを察した友人は、まだ利用出来るのであれば、最大限利用していった方が得策と説明してくれた。以前のページは楽天広場「ieiri7」で、今回のページは楽天広場「ieiri8」例えば「ieiri8」を画像倉庫として利用し、「ieiri7」で記事を登録するためには、毎回、ログインとログアウトの繰り返しをせねばならず、その煩わしさから、逃げたかったと言ったほうが正解なのかもしれない。「時間」を無駄にしたくない。これはどんなブロガーにも共通する課題である。ましてや、私の場合他にメインのブログと中国語学習のブログがあり、これを維持していくだけでも、相当な精神力が必要である。が、ゆえに、上記の「やはり時間を選んでしまった」という表現になってしまった。ブーザン
2005.09.14
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今回、ページを新たに立ち上げた時に、不思議に思った事がある。その事が、ある人より連絡を頂き納得した。しかし納得しただけではなく、その事を立証してみたい衝動に駆られるのは、まだ若い証拠なのかは別にして、下記に、以前のページより、画像のアドレスのみ、この新しいページに、コピーしてみた。結果は記事の内容を登録してから分かる。でもどのように?と、問われると困るが、成功ならば画像がアップされるだろうし、失敗ならば「×」印が、画面の左上に出ることだろう。でも、この操作は結構面倒という事も分かった。一度ログアウトして、再度、以前のページにログインして、画像のページに行き必要な画像を選択し、それをメモ帳へコピーし、更にログアウトして、新ページにログインし、日記の中に記事を書き、先ほどコピーした画像アドレスをコピーペースト。これが立証されたとしても、私には中国語学習のexblog「中国ひとりぽっち」と、メインの「ブログ中国ひとりぽっち」の更新に追われ、更にはこの画像の、やり取りと時間が無いような気がしてならない。今回、教えて頂いた方は大切な友人でもあるが、やはり今の方法で進行したい。先ずは他のページの保管画像を引っ張れるかどうかの試験と立証をしてみたい。どれも、雲南旅行で収めた画像である。
2005.09.14
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