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名城「松江城」に隣接して建てられた島根県庁舎には、次のフレーズがよくにあいます 松江城は慶長16年(1611)初代城主:堀尾吉晴が築城した黒塗りの雨覆板で覆われた実戦本位の造りをいまも残す、名城です 松江城を囲む堀川(内堀)をぐるりと一周してくれる遊覧船が橋の下を通ります、なんとも風情のある情景ですな 三の丸跡、二の丸と上げって行くにつれて、甲高い「ぴ~ひょろろ~」と聞こえてくる鳴声がおおきくなっていきます名城には「鷹」がよく似合います 松江城を眺めながら、堀川沿いに歩いていくと、小泉八雲旧居武家屋敷が立ち並ぶ、「塩見縄手」が続きます塩見縄手は日本の道100選に選ばれている約400mの通りです 右手に松江城、左手に江戸情緒を感じながら、老松が並ぶ塩見縄手を存分に堪能した慶次であります 松江観光を終え・・・いや、まだ陽が高いなぁ・・・ということで、近くの田和山遺跡に足を運びました三重の環濠を有する弥生時代の珍しい集落遺跡である田和山遺跡は標高約50mの山です 山頂には柱が残っていて、ここに建物が建っていたようですただ、人の生活した跡がいまのところ見つかっていません山頂部にこのようなしっかりとした柱の建築物を建てたのはなぜでしょうか?やはり、神殿、神社の類の建築物と考えるのが妥当でしょうか? これくらいの高さの山でも、古代人が生きていた頃の状況を考えると、かなり神聖な場所のようにも感じます写真の道路や近代建築物を排除して心眼でみつめていると・・・ 近くに夕焼けの美しいことで有名な宍戸湖があることから、大雨などの水害時の非常用としての食糧庫とも考えられるでしょうタイムマシンがあれば、行ってみたい 日本国中の隅から隅まで歩いてみたい、そう思わせてくれた島根県の旅でした かえれ竹島! これは日本国政府に対する言葉でしょうな韓国に言う場合は、かえせ竹島! でありましょうから次回、「旅の終わりに」です 一 夢 庵 風 流 日 記
2008年09月27日
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大きな注連縄ですね、拝殿にかかる注連縄の大きさは周囲4m 長さ8m、重さ1.5トンにもなります、大社拝殿の左側にさらに大きな注連縄があります神楽殿の注連縄です大きさは周囲8m 長さ13m、重さ4.5tという破格の大きさ! 注連縄の先にお金を投げて、挟むことができると御利益があるといわれています、この日も、下から必死で投げ込む参拝者がたくさんいました 上の写真は本殿への最初の門「八足門」です、奥にもうひとつ門が見えます(わかりにくいかな)、あれが「楼門」です楼門を抜けると、本殿です拝殿から右回りに大社を散策しましょう こちらが、「東十九社」です、東というからには西もあるわけで、本殿をはさみ、対になっていますここは神在月のときに、八百万の神々の控え所となります「どこからきたと?」「尾張だぎゃぁ」「讃岐ぜよ」なんて会話でもしていたのでしょうか 「釜社」です、祭神はウカノミタマノカミで、保食神であり、素盞鳴尊の子であるウカノミタマノカミは稲荷神としても有名で、各地で祭られています農耕をはじめとする食の問題はいまも昔も重要だったのです ここから本殿を眺めてみましょう、見事な大社造りです拝殿と本殿の延長線上に「素鵞社(そがのやしろ)」があります、字でわかってしまう方もいらっしゃるでしょう、ご祭神は素箋鳴尊(スサノヲ)です記紀神話では、大国主命はスサノヲの子であるとか、スサノヲの6世の孫などと書かれ、血縁的にスサノヲが上位に位置していますそれをあらわすかのように、素鵞社は一段高いところにつくられ、本殿を見据えるようにつくられていますぐるっとまわって、こちらは氏社です出雲大社の祭祀を受け継いだ出雲国造の始祖である、天穂日命が祀られています ここまでいくと、木なのか何なのかわかりません 大社は山に囲まれ、時折吹き抜ける風がとても涼しく感じられましたこの日も最高気温は35度を越えて猛暑日でしたが、快適快適~ 帰りは、一畑電鉄でぶらぶら揺られて帰りました、味のある車体さて、次回はこちら 山陰地方で唯一天守閣を持つ実戦的城、「松江城」を含む松江をご紹介いたしますここから、番外編 本殿入り口です、ズームで撮りましたキッコーマン(亀甲紋)がしっかり見えます通常は二拝二拍手一拝ですが、出雲大社では二拝四拍手一拝です宇佐も四拍手ですし、ほかにも各地で様々なカミサマの参拝法があるようです(みなさんの地元でもいろいろあるはずです) ばいばい、出雲大社~ それにしても人が多かったなあ 一 夢 庵 風 流 日 記
2008年09月16日
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高層神殿について興味がわきましたでしょうか?そこで、今回はブレイクタイム慶次が数年前に参加した進歩時有無なんぞからおもしろい部分を紹介したいと思いますもともとは大社内に地下祭礼準備室の建設計画が持ち上がり、準備をはじめたところ、驚くべき発見がなされますその後、平成11年9月に発掘調査がはじまり、翌年の4月に宇豆柱が、9月には別の二組の柱が出土しますいずれも、三本の杉の木を抱き合わせた形で発見されました一本の柱の太さが現在出雲大社で使われている柱の断面積の約五倍で、本殿の床面積は現在のより少し大きい程度ですから、巨大な柱であったことは間違いありません本殿中心部を支える心御柱からは、柱穴を掘った後に、なにかしらの儀式をしたことが伺えました、なぜわかったのかというと、石が綺麗に敷き並べられて、舞台のようなものが発見されたのですこれは心御柱からのみ発見され、宇豆柱からは発見されませんでしたしかし、宇豆柱からのみ発見された祭事の痕跡もありました二本の釿(ちょうな)が埋納されていたのです釿は大工道具の象徴的なもので、年頭に作業をはじめる際の儀式が「釿始」とされることからも、その象徴性が感じられます文献では造営工程の要所ごとに神事・儀式をおこなったとありますが、発掘調査では、それを裏付けることはできていませんこれは、神事が特別なモノをつくっておこなったりしたのではなく舞や丁重なる儀式がメインだったからではないかと思われますさて、ここから少し科学的な話になってきます、なるべく簡潔におもしろく書きますので、我慢してくだされここで出土したふっとい柱に年号でも記してあれば、いつの時代のものかわかるのですが、何も書いてない・・・そこで、まず簡単な年代測定をおこないました、それにより11世紀後半~13世紀という幅広い年代がわかりました、さらに宇豆柱内から土器が出土し、これにより12世紀後半~13世紀としぼり込めましたさらにさらに、年輪や、放射性炭素から測定もしました 出雲大社においては平安時代中期以降の造営記録が残っていますこの文献記録と、年代測定を照らし合わせると、今回出土した柱は鎌倉時代の宝治二(1248)年に遷宮されたものである可能性が極めて高いことがわかりました年輪による年代測定法は資料は限られますが、かなり信頼がもてる方法ですこの測定法により、心御柱の柱下から出土した板材のもっとも外側の年輪が1227年に形成されたことがわかりました1227年の木を1000年とか900年とかに伐ることはできませんから、この本殿遺構は1227年より新しいものだということになります次に造営記録と重ね合わせます嘉禄元年(1225)年の倒壊後の造営と一致してきます宝治の造営からさかのぼること200年の間に、記録によれば五回の倒壊があったとされ、平安期は倒壊しては造り、倒壊しては高層神殿を造りを繰り返していたと思われますしかし、この宝治の本殿も文永八(1271)年に火事で消失し、その後、中世においては本殿規模は急激に縮小しますこれについて、井上寛司氏がおもしろい仮説をたてています興味があればご自分で探して読んでください(疲れた)簡潔な内容でよければ、書きますが・・・・ぶっまたいつか、ブレイクタイムと称して、大社について書きましょう疑問や突込みがあれば、コメント欄にどんどん書き込んでください実際、書きたいことの1/10も書けませんでした(疲れたし~) 一 夢 庵 風 流 日 記
2008年09月14日
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さて、それでは大社内に入っていきましょう 正門鳥居をくぐり、歩いていくと右手に「祓社」があります祓戸四柱神(はらえどよはしらのかみ)が祀られるこの社にて身を清め祓い、身支度を整えるのです瀬津比め神(せおりつひめのかみ)速開都比め神(はやあきつひめのかみ)気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)速佐須良比め神(はやさすらひめのかみ)おもしろいことに、この四柱神は祓詞には出てきますが、記紀には出てきません、これはどういうことでしょうか? 身支度を整え、参道を歩いていくと、祓橋に出会います橋を渡らず、左に歩いていくと土俵があります神事といわれる相撲ですが、現在、地に堕ちましたね伊勢神宮も橋を渡ります、現世と神域の渡り橋といわれますが大社もそうでしょう、橋を渡り神域に足を踏み入れていきます写真をご覧いただくとわかるのですが、橋から鳥居がみえますこの鳥居から手水舎、銅鳥居まで参道が続きます、ここは「松並木の参道」といわれています白砂と松が美しく、綺麗な参道でした いろいろな参道を歩きましたが、本当に美しい参道でした 手水舎です、左手右手、持ち替えて左手に注いだ水で口を清め、左手を清め、最後に柄杓を洗って終了~見ていて、柄杓に直接口をつける参拝者が多いのに驚愕しましたこれはいけませんよ、いけません これが有名な銅鳥居です、1666年に毛利綱広が寄進したもので、ここには、「日神者地神五代之祖天照大神、月神者月読尊也、須佐鳴尊雲陽大社神也」と刻まれていることから、出雲大社では、当時は大国主命ではなく、スサノオノミコトが主祭神だったことがわかりますここをくぐると・・・ 拝殿がどど~んとお出迎えしてくれます2008年4月~2013年5月までは、大遷宮のため、大国主命の仮住まいとしてここは使用されます(御仮殿)写真右手に御仮殿の文字が見えると思います、さらにその奥にテントがいくつも張ってありますね、ここが特別本殿拝観者の待ち受け場所となります、まだ8時くらいだと思いますが、それでも、昼過ぎの参拝になると放送していました次回は、少しブレイクタイムをはさみ、拝殿からぐるりと一周しながら出雲大社をさらに紹介していきまっす前回アップした鳥居の大きさにびっくりした方もいらっしゃったと思います、そこで、今年5月に伊勢に行ったときに撮影した写真を並行して載せておきたいと思います、どちらも大きいですねそして、鳥居の形が違いますね・・・ 「上が伊勢、下が出雲」
2008年09月13日
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大社前に着いたのが7時くらいでしょうか、来た道を振り返ると自家用車で来る人々の列ができはじめていますさて、この大社前に「古代出雲大社模型展示館 雲太」が、あります、その昔、平安時代の書物「口遊」の中で、大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記されていますそれぞれ出雲大社本殿、東大寺大仏殿、京都大極殿の順に大きな建物であったことがうかがえます当時の大仏殿が15丈ですから、少なくとも16丈(48m)以上あったと推測されますさらに平成12年に発見された三巨木をたばねた巨大な宇豆柱や本殿遺構の心御柱が高層神殿が、現実に建っていたことを、ほぼ決定づけたといえましょう ここ「雲太」には、模型がかざってあります写真をご覧いただけましたでしょうか、高校生の力作です江戸から現代に至る出雲大社を作成しています さて、これが大昔あったとされる古代出雲大社の模型ですこの階段を上り本殿に参る古代人の心持はいかに?現在の出雲大社の本殿の高さは24m、じゅうぶん大きいのですが、それを凌駕するとなると・・・興味が尽きませんね いぜんにもお話しましたが、出雲大社は遷宮いたします今月から覆いをかけ、観ることのできない建造物が多々ありますその期間、5年、長いですね さて、それでは、出雲大社に参るとしましょうかそういえば行ったときに、托鉢僧が居ました、写真にも写っていますが、わかりますかな?托鉢って、修行だと聞いたことがあるのですが、本当でしょうか托鉢僧を完全無視、スルーした慶次でありますおおっと、時間になりました、今日はここまで! 余談ですが、出雲大社といえば亀甲紋ですね大和から見て、北方を守護する大役を担った出雲縁起のよい亀甲紋には平和の鳩がよく似合います次回、大社内を参りましょうといいつつ、最後の最後に豆知識をひとつ出雲大社にはためく国旗は47m、NHKで流れる国旗です 一 夢 庵 風 流 日 記
2008年09月10日
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3日午前9時半ごろ、新潟県小千谷市岩沢で解体中だった真言宗「和光院」(佐藤法龍住職)の押し入れ付近から出火、木造瓦ぶき屋根の寺約132平方メートルが全焼し、作業していた佐藤さんの長男で副住職の篤さん(41)が顔などにやけどを負った。寺は04年10月の中越地震で被害を受けて使用されておらず、ほかにけが人はなかった。 小千谷署によると、篤さんは押し入れにスズメバチの巣を見つけたため、竹の棒の先に灯油を染みこませたタオルをまいて火を付け、巣を焼き払おうとした。が、逆にスズメバチに襲われ、棒を投げ捨てた際に火が寺に燃え移ったという。巣も焼失した。asahi.com解体中であったことを考えると、手間が省けたということでしょうかそれにしても、スズメバチを駆除しようなどと、ユメユメ思いなさるな黒と黄色のコントラスト、強いアゴ、不気味な羽音、そして一撃必殺の毒針・・・スズメバチには手を出すな!話し変わって、お坊さんが灯油の染み込んだ棒を手に持ち、ケタケタ笑いながら、「そおら、死んでしまえ~~!!!」とつぶやきながらハチの巣を燃やそうとしている姿は、あまり見たくない・・・ 一 夢 庵 風 流 日 記
2008年09月05日
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出雲国松江で、当時鍛冶職人をなりわいとしていた三右衛門にかわいい女の子が生まれた、その娘は、やがて出雲大社の巫女となる美しく成長した娘は大社本殿修理費勧進のため、諸国巡業の旅に出た一座の踊りは人気を博し、関が原の合戦がおこなわれた1600年には、京都近衛殿や御所にて、「ややこ踊り」を踊って人目を引き、彼女の名は知れ渡ることとなる江戸幕府開府の年(1603)、彼女は男役を見事に演じ、みなから喝采を浴びた、一座は京で大変な人気を得、四条河原でも勧進興行をおこなった彼女の名は、正確にはわからない、ただ、こう呼ばれていたと伝えられているだけだ、「出雲の阿国(おくに)」と・・・刀を差し、伊達男を演じる阿国の姿は、型破れで異形であったそんな彼女を民衆は、天下のかぶき者と大絶賛する歌舞伎を生んだ、「出雲の阿国」は、1607年の勧進歌舞伎を最後に消息が途絶えるここ出雲では、阿国は晩年は杵築に戻り、尼僧「智月」となり読経と連歌に興じ、静かな余生を過ごしたと言い伝えられている阿国が晩年を過ごしたといわれる、連歌庵ひっそりとしたたたずまいでいながら、小奇麗にしてあり、常に誰かが、世話をしていることがうかがえる阿国との別れを惜しみながら、次の場所へ向かうことにいたしましょう次回、いよいよ「出雲大社」です阿国の墓や連歌庵は稲佐の浜に行く道の途中にあります春は、目前の桜が咲き誇ります阿国の舞には桜吹雪がよく似合うでしょうな 一 夢 庵 風 流 日 記
2008年09月04日
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今回は、文章がだらだらと長くなってしまいましたつまらないと投げ捨てず、最後までおつきあいいただけると嬉しいですな JR出雲駅です、左側に人がたくさんいますが、出雲大社行きバス待ちの方々です、慶次もこの後並び、バスで大社に行きました大社までですと渋滞に巻き込まれるというので、大社前までをすすめられました、が、その随分前の大鳥居を過ぎてから、渋滞です・・・大社前は道が狭いです、かなりいらいらしました 出雲大社は、またゆっくり紹介するとして、大社を左折してまっすぐ行くと、稲佐の浜に出ます、写真でご覧になったことがあるでしょう こちらが、「稲佐の浜にある、弁天島」ですかつては弁天様を祀っていたそうです、厳島神社の項で書きましたが、弁財天と市杵島姫命は習合しました水の神である市杵島姫命がこのような場所で祀られる理由は十分ですな、現在は豊玉姫命だけを祀っています海神(ワタツミノカミ)の娘であり、山幸彦の妻であります「稲佐の浜」では、ふたつの面白いことをお話しましょうひとつめは、国譲りの交渉の場であるというお話ですアマテラスは三度目の国譲りの交渉に建御雷之男神(たけみかづち)をメインに、そして天鳥船神(あめのとりふね)をサブにつけて、送り込みます二神は、稲佐の浜の波間に剣を逆立て、あぐらをかいて直談判をはじめます、しかし、オオクニヌシの子である建御名方神(たけみなかた)が承知しません、力には自信のあるタケミナカタが、タケミカヅチの手をとり、ふっ飛ばしてやろうとした、そのとき、タケミナカタの手は氷つき、さらに剣に変えられてしまいますさらに、力自慢のタケミナカタのほうが、あっぴょ~んと、投げ飛ばされてしまうのでしたこれには、びびりまくり、ちびりまくりのタケミナカタです、スタコラ信濃は諏訪まで逃げました、そんなわけで諏訪大社にはタケミナカタが祀られていたりします(余談)オオクニヌシは子にならい、国譲りに調印します・・・と、これが記紀神話です、では、「出雲国風土記」における稲佐の浜でのお話を紹介しましょうとあるカミが、出雲は狭い国であるから、広く継ぎ足そうといわれて、遠い新羅の国の余りを「国来い国来い」と引き寄せられたのが杵築の岬で、その時使われた綱は「園の長浜」、そうして引いて来た国を動かないように継ぎ止められた杭が三瓶山だとしています 向こうに陸地がうっすら見えます、ここからぐっと弧を描くように「園の長浜」が続くのです、古代人の生きた頃は、もっとはっきりと陸地が見え、美しい長浜だったのでしょう、まさに国を引く綱のよう記紀神話の息詰まる話より、おおらかな風土記のほうがいいなあふたつめのお話は、神在月(神無月)のころに、全国各地の神様が海蛇(竜蛇さま)に先導され、この稲佐の浜から出雲に上陸するというお話です旧暦10月10日に、ここで神迎えの神事がおこなわれ、八百万の神々を丁重にむかえ、神迎えの道をとおり、出雲大社へ導きますそれにしても、なぜ、神々はこの時期に出雲に集まるのでしょうか出雲大社HPでは、「幽れたる神事」とは、目には見えない縁を結ぶこととされ、縁結び(人と人との縁)の相談をなさるからと説明されていますな出雲大社にカップルで行くと別れるなどといわれているようですが、デマです その人にとって最良の縁者でなければ、別れさせるというのが真意、最高のパートナーか試すにはもってこいの場所なのかもしれません(笑)補足ですが、国譲りの際に現世のことはアマテラス、幽れたることはオオクニヌシがあずかることとなるという記紀神話から、出雲大社は上のように説明していますね・・・出雲さん、記紀神話なんて信じていないくせに~慶次の見解を書くと、長くなるのでやめときまひょさてさて、次回は・・・くにちゃんです・・・ 一 夢 庵 風 流 日 記
2008年09月02日
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