PR
Calendar
Keyword Search
Free Space
Freepage List
Category
久しぶりにケージから出ておっかなびっくりのカイ
古代の国郡郷の行政区分で、郷も郡も無視して広範にわたる杉山神社の分布を考える際には、その創建が中世であることを見逃してならない。つまり、郷や郡を越えて(各国衙が基本の行政単位となるので国境を越えることは稀)開発領主である武士が支配域を広げ、その古代とは違う領域を有力な貴族や寺社に寄進して「荘園」が成立しているのが、鎌倉時代だ。
で、武蔵の国の東南、今の横浜市から川崎市にかけては、榛谷御厨(はんがやのみくりや)が存在していた。御厨とは神社の荘園のことで、伊勢神宮領とされていたのだが、地頭、現地の支配人は榛谷重朝と言う武士であった(開発領主と荘園領主の関係は、コンビニのオーナー店長とフランチャイズ本部の関係と思えば良いかと)。
それがどうしたと思うかもしれないが、だ・か・ら、政子の所領(地頭職)になるのが必然なのである。この榛谷重朝、北条政子の妹を妻にしていた兄の稲毛重成と行動を共にしていたが、畠山重忠(小山田兄弟とは従妹)を滅亡に追い込んだ罪を問われて、兄弟ともども誅殺の憂き目にあっている。つまり、榛谷御厨からその北方の兄重成の所領にかけては、幕府に収公されたはずで、さらに『吾妻鑑』元久2年(1205年)11月3日条に、小澤左近将監信重が稲毛重成の孫娘(娘の娘)2歳を連れて出頭し、北条政子は妹の孫であるその幼児を憐れんで、猶子として稲毛氏の遺領である武蔵国小沢郷を与えているのを見れば、尼御台所北条政子の管轄下にあったことがうかがわれる。
而して、亡夫頼朝にとっては重大な意味を持つ「杉山」を冠した神社が、北条政子の所領に多く所在する、と見なしえるわけである。・・・ちゃんと調べて卒論のネタにしろ、日本中世史学の者ども。
ついでに言えば、稲毛重成の居城が存在したとされる生田の枡形山は、私がよじ登って通った大学の所在地だ。どうです!見事なまでの因縁と言えようが!!このように、歴史とは自分にひき付けて見ればあちらこちらにつながりがあって面白いものである。身近な話を歴史的に掘り下げて自分に関係のありそうなことを面白がる作業、一度は試して頂きたい。
なぜ杉山神社は「杉山」なのか?源頼朝が難を逃れたのが、相模国土肥郷杉山だったから。
なぜ杉山神社は横浜から川崎にかけて多く所在するのか?謀反人として誅された稲毛重成・榛谷重朝兄弟の旧領が北条政子の所領になっていたから。
そして、妄想としては、政子領の寺社の整備を託された貞暁が、入江の景勝地に慈悲深い政子の姿と重ねて、イリキシマヒメ=弁才天を祭神に選んだ、となる。・・・ステキだわ。
※「杉山」の名称を持つ神社は古代から存在し、武蔵国の都築郡にも9世紀には存在が確認される。その点については、小学生の私にとっては身近な存在だった保土ヶ谷の神明社(参道の奥から入っていく細い道の先に釣り堀屋さんがあった。手前の田中金魚店は私の行きつけでもある)、「榛谷御厨総鎮守」とされる神社だが、そちらのホームページ「 杉山神社考
」をご参照いただきたい。
「杉山神社の分布が鶴見川・帷子川・大岡川の三水系、及び多摩川の右岸(川崎寄り)に限られている」、とは古代以前に川筋をたどって開発が行われたとする話かと思うが、「荘園公領制」と呼ばれるような領域支配が行われる中世の歴史を考える際は、大きな意味を持たないだろう。流域の開発の問題ではなく、領域支配の問題となるからである。たとえ古代から杉山社を称する神社が古代にあり、その影響下にある祠のようなものが点在しても、それをどのように位置づけて領域支配を行うかは、中世の支配者たちの恣意によるので、古代のそれがそのまま中世近世近代現代に不動であるはずがなく、変わっていないように見える場合、変えなかった意図を考察しなけrばならない。
ところでこの神明社が現在地に遷座して、御厨の総鎮守とされたのは、嘉禄元年(1225年)のこととあるのだが、その年は北条政子の没年だ。
無関係だとしたら不思議と言わねばなるまい。
無関係と言えば、墨田区本所の 江島杉山神社
だ。こちらは杉山和一検校を祀った神社なので、さすがに無関係だと思いきや・・・江島だよ?江の島だよ?杉山検校は江の島の弁才天の岩屋に参籠して、新しい技術を思い立った、とされているのだ。・・・弁天である。これを偶然の符号と見るかそれとも?・・・歴史は面白いね。
兄妹の可能性もあるが、このままごま塩同士で夫婦にしようか。それなら、次代は早くも潜性白文鳥、「江戸系」白文鳥の復活となるはず。タナカはタッチ、マイはオレ、白桜ペアで何が生まれるか、で話は変わってくるな・・・。あわてず検討しよう。