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January 28, 2023
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「ヒューマニズム」の世紀へ㊦

インド ラジブ・ガンジー現代問題研究所 1997 10 21

しかし、一口に「ヒューマニズム」と言っても、中身は一様ではありません。

ヒューマニズムの変遷については、さまざまに分析できますが、近代市民社会のエートス(基本精神)となったのは、ルネサンスと宗教改革を経て、西欧を中心に形成された「個人主義的ヒューマニズム」であると言えましょう。十九世紀後半に、その矛盾と脆弱さが露呈するにつれて、施行されたのが、「社会主義的ヒューマニズム」の試みであります。これらの近代ヒューマニズムは、確かに、中世的な〝絶対者の楔〟から、人間を開放するもであったかもしれない。

ところが、解放さてれはずの人間は、 今度は、自らの偏狭なエゴイズム、いわば〝小我〟に隷属していったのであります。欲望に振り回される「欲望の奴隷」になってしまった。

その弊害は、社会の退廃と環境破壊、貧富の拡大という人類的課題として噴出してしまったのであります。さらに、さまざまな原理主義の台頭に象徴されるように、〝ポスト・イデオロギー〟の人類史は、未曽有の試練に立たされているといっても決して過言ではありません。

この局面を、どう打開するか。はつらつたる、平和な「地球文明」の創造へ、どう踏み出していくか。そのための原動力は、何か。私は、行き詰った近代ヒューマニズムを超えて、〝コスモロジー(宇宙観)〟に立脚したヒューマニズムを提唱したいのであります。なぜなら、イデオロギーというものは、「二元対立的」であり、どうしても他者を「差別」し「排除」しがちです。

これに対して、コスモロジーは、より深い次元から、「包括的」に、あらゆる他者を受用する「寛容」の特徴をもつからであります。

その好例がアショーカ大王の「ダルマというヒューマニズムの治世」であります。

それは大王の根本原則に、端的に表れております。

その第一は「不殺生」です。その第二は「互いに敬え」です。不殺生については、人間以外の生物にも拡大して論ずるべきでありますが、私は少なくとも、「人間は人間を絶対に殺してはいけない」ということを、二十一世紀の〝人間憲章〟の冒頭に掲げるべきであると主張したいのであります。

これまで、そして今も、「正義」の名のもとに、どれほど多くの血が流されたことでありましょうか。近代ヒューマニズムの象徴であったフランス革命では、多くの無辜の人々が断頭台に消えました。また社会主義的ヒューマニズムが、実験の過程で、当初の志に反して、何千万という人々を死に至らしめました。これも今世紀の厳然たる史実であります。この悲劇を断じて繰り返してはならない。

今、求められる「ニュー・ヒューマニズム」の第一項目は絶対に、「殺すなかれ」の黄金律でなければなりません。「殺」と暴力を伴う〝正義〟は、いかなる論理で装うとも、全部、にせものの正義であります。タゴールが一生涯、叫び続けたように、「いけにえ」を求める神は、偽りの神なのであります。

では、これまでの「ヒューマニズム」の脆弱さは、どこに由来するのでありましょうか。精緻な分析をする席ではありませんので略させていただきますが、その根本は「人間への不信感」ではないでしょうか。

「人間への不信」は、自己に向けられれば対話の拒否となり、暴力となるからであります。不信は不信を生み、憎悪は憎悪を生む。限りなき流転に歯止めをかけるものは、一体、何か。それこそ「一人の人間生命は、大宇宙と一体の広がりをもち、最高に尊貴なものである」と見る「宇宙的ヒューマニズム」であると思うのであります。

その思想は、貴国のウパニシャッドの賢人や釈尊の教えに結実しております。

釈尊の教えの最高峰である「法華経」は。その真髄と言えましょう。

法華経は人々に、「差異へのこだわり」を捨てて、共通の「生命の大地」を知ることを教えました。その大地に立てば、「差異」は対立をもたらすものではなく、豊かさをもたらすものとなります。「法華経」の薬草喩品では、多種多様な草木が、同じ雨によって潤わされ、土井膣の大地に生い茂る譬えを説いております。

しかし、ただ「ニュー・ヒューマニズム」を叫び、「宇宙的ヒューマニズム」を論じるだけであれば、それは観念論でありましょう。その「生命尊重」の思潮を現実に広げる方途を求めなければならない。その重大な柱が、私は「教育」であると思うのであります。

宗教やイデオロギーだけで、「教育」がなければ、どうしても「独善」となるからであります。時代の趨勢として、宗教は個々人の自由という方向に向かうのでありましょうが、宗教を独善に陥らせることなく、正しい方向へ、平和の方向へ持っていく翼は、「教育」であります。

タゴールが、彼の深き宗教性に、西洋人をも理解させる「普遍性」を与えたカギは、彼の教育であり、知性でありました。彼は自分のみならず、大学の設立をはじめとして、生涯、教育による人間開発へ努力したのであります。

要するに、教育こそが人間を自由にするのであります。

知性こそが、人類がそこで語り合える普遍的舞台であります。

教育は人を偏見から解放します。暴力的熱狂から心を解放させます。

宇宙の法則への無知から解放してくれるのは教育であります。

また教育によってこそ、我々は無力感から解放され、自分自身への不信感から解放されます。自分の中に眠っていた能力を解放させ、「完全なるものに到達しよう」という魂の意欲を、思う存分に伸ばしていく。これが教育です。これは、なんと素晴らしい体験でありましょうか。

自分への不信感から解放された個人は、他者を潜在する可能性を持信じるに違いありません。「彼は、今の見かけの姿が真の姿ではない。内に、もっと素晴らしい宝をもっているのだ」と信じ始めるのであります。表面の際にとらわれず、共通の「生命の大地」「生命の大海」を見抜く眼を与えるもの。それは教育であります。

「教育なき宗教」は独善に

釈尊の実践もまた、一面から見れば、教育活動であったとも言えます。

法華経に「開示悟入」とあります。一人の人間の本来もつ智慧を「開かせ」「示し」「悟らせ」、その智慧に「入らせる」ことが、仏教の究極の目的なのであります」(法華経 121 ㌻、趣意)。これは「教育」と完全に軌を一にします。

『仏教』は裏を返せば人間教育であり、一方、「教育」は、人間信頼という精神性に裏打ちされてこそ価値がある。「人格を形成」し、「平和への知性」を与え、「社会への貢献」を教える「人間愛の教育」こそが最も必要なのであります。

私どもSGIの源流は「創価教育学会」であります。戸田第二代会長も教育者でありました。そして〝教育の目的は、生徒を幸福にすることにある〟(『牧口常三郎全集』5、参照)という信念から、その幸福の中身を追求し、仏教の生命哲学に至ったのであります。

マハトマ・ガンジーやネルー首相が、反植民地主義の闘争を展開したのと同時代の日本で、戸田は、牧口初代会長とともに、反軍国主義を貫き通しました。

牧口が七十三歳で獄死した悲嘆を乗り越え、弟子である戸田は、閉ざされた独房にあって、「法華経」等に依拠しつつ、「宇宙的ヒューマニズム」の原点を己心に覚知したのであります。

戦後、私は、この恩師と出会いました。奇しくも五十年前、貴国の独立前夜の八月十四日であります。あの制憲会議の席上、ネルー初代首相は、〝すべての人々の目から涙をぬぐい去ることがわが国の目的である〟(「ネルー演説集」坂本徳松・大類純訳、『世界大思想全集』 22 所収、河出書房新社、参照)とガンジーの「夢」を引いて叫ばれました。まさに、その日でありました。

ともあれ、教育が開く「英知の世界」がなければ、宗教の信仰も〝盲信〟になる危険があります。反対に、「教育」による英知の光源をもてば、宗教による「精神性」も、より光を放つことでしょう。

ゆえに私は初代・二代会長が、真の「教育」の探求の延長線上に、民衆の中での「仏法」の実践に至ったことを、最も道理にかなった道と思っております。今度は、その「仏法」を基調にして、私どもは、世界のあらゆる人々、民族、国々の中へ、「教育」と「文化」と「平和」の普遍的な連帯を広げているのであります。

一九七四年には、私は、相前後して中国とソ連を訪問いたしました。この年、中国には、二度行きました。当時は、中ソ紛争たけなわのころでありました。しかし両国首脳に、一民間人として、率直に関係改善を訴えたのであります。

とりわけ、ソ連訪問の際は、なぜ宗教否定のイデオロギーの国へ行くのかと、何回となく批判されました。私は、そのつど、「そこに人間がいるから行くのです」と明言いたしました。昨年(一九九六年)は、アメリカとともに、キューバを初訪問し、カストロ議長とも友情の絆を固めてまいりました。

国家間の険悪な関係でさえ、一歩高い「人間」の次元から見るならば、決して乗り越えられない壁ではないと、私は信ずるのであります。

今、私の胸には、ラジブ首相のあの凛とした声が蘇ります。

いわく、「世界文明に対するインド最大の貢献は、多様性と民族の独自性が決して対立しないことを証明している点である。我々は、五千年の生きた経験を通して、我々の多様性のなかの統一が、生き生きとした現実であることを、世界に示してきた」と。

二十一世紀の地球が直面しているのは、この〝多様性の統一〟を、どう実現するのかの一点であります。人類は、今こそ、貴国の尊い歴史と智慧から真摯に学ぶ時が来ていると、私たちは思うのであります。

貴国は今年(一九九七年)、栄光の独立五十周年を迎えられました。歴史上、「非暴力から生まれた最初の国」であると同時に、「最も新しき国」が貴国であります。人類の進歩の最前線の国が貴国なのであります。

その壮大な実験は、インドを超えて世界に深い精神の啓発を与えております。マーチン・ルーサー・キング師によるアメリカの人種差別への反対闘争も然り、あの八九年の東欧革命も、またしかりであります。

「源遠ければ、流れ長し」という言葉があります。未来への「平和の大河」を求めるならば、その源は、最も深き人間精神の源流に求めていかなければならない。揺るぎなき平和を求めるならば、揺るぎなき土台を求めていかなければならない。

それこそ私は、アショーカ大王を一例として、貴国が二十一世紀へ、二十二世紀へと発信している「平和のメッセージ」でもあると思うのであります。

あるいは、こういう見方は、あまりにも楽観的に聞こえるかもしれません。

しかし、私は「人間への信頼」を絶対手放したくないのであります。

私は、人間性への大いなる信仰をもっているのであります。

あの日、ラジブ首相と私は、東京で語り合いました。

「人類の『心の壁』を取り払いましょう 」と。

壁を取り払ったあとには、広々とした「共生の大地」が広がっていることでありましょう。その大地の上に、平和の大河が流れ、分化の大樹が天に向かって伸びていくことでありましょう。

事実、私と首相とは、あの時、一切の違いを超えて、互いの胸中の「平和の調べ」で結ばれたのであります。ラジブ首相は、掲げた「夢」に向かって、突き進みました。勇者は敢然と、人間の中へ、民衆の中へ、飛び込みました。

「夢」に殉じ、「ヒューマニズム」に殉じました。今も燦然と輝いておられます。その荘厳な「生」と「死」をもって、新世紀の人類の行く手を大きく照らしてくださっております。

樹財団は、ラジブ首相の「正心の後継者」として、首相のあの崇高な「夢」を、具体的に追求しておられる。その「夢の追求」には、インドはもちろん、世界の心ある人々が、こぞって参画するでありましょう。

「人類よ、ラジブ首相に続け  その先に『平和』はある」と、私は申し上げたいのであります。

終わりに、青年時代より愛読したタゴールの「最後のうた」の一節を朗読して、スピーチの結びとさせていただきます。

おお 大いなる人間がやって

来る——

あたりいちめん

地上では 草という草が (ふる)

える。

天上には ほら貝が鳴り響き、

地上には 勝利の太鼓がとど

ろく——

大いなる生誕の喜びの瞬間(とき)が

来たのだ。

今日 暗き夜の要塞の門が

こなごなに 打ち破られた。

日の出の山頂に 新しい生命

への希望をいだいて

恐れるな 恐れるなと、呼ば

わる声がする。

人間の出現に勝利あれかし

と、

広大な空に 勝利の賛歌がこ

だまする。

(「最後のうた」森本達雄訳、『タゴール著作集』 2 所収、第三文明社)

サンキュー・ベリーマッチ。

ダンニャワード!(「ヒンディー語でありがとうございました」))

【創造する希望「池田先生の大学・学術機関講演に学ぶ」】創価新報 2021.10.20






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Last updated  January 28, 2023 06:51:43 AMコメント(0) | コメントを書く
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