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橋本関雪 生誕 140 周年
一般財団法人 福田美術振興財団 学芸員 阿部 亜紀
京都の3館で大回顧展 壮大な芸術世界を堪能
京都画壇を代表する日本画家・橋本関雪(一八八三~一九四五)の生誕一四〇周年を記念して現在、白抄村荘 橋本関雪記念館、福田美術館、嵯峨嵐山文華館の三館で、京都では初めてとなる大回顧展を開催している。
橋本関雪は、神戸の坂本村(現・神戸市中央区楠本町)で、明石藩の儒者だった父・海閑と、画や歌に造詣が深かった母・フジのもとに生まれた。一二歳の時に四条派の画家・片岡公嚝に入門すると、同年の第四回内国勧業博覧会で席上揮毫を行うほど早熟な才能を示した。その後も絵の研鑽を積み、二〇歳の時には竹内栖鳳の竹丈会に入塾している。
その後、関雪は文部省美術展覧会(文展)をきっかけに大きな評価を得る。第三回文展で杜甫の詩に着想を得た《失意》、第四回文展で白楽天の詩に取材した《琵琶行》、第六回文展では『太平記』で後醍醐帝が都落ちする緊迫の場面を描いた《後醍醐帝》など、中国や日本の物語世界を見事に表現しきった絵画を出品し、いずれも褒状を得た。
そして一九一三年、関雪は初めて中国に渡る。以降、中国へ数十回足を運んだといい、《梅渓仙隠図》や《松渓試泉図》のように南画的色彩の画に傾倒し始める。さらには欧州旅行の経験や旺盛な蒐集意欲も自らの力に変え、関雪は前進を続けた。結果、第七回文展の《南国》、第九回文展の《猟》が最高賞の二等を受賞。第一二回文展に出品した《木蘭》では、審査なしで出品可能な「永久無鑑査」となり、翌年に改組された第一回帝国美術院展覧会(帝展)では審査員を務めることになった。この時期に、京都画壇においての地位は確固たるものになったといえよう。しかし関雪は現状に満足することなく、第二回帝展には五幅一対の《木蘭詩》を審査員として出品し、新たな境地を追っている。そして、第一四回帝展で後に代表作となる《玄猿》を出品し、移行、動物画へと傾倒した。
戦時中、晩年の関雪には他の画家と同様、戦争画の制作が求められた。その只中、関雪は若い画家に戦争画を描かせまいと、自ら進んで取り組むこともあったという。一九四一年に「橋本関雪聖戦記念画展」に出品され、その度、八二年ぶりの公開となった《俊翼》も、飛翔する戦闘機を寓意した戦争画である。
今回の生誕 140 年記念展では、これまでに紹介した傑作の数々はもちろん、和漢の故事に材を取った歴史画から、詩書画一致を目指した山水画や風景、猿や斬る根などの精緻な毛書きの動物画、生彩にあふれた花鳥画、鮮麗な美人画など、三館を通して合計一五〇点の作品を紹介している。福田美術館では、全国から結集した関雪の代表作の数々や初公開の作品を展示。掛軸の多くは三〇センチの近距離で楽しむことができる。また、嵯峨嵐山文華館では、一八歳の時に描いた作品、菊池契月や西山翆山+章との各合作なども展示している。
一つのジャンルにとどまらず。縦横に筆を揮って傑作を世に送った関雪の芸術を、この機会に是非ご覧いただきたい。 (あべ・あき)
【文化】公明新聞 2023.6.14
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