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少数民族・ムラブリを追って
言語学者 伊藤 雄馬
歌うような美しい言語に魅了
ムラブリとよばれる狩猟民族の言語を研究して 15 年ほどになる。ムラブリはタイとラオスの中で最も小さいグループだ。ムラは「人」、ブリは「森」。彼等は東南アジア大陸部の森を遊動しながら生きてきたが、開発により森を追われた。現在でも森に暮らすのはラオスに住む 20 人程度のグループのみで、タイ側のムラブリは政策により定住している。
そんなマイナーな人々に、ぼくはどのように出会ったのか?それは「世界ウルルン滞在記」というテレビ番組だ。「一目惚れ」だった。歌うような美しいムラブリ語を話せるようになりたい。それだけの理由で研究を決めた。学術的な理由ではないためよく笑われる。
直観的に決めたムラブリ研究だったが、一緒にいて違和感が少なく助かった。日常生活は日本人と大きく異なり、裸足で森を歩き、薪を拾って焚火で飯を炊く。けれどムラブリのまなざしや立ち振る舞いは、どこか古き良き日本をぼくに思わせる。
とはいえ、彼らの言語や感性は不思議だ。ムラブリ語は「存在」と「所有」を同じ「プ」という動詞で表す。「私に米がある』と「私は米を持っている」はムラブリ語では同じだ。日本語の「の」に相当する言葉もあるが、「私の父」と言えても「私の米」は言わない。日本人のぼくとは異なる所有感が感じられる。
暮らしぶりも不思議で、ラオスのムラブリはラオ人から米をもらうのだが、物々交換ではなく、ただもらう。ラオ人もただ渡すだけだ。そこに商取引の匂いはない。
日本社会とは異なるモノの所有観や感性
もらったお米はみんなと分けて食べる。もらってきた人が多く食べることはない。「米がある」ということが大事で「誰のものか」は気にならないのだろう。
タイで定住するムラブリは所有の概念を覚えつつある。料理を作ってムラブリにおすそ分けすると、いつもお皿をキレイに洗って返してくれる。初めは感心していたが、その姿がどうも神経質に見えたので、理由を尋ねた。「お皿を洗わずに返したらタイ人にひどく怒られた」のだという。それがトラウマなのだ。
所有の概念があるぼくにとって、借りたら綺麗にして返すのは常識だ。しかし所有の感覚がなければ、洗うどころか返すことすら思いつかないだろう。
定住によってムラブリはタイ国民となり、福利厚生やインフラも整いつつある。出生率や寿命は伸び人口も増加しているが、近隣民族との関係や借金の問題も生じ、一時期は自殺者が増えた。何が幸福かは簡単ではない。
ムラブリの所有観を頭だけで理解しようとすると混乱する。「そうだからそう」とまず「真に受ける」ことにした。すると感覚が馴染んでくる。いつの頃からぼくはムラブリの所有観に慣れていった。
ムラブリの所有観に親しむとリュック一つ分の荷物で生きられるようになった。必要なものを持ち運ぶのではなく、その場にあるもので生きるのが理想だ。海外へもリュック一つで行く。これもムラブリ研究の「効用」だと主張しているのだけれど、あまり理解されない。
ムラブリの所有観で眺める日本社会はとても不思議だ。多くの人がお金や物を所有できないことに悩んでいる。この原稿を書いているカフェを見渡せばたくさんの物がある。それはぼくの物ではない。けれどたくさんの物に囲まれてぼくは豊かな気持ちになる。これだけの物を生み出す人々に、地球に、うっかり安心してしまうのだ。それは軽率かもしれないが、この安心感は確かに「存在する」。こんなふうにムラブリを「真に受ける」のも悪くないと思うのだが、皆さんもどうだろうか。
(いとう・ゆうま)
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