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シュティフターの魅力
福井大学准教授 磯崎 康太郎
故郷ボヘミアの自然を描写「穏やかな法則」
ドイツ文学の有名な作品と言えば、多くが悲劇的結末をたどる。例えば、ヘッセの『車輪の下』、カフカの『変身』、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』がそうである。破局にまで到達する人間の衝動や世界の不条理は、時代を超えた永遠のものとして読み継がれているわけだが、名の通ったドイツ文学の作家のなかで、アーダルト・シュティフターほどハッピーエンドを迎える人間関係を書いた作家は珍しい。
この作品は、南ボヘミア地方の、現在ではチェコのホルニー・プラナーという小村の出身で、十九世紀のオーストリアで活動した。完成した長編小説が二転、短編小説が約三十点、その他若干エッセイが残されている。彼がこだわり抜いた記述の一つとして、故郷ボヘミアの森の自然描写が挙げられる。動植物の様態、四季の移り変わり、時には猛威を振るう自然の力、それらに囲まれた人間の暮らし向きや成長が、多くの作品のテーマになっている。
地味でささやかなものに注目
ストーリーの起伏に乏しく、描写が過多になる傾向(彼は風景画家でもあった)は、同時代の批評家たちから非難を浴びたが、彼はみずからの作風を「穏やかな法則」であると宣言した。世間で大きいとみなされている事柄(例……嵐、自身、激しい感情)はじつは小さく、地味でささやかな現象(例……風のそよぎ、穀物の成長、質素倹約)こそがじつは大きいものであるため、地震は後者に目を向けたいのだ、と。そうして完成された長編小説『晩夏』を、ニーチェは繰り返し読まれるべきドイツの散文の宝と称した。
私がシュティフターと出会ったのは、三十年近くも昔のことになる。東京で大学生活を送っていた私は、短編小説『水晶』を読んだとき、星空を見上げることさえ忘れかけていた自分の姿に気づいた。福島の自然環境のなかで育った私にとって、それはゆっくりと切り裂かれるような鈍い痛みだった。
シュティフターは十三歳で南ボヘミア地方の故郷を離れてから、ふたたび故郷に住むことはなかった。つまり彼は、多くの作品の舞台であるボヘミアの森を、離れた土地で、例えば、足掛け二十二年住んだウィーンで描いていたことになる。回想のなかで自然に向き合っていたというわけだ。
幸福とは疎遠だった生涯
また、もうひとつの興味を惹かれたのは、作家自身の障害は幸福とは疎遠だったことである。結婚生活は満ち足りたものではなく、望んでいた嫡子に恵まれず、かわいがっていた養子はドナウ川にて水死体で発見された。健康状態の悪化に伴い、彼の最後は自殺も疑われる死に方だった。
当たり前のことだが、もとより満ち足りた人間は、人が幸せになる話など特に書く必要がない。田舎に浸透してくる都会の問題、幸せな人間関係の中に秘められた不幸、こうした問題は作中に暗示されつつも多くは語られない空白として残されている。空白の意味を探る研究は、現在なお続けられているし、そこに読者自らの経験を投影してみるのも楽しい試みであろう。
いそざき・こうたろう 1973 年神奈川県生まれ。福井大学准教授。専門は近現代ドイツ文学。著書に『アーダルベルト・シュティフターにおける学びと教育形態』(松籟社、 2021 年)ほか多数。
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