ラッコの映画生活

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2008.09.19
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カテゴリ: ヨーロッパ映画
LIEBTE DER OSTEN ANDERS? - SEX IM GETEILTEN DEUTSCHLAN

52min(1 : 1.33、ドイツ語)
(桜坂劇場 ホールCにて)

LIEBTE0.jpg

以下は前ページの続きです。ここをクリックして、そちらを先にお読み下さい。

実のところ、ここから先はこの映画自体からは少し離れるかも知れません。その前に映画関連サイトやブログなんかで今ちょっと見てきた、日本の観客の方々のこの作品に対する感想を読んでの感想を書いておきます。この作品ははっきり言って社会学、あるいはセクソロジー的人間学の視点の映画だと思うのだけれど、一部には、たぶん映画のタイトルやチラシの解説からもっと具体的なSEXのやり方の違いの東西比較を期待したのか、そういう方々は期待外でつまらなかったと評価していますね(笑)。でもそれ以外の方々も、意外と自分の性や、日本社会の性とつなげて見ている方は少数のような感じがしました。もともとアンドレ・マイヤーとかいう監督がこのドキュメンタリー番組を作ったとき、日本へ向けてのメッセージなんて意識はなかったでしょうが、もっと日本のナウな問題として観て欲しい映画だと思います。

別のところ で書いたけれど、ボクの通っている沖縄・那覇の桜坂劇場という映画館は、何気関連作品を上映する。そこでは 『JOHNEN 定の愛』 『レディ・チャタレー』 の関連性を書いたけれど、実はこの『コミュニストはSEXがお上手?』という映画の主旨は『レディ・チャタレー』と酷似しているかも知れない。このパスカル・フェランという女性監督の描いたチャタレー夫人というのは、人のごく自然な性的欲望や官能の目覚めを肯定していて、それはロレンスの小説の主旨でもあったのだけれど、それをある意味1920年代よりも性が解放され自由になったかに見える現代に投影しようとしている。男女は不平等で、男が女を支配していた過去の社会。その残滓が今も残る現代の社会の不自由さを告発しようとしている。そしてそういう形で明言されていなかったとしても、それはロレンスが書いたことの根底の問題とも無関係ではない。

LIEBTE00.jpg



ではその残滓とか不自由さとは何なのか?。それは一言にしてしまえば、『コミュニストはSEXがお上手?』の東ドイツの社会が実現してしまった男女の性のあり方と対極的なことだと言える。その理由や原因や国の思惑や過程がどのようなものであったにせよ、結果的に、実質的に、東ドイツは、男女の社会的対等を、制度だけではなく国民の心理として、実現してしまった。それを前提とした自由なSEXは、本来そうあるべきと両監督が考えることであり、より自然で、男女対等の、性の欲望や官能をも肯定した、男女の性のあり方なのだ。



『コミュニストはSEXがお上手?』で紹介された東ドイツの性をめぐる社会のあり方というのは、経済的女性の自立であり、性の欲望や快楽に関する男女の平等であり、宗教による性の忌避(罪悪視)の根絶であり、それはもちろん両性の自然な性的欲求の肯定であり、また特定の男女間に性の不一致がありうることの肯定であり、処女信仰の否定であり、実質的に妊娠・出産をする女性の不利の制度的解消であり、また資本主義的競争理論からの性の解放などだ。もちろんそれはSEXと結婚の分断を結論する。

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映画のチラシに柳下毅一郎という方も書かれているように、日本人は世界でもっともセックスをしない国民であるという。また結婚願望が強い国民であるとも思う。先日あるフランス人男性と、日本人の男女1人ずつと自分、その4人で話をしていて、これに関わることが話題となった。発端はその日本人男性のある疑問だった。もう10年以上前のことだが、彼は沖縄の伝統楽器を演奏するグループの一員として、20才ぐらいの頃、あるフランスの民族音楽フェスティバルに出演した。夏のバカンスシーズンで、町全体が会場になり、劇場の他にも公園や街角に特設されたステージで世界各国のミュージシアンが演奏し、コンサート以外では町の人々や観客としてやってきた人々との交流の場でもあり、1週間か10日ぐらいの間繰り広げられるお祭り。そこで彼は、そして彼のグループの他のメンバーは、そして別の国から来た音楽グループのメンバーは、遊びに来てバカンスを過ごしている若い女の子たちに言い寄られたというか、追っかけられたというか、とにかく盛んに女の子たちが接してきたという。あれはどういうつもりで、何が目的だったのかというのが彼の疑問だった。

4人共通の言語はないので、それと平行するような形でボクがフランス人(以下ダヴィッド)と二人話していたのは、日本人女性の異性づき合い観に対するダヴィッドの感想・印象。これは実はボクがふった話題で、ボクが常々考えていることをダヴィッドの印象としても語ってもらおうという一種の誘導尋問だった。結果は予想通り。普通のフランス人の若者、ダヴィッドの言に従えば15~6から30か35才ぐらいまで、男女とも、異性とつき合うのに、というかつき合い始めるのに、結婚は意識にまったくないと言う。あるいは更に、気が合って→愛し合って→関係がその後も維持されるであろうこともあまり考えないと言う。そういうことは後から出てくるかも知れないことでしかないと言う。だからたまたまある日知り合って、意気投合して、場合によってはSEXにまで行ってしまうことも当たり前であり、ふしだらでも何でもないという。そして翌朝別れてしまうこともあるし、3日間続くかも知れないし、一緒に住むことになるかも知れないし、そんなものだと言う。そしてあるのは結婚願望であるよりも、結婚したくない願望。同棲(←どうもこの言葉は好きになれない)や、ステディーな別居関係までと、結婚はまったく別物だと言う。ところが日本人の女性と話していると15分で結婚の話が出てくる。あるいは結婚の話をしないまでも、ダヴィッドに何らかの関心を持ったらしい女性も、1ヶ月後にダヴィッドがフランスに帰ると言うと、もう彼とは(SEX抜きでも)あまりつき合おうとしなくなってしまうし、話しすらしようとしなくなってしまう場合もあるという。ダヴィッドはどちらかと言えばそういう点では控え目な男だから、別にその女性を口説こうというわけでもない。その辺のあり方にダヴィッドは違和感を感じると言うのだ。(「告る」=告白するという文化があるように、ステディーと持続を目的としているという相互確認をしてからつき合いが始まるし、二股ということがとやかく言われる)。

ここで民族音楽グループの日本人男性の疑問と話が融合する。フランスのお祭り騒ぎの中で、彼を追いかけた女の子たちというのは、単純に彼とつき合いたいと思っただけなのだ。そしてもちろん気が合えばSEXまで発展したかも知れないし、結果の結果の結果としてステディーにつき合うようになり、そしてまたその結果の結果の結果として国際結婚なんてことに発展するかも知れないけれど、そうした結果の結果の結果はもともと目的などではないということだ。余談だけれど、彼がフェスティバルの公式歓迎祝典でもらった記念品やら色々入ったセットの中にはコンドームもあったという。

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例えばボクが何処かの飲み屋で隣にいた知らない男と意気投合する。そしてそれから何軒かハシゴして朝まで語り明かす。朝になって、じゃあまた会おうななんて言って別れて、それっきりとなる。でもこれって有意味な人間の関係、コミュニケーションだと思う。人間として生きていることの実感を味わえることではないだろうか。SEXを含むにせよ含まないにせよ、男と女の関係っていうのもこれで良いのではないだろうか。飲み屋で知り合った男と、結果の結果として生涯の親友になることもあるように、男と女も結果の結果としてステディーな関係になるかも知れない。ちょっと書いたようにダヴィッドもどちらかといえばこういう面ではシャイで控え目なフランス人だし、他の日本人3人も お盛んな タイプ、下世話に言えば やりチ○ やり○ン ではない。でも4人が感じていることの、実感として結論は、そうあるべきだというもので、でも相手の方にはその意識がないから実現はなかなか難しいというものだった。

これはどちらがどちらを支配するというものでもないし、どちらが得をしてどちらが損をするというものでもない。 『エリザ』 の中だったか、女を誘えば「映画代にいくらで、食事代にいくらで・・・」といったスケベ親爺の胸算用の独白のようなものが出てきたけれど、これは本質的には買春だ。親爺の胸算用はプロの女を買うのとどちらが安く済むかというものだった。 『プライスレス』 という映画、金持ちの年輩男に金で買われたオドレイ・トトゥが、金持ちの年増女に買われたガド・エルマレとの愛の方を(金で買われた優雅な生活を棄てて)選ぶという話だから、そういう観点で見るなら評価できるかも知れない。買春というのは男女どちらであれ、異性(あるいは同性)の相手を金で支配することなのだけれど、もっと自然な対等なSEXがなければ、欲求の充足は性産業に頼るしか禁欲しかない。だらだらと書いてしまって支離滅裂感もあるけれど、制限字数だと思うので、とりあえずここまでにさせていただきます。

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Last updated  2008.09.20 04:47:22
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