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2011年05月31日
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カテゴリ: 仕事
私の仕事遍歴 2 「心身障害児の療育指導員」
私は思いがけず「肢体不自由児療育指導員」になることになった。
札幌の整肢園での研修は、初めて見聞きすることばかりで本当に大変だった。
半年くらい精神薄弱児収容施設にいたからといって、
障害について詳しくわかっているわけではない。
私はその研修で初めて、脳性まひやポリオの重度障害の子ども達に出会い、
それは「ショック」の連続だった。
もちろん重度の障害の原因は、ポリオや脳性まひだけではない。
毎日毎日、私は新しい病名を教えられ、

たった1ヵ月半でそんなことがわかるはずもない。
研修を受け入れてくれた整肢園の医師も理学療法士も、
そんなことが無理だということはわかりすぎるほどわかっていた。
しかし、道内にはそもそも、このような子ども達を受け入れる施設も病院も足りず、
主要都市には「マザーズホーム」はあっても、
地方の市町村には親同士が集まる場もないのだ。
だから、こんな小娘が指導員になることがどんなことかは想像はついても、
「ないよりはマシ」ということで、精一杯指導をして下さった。
必死に先生達が手渡してくれる参考書を読み、医師や理学療法士の方々にくっついて、
お母さん達に語る言葉や、子どもたちへの対応を見逃すまいと努力はしたが、
結果的には、多少障害について理解し、

「これでは、指導なんてできません」と叫びたかったが、
もう開設の日は決まっていて、そのための準備にも私が関わらなくてはならず、
暗澹たる思いで研修を終えた。
それでも、「いつでもわからない時には電話をしなさい」と、
色々な先生が声をかけて下さったので、


その後、開設までに子ども達が使う玩具類や、最低限訓練に必要な器具をそろえたり、
福祉事務所や保健婦さんたちに色々と話を聞いたり打ち合わせしたりで、
あっという間に開設の日となった。

さて、いよいよ「肢体不自由児訓練室」の開設の日がきた。
肢体不自由児父母の会の親子が、会館の一室に集まった。
これから私が付き合うことになる子どもと親とのご対面である。
それ以前から、役員の人たちとは面識があったが、
それ以外の人たちとは初めて合うのである。
そして私は、集まってくる子ども達を見て「???」と頭の中がパチクリ。
というのは、とうてい「肢体不自由児」とは思えない子どもがいたのだ。

あとで詳しくそれぞれの子どもの障害や生育歴を聞くのだが、
その時に私は、今まで聞いたことのない「自閉症」という病名を聞く。
さらに、「ダウン症候群」の子どももいた。
私が整肢園で研修を受けたのは、主にポリオと脳性まひについて。
もともとはポリオ対応でできた病院&施設だったので、
「脳性まひ」については、整肢園でも欧米の研究資料などを学びながらの試行錯誤状態だった。
知的障害からくる運動機能の遅れの子どもへの対応は、あまり重要視されておらず、
ダウン症候群をはじめとする知的障害についての話も、ほとんど聞いていない。
10人前後集まった子ども達の中で、私が研修を受けた範疇に入るのは半分以下。
あとは、知的障害と自閉症、さらに後で自閉症とわかる子どもであった。
その時の私の気持ちをご想像いただけるだろうか。
「私はいったい、どうすればいいの? 何ができるっていうの?」である。
現実を知った私は、体の震えが止まらなかった。
緊張と不安との塊というのは、あの時の私である。

そんな私に、ダウン症候群の息子を持つ一人の父親が言った。
「障害は違っても、親の気持ちはおんなじなんです。
 今までは、このように集まる場所もなかった。
 子どもが友達に会う場所もなかった。
 みんな、先生に子どもの障害を治してほしいとか、良くしてほしいなんて思っていない。
 ただ、子どもが楽しくなる場所にしてほしいんです」

その言葉で震えが止まったかどうかは覚えていないが、
私には暗闇に一筋の光のような言葉であった。

自閉症の子は、一時もじっとしていられないようだった。
常に猛烈な勢いで走り回っている。
子どもの中にはごろんと転がっている状態の子も複数いたので、
私は「この子がこの場に一緒というのは、危険ではないか?」と危惧した。
そんな私の気持ちを察したのか、その母親が言った。
「うちの子が肢体不自由児でないことは、よくわかっています。
 この子がここにいるのは場違いだとも思います。
 でも、この子には他に行くところが無いのです。
 お願いですから、ここに通わせて下さい」
私に、その痛切な母親の言葉を拒否できるはずがないではないか。

そんなところから、私の悪戦苦闘が始まった。

最初は、週3回訓練室を開き、あとの3日は在宅の子どもの訪問指導だった。
指導とは名ばかりで、訪問して可能ならば子どもと遊び、母親の話を聞くだけ。
私は当時も今も自動車を運転しないので、自転車で市内を回った。
当時は、私だけではなく女性で車の免許を持つ人はとても少なく、
開設日には、免許を持つ会長の奥さんが、ボランティアで各戸を回り送迎していた。
ご自分のお子さんも一緒にではあるが。

指導なんてできないことははっきりしているが、
当時の私はやはり「私は指導員なんだから、それらしくしなくちゃ」と気負っていた。
それが自分を苦しめることになるのだが、
考えてみれば若い頃は多少の背伸びをして頑張らなくちゃ、成長もできない。
私なりに、色々と指導計画を考えたり、一人一人の子どもに何ができるのか考えた。
親子の関係、特に「母子関係」が指導に重要と研修で教わったので、
そのあたりを観察したりもした。
だが、当時の私は母親にもなっていない。
そんな私がそんなことを考えて試行錯誤したり、時にはエラソーなことを言ったりして、
今では穴があったら入りたいと思うくらいだ。
そんな私であったが、お母さん達はみんな優しかった。
そして、最初は「エッ?」と思うような障害を持つ子ども達も、
次第にそれなりになついてきてくれて、みんな可愛く思えるようになった。
視力が無いと言われていた子どもが、少しずつ動けるようになるにつれて、
「目が見えるみたい」となり、
やがてはお医者さんに「これは見えてますよ!」なんてびっくりされて、
みんなで喜び合ったこともある。
先天性の無眼球で、家の中をはいずりまわっていた子が、
色々な刺激の中で好奇心や意欲も生まれてきて、
機械的な筋力トレーニングも功を奏したのか、
ちょうど訓練室に来ていた日に突然自分で歩き始め、
私も勿論感動したけれど、そこに集まったみんなで涙を流し合った日もあった。
今の私は、それは「奇跡」ではなくて当然の成長だったと思うが、
当時の私には奇跡的なものに思え、日々のプレッシャーや悩みを瞬間的に忘れ、
何とか仕事を続ける原動力になった。

しかし、たった一人で毎日障害を持つ子と、その親達と向き合うのは、
当時の私には本当に苦しいことであった。
そして、そんなことは私でなくても無理な話であろうと今は思う。

そんな中で、私は結婚し子どもを二人産んだ。
健康な子どもを育てて、私は驚いたものだ。
障害を持つ子どもが本当に苦労する壁を、
健康な子どもはなんと易々と越えられるのだろう。
親が何も教えなくても、訓練をしなくても、我が子は時期が来れば寝返りをし、
はいはいしてやがて歩きだし、すぐに走り出す。

そんな喜びも確かにあったけれど、
やはり仕事と家事と育児の両立は大変だった。
加えて、たった一人の指導員の苦しみは、年月がたったも少しも軽減されない。
色々なことがわかるようになるにつれ、
「こんな私が指導員をしているのが間違いだ」という気持ちになってくる。
6年目頃から、私は今思えば鬱状態に近くなったと思う。

そして、「心身障害児訓練センター」を市が開所するのをきっかけに、
やっと私は仕事を辞めることができた。
このセンターが開設されるまでが私の仕事と、思いつめたように日々を過ごしていたので、
退職の日は本当に待ち遠しかった。
もう2度と、この世界には足を踏み入れないぞとまで心に誓っていた。
と同時に、猛烈な挫折感にも襲われていた。
あれほど願った「福祉の仕事」を、達成感なしで去らねばならない情けなさ。
結婚し子どもを育てながらも仕事をするという、理想を捨てる悔しさ。
退職後の私は、解放感からとは程遠い自信喪失感・挫折感と向き合うことになった。

蛇足であるが、私が仕事をやめることに決めた時、
お世話になった道立肢体不自由児総合療育センターの
理学療法士の先生にご挨拶に行った。
その時先生は、
「君は、孤独に耐えてこれまでよく頑張った。お疲れさん」と言って下さった。
私はその先生に、そんなに愚痴をこぼしてはいなかったと思うのだが、

先生は私の辛さをお見通しだったのだと思うと、
有難いのと張りつめたものがはじけたように、涙がこぼれて困った。
普段の私はあまり涙を流さない方なので、
意思に関わらず涙が流れる状態は、やはり鬱だったように思う。







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最終更新日  2011年05月31日 10時53分19秒 コメント(6) | コメントを書く
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