わたしのこだわりブログ(仮)
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昔、友人の新居祝いにシャガール風の絵を描いてほしいと頼まれた事があって、その時シャガールがどんな絵を描いたていたか研究した事があった。確か、着ぐるみのような大きな羊と友人に見立てた白いドレスを着るスリムな女性をメインに置き、バックをシャガール・ブルー。背景に夜のヴィテブスク(Witebsk)の街並みとその上を浮遊する新婚(花嫁と花婿)。ユダヤ教で使われる燭台(メノーラー・menorah)。さらに羽の生えた魚などを書き加え、サイン代わりに絵を描いている自分の姿も小さく入れ込んだ。※ 今考えると、それらは後期シャガール作品のまねごとです。シャガール風を描く事は難しい事ではない。繰り返し現れてくる定番の彼のモチーフにはそれぞれ意味がある。まさに象徴を散りばめたと言えるそれらモチーフは例え脇役であっても「シャガールをしている」と言える存在感を持っている。当然、人生が長い彼の作品はある程度のカテゴリーに分けられる。多少傾向が変わろうとも、不思議とどの時代もシャガールと解る個性が見えるのだ。希(まれ)にエッと思う作品もあるが・・。またシャガールは色彩にもこだわりを持っていたから、明にしても、暗にしても、シャガール・カラーが存在する。それにしても不思議な絵。初期の作品こそキュビズムの影響が濃く見えるが、その中にもすでにファンタジー的要素が垣間見える。割と早くに自分スタイルを確立した? いや、割と初期の信念を保ちつつスタイルを確立したのかもしれない。最もそう考えると、彼は最初から売れる絵を描いていたと思う。今回ゼロから作品を見直して、無名時代の絵でさえ「買ってもいいな。」と思う素敵な絵を描いていたからだ。彼の育った街はモスクワに近い田舎の辺境地。決して明るいとは言えない環境の中で、彼の色彩感覚はどこから生まれたのだ? と言う疑問を持つほどずば抜けていた。ロシア・アヴァンギャルド (avant-garde)からは離脱し、シュールレアリストと呼ばれる事を嫌う。キュビズムもフォビズムもシュールも全て詰めて消化した? 唯一無二(ゆいいつむに)のスタイルなのだ。もともともっていたファンタジー要素が、さらにアップしてファンタジー調の幻想絵画を作りあげた。それが舞台デザインに生かされたのは当然だが、彼は宗教画の中にさえそれを持ち込んだ。旧約聖書のストーリーをファンタジー調に描いた作品がニースのシャガール美術館にある。ステンドグラスにもその世界観が表現された。明るくて、かわいくて、素敵な絵だから宗教画だと気づかない人もいるかもしれない。でも、彼の宗教画は見せかけの物ではない。たくさんのユダヤの同胞を先の大戦で失った。そのレイクエムも込められたユダヤ人賛歌でもある。マルク・シャガール(Marc Chagall)(1887年~1985年)今回は何を載せるか迷いに迷い。シャガールに行き着きましたかなり昔にニースのシャガール美術館は行ってますが、絵のほとんどは他からかなり引っ張っています。彼の終焉の地、南フランスのサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)。その墓地の写真はオリジナルです。でも、シャガールは長生きだったから、作品は多すぎるし、何より彼は敬虔(けいけん)なるユダヤ教徒(Hasidic Jews)だったから中身が濃い。一朝一夕には終わらないのよね。やっぱり1回では無理だった。とにかく作品数が多いのです。版画類は別として、その作品数はざっと300を超える。半数は美術館などに収まり、残り半数はPrivate collectionとなっている。※ 版画類を入れたら恐ろしい数では? 商業用リトグラフなど大量に販売されていたからね。商業用絵はがきに関しては、作品のリストに入っていない物もある。作品の年代順のリストをベースに時系列の事象を加えてカテゴリー分けしながら考察してみました。要するに、初期作品から順番に作品を追って行ったのです。シャガールは第一次世界大戦、モスクワ革命、第二次世界大戦ではナチスを逃れてアメリカに亡命。戦争にはかなり翻弄され居場所を変えている。また私生活では2人の妻をめとっている。ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld) (1895年~1944年)※ シャガール28歳で結婚。結婚生活(1915年~1944年)死別ヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年) ※ シャガール60歳で再婚。結婚生活(1952年~1985年)戦後作品に出る花嫁は、ベラ(Bella)ではなく、ヴァヴァ(VaVa)?第二次世界大戦直前にどうも娘が結婚? 戦後作品の花嫁は娘をモデルとした? のも多々みられる。社会の激動期に運命に翻弄され続けたシャガール。置かれた環境からくる心境変化は、当然、作品に影響をもたらした。どうしてその作品が生まれたのか? と言う所から攻めたいと思います。内容は非常に濃いです。と、言うわけで2部作になりそうです。※ 結果3部作になりました。ラストにリンク先いれてます。マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 サン・ポール・ド・ヴァンスシャガール終焉の地サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)戦後、南仏に移住した訳サン ポール ド ヴァンス墓地(Saint Paul de Vence Cemetery)ユダヤ人(Jews)、マルク・シャガール(Marc Chagall)アシュケナジム(Ashkenazim)とセファルディム(Sephardim)イディシュ語(Yiddish)を話すユダヤ・コミュニティー画家としての成功と同郷のベラ(Bella)との結婚1914年~1922年 ロシア時代(Russia)故郷からの脱出1923年~1941年 フランス時代(France)パリで画商と契約、挿絵の為の銅販画をはじめる夢からインスピレーションシャガール終焉の地カンヌ、ニース、(モナコ)、マントンと南仏のコート・ダジュール(Cote d'Azur)は、風光明媚な上に地中海性気候でバカンスに最適。南仏の陽光を求めて画家らが集まった場所。そこは中世に造られた城壁に囲まれた小さなコミュニティー。サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)は芸術家がこぞって住み着いた村で有名な所。足の便は悪いがニースからほど近い丘陵地の上、中世来の城塞型の小さな村。当初は単にサン・ポール(Saint-Paul)。聖パウロから由来する名前だった。住み着いた芸術家らがサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)と呼び、それが2011年正式名称となった。おそらく暗黒の中世を経て、海賊対策の為に人々は村を城塞化したのではないか?と察する。「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の中で中世の海賊事情を書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)を描いた作品1983年 Soleil dans le ciel de Saint-Paul(サンポールの空に浮かぶ太陽)所蔵 Private collectionoil on canvas(キャンバスに油性)シャガールが抱いて飛んでいる相手はサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)で一緒に暮らしていた2番目の妻ヴァヴァ(VaVa)。※ マルク・シャガール(Marc Chagall)(1887年~1985年)晩年も晩年。作品としてはラストに近い。この2年後にこの地で亡くなっているから95歳時の作品ですね。14世紀のヴァンス(Vence)の門まさに中世を感じる建造物。ちょっと異次元かもしれない。20世紀に入ると俳優、詩人、作家らが寄り集まってきたと言う。それ故か? 画廊が多い。戦後、南仏に移住した訳マルク・シャガール(Marc Chagall)は1944年に、亡命先のアメリカで最初の最愛の妻ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld) (1895年~1944年)を失う。戦後、1947年にパリへ戻ったシャガールは、フランス国籍を取得して1950年頃から南仏に移住。当初はやはりニースから近い鷲の巣村ヴァンス(Vence)で当時人気の陶芸を始めたらしい。ピカソらと陶芸教室に通っている。1951年には彫刻も始めている。 1952年、65歳でシャガールは再婚する。やはりユダヤ人であるヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年)である。式はパリで挙げ、結婚生活(1952年~1985年)は彼が亡くなるまで続いた。1966年、シャガールは「聖書のメツセージ(the biblical message」と言う連作を描きフランス国家に寄贈。それらを飾るべく当時の文化大臣アンドレ・マルロー(André Malraux)は美術館建設を進めた。※ アンドレ・マルロー(André Malraux)(1901年~1976年)・・シャルル・ド・ゴール(Charles de Gaulle)政権下で文化大臣をしていた彼は元は作家であり冒険家。非常にアクティブな経歴を持つ。パリ・オペラ座の天井画をシャガールに依頼したのも彼。※ シャガールの作品を展示するための国立美術館の建設。その中でニース市が土地を提供するかたちで、1973年「マルク・シャガール聖書のメッセージ国立美術館(musée national du message biblique Marc-Chagall)」が開館。シャガール86歳の誕生日OPEN。1966年、居をニースに近いサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)に移したのは美術館建設の事もあったのかもしれない。美術館の庭園や作品配置をシャガール自身が指示しているから。※ サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)には20年近く居たことになる。※ 美術館は次回。ところで、シャガールが初めて舞台美術に取り組んだのは 1914 年ロシアに居た時であるが、以降、シャガールの芸術活動の幅は広くなって行く。壁画や舞台デザイン、1945 年には、ストラヴィンスキーの「火の鳥」のセットと衣装のデザインもしている。パリ、オペラ座の天井画、NYでは壁画、イスラエルの国会議事堂の為のタペストリーもデザイン。また、ステンド グラスのデザインは彼が 70 歳近くになってから。1956 年、アッシー(Assy)の教会の窓。1958 年~1960 年、メッツ大聖堂(Metz Cathedral)の窓。1960 年、エルサレム、ヘブライ大学(Hebrew University)シナゴーグ(synagogue・礼拝所)のステンド グラスの窓。1978年、ドイツ、マインツの聖シュテファン教会(St Stephan's church)の窓。大物教会からの依頼でステンドグラス制作も増えて行く。最後の作品は、シカゴ・リハビリテーション研究所から依頼のタペストリー。原画を元にタペストリーの色の打ち合わせを自宅でしていたその夜に亡くなったそうだ。享年97歳。その亡骸はサン・ポール・ド・ヴァンスにある他民族墓地に埋葬された。サン・ポール・ド・ヴァンス地図墓地は城壁の外。地中海側にある。下はニース門。サン ポール ド ヴァンス墓地(Saint Paul de Vence Cemetery)遠くに見えているのが地中海。陽の当たる良い墓地です。ただ、シャガールの墓はこの写真から見切れた右の方にある。マルク・シャガール(Marc Chagall)のお墓逆光なのでどの写真も暗い。かなり明るくしています。最近は墓の上に小石を乗せているらしいが昔は無い。誰かが撮影用にアップしたまま残ったのか?それにしても芸術家なのにシンプルな墓。と、思ったがユダヤ人一般的な墓のよう。この墓地には彼の妻の他、妻の弟も眠っている。3人で入るとは、シャガールも想定外だったかも。墓碑名マルク・シャガール Marc Chagall (1887年~1985年)ヴァヴァ・シャガール VaVa Chagall (1905年~1993年) ※ 2度目の妻、ヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)ミッシェル・ブロツキー Michel Brodsky (1913年~1997年) ※ ヴァヴァの弟。シャガールの出身地は現在のベラルーシ共和国の田舎街、ヴィテプスク(Vitebsk)。そこはユダヤ人コミュニティーの街だった。※ ロシア語、ポーランド語でヴィテプスク(Vitebsk)※ ベラルーシ語でヴィーツェプスク(Ві́цебск)最初の、最愛の妻ベラも同郷である。ベラルーシは現在ロシアともめているウクライナのすぐ上。彼は生涯にわたり、自身のルーツ。故郷ヴイテプスク(Vitebsk)の街や動物、また思い出をモティーフにし続けた。でもそれは単なる郷愁(きょうしゅう)ではない。第二次世界大戦下でのナチスによるユダヤ人迫害。故郷の滅亡。シャガールがユダヤ人であったから、生き残った彼には使命があったのかもしれない。生涯作品を通して見えるのはユダヤ人としての信仰心だ。アシュケナジム(Ashkenazim)とセファルディム(Sephardim)国と言う定住地を持たないユダヤ人であるが、彼らの結束は強く、地域の中で固まって社会(コミュニティー)を形成していた。※定住地を持たないのではなく、過去の歴史の中でカナンの地を追われたからである。アブラハムから約束されたカナン(イスラエル)を追われ、ユダヤ民族は世界に離散した。※ その辺の話は以下に書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)ドイツ語圏や東欧諸国などに流れて定住したユダヤ人がアシュケナジム(Ashkenazim)。スペイン・ポルトガルまたはイタリアなどの南欧諸国や、トルコ、北アフリカなどに15世紀前後に定住した人がセファルディム(Sephardim)と呼ばれるそうだ。今日のユダヤ社会の二大勢力だという。ユダヤ人はどこに住もうとユダヤ民族として結束している。イディシュ語(Yiddish)を話すユダヤ・コミュニティーマルク・シャガール(Marc Chagall)はユダヤ系リトアニア人として生まれた。その故郷ヴィテプスク(Vitebsk)には人口65000人の半分以上をユダヤ人が占める街だった。つまり、シャガルール自身は東欧系ユダヤ人であるから、前者のアシュケナジム(Ashkenazim)に入る。彼らの村単位? 小規模ユダヤ人のコミュニティーがイディッシュ語の文化を保持したシュテットル(shtetl)を形成していた。※ シュテットル(shtetl)はイディシュ語(Yiddish)を話す人々によって形成された東欧の小規模のユダヤのコミュニティーを指す。イディシュ語(Yiddish)は単語構造はドイツ語に似ているが、ヘブライ語とアラム語の文字を使う、混合スラブ系言語。インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派のうち西ゲルマン語群に属する高地ドイツ語に分類。※ 言語の8割以上が標準ドイツ語に共通。つまり、シャガールはイディシュ語(Yiddish)を話す東欧のユダヤ人コミュニティーの出身者なのである。ユダヤ教徒の人々は特にいろんな制限が課せられている。だからシャガールがユダヤ人であったと言う事実は、彼の作品を理解する上で重要な事なのである。しばしば、「ヴィテブスク特有の風土や文化はシャガールの精神形成に影響している。」と書かれているが、彼の宗教的バックボーンを考えれば当然だ。むしろ「宗教が文化を支配し、風土を作った。」シャガールも「その宗教により形成された。」と、言って過言でない。1908年 Apothecary in Vitebsk(ヴィテプスクの薬局)所蔵 Private collectionシャガールの故郷ヴイテプスク(Vitebsk)。作品は上下ともに1908年。描き出して初期。1908年 A House in Liozna(リオズナの家)所蔵 Moscow. The State Tretyakov Gallery(モスクワ、トレチャコフ美術館)※ リストにはprivate collectionとなっていたが、トレチャコフ美術館のリストに現在ある。リオズナ(Liozna)の家は、ベラルーシ(Belarus)のヴイテプスク(Vitebsk)近郊にあるらしい。家が踊っているような、ちょっとポップにさえ見える描き方。初期から味のある絵を描いてる。画家としての成功と同郷のベラ(Bella)との結婚結婚相手も同じイディシュ語(Yiddish)を話す相手(ユダヤ・コミュニティー)をから選んだ。選択の余地なく、最初からユダヤ人以外は考えられない事。最初の妻ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld) (1895年~1944年)との出会いは1909年、サンクトペテルブルクであるが、同郷だったから? 好きになる事に躊躇(ちゅうちょ)はなかったはずだ。ただ、同郷でもベラ(Bella)の家は宝石商で裕福。貧乏なシャガールは娘の結婚相手にはふさわしくなかった。二人が結婚できた(1915年)のはシャガール(1887年~1985年)が頑張って、画家として早くに認められ、収入を得られるようになったからだ。その異例の速さでの出世は彼の努力のたまものだ。1910年、23歳。ジャガールはパリに出て画学生となる。言葉も通じず、お金も無い。人生で最も孤独の時だったらしい。だから? 特にこの時期は恋人ベラ(Bella)や故郷への郷愁が現れたのかもしれない。1911年 The Green Donkey (緑のロバ)所蔵 London, Tate Modern(ロンドン、テート・モダン)1911年 To My Betrothed(私の婚約者へ) 紙にガッシュ、水彩所蔵 Philadelphia Museum of Art(フィラデルフィア美術館)色々模索していた時代ですね。1911年~1912年 The Drunkard(酔っぱらい)所蔵 Private collection1911年~1912年 The Holy Coachman(聖なる御者) 所蔵 Private collection当時のパリはアヴァンギャルド(avant-garde)の中心地。シャガールがパリに初めて来た時、美術界ではキュビスム(Cubism)がトレンドであったそうだ。フォヴィスム(Fauvisme)とキュビスム(Cubism)の技術を吸収した後、シャガールは自身の民俗的スタイルを融合させた?下の絵はフォヴィスム(Fauvisme)とキュビスム(Cubism)両方が感じられる。1911年、I and the Village(私と村) キャンバスに油彩所蔵 New York, Museum of Modern Art(ニューヨーク近代美術館)舞台はシャガールの故郷であるヴイテブスク。ここでは、農民と動物はお互いに助け合って生活をしていた? らしい。動物らも大切にされていたのだろう。全体に愛を感じる絵ですが・・。ところで、シャガールは幼い頃から円、三角形、四角、線といった幾何図像が好きだったらしい。パリでキュビスムを見て、幼少の頃を思い出したと言う。絵の中にはヴイテブスクの街だけでなく、全体に大きく太陽や月がある。中央に描かれた植物は「生命の樹(Tree of Life)」である。つまり、この絵は宇宙をも表しているのである。生命の樹(Tree of Life)」とは、旧約聖書「創世記3章」に記されている永遠の命が得られる木の実が付く樹。カバラ(Kabbalah)ではセフィロトの木(Sephirothic tree)とも呼ばれセフィロトは世界を象徴する概念とされる。因みに、アダムとエバはエデンの園で「知恵の樹の実」を食べた。「生命の樹の実」までも食べないようエデンから追放されたらしい。「知恵の樹の実」泥棒だけでも人類子々孫々の原罪を背負ったが・・。そんな訳で、I and the Village(私と村)は、見て「かわいい絵」だけでなくユダヤ教徒の宇宙観も示されていたようだ。1913年 The Soldier drinks(酒を飲む兵士)所蔵 New York, Solomon R. Guggenheim Museum(ニューヨーク、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館)ソフトなキュビスム(Cubism)ですね。何よりユーモアがある。1913年、Self Portrait with Seven Fingers(7本指の自画像)所蔵 Stedelijk Museum Amsterdam(アムステルダム市立美術館)窓の外にはエッフェル塔が見えるからここはパリの一室。絵を描く画家はシャガールのポートレートそっくり。間違いなく自画像である。また、タイトルにあるよう左手だけ7本。数字の7は、ユダヤ教では創造の意味を持つ神秘的な数。象徴として示したのだろう。フォーヴィスム(Fauvisme)とキュビスム(Cubism)の融合など実験しながら、でもカラーもきれいでファンタジー要素のある彼の絵は確かに詩的と言えば詩的。当初、シャガールの絵は画家らには相手にされなかったが、詩人からの評判は良かったらしい。この発色はフォビスムから? 敢えて、売れる絵を心がけていたのかもしれない。ほとんど眠らずパリの誘惑にも負けず、ひたすら絵を描いていたらしい。彼はとにかく早く認められたかったのだろう。ベラ(Bella)を迎えに行く為に。この辺りが、ベルリン(Berlin)の個展に持ち込んだ絵と思われる。1914年、ベルリンの有名画商から個展を打診されシャガールは40枚ものキャンバスやガッシュ水彩、ドローイングを持ち運んでドイツでの個展に臨む。個展はベルリン(Berlin)のシュトゥルムギャラリー(Galerie Der Sturm)で開催し、大成功。ドイツの批評家らはシャガールを絶賛したと言う。1915年 Birthday(誕生日) 厚紙に油性所蔵 New York, Museum of Modern Art(ニューヨーク近代美術館)シャガールの誕生日に花を届けるベラと浮遊するのはシャガール自身。幸せすぎて「浮かれてるなー」と言う絵ですね。1916年 Pink Lovers(ピンクの恋人たち) キャンバスに油彩所蔵 Private collection1914年~1922年 ロシア時代(Russia)ドイツにはベラ(Bella)も呼び寄せていたが、二人は結婚式の為にヴィテブスク(Witebsk)に戻る。画家の仲間入りも果たしたし、お金も入り生計のメドも付いた。ところが、第一次世界大戦(1914年~1918年)の影響で無期限にロシア国境線が封鎖。パリには戻れなくなった。1917年10月、ロシア革命 (Russian Revolution)勃発。※ 戦争が長引いたことにより革命が勃発。4つの帝国(ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国)が崩壊する。不本意ながら? でも幸せな結婚生活がサンクトペテルブルクでスタートする。シャガール28歳。ベラ(Bella)20歳。ベラとの結婚生活(1915年~1944年)はベラが亡くなるまで続いた。※ 1915年、結婚した同年に母が病死。※ 1916年、1人娘誕生。イーダ・シャガール(Ida Chagall)(1916年~1994年)1916年 Bella and Ida by the Window(窓辺のベラとイダ) キャンバスに油彩所蔵 Private collection1917年~1918年 The Promenade(プロムナード・散歩)所蔵 Saint Petersburg, Russian Museum(サンクトペテルブルク、ロシア美術館)1917年 Double portrait au verre de vin (ワイングラスを掲げる2人の肖像) キャンバスに油彩所蔵 Paris, Centre Pompidou(パリ、ポンピドゥーセンター)喜びに満ち溢れた二人。頭上には天使? いや、シャガールの娘イーダかな?それにしても、この頃はアクロバティックな構図が好み? キュビズムだからか? 好きなサーカスからヒントを得ているのかな?1918年 On the city(街の上で)所蔵 Moscow. The State Tretyakov Gallery(モスクワ、トレチャコフ美術館)となっているが、トレチャコフ美術館の方に掲載されていないので、現在は無いのかも。ではどこに?故郷ヴィテブスク(Witebsk)の上を浮遊するシャガールとベラ。実際なのかもしれないが、ヴィテブスク(Witebsk)の閉鎖感が鮮明。この絵はシャガールがベラを連れて街を脱しようとしているようにも見える。故郷からの脱出1918年、故郷ヴィテブスク(Witebsk)に創立予定の美術大学にロシアで最も重要な前衛芸術家たちが招集され、その中にシャガールもいた。しかし、そこではマレーヴィチ(Malevich)(1879年~1935年)のような抽象画が好まれ、シャガールの作品は「ブルジョア個人主義的」と非難される。シャガールは学校を退職して故郷ヴィテブスクを去った。1920年、モスクワへ移住。恐らく国境線の封鎖で出られ無かったのだろう。因みに、ロシア・アヴァンギャルドの一翼を担ったマレーヴィチ(Malevich)であるが、スターリン政権下のソ連で美術の保守化が始まり、前衛芸術運動は否定どころか弾圧。マレーヴィチは自分の志した絵を描けずに政治に翻弄されて一生を終えている。シャガールは早くに脱出して正解だった。1918年 Apparition(出現)所蔵 Private collection学校で講師をしていた頃のシャガール作品。シャガールとしてはずいぶん攻めていると思うが、マレーヴィチ(Malevich)の作品が異次元に行っちゃってるからね。1923年~1941年 フランス時代(France)1922年、リトアニアへ移り、その後ベルリンを経由して1923年にパリへ戻っている。脱出成功? これをパリへの亡命と見るべきか?1921年~1922年の作品がリストに無い。1923年代も本の挿絵のような素描が十数点モスクワ、トレチャコフ美術館に所蔵されている。ベルリンに寄ったのは、かつて預けておいた自分の絵を取り戻しに行ったから。だが、絵は無かった。それ故、シャガールの初期作品の多くは紛失状態となったそうだ。いくつかは記憶をたより描いているようだが・・。ところで、シャガールは度々バイオリニストの絵を描いている。左 1920年 Music所蔵 Moscow. The State Tretyakov Gallery(モスクワ、トレチャコフ美術館)※ ここには黒い顔のも存在する。右 1923年 Green Violinist所蔵 NY. Solomon R. Guggenheim Museum(ニューヨーク. ソロモン・R・グッゲンハイム美術館)絵は、シャガールの故郷ヴィテブスク(Witebsk)の街。左の1920年 Musicのカラーが気になる。絵の具の科学変化で発色が飛んだのかな? 故郷でのユダヤの冠婚葬祭で音楽は必須。でも楽器と言えばバイオリンしかなかった? シャガール自身もバイオリンが弾けたらしいが、なぜバイオリニストの絵を繰り返し描くのか? と言う点で気になる絵です。パリで画商と契約、挿絵の為の銅販画をはじめる1923年、パリに戻ると美術商アンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard)と契約。小説や聖書のイラストの仕事を請け負う。その為に銅販画の勉強も始め。結果的にそれが彼の版画の才能も開花させた。シャガールが偉かったのは、仕事を選ばなかった事だ。芸術家はこだわりが多くて融通が利かない人が多いからね。ところで、このアンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard)(1866年~1939年)は、19~20世紀のフランスでもっとも重要だった美術商の一人。彼は法学出身で画商に転向した異色の人。1908年 ルノワールによるAmbroise Vollardの肖像画家 Pierre-Auguste Renoir (1841年~1919年)所蔵 The Courtauld Institute of Art(コートールド美術館)最初にエドゥアール・マネの大きな個展を開催。ポール・ゴーギャンやフィンセント・ファン・ゴッホの展覧会も矢継ぎ早に開催。他にも彼に援助受けたのは、ポール・セザンヌ、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ルオー、アリスティード・マイヨールらの名があがっている。彼の援助があって世に出られた芸術家は多いと言う事だ。彼に先見の明があった? いや、常にリスクと隣合わせだったらしい。ドガやピカソはヴォラールが無名な画家から安く作品を買い、名を押し上げてから高く売ってもうけている。と嫌っていたらしいが、まあ、画商とは、そもそもそう言うものだけどね。夢からインスピレーション1924年~1925年 The Vision(幻視)所蔵 London, Tate Modern(ロンドン、テート・モダン)Etching, aquatint, gouache and pastel on paper1918年の「Apparition(出現) 」と構図は全く一緒ですね。シャガールは 1923 年にパリに移った後、ロシアで制作した多くの作品の新しいバージョンを描きなおしているそうだ。Visionでは、若い画家の所に天使が出現。何かお告げ?天使もまた彼の作品に多く使われるアイテムであるが、天使はシャガールを未知の世界に導いてくれる使いのようだ。どうもシャガールは、しばしば夢からインスピレーションを得て描いていたらしい。ある時、シャガールは気付いた。絵が「私にとって、別の世界に向かって飛んでいける窓のように見えた」それはつまり、自分の創造する絵の中に自ら入り込み、逃避する事ができると・・。1929年 Time – the river without banks(時間 – 堤防のない川) 所蔵 Madrid, Thyssen-Bornemisza Museum(マドリッド、ティッセン・ボルネミッサ美術館)川に沿って浮かぶ振り子時計と巨大な翼を持つ魚がバイオリンを弾いているシュールな絵。翼の生えた魚はシャガールで、この絵は彼の人生(時計)を象徴的に描いたものらしい。魚は飛行しながらタイミングを計っているようです。1929年 The Rooster(雄鶏)所蔵 Madrid. Thyssen-Bornemisza(マドリッド、ティッセン・ボルネミッサ美術館)1929年 Fruits and Flowers(果物と花) 所蔵 Private collection果物とか花とかの静物は家に飾るアイテムとして喜ばれるモチーフ。注文があって描いたのか?背景には恋人と動物? シャガールらしさがここにある。実際、1930年代のパリでの生活の中で、画家は花の静物画をたくさん描いていたらしい。1932年 Bride with Blue Face(青い顔の花嫁)所蔵 Private collection1934年~1947年 Bouquet with Flying Lovers(空飛ぶ恋人たちの花束)所蔵 London, Tate Modern(ロンドン、テート・モダン)先に触れたよう、花の静物画を描いていた1930年代に最初の構想が生まれたらしい。この絵は、間隔をあけて制作し、最終段階で事情が変わったらしい。一見、幸福そうなほほえましい絵。豪華に活けられた花瓶の花。生活が垣間見える椅子。後方で男が女性を部屋に招き入れているようにも見える。幸福そうな二人?でも、実は完成直前にシャガールは最愛の妻を失っていたそうだ。だからこの絵は「画家の喪失感と郷愁」を表す作品になったらしい。ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld)は、1944年亡命先のアメリカで病死している。この絵の完成は1947年パリに戻ってからかもしれない。妻へのレクイエムでもあるんですね。せめて第二次世界大戦まで進みたかったですが、終わりませんでした。シャガールは非常に長生きです。まだ彼の人生は50年以上残っています。ユダヤ人である彼の試練。そして転換点が第二次世界大戦となるのは周知の事実です。次回はアメリカに亡命するあたりからですね。疲れたので、今回はここで終わります。遅れて申し訳ありませんでしたが、これでも相当ガンバリました。 m(。-_-。)m Back number マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 サン・ポール・ド・ヴァンスリンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガールリンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 3 戦後編「聖書の言葉」
2023年05月30日
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