わたしのこだわりブログ(仮)
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そこそこ写真もあるのでピサ(Pisa)とダ・ヴィンチでも紹介しようか? 私が尊敬する芸術家の一人として真っ先にあげたいのがレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)だから・・。万能な彼はもはや神。°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°で、ダ・ヴィンチを探ぐっていたら、ミラノに行き着きました。今回ミラノの写真が多いです。そしてラストにどうしてもサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)を入れたかったのですが、想定外の事がおきていて、ちょっと時間を食いました。尚、絵画の写真はほぼウィキメディアから借りています。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)両親幼少期のエピソードヴェロッキオ(Verrocchio)工房ヴェロッキオ工房でのエピソードミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ像プラトン・アカデミー(Platonic Academy)ミラノとの関わりミラノで手がけた仕事岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) ウィトルウィウス的人体図(Vitruvian Man)ウィトルウィウス(Vitruvius)の建築論最後の晩餐(L'Ultima Cena)ミラノ公居城スフォルツェスコ城サラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)ミラノ公とのミラノでの仕事レオナルドの兵器フィレンツェ時代小悪魔・サライ(Salaì)と洗礼者ヨハネ像サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)真作としての発見1516年~1519年フランス、ローワール時代両親彼の実父はフィレンツェの裕福な公証人であったが、小作人の娘であったレオナルドの母(Caterina)とは身段違いの為に結婚はしなかった。故に彼は未婚の母の元にヴィンチ村で生まれ、そこで育ったと考えられていた。※ 生誕はフィレンツェの父の家と言う可能性も出ている。本人 レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ(Leonardo di ser Piero da Vinci) (1452年4月15日~1519年5月2日)父 Ser Piero da Vinci d'Antonio di ser Piero di ser Guido(1426年~1504年)母 Caterina di Meo Lippi (1434年~1494年)※ 通称として出身地が付くらしい。ヴィンチ(Vinci)村のレオナルドだからレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)であり、父にも同じくda Vinciが付いている。また、レオナルドには、父の名(セル・ピエーロ)も付されている事から私生児ではなく、ちゃんと公認された親子関係はあったと認識できるし、実際父に喜んで向かい入れられたと伝えられている。レオナルドが生まれた翌年、実父セル・ピエーロも実母カテリーナも別々の人と結婚している。実父セル・ピエーロに関しては、幾度かの結婚をし、最終的にレオナルドの異母兄弟は16人となっている。レオナルドはしばらく母の元で育てられたのかもしれないが、1457年(5歳)には彼は父方の祖父アントニオ・ダ・ヴィンチの家に住んでいた事が納税記録により証明されているそうだ。幼少期の事は不明と言われるが、彼は義母やダ・ヴィンチ家の家族に育てられたのは間違いない。思っている以上に「彼は不遇ではなかった」のだと思われる。それにしても、富裕な家にも関わらず、教育は非公式なものしか受けていないらしい。父(Ser Piero da Vinci)は仕事で忙しく、叔父(Francesco da Vinci)と親しかった事は解っているので叔父からいろいろ広い世界を学んだのかもしれない。なぜなら、画業だけにとどまらずかかわったあらゆる世界。また、後年彼が考案するに至る飛行機械、装甲車両、投石機などの開発につながる素養はある程度小さい頃からの興味に起因するからね。幼少期のエピソード美術史家ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)(1511年~1574年)が伝えている事によれば、レオナルドの絵が上手な事を知った農民が丸い盾に絵を描いて欲しいと依頼した所、あまりに絵が怖すぎて父がそれを売り、別の盾を購入して農民に贈ったと言うもの。ここで引っかかるのが「絵が怖すぎて父が売った。」と言う点。絵は高く売れ、最終的にミラノ公の元に渡ったらしい。最初から解説すると、当時、農民は農閑期には戦争などにかり出されるので、樽(たる)の蓋(ふた)等を利用した自身の盾(たて)を自ら制作したのであろう。その盾に農民は気の利いた絵を描いて欲しいと軽い気持ちで頼んだのかもしれない。しかし、レオナルドが描いたのは、一介の農民が持つには過ぎるできだったのだろう。おそらく、盾に描かれた絵はメドゥーサの首(顔)だったと思われる。「ペルセウスとメドゥーサ」の神話で、アテナイの命でメドゥーサを退治したペルセウスは見ると石になると言うメドゥーサの首をアテナイに贈った。アテナイはその首を自分の盾(アイギス)にはめ込み最強の盾(たて)としたのである。最強の盾(たて)と言えば、これに勝るものは無い。何しろメドゥーサの髪一本一本はヘビでできているから、それ自体が怖いし不気味。伝統的にもメドゥーサの首は最強の絵図なのである。完璧すぎたのだろう。父は農民にそれを渡さず、フィレンツェの美術商に100ダカット(ducats)で売却している。父がレオナルドの才能を確信した瞬間かもしれない。※ 余談ですが、メドウーサの首について過去に書いています。メドウーサを知りたい方はどうぞ。リンク ルーベンス作メドゥーサ(Medousa)の首ヴェロッキオ(Verrocchio)工房レオナルドはヴェロッキオ(Verrocchio)の工房に14歳(1466年)で弟子入り。※ アンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)(1435年頃~1488年)彼には早くから芸術の才能があった事がわかっているのでダ・ヴィンチ家では当初からそちらの才能を伸ばす事に方針を決めたらしい。父はレオナルドを当時フィレンツェで最高の工房に入れた。そもそも、ヴェロッキオは父の友人であったとも言われている。レオナルドの作品を見せられたヴェロッキオは非常に感心し、入門を許可したらしい。7年、レオナルドは20歳(1472年)になるまでに親方ギルドの資格を取得し、聖ルカ(Guild of Saint Luke)の正会員になっている。父はレオナルドがルカの会員になると彼の工房を設立しているが、レオナルド自身はその後もしばらくはヴェロッキオ工房に寝泊まりして仕事を手伝っていたらしい。レオナルドは確かに、最初に画家として名声を得たが、実は発明など彼の功績は幅が広い。製図、化学、冶金、金属加工、石膏鋳造、皮革加工、機械学などの幅広い技術力。木工品や、デッサン、絵画、彫刻などの芸術的スキル。本当にマルチな才能を発揮している人なのだ。だから芸術家として彼を扱って良いのか? 肩書きは迷う所でもある。ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ像ミラノ、スカラザ前に設置されているレオナルド・ダ・ヴィンチ像。レオナルドの評価は特にミラノが高い。1858 年に彫刻家ピエトロ マーニ(Pietro Magni)(1817年~1877年)によって制作。政情による資金難で遅れ1872 年に除幕に至った。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)(1452年4月15日~1519年5月2日)写真左側がミラノ・スカラ座。その対面側がガレリア。トップにレオナルド・ダ・ヴィンチ像台座には弟子の像4体が設置。1.Giovanni Antonio Boltraffio(1466 or 1467年~1516年)※ Salvator Mundiは長らく彼の作品と思われていた。2.Marco d'Oggiono(1470年~1549年)3.Cesare da Sesto(1477年~1523年)4.Gian Giacomo Caprotti (1480年~1524年) ※ under the name Andrea Salaino サライである。さらに台座にはエピソードのレリーフが4面。1.Giovanni Antonio Boltraffio(1466 or 1467年~1516年)最後に解説入れますが、世紀の大発見と言われたサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)は2011年まで彼の作品と思われていたらしい。4.Gian Giacomo Caprotti Andrea Salaino(1480年~1524年) ※ 撮影時の像が汚れていて見栄えが悪かったのでサライの写真はウィキメディアから借りています。洗礼者ヨハネのモデルであり、レオナルドの側に最後までいて、モナリザを所有していた人物。ヴェロッキオ工房でのエピソードこちらも美術史家ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)が伝えている事であり、あまりに有名な話ではあるが・・。どうも偽りの話だったらしい。ヴェロッキオは弟子レオナルドに自身の作品「キリストの洗礼(Baptism of Christ)」の中の天使(左)を描かせた。1475年頃 キリストの洗礼(The Baptism of Christ)画家 アンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)所蔵 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)Leonardo da Vinciの部分レオナルドの天使を見て、ヴェロッキオは筆を置いたと言われる。確かに目を引くのは美しい天使。特に色使いが自分よりもすぐれていると思ったらしいのだ。ヴェロッキオの芸術に対する審美眼が高かったのは確からしい。ヴェロッキオはその後「彫刻の方を専門とした」とも聞いた。実際、ヴェロッキオは彫像の方が有名だ。若い弟子時代の話のように語られているが・・。1475年頃と言う制作年代を見るとヴェロッキオ40歳。レオナルド23歳頃で、すでに聖ルカの会員になり、自身の工房を持っていた頃でもある。レオナルドは行かなくてもいいのにヴェロッキオの所に通っていた年代である。もしかしたら任せられる人材がいなくてレオナルドに頼んだのか? 仕事が無いレオナルドに仕事を与えたのか?親方になったって、仕事が無い人は無いからね。フェルメールのように・・。そもそも工房作品であるなら、どこもほぼほぼ弟子が描いている。親方がどの程度手を入れるか? はどこからの依頼か? あるいは金額による違いがあったのではないか? と思う。そう考えると、有能な弟子を持っているか? は重要だ。マンガ家のアシスタントみたいな感じかな?レオナルドはモデルも努めている。同じくヴェロッキオの所で弟子をしていたフランチェスコ・ボッティチーニ(Francesco Botticini)(1446年~1498年)はレオナルドより6歳上の兄弟子。1470年 トビアスと3人の大天使(I tre Arcangeli e Tobias)画家 フランチェスコ・ボッティチーニ(Francesco Botticini)所蔵 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)大天使ミカエル(Michael)のモデルは18歳当時のレオナルドではないか? 似ている。と言われている。日付がはっきりしているレオナルド作品で最も古い絵。1473 年 アルノ渓谷の眺望(Landscape of the Arno Valley)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)フィレンツェ市内を流れるアルノ川は河口の街ピサを通りリグリア海に注いでいる。物流の為にアルノ川を航行できる川にするよう最初に進言したのはレオナルドだそうだ。レオナルドへの正式な依頼はこの頃から1478年、ヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio)の聖バーナード礼拝堂(Chapel of Saint Bernard)の祭壇画の依頼。1481年3月、彼はスコペト(Scopeto)のサン・ドナート(San Donato)の修道士から「東方三博士の礼拝」の依頼。しかし、急遽? ミラノに立つことになったようで「東方三博士の礼拝」は未完に終わっている。プラトン・アカデミー(Platonic Academy)ところで、レオナルドは1480年にメディチ家に居たと言う話がある。どうやらプラトン・アカデミー(Platonic Academy)に出入りしていたらしいのだ。メディチ家が主催するプラトン・アカデミー(Platonic Academy)は、後生の人が付けた名前だ。そもそも学校ではなく、高尚(こうしょう)なサロンだったと思われる。先代のコジモが古代ギリシア哲学、プラトンの思想に関心を持っていた事から?メディチ家別邸にマルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino)(1433年~1499年)を(1462年頃)住まわせ、プラトン全集やヘルメス文書などをラテン語に翻訳させていたらしい。※ ルネサンス期の人文主義者、哲学者、神学者。1439年のフィレンツェ公会議がきっかけならコジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici)(1389年~1464年)が最初にプラトンに傾倒したのかもしれない。が、コジモは1464年に亡くなっている。次代を継いだのがまだ若いロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)(1449年~1492年)。彼は20歳にしてメディチ家(本家)の当主となるとメディチ家の黄金時代を作り上げた人物だ。そして彼も多くの学者や芸術家を援助した事で知られる。いずれにせよ、マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino)が居るメディチ家には人文主義者らが集ってきた。メディチ家はいわゆるサロンとなり人文学者のみならず芸術家、詩人、哲学者らも集う場所となったのだろう。そこでは皆、有益な情報を得られるから、アカデミーのような毎回勉強会の場であったのだろうと推察できる。また、メディチ家はそんな彼らへの支援を惜しまなかったから、有能な人材が多く輩出された。以前「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)のところで触れているが、1480年頃はメディチ家全盛期で、ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)気にいられたサンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)がメディチ家の為にいろいろ描いていた頃だ。1482年、「プリマヴェーラ 春の寓意(La Primavera) 」1485年、「ヴィーナスの誕生 (Nascita di Venere)(Birth of Venus)」これらは今、現在 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)を代表する絵画となっている。※ メディチ家とメディチ銀行の事かなり詳しく書いています。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)このサンドロ・ボッティチェッリはアンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)(1435年頃~1488年)の弟子だったと言われている。同じ師匠の弟子であったレオナルドが兄弟子と居ても不思議ではない。あるいはフィレンツェで成功していた公証人の父からのつてかもしれない。 博識なレオナルドはこのサロンで造られたのかもしれない? 少なくとも、より広い世界の扉を開いたのかもしれない。ミラノとの関わり先にレオナルドの評価はミラノが高いと紹介したがミラノ公に気にいられ、彼の元で働いていた期間が長いからだ。1482年から1499年まで、確かにレオナルドはミラノで活動していた。1482年、ロレンツォ・デ・メディチの命でレオナルドはミラノに向かった。先のプラトン・アカデミーの話を裏付けるエピソードだ。当時のミラノ公は、ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)(在位;1479年~1499年)が就任したばかり。※ ムーア人のような色黒だった事から通称ルドヴィコ・イル・モーロと呼ばれていた。想像の域であるが、ミラノ公となったルドヴィコ・スフォルツァがロレンツォに「誰が人材がいたら回してほしい」と頼んだのではないか? その白羽の矢が立ったのがレオナルドだったのだと考えられる。レオナルドはミラノ公に自分が何ができるかの手紙を書いている。それによれば「工学と兵器設計の分野で自分ができる事、また絵を描くこともできる。」としているので、画家だけでなく何事もこなせる人材をミラノ公は欲していた。実際レオナルドは武器開発含めてスフォルツアの多くのプロジェクトで活躍する事になる。先に触れたが、レオナルドのミラノ滞在は1482年から1499年。ミラノ公がフランス軍の侵攻によりに捉えられる1499年までレオナルドはミラノ公の下で働いていた。ミラノ公は神聖ローマ帝国側についたのでミラノはフランスと敵対し、フランス軍の侵攻を受けた(イタリア戦争)。ミラノが占領されるとレオナルドは助手のサライと友人の数学者ルカ・パチョーリと共にミラノを脱出してヴェネツィアへ避難している。ミラノで手がけた仕事岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) 無原罪懐胎協会(Confraternity of the Immaculate Conception) からの依頼で「岩窟の聖母(the Virgin of the Rocks)」。ほぼ同じ構図、構成で描かれた高さが約 2 m の2点の作品が存在する。左、1483年にミラノで制作依頼を受けて描かれた最初の作品がルーヴル・ヴァージョンではないか? と考えられている。この作品はレオナルドが1人で描いたとされぼかし技法スフマートが使われている。1483年~1486年 岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) ルーブル・ヴァージョン画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)何らかの理由でレオナルドは2枚目のナショナル・ギャラリー ヴァージョンを新たに描き、納品したのではないか? と考えられている。では1枚目はどこに?制作年代で類推すると、一番考えられるのは、最初の作品がフランス占領下で略奪されたから後に新しい作品を描いて送った? と言うのが現実的かも。実際、最初の作品はルーブルに収まっているからね。1495年~1508年 岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) ナショナル・ギャラリー バージョン画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ナショナル・ギャラリー (National Gallery)ウィトルウィウス的人体図(Vitruvian Man)あまりに有名な絵図であるが、これが何を意味しているか知っている人は少ないだろう。この絵図は古代ローマの建築家ウィトルウィウス(Vitruvius)(BC80~70年~ BC15年)の著した建築論内で人の比率について述べられていた人体の理論図を具現化したものなのである。第3巻、第1章で、ウィトルウィウスは人間の比率について述べている。へそは本来人間の体の中心。仰向けに寝て、手足を伸ばし、へそを中心にして円を描くと、それは彼の指と足の指に触れることになる。しかし、人体は円だけで囲まれているわけでは無い。今度は人体を正方形の中に配置。足から頭頂部までを測定し、腕を完全に伸ばした状態で測定すると、後者の寸法が前者の寸法と等しいことが解る。1492年 ウィトルウィウス的人体図(Vitruvian Man) 円と正方形に内接する人体の図所蔵 アカデミア美術館(Gallerie dell'Accademia)※ 常に公開されている作品ではない。この画像はウィキメディアから借りました。今まで多くの人が描いているが、レオナルドの作品が最も美しい完璧な図。ウィトルウィウス(Vitruvius)の建築論古代ローマの建築家ウィトルウィウス(Vitruvius)(BC80~70年~ BC15年)は建築論、十書を著して初代ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)(BC63年~BC14年)(在位:BC27年~AD14年)に捧げた。それは最古の建築論の書である。この著は長らく失われていたが、フィレンツェの人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニによってスイスのザンクト・ガレ修道院(the Abbey of St. Galle)の図書館で1414年に発見されたのだ。※ ベネディクト会では古来の良書を写本して残すのも修道士の仕事であった。1450年頃、レオン・バッティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti)が「De re aedificatoria(建物について)」で紹介。当然、ローマ時代の建築論はプラトン・アカデミーでの話題になっただろう。ブラマンテ(Bramante)、ミケランジェロ(Michelangelo)、パッラーディオ(Palladio)、ヴィニョーラVignola)など、多くの建築家がウィトルウィウスの作品を研究したことが知られている。彼の建築論によれば、建築は「firmitas(強さ・安定性)」、「utilitas(実用性)」、「venustas(美・魅力)」の3つの要素が必要であるとしている。以降、ローマの建築物には、この原則は適用されている。今に残るローマのパンテオン(Pantheon)もその一つ。ウィトルウィウスによれば、建築は自然の模倣。鳥やミツバチのように、人間も自然素材で巣(家)を作る。ウィトルウィウスは住宅建築に関連した気候や都市の場所の選び方についても書いているらしいが、この建築技術を完成させる際に重要なのは比率としている。ギリシャ人はドリス式、イオニア式、コリント式という建築オーダーを発明。美の完成には比率こそが大事な要因としているのだ。また、彼は「建築家は図面、幾何学、光学(照明)、歴史、哲学、音楽、演劇、医学、法律に精通している必要がある」と述べている。それは建築が他の多くの科学から生じた科学であるからで、それはまた多様な学習によって装飾されるものとしているからだ。さらに、彼は理論的であると同時に実践的である事を推奨している。以前、「ローマでは服飾のデザイナーでも建築を学ぶ。」と言うのを聞いて不思議だったのだが、ウィトルウィウス(Vitruvius)の建築論がローマでもルネッサンス以降、脈々と受け継がれているからなのかと納得した。ローマだけではない、欧州で、画家らが古典古代を学ぶ為に、みなイタリアに留学していたのもそうした理由なのだろう。最後の晩餐(L'Ultima Cena)サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie)の修道院食堂の壁画。1495年~1498年 最後の晩餐(L'Ultima Cena)(The Last Supper)撮影禁止なのでウィキメディアからかりました。詳しい事は「修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復」で書いています。リンク先はまとめてます。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie) 本体の堂13世紀にすでにこの場に教会はあったらしい。ドミニコ会派の修道会として礎石されたのは1463年9月。度重なるペストなどで信者も減少。その存続さえ難しい時にドミニコ会修道会自体の再建をかけた改革が行われている。その中での建築である。清貧、勤労を重んじるドミニコ会が望んだのは簡素な建物。しかし、後援となったVimercate伯爵は違った。教会ともめたが、結局教会の建築家はクリストフォロ・ソラーリ(Cristoforo Solari) (1460年~1527年)に決まった。ソラーリはすでに評判のトスカーナの建築家。堂はルネッサンス様式を意識しているものの、基本的にはロマネスク様式に近い建築となっているが技術的には高価なできだ。質素どころではない。教会と修道院の建設は長い年月がかかる。ミラノ公、ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)(在位;1479年~1499年)が引き継ぐと後陣はスフォルツァ家の霊廟としてブラマンテに造りかえさせた。ブラマンテはソラーリが完成したばかりの後陣を取り壊し、現在のような後陣を完成。結局、フランスの侵略があり、霊廟にならなかったが・・。僧院回廊はドナト・ブラマンテ(Donato Bramante)(1444年頃~1514年)今見てもオシャレです。リンク 修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復リンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-1 (会員登録と仮予約)リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-2 (仮予約と支払い)ミラノ公居城スフォルツェスコ城ミラノ公に呼ばれたレオナルドもこの城の中で暮らしていたと思われる。1450年にミラノ公爵フランチェスコ・スフォルツァがヴィスコンティ家の居城を改築して城塞化。16~17世紀にかけて増改築された居城は欧州でも有数の規模の城塞となっていた。図は城に置かれていた看板に少し着色しました。六芒星(ろくぼうせい)の形に城壁と堀を配置した鉄壁の守りをとった要塞です。今は堀は無く、一部形跡は残っていますが、正面には噴水広場が造られている。現在残っている城は少し形が違う? 1891年~1905年にかけて、建築家ルカ・ベルトラミらによって修復されているからかも。現存しているのは1/4程度。現在、内部は市立博物館(Musei del Castello Sforzesco)となっていて、近年復元作業のすすめられているレオナルドの天井壁画がある。サラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)1498年、レオナルドとその助手たちはミラノ公からスフォルツェスコ城(Castello Sforzesco)のサラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)(アッセの間)の絵を描くよう依頼されたという。その証拠はレオナルドがミラノ公(ルドヴィコ・スフォルツァ)に「9月までに完成させると約束している」と書かれた1498 年4月21日付け書簡により判明。レオナルドは石膏にテンペラでアッセの間に木から茂る植物(桑の木?)を描いた。まるで屋外のパーゴラの下に居るようなだまし絵である。しかし、この手紙の直後、1499年にミラノはルイ12世率いるフランス軍に進軍されスフォルツェスコ城は陥落。アッセの間の絵は未完となった。未完の絵は後年塗りつぶされていた事が判明。1498年 サラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)2013年以降修復作業が続けられた。上の写真は修復前のもの。下はウィキメディアから。ミラノ陥落後、城は何世紀も他国の要塞として軍事利用されてきた。その過程で部屋の絵は白く塗りつぶされ失われていた。1861年、イタリアが統一された時、城は完全にボロボロ。取り壊しか? 修復か?建築史家ルカ・ベルトラミ(Luca Beltrami)(1854年~1933年) がその修復に携わると1893年、部屋を覆う白い表面の下、元の塗装の痕跡がいくつか検出されたと言う。現存数が少ないレオナルドの作品としてサラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)は貴重なのである。ミラノ公とのミラノでの仕事レオナルドのミラノでの功績は先に紹介したスカラザ前のレオナルド像にレリーフで刻まれている。実はレリーフの説明がどこにも無くて困っていた。意外な所(Ludovico Maria Sforza)から出てきたのだ。20年間ほぼ公国に専念したミラノ公ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)(在位;1479年~1499年)の評判はすこぶる良い。エレガントでハンサムな容姿(詩人たちは彼のそのかっこよさを賞賛した)、教養があり、現地語とラテン語を操る。優れた作家であり、機知に富み、愉快な雄弁家でもある。楽しい会話や音楽を好み絵画の愛好家でもあると言う寛大な存在感を持っていたと言う。魅力的な完璧なルネッサンス期の紳士だったらしい。※ 実弟が対照的に悪かったらしい。レオナルドとはかなり息が合ったのではないか? と推察できる。もし、ミラノがフランスの侵攻を受けなければ、ルドヴィコ・スフォルツァが捉えられなければ、二人はずっとタッグを組んでたくさんの作品や仕事を残してくれただろうに・・。レオナルドはミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァに「前任者フランチェスコ・スフォルツァの巨大なブロンズの騎馬記念碑」の依頼を受けていた。原型の石膏像を見せている所?このブロンズは戦争の為にブロンズが供出されたので完成できなかった。レオナルドはルドヴィコ公爵とベアトリス公爵に運河の水門を見せている。ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァは「最後の晩餐」の進捗を見に来たので説明している。レオナルドはモロ? の要塞の計画を示している図。イーモラ(Imola)防衛の事? ミラノとは関係なくなるが・・。ヴェネツィアでは、レオナルドは軍事建築家および技術者として雇用され、海軍の攻撃から都市を守る方法を考案。レオナルドの兵器1502 年、レオナルドは教皇アレクサンドル 6 世の息子チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)(1475年~1507年)に仕え、主任軍事技師兼建築家として採用されている。レオナルドはチェーザレ・ボルジアと共にイタリアを周り、軍事建築家および技術者として活動している期間が8ヶ月ほどあるのだ。チェーザレはレオナルドに、彼の領土内で進行中および計画されているすべての建設を検査および監督するための無制限の許可を与えている。またロマーニャ(Romagna)滞在中、レオナルドはチェゼーナからチェゼナーティコ港(Porto Cesenatico)までの運河を建設。またレオナルドは新兵器のデッサンやイーモラ地図を残している。※ 図面などはミラノで見学しているのですが、暗い部屋で撮影も禁止でしたレオナルド・ダ・ヴィンチによる発明品、戦車、巨大投石機(カタパルト)、飛行機など、ロワール地方にあるクロ・リュセ城の庭園で実物大の立体展示がされているらしい。図面を探がしたけど見つからず、フランス観光局のサイトから写真を借りました。リンク Explore Franceクロ・リュセ城に展示されたレオナルド・ダ・ヴィンチの発明品サイトには他の写真もあります。連接グライダー(Flying Machine)空圧ネジ(Aerial Screw crop)戦車(Armored Tank crop)走行距離計(Odometer crop)話をチェーザレ・ボルジアに戻すと。実はチェーザレ・ボルジアはスペイン・アラゴン系のボルジア家の一員。先のイタリア戦争(神聖ローマ帝国vsフランス)ではフランス王ルイ12世のコンドッティエーレ(condottiere)(傭兵隊長)を務め、先のイタリア戦争ではミラノとナポリを占領している。要するにフランスの傭兵としてミラノを攻めていたのである。以前、スイスの傭兵の事を書いたが、イタリア内でも同じような状況があった。経済基盤を持たない地方都市は、傭兵として出稼ぎに出ていた。ヴェネツィアやジェノバのような金持ちの海洋共和国は別であるが逆にそうした所は妬みをかい、常に野心の対象とされていたそうだ。だから彼らは傭兵を雇う側。ただ、イタリアの傭兵はスイス兵とはかなり異なる。負け戦はなるべくかかわるのを避け、全滅するまで戦うような事はなかったと言う。勝つ見込みがあるまで戦い。負けそうになれば撤退。だから、かつてヴァチカンが襲われた時にイタリアの傭兵は逃げた。最後まで戦ってくれたのはスイス兵だけ。これが現在に至りヴァチカンがスイス兵しか信用せず雇わない理由だ。※ 以前、スイス人の傭兵の事書いています。リンク バチカンのスイスガード(衛兵)違いは他にも・・。イタリアの傭兵トップは洗練され教養ある事を尊いとした。チェーザレ・ボルジアはローマで暮らし、ピサやペルージャの大学で法律等を学んでいる学識者。しかし狩猟や武芸にも励んだ強者。そんな男が教会の重責もになっていたのだから中世は不思議だ。1492年 バレンシア大司教1493年 バレンシア枢機卿また、君主論の中でマキャヴェリは君主となる者はチェーザレを見習うべき人物としてあげている。彼はチェーザレの印象を「容姿はことのほか美しく堂々とし、武器を取れば勇猛果敢であった」とも書いているそうだ。32歳と若死にしているのが残念ですね。ところでレオナルドは1503年初めにはフィレンツェに戻り、10月に聖ルカ(ギルド)の会員に復帰している。それはつまり、また絵を描くと言う事。フィレンツェ時代1503年頃~1519年 聖母子と聖アンナ(The Virgin and Child with Saint Anne)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)聖母マリアと幼児キリスト、そしてマリアの母聖アンナが油彩で描かれた板絵。ベースはポプラの木。スフマート(Sfumato)技法で描かれている。スフマートとは、いわゆるボカシ技法。レオナルド自身が煙のようなと形容しているが、境界をはっきり出さない描き方。1499 年、フランス王ルイ12世の一人娘クロードの誕生を祝う為に依頼されたと考えられている。が、この絵はルイ12世に届けられず、1517年時点でもまだレオナルドの工房にあったと言う。※ ウィキアートからどうもこの絵には諸説あるらしいが、1499年はフランスがミラノに侵攻し、ミラノ公が捉えられた年。先にふれたが、レオナルドは弟子らと共にヴェネツィアに逃げていたはず。どう依頼を受けたかも疑問。1506年~1508年 La Scapigliata (ほつれ髪の女)所蔵 パルマ国立美術館(Galleria Nazionale di Parma)1503年~1519年 モナ・リザ(Mona Lisa)(La Gioconda)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)美術史家ジョルジョ・ヴァザーリの著書「芸出家列伝」によれば「レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンダから妻モナ・リザの肖像画制作の依頼を受けた」と書いている事から「La Gioconda」とも呼ばれる。※ 「ma donna」はイタリア語で「私の貴婦人」を意味。その短縮形が「mona」。モナ・リザ(Mona Lisa)とは、「貴婦人リザ」と言うことになる。ジョルジョ・ヴァザーリの話は「当てにならない」のが最近の考えだが、1477年に出版されたキケロ全集の余白部分にラテン語の落書きがあり、「レオナルドがリザ・デル・ジョコンダの肖像画を制作している最中である」事が1503年10月という日付と共にに記されていた事が判明したそうだ。落書きしたのは、アゴスティーノ・ヴェスプッチ (Agostino Vespucci) と言うフィレンツェの役人。2004年、科学的検証(赤外線分析)から、絵の制作開始年が、ジョコンダが次男を出産した1503年頃だと言う事も判明したそうだ。それ故、この作品は、デル・ジョコンダ家の新居引越しと次男アドレアの出産祝いだったのでは? と考えられるそうだ。小悪魔・サライ(Salaì)と洗礼者ヨハネ像1513年~1516年 洗礼者ヨハネ(Saint John the Baptist)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)イエス・キリストに洗礼を行った洗礼者ヨハネを描いた作品。左手に葦の十字架を持ち、右手は天国を指している。モデルは弟子のサライ(Salaì)と考えられている。明暗を駆使した「陰影法(いんえいほう)」。暗闇から浮かび上がるように描かれており、不敵な微笑みを浮かべている。「モナ・リザ」や「聖アンナと聖母子」と共にともに最後まで手元に残した作品と言われる。サライ自身がモデルだからか?先にミラノの銅像で弟子の一人として写真をUPしている弟子のサライ。人生のほとんどをレオナルド・ダ・ヴィンチと共に過ごした愛弟子であるが、終生悪ガキだった?※ ジャン・ジャコモ・カプロッティ(Gian Giacomo Caprotti)(1480年~1524年) 画家として名乗る時 アンドレア・サライノ(Andrea Salaino)美術史家ジョルジョ・ヴァザーリによれば「優雅で美しい若者で、レオナルドは(サライの)巻き毛を非常に好んでいた」と記している。が、名前の小悪魔(サライ)が示すよう、サライには手を焼いたのだろう。レオナルドの金銭や貴重品を何度も盗み、また嘘つきで強情で10歳でレオナルドに入門してからどれだけレオナルドを困らせた事か?絵の才能はあったらしいから、彼は見捨てずに育てた? 彼はレオナルドが亡くなる直前までずっと側に居た。「洗礼者聖ヨハネ(St. John the Baptist)」と「バッカス (Bacchus)」はサライがモデルとなったと考えられている。問題はヨハネが美しすぎる事。だと私は思う。荒野の修道士である洗礼者ヨハネはたいてい薄汚れたおじさんで描かれてきた。こんな美しい、色気のある洗礼者ヨハネは他に見た事がない。次に紹介する絵はバッカス (Bacchus)と言う表題とされているが実は洗礼者ヨハネだったかもしれない作品として揺れているのである。制作年代で言えば、バッカス (Bacchus)の方が先に描かれている?1510年~1515年 バッカス (Bacchus)? 洗礼者ヨハネ(Saint John the Baptist)?画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)ブドウの葉の冠を頭に戴き、ヒョウ皮の腰巻きを付け、左手に杖をつかんでいる。これはほぼバッカス (Bacchus)の象徴である。バッカスであるなら杖はテュルソス(thyrsos)だと思われる。※ バッカス (Bacchus)ローマ神話の酒の神。ギリシア神話のディオニューソス(Dionȳsos)。※ ウイキョウの茎に蔦があしらった杖がテュルソス(thyrsos)。気になるのは右手で右方面を指さしている事。これはレオナルドお気に入りのポーズと思われるが、バッカスならワイングラスを持たせてもよかったのだ。この不思議、どうもレオナルド本人は洗礼者ヨハネを描いたらしいのだ。しかし、1683年から1693年の間にローマ神話のバッカス(ギリシア神話の酒神ディオニューソス)に書き換え変更されているらしい。つまり、誰かが絵の主題の変更をおこなっているのだ。何故に変更されたのかははっきりしていない。考えうるのは、美しく、若々しく、両性具有的な雰囲気を漂わせる色気をかもす洗礼者ヨハネの姿は、セオリーから遠い。なまめかしい洗礼者ヨハネに教会からクレームでも入ったのか?その可能性は高いと思われる。逆に、レオナルドは今までに無い美しくさえある聖人を描いたのだ。そこに彼が意図した事を読み解く方が面白い。この絵はフランソワ1世(François I)(1494年~1547年)の治世にフランスの王室コレクションに入り、ルーブルに収まったと考えられている。ロワールのアンボワーズにレオナルドが居た時に本人から受け取っているのかも?サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)「世界の救世主」の意を持つサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)とはイエス・キリストの肖像である。1500年 Salvator Mundi(世界の救世主)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル アブダビ(Louvre Abu Dhabi)? ではないようです。写真はウィキメディアから借りました。真作としての発見この絵には不思議な来歴がある。レオナルド・ダ・ヴィンチの真作として歴史の表に出たのはほんの近年の事。ミラノを侵略したヴァロワ朝のフランス王ルイ12世(Louis XII)(1462年~1515年)の為に描かれたと言うキリストの絵。チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)経由で依頼されたのかもしれない。が、英国のチャールズ1世(Charles I)(1600年~1649年)の手に渡って1763年以降行方知れずとなっていた。1900年に英国の収集家フランシス・クックが、ロンドンのリッチモンドにあるダウティ・ハウスのコレクションの為にJ・C・ロビンソンから購入した絵画(Salvator Mundi)は当初、レオナルドの弟子ジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオの作品と信じられていた。※ 前出、ミラノの弟子の銅像で紹介。1958 年のオークションで 45ポンドで売却。 2011 年まで彼の作とされ続けていたのだ。それは、過去の修復の問題であった。2005年サルバトール・ムンディが、ニューオーリンズのセント チャールズ ギャラリー オークション ハウス(St. Charles Gallery auction house)でオークションに出品された時点では、絵は模写に似ているほどにかなり塗り重ねられていたと言う。アートディーラーのコンソーシアム(consortium)は 1175ドルで購入したが、そもそもこのひどい状態の絵画が、長らく行方不明だったレオナルドのオリジナルである可能性を信じていたらしい。だからしかるべき所に修復を依頼。※ ニューヨーク大学のダイアン・ドワイヤー・モデスティニ(Dianne Dwyer Modestini)に依頼。そもそもパネルの虫食いはひどく、修復過程で絵画が7つの断片に割れている。修復プロセスの開始時に上絵をアセトンで除去し始めた時、コピーではあり得ない事実を発見(指の位置に修正が加えられていた事)された。コンソーシアム(consortium)は 2005年、1175ドルで入手した作品は修復の結果ダ・ヴィンチの真筆と報道した。2008年、ロンドンのナショナル・ギャラリーが世界中の権威5人に鑑定依頼。結果は賛成1、保留3,反対1。弟子の作か? 工房の2級品か? 結局わからないまま?2011年、ロンドンのナショナル・ギャラリーで展示。期待値は高まり値段は高騰。2013年、サザビーズ (Sotheby's)のオークションでスイス人美術商イヴ・ブーヴィエ(Yves Bouvier)に8000万ドル(約90億円)で落札。後、ロシア人富豪ドミトリー・リボロフレフ(Dmitry Rybolovlev)が1億2750万ドル(約140億円)で購入。※ 画商と購入者間の手数料問題で訴訟トラブルが起きている。またリボレロフ氏はサザビーズも訴えた。2017年11月15日にクリスティーズ(Christie's)のオークションで4億5031万2500ドル(当時のレートで約508億円。手数料を含む)で落札された。※ 2015年に落札されたパブロ・ピカソの「アルジェの女たち バージョン0」の1億7940万ドル(約200億円)を抜き史上最高額。香港やロンドン、そしてニューヨークでのプレビューに訪れた人数だけでもクリスティーズ史上最高の2万7000人。それだけ感心が高かったと言う事。真贋、分かれながらも、本物として値段は高騰して行った。この時点で落札者は不明だった。2017年11月8日、ルーヴル美術館の姉妹館としてフランスのマクロン大統領とアラブ首長国連邦のムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム副大統領とムハンマド・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン皇太子によってアブダビ市街に隣接するサディヤット島の文化地区にルーヴル・アブダビ(Louvre Abu Dhabi)開館。600点の所蔵作品に加え、パリのルーヴル美術館をはじめとするフランス国内13の美術館・博物館から貸し出された300点が展示ルーブル・パリとの契約金は30年で5億2500万米ドル。このルーヴル・アブダビ(Louvre Abu Dhabi)の目玉として、サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)が公開される事が2017年12月6日に発表された。サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン(Prince Mohammed bin Salman)皇太子が個人で、代理人を通じて購入していたらしい。ルーヴル・アブダビでサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)が公開される事。当時、私もテレビの特番で知った。誰か女優さんがUAEに行って作品を直接見せてもらっている画像もあった。UAEに行けば見られるのかと思っていた。ところが、その後、UAEでのサルバトール・ムンディの公開は中止となっていた。2018年9月、ルーヴル・アブダビで予定されていたこの絵画の展覧会が無期限延期されることが発表。また、2019年10月に予定されていたパリでのヴィンチ展でも公開されるはずであった。これに関しては、どこに飾るか? でサウジ側と意見が合わず中止になった模様。では絵画はどこに?2020年末までムハンマド・ビン・サルマン皇太子のヨット(Serene)の船内に飾られていたらしい。潮風に当たったらまずいのでは?結局、未だ公にはほとんど公開されぬままの状態。2024年に完成予定のサウジアラビアのWadi AlFannに新しい美術館がオープンするので、そこで公開される予定はあるらしい。1516年~1519年フランス、ローワール時代フランソワ1世(François I)(1494年~1547年)は1516年、ロワールのアンボワーズにレオナルドを招聘(しょうへい)した。アンボワーズ城(Château d'Amboise)自身の城は歴代ヴァロワ朝の国王が過ごしたアンボワーズ城(Château d'Amboise)。※ シャルル7世、ルイ11世、シャルル8世、フランソワ1世。アンボワーズ城近くに自分が幼少期に暮らしたクロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)があり、そこにレオナルドを住まわせた。レオナルドは亡くなるまでそこに居た。クロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)模型の置かれたクロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)は、晩年のレオナルドの住まい。ウィキメディアから借りました。The chamber of Leonardo da Vinciレオナルド・ダ・ヴィンチの部屋1482年から1499年まで、レオナルドはミラノで活動していた。本当は、そんなに長く居るはずではなかったのかもしれない。おそらく事情が変わったのはメディチ家の没落である。以前、「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)」の中でメディチ家銀行の事、ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)(1449年~1492年)の事を書いているが、メディチ銀行は最終的に1494年に破綻し、全ての支部の解散宣言が出て1499年に閉鎖している。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)芸術家を支援し、フィレンツェを一流の都市に押し上げていたメディチ家の没落が社会に与えた影響は大きい。レオナルドもパトロンを失い、戻るに戻れず、ミラノでお世話になっていたのだろうと想われる。ところが、そのミラノでも頼りにしていたミラノ公は、ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)はイタリア戦争のおりに捕らわれ、身代金を払って解放される時に暗殺されてしまった。レオナルドは当時有数の海洋共和国であったヴェネツィアにとりあえず渡ったのもうなずける。でも、ヴェネツィアはヴェネツィア派と呼ばれるジャンルがあるくらい画家も多い。きっと新たなパトロンを見つけられず? フィレンッエに戻っている。仕方なく? チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)(1475年~1507年)の元に何でもすると売り込みに? 行ったのかもしれない。実際、レオナルドは1502年~1503年、イタリア諸都市の要塞を見学してまわっている。若いチェーザレ・ボルジアは頼りにしていたかもしれない。しかし、レオナルドは8ヶ月でフィレンッエに戻っている。結局ボルジアも7年後には亡くなっているので居ても二の舞だったが・・。1503年、フィレンツェに戻ったレオナルドはルカの会員に戻り、普通の親方絵師として個人の依頼をこなしている。もはや仕事は選んでいる場合ではなかったのだろう。しかし、持ち前の実験好き。それはトラブルの元になって行く。報酬の返還要請や描き直し、修復の依頼など多発。レオナルドは全て無視したらしい。もはやフィレンツェに居られず?ロレンツォ・デ・メディチの息子がレオ10世として教皇となっていたのでローマにも行ったらしい。だが、期待に反してレオ10世には相手にされなかった。ローマでは、レオナルドはもはや過去の人になっていたらしい。好奇心の強いレオナルドが普通に依頼の絵を描いているだけの事に満足するはずが無い。好きに絵を描いたり、彫刻を造ったり、研究をしたりするにはやはり大物のパトロンが必要。1516年、ミラノと敵対していたルイ12世の後継者であるフランス王フランソワ1世が声をかけてくれた。脳卒中ですでに手にマヒも出ていたレオナルドだが、フランソワ1世はレオナルドを非常に尊敬していたらしい。ロワール渓谷のアンボワーズで、穏やかに隠遁生活を送れるよう、自分が育った居城をレオナルドの為に提供もしてくれた。そこで手稿をしたためたり、好きな事をして、お気に入りの弟子と共に最後の3年を過ごし亡くなった。レオナルドの最後はフランソワ1世に抱きかかえられながら息を引き取ったとも伝えられる。絵画でそんな絵がある。本当かはわからないが、フランソワ1世に大事にされていただろう事は伝わる。享年67歳。(1452年4月15日~1519年5月2日)最後が幸せで良かったと想う。完がんばったげど、8月中に載せられなくて残念
2023年09月01日
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