それにしても、 富裕な家にも関わらず、教育は非公式なものしか受けていないらしい。
父(Ser Piero da Vinci)は仕事で忙しく、叔父(Francesco da Vinci)と親しかった事は解っているので叔父からいろいろ広い世界を学んだのかもしれない。 なぜなら、画業だけにとどまらずかかわったあらゆる世界。また、後年彼が考案するに至る飛行機械、装甲車両、投石機などの開発につながる素養はある程度小さい頃からの興味に起因するからね。
1439年のフィレンツェ公会議がきっかけならコジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici)(1389年~1464年)が最初にプラトンに傾倒したのかもしれない。が、コジモは1464年に亡くなっている。
次代を継いだのがまだ若いロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)
(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)(1449年~1492年)。 彼は20歳にしてメディチ家(本家)の当主となるとメディチ家の黄金時代を作り上げた人物だ。
そして彼も多くの学者や芸術家を援助した事で知られる。
最後の晩餐(L'Ultima Cena)
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie)の修道院食堂の壁画。
1495年~1498年 最後の晩餐(L'Ultima Cena)(The Last Supper)
撮影禁止なのでウィキメディアからかりました。 詳しい事は「修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復」で書いています。リンク先はまとめてます。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie) 本体の堂 13世紀にすでにこの場に教会はあったらしい。 ドミニコ会派の修道会として礎石されたのは1463年9月。 度重なるペストなどで信者も減少。その存続さえ難しい時にドミニコ会修道会自体の再建をかけた改革が行われている。その中での建築である。
アンボワーズ城近くに自分が幼少期に暮らしたクロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)があり、そこにレオナルドを住まわせた。
レオナルドは亡くなるまでそこに居た。
クロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)
模型の置かれたクロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)は、晩年のレオナルドの住まい。 ウィキメディアから借りました。
The chamber of Leonardo da Vinci
レオナルド・ダ・ヴィンチの部屋
1482年から1499年まで、レオナルドはミラノで活動していた。
本当は、そんなに長く居るはずではなかったのかもしれない。
おそらく 事情が変わったのはメディチ家の没落で
ある。
以前、「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)」の中でメディチ家銀行の事、ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)(1449年~1492年)の事を書いているが、 メディチ銀行は最終的に1494年に破綻し、全ての支部の解散宣言が出て1499年に閉鎖
している。 リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)