わたしのこだわりブログ(仮)

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2023年07月30日
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カテゴリ: 偉人・画家・聖人
写真はニースのシャガール美術館を後半たくさん入れてます。
意外に撮ってたのだな・・と驚いています。一部載せるだけの予定でしたが、資料としてまとまっていると言うのは結構貴重なのでほぼ載せました。


​マルク・シャガール(Marc Chagall) 3  戦後編「 聖書の言葉」

My Life(わが生涯)
NYの ピエール・マティス ギャラリー(Pierre Matisse Gallery)


最愛の妻ベラ(Bella)の死
消された恋人ヴァージニア・ハガード
​​ ヴァヴァがしかけた広報戦略 ​​
象徴としてのアイコン(icon)
聖書の動物 贖罪(しょくざい)の山羊
赤い天使
1950年代から増える商業ベースの絵画
1950年から南フランスに移動
宗教画はライフワーク?
ニースのシャガール美術館
1956年~1958年 人間の創造
1961年 楽園を追われたアダムとイブ
1960年~1966年 燃える柴の前に立つモーセ
1960年~1966年 岩を打つモーセ
1960年~1966年 十戒の石版を授かるモーセ
1960年~1966年 アブラハムと3人の天使
1960年~1966年 イサクの犠牲
1960年~1966年 天使と戦うヤコブ
1960年~1966年 ヤコブの夢
1961年~1966年 ノアの箱舟
1961年~1966年 ノアと虹

1960年 雅歌(がか)Ⅰ
1957年 雅歌(がか)Ⅱ
1960年 雅歌(がか)Ⅲ
1958年 雅歌(がか)Ⅳ
1965年~1966年 雅歌(がか)Ⅴ

My Life(わが生涯)
シャガールの父がニシン商人だと言う事は知っていたが、実際、重い樽を運んだりの雑用係で「ガレー船の奴隷」のような仕事をしていたらしい。
敬虔なユダヤ教徒(ハシディスト)の家庭で、しかも貧乏子たくさん?  シャガールは9人兄弟の長男だった。
父は朝は集会所で誰かが亡くなれば祈り、雑用して帰ってきていたらしい。
​貧しいのに真面目なユダヤ教徒の父。その頃の彼は父を軽蔑していた。​

​シャガール35歳、 モスクワ時代(1921 年~1922 年)に著した回想録「My Life(わが生涯)」の中でそれは語られており、父のようになりたく無い一身で芸術家を志したそうだ。
※ 妻ベラの訳でフランス語版「Ma vie​
(わが生涯) 1931年、 ​刊行。

My Life(わが生涯) の表紙​


むろん努力だけで結果が出る世界ではない。
​​ 非凡な才能は初期の絵画からもうかがえるので、成るべくして成功を手にした画家なのだろう。

​ところで、話を父に戻すと、 画家は後年、一転して父に敬意を示している。
何きかけかは解らなかったが ​彼の絵画に登場してくる魚は「漁師だった」と言う所から父のアイコンとなった。


​NYの​​​ピエール・マティス ギャラリー(Pierre Matisse Gallery)​
ヒトラーが嫌った退廃的芸術はアメリカでは近代美術・モダンアート(modern art)として人気急上昇していた。
そこには画商ピエール・マティスの努力があったのだ。

フランスの画家 アンリ・マティス(Henri Matisse)(1869年~1954年)の次男、ピエール・マティス(Pierre Matisse) (1900年~1989年)
彼は1924年にアメリカに移住し、1931年にはニューヨークに自分の画廊ピエール・マティス ギャラリー(Pierre Matisse Gallery)を経営していた。
※ 住所 Fuller Building at 41 East 57th Street in New York City

星 ピエール・マティスは欧州の芸術をアメリカに紹介、普及。
それに啓発された ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)(1912年~1956年)など多くのアメリカ人アーティスト達が誕生している。
ピエール・マティス ギャラリーは、 1930年~1940年代のニューヨーク美術界に多大な影響を与えたギャラリーだった ​。​

星欧州では、戦争と言う中断があった事もあるが、モダンアート(modern art)、そして次代の現代アート(Contemporary Art)を牽引して行くのはアメリカとなった。


1941年6月~1948年(アメリカ亡命時代に シャガールを後援した画商​)​​
そんなピエール・マティス ギャラリーがアメリカに身寄りの無いシャガールをバックアップしてくれていた。
彼は 1910年から1941年にかけニューヨークやシカゴでのシャガールの個展のマネジメント もしてくれていた。
もしかしたら ナチスがシャガールの絵を「退廃的アート」として排除しようとしていた。と言う所を逆に使って宣伝したかもしれない。

※ 退廃芸術については以下に書いてます。
リンク ​ ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection) ​​
​​
だから アメリカ亡命時代に、シャガールの知名度も評価もあがった?
モダニスト(modernist)の名称が付き「20世紀芸術の最重要人物の一人」とまで評価された
のかもしれない。
※ 1947年にはパリに一時帰国。
※ 1948 年にフランスに帰国する前に、ニューヨーク近代美術館 (MoMA) とシカゴ美術館の両方で回顧展を開催。


​ダグ・ハマーショルドとNY 国連事務局ビルのステンドグラス ​​​
1964年  P eace Window (平和の窓)

United Nations Visitors Services New Yorkのサイトから UN Photo

ニューヨークの国連事務局ビル(United Nations Secretariat Building)に設置されている
シャガール作ステンドグラス「 Peace Window (平和の窓)
縦12ft(366cm)、横15ft(458cm)

部分

シャガールらしさと言える動物がたくさん描かれている。

ステンドグラスと言っても、ガラスに絵を描いて焼き付けると言うエナメル絵付けによるものだ。
ティファニーがガラスそのものにこだわったステンドグラスとは「一線を画す」。
実はこうしたガラスに色を焼き付けるステンドグラスが近代の主流になったのはガラス職人がいなくなった。と言うのも背景にある。
※ 昔は鉱物をまぜてガラスそれぞれの色出しをしていたから手間もお金もかかった。

どうも絵付けのステンドグラスは
私的には「単調でつまらない。」 ​​
絵の具が一緒だからガラスからの光はどの作品もほぼ一緒。ステンドグラスとして見ると言うより絵そのものを見るだけ。
色ガラスなら同じものは造れ無いから全て微妙に違う。
初期のステンドグラスは絵柄と言うよりは、そのガラスの偏光により天国のような光の世界を演出していたのだ。

星ニューヨークの国連事務局ビル(United Nations Secretariat Building)の ステンドグラス「 Peace Window (平和の窓) 」は 1961年に飛行機事故で亡くなった第二代国連事務総長のダグ・ハマーショルドと 彼と共に事故にあった15人の人々を偲んで制作されている。
1964年に国連の職員とマルク・シャガール本人が寄贈したもの。
※ 絵図の内容は国連が求める平和と愛の象徴が描き込まれたもの。
​​


​ダグ・ハマーショルド(Dag Hammarskjöld)(1905年~1961年) ​​
​スウェーデンの政治家、外交官。第2代国際連合事務総長(任期:1953年4月~1961年9月)。
在任中に事故? で逝去。
ハマーショルドは、「国連は人類を天国に連れて行くためではなく、地獄から救うために作られた」と語っている。

在任中で特に顕著な功績を挙げたのはスエズ戦争。
1956年には第一次国際連合緊急軍(UNEF)を組織し、イスラエルとアラブ諸国の調停に尽力。


​​ダグ・ハマーショルドの死​
​ベルギーから独立を果たしたコンゴ共和国は、激化する内乱(コンゴ動乱)の沈静化のため国際連合に援助を求めた為、ハマーショルドは4度に渡りコンゴを訪問。
1961年9月17日夜、そのコンゴ動乱の停戦調停に赴く途上、国連チャーター機ダグラス DC-6B(機体記号SE-BDY)が墜落 。​
現職の事務総長の事故死に撃墜説や暗殺説が浮上していたが、当時は解らなかったらしい。
2017年10月に公表された調査報告書では外部からの攻撃や脅威が原因による暗殺の可能性が示唆された 。​
​1961年にノーベル平和賞がハマーショルドに授与されている。(生前に決っていた)。


シャガールはステンドグラスを贈るにあたり、手書きの献辞を添えている。
「国家憲章の諸制度と原則は、国家と社会を守るための重要な役割を果たす。その目的と原則に奉仕し命を捧げたダグ・ハマーショルドと、全ての人たちへ。」
​​​※ 超訳です。
多くの同胞を第二次世界大戦で失っているだけにシャガールが世界平和に掛けた思いが伝わる。


星国際連盟(League of Nations)(LON)(1919年~1946年)は第二次世界大戦を防ぐことができなかった。特に ​ナチス・ドイツによる第二次大戦下でのユダヤ人の大量虐殺を止める事もできなかった。​
その反省を踏まえ、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国などの連合国(the united nations)が中心となって新たに ​1945年10月、国際連合(United Nations)(UN)を設立。​
※ 51ヵ国加盟。
活動の目的は、国際平和と安全の維持(安全保障)であり、また、経済・社会・文化など国際協力の実現。


最愛の妻ベラ(Bella)の死
1944年、9月。シャガールが28歳で結婚し、28年連れ添った最愛の妻を失った。
※ 結婚生活(1915年~1944年)

ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld) (1895年~1944年)​は1944年9月2日、 戦時下のアメリカで病気で亡くなった。
※ viral infection(ウイルス感染)なのか? bacterial infection(細菌感染)なのか?
流行り病と言うが、どちらか確定できなかった。

アメリカと言えど戦時下に薬が不足し、満足な治療さえ受けることができなかったらしい。
​シャガールは深く悲しみ 秋から冬の間ずっと喪に服し、絵筆はとらなかった。
​​ 翌年の春、悲しみから立ち上がるべく最初に取り組んだ 仕事は、ベラが残していた手記を出版する事。
これらには、ユダヤの習慣、家族の愛、故郷への思い。最初の出会いなどが書かれていたらしい。

Brenendike likht (The Burning Lights)1945年発行。
Di ershte bagegenish (The First Encounter)1947年発行。
いずれも、ベラがイディッシュ語(Yiddish)語)で書いていた草稿にシャガールが絵を付けたもの。

また、この時、シャガールは古い描きかけのキャンバスを2たつに切って、左側に「The Wedding Lights(ウェディング ライト)」を描いた。
​​
​​​ 1945年 The Wedding Lights(ウェディング ライト)
Private collection

ベラの手記をイメージしたもの? 故郷ヴィテブスク(Witebsk)でのベラの回想?
ユダヤ人がまだ穏やかに暮らしていた時代の思い出だろう。それを共有していたシャガールが彼なりにイメージして描いた作品と思われる。 戦後作品ではあるが、穏やかな故郷の情景 が描かれている。
象徴のアイコンを散りばめたシャガールらしい絵 である。

Artpedia(アートペディア)の「ベラ・ローゼンフェルド・シャガール」から写真をお借りしました。​​

左から娘イーダ、シャガール、ベラ

娘のイーダは1916年に誕生。イーダの年齢からも1920年以降のモスクワ時代の写真と思われる。
ベラは20代半ば?
バックには1915年制作の「Birthday(誕生日)」のキャンパスが置かれている。
シャガールが描いているのはベラであるがリストにこの絵は見当たらない。
そもそもモスクワ時代の作品はほぼ不明。
​Part1で紹介しているが、 一家は故郷ヴィテブスク(Witebsk)から逃れるように脱出して1920年にモスクワへ移動 。そして1922年、リトアニアへ移り、その後ベルリンを経由して1923年にパリへ戻っている。​
​​​​​​​​​​​​​​​​​​ロシア圏からの脱出に一時的にモスクワ移住し、リトアニア経由で西欧圏に国境越えしたものと思われる。


消された恋人ヴァージニア・ハガード
1944年9月に最愛の妻ベラを失ったシャガールであるが・・・。
ベラを生涯愛していたと思っている人も多々いるかと思うが・・。

Part1では、1952年、65歳でシャガールはヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年) ​と再婚したとも紹介してはいるが・・。しょんぼり

実はシャガールはいつまでもメソメソはしていなかった? 
いや、 一時は確かにショックで絵も描けなかったらしいが、翌年そんな彼の元にヴァージニアという若い女性が家政婦として派遣された。
ヴァージニア・ハガード(Virginia Haggard)(1915年~2006年)

​ヴァージニア・ハガードは元駐米英国領事の娘と言うのでかなりの品格も備えていたのではないか? と思われるが、彼女はすでに人妻であったらしい。
シャガールは58歳、ヴァージニアは30歳。

ヴァージニア・ハガードは娘イーダとほぼ同学年。
若い ヴァージニアの魅力にシャガールはすぐに恋に落ちる。​
やがて 恋愛関係になった彼女とシャガールは7年の生活を共にする事になる。

星 つまり、 1945年~1952年。ちょうど二人の妻の間をつなぐようにヴァージニアがいたのである。​

実は ​シャガールのキャリアの全盛期と言うのがヴァージニアといた期間に重なっている。​
​作品や展示会、また出版に関しても最も成功を収めている時期で、シャガールにとって浮き浮きが仕事にプラスになっていたのは確かだ。​

そういう意味では ​、ヴァージニアは功労者とも言える存在。なのにヴァージニア・ハガードの名が歴史から消えている。(・_・?) ハテ?​

しかも、二人の間には息子もいた。
​付き合いだして翌年、 1946年には息子ダヴィッドが誕生 する。が、息子にシャガールの姓はついていない。​
​ダヴィッド・マクニール(David McNeill)(1946年~​

「McNeill」はヴァージニア・ハガードの夫の名前らしい。
ヴァージニアは後に夫と離婚するが、シャガールとは結婚せず? ダヴィドはほぼ私生児状態? だったようだ。
※ ダヴィドは自らもアルバムを出しているが、シャンソン歌手のイヴ・モンタンなどに曲を提供する作詞・作曲家となっている。

星7年後に2人に破局が訪れる。
1952年、ヴァージニアはシャガールの元を離れベルギーの写真家の所に行ってしまった そうだ。
育児放棄し、浮気はするし・・彼女は非常に奔放な女性だったと伝えられる。(そもそも若いからね。)
※ どこまでが真実かは不明。これは一方的な評価なので。

この時、なぜか?
ヴァージニアはシャガールの絵18点をもらい。時々売りながら(2点は自分用)生活? 2006年亡くなるまでベルギーで暮らしている。その後のシャガールとの接触は一切無いらしい。
​ヴァージニアが出て行ったのにシャガールの絵を手切れ金のようにもらっている所が非常に気になります。​ぽっ

シャガールは?  と言えば、 振られたシャガール当人はショックで落ち込む日々 。​
そんな時?    ​娘イーダからヴァランティーヌ・ブロツキーを紹介され、すぐに再婚(2番目の妻)している。​
ヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年) ​

シャガール史から消されたヴァージニア・ハガードは後に自分で回顧録を書いている。
ここにもしかして?
ヴァージニア・ハガード VS. ヴァランティーヌ・ブロツキーの抗争が見え隠れする。


​ヴァヴァがしかけた広報戦略​
再婚した時、シャガールは65歳。
ほぼ切れる事なく、シャガールの人生には女性が寄り添っていた事になる。
生涯ベラ(最初の妻)を愛していた?  愛の画家?  本当に?

星実は、 「生涯ベラを愛し抜いた愛の画家」のキャッチはヴァランティーヌ・ブロツキーがしかけたシャガールのイメージ戦略だったらしい のだ。
※ ヴァランティーヌ・ブロツキー(ヴァヴァ)は元々キャリア・ウーマンだった女性。

「生涯最初の妻だけを愛していた。愛の画家が描く愛が広がる絵。」売れるよね。ぽっ
その為には自分も影に徹したのかもしれない。
特に シャガールの売り方の戦略にシャガール作品初期の「空飛ぶ恋人」イメージを植え付ける事に奔走したと言われる。
その為には ヴァージニア・ハガードの存在はあってはならない シャガールの履歴から消去する必要があった

そう言う事実を見ると、18点の作品をヴァージニアに渡して、シャガールとの一切の縁を切らせたのはヴァヴァだったのではないか? と言う気もする。
息子も父との縁を切られたのかもしれない。

イメージ戦略とは言うが、 もしかしたらヴァヴァが、ヴァージニア・ハガードに嫉妬していたからでは?
​と言う気もするよね。ぽっ


象徴としてのアイコン(icon)
アイコン(icon)は、最近スマホなどで利用されているアプリの絵柄と思われるかもしれないが、実はもともと(正教会系)聖像図のイコンから発した言葉らしい。それには「象徴(symbol)」の意味もある。

例えば、 キリスト教では、それだけで聖人を表現するアイテム(アイコン)がある。
「十字架」がイエス・キリストを象徴するのは周知の事実であるが・・。
聖母マリアの象徴は短剣で突き刺された「ハート(心臓)」。また受胎告知の時に使われた「ユリの花」など複数ある。
度々紹介してるのが12使徒のペテロを象徴する「鍵(かぎ)」。
天国の番人に選ばれたペテロはキリストからその門の鍵を預ったとされている。
それ故、鍵のみでペテロが示される。
ペテロ(Petrus)・・鍵(かぎ)

また4人の福音書記者(Evangelistae)にもそれぞれ象徴のアイテムがあり紹介している。​​​​​​
マルコ(Marcam)・・獅子(しし)
マタイ(Mattheum)・・天使(てんし)
ルカ(Lucam)・・雄牛(おうし)
ヨハネ(Iohannem)・・鷲(わし)

※ 表記はラテン語にしてあります。キリスト教の聖人名はラテン語読みが一般。
※ 以前「サグラダ・ファミリア 5 (天井と福音書記者の柱)」の中、「福音書記者(Evangelist)とキリスト教の正典」で少し触れています。
リンク ​ サグラダ・ファミリア 5 (天井と福音書記者の柱)

キリスト教における象徴の解説本も出ています。
象徴を幾つも持つ聖人もいれば逆に一つのアイコンが複数の意味を持つ場合もあるのです。

ユダヤ教の場合もまた同じ。
例えば、 旧約聖書、創世記のオリーブの枝は洪水後の最初の植物であり、それは平和の象徴を意味する

その象徴が何を意味するか? どう解釈するのか?  
聖書の研究にはそんな解釈問題もあります。

星後年のシャガールの絵画は ​彼の周りにあった記憶や登場人物を象徴(symbol)とする物をアイコンに置き換えて配置され構成されている。それがファンタジー的な要素を与えているのだと思う。​​
​​​​​​​​​​​​​​
​​ 「魚」 ​​ は父親。
​「時計」​ は流れる時間。
「キリスト」 はユダヤ人の受難とユダヤ人の大戦下での死。
「花嫁」 は娘の結婚から登場し、時に自身の妻(ベラの時もヴァランティーヌの時もある)。
「シャガール自身」 のアイコンはおそらく山羊(やぎ)かと思われる。​
「バイオリンやバイオリン弾き」 のおじさんは祭りなど典礼で欠かせない音楽の担当。故にユダヤのコミョニティーでの典礼がおこなわれている事を示す?
お決まりの 「故郷の街並」 。これは記憶を示しているのでは?
「動物達」 は故郷の・・と言うよりは聖書に登場する動物が主に使われている気がする。


1950年 The Blue Circus(ブルー・サーカス)

左側 所蔵 London, Tate Modern
右側 所蔵 National Marc Chagall Bible Verse Museum
※ シャガール美術館の方のThe Blue Circus(ブルー・サーカス)の制作年は不明。

1950年 The Dance and the Circus(ダンス&サーカス)

左側 所蔵 London, Tate Modern
右側 所蔵 National Marc Chagall Bible Verse Museum
※ シャガール美術館の方のThe Dance and the Circus(ダンス&サーカス)の制作年は不明。​​


聖書の動物 贖罪(しょくざい)の山羊
旧約聖書でしばしば現れる動物は山羊(やぎ)、牛、羊など偶蹄目(ぐうていもく) である。
なぜなら 「蹄(ひづめ)が分かれており」「反すうする」という二つの条件を満たさない動物は清くないとされ、ユダヤ教では神に捧げたり、人が食べたりする事ができないの だ。

蹄(ひずめ)​はあっても先が分かれていなければ絶対にダメなのである。
なぜか? は不明。
だから豚(ぶた)肉は今でも食べないらしい。
そもそも ユダヤ教徒の食事には、食事の内容や食べ方にも戒律に基づく厳格なルールが存在している。​ ​​​​​​​​​​​
​​​​​なんでもOKな我々日本人とは違うのである。

山羊は特に聖書では重要な役がある。
「身代わり」「生贄(いけにえ)」などの意であるスケープゴート(scapegoat)は、まさしく旧約聖書のレビ記「贖罪(しょくざい)の山羊」から由来している。
※ 贖罪の日に人々の代わりに山羊に罪を背負ってもらって荒野に放した。

1947年 Self-Portrait with a Clock. In front of Crucifixion(時計を持つ自画像。 磔刑の前で)

Private Collection

キリストを描きながら、彼は何をに贖罪(しょくざい)しようとしているのか?
絵の中のキリストに寄りそう花嫁は聖母か? 
聖母マリアはしばしばキリストの花嫁の役割も持つ。

​赤い天使​
1923年~1947年 The Falling Angel

Private collection

最初の構想は1923年。それはロシアを脱出してパリに来た年 だ。
当初はユダヤ人と天使の姿だけの予定だったらしい。

もしかしたらパリで契約していた画廊のオーナーであるアンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard)(1866年~1939年)の依頼から始まったのかもしれない。
私の想像では当初は白い天使を予定していたがイメージがわかなかったから保留にした? 

長く温められていた作品と言うのは納得が行くまで加筆していく。と言う場合にあるだろう。
とは言え、Part1で紹介した1934年~1947年「Bouquet with Flying Lovers(空飛ぶ恋人たちの花束)」
は構想から14年。「The Falling Angel」(堕天使)」に至っては構想から25年。ちょと長い。

最も、 シャガールの場合は戦争でしかた無く中断をよぎなくされた期間がある。
​※ パリを離れる時に預けていた作品の戦後の再開。

「Bouquet with Flying Lovers(空飛ぶ恋人たちの花束)」は、亡命時代のベラの死(1944年)を受け、花の静物画はベラを偲ぶような作品に変化した。​​
※ Part1で紹介 
  リンク ​ マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 ​サン・ポール・ド・ヴァンス
​​​​​​​​​
「The Falling Angel」も戦後の再開。
星保留にしている間にパリは不穏な状況になり、欧州でのユダヤ人迫害がものすごい勢いで進んで行った。 今回の戦争は、特にユダヤ人にとっては悲劇。彼もかろうじて生きながらえたが、シャガールにとってはショック以上に人生の事、ユダヤ民族の事を根本から考えざるを得ない状況だったと思われる。

この絵は ユダヤ民族の持つ宗教感(旧約聖書と律法の伝承) に加え、制作過程で生じた 芸術家の多くの経験(戦争、亡命、多くの仲間の死) が詰め込まれ、象徴のもとに組み合わされてできている。
ファンタジーのシャガールで無く、 強い意志とメッセージが込められた逸品になっている。


ところで、中央の目立つ 天使は赤色だ。 それはおそらく当初の天使とは異なる。
タイトルはThe Falling Angel(堕天使)となっているが、中央の赤い天使は、 死の天使(Azrael・アズラエル) と思われる。
​​ヘブライ語では、アズラエルは「神の天使」または「神からの助け」を意味するらしい。その天使は ユダヤ教やイスラム教では死後に死者の魂を運ぶ任務も負っているらしい。

キリスト教の方では聞いた覚えが無いが、イスラム教では、4代天使の1人で、彼は生者の名を記した書物(名簿台帳)を持ち、人が生まれれば記し、死ねばそこから名前を消去する任を追っているとか・・。

ユダヤ教の考えはイスラム教の方が近い。と言うよりはユダヤ教をベースにイスラム教ができたからだ。
まあ、キリスト教も、そもそもはユダヤ教ベースなんだけどね。ぽっ

遠くにキリストの磔刑があるから、ついキリスト教を軸に考えてしまうが、前回紹介した通り 、シャガールはキリストをメシアとして扱ってはいない。あくまで、ユダヤ人キリストの受難と死を示したアイコンなのである。
※ 簡単に言えば、ユダヤ民族の代表としてキリストを前面に出している。


1950年代から増える商業ベースの絵画
​​ マルク・シャガール(Marc Chagall)(1887年~1985年)はまだ亡くなって38年程。
実はまだ著作権内 なのでいにしえの巨匠の名画のように簡単にコピーしたり載せたりはできないのである。

美術館公式ならともかく、Private collection(個人蔵)となると、まさに制限がかかる。
版権を買って大量にリトグラフなどが出回り、それらなら使用できるかもしれないが、原画の方はなかなか難しい。​
※ 撮影OKの美術館で自分で撮影してきた写真ならいいか? と思うが・・。​

下の絵「The Bride(花嫁) 」は、1999 年の映画「Notting Hill(ノッティングヒル)」で取り上げられた作品。2003年にクリスティーズによって100万ドル強で売却され現在Private collectionとなっている作品。

下は英語版のウィキメディアから借りた写真ですが、解像度がものすごく低くおさえられているのは、著作権問題があるからだそうです。
実際、映画「Notting Hill(ノッティングヒル)」の撮影では一時的に精巧なフェイクが造られ、撮影後は破棄する契約だったらしい。

1950年 The Bride(花嫁) or La Marie

Private collection
ウィキメディアの解説ではこの作品はGouache pastel(ガッシュ パステル)となっている。最初からパステルしか無いのか? oil painting(油性)の原画があるのかは不明である。

映画が大ヒットでこの作品は広く知られた為に商業用の複製品はたくさん出回っている。
※ 複製品にもレベルがあります。ただの紙ポスターに価値は無い。限定数の公約されたリトグラフやシルクスクリーンなら多少ある。(製造枚数による)

1950年 Lovers in the Red Sky(赤い空の恋人たち)

所蔵 San Francisco Museum of Modern Art(サンフランシスコ近代美術館)
​​​​​​​ ​​​​年代的に、相手はヴァージニア・ハガード(Virginia Haggard)(1915年~2006年)なのかな? と思った事もあり、載せた。この作品は浮かれたシャガールか? 明らかに相手は若い。
※ 下の街はキューポラが見えるからヴィテブスク(Witebsk)では無いだろう。

まだ、この作品からはシャガールの愛のメッセージが伝わるが、以降、 シャガールのアイコンをファンタジー調に並べただけの商業用と思われる作品が一般市場にあふれてくる。


長く生きた事でシャガールの作品数はたくさんあるが、絵画として意味のある作品(彼のメッセージが伝わる作品)は商業ベースの中にはほぼ無いのでは?
そもそもシャガールの作品リストに商業用作品の原画も無い気がする。

先に、「ヴァヴァがしかけた広報戦略」の中で触れたが、 ヴァヴァの仕掛けたイメージ戦略は、シャガールの絵画を商品として売る事が前提になっている。
画家として名を残す絵なら、イメージなど関係無い。
商業用版画をたくさん売る為の広報戦略だった可能性しか考えられない。

そうなると、絵の方もそれらしい絵しか描かされていなかったのではないか? と想像する。
バックには必ずヴィテブスクの村が入り、必ず花嫁がいる。花嫁は必ず最初の妻ベラと言うことになっている。
一般に、花とか花嫁の絵なら需要はあったはず。

もし、そうであるなら、クリエイティブな仕事をする画家にとって、それを続けるのは辛い。
​​ 実際、 よくわからなくなった時、シャガールはアイコンを並べるだけの時もあった と言っている。
​​
確かに、どうでもよくて、アイコンを適当に置いただけの、何のメッセージも無い作品もたくさん描いたのかもしれない。


​1950年から南フランスに移動​
パリから南仏に移動し、最初にニース(Nice)、それから程近いヴァンス(Vence・鷲の巣村)、最終的には終焉の地となるサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)に居している。
いずれも風光明媚な南仏沿岸コートダジュール (Côte d'Azur)である。

前にも触れたが、ピカソと共に陶芸教室に通ったりしている。
また、1951年には彫刻も始めたらしい。

星この頃はまだヴァージニア・ハガードとは同棲中。
1952年、シャガール60歳。 同年、 ヴァージニア・ハガードはシャガールの元を去って行った。
前述したようにシャガールは娘イーダから紹介されたヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年)とすぐに結婚(1952年~1985年)
再婚の結婚式はパリで挙げた。

1952年~ 1954年 Le ciel embrase(夕焼け空)

Private collection

上の絵と似たような構図の青バージョンが後年「1959年~1960年 Bouquet by the Window(窓辺の花束)」Private collection。で出ている。もはやある程度の構図は使い回し?


1953年~1956年 Portrait of Vava(ヴァヴァの肖像)

Private collection

画像は「Marc Chagall, and his paintings​」で紹介されていた作品から借りています。

90歳代後半まで生きたシャガール(1887年~1985年)のよき伴侶として晩年を共にしたヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年) ​愛称ヴァヴァ。
Part1で二人の墓を紹介している。
リンク ​ マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 ​サン・ポール・ド・ヴァンス

彼女もユダヤ人であったらしい。

結婚後はサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)で隠遁するかのようにヴァヴァと暮らし、彫刻、陶器、ステンドグラス、タペストリーなど活動の幅を広げていた。

1966年、シャガールは17点の連作「聖書のメッセージ」をフランス国家に寄贈。
すでに聖書関連の絵は描き終え、ここで自身の美術館開館を待っていた。


宗教画はライフワーク?
彼を代表する作品は、やはり一連の宗教画 になるのだろう。それは 彼の最後の自身の集大成 であったろうし・・。

1931年、シャガール自身が聖地イスラエルに赴いた。それは最初、旧約聖書の挿絵の依頼が来たからであったが、その時、彼はユダヤ民族の苦難を体現した?
初めて己の宗教(ユダヤ教)について真剣に向き合ったのかもしれない。
実際、シャガールはアメリカ亡命時代に信仰(ユダヤ教)が生活に密着してなくて、不自然さを多々感じていた事を吐露している。

加えて、 第二次大戦下でのユダヤ民族の危機。ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺。 ​​​​
​​​​​​ 歴史的にユダヤ民族は存在自体が否定されて来ていた

星彼は亡くなった同胞の追悼の為にも、自身の民族的ルーツを明らかにしようと考えたとしても不思議ではない。

彼が自身の集大成として、プライベートで一連の宗教画に取り組み始めたと思われる。
実際、シャガールは17点もの大作ををフランス国家に寄贈している。
もともと、依頼された絵ではなかったと言う事だ。
「宗教画なんて売れないからやめて。」なんて、ヴァヴァから言われてたりして・・。ぽっ

​​​​とは言え、宗教画としては少しテイストが違う。旧約聖書なのに独自解釈も入れて、しっかりシャガールしているのは流石である。
シャガールの絵を他のユダヤ人がどう評価したのか私は知りたい。

​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ 1952年~1966年 Exodus(出エジプト記)

Private collection

Exodus(出エジプト記)の制作は1952年~1966年となっているが、この絵は、実はアメリカ亡命の終わりには制作されていたのでは? と思われている。
1931年のパレスチ訪問から己の宗教について考え始めたシャガール。

確かに、 絵の内容から見ると、これは1948年5月14日イスラエル国(State of Israel)の建国に合わせて制作を始めたのでは? と思える。​

Exodus(出エジプト記)
​紀元前(BC)1200年頃、 モーセ(Moyses)がイスラエルの民(ヘブライ人)を連れてエジプトを脱出​​。乳と蜜の流れるカナンの地へと民族を率いる旧約聖書の話
※ モーセの後継者として最終的にはヨシュアがイスラエルの民をカナンに定住させた。​​
※ 実際、年代も、これが実話かどうかも不明。

※ 興味のある方は以下に
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
リンク ​ クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)

モーセは神から契約の書「十戒(じゅっかい・Ten Commandments)」を授かっている。
絵の 右下で十戒の石版を持っているのがシャガール自身ら しい。(本来はモーセ)
そして モーセが率いていたイスラエルの民(ヘブライ人)は、今現在迫害されてきたユダヤ人達で置き換えられている。

星ユダヤ人らはイスラエルへの帰還を望んでいる。
Exodus(出エジプト記)に重ねられた現在のユダヤ民族の話なのである。

中央の磔刑のキリスト図像は本来いらない気もする。が、絵のインパクトは大だしカトリック教徒の目にも止まるけどね・・。ぽっ


ニースのシャガール美術館
正式名は「国立マルク・シャガール聖書の言葉美術館(National Marc Chagall Bible Verse Museum)」

1960年、エラスムス賞受賞。同年、当時のフランス共和国文化大臣でシャガールとも親交のあったアンドレ・マルローはオペラ座の天井画をシャガールに依頼。これは1964年に完成。

1966年、シャガールは17点の連作「聖書のメッセージ」をフランス国家に寄贈 した。
※ それらの絵は以下に紹介しています。

星フランス国家はそれらを飾る為の美術館を建設してくれる事となった。
ニース市が土地を提供するかたちで、1973年のシャガール86歳の誕生日に開館。

この建設には、シャガール自身が設計段階から参画している。
生きている間に立派な自分の美術館が建てられた事は本当にラッキーだ。



エントランス


コンサートホール






大ホール


大ホール

旧約聖書を画題とした12枚の油性画が置かれた大ホール。

​1956年~1958年 人間の創造​

神は最初の人間(アダム)を塵(ちり)から造ったが、シャガールは天使が人を抱えて地上に降ろしたと言う設定にしているらしい。
その背景には、石板を受け取るモーセやヤコブの梯子。そして磔刑のキリストも描かれて居る。
それらひっくるめてユダヤ人の歴史の一部と言う意味か?

​1961年 楽園を追われたアダムとイブ​

イブはヘビにそそのかされて、禁断の木の実を口にした。
神に背いたので2人は楽園から追放され、子々孫々の罰を与えられた。
シャガールは絵の中でアダムとイブに赤い鳥を添えている。それは希望が2人を見捨てていない事を表したらしい。

1960年~1966年 燃える柴の前に立つモーセ

エジプトで王女の養子として育てられていたモーセはある時、燃える柴に気づく。それは神で、神はモーセに苦しんでいるイスラエルの民をエジプトから連れ出すよう促した。

1960年~1966年 岩を打つモーセ

エジプトを脱出したモーセ一行は水不足に悩む。
神の言葉通り、杖で岩を打つと水が湧き出した。

1960年~1966年 十戒の石版を授かるモーセ

エジプトを出て数ヶ月。かつて神の声を聞いた山まで来て、一人山を登る。そこで神が自らの指で書き記した十戒の書かれた石版を受け取った。

1960年~1966年 アブラハムと3人の天使

老いて子供のいなかったアブラハム夫婦に3人の旅人(天使)は子供が生まれる事を預言した。
そして長男イサクが誕生する。

1960年~1966年 イサクの犠牲

神はアブラハムの忠誠を試した。イサクを犠牲として神に捧げるよう言った。
アブラハムは躊躇しながらも神の言う通りに実行。その寸前で神は止めた。
この絵は通常それだけなのだが、シャガールは絵の右上にキリストが十字架背負って歩く姿を描き入れている。

1960年~1966年 天使と戦うヤコブ

イサクの子ヤコブは故郷カナンへの帰途、天使と戦った。天使がヤコブを試したのである。
勝利したヤコブは祝福され、今後イスラエルを名乗るように言われた。
「イスラエル」の名が出たのはここ なのである。
シャガールは左上には花嫁。右上には出産中の女性や人々を描き込んでいる。

1960年~1966年 ヤコブの夢

旅の途上、石を枕に寝たヤコブは立てられた梯子から天使が降りてくる夢を見た。
天使は、あなたが横たわっているこの地をあなたとあなたの子孫に与えよう。と言った。
これが今現在もユダヤ人がイスラエルにこだわる理由です。

1961年~1966年 ノアの箱舟

アダムとイブの子孫は地上に繁栄したが、堕落していたので神が自ら造った人も地上も洪水を起こして滅ぼす事にした。
が、信心深かったノアだけには大きな船を造るように言った。そしてそこに人ではノアの家族(ノアと妻と3人の息子夫婦)と全ての生物の雌雄一対のみを載せるよう言われた。
シャガールはノアの家族だけでなく、多くの人々を箱舟に載せるべく人を描いている。

1961年~1966年 ノアと虹

雨は40日、40夜続き洪水を起こしたので、箱舟に乗っている動物以外は全て死に絶えた。
水が引き始め、地が乾き始めた時にあざやかな虹が現れた。
ノアは虹に重なるように現れている天使を見ている。
シャガールの絵ではたくさん人々が船にのっていたのでその人々が虹を見て歓喜している群像が描かれている。


ソロモンの雅歌(がか)シリーズ写真だけ載せます。しょんぼり
​1960年 雅歌(がか)Ⅰ​


​1957年 雅歌(がか)Ⅱ​


​1960年 雅歌(がか)Ⅲ​


​1958年 雅歌(がか)Ⅳ​


​1965年~1966年 雅歌(がか)Ⅴ​



1977年レジオン・ドヌール勲章を受章。ルーブル美術館で展覧会開催。
1985年3月28日逝去。


​Back number
リンク ​ マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 ​サン・ポール・ド・ヴァンス
リンク ​ マルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガール
    ​マルク・シャガール(Marc Chagall) 3  戦後編「 聖書の言葉」






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Last updated  2025年07月30日 01時33分37秒
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