わたしのこだわりブログ(仮)

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2019年08月29日
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カテゴリ: 歴史の旅
星ラストにBack number追加しました。

​​​ 紀元前(BC)1700年頃 、アブラハム(Abraham)が メソポタミアのウル(Ur)を出て カナン(Canaan) (ヨルダン川西岸。現在のパレスティナ) に移住 。​
※ カナン(Canaan)は、神がアブラハムの子孫に与えると約束した「乳と蜜の流れる場所」と称される土地。この話は旧約聖書の創世記の冒頭に出てくる。
これが現在も紛争が続くパレスチナ問題の発端 なのだが、今回はその事に触れるつもりで紹介したのではない。聖書による歴史では、その後、

紀元前(BC)1200年頃 、モーセ(Moyses)がイスラエルの民(ヘブライ人)とエジプト脱出​ ​。
モーセの後継者としてヨシュアがイスラエルの民をカナンに定住させた。​

紀元前(BC)1000年頃 、ダビデ(David)​ (BC1040年頃~BC961年)(在位:BC1000年~BC961年頃) が古代イスラエル人の第2代王となり、 ​次いでソロモン(Salomon)王​ (BC1011年頃~BC931年)(在位BC971~BC931年) が第3代の王となる。

紀元前(BC)922年 、イスラエル統一王国が南北に分裂​ 。(イスラエル王国とユダ王国)

紀元前(BC)597年 、新バビロニアの王ネブカドネザル2世がユダ王国の首都エルサレムを侵攻​
多数のユダヤ人がバビロニア地方へ捕虜として連行される。 (第一次バビロニア捕囚)
※ BC582年、BC581年と捕囚は計3回行われたらしい。

以上一部紹介したが、これら歴史は聖書の記述にあるもので、キリスト教徒ならみんな知っている事なのであるが、実は年代まで特定はされていない。
この中で正確に年代が特定できるのは実は「紀元前(BC)597年、新バビロニアの王ネブカドネザル2世がユダ王国の首都エルサレム侵攻」だけなのである。
つまり​、確実に史実と特定できるのは​バビロニア捕囚のみ。

実は今回交易の話しで歴史を探っていて不思議に思っていたのだ。旧約に出てくる歴史がどこにもリンクしない。存在さえ出てこない。 古代ユダヤの王国はどこにあったのか? と思うほど歴史に載ってこない。
唯一がバビロニア捕囚 なのである。

モーセ(Moyses)の出エジプトは聖書の中でも非常にポピュラーな話しではあるが、聖書の中で語られているだけで、エジプト史の中にも、オリエント側にも全く記述が無いのだそうだ。
60万人とも推定され人間が逃亡したなら、いくらなんでも大事件であるのに・・。

星 実は聖書に書かれている歴史について、今までほとんど研究も検証もされて来ていないようなのだ
触れるな・・と言う事なのか? 

カナンはパレスチナと言う地理的な要因として交易に欠かせない重要な位置。交易の話しで出てきてもいいはずなのに・・・。ポピュラーな話しだけれど、実際は世界史の中には入らないローカルな話しなのか?​
ぽっ

今回の交易の話しは隊商都市として有名なペトラですが、こちらは自分の写真が無いので写真に関しては古い写真ですが、パレスチナのキリストが布教したガリラヤ湖周辺です。つまり今回は聖書の時代に思いをはせる写真と交易の話しに分かれています。



アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ

旧約聖書に出てくるパレスチナ(Palestine) ハツォル(Hazor)
ガリラヤ湖、ゲネサレト湖畔と使徒ペトロ
海抜の低いガリラヤ湖、ヨルダン川、死海
至福の教会(Church of the Beatitudes)
紅海経由のプトレマイオス・ルート
紅海経由のシナイ半島ルート
​​​​ナバテア(Nabataean)王国 とエル・カズネ(Al Khazneh)​ ​​​​

​​聖書の舞台となっているシナイ半島はBC2世紀頃からナバテア王国が交易の覇権を握っていた。
このシナイ半島は「アジアと欧州を結ぶ交易路」を考える時に最も重要な地理的位置にあるのは明らか。​
​​

黄色の円 ・・ヨルダン西岸(モーセに連れられイスラエルの民が着いたカナン。)
円の下の ピンクの☆ ・・ペトラ(Petra)(ナバテア王国(Nabatean Kingdom)の首都)
上の地図下方の 青の円 ・・紅海とナイル川が最も近いルート(ナイル川のコプトにつながる。)

旧約聖書に出てくるパレスチナ(Palestine) ハツォル(Hazor)
エジプトと小アジアやメソポタミヤを結ぶ道筋パレスチナ(Palestine)、ガリラヤ湖の北にあるハツォル(Hazor)は、旧約聖書に登場する地名。
(現在のテル・ハツォル)その歴史はBC3200年頃からBC9世紀にいたり地層に堆積されている場所。

BC1200年頃モーセの後継者に選ばれたヨシュアが約束の地カナンに民を導くべく進軍し当地を征服 。率いた民はあまりに膨れ上がり、時に地元民を皆殺しにして略奪。率いた民を定住させた。
ヨシュアはさらに北に進軍。その激戦地となったのがハツォル(Hazor)の王との戦いだった そうだ。

その後もハツォル(Hazor)は「士師記」に登場するが、 ソロモン時代には軍事的要所 として要塞が作られている。それは 交易などルート上の要所であったかららしい

ここは、歴史が堆積層になって見える場所。およそ3000年以上の時が積み上がっているのだ。ただの廃墟とみるべきか? 強者どもの夢の跡と思いを馳せるか?

今や要塞には鷹が住み着いている
BC8世紀のオリーブ絞り
ハツォル(Hazor)全景  ウィキメディアからパブリックドメインになっていた写真です。

遺丘群-メギド、ハツォル、ベエル・シェバは旧約聖書に登場する3つの丘。2005年に世界遺産に登録されている。

ガリラヤ湖、ゲネサレト湖畔と使徒ペトロ
山上の垂訓(すいくん)教会こと、至福の教会(Church of the Beatitudes)のある丘からのガリラヤ湖見えるのは漁師シモン・ペトロに「人間をとる漁師になる。」とキリストが誘ったゲネサレ(Gennesaret)方面と手前が カペナウム(Capernaum)

下はおそらくカペナウム(Capernaum)
ローマ軍の駐屯地であったカペナウムはキリスト自身が自分の街であったと述べている地。そこでキリストは病を治すなどの奇跡を見せている。

下はルーベンスが描いた聖ペトロ。プラド美術館所蔵。この写真はウィキメディアから借りてきました。

彼が持っているのは天国の門の鍵。カトリックでは、ペトロを象徴するアイテムの一つです。

シモン・ペトロは兄弟アンデレとこの湖で漁をしていた時にキリストに出会う。そして彼、シモン・ペトロは12使徒の最初の弟子となる。
※ 使徒(apostle)・イエス・キリストの12人の弟子でキリストの説いた教えを伝える使者、あるいは伝道者の事。

因みにシモン・ペトロはローマでネロ帝の迫害下で布教中に逆さ十字架にかけられて殉教。 遺骸が埋められた丘にサン・ピエトロ大聖堂が建立され、彼は初代ローマ教皇となった。
それは彼が天国の鍵をキリストから受け取ったと言う権威にい基づいての事らしい。
※ カトリックとプロテスタント、正教会では解釈は別。

シモン・ペトロは、聖書を知らない者でも聞いた事のある最もポピュラーな使徒の一人ですが、そもそもここがキリストの布教の発祥の地となる場所のようです。

ガリラヤ湖畔の小高い丘でキリストは群衆や弟子らに「幸いなるかな・・」と言ういわゆる幸福の説法を説いていた。それらは後にキリスト教の教義の真髄となる説話で、新約聖書の「マタイによる福音書」や「ルカによる福音書」の中でまとめられている。

この湖で漁をしてたのか? とキリスト教徒なら感慨にふけるのだろう。 ペトロとアンデレが捕っていた魚はこれなのだろうか?

湖は淡水湖。ペトロの名が付けられたセント・ピーター・フィッシュ(St. Peter's fish)がいる。
ティラピア(Tilapia)である。もともとアフリカ、中近東が原産国の淡水魚。


まさにキリストが布教活動していた時代のボート。
ガリラヤ湖の泥沼の中から1986年に発見。(船の博物館にある)

海抜の低いガリラヤ湖、ヨルダン川、死海
ガリラヤ湖(Sea of Galilee)は海と呼ばれるが、ガリラヤ湖の水は地下水とヨルダン川からの水によってできている淡水湖である。
南北に21km、東西13キkmの166㎢。最大深さ43m。

ただ、 ガリラヤ湖は実は海抜マイナス213mの湖 なのである。それは死海に次いで2位。
ご存じ 世界最大の塩湖である死海(Dead Sea)は実は海抜マイナス422 mの地中にもぐった湖 なのである。


ガリラヤ湖の南から排出された水はまたヨルダン川となり死海に注がれる。
つまり ヨルダン川もまたマイナスの海抜を流れる川 と言う事になる。

星 海抜が低い理由はヨルダン川がまさにアフリカ大地溝帯の北端に当たる からのようだ。そして地溝帯の地図を見て驚いたが、シナイ半島自体がアフリカ地溝帯に挟まれてあの形状になっていた事である。
アカバ湾も地溝帯の線上にあるのである。

オマケの死海(Dead Sea)写真ウィンク 因みに 死海には流れ出る川が無いので塩分濃度が上昇。一般の海水が約3%であるのに対して30%もあるそうだ。


ガリラヤ湖の塩分濃度も死海ほどではないがそこそこあるそうだ。つまり完全な淡水湖ではなかったらしい。
そして2016年のニュースによれば近年水量が減り塩分濃度が上昇していたらしい。
塩分濃度が上がれば飲料や農業用水として使えなくなる可能があると書かれていた。
海抜マイナスは塩分濃度と比例するのだろうか? それとも地溝帯との因果関係か?


上下ともクムラン (Qumran) からの死海 (Dead Sea) の撮影です。
下は解像度も悪いし望遠なので微妙ですが・・。

クムラン(Qumran)の写真は次回番外で紹介したいと思います。

至福の教会(Church of the Beatitudes)
ガリラヤへ戻るとイエスはカペナウム (Capernaum)に住み布教を始める。
星カペナウム(Capernaum)はガリラヤ伝道の本拠地になった場所

イエスが教えを説いた丘はのちに「至福の教え( the Beatitudes)」と呼ばれ教会が建立されている。
※ 日本では「山上の垂訓(すいくん)教会」と訳されている。

実際の布教場所は解っていないが、カペナウム近郊だとされている事から1938年に堂はたてられたらしい。キリストが布教をおこなった時代からネオ・ヴィザンツ様式で建立?




さて、やっと交易に入ります。

​前回はアレクサンドロスが開拓したと言っても過言でない紅海経由の海路の誕生について触れたが、BC2世紀頃から紅海のみならす、インド洋航海も進展する。それは季節風・モンスーン(monsoon)の発見があったからだ。

星 アラビア海やインド洋では、毎年6月から9月にかけて南西の風が、10月から5月にかけて北東の季節風が吹く インドからの帰還には冬季北東のこの季節風が利用されていた
これは、中世、オランダ東インド会社でさえこの季節風を利用して航海していたので交易の時期が限定されていたと言う事でもある。

この発見により、エジプトとインドの交易は、仲介者に頼る事無く、直接交易ができるに至っている。
それまでは地域地域の仲介者がいての交易だったからだ。
それは以前も触れたが、アラブ人は、品物がどこからもたらされてくるのかも秘密にしていたからでもあった。​


は、紀元前後の頃の交易ルート図です。(ウィキメディアから借りてきました。)


紅海経由のプトレマイオス・ルート

海のシルクロードを考える時に、紅海経由ルートでは、 エジプト(プトレマイオス領)・ルートと、シナイ半島ルートがある。

プトレマイオス・ルートでは、紅海からナイル川への特に短い陸路で接続され、ナイル川を下りアレクサンドリアに荷は運ばれていた
※ アレクサンドリア(Alexandria) はBC332年にアレクサンドロス王が建設した街であり、プトレマイオス朝の首都である。当時人口100万人を超えたとも言われる大都市であった。

ナイル川への主な接続港はミオス ホルモス(Myos Hormos)やベレニケ(Berenice)があり、ミオス ホルモスからはコプトス(koptos)を5日くらいでつないだらしい
※ 1818年、 ベレニケには巨大な要塞があった事が発見され、大きな貯水槽も発見されている。2012年に発掘が再開されてから像の骨も発見され、戦争、あるいは荷を運ぶ為に東アフリカ(エリトリア)や中東アフリカからゾウを輸入していた事が解明されている。

また、先にも紹介したが、 後々プトレマイオス朝とインドは仲介者無しの交易の直接提携をしてインドからの輸入も増えている し、ギリシャやイタリア、南アラビア、インド、マレー半島、エチオピア、東アフリカ方面と交易していた事がわかっている。

因みに、 プトレマイオス朝の繁栄を示す一つがアレクサンドリア(Alexandria)にある古代史上最大規模の図書館 である。
※ 建設されたのはプトレマイオス1世の時代BC300年頃。エジプト特産のパピルス紙に書かれた巻物によって他では真似のできない数を誇っていたのだ。

また図書だけでなく、学術研究所ムセイオン(Museum)も併設。アルキメデスやエウクレイデスらが研究と発表を重ねた場ともされている。
※ 2010年1月に「パピルス紙と最古の図書館」でアレクサンドリアの図書館少し触れていました。
リンク ​ パピルス紙と最古の図書館

紅海経由のシナイ半島ルート
海のルートが開拓される前からアラビア半島では南部から陸路をキャラバンで運んでいた歴史がある。
それは、紀元前後のアラビア半島では独占的商売となっていたらしい。

敢えて当初、 彼らは港に荷を運ばせずに、陸路輸送で独占
後に海路も始まり紅海経由でアカバ湾に沿い王の道から隊商都市 ペトラ(Petra)を経由してガザ(Gaza)から地中海、あるいはダマスクス(Damascus)を経由して地中海やパルミラ(Palmyra)などシルクロードの道につながっていた ようだ。
写真はラクダのキャラバンの参考写真です。

キャラバンの話しに戻ると、アラブ系の彼ら遊牧民はテントコミュニティをアラビア、メソポタミア、レバントの主要な中心地に持っていて、BC1900年頃にはすでにアラビア、ハガリ、メソポタミア、エドム(死海南からアカバ湾に至る地域)を結びラクダのキャラバンで交易に従事していたとされる。
想像するに、 元締めがいた、所謂キャラバン・ネットワークだったのではないかと思う。

因みにラクダのキャラバンには先導の馬が付いていたらしい。彼らは早くから馬も導入していたと言う事だ。そして彼らのキャラバン輸送は、ほぼ独占的商売であったらしい。


「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン」のところ「最初のオリエント・ルート開拓者ベドウィン(badawī)」で触れた彼らアラム人と同一の民族かは解明はされていない。
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン

彼らの王国はまさにシナイ半島を含んで東に位置している。
エジプトのプトレマイオス朝の領土以外の欧州とアジア圏を結ぶルートを独占していたようだ
そして
それは聖書の中でエドム人の土地と呼ばれた場所含んでをいる。

​​
先に紹介した図にあるが、主要なアラビア貿易ルートは2つ。
1.中央アラビア砂漠ルート
・・アラビア南部(イエメン)からアラビア半島を経由して死海南からアカバ湾に至る地域に移動。
   商品は北にダマスカス、西にエジプトに運ばれた。
2.東アラビア砂漠ルート。
・・アラビア南部(オマーン)から東海岸に沿いジャーリー人商人の船でメソポタミアの港に移動。
  ここから商品はバビロンに向かいシルクロードに入る。その後ダマスカスを通り地中海の港に。​​

ナバテア(Nabataean)王国とエル・カズネ(Al Khazneh)​
彼ら ナバテア人(Nabataean)はアレクサンドロス以降のヘレニズム文化の中で富を築いた。

遊牧民の彼らはラクダのキャラバンに特化してアラビア半島を縦断する交易網を持ってい​たし、南アラビアで手に入れた乳香をボートで北のLeuce Comeの港まで運搬するという海路も持っていた。


Leuce Comeから商品は陸路、キャラバンでアカバ湾のAilaに移動。
その後、王の道をたどり死海とアカバ湾の間にある自然の要塞とも言える渓谷にキャラバン隊の中継基地ペトラ(Petra)を建設。

そこはかつてのエドム人の土地。 ナバテア人(Nabataean)の繁栄の印がこのペトラの街(遺跡群)である。

下の写真はウィキメディアの「Petra First Glimpse」から借りてきたものです。

シーク(al-Siq)から臨むエル・カズネ(Al Khazneh)​

下はナバテア(Nabataean)王国の位置を示した図です。(ウィキメディアから借りてきました。)
1989年の映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」ラスト舞台となった聖杯が安置されていた遺跡がヨルダンに実在するペトラ遺跡のエル・カズネ( Al Khazneh )である。


下の写真はウィキメディアから借りてきた「Al Khazneh Petra」の写真です。幅 30 m、高さ 43 m
未だ全容は解らないペトラ遺跡群ですが、特にペトラを代表する遺跡がエル・カズネ(The Treasury)です。(中には入れません。)

建設されたのはBC1世紀末~BC2世紀頃のナバテア人の全盛期頃。おそらく他の交易都市と
張り合うように立派なものが造られたと推察
されています。

2000年以上の風化にさらされていますが、まさにヘレニズムの産物。古代ギリシャの神殿のような意匠で造られているのがわかります。惜しいのは、彫刻のデザインが少しでも解ればもっと特定できたのに・・。

下の写真は共同通信のニュースから借りてきました。 ところで、ペトラがすごいのは、治水システムがあった事である。
実はシーク(al-Siq)のせいで鉄砲水による被害も大きいこの渓谷で、ダムを造り、水害を排除。水道を引いて飲料の確保をしていたらしいのだ。

​ペトラ自体は 1985年12月6日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録されている 。​

下の写真は、エド・ディル(Ad Deir)英語の訳では修道院(The Monastery)らしい。 幅50m、高さ約45m

現在、ペトラでは神殿や競技場など54もの遺跡が発見されているらしい。
一見荒野の岩山群の中にこんなに大きな規模の古代都市があったとはかなり驚きである。

​​星 BC64年~BC63年頃、ナバテア人は古代ローマ帝国の支配下に入る
ナバテア人の王族は、交易の利権をローマに譲り、自分ら貴族はローマの市民権を得たと言う
だからナバテア(Nabataean)王国は歴史の表から消えて行くのであるが、彼らの敷いた交易ルートも物資も、そのまま古代ローマ帝国が引き継いだのである。​​


つつぐ
次回「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 5」に行く前に読んでほしいかも・・。
リンク ​ クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 5 ソグド人の交易路(Silk Road)​

Back number
リンク ​ 静物画にみるメッセージ
リンク ​ 焼物史​ ​土器から青磁まで
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)
リンク ​ マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)
リンク ​ コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)
リンク ​ 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
リンク 
アジアと欧州を結ぶ交易路​ 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 16 イザベラ女王とコロンブス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 15 大航海時代の道を開いたポルトガル
リンク ​ 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊
リンク  ​ 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa​​)
リンク ​
アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
リンク  ​ ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 9 帝政ローマの交易
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 8 市民権とローマ帝国の制海権
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 5 ソグド人の交易路(Silk Road)​
リンク  ​ クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞) ​​
    アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 3 海のシルクロード
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン








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Last updated  2024年09月09日 02時32分19秒
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