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撮影した写真はカメラ3台で多い日は3000枚を越えた。見るだけで眠くなる ( u _ u ) クゥゥゥ。o◯
さて、今回は最終地 ミラノ(Milano)から「最後の晩餐」があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会からの紹介です。
昨今「最後の晩餐」の絵画は事前に予約をしないと観覧する事はかないません。
一回に観覧できる人数は20人から30人ほど。従って1日の入場者がものすごく限られ15分単位の日時予約までしないと入れなくなっているのです。
予約は3ヶ月前に始まります。(教会のほうの見学は予約はいらない。)
電話ではほとんど無理なので、たいていはインターネット予約になります。
それも行きたい希望日を見ても時間がポツポツしか空いていないので、その中のどこか・・で予約を入れるとなると、ツアーで時間制限のある方々は非常に厳しくなるわけです。
(当日券はほとんど出ないし、チケットの転売はできないシステム)
自分で予約するのが基本ですが(個人情報をたくさん入力する必要があるので)高いお金で旅行社が代行するサービスもあるようです。
今回は教会から紹介。予約の仕方、ラストに、リンク先を入れました。![]()
ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会((Chiesa di Santa Maria delle Grazie)
聖ドミニコとドミニコ会
修道会が増えた訳
教会建設史
地下鉄1号線のConciliazione駅から歩いて5分くらい?
出口が指定できないが、ここに関しては珍しく地上に出てから教会方面への標識があったような気がする。
左のベージュの建物がダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵画を見る為のチケット事務窓口。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会((Chiesa di Santa Maria delle Grazie)入り口
教会を見学するのに予約はいらないが、この教会はシェスタがある。
平日 7:00~12:00 15:00~19:15
休日 7:30~12:30 15:30~20:45
時間外は鍵をかけられ入場は不可能。
教会ホームページ(最後の晩餐の事務局とは別です)
http://s2ew.domenicani.glauco.it/domenicanimilano/s2magazine/index1.jsp?idPagina=64

実 は
。
ドミニコ会と言えば律修司祭(Canon)ドミンゴ・デ・グスマン・ガルセス(Domingo de Guzmán Garcés)こと、聖ドミニコ(abl.Dominico)が創始した非常に清貧を重んじた修道会で有名です。
聖ドミニコとドミニコ修道会の設立
聖ドミニコ(abl.Dominico)(1170年~1221年
)
ドミニコ会・・
正式名はラテン語でOrdo fratrum Praedicatorum(説教者修道会)
使徒的で福音的なキリスト教の原点に立ち返った信仰が特徴
である。
創設は1216年
。
大きな柱は、キリストの使徒に立ち返り福音を宣教して回る事。
昼夜どこにいようとも勉学にいそしみ、知識を心と精神に蓄え、それによって熱意ある説教が行える。
全ての財産を放棄し衣服は簡素、靴を履いてはいけない。食べ物を持ってはいけない。
日常の暮らしは日々の善意と施しによってなる清貧生活。托鉢をしてまわる事から「托鉢の修道会」とも
呼ばれたそうだ。
聖ドミニコの修道会の心意気は素晴らしい。しかしドミニコ修道会が有名になった理由はもう一つある。
右の16角形の円部が聖堂
この教会は ミラノにおけるルネッサンス様式の代表とも言える建築
である。
最初の建造は1466年~1490年 ソラーリの設計で完成した後、その2年後にルネッサンスの建築の巨匠ブラマンテが後陣と僧院廻廊を付け足している
。
クリストフォロ・ソラーリ(Cristoforo Solari) (1460年~1527年)
ドナト・ブラマンテ(Donato Bramante)(1444年頃~1514年)
ソラーリは当時一流の建築家ではあったらしいが、保守的で、当時流行していたルネッサンス様式を意識しているものの、基本的にはロマネスク様式に近い建築だったようだ。(それは教会内部を見ると解る。)
1943年、第二次世界大戦の時にこの修道院内に2トンの爆弾が投下。
不幸中の幸いにブラマンテの後陣とダ・ヴンチの「最後の晩餐」の壁画は残った。
教会の修復は1945年より始まり、1991年間まで行われている。
(ダ・ヴンチの「最後の晩餐」の修復は1977年~1999年。)
聖堂部のクーポラはソラーリの作と思われる。
教会裏手
ブラマンテが付け足した後陣と僧院の廻廊は僧院を囲む壁の一部になっている。
修道会が増えた訳
10世紀~11世紀にフランス南部、イタリア北部などで カタリ派と呼ばれる特殊な神学思想を持ち禁欲生活をする集団
が現れたそうだ。
それをカトリック教会は異端だと凶弾。聖ドミニコは彼らをカトリックに改宗させる為に布教を始めた
。
カタリ派をもうならせる清貧な使途的姿と福音の布教の姿は、実はカタリ派のスタイルから来ていたのである。ドミニコはカタリ派から多くの者を改宗させて評価されている。
因みに、この頃、同じ教皇からフランシスコ会、カルメル会なども認可を受けて誕生している。
カタリ派だけにとどまらず、一般大衆の使徒的な活動は異端に走る可能性が高く、高名な修道士が説教して回らなければならない時代背景があった
そうだ。
ブラマンテの僧院廻廊

教会建設史
1459年カタルーニャよりドミニコ会はミラノに招かれて布教にやってきた
。
その時彼らを世話したのがミラノ公国の軍司令官ガスパル・ヴィメルカーティ伯爵で、彼は最初の後援者になった。
1463年、ドミニコ会と司教区、それにミラノ公国君主フランチェスコ・スフォルツァに承認された土地に新たに教会を建てる事になる。
この時フィレンツェのコズィモ・メディチの助言により修道院から建設する事になったそうだ。それは後々の事情や寄付で設計が変わる可能性が絶対あるからだそうだ。
1465年、教会は信徒や修道士の希望で「聖ドミニコ教会」から現在の名称である「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会」に変更
される。
1472年教会の基礎工事が終了。この時にはすでにスフォルツァ公もヴィメルカーティ伯爵も亡き人になっていた。(ヴィメルカーティ伯爵の遺骸はもちろんこの教会に葬られている。)
1490年、ソラーリの手がけた教会は完成する。
1492年、起工式が行われているまさにその時にダ・ヴィンチは僧院の食堂の壁に画を描いていたそうだ。
1494年、ミラノ公国の君主になったルドヴィコ・イル・モーロは教会の壮美に力を入れた。
彼がブラマンテを呼んだのだ
。
ブラマンテはソラーリが完成したばかりの後陣を取り壊し、現在のような後陣を完成。
実はこの 後陣はスフォルツァ家の霊廟として加えられたものらしい
。(現在はクワイヤとして利用)
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会は美し教会となり、多数の貴族が永遠の住まいを手に入れるべく礼拝所の場所取りを争いしたと言う。
しかし、その後ここは皮肉な場所に変わる。
1558年、聖エウストルジョ教会に組織のあった異端審問所をこのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に移したのだ
。
学者の多かったドミニコ会は異端審問の審査官に任命される事が多かったからだと言う。
それから2世紀、ここは悪魔にの行為にも似た異端審問の恐怖の場所になっていたのである。
それ故、彼らは「主の犬(Domini canis)」とも呼ばれたと言う。
異端審問は、オーストリア女帝マリア・テレジアが廃止令を出すまで続いたそうだ
![]()
ダ・ヴンチの「最後の晩餐」を見る為に向かう回廊の中庭。(実はガラス張りで庭には出られない。)
たぶんここが死者の中庭・・と呼ばれる場所
食堂はこの背中にあたる場所にある。
次回、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 内部
リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)
リンク ミラノ(Milano) 3 (ミラノ大聖堂 1)
リンク ミラノ(Milano) 4 (ミラノ大聖堂 2 屋上テラス)
リンク ミラノ(Milano) 5 (ミラノ大聖堂 3 外壁の装飾)
リンク ミラノ(Milano) 6 (ミラノ大聖堂 4 聖堂身廊から)
リンク ミラノ(Milano) 7 (ミラノ大聖堂 5 聖カルロ)
リンク ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)
リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)
リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)
リンク 修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復
リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-1 (会員登録と仮予約)
リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-2 (仮予約と支払い)
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