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イギリス人はしたたか高尾慶子著 展望社 1999年自称(そしてきっと事実)ワーキングクラスである著者だが、職場が上流階級だったというギャップが面白い。そして私はそのどちらも深くは知らない。世の中は、いや、ロンドンは広い。この著者の国際感覚、堅実さには共感するものがあるし、目の付け所が面白いネタも少なくない。しかし、ときどき見受けられる自己矛盾や偽善がはからずしも筆者の限界を露呈している。不特定多数の人に対して文章を書くというのはある意味、とても恐ろしいことだと思う。まるで自分を丸裸にされるような、いや、裸にされるくらいならきっとまだいい方だろう。虫歯だらけの口の中や皮下脂肪の厚さまで晒されるようなものではないだろうか。しかし、多少なりとも歯や体型に覚えのある人はいい機会と捕らえるかもしれない。たとえその結果、歯垢や内臓脂肪がついていて、自分が思っていたほど自分は素晴しくないことがわかったとしても。一度気がつくと、気になって仕方がないという、自分の狭心さが出てきてしまう。書けば書くほど、私の中の「他人にきびしく自分に甘い」ところが出てくるので、この辺で止めておこう。そう、私たちは所詮、同じ穴の狢なのだ。
2007/04/26
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米原万里著 新潮文庫 2006年第16刷、初版1998年。オリジナル1994年学生時代から通訳の真似事をする機会が多かったが、渡英してそのチャンスはもっと増えた。母語である日本語から、外国語である英語へ、もちろんその逆も。最初は覚束なかったが、今では書いてあるものを口頭で訳したり、逐次訳、同時通訳もどきもするようになった。実際にお金をいただいて逐次通訳を務めることもある。最初の方に通訳と翻訳の違いについて詳しく説明してあるが、やはり私は翻訳者ではなく、通訳者向きだと思った。願わくば、もう少し頭の回転が速いとプロとしてやっていこうという気にもなるのだが、それでも昔から思っている通り、通訳になるより、通訳を使う側になりたい。この本は単なる「へ~」という言葉の次に「似たような経験してるわ」と思うことがたくさんあった。米原さんはロシア語通訳だが、だからこそ下手な英語通訳への批判は耳が痛い。というのも最近、私はここに書かれている「手抜き訳」を発見したばかりだったのだ。まるで悪巧みがバレた子供のように「やっぱり楽して世の中渡って行けないものなのね」と、バツの悪い思いをした。あとがきに「シモネタ好き」と言っていたが、独特の語学センスと頭のいい人特有のオチで、イヤらしい話というよりは、どちらかというと民俗学のサンプルを聞いているようだ。著者近影やネットで見つけたちょっとたれ目だけどとてもゴージャスな彼女とのギャップがとても面白いし、エリツィン元大統領とのやり取りもさもありなん、と思う。常日頃、外国語を使う人も、使わない人も、いや、使わない人こそ読んで欲しいというか読むべき一冊。
2007/04/23
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イギリス人はおかしい ~日本人ハウスキーパーが見た階級社会の素顔~高尾慶子著 文芸春秋社 1998年リドリー・スコットと言えば、多くの人が「エイリアン」にはじまり「ブラック・レイン」や「テルマ&ルイーズ」、最近では「グラディエーター」というだろうが、私にとっては「レジェンド」に始まり「G.Iジェーン」や、最近では「トリスタンとイゾルデ」であり、そして何はともあれ「ブラックホークダウン」なのだ。もしかしたら「ブラックホークダウン」はこの本が書かれた頃に撮影していたのかもしれない。その「ブラックホークダウン」のオマケ映像にあった監督はとてもチャーミングで、だけどとてもイギリス人で、本の中でもその二面性が描かれているが、その両方がとても鮮やかにダブる。イギリス好きも、映画ファンも楽しめる一冊。
2007/04/22
Motorcycle Diaries(2003)アマゾン川をいかだでベネズエラまでは下れないと思うんだけど、他の移動手段は割愛ってことかな?途中、イカニモ女好きのアルベルトだけではなく、硬派に描かれているはずのエルネストでさえ、うわあ!ラテン系!!と思わせるシーンが盛りだくさん。これが「南米のストイック」ってことなのかしらね。スペイン語圏ばかりを選んで旅していたのかもしれないけど、それにしても言葉が通じるって便利だろうな。それとは相反しているけど、同時に南米は広いとも感じた。国境を越える時に感じたという二つの感情、今度、陸路で国境を越える時に思い出すだろう。
2007/04/21
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今日はこのブログ本来の目的だった読書感想文。タイトル:司祭ジミー・マクガバーン著、実川元子訳 徳間書店 1996年第一刷ISBN4-19-860479-7映画のノベライズ本。だからなのか、訳者が上手いのか、日本語が美しい。まるで文学作品を読んでいるようだった。内容はとても深い。最初は反感を感じていたマシュー神父に対して、次第に親しみを覚え、最後は自分と似たような性格だということがわかり、まるで自分の分身のように思ってしまったほど。グレッグが主人公だからとか、映画で演じた俳優がカッコいいからというわけ(だけ)ではなく、彼が同性愛者であることと司祭であることは相反しないと私は思う。カトリック教会は中世から子をなす司祭がいたし(チェーザレ・ボルチアの父、ロドリーゴはローマ教皇アレクサンデル6世だ!)、教会が今よりもはるかに強大な力を持っていたルネサンス時代に活躍したミケランジェロやダ・ビンチも同性愛者だったといわれている。私が知らないだけで、同性愛者であった司祭は1970年以降に始めて現れたものではないはずだ。チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷 塩野七生著なぜ、主人公のグレッグはそんなに悩むのだろうか?それほどまでに司祭に対するプレッシャーは強いのか?それとも単に彼が真面目すぎるのか?教師に聖人、人格者であることを求めるのが的外れなように、司祭にそこまで求めるのは酷ではないだろうか?もちろん司祭や教師を一緒くたにまとめて貶めているのでは決してない。私は職業を尊敬しているのではなく、その人間性を敬っているのだし、その人がその職業に就いていなければ、私との接点がなかったかもしれないということも承知している。職業としての司祭や教師を選んだ人が人格者でなくてもがっかりしないし、驚かない。しかし、人を導く立場にある人が人格者であれば、そしてそういう人と巡り逢えたら、ありがたいことだとその出会いに感謝すればいい。それだけのことではないだろうか?
2007/04/12
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