1
183・189系 H81編成:団体列車「長野行き 懐かしのあずさ号の旅」平成25年6月22日、大宮総合車両センターH81編成を使用した団体列車「長野行き 懐かしのあずさ号の旅」が運転されました。設定は「長野行き」となっていますが、「あずさ」は松本行きか大糸線乗り入れ運用が定番であるため、行程が長野までとなっていることから、あらかじめ「断り」を入れているように思います。H81編成は、平成25年3月のダイヤ改正前まで田町区所属となっていましたが、田町区の解消により大宮総合車両センターの配置(常駐)になっています。このため、今回の団体列車運転にあたり、我が地元を回送ながらも特急色の「あずさ」が走ることとなったわけです。そもそも、この手の団体列車で8両編成が使用されることは稀であり、同編成がこのようなリバイバル列車に起用されるのも大変珍しいことと思います。平成25年6月22日 H81編成 回9550M 「長野行き 懐かしのあずさ号の旅」写真は、始発となる新宿駅までの送り込み回送となります。元田町区の車両には「あずさ」のヘッドマークが常備されていませんので、ステッカーによる表示となっています。オリジナル色時代はすべての車両に特急マークがありましたので、やはり違和感がありますが、これは止むを得ないでしょう。このH81編成はこの6月一杯で運用を外れる可能性が高いということで、最後のななむけ仕業となったようです。
2024.06.22
閲覧総数 80
2
八高線:キハ35系・キハ20系現在は、高麗川を境にして八王子方面が電化されてしまった八高線。旅客需要の少ない高崎方面は非電化のまま残っていますが、車両はキハ110系に統一されています。そんな八高線も、平成8年3月までは全線が非電化で、キハ30系が我が物顔で走っていました。昭和61年2月4日3両編成。キハ35+キハ35+キハ30です。昭和61年2月4日これもほぼ同じ場所で撮った写真だったと思いますが、当時は撮影区間を記録していなかったので、どの辺りか判りません。手前からキハ35+キハ30+キハ35900番台+キハ30ですね。900番台は好きな形式でしたが、なかなか先頭に立っている写真を撮ることが出来ませんでした。銀色時代に走行写真を撮りたかったんですけどね。昭和52年くらいから塗装化が始まってしまったようです。昭和61年10月9日 東飯能~高麗川間にて現在は電化区間となってしまった区間です。正面からの写真なので形式は判りませんが、手前はキハ30のようです。3両目はベンチレーターが押し込み形になっているので、寒冷地仕様の500番台であることが判ります。この500番台、まともに撮れた写真が無いようです。もっとも、当時はそのような形態差を知らなかったと思います。DD51を撮りに行っただけであり、キハ30系はあくまでもついででしかありませんでした。昭和63年12月6日 高崎線 倉賀野~新町間にて民営化後、高崎線への乗り入れ区間で、もちろん架線下を行く気動車となります。「オリエント急行」を撮影に行った際についでで撮影したもので、特に気にせずアルバムに貼ってあった写真なんですが、良く見たら2両目はキハ20でしたね。全然気が付いていませんでした。この時代は全国的にも北海道を除きキハ20系は絶滅状態にあったと思いますので、まさか首都圏に現役でいるとは思っていませんでした。三脚に据え付けていたので後追いを撮っていなかったのが悔やまれます。平成6年4月30日 丹荘駅にて平成6年4月30日 竹沢駅にて八高線の高麗川駅以南の電化開業及び高麗川駅以北のCTC自動閉塞化により、非電化区間におけるタブレットが廃止になることになりました。また、同時にキハ30系の撤退も発表されたため、それまでDD51牽引の貨物列車を撮影するついでにくらいしか撮ったことのないキハ30系の写真を撮りに出掛けました。以下は組み写真です。平成6年4月30日、明覚駅で定点で撮影したものです。まずは上り列車(画面右側)が到着して退避。そこへ下り列車(画面左側)が到着します。対向の先頭車は500番台ですね。上り列車から受け取ったタブレット(通票)を下り列車にもって行きます。上り列車からタブレットを受け取った下り列車はさっさと出発していなくなっています。そして、下り列車から受け取ったタブレットが、上り列車運転士へ手渡されます。タブレットを受け取った上り列車がやっと発車していきました。今となってはこんな非合理的な方法も、正面衝突を防止する画期的な列車防護方式でした。平成6年5月29日 越生~明覚間にて 4連で、先頭のキハ35は押し込み型ベンチレーターを装備した500番台となっています。八高線にD51が走った日。この場所の奥で線路内にジジィが乱入。大変な騒ぎとなり、永らくイベント列車の運転が無くなりました。当時はまだ電化の話など無く、相模線や八高線、房総ローカルなど、まだまだキハ35系の活躍の場があり、また、西日本のローカル線でも当たり前に使用されていた形式でした。全く珍しいと言う感覚がなく、あくまでもついででしか撮っていませんでした。もう少し形式写真も撮っておけば良かったと思います。
2022.09.18
閲覧総数 1836
3
岩手開発鉄道:キハ202・キハ301岩手開発鉄道は、盛駅を起点とする全長11.5kmの路線で、現在は貨物専用鉄道となっています。平成4年3月31日までは、旅客輸送も行っていました。同鉄道は私にとって全くなじみの無い地域・路線だったのですが、旅客営業の廃止とあわせて、当時でも貴重な車輌に着目し、北上線経由となった20系「おが」と併せて撮影に行って参りました。全く土地勘の無い場所ですし、旅客列車の本数も少ないため、撮影には多大な時間を要しました。しかし、ここまで来て帰ってしまうのは勿体無かったので、昼寝で時間を潰しつつ、夕方の1本を待ちました。※撮影は、全て平成3年9月22日です。盛駅留置線にて キハ202昭和43年に新潟鐵工所で製造されたオリジナルの気動車。全長12m。盛駅留置線にて キハ301夕張鉄道から昭和50年に譲り受けた車両。国鉄キハ07に似た車体を持つ大型車。既に休車状態となっており、運用から離脱していましたが、旅客営業廃止にあたり、最後は運用に復帰しました。長安寺~猪川にて貨物列車のダイヤが分らず、さらに旅客列車の本数も極端に少ないので、長時間かけた割には殆ど撮影することができませんでした。出来れば、キハ301が走行しているところを撮りたかった。
2024.06.21
閲覧総数 86
4
183系・189系:快速「ホリデー快速河口湖」新宿からをメインに、大宮、さらに過去に至っては小山から富士急行電鉄の河口湖へ乗り入れ運転を行っていた「ホリデー快速河口湖」ですが、富士山の世界遺産登録をきっかけに、「ホリデー快速富士山」と改名されることになりました。首都圏では183系・189系の動向が注目された年でありますが、「ホリデー快速富士山」では、引き続き新宿発には豊田車が使用されることになりました。また、大宮発に関しては、OM100代編成が運用から外れるようで、幕張車の183系が運用されるようになりました。平成18年10月22日 富士急行電鉄 河口湖駅にてオリジナルバスコレを購入するためにわざわざ河口湖駅まで出張ったときに撮影したもの。当時は専用の愛称幕がなく、味気の無い「快速」を掲出していました。編成番号は覚えていませんが、向かって左は大宮行きのチタ車、右側は新宿行きの当時の三鷹車ではなかったかと記憶しています。平成20年9月6日 八王子駅にて 「ホリデー快速河口湖1号」この頃になると183系・189系の配置自体も変化があり、これに合わせてのことか、「ホリデー快速河口湖」の愛称幕が整備されました。ただし、これは豊田車のみでした。平成20年10月11日 鳥沢~猿橋間にて 「ホリデー快速河口湖1号」唯一、駅以外での撮影となってしまった1枚。ただし、雨でロケーションも台無しに・・・。平成20年10月11日 相模湖駅にて 「ホリデー快速河口湖1号」同日、帰り道で「ホリデー快速やまなし」の乗車待ちの際に撮影したもの。この「ももずきん」、良いのか悪いのか・・・。平成21年5月3日 北朝霞駅にて H61 「ホリデー快速河口湖3号」大宮発の「ホリデー快速河口湖3号」で、東武東上線の写真を撮っての帰り、偶然に遭遇しました。このときは田町車のH61編成で運用されており、最後まで専用幕が用意されることはありませんでした。最初の1枚目にあるチタ車、河口湖からの帰りはこの列車に乗って帰ってきたため、この手の列車としては異例の完乗を果たした列車となりました。当時、名称が変わる「ホリデー快速富士山」も専用幕が用意されるのか、注目されました。
2022.10.20
閲覧総数 393
5
DD51ディーゼル機関車:佐倉機関区編DD51と言えば、SL引退後における主要非電化幹線の重責を担うディーゼル機関車として活躍しておりましたが、総武本線では、全線が電化された後も長らく残され、殊に貨物列車や臨時客車列車の牽引にあっては。電気機関車の方がむしろ珍しかったような印象があります。今回は、あまり撮影枚数がないのですが、総武線関係のDD51をご紹介いたします。昭和55年頃 佐倉駅にて DD51691ほか重連単機昭和56年9月 成田駅?にて DD51898ほか重連とDE10573房総の貨物列車と言えば、鹿島関係と成田のジェット燃料輸送、そして、東京湾岸の石油関係が主たるところでしたが、国鉄時代は電気機関車の入線が殆どなく、全線電化後も専らDD51やDE10が牽引に当たっていました。詳しくは知りませんが、非電化時代から続く組合関係が大きく作用していたのではないかと個人的に思っています。房総関係の写真撮影は大体が錦糸町だったのですが、高校生になって大回り乗車を何回かしたときに、東金線から総武本線を通って成田線に抜けるルートを使用したことがありました。せいぜい3回くらいだったと思いますけど。この2枚の写真もその接続待ちの間に撮影したと思われます。昭和56年12月 平井駅にて DD51625牽引 小名木川行 コンテナ貨物現在もレール運搬専用路線みたいに残る総武本線越中島支線ですが、かつては途中の小名木川駅で比較的規模の大きいコンテナ扱いが行われていました。近くに江東区立の体育館があり、高校時代は友人の名を借りてバレーボールの練習に通ったものです。その体育館の直ぐ手前に小名木川駅があり、時折この駅前に掛かる古~い小名木川の橋梁をコンテナ貨物が渡っていくところに出くわしました。ただ、当時はあまり貨物列車に興味は無く、まして全国的にどこにでもいるようなDD51とか、個性の無いコンテナ列車なんてどうでも良かったんです。だから、この路線の貨物列車の写真なんて1枚も撮った記憶はありませんでした。しかし、時は流れて貨物の大合理化が始まり、小名木川駅もいつの間にか廃止され、もちろん、この支線にコンテナ列車もDD51型も走ることはなくなってしまいました。鉄道遺産にもなりそうな古い橋梁と、コンテナを牽いてゆっくりと橋を渡るDD51。あのシーンを撮っていなかったこと・・・悔やんでも悔やみきれません。そんな中、平井駅で撮った小名木川貨物の列車写真が出てきました。妙にコントラストが強くて怪しい仕上がりになってしまいましたが、紛れも無く総武線平井駅にて撮影した小名木川行きの貨物列車です。
2023.11.29
閲覧総数 326
6
国鉄 キハ22:札幌駅にて北海道における標準型気動車と言えばキハ22。それ以前にもキハ12やキハ21といった車両もありましたが、いずれも大量増備がされることは無く、デッキ付き二重窓と極寒地向け機能を確立した気動車がキハ22でした。過去ログでローカル線など各地のキハ22をご紹介してまいりましたが、路線区別が出来ない1枚の写真があります。昭和56年3月 札幌駅にて2度目の渡道で撮影したキハ22型2連の列車。まだ高架化など想像も出来なかった頃の札幌駅です。当時の2連気動車を使用した列車を考えると、函館本線山線、札沼線、夕張線への直通などが考えられますが、サボも無く、ちょっと判断できません。内地ではほとんど見ることが出来なくなった気動車標準色ですが、北海道ではまだ各地で見ることが出来ました。キハ22222過去ログ『国鉄 天北線:キハ22・キハ40』でキハ2222のゾロ目をご紹介したことがありますが、こちらは更に上を行く2×5の壮観な車番です。残念ながら、どこで撮った何線のものだったか記録が無いのですが、同車は札幌圏から夕張線などで使用されていたようです。こうした車番を撮る時も、サボと一緒に撮るべきでしたね。
2024.01.21
閲覧総数 377
7
485系 貫通型・非貫通型:特急「やまばと」「やまばと」は、上野~山形間を結んでいた特急列車です。登場当初はキハ82系が使用され、上野~会津若松間を結ぶ編成を併結していました、電化の進捗とともに会津編成は独立して特急「あいづ」となり、上野~山形間が「やまばと」として存続しています。電化後、しばらくは仙台運転所持ちの485系が使用されており、クロ481を含む12連でしたが、昭和50年頃からクロ481の撤退が始まり、サロの組み込みとともに貫通型や非貫通型が使用されるようになっています。また、一部には青森運転所持ちの編成も運用に入っています。また、53・10改正からは「つばさ」とともに運用が秋田運転所持ちとなり、すべて1000番代による運用となりました。昭和51年頃 上野駅にて クハ481-300番台53・10改正以前の字幕時代です。上野駅15・16番線で並ぶ「やまびこ」と「やまばと」。上野駅黄金時代と言える頃ですね。昼頃から夕方までは、上野発と着の列車が各ホームで交錯し、どこのホームに行っても特急列車が停まっているような状況でした。仙台車のため、連結器カバーが無いのが特徴です。昭和52年 宇都宮駅にて宇都宮駅を通過中の非貫通型「やまばと」。連結器カバーがありますので、青森車の運用のようです。昭和52年1月 大宮駅にて貫通型の「やまばと」です。こちらも連結器カバーが付いていますで青森車と思われます。新幹線高架橋のない大宮駅は、今では想像できないほどスッキリしています。昭和53年9月 蕨駅にて イラストマークが使用されている貫通型の「やまばと」です。53・10ダイヤ改正からは「やまばと」の運用が全面的に秋田運転所へ移管となり、一方、ヘッドマークのイラスト化も同時であったため、本来「やまばと」のイラストマークは1000番台車にしか存在しない筈です。しかし、改正1ヶ月くらい前にはヘッドマーク交換の準備が始まっていたため、わずかな期間ではありましたが、200番台貫通型の「やまばと」にイラストマーク掲示列車が存在しました。画像は悪いですが、そんな貴重な1コマです。昭和56年頃 蕨~西川口間にて53・10改正以降の写真です。秋田運転所持ちとなり、1000番台のみの変化のない編成になってしまいました。それでも食堂車を含む12連は、今から見れば堂々とした特急列車らしい編成です。秋田持ちの485系は、初めからグリーン車が6号車に組成されていました。昭和56年1月5日 豊原~白坂間にて本数が少なかったこともあり、地方での撮影記録は余りありません。雪景色を行く「やまばと」はこの1枚だけで、私的には貴重な記録です。昭和57年1月4日 東北本線 ???駅にて東北の撮影に行った際、どこかの駅で通過待ちの際に撮影したものですが、どこの駅か全く記憶がありません。パンタが2丁とも上がっていますが、ホームが一部分以外低くなっていますので、交流区間の可能性が高いようです。昭和60年1月5日 東北本線 古河~栗橋間にて 東北新幹線が開業してからも、大宮暫定開業に伴う乗換え不便対応として、上野発の「やまばと」「つばさ」が各1.5往復づつ残されました。東北新幹線の開業直前から食堂車ははずされ、さらに9連へと編成が短縮されています。そして、この写真を撮影してまもなくの昭和60年3月、東北新幹線上野開業時に福島接続の特急はすべて愛称を「つばさ」とされてしまい、長らく奥羽特急コンビで活躍した「やまばと」の愛称は一足先に消滅することとなりました。485系 ボンネット型:特急「やまばと」送料無料◆10-1479 KATO カトー 485系200番台 6両基本セット Nゲージ 鉄道模型(ZN87759)[鉄道模型]トミックス (HO) HO-9078 国鉄 485系特急電車(初期型・クロ481-100)基本セット(4両)[鉄道模型]カトー 【再生産】(Nゲージ) 10-1129 485系後期形 2両増結セット【中古】Nゲージ KATO(カトー) 10-1120 485系初期形「ひばり」7両基本セット 【C】 外スリーブ傷み 1両目:運転席側窓のサッシに塗装乱れ【中古】Nゲージ KATO(カトー) 10-1128 485系300番台 6両基本セット 2012年ロット 【A´】 スリーブ若干傷み
2022.08.13
閲覧総数 1590
8
国鉄 大宮機関区:レンガ庫大宮操車場は、現在のさいたま新都心開発で大幅に縮小され、高崎線~東北線相互の折り返し方向転換や時間調整を行うための停車場のような位置づけになってしまいましたが、かつては大宮駅~与野駅間のすべてを線路で埋め尽くした広大な操車場でした。そして、到着した列車からの開放や、組成後の列車を牽引するため、大宮操車場を起終点とする列車を牽引する機関車の付け替えも行われていました。これら機関車は大宮駅の南西方にあった大宮機関区にて駐留することになっていました。大宮機関区には、大宮操車場のの入れ替えに使用されるディーゼル機関車が配置され、川越線用のキハ30系(配置は高タカ一)も駐留していました。東北・上越新幹線の上野駅延伸工事が始まる前、大宮機関区には検修用のレンガ庫があり、昭和40年代半ばくらいまではSLが大宮操車場の入れ替えや川越線の貨物列車牽引の任に当たっていたらしいです。私も母親の田舎に連れて行ってもらうときはここを通っていたわけですが、残念ながらSLを見た記憶は全くありません。昭和57年7月頃 大宮機関区 レンガ庫とキハ30系構内時計が示すように、朝の8時30分過ぎ。レンガ庫の位置関係がイマイチ記憶に薄いのですが、この写真の目線の高さからして、線路を歩きながら撮影しているようです。殆ど大宮駅に近い場所から300mmの望遠で撮ったような構図です。レンガ機関庫はもちろん気動車関係のエリアにあり、写真でもお判りのとおり、架線設備は全く備えていません。昭和57年7月頃 大宮機関区 レンガ庫大宮操車場への職員輸送として、川越線で到着したキハ30系の列車が、職員を乗せてそのまま操車場構内に乗り入れます。この写真はその車内から撮影したものですね。この写真では、このスパンにおける新幹線工事が未だ始まっていないようですが、昭和59年になるとかなり橋脚が建っている様子が分かりますので、おそらくその時期辺りに取り壊されてしまったのではないかと思われます。煙抜きの付いた独特の形をしたレンガ庫、かつては全国各地の機関区で見ることが出来ましたが、今では残り少なくなってしまったと思います。これは、老朽化というのもそうですが、阪神・淡路大震災の発生から耐震調査が普及し、震度5以上で倒壊する危険のある建物は耐震補強または取り壊しといった工事が実施されたため、鉄筋の入らないレンガ庫は急速に取り壊しが進んでしまったのではないかと思っております。直接の職場ではなかったために、位置関係や出入りの様子の記憶も曖昧なのが残念です。この写真はなんとなく撮ったものだと思いますが、かつての自分の働いていたエリアにあった遺構を記録することが出来て本当に良かったと思っております。
2024.05.17
閲覧総数 168
9
583系:特急「はつかり」その1「はつかり」は、昭和33年10月ダイヤ改正で誕生した東日本初となる特急列車で、上野(東京)~青森間を結びました。誕生当初は、東海道線特急列車の電車化により発生したスハ44系及び10系グリーン車・食堂車を使用した客車列車であり、ブルートレインと同様の塗装をした大変オリジナル色の強いものでした。また、しばらくの間は常磐線経由の設定となっています。昭和35年、国鉄初となる気動車特急キハ81系により無煙化、スピードアップが図られますが、初期故障が多く、遅れが多発したことは有名です。昭和43年、東北本線の全線電化開業により、初めて東北地区に583系が誕生します。583系による運転は9月9日となり、さらに10月のダイヤ改正では東北本線経由に改められます。大きな改正ごとに本数が徐々に増発され、昭和48年のダイヤ改正で初めて「はつかり」にも485系が使用されることとなりました。今回は583系「はつかり」の昭和53年10月改正前の写真をご紹介いたします。昭和51年 上野駅にて昭和52年 上野駅にて昭和52年頃 「はつかり5号」中学生になったばかりくらいなんでご勘弁ください。この頃から上野駅でよく撮影するようになりました。昭和53年10月改正以前は文字マークが使用され、特にこの583系の夜行列車の雰囲気をした緑色の文字が大好きでした。昭和51年頃昭和52年頃昭和52年頃東北地区の583系の運用が増大する中で、これに不足した車輌を西日本から転属で賄うことになり、このとき青森所に転属してきた車輌の中に、クハネ583-29及び-30がありました。型式はクハネ583ですので、特に「変わり者」というものでもないのですが、この2両は暖地向けとして製作された車輌であったため、タイフォンが開放型であったわけです。見慣れない顔つきに、初めて見たときはものすごい違和感を覚えました。転属してきた最初の頃は、前後で-29と-30がペアを組んでいたようですが、後にバラされてしまい、後も確認しないとわからないという、神出鬼没的な車輌でした。おかげで、なかなかバッチリとした写真を撮ることは困難を極めました。いつの間にか標準の開閉式に改造されてしまったようで、1年強の期間くらいしか見ることができなかったように記憶しています。昭和53年10月改正以降についてはいずれまたご紹介したいと思います。
2023.08.10
閲覧総数 491
10
京成電鉄:青電2100形・210形京成電鉄2100形は、制御車の2100形と中間電動車の210形で全く生い立ちが異なります。電動車は戦前、制御車は戦後生まれとその生い立ちがややこしいため、ここでの説明は省略させていただきます。昭和47年から更新工事が行われ、他の3000系列と同じようなオデコ2灯のスタイルとなります。長らく京成電鉄らしい青電塗装を堅持していましたが、昭和55年からファイアーオレンジ化されることになります。以下の写真は、偶然にも撮影していたものと、塗色変更の情報を得て青電を撮るためにわざわざ撮影に行ったときのものです。21072109いずれも昭和54年、京成津田沼~京成幕張間にて撮影したものです。この頃は私鉄にも興味ありませんでしたし、まして通勤型には全然興味が無かったと思います。ただ、何故かこの古臭い青電塗装には興味があったようで、幕張電車区での撮影のついでで撮ったと記憶しています。現在は京成幕張本郷駅ができた辺りではないかと思われます。国鉄千葉駅前駅にて 2102塗装変更の情報を得て撮影に行ったときの写真です。この頃は青電編成のことを良く知らなかったのですが、5編成しかいなかったようですね。出会う回数が少なく、この時もやっと出会ったにもかかわらず、300mmレンズを付けていたために障害物を避けての構図が決まらず、こんな写真しか撮れずにガッカリしたものです。京成津田沼駅 車庫にて 2105帰り掛けの車庫で青電を見つけました。奥には既にファイアーオレンジ化された3100形と思われる車両も停まっていて、3色揃い踏みが記録出来ました。この後、ファイアーオレンジに塗装が変更されたようですが、最後まで残った2102編成は昭和63年のさよなら運転に際し青電塗装に戻されそうで、この列車の運転を以って2100形・210形は全廃となっています。
2023.10.02
閲覧総数 447
11
183系:特急「あやめ」「あやめ」は、昭和50年3月10日、成田線成田以東の全線電化により誕生した特急列車です。それまで、成田線の優等列車は急行「水郷」が気動車で運転されており、特急「あやめ」の誕生とともに電車化(153系・165系)されています。誕生当初から東京~鹿島神宮を結んでおり、4往復の設定となっていました。昭和57年11月のダイヤ改正からは、ペア設定されていた急行「鹿島」が廃止となり、格上げを合わせて1往復が増発、両国発着・新宿発着の列車が発生しています。昭和51年 錦糸町駅にておそらく、私が初めて撮影した特急「あやめ」。ポケットカメラで画像が悪かったため、モノクロ化しています。当初から「さざなみ」「わかしお」と共通の183系9連を使用していました。昭和52年 東京駅にて東京地下ホームにて、「わかしお」(手前)と並ぶ「あやめ」(奥)。当時はまだストロボが高価な機材であったため、地下駅のような暗いところで写真を撮ることは稀でした。一眼レフに変わり、スローシャッターの知識が付いてきた頃だと思います。昭和55年 佐倉駅にて53・10改正後ですので、ヘッドマークがイラスト化されています。本数が少なかったので、あまり写真を撮る機会がなく、たったコレだけでした。元々それほど需要のある線区ではなく、快速列車も走っており、とにかく乗車率の悪い特急列車でした。これは急行「鹿島」や「水郷」も例外ではありません。その後、鹿島線内の普通列車化、編成の短縮、さらには本数の削減と、衰退の一途です。183系1000番台の導入、E257系導入や派生名称の特急列車もあったりしましたが、定期としては平成27年3月ダイヤ改正により廃止となりました。
2024.06.08
閲覧総数 143
12
485系ボンネット型:特急「ひばり」(その2)上野~仙台間を結んでいた特急「ひばり」。その運転本数は、当時の国鉄随一となっていました。仙台運転所所属の12連を基本に、青森運転所の12連も共通運用。さらに、仙台運転所持ちでは12連クロ編成、クロ+サロの13連、青森運転所の583系と、バラエティーに富んでいました。今回は、地元で撮影したボンネット型の写真のうち昭和56年頃の撮影分を(その2)としてご紹介いたします。撮影日不詳 西川口~蕨間にて撮影日不詳 西川口~蕨間にて撮影日不詳 蕨駅にて撮影日不詳 白坂駅にて2月頃 蕨~西川口間にて5月頃 蕨~西川口間にて5月頃 蕨~南浦和間にて翌年の東北新幹線大宮暫定開業を控え、地元での撮影頻度が多くなっていたようです。特にボンネット型が好きだったので、仙台方の写真が多かったように思います。10-1479 485系200番台 6両基本セット(再販)[KATO]【送料無料】《発売済・在庫品》
2022.05.25
閲覧総数 406
13
485系ボンネット型:特急「ひばり」(その3)上野~仙台間を結んでいた特急「ひばり」。その運転本数は、当時の国鉄随一となっていました。仙台運転所所属の12連を基本に、青森運転所の12連も共通運用。さらに、仙台運転所持ちでは12連クロ編成、クロ+サロの13連、青森運転所の583系と、バラエティーに富んでいました。しかし、53・10ダイヤ改正で編成の統一化が図られてしまい、特徴が無くなってしまいました。それでも、最後までグリーン車と食堂車を連結した往年の特急らしい編成で走り続けました。今回は、昭和57年、定期運転終焉までの撮影分です。昭和57年地元です。昭和57年1月4日 白坂~豊原間にて昭和57年1月4日 白坂駅にて白坂駅は追い越しの要所となる駅でしたが、現在は追い越し設備が撤去され、この風情ある駅舎も無くなってしまいました。昭和57年6月22日 貝田~越河間にて東北新幹線大宮暫定開業前日です。昭和57年6月22日 金谷川駅にて駅間を歩きましたが、あまり良いアングルは探せませんでした。昭和57年5月頃 栗橋~古河間にてボンネット型「ひばり」はこれにて完となりますが、クロ481については別編集といたします。10-1479 485系200番台 6両基本セット(再販)[KATO]【送料無料】《発売済・在庫品》
2022.07.14
閲覧総数 402
14
583系:特急「みちのく」常磐線の急行列車として設定されていた「みちのく」は、昭和47年3月15日のダイヤ改正により特急列車に格上げ、晴れて特急「みちのく」となりました。実際には「十和田」の格上げという位置づけになっています。使用車両は、当初から青森運転所の583系が使用されており、常磐線経由としては唯一の青森直通特急です。※登場時の「はつかり」は、東北本線経由になるまで「みちのく」と同一の区間を走行していました。昭和52年頃 上野駅にて文字マーク時代の「みちのく」です。583系独特の夜行列車に似合いそうな蛍光色っぽいヘッドマークが大好きでした。昭和51年頃 上野駅にて昭和51年 上野駅にて クハネ583-29?「みちのく」上野駅20番線に停車中の「みちのく」です。じいさんのカメラを借りて撮ったモノクロ写真で、完全マニュアル露出計なしのカメラでした。この一連の撮影の中でも、こんなにキレイに写っているものは他にありませんでした。そんな奇跡の写真です。空が青々している様子が伝わってくるので、秋頃に撮った写真ではないでしょうか?上野駅でも場所によってはこんなに空が見えたんですね。昭和52年 上野駅にて クハネ583-29?「みちのく」こちらはその翌年、中古の一眼レフを買って間もない頃、雪がギッシリ付いているので、昭和52年の2月頃ではないかと思われます。常磐線内ではそんなに雪が降ることはありませんから、陸奥の国から持ち帰ってきたものでしょう。昭和51年頃から52年くらいにかけて、西日本から転属してきた暖地装備のクハネ583-29・30が青森運転所にやってきました。東北スジでは唯一の開放型タイフォンを持ち、異色の存在でした。実際に走っていたのは1年強くらいだったと思いますが、いつの間にかシャッター式に改造され、区別が出来なくなってしまいました。当時の583系の運用にまんべんなく入っていたと思いますが、時間帯が良かったせいか、1往復しかない割にはこの「みちのく」での目撃例が多かったように思います。昭和55年頃 常磐線 日暮里~三河島間にて 下り「みちのく」「みちのく」も53・10ダイヤ改正でイラストマークに変わってしまいました。何か、オリジナルのヘッドマークでないと、583系が引き立たないようで残念でした。雑誌掲載のための協力ということで、無理矢理走行写真を仕立てたのですが、残念ながらボツになった写真。結構カッコ良く撮れたと思うんですが・・・。昭和56年頃 上野駅にて東北新幹線開業を目前に、上野駅が特急列車で一番賑わっていた頃。私が高校3年生のときで、飯田線・身延線・大糸線の旧型国電にハマっていた頃でもありますが、東北新幹線の開業でほとんどの特急がなくなることは勿論想像がついていましたので、学校へはカメラ持参で通学し、帰りは上野駅で写真を撮るといった生活が日々行われていました。昭和57年10月12日 荒川沖~土浦間にて昭和57年6月に開業した東北新幹線ですが、開業の遅れた上越新幹線のお陰で大規模な改正は57年11月にズレ込むことになり、約半年間長生きすることができた「みちのく」。急行「ときわ」を吸収する形で大増発が予定される「ひたち」の発展を尻目に、1ヵ月後に迫る廃止を目前にして最後の活躍をみせる「みちのく」でした。昭和57年11月14日 常磐線 日立駅にて 最終日上り「みちのく」常磐線経由で孤軍奮闘・活躍してきた583系「みちのく」でしたが、上越新幹線の開業・ダイヤ改正を明日に控え、最終日を迎えることとなりました。私はこの時点では既に国鉄に就職していたのですが、たまたま休みの日だったので、指定券を取って最終の「みちのく」に乗ることにしました。そして、できるだけ北限まで行けるところということで、この日立駅から乗車することになりました。最終日に乗車した時の特急券記念のために硬券発売駅である西川口駅で購入しました。その後の平成キ〇ガイ鉄が出現する前の時代でもあり、最終日最終便でありながらも、空席が目立つような平穏な車内でした。昭和57年11月14日 上野駅にて 下り最終「みちのく」 最後の旅立ち私の乗車した「みちのく」は、途中遅れることも無く無事にその使命を果たし、上野駅に到着。尾久客車区に引き上げていきました。下り「みちのく」は上り「みちのく」の到着後に上野駅を発車しますが、折返しではなく、別の運用となっていました。そして、本当の最終となる下り「みちのく」を見送るため、ホームで待ちました。最終日でもある関係で、鉄道少年たちで大変な事態になっています。しかしそれは、東北特急としては地味ながらも、583系という人気車両でひたすら働き続けてきた彼への心、想いの表れと言えるでしょう。そして、発車のベルが鳴り終わり、遠く先頭車両の方からタイフォンの音が聞こえると、列車は静かに動き出し、永遠の陸奥(みちのく)路へと旅立っていきました。
2023.10.08
閲覧総数 714
15
国鉄 50系客車:スユニ50(山陰本線)国鉄50系に属する郵便・荷物合造客車であるスユニ50。老朽化した旧型合造客車のスユニ60などの置換えを目的とし、昭和53~58年に掛けて80両が製造されました。本州用の0番台と北海道用の500番台があり、0番台は電気暖房対応の2000番台としています。登場時、殆どが地方幹線のローカル運用などに使用されていたため、地元で見ることはまずありませんでした。地方での客車列車の撮影などにも良く出掛けましたが、本線運用では旧型荷物車も現役であり、マニ50やオユなどの使用が多く、合造車であるスユニ50は滅多にお目に掛かることはありませんでした。平成59年2月12日 出雲市駅?にて宿が見つからずに益田駅で駅寝し、始発列車で出雲市駅へ。その際にホームに停車していた上り普通客車列車を撮影したものと記憶しています。早朝の山陰はことのほか寒く、DD51に牽引される旧型客車4両と、最後部に連結されたスユニ50からは蒸気暖房のスチームが立ち上っていました。当時は珍しい光景でもなんでもなかったのですが、東日本では殆どが電気暖房対応となっており、このようなスチームを吐き出す姿をなかなか見ることがありませんので、思わずシャッターを切りました。そのような偶然で記録されたスユニ50形客車で、これ以外には形式的に撮影したものはありません。この約2年後の昭和61年、荷物列車が全廃となったためにこれら荷物客車はお役御免となり、最短ではわずか3年で生涯を終えた車両がいたことになります。KATOから夜行普通列車「山陰」が発売となるようです。9両セットで2.5万円とはかなり高価な設定となっており、鉄道模型のインフレ化が止まりません。個人的にはこの「山陰」にも1.5往復乗車経験があり、そのうちの初めて乗車した時は旧客による編成となっていました。正しくこのセットの編成ですね。乗車経験もあって、趣味的にも欲しいところではあるんですが、高額であること、脳内鉄道では蒸気暖房編成が不要なことから見送ろうと思っています。しかし、今回のラインナップの中でもスユニ50が単品発売になることから、こちらだけは押さえておこうと思っています。5141 スユニ50[KATO]《05月予約》5141 KATO カトー スユニ50 Nゲージ 鉄道模型 【5月予約】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 5141 スユニ50単品だと送料が掛かるので、工夫が必要です。また、セットの中でオハフ45100番台が製品化されるのですが、こちらは電気暖房仕様の2000番台となるため、欲しいラインナップとなっています。ただ、編成単位は不要なので、こちらはASSYで揃えようかと考えています。まだ楽天では予約情報が引っかからないので情報が入ったらご紹介しようと思います。送料無料◆10-1879 KATO カトー 夜行鈍行「山陰」 9両セット Nゲージ 鉄道模型 【5月予約】10-1879 夜行鈍行「山陰」 9両セット[KATO]【送料無料】《05月予約》[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1879 夜行鈍行「山陰」 9両セットスユニ50とセット販売もあるようで、全部揃えたいならこちらがお得なようです。送料無料◆セット販売 10-1879/5141 KATO カトー 夜行鈍行「山陰」 9両セット+スユニ50 Nゲージ 鉄道模型 【5月予約】
2024.01.07
閲覧総数 622
16
キハ30+キハ47+キユニ28:山口線 普通列車)令和になって、KATOからキユニ28及びキユニ28を含む急行列車のセットが発売されることになりました。かつてはマイクロエースからも2両セットが発売されていますが、値段が高くて使い道もなかったので買ったことはありませんでした。しかし、最近になってTOMIXやKATOの気動車も手に入れたので欲しくなってしまい、今回は購入を決めています。キユニ28は28両のうち東日本に居たのが5両(水郡線運用?)のみで、殆どが中京~西日本であったため、遭遇の機会はありませんでした。そんな中で唯一写っていたのが山口線でした。山口線は、山陽本線新山口駅と山陰本線益田駅を結ぶ路線。新山口駅は小郡駅が速達「のぞみ」の停車に当たって改称されたものです。山口線と言えば国鉄が全国に先駆けてSL動態運転を行った路線として有名であり、現在でも継続されています。私も昭和時代に何回も足を運んだものですが、12系客車が改装されてからは足が遠のいてしまいました。撮影は「SLやまぐち」やその前後を走る特急「おき」がメインとなり、本数の少ない普通列車は移動に利用してしまうと、まず撮影するチャンスが無かったように記憶しています。そんな状況の中で、撮影場所を探している最中に、偶然にも撮ることができた普通列車の写真が1枚だけありました。昭和59年2月11日 山口線 篠目~長門峡間にて大宮操車場の阪埠(ハンプ)部が廃止になり、余剰人員と化した私は、同期の職員と山陽山陰方面へと旅に出ました。何と言っても、休暇を何日でも連続で取得できるチャンスなんて、それまでありませんでしたからね。1駅間歩いた割には良いロケーションの場所がなく、仕方なく丘の上で待機することとなったのですが、その時に構図合わせで撮った写真がコレです。編成は、手前からキハ30+キハ30+キハ47+キユニ28(実際は後追いなので、編成順は逆)。当時は当たり前にこんな編成ばかりでしたので、別に撮るほどでもないような列車ですが、今になってしまうとキハ47を除いては絶滅。殊にキユニ28については、旧型の荷物車駆逐のために余剰であったキロ28を土台に改造した郵便・荷物合造車でしたが、僅か数年で鉄道郵便事業、そして荷物輸送自体も全廃となってしまうという憂き目に逢った、悲運の車両でした。当時は移動の際も20系気動車は殆ど乗った記憶が無く、キハ30系が多かったように思います。ロングシート主体の普通列車でありながら、マメに車内販売が回ってきた珍しい路線であったことが非常に印象に残っています。6168 キユニ28 首都圏色[KATO]《06月予約》6168 KATO カトー キユニ28 首都圏色 Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 6168 キユニ28 首都圏色【中古】(非常に良い)マイクロエース Nゲージ 国鉄キニ58首都圏色 2両セット A0720 鉄道模型 ディーゼルカーマイクロエース Nゲージ 国鉄キニ28首都圏色 2両セット A0719 鉄道模型 ディーゼルカー[cb]
2023.02.05
閲覧総数 1044
17
165系(モハ164-500番台):急行「ごてんば」急行「ごてんば」は、東京~御殿場を結ぶ列車として、昭和43年4月に誕生しています。当初は下り4本、上り3本が設定され、その後3往復体制、晩年は2往復となっています。東海道線区間では急行「東海」に併結され、国府津で解結が行われていました。使用車両は165系3連となっていましたが、昭和56年10月改正からは167系が使用されるようになっています。昭和52年 品川駅にて 急行「ごてんば」に使用されたモハ164-500番台妻板部をアップで撮ったものです。この写真を撮った頃はまだ中学生であり、簡易運転台付きの500番台に関する知識は持ち合わせていなかったと思います。偶然品川駅で写真を撮っているときに居合わせた急行「ごてんば」にこの車両を見つけ、非常に違和感があったので写真を撮っていたものと思います。妻板の窓をくり抜くように窓が付いており、雨用にワイパーも設備されています。運転設備は車内の側面にマスコンやブレーキ軸が取り付けられており、使用しないときは壁と同色の金属カバーで覆われ、格納されています。昭和52年 品川駅にて 急行「ごてんば」 モハ164-514モハ164-500番台は全部で14両製作されていますので、写真の514がラストナンバーとなります。標準のモハ164は妻側に便所、内側に客扉が付く構造となっておりますが、この車両だけは便所が客室寄りで客扉が妻板側となっており、クハやグリーン車も含めても例外はこのモハ164-500番台だけとなります。モハ164-500番台誕生の元々の経緯は、山陽スジの急行への増結用として用意されたもの(具体的には「鷲羽」だったと記憶しています。)で、3両の増結に至らないこと(又は有効長の関係か?)から2両増結することとなりましたが、最小単位が3両編成となっていたため、モハ164に簡易運転台を設備して対応したとなっています。当時の山陽急行は平坦区間の関係から殆どの直流急行が153系であるため、最小単位である2両で考えると、165系を使用するしかなかったということだと思います。そんな目的をもって14両も製造されたモハ164-500番台でしたが、新幹線の岡山開業後は山陽急行が大幅に縮小し、増結編成の運転もなくなってしまったことから、クハ165+モハ164-500+クモハ165として組成されて、簡易運転台を持たないモハ164と同じ用途、共通運用で使われるようになってしまいました。せっかく特別な設備を持った異色車種でしたが、ほんのわずかしか目的は達成しておらず、異色ながらも地味な活躍に終ってしまいました。このほかにも167系の「ごてんば」の写真を撮っていますが、ISO1600のフィルムだったため、非常に写りが悪いので割愛しています。偶然ですが、この急行「ごてんば」に関しては、モハ164-500番台の写真だけを撮っていたような状態でした。急行「ごてんば」は、昭和60年3月のダイヤ改正により消滅しています。
2024.05.10
閲覧総数 231
18
伊豆急行電鉄:2100系 リゾート21伊豆急行電鉄2100系は、昭和60年7月に営業を開始した、当時の同社の目玉列車。それまでハワイアンブルーを基調とした100系・1000系を使用していましたが、100系の更新に当たってそれまでの方針を転換、ある意味、今までの常識を覆す普通列車用電車が誕生しました。当然、当時もかなり話題になっていました。伊豆にはそれほど訪れる機会は多くありませんでしたが、何とか撮れた車両もありましたのでご紹介いたします。平成8年10月27日 伊東駅付近にて 4次車バンパーの部分にちゃんと「Resort21EX」と書いてありますし、運転席・展望窓にピラーが無いので、明らかに4次車だと判別できます。現在は、2代目「黒船号」となっておりますので、今となっては誕生時の貴重な姿となります。平成8年10月27日 伊東駅付近にて 3次車バンパーの「Resort21」は同じ表記ですが、位置が微妙に違います。下の車輌は現在のようにスッキリとしたスカートですが、上の車輌はスカートの左右に一対の通風孔があります。晩年の姿は何れもスッキリとしたスカートになっており、スカート周りが改造(取替え?)されてしまったようです。運転台のパネルが運転席と助士席にまたがった一体型であること、戸袋窓が後方の客室窓側に寄っていることから3次車のようです。平成8年10月27日 伊東駅付近にて 1次車全面手すりの数の違い及び最大の特徴となる連結器カバーを擁するのは1次車です。写真ではオリジナル塗装ですが、その後初代「黒船号」となり、平成18年3月をもって廃車となっています。平成20年3月9日 網代駅にて 2次車これは唯一撮っていて2次車のようですね。平成21年5月末をもって引退となっています。バンパー部に「Resort21」の表示が無いのが気になります。平成20年3月9日 伊豆多賀~網代間にて 4次車 2代目黒船電車同日、ラッキーにも黒船電車を見ることができました。平成20年12月20日 熱海駅にて 3次車現存するリゾート21としては最古参になりますが、1・2次車が100系の部品を流用したのに対し、3次車からは完全新製車となっていますので、もうちょっと長持ちが期待できます。平成23年に100系風塗装にリニューアルされてしまい、このオリジナル塗装は消滅してしまいました。伊豆急行電鉄:100系電車
2024.06.02
閲覧総数 140
19
101系:南武線イベント列車「ドラえもん号」昭和55年11月、かわさき市民祭りの実施に合わせて、イベント列車「ドラえもん号」が運転されました。昭和55年11月2日 矢向駅?にて 101系「ドラえもん号」新性能化が完了したばかりの頃の南武線。使用車両も一般車両と共通の101系6両編成が使用されました。かなりのコマ数を撮影したのですが、良い写真がなかったのでスキャンしていません。運転の経緯等は、下の記念入場券に記されていますのでご参考まで。101系:南武線
2022.07.13
閲覧総数 268
20
165系:急行「なすの」「なすの」は、上野~宇都宮・黒磯を結ぶ急行列車です。準急時代は157系が使用されましたが、その後急行に格上げ、165系電車が使用されるようになり、本数も増えていきます。急行「なすの」は、その名のとおり上野→黒磯間がメインな訳ですが、宇都宮行きや、黒磯行きでも宇都宮~黒磯間が普通列車になるものもありました。さらに、455系を使用した「なすの」が上りの1本のみ設定されており、白河発の急行と黒磯発の普通列車が別々に本線を走り、宇都宮で併結されて上野を目指すという大変珍しい形態の運用でした。また、変わったところでは、昭和53年10月の改正くらいまでだったと思いますが、115系を使用した「なすの」「日光」もありました。宇都宮にEF57の写真を撮りに行ったとき、偶然に乗り合わせたことがあり、ガッカリした記憶があります。昭和52年頃 宇都宮駅にて M7513 急行「なすの3号」集約臨の155系と並ぶ急行「なすの3号」。背景には建設中の東北新幹線高架橋脚が写っています。昭和58年10月5日 黒磯駅にて165系を使用した「なすの」で、黒磯駅では2番線又は3番線で折り返しとなります。165系の場合、基本はグリーン車を1両含む7両編成で、運用によって途中宇都宮で増結したり、急行「日光」(7両編成)や「わたらせ」(3両編成)を併結した、10連か14連の編成で運転されていました。私が写真を撮り始めてからはヘッドマークは既に無く、「日光」とも「あかぎ」とも「ゆけむり」とも「草津」とも全く区別の付かない急行列車で、趣味的には非常に面白くありませんでしたので、写真も僅かしか撮っていません。昭和60年3月のダイヤ改正において、急行「なすの」は新特急へと移行され、発展的解消を遂げています。
2022.08.08
閲覧総数 1038
21
453系:急行「もりおか」「もりおか」は、上野~常磐線経由~盛岡を結ぶ急行列車です。東北本線経由では同様に電車急行の「いわて」がありましたが、「もりおか」は「いわて」に比べて常磐線内での停車駅数がかなり多く、夜行列車が設定されていない点でかなり性格が異なるようです。また、車両の受け持ちが勝田電車区となっており、編成も「いわて」とは異なります。昭和57年10月12日 荒川沖~土浦間にて「ときわ」だと思い込んでいたのですが、スキャンした際に列車番号が表示されているのがわかり、ズバリ下り急行「もりおか1号」であることが判明しました。先頭の電動車ユニットは、2両目のM’車の屋根肩ルーバーが小さく、先頭車の雨どいが乗務員ドア上まできていることから、クモハ453+モハ452であることが判ります。この時点では2往復しかなかったと記憶していますので、当たる確率が低い中よく撮ってたなと思います。昭和48年発行、常磐線上り急行「もりおか2号」の急行券・指定席券です。首都圏では比較的珍しいA型券で、閑散期の指定席料金のため地紋がオレンジ色になります。急行料金は200kmまでの200円と、指定席の100円で合計300円となりますが、良く見ますと、号車番号のところの9号車の前に(A)という表示があります。これは、グリーン車を表わす記号であり、等級制からグリーン車と呼び名が変わった後、この頃までは座席指定とグリーン料金(2等乗車券)と言う概念が別であったことから、指定席券以外に「グリーン券」を買って乗車したのです。その後直ぐに「グリーン券」は特急券又は急行券・グリーン券として指定席券と包括されるようになり、「自由席グリーン券」以外は1枚の切符で発売されるようになりました。常磐線から定期の急行列車がなくなって久しいですが、昔は「ひたち」よりも沢山の急行列車が走っていたので、リーズナブルで本数の多い急行列車の利用率は相当高かったものと思われます。
2022.10.14
閲覧総数 2599
22
EF71&ED78牽引 :貨物列車(奥羽本線)過去ログ『EF71&ED78牽引 50系客車:普通列車(国鉄時代)』『EF71牽引:普通列車(JR改軌前)』で奥羽本線を往く客車普通列車をご紹介していますが、今回は同時期に撮影していた貨物列車の写真を集めてみました。昭和55年8月14日 福島駅にて EF713牽引 貨物列車ED71の写真を撮るために福島へ出掛けた際に撮影したもの。初めて北海道へ行く際に急行「津軽3号」を使用したため板谷峠を通過したことはありましたが、夜中の通過のためEF71やED78を実際に見たのはこの回が初めてでした。まだ貨物輸送の大合理化前で、次位のコンテナ車もコキ5500形であることから、一般貨物列車と思われます。バックに写るタンク車も特徴的で非常に気になるのですが、画像が粗くて番号が読み取れず、良く判りません。※番号が?3052までは読み取れ、会社名か製品名?が「〇-〇ライト」のようです。カーボライト?昭和60年6月19日 大沢~板谷間にて 上り貨物列車友人の運転するクルマで遠征した際に撮影したもの。板谷峠としては初訪問です。梅雨時で天気が悪く、さらに遠景からの撮影なのでカマの種類の判別もできません。既に緩急車の連結は省略された専用貨物列車のようで、タキ1900っぽい感じのタンク車を連ねています。※こちらは正体が判明し、貴重な編成と分かりましたので、別記事でご紹介したいと思います。昭和60年6月19日 大沢~板谷間にて EF713+ED78牽引 下り貨物列車こちらも専用貨物のようで、背の小さいコタキを5両の小ぢんまり編成です。とても重連牽引の必要性はなさそうですが・・・昭和60年6月20日 大沢~板谷間にて ED78+EF71牽引 上り貨物列車翌日は少し天気が回復。狙いとは逆向きに下り貨物列車が・・・。貨物大合理化後ですが、編成はその昔の一般貨物列車のようです。黒屋根車としてトラの姿はあれども、黒ワムやワラの姿は既にありません。もしかしたら、工場入場の配給回送かもしれません。平成2年2月18日 赤岩駅にて EF716牽引 下りコンテナ列車平成2年2月18日 赤岩駅にて EF717牽引 下りコンテナ列車板谷峠の4連続スイッチバックが廃止されることとなり、その前にと訪問。この時は、なんと大糸線でシュプール群の撮影をしてからの強行軍となりました。列車での訪問のため時間が自由にならず、赤岩駅にとどまっている間に多数の列車を撮影できました。他の3駅は一面雪景色でしたが、赤岩駅だけは積雪が殆どなし。この赤岩駅ではシェルターがないため、本線を往く列車を効率的に撮影できました。JRになってからコンテナ列車ばかりとなって面白みは無く、以前のような重連運用もなくなってしまったようです。そんな寂しさも束の間、改軌工事により貨物列車も経由することが無くなってしまいました。旧型国電はファンの方のおすすめHPEF71形(1次形)【TOMIX・7151】「鉄道模型 Nゲージ トミックス」【中古】Nゲージ KATO(カトー) 3080-1 ED78 1次形 2022年ロット 【A】KATO 3080-1 ED78 1次形 Nゲージ 電気機関車 カトー 鉄道模型 単品
2023.06.28
閲覧総数 628
23
DD51牽引20系寝台客車:急行「だいせん」急行「だいせん」は、昭和43年10月の改正により誕生した急行列車で、昼行列車と夜行列車が存在しました。大阪から福知山線経由で山陰島根方面を結んでおり、行先は複数が存在しました。昭和53年10月改正より、それまで10系寝台・旧型客車の編成であった夜行列車が20系化されます。夜行の20系化当初は、大阪~出雲市間が急行運転で、普通列車となって大社線退社まで乗り入れていました。他の気動車列車は単行?程度のローカル線であるにもかかわらず、B寝台車のほかにA寝台車を座席改造したナハ21が3両連結(いずれも指定席)を連結した長い編成での運転となっていました。(ただし、大社線内は自由席。)昭和59年2月12日 大社駅にて DD511113牽引 急行「だいせん5号」終点大社駅は、昔から優等列車が乗り入れていたため長い有効長を持っていましたが、さすがにこの20系編成には対応できなかったようで、DD51が機回しされて出雲市方に連結されると、出発信号の確認できる位置まで編成を1両分程度押し込み、所定の位置で折り返し待機するという方法が採られていました。写真は、機回しが済み、所定の位置に後退停止後の折り返し出発待ちの様子です。夜行急行「だいせん」は、昭和61年11月改正から14系寝台+12系化されましたが、この際には編成が5両程度に短くなっています。さらに、平成11年10月からはエーデル車両により気動車化(2両編成)されてしまいました。そして、平成16年10月の改正により、山陰の老舗急行「だいせん」は姿を消すことになりました。
2023.12.05
閲覧総数 621
24
オハネフ12形:夜行急行「狩勝」(旧型客車時代)札幌~釧路間には、古くから『全車指定制』の急行列車が走っていました。変遷のある列車ですが、昭和50年代は急行「狩勝」を名乗っていました。北海道ワイド周遊券と言う北海道フリークには便利な周遊券があり、20日間有効で急行自由席車も乗り放題だったため、「各方面への移動は夜行急行で」というのが当たり前だった時代。しかし、この夜行「狩勝」だけは全車指定のため、指定席券、或いはグリーン券や寝台券とともに急行料金を別途取られてしまうという意味で、大変使いづらい列車でした。私的には移動の必要性に迫られて、「狩勝」時代には1度だけB寝台車に乗ったことがあります。昭和56年3月 札幌駅?にて オハネフ12 急行「狩勝」この写真は記念的に撮ったものではなく、元ナハネ10の改造車でしかも便所明かり窓が改造されていないことが判った為に慌てて撮ったものです。昭和40年代、増大する寝台需要に対応してスハネ30など旧型車によりB寝台車が増備される中、寝台数が他の寝台車と合わないこと、普通車の緩急車を連結しない列車が設定されるようになったことから、中間寝台車であるナハネ10に車掌室や緩急設備を設け、全てのナハネ10が緩急車化されました。その後、冷房設備の需要から冷房化改造され、重量が増してオハネフ12になったわけです。写真を撮った当時、本州では10系寝台車の淘汰が既に進んでおり、10系寝台車そのものが希少になりつつある頃で、それまでグリーンマックスのキットでしか見たことが無い、大型2枚の形態を見たのは初めてで、非常に嬉しかったことは記憶しております。多分、その後もこの形態の寝台車には会ったことはなく、最初で最後だったの思われます。ストロボを焚いてしまったのは、ホームがあまりにも暗かったのと、運転には支障の無い中間だったからと判断したからだと思います。※今だったらこのような状況でももちろん炊かないでしょうけど。急行「狩勝」は、その後14系化されたり、名称が急行「まりも」になり、さらには特急化されて「おおぞら」、また特急「まりも」に愛称が戻ったりと目まぐるしい変遷がありましたが、平成20年夏の臨時運転を最後に廃止されてしまいました。急行寝台列車「狩勝」は、そんな歴史を刻んできた特急「まりも」のルーツともいえる列車なのです。キハ56系:急行「狩勝」
2023.02.18
閲覧総数 825
25
14系座席車:急行「十和田」昭和57年に東北新幹線が暫定開業となり、同年6月及び11月(上越新幹線大宮暫定開業)と2段階でダイヤ改正が実施され、東北方面の輸送体系が大きく変わりましたが、東北新幹線もまだ盛岡までの開業であるため、北海道へは夜行列車から接続する輸送体系が残っていました。20系客車による編成は「津軽」に転用されるとともに、「十和田」は12系による定期列車と14系による季節列車のみとなります。昭和57年11月 上野駅13番線にて EF8021牽引 14系「十和田」長躯青森から到着した「十和田6号」。もちろん牽引機はEF80です。57・11改正直前の「十和田」は、12系の定期、20系の定期、そして14系の季節列車がありました。14系季節列車も、いわゆる学校で言う休み時期は殆ど運転されており、北海道の旅行などでは重宝した列車でした。私も2度目の北海道の帰りにはこの「十和田」で帰ってきた経験があります。発着番線は、上野駅における新幹線工事の影響で、改正ごとにちょくちょく動いていたようですが、末期の頃は13番線だったようです。こちらの写真は、入口やサボ周辺を撮影したものです。新幹線開業直前はこのような写真を撮っていました。昭和57年に撮ったものですが、上の写真と同一日か、確証はありません。というか、撮った記憶すら実はありませんでした。平成元年5月5日 土浦~荒川沖間にて EF81牽引 14系「十和田」新幹線の上野開業である60・3改正では臨時化され、皮肉にも季節列車として長年運用されていた14系座席車による編成が最後まで残りました。臨時急行となった「十和田」は、平成6年12月のダイヤ改正と比較的遅くまで残り、この間に、牽引機は全廃のEF80からEF81へとバトンタッチしています。そんな中、偶然にも撮ってあったEF81牽引の14系「十和田」。「北斗星」の運転開始から1年を過ぎた頃でしたので、既に星ガマになっています。あまりマークすることの無かった常磐線の列車でしたので、EF81が牽引する14系座席車の写真は、僅かこの1枚だけとなってしまいました。旧型客車:急行「十和田4号」(回送)20系寝台客車:急行「十和田」
2024.05.02
閲覧総数 280
26
101系:南武線73系などの旧型国電は、昭和50年代に入ると急速にその姿を消すようになります。もちろん、主要路線である中央快速、中央総武緩行、山手線、京浜東北線などは昭和40年代に新性能化されていますが、周辺路線は昭和55年頃から新性能化が始まっています。南武線では昭和55年くらいから101系化が実施されたと記憶しています。冷房化が急がれている都心の路線を整備するため、103系冷房車が急ピッチで製造されていました。これにより余剰となった中央快速線や中央総武緩行線101系を南武線に投入することなり、そのためにラインカラーがカナリアイエローになったようです。昭和55年11月2日 尻手駅にて 101系混色編成新性能化が完了してからまだ間がない頃だと思います。中央快速線や中央総武緩行線からの転属車で賄っていますので、このような混色編成も良く見られたようです。昭和57年5月 撮影場所不明 101系南武線セミ判(6×4.5判)の試運転のときに撮影したものです。撮影場所は全く覚えていませんが、小田急線の登戸附近で撮影をしていますので、これも登戸附近ではないかと思われます。それにしても、のどかな風景ですね。101系は平成2年くらいまで走っていたようですが、最後に残っていたのは冷房改造車であるため、写真のような非冷房車は早々に姿を消してしまったようです。
2022.06.24
閲覧総数 252
27
昭和52年頃の上野駅 485系「はつかり2号」と急行「いいで・ざおう」の一瞬の並び※本記事は、2010/1/4に投稿したもので、当時の表現になっています。485系貫通型「はつかり2号」と気動車急行「いいで」「ざおう」の並び何気ない日常の上野駅地平ホーム。15番線と16番線です。485系貫通型の「はつかり2号」が16番線に入線し、これから新潟・山形に向けて、15番線から気動車急行「いいで」「ざおう」が発車しようとしているところのようです。時期的には、半袖や上着を脱いでいる人も、厚手のコートを着ている人も居ないので、春休みくらいでしょうか。昭和53年は10月に大きな改正を迎えており、その後の時刻表だと全く辻褄が合わない組み合わせなのですが、昭和53年9月号(大改正の前月)が見つかり、実は驚いてしまったんです。15番線の急行「いいで」「ざおう」の発車が9:10です。16番線に9:30発の青森行「はつかり2号」が入線するのも9:10なのです。つまり、正確にダイヤどおり動いていれば、その時間差は50秒以内しか並ぶことはないと言うわけです。確かに状況を良く観察すると、「いいで」「ざおう」の方には後方監視(上野駅の場合、中央改札から走ってくる人が居るので、出発指示合図を出す助役の他、営業係又は運輸係の職員が後方で補助を行っていた)の駅員と車掌が待機中という様子であり、「はつかり」の方は、ヘッドライトとテールランプが点いた状態なので、今まさに定位置に停車したばかり、という状況であることが判ります。この写真はプリントアウトもしていなかったので、撮ったことすら忘れられていたのですが、ネガを見ていて偶然に見つけ、しかも今日アップする際に、非常にタイトな瞬間を切り取ったものと判明いたしました。まだ中学生でホームを駆けずり回って夢中で写真を撮っていた頃、30年以上の時を経て、まるでついこの間のことのように甦ってきました。10-1129 KATO カトー 485系後期形 2両増結セット Nゲージ 鉄道模型(ZN87760)【7/25限定★ポイントUP×抽選で最大100%Pバック】[鉄道模型]カトー 【再生産】(Nゲージ) 10-1129 485系後期形 2両増結セットKATO Nゲージ 485系200番台 6両基本セット 鉄道模型 10-1479【中古】Nゲージ/KATO(カトー) 10-1531 キハ58系 (非冷房車) 急行「いいで」7両セット 【A´】 ※スリーブ若干傷み[10-1531] キハ58系(非冷房車) 急行「いいで」 7両セット (4949727674087)
2022.07.24
閲覧総数 548
28
キハ58系:急行「いいで」・「ざおう」「いいで」は、上野~新潟を東北本線・磐越西線経由で結ぶ気動車急行列車です。私の母親の実家が福島県で、最寄(といってもかなり遠い)駅が東北本線の須賀川駅。小学生の頃(昭和40年代)は急行列車を多用していたので、架線下を行くDC急行「いいで」・「ざおう」に1回か2回乗ったことがあります。当時の東北本線急行事情と言えば、「まつしま」「あづま」「いわて」といった本線系急行に、「ばんだい」「ざおう」といった枝線系を併結した455系列の急行が一般的で、臨時を除けば電車化・オール冷房化が当たり前でした。しかし、昼行定期急行の中でも2往復、秋田行急行「おが1号」と「いいで」・「ざおう」がDC急行のまま残っていました。キハ58系はグリーン車を除いて非冷房が基本でしたので、同じ急行料金を払う上では、夏場の格差は否めませんでした。昭和52年頃 東北本線 撮影場所不詳 キハ58800番台 急行「いいで」多分、宇都宮にEF57を撮りに行ったとき、途中駅での急行退避の際に追い越してくるディーゼル急行を115系普通列車の窓からカメラを出して撮影したものと思います。昭和52年頃 古河~栗橋間にて キハ28800番代 急行列車こちらの列車は、コマの前後から判断して下り「いいで」「ざおう」のようです。2両目に800番台が連結されていますが、こちらはキハ28のようですね。当時使っていた中古キャノンFTbはシャッター幕の走行ムラを良く起し、出来上がった写真を見て泣かされたことが何度もありました。昭和56年8月頃 赤羽駅にて 赤羽駅に進入する下り「いいで」・「ざおう」。もちろん高架化工事などの発想は微塵も無い頃です。バックに見える土手は京浜東北線。右側にチラッと見えているのは貨物線です。昭和57年1月4日 東北本線 白坂駅にて白坂駅の客扱い線で「やまびこ3号」を退避する下り「いいで」・「ざおう」。急行のため退避停車はしますが、通過扱いでドアは開きません。編成が長過ぎて、最後部がはみ出してしまっているのもご愛嬌ですね。写真は、今まさに「やまびこ3号」が追い越しに掛かった瞬間を捉えたものです。昭和57年1月4日 東北本線 区間不明この写真は、豊原~白坂間における撮影から、磐西・只見線経由で水上へ移動する際の行程で出会った上りの「いいで」・「ざおう」。偶然にも1日で上下の同列車を捉えました。旧客による普通列車の窓からの撮影で、風景からしておそらく白河~矢吹の間くらいだと思います。昭和52年春頃? 上野駅にて 「はつかり2号」と「いいで」「ざおう」の並びこの写真につきましては、その経緯を「昭和52年頃の上野駅 485系「はつかり2号」と急行「いいで・ざおう」の一瞬の並び」にてご紹介しています。興味がありましたらご覧ください。「いいで」は喜多方までと新津~新潟間、「ざおう」は全線にわたって架線の下を走ります。ある意味新幹線開業まで良くディーゼルのまま残っていたと言う印象ですね。ヘッドマークも無く、非冷房でもあるため普通列車とすら区別が付きづらいところですが、12両という長大な編成と、1両(昭和40年代は2両)連結されたグリーン車が急行列車であることを主張していました。時代に遅れても頑張っていたDC急行「いいで」・「ざおう」ですが、昭和57年11月、上越新幹線の開業とともにその使命に幕を閉じました。【中古】Nゲージ/KATO(カトー) 10-1531 キハ58系 (非冷房車) 急行「いいで」7両セット 【A´】 ※スリーブ若干傷み[10-1531] キハ58系(非冷房車) 急行「いいで」 7両セット (4949727674087)KATO Nゲージ キハ58系(非冷房車) 急行『ざおう』 5両セット 鉄道模型 10-1532[10-1532] キハ58系(非冷房車) 急行「ざおう」 5両セット (4949727674094)キハ58系 (非冷房車) 急行「ざおう」 5両セット【KATO・10-1532】「鉄道模型 Nゲージ カトー」
2022.07.28
閲覧総数 2681
29
キハ58系:急行「奥久慈」「ときわ」「奥久慈」は、上野駅から常磐線・水郡線を経由して常陸大子・郡山方面へ直通した急行列車です。常磐線内は急行「ときわ」と併結になっていたため、急行「ときわ」としても「奥久慈」と手を組むために気動車急行としてながらく存置されました。「奥久慈」は上野に乗り入れる水郡線からの唯一の列車であり、通年2往復体制をとっていましたが、多客期には臨時列車も増発されています。水郡線内では何れも途中駅まで急行運転であり、その先は普通列車となっていました。急行「奥久慈」の運転関係については、マル鉄コレクション館『時刻表ネタ 昭和55年 水郡線を走った急行「ときわ7号」』でご紹介しておりますので、ご参考を。昭和55年頃 上野駅にて 常磐線快速ホーム11番線に停車中のDC急行「ときわ」「奥久慈」時代によって変遷があるようですが、上野駅の11・12番線は京浜・山手ホーム同様に嵩がありますので、ステップ付きの車両は入口の1歩目が落ち込むため危険なんですよね。私がバイト時代に臨時の「ときわ」「奥久慈」が11番線発だったので、この写真も臨時かもしれません。旅客誘導中に何人かステップに足を引っ掛けて転びそうになった人がいたのを今でも覚えています。昭和55年頃 上野駅にて 上野駅を発車したDC急行「ときわ」「奥久慈」上の写真の列車が発車したシーンと思われます。この時代でも上野発のDC急行は非冷房車が多かったのですが、関東のみを運用する水戸区には冷房車が中心に配置されていたようですね。同じ時代の「おが」や「いいで」「ざおう」と随分格差のある編成です。昭和56年5月頃 新松戸駅にて 「ときわ」「奥久慈」常磐快速線はこの区間でも95~100km/h運転していましたので、DC急行も結構カッ飛んでいました。スピードを確保するため、加速に有利なキハ58の編成率が高かったのも常磐線の特徴です。昭和56年8月30日 新松戸~北小金間にて 下り「ときわ」「奥久慈」これは新松戸駅近くの築堤をよじ登って撮影したものです。未だ循環タンクの付いていないトイレの列車が走っていたので、実はこのアングル、ある意味命がけです。今ではこんなところをよじ登ることすら出来ないんでしょうね。昭和57年10月12日 常磐線 荒川沖~土浦間にてこの区間は交流区間ですが、DCには関係ありません。この翌年の昭和58年には、急行「奥久慈」は常磐線内のみとなり、水戸からは普通列車という直通しているだけの役割となり、年を追うごとに衰退し、昭和60年3月改正でとうとう廃止となっています。私は個人的に常磐線には縁がなかったので、当急行列車には乗ったことはありませんが、その昔は編成中にキハ55も組み込まれており、注目していた列車でした。しかし、現実にはバイト中に臨時の「奥久慈」にキハ55が3両連結されているのを見たことがあるだけで、晩年の定期急行はキハ58系に統一されていたようでした。結果的に混成列車を撮ることができなかったのが非常に残念でした。ところで・・・このたび、TOMIXからキハ58系「奥久慈」「ときわ」セットが発売予告されました。もうかなり昔からHG仕様として発売されてきた同社のキハ58系ですが、ここに来てコアな車両セットとして発売されることになります。特に、「ときわ」「奥久慈」は常磐線を走る急行列車であるため、常磐無線アンテナを搭載しているのが最大の特徴で、このアンテナを設置するためにクーラーの一部を移設している点で既製品にはない設定となっています。常磐線を再現するモデラーであれば、これは待ちに待ったグレードであると思われます。しかし・・・10両編成ではかなりの高額となりますね。送料無料◆98494 TOMIX トミックス 国鉄 キハ58系 急行ディーゼルカー (奥久慈) セット(5両) Nゲージ 鉄道模型 【2月予約】98494 国鉄 キハ58系急行ディーゼルカー(奥久慈)セット(5両)[TOMIX]【送料無料】《02月予約》送料無料◆98493 TOMIX トミックス 国鉄 キハ58系 急行ディーゼルカー (ときわ) セット(5両) Nゲージ 鉄道模型 【2月予約】98493 国鉄 キハ58系急行ディーゼルカー(ときわ)セット(5両)[TOMIX]【送料無料】《02月予約》送料無料◆セット販売 98493/98494 TOMIX トミックス 国鉄 キハ58系 急行ディーゼルカー (ときわ) セット(5両)+(奥久慈) セット(5両) Nゲージ 鉄道模型 【2月予約】
2022.08.12
閲覧総数 7939
30
103系 京浜東北線:クモハ103クモハ103と言えば、大前提が低窓車であることはご存知だと思います。京浜東北線においてはこのクモハ103が必ずと言っていいほど連結されており、特に7+3編成には必須の車両でした。その後増備されることとなるATC搭載車にはクモハがないため、京浜東北線のATC化の準備として、分割編成の6+4化が進むことになります。ここでの大きな動きとして、ATC化できない低窓のクモハ103とクハ103が6+4編成の中間に封じ込められることになってしまったのです。それまで103系なんて通勤車の写真はほとんど撮ったことがありませんが、ちょうど私が高校生になった頃、ATC化で見られなくなってしまう前にとそこそこの枚数を撮影していました。昭和53年頃 西川口~蕨間にてこれは少し時期が外れてしまいますが、クモハ103を流し撮りした写真です。中学生の頃で、まだATCなんて影も形も無かった頃です。前回アップしたときには気が付かなかったのですが、冷房改造されていないのにシールドビームに改造されています。京浜東北線の中では珍しい存在だったかもしれません。昭和55年頃 西川口~蕨間にて昭和55年頃 西川口~蕨間にて昭和55年7月 西川口~蕨間にてこれもシールドビーム2灯になっていますね。1枚目と同じ車両でしょうか?※良く見たら通風孔の蓋の有無が違いますね。昭和56年頃 西川口~蕨間にて昭和56年初頭? 蕨駅にて雪の中で撮ったクモハ103。ATC化に際して7連の内側クハと大宮方のクモハ+モハの連結位置を交換することによりATC搭載クハが両先頭に出ることになり、結果として低運クハやクモハが中間に封じ込められる形となりました。低運クハとクモハは全てがATC非搭載のため、ATC化後は先頭に現れることはなくなってしまいました。
2022.11.25
閲覧総数 820
31
583系:急行「シュプール蔵王」かつては一世を風靡したシュプール号。さらに時代を遡ると、「○○スキー」や「○○銀嶺」といったスキー列車が多数運転されていました。昔は自動車の免許取得率が低く、スパイク&スノータイヤでクルマ移動なんて、多少お金持ちじゃないと出来なかったかもしれませんね。高速網も発達していませんから、列車が一番合理的な移動手段だったのでしょう。そういう意味では、格安シュプール号の時代は既に高速バスに客を奪われ始めた国鉄~JRの対抗手段、いわゆる苦肉の策だったのでしょう。その中でも、583系を使用したシュプール号は、座席車としても寝台車としても使用できる万能車で、定期列車では入線しなかった上越線や信越本線、奥羽本線にまで顔を出すようになり、ファンからは注目を集めていた列車だったと思います。平成2年2月18日 奥羽本線 庭坂駅にて 583系「シュプール蔵王」改軌前の奥羽本線福島~山形間に入線していた583系「シュプール蔵王」。この区間を走った583系定期列車は無く、私的にはこの区間の583系列車に違和感があります。「シュプール蔵王」は、同区間が新幹線の改軌工事により通行が出来なくなるシーズンまで、板谷峠を越えて運転されてました。この撮影の帰り道、庭坂から乗車した福島行きはなんと715系1000番台。人生の行先を変えさせられてしまった兄弟が、同じ線路でそれぞれの運命を歩んでいました。
2023.01.23
閲覧総数 725
32
115系湘南色終焉:上越線平成28年8月、高崎地区に211系短編成車が導入されることになり、107系や115系オリジナル車が置き換えられることになりました。元々211系(1000・3000番台)は小山区や新前橋区に配置されていたので、上野口の211系が整理された時は真っ先に高崎地区の115系を淘汰するものとばかり思っていましたが、予想に反して中央東線・長野地区を中心に置き換えが実施され、新潟地区には新車のE129系を投入するという、全く想像の付かない動きとなっていました。高崎地区の115系は、上野口用の運用と両毛線・上越線・信越本線並びに吾妻線用のローカル運用があります。ローカル運用は、上野口が0番台や300番台が中心であるのに対し、昭和50年代前半頃まで使用されていた旧型国電を置き換えにより新製された1000番台が中心となっていました。平成20年8月22日 渋川駅にて平成23年5月3日 群馬総社~八木原間にて平成20年8月2日 水上駅にて子供が生まれてからは殆ど撮影に遠出することも無くなり、上越線の115系もあまり撮っていませんでした。いつ頃からか良く知りませんが、115系の運用は水上駅で分断されており、高崎~水上間には新潟色は無く、湘南色しか見ることが出来ませんでした。昭和61年8月1日 津久田~岩本間にて上越線の70系乗り入れがなくなったのは昭和51年くらいでしょうか?残念ながら70系新潟色は実物を見たことはありません上野口が4両編成を基本としていましたが、旧型国電を置き換えた115系はクモハ+モハ+クハの3両編成が基本で、単独または×2の6両編成で運転されました。この写真を見ると前3両と後3両の色調が明らかに違っており、既に検査を迎えて上越線に馴染みきっていることを物語ります。平成2年8月26日 非冷房車6連旧型国電を置き換えた115系1000番台は、当時の国鉄の財政状況から新製冷房とはされず、すべて冷房準備車となっていました。※上野口運用車は新製冷房車として竣工。平成2年8月26日 冷房車3連上の写真と同日ですが、既に冷房改造された3連となっています。JRになり、サービス向上も視野に入って来たことと思いますが、全国的にも冷房車が一般的になってきたため、施工せざる得なくなった時代に入って来た頃でもありました。この写真を撮った頃は、まだ初代新潟色の115系が水上を越えて高崎まで運用されており、バラエティー感はありました。しかし、115系ばかりの上越線は魅力も薄く、これらの写真もすべてD51やEF55を撮るための練習ショットでしかありませんでした。※小山電車区の115系の変遷について、非常に詳しく調査し、紹介した動画を作成していただき、本ブログでご紹介しております写真も使用していただきました。115系に興味ある方は必見です。
2023.03.08
閲覧総数 893
33
キハ45系 キハ24:普通列車(函館本線)大都市近郊向けの通勤形と地方線区向けの一般形気動車の特徴を併せ持つ気動車として、キハ20系の後を追って誕生したキハ45系。暖地向けの両開き扉を設備した車両の中で、ほんの少数ですが、デッキを付けて片開きドアを設備した酷寒地向けの車両が存在しました。その酷寒地向けのキハ45系の中で、両運転台の形態としたのがキハ24です。昭和56年3月20日 函館駅にて 函館口で普通列車に使用されるキハ243内地向けキハ23(キハ45系の両運形)の北海道版で、側窓の形態やドアの形状・位置などの特徴があります。もちろん、客窓は二重となっています。昭和42年度に10両のみが生産されましたが、その後は増備されず、新性能化は後に誕生するキハ40系までありませんでした。両数が少ないことからキハ22と共通のような形で使用され、平成7年度を以って全廃、消滅しています。
2024.01.10
閲覧総数 286
34
101系:中央総武緩行線総武中央緩行線と言えば、そのラインカラーはカナリアイエローが思い浮かびます。しかし、その起源は山手線であり、中央総武緩行線だけではなく、殆どの線区が茶色の73系などで占められていました。山手線のラインカラーであるカナリアイエローがあまり定着していないうちにウグイス色の103系に変わってしまい、中央総武緩行線のラインカラーとしての定着間が強いのかもしれません。以上3枚とも 昭和55年頃 錦糸町駅にてみんな同じような写真でスミマセン。複写したものではなくて、すべて違う電車です。この頃の黄色い101系は、冷房改造車が全く導入されておらず、全部が非冷房車の編成でした。ほとんどが7連+3連の10両編成です。そして、この写真を電子化するまで気が付かなかったのですが、1番目の写真の編成は、千葉方(編成の奥の方)が3連なのに対し、2番目と3番目の写真の編成は中野方(編成手前)が3連になっています。津田沼区と中野区で違ったのかもしれませんが、中央線や京浜東北線では分割編成でも組成が統一されているため、非常に違和感を覚えました。昭和56年12月頃 平井駅にて用事があって平井駅に行ったとき、急行列車の撮影のついでに撮った写真です。この頃になると、中央快速線から流れてきた103系の冷房改造車と、103系の最終新製車が入線してきており、101系の活躍の場が狭まっていました。正直なところ、私が中学生くらいまでは中央総武緩行線はすべて101系でしたので、希少な感じもしませんでしたし、写真を撮ろうという気持ちも全くありませんでした。中央快速線から101系が撤退を始めた頃、それなりに101系を意識するようになってはきて、やっと撮りに行ったという感じでした。101系の引退時期と高校時代が重なっており、モノクロ現像を自分でやっていたため、カラー写真が全然ありませんでした。
2024.06.20
閲覧総数 79
35
183系1000番台:特急「とき」(地元編)「とき」は、言わずと知れた上野~新潟を結ぶ特急列車。一時期は東京駅にも乗り入れていました。勾配線区である関係から151系に勾配抑速ブレーキを追加した161系を初導入。さらに出力不足からモーター出力をアップした181系へと移り変わります。しかし、豪雪地帯を走る上越線では、あまりにも過酷な気象条件に181系が耐えられず、車両故障が多発、あたらしい耐寒・耐雪型の特急車両の開発が急務となります。ここで誕生したのが183系1000番台です。直流型特急電車の決定版となった同車は、増備に増備を重ね、同時に同性能の横軽強調装備をした189系を派生、中央東線・信越本線を含む181系を駆逐することになりました。そういう意味では、私の同世代からすると、新幹線と同じくらい恨まれた車両であると思います。今回は、183系1000番台を最初に投入した特急「とき」の比較的に近場で撮った写真からご紹介いたします。昭和51年 赤羽駅にてまずは文字マーク時代の「とき」です。今まじまじと見ると非常あっさりしたマークですね。でも、私等の年代からすると極当たり前の姿で、このマークを掲出していること自体が特急列車のステータスだと思っていました。もらい物のリコーオートハーフで撮った赤羽駅を通過する183系1000番台の「とき」。とにかくブレちゃって困ったカメラですが、時にスピード感を表現してくれることもありました。地平時代の4番線上野方を通過。文字マークと相まって、時代を感じさせます。昭和52年頃 上野駅にて満を持して登場した183系1000番台でしたが、181系の方がスタイル的にもバリエーション的にもファンが根強く、写真的にもスルーしていたファンが多かったのではないでしょうか?昭和55年 上野駅にていきなり時代が飛んで、イラストマークの「とき」。既に181系にもイラスト化が飛火していました。多分、AE-1を使い始めた頃で、オート露出&リバーサルでキレイに撮れていましたね。昭和55年頃 赤羽駅にて昭和55年初頭くらいの写真ではないかと思います。雪が降ったんでわざわざ撮影に出たんでしょうが、暗さもあってブレています。元々183系1000番台「とき」なんて、あまり被写体の対象にはならなかったのですが、この「とき」はイラストが薄い黄緑色のヤツだったので、慌てて撮ったのでしょうね。本当はもっと緑が濃いのですが、何故か1編成だけ黄緑色のがあったのです。昭和57年 蕨~南浦和間にて昭和57年 蕨~南浦和間にて昭和57年 蕨~南浦和間にていずれも末期に突入した頃に撮影したもの。自分でフィルム現像したものなので、粒状が良くありません。多分コダックのトライ-Xだったと思います。それまで殆ど見向きもしなかった183系1000番台「とき」でしたが、上越新幹線に道を譲って廃止ということになりゃ、「撮らないわけにも行かない」って感じで撮り始めました。昭和57年 蕨駅にてこれも上の写真と同時期。この時代は殆ど駅撮りなんてすることはなかったのですが、とにかく記録しなきゃ行けないという焦りと、就職してしまったために連休が取れずに地方にまで撮影に行く機会がないということで、近場ばかりで撮っていたようです。昭和57年6月頃 大宮駅にて給料も入るようになり、とうとうマミヤM6451000Sを買ってしまいました。まだ買ったばかりで標準レンズしか持っていませんでした。描写力は35mmの比でなく、その凄さに感動さえ覚えました。標準レンズのみでウエストレベルファインダーということもあり、機動性はありませんでしたが、上越新幹線の開業にギリギリ間に合い、少しですが在来特急の記録に寄与できました。チラッと見える東武野田線の3000系も、今となっては懐かしいですね。当時は全然見向きもしませんでしたが・・・。昭和57年11月13日 赤羽~尾久間にて最終日の前日です。この頃は「何でも良いから撮っておけ!」という感じでした。
2022.10.13
閲覧総数 543
36
キハ56+キハ22:急行「大雪」石北本線といえば、当時日本で唯一のカタカナ特急「オホーツク」と長躯函館~網走間を往復していた「おおとり」が花形であった訳ですが、両列車とも1往復のみの設定で、庶民としてはやはり急行「大雪」がメジャーな優等列車であったと思います。昭和55年の時刻表を見ると、1日5往復の「大雪」が設定されており、4往復が昼行のディーゼル、1往復が寝台車を連結した夜行急行でした。テツとしては昼間のディーゼル急行よりも夜行列車を多用した、と言いますか、夜行しか乗ったことがない方も多いのではないでしょうか?急行「大雪」は、その多彩な運用面からも大変興味深い列車です。1往復は釧網本線経由で釧路~網走~旭川~札幌を走破し、下りでは名寄本線の興部行き、さらに驚くことは、上りの名寄発~名寄本線~遠軽~札幌なんてとんでもないコースを走破する列車もありました。さすがに好んで乗るような列車ではありませんが、ちょうど9時間も掛かるこの列車は通しで乗る人なんてまず居なかったのではないでしょうか。昭和56年3月 遠軽駅にて 急行「大雪4号」右側のキハ56とキハ27の2両編成を組んだ急行ですが、あまりにもショボイ編成ですので、『うさぴょんのマル鉄回顧録』でアップしたときは急行「天都」かもしれない、としていました。しかし、昭和56年の時刻表を確認したところ、この時点で既に急行「天都」は廃止されていました。そこでさらに時刻表を追ったところ、渚滑線の乗りつぶしから遠軽へ戻ってくるのが9:40。特急「おおとり」と特急「オホーツク」が10:50を前後として交換が行われるのでこれを撮影。駅へ戻ってから列車に乗ろうとすると、網走方面、旭川方面とも12時を過ぎるまで列車が無い。網走発の558Dが遠軽12:11着。折り返し12:42の網走行き559D。名寄発の1623Dが12:02着、そのまま12:38に旭川行き514D「大雪4号」となります。そのときの私の行動と時刻表上の時間の相関がピタリと一致しました。つまり、写真で言うところの左側が558D~559D、右側が急行「大雪4号」。さらに、昼行の急行「大雪」はほとんどがグリーン車連結であるのに対し、この旭川行き「大雪4号」のみグリーン車は連結されていません。以上のことから、全ての状況が一致し、写真のローカルな急行列車が「大雪4号」であることが判明いたしました。ヘッドマークの無い気動車急行と言うのは、私的には撮影対象外だった筈ですが、北海道と雪景色、極寒の風景は、普通の気動車ですら魅力的に感じさせてしまうんですね。ですので、本州ではあまり撮影実績の無い一般型車両たちも、沢山記録に残すことができたのだと思います。
2022.12.29
閲覧総数 2113
37
115系:身延線 ワインレッド色昭和56年、旧型国電にそろそろ全廃の足音が迫ってきた頃、先行で廃車となったサハ45を含む編成に変わって登場した、身延線専用の115系が走り始めました。この時点ではまだ2編成くらいしか運用に就いていなかったようで、撮影中もあまり見ることはありませんでしたし、元々新型車なんて撮る気も無かったのですが、1枚だけリバーサルのコマがありました。昭和56年7月2日 身延線 鰍沢口~落居間にて甲府を基点とする身延線らしく、車体はワインレッドを身にまとい、白帯は富士山の雪をイメージしたものでしょうか、山梨・静岡それぞれの地域を反映したカラーとなっています。導入当初は クモハ+モハ+クハ+クハ で、クハは背中合わせに連結するという珍しい組成が組まれました。これは、無人駅の多い身延線で車掌が集改札をしやすいように、編成中間に乗務員室を設ける措置だったと聞いています。その後、全国的な短編成化に伴うクハ捻出のため、中間のクハが抜かれて3両編成化されてしまいました。モハ114はパンタつきの車両ですが、トンネル断面の極端に低い同線を走らせるため、折り畳み高の低いパンタグラフを採用するとともに、パンタ部だけ少し低くした2600番代という新しい区分番代が発生しています。外観からは殆ど判らないんですが。同時に身延線専用のクモユニ143のワインレッドカラーが導入され、身延線で活躍するとともに、荷物扱い終了後は首都圏にも顔を見せ人気を博しました。これに比べると、115系のワインレッドカラーは比較的短い期間で標準化され、地味なうちに消滅してしまいました。
2023.09.10
閲覧総数 425
38
EF65501ほか牽引:快速「EL&SL奥利根」高崎のEL・DLが営業運転終了へD51498の車籍が復活したのは昭和63年12月、翌平成元年にはD51を使用した快速「SL奥利根」が運転されるようになりました。運転区間は上越線内の高崎~水上間となっていましたが、電気機関車の保存活動が活発な高崎区ではこの機関車たちを活用し、運転区間を上野~水上間として直通する快速「EL&SL奥利根」が運転されるようになりました。平成8年1月14日 EF5889+12系+EF6019のPP列車名がどうであったかは記憶にありませんが、上野~水上間を直通し、イベント色の高い臨時列車であったと記憶しています。その後の快速「EL&SL奥利根」の奔りとなった列車であったと思われます。ただし、これ以外にもEF551を使用して高崎でバトンタッチする列車もあったような気がしますが・・・。平成14年8月17日 EF6019牽引 くつろぎ塗装時代くつろぎ塗装時代のEF6019が牽引する快速「EL&SL奥利根」。結婚して板橋に8年間住み、蕨に舞い戻ってきてまだそれほど経っていない頃。架線柱の植替えをしている頃で、決して撮影に適したような場所ではありませんでした。平成19年10月7日 EF6019牽引 国鉄塗装復活国鉄シーン再現の風潮が全国的に流行しており、同機もこれにならって貨物標準色塗装となりました。平成20年5月5日 EF65501牽引この直前、全般検査を上がったばかりのPトップ。ピッカピカの状態での登板となり、ファンに感動を与えました。カッコ良さからその人気は不滅です。平成20年7月19日 EF65501牽引平成20年8月2日 EF6019牽引平成20年10月18日 EF641001牽引人気度合いからでしょうか、あまり登板の機会がないEF641001ですが、他の保存機温存のためか、登板の機会に恵まれました。PPの脇役が多い同機にとっては、滅多にあることのない表舞台に立ちました。平成20年10月25日 EF6019牽引平成20年11月2日 EF65501牽引平成20年11月3日 EF65501牽引平成20年8月2日 D51498牽引「SL奥利根」としての牽引機会も含め、同機の運転回数は数知れず。それでもオリジナルなスタイルの牽引が多く、快速「EL&SL奥利根」のヘッドマークを取り付けたのは非常に珍しいのではないでしょうか?この写真と同じ平成20年8月、高崎~水上間の運転となったSL列車については快速「SLみなかみ」の愛称となり、その後一時的にEL区間の運転が消滅しました。平成23年にEL運転が復活した際には快速「EL&SLみなかみ」として運転され、「EL&SL奥利根」の名称は消滅しています。
2024.06.17
閲覧総数 103
39
101系・103系:大阪環状線(昭和49年)平成31年、民営化から30余年が経過し、大阪環状線に残っていた元祖オレンジ色の国電もとうとう終焉を迎えてしまったようです。大阪は撮影でも馴染みがある場所に思っていますが、実は3回ほどしか行っていません。いずれもデジカメ時代ではないので、撮影は特急列車や旧型の電気機関車が中心で、普通列車など撮る余地はありませんでした。大阪で国鉄輸送の中心となる大阪環状線ですが、特に撮影してはいなかったのですが、偶然に写っていたものが2枚だけありました。撮影は、いずれも昭和49年8月、大阪駅にて101系 大阪環状線 外回り縦位置で撮影した写真から切り取りました。明るい時間における下り客車列車を撮影したものですが、画像が粗く、EF58はナンバーも判読できません。列車も何者か今となっては分かりませんが、この時間の下り列車だとすると、荷物列車の可能性が高いようです。環状2番線に停車しているのが大阪環状線外回りの101系で、当時の大阪環状線ではメインとなる形式でした。103系 大阪環状線 内回りこちらは581系特急「しおじ」を撮影したもので、ほんのちらっとですがオレンジ色の大阪環状線が写っています。数年前まで101系だとばかり思っていたのですが、読者からの指摘により、103系であることに気が付きました。当時の大阪圏の国電は、東海道緩行線がスカイブルーで103系となっており、大阪環状線や桜島線、関西本線も含めて101系ばかり。大阪環状線にわずかながら103系が配置されていたことを知ったのは、それほど前のことではありません。まさか、そんな稀少な103系の大阪環状線が自分の写真に写っているとは思いもよりませんでした。
2024.06.19
閲覧総数 108
40
国鉄 165系:サハ164国鉄165系で随一の変形車であるサハ164。サハ164は、昭和41年、中央東線急行「アルプス」等の増発に対応するため、ビュフェ車サハシ165に代わる車両として2両のみが誕生いたしました。形態的には中間付随車のサハ165に似ていますが、車端に売店を設置し、さらに荷捌き用の扉を設置しているため、165系群の中では唯一の3ドア車となっているのが特徴です。中央東線の急行列車で活躍しましたが、最後までビュフェを営業していた中央東線では列車の統一性を欠くことなどから、新潟区のサハシ165と交換のため転出となり「佐渡」「よねやま」などに使用され、さらにサハシ165の運用離脱とともに活躍の場を失うと大垣区へ移動し、東海道本線の「東海」や間合いの普通列車としても利用されました。昭和52年頃 蕨~西川口間にて 急行「よねやま」に運用されるサハ164-2上野~直江津間を上越線経由で結ぶ急行「よねやま」は、上野~新潟間の急行「佐渡」と共通運用でした。サハ164はサハシ165と共通運用で、当時は13両編成の6号車に連結されていました。画像が荒れて見づらいですが、客窓を挟んで1対になっている扉が客用で、一番左端にある600mmの扉が荷捌き用のものとなります。遠くから見るとパッと見ではサハ165と区別が付き難いのですが、何とも個性的な窓ドア配置となっています。昭和54年3月 東京駅にて 急行「東海」に連結されたサハ164-2偶然にも同じ-2でした。記憶は定かではありませんが、大垣区の153系が撤退を始めた頃、165系で不足するサハを補うために連結し、東京へ姿を見せるようになったものと思われます。急行「東海」にも使用されましたが、間合いで運転される静岡行きの普通列車などにもそのまま運用されていたようです。たった2両のためあまり遭うことができず、写真はどうもコレだけしか見つからないようです。売店という画期的なアイディアだったにも拘わらず、その構想が少し早過ぎたために時代の波に乗れず、風潮が着いて来た頃には急行列車は衰退してしまいました。さらには、売店を設置したための定員減も災いし、結局は本来の用途の使用もされないまま地味で流転の一生を送り、昭和58年1月12日付で廃車、その一生を終えています。
2022.11.15
閲覧総数 1648
41
国鉄 EF15牽引 レサ5000:冷蔵貨車主に九州~東京間を結ぶ高速鮮魚輸送用として開発されたレサ10000系。100km/h対応の冷蔵貨車です。これは、九州地方で揚がった新鮮な魚類を東京築地に直行させるというコンセプトから生まれています。片道1000kmを超える距離を移動するわけですから、新鮮な素材を市場に並べるためには当然にして高速性が考慮されています。これに対し、距離の比較的短い東北地方からの鮮魚列車は、100km/h対応までは要求されませんでしたが、一般的な貨物列車の75km/hからこれを上回る輸送を行うため、85km/h対応の冷蔵車が製作されました。それがレサ5000形です。ボディや基本構造はレサ10000と全く同じです。(※一部、一期間、東北方面で10000系が運用されたこともあるようです。)地元ではほとんど見る機会が無かったように記憶していますが、どうも夕方の下り列車に空車回送のスジがあったようで、2枚ほど写真が見つかりました。いずれも高崎第二機関区所属のEF15が牽引しているのですが、上越筋における鮮魚列車は無かったと思いますので、おそらくは黒磯までの牽引を行っていたものと思われます。昭和51年頃 赤羽~川口間にて EF1565牽引ポケットカメラでの撮影ですので、画像が大変悪いですが、ご愛嬌ということで。6両ほどのレサが連結されているように見え、その後ろは一般貨物のようです。昭和55年 川口駅にて EF15121牽引貨物列車(再掲) 上の写真と同じ筋と思われるレサ5000で組成された鮮魚列車。編成の後ろまで入っていると良かったのですが、配給回送にカブられてしまいました。白貨車だけで組成されていたレサ10000高速列車もカッコいいですが、模型ではこうした編成をコンパクトに楽しむのも良いと思います。2023/12/06追記レサ5000は、東北方面太平洋沿岸から7両編成(増結や時代によって+α)を組んで上京していたそうで、写真の列車はいずれも返し回送列車のようです。8023 レサ5000(再販)[KATO]《11月予約》
2023.07.10
閲覧総数 1402
42
ED75700番台牽引:寝台特急「あけぼの」古くの時代から上野~秋田・青森を結んでいた寝台特急「あけぼの」。東北本線は福島まで電化されていましたが、奥羽本線内では一部区間が非電化となっており、DD51が牽引した時代もありました。奥羽本線が全線電化されると、それまで牽引に活躍していたDD51に代わり、ED75700番台が増備されます。寝台特急「あけぼの」も、福米間のEF71+ED78からのバトンを受けると、あとはED75700番台が青森まで牽引する運用となっていました。昭和61年9月9日 鷹ノ巣~前山間?にて ED75777牽引運転免許を取って初めての遠距離ドライブ。ED75牽引の「あけぼの」を見るのも初めてでした。油断して手ブレ。勿体無いです。牽引機はスリーセブン、777号機。これを撮ったときはまだ700番台が全て健在な時代でしたから、特に希少感はありませんでした。殆どのED75が廃車になった後もその番号から生き永らえた777号機でしたが、令和5年9月、とうとう廃車になってしまったようです。平成4年8月18日 八郎潟~鯉川間にて ED75712牽引逆光でコントラストが強く、ヘッドマークすら全然見えませんね。この時代、奥羽本線の秋田以北はEF81の進出が無く、特急ブルトレを始め、客車普通列車も全てED75の天下でした。ただ、700番代しかないと言う点では面白みに欠けました。なんとかヘッドマークが見えないかとフィルムから直接スキャンを試みましたが、色調があまりにも変でどうにもなりません。せっかく遠征しているにも拘わらず、良い写真が残っていないのが残念です。
2023.09.24
閲覧総数 546
43
183系田町車:イベント団体列車「美里 雪の夢列車」平成22年2月20日、十日町雪祭りと渡辺美里25周年のタイアップで、団体臨時列車が走りました。列車は「美里 雪の夢列車」のタイトルが付き、ヘッドマークが掲出と言うこと。完全のノーマークの列車だったのですが、確認したところ同年3月号DJにも掲載されていました。キヤE193系の回送との競合を考慮し、ここは敢えて与野駅近辺で済ませようと、久し振りに行ってみました。※撮影は、平成22年2月20、与野駅にて。逆光で障害物の多い先頭は捨てショット。正面アップのみの撮影。ヘッドマークどころではなく、装飾が珍しく派手にしてありました。しかも、正面だけではなく。サイドのドア付近にも装飾があり、方向幕もヘッドマークと同じようなデザインのシールが張られていたようです。しかし、このヘッドマークは凄いですね。シールである筈なのに、まるで液晶画面を表示しているかのような鮮やかさを持ったものでした。金が掛かってますね。後部も残念ながら陽が回るのが正面のみ。側面の装飾までは表現できませんでした。この列車、実はもの凄くゆっくりとしたスピードで走っていたんですよね。考えてみれば、余裕で側面も撮れた筈なのですが、非常にタイトなスタンスの場所に4人も居たので、確実に後部を押さえることに集中してしまった結果、考えを失っておりました。こういうときこそ、大宮駅での駅撮りのようなケースの方がジックリ記録できましたね。良く見ると、先頭のヘッドマークの日本語版、後部のマークは英語版でした。ところで、DJでは大宮車OM編成充当との情報だったのですが、実際には田町車H61編成が充当されています。ただ、この装飾を考えた場合、特急マーク付きの多い大宮車では難しくなってしまいますので、敢えて田町車に振り替えたのではないかと思われます。
2024.02.20
閲覧総数 141
44
183系マリ32編成:団体「上野動物園パンダ号」高崎線方面からは、上野動物園への遠足?でしょうか、幼稚園生向けと思われる団体列車が良く運転されます。平成になってからは183系が主に使用されていたようですが、やはり183系引退に伴って185系へと移行していきました。※撮影は、平成25年3月2日です。183系マリ32編成 9525M 団体「上野動物園パンダ号」時折りこのように列車名が設定されるものがありますが、ヘッドマークが掲出されるかどうかはビミョーでした。それでも、OM車は国鉄色ばかりの時代でしたので、地元を通る営業のマリ車はそこそこ貴重な存在でした。
2024.03.02
閲覧総数 174
45
EF58・EF64牽引:急行「能登」(旧型客車時代)「能登」は、上野~金沢を結んでいた夜行急行列車です。昭和50年3月ダイヤ改正まで、上野~金沢間に2往復の急行「北陸」が設定されていました。同改正において、寝台専用編成の「北陸2号」が20系化のうえ寝台特急に格上げとなり、特急「北陸」として登場。一方、急行列車のまま存置された「北陸1号」は名称を使えなくなったため、ここで急行「能登」に名前を変え、全く同じ区間、同じような編成で再出発することになります。なお、急行「能登」は東海道本線経由の時代がありましたが、ここでは記述を省略いたします。昭和55年7月23日 南浦和~蕨間にて訳あって非常に写りが悪いのですが、旧型客車時代の急行「能登」で、まだEF58が牽引していた頃です。上野方にスニ41が1両連結されているのが特徴です。急行「能登」が誕生したのは昭和50年3月の改正からとなりますが、早朝の列車のため、殆ど記録が残っていませんでした。当時は夜行急行列車も多数あり、EF58牽引が当たり前でしたから、希少価値は全くありませんでした。昭和55年10月頃 蕨~西川口間にて上の写真を撮影して間もなく、さらに早朝撮影をした際、やってきた「能登」は新鋭EF641000番台に変わっていました。どうもこの日辺りが初日だったらしく、直ぐに発売された鉄道雑誌でも話題になっていました。A寝台・B寝台・グリーン車を連結しており、グリーン車にはまだ帯が付いているように見えます。昭和57年9月6日 水上駅にて上越新幹線開業に向け夜行列車が廃止になる前にと、水上駅バルブに挑戦したことがありました。急行「能登」もスジそのものが廃止になる予想を裏切り、信越本線経由の急行「越前」を乗っ取るかたちで存続することに違和感を覚えました。事実上は「能登」が廃止になったようなものです。昭和57年11月からは旧型客車が全廃。信越本線経由となった急行「能登」は14系寝台+座席車に変更されましたが、この頃から近所の区間に金網が張り巡らされ、夜行列車など撮る機会を失うことになります。したがって、この間、碓氷峠が廃止となり、電車化されて上越線経由として正調「能登」が復活するも、写真を撮る機会は全くありませんでした。【中古】Nゲージ KATO(カトー) 5139 スニ41 2000 2020年ロット 【A】【中古】Nゲージ/KATO 10-899 セットバラ 5139-2 (1両のみ) スニ41-5 (郵便・荷物列車「東海道・山陽」A 2022年ロット) 【A’】 付属品無し/ビニール袋で個装しエアキャップに包んでの発送5228 KATO カトー オハ46 ブルー Nゲージ 鉄道模型(ZN99730)オハ46 ブルー【KATO・5228】「鉄道模型 Nゲージ カトー」5300 KATO カトー オハフ45 ブルー Nゲージ 鉄道模型(ZN99731)オハフ45 ブルー【KATO・5300】「鉄道模型 Nゲージ カトー」
2022.10.03
閲覧総数 1230
46
181系(元161系):特急「とき」今回は、181系「とき」の中から元161系改造のクハ181-40番台を先頭車とする編成の写真が3枚ほどありますのでご紹介したいと思います。161系は、昭和37年に上越線特急「とき」用として、151系こだま型を踏襲して製作された特急用車両です。151系による試験走行の結果から151系とは足回りに違いがあり、ギア比は157系と同様に設定されたようです。1編成分9両と予備車6両の総勢わずか15両という小世帯の形式となりました。151系との最大の違いは、スノープラウ取り付けに伴って短くなったスカート、上越国境越えの連続勾配に備えた勾配抑速ブレーキの装備、そして、それを識別するためのボンネットへの帯が入れられたことです。その後、151系・161系の全ての車両を出力アップする計画により、181系へと改造されることになります。元161系の車両は40番台として181系に編入、製作中に161系→181系と変更された3両についてもベースが161系であったことから、161系を名乗ること無く181系40番台として新製されました。ちなみに、オリジナルの181系は全て100番台として誕生しています。昭和52年頃 御徒町駅 電留線にて粒子が良くなくて車番が曖昧です。台車のTR58とスカートのタイフォン形状で40番台の識別が可能です。昭和53年頃 西川口~蕨間にて クハ181-44車番が確認できた車両です。44番は、前述のとおり181系化計画後に落成した車両であるため、161系スタイルのまま181系で誕生した希少な車両です。外観は161系の先行落成車と全く同じスタイルになっています。昭和56年5月 蕨~西川口間にてヘッドマークがイラストとなり、1年半後には上越新幹線大宮暫定開業が迫った晩年のころの写真です。正面がちで車番の確認は不能ですが、外観の特徴から明らかにクハ181-40番台であることが判ります。後にはモロ181・180改造のモハ181・180-200番台が続いており、中間の481系転用サロとあわせて最後を凌ぐ苦心の編成であることが分かります。追加生産を合わせてもわずか18両という小世帯の形式でしたが、クハ181-45が鉄道博物館に収蔵され往時を偲ぶことができます。上越形オリジナルとして誕生した唯一の特急車両であり、数的にも希少な車両が保存されていることは、何物にも代え難い幸運であると言えるでしょう。
2022.11.03
閲覧総数 734
47
キハ56系:急行「狩勝」「狩勝」は、札幌圏から釧路方面を根室本線で結ぶ急行列車でした。昭和55年当時ですが、急行「狩勝」はDCが3往復、客車夜行が1往復設定されていました。このうちDC急行は、札幌~釧路間を基本とし、下り夜と上り朝が帯広発着です。釧路発着の1・6号は富良野駅にて富良野線直通の普通列車を釧路間で併結しています。また、上り4号のみは根室~札幌を直通としていました。これは、急行「ニセコ」の上り1本が根室~函館に設定されていた頃からの名残で、札幌にて系統が分割されて「狩勝」となったものです。当時はまだ石勝線が完成していない時代ですので、根室本線への列車は全て滝川経由となっていました。特急「おおぞら」も3往復しか設定がありませんでしたので、夜行含めて4往復設定されていた急行「狩勝」は、全ての列車にグリーン車も連結された、重要な幹線優等列車でした。昭和56年3月 根室本線 落合~新得間にてこちらはネガプリントからのスキャニング画像です。残念ながらブレてしまっていますが、キハ56形の213番ですね。キハ56系はキハ58系の北海道版で、外観は窓が1周り小さいのが特徴です。また、グリーン車のキロ26はキロ28形のような2連の大窓ではなく、さらに1周り小さい1席1個の窓が特徴となっており、キハを含めて全て2重窓となっています。キハ56形200番代は最終増備車で、パノラミックウィンドウにスカート付きが特徴です。さらに、写真では判りませんが、冷房準備工事車でクーラー搭載予定箇所にフタがしてありました。※最終的には、廃車となるまで冷房化されることはありませんでした。昭和56年3月 根室本線 落合~新得間にて上の写真と同じ区間ですが、新得側からやや落合寄りの第1ターンとなる橋梁です。こちらは番号が不明ですが、初期型のキハ56を先頭とする「狩勝」。全てが小窓で判り難いのですが、前から5両目のフレームギリギリに写っているのがキロ26形グリーン車です。昭和56年3月 「狩勝」の愛称サボなんでこんなサボの写真をリバーサルフィルムで撮っていたのか疑問だったのですが、よくよく考えて見ると車体色がクリームと赤のツートンではありませんので、どう見てもキハ22に取り付けられたサボと言うことですね。「狩勝」には基本的にキハ22は使用されていなかったと思いますので、おそらく富良野線からの直通併結車両を目撃した際に撮影したのではないかと思われます。昭和56年3月11日 函館本線 白石~厚別間にて同区間を撮影場所を探しながら歩いていた際に撮影したものです。コレは列車を撮るために待っていたのではなく、前を歩いていた親子が大変絵になるスタイルだったのと、そこに偶然この列車が通り掛かったので思わずシャッターを切ったことを憶えています。なお、この写真、もしかしたら急行「大雪」かもしれないことをお含みおきください。※編成的には「狩勝」で間違いないと思いますが・・・。急行「狩勝」は、ご多聞に洩れず特急化の波に飲まれ、尚且つ石勝線の開業と言う一大プロジェクトのアオリもあって全て特急「おおぞら」に吸収・格上げされて消滅いたしました。辛うじて根室本線の快速として「狩勝」の名前が残っていましたが、そこには急行時代の優等列車としての面影は残っていませんでした。オハネフ12形:夜行急行「狩勝」(旧型客車時代)送料無料◆セット販売 98579/7428/7429 TOMIX トミックス 国鉄 キハ56-0系 急行ディーゼルカー (狩勝) セット(4両)+キハ56-0形 (T)+キハ27-0形 Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】送料無料◆98579 TOMIX トミックス 国鉄 キハ56-0系 急行ディーゼルカー (狩勝) セット(4両) Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】[鉄道模型]トミックス (Nゲージ) 98579 国鉄 キハ56 0系急行ディーゼルカー(狩勝)セット(4両)
2023.03.27
閲覧総数 1507
48
キハ58系:急行「丹後」今回は、山陰急行「丹後」です。昭和50年代、まだ山陰本線はオール非電化であり、この路線が電化されるなど想像も付かなかった時代です。しかし、幹線であったことに違いはなく、京都口では特急「あさしお」を始めとする優等列車でにぎわっていました。もちろん、急行列車も多数が健在であり、特急列車よりも多くが設定され、観光地への足が確保されていました。しかし、個人的なところでは、この京都の日本海側の地域に土地勘が無く、列車の行先も複雑怪奇で今もって良く理解できていないのが実情です。そんなこともあって、特に行先が難解な急行「丹後」については、列車名として小学生時代から知っていたものの、説明を避けたい列車なんです。昭和55年8月 京都駅にて キハ58系 急行「丹後」京都発の急行では「丹後」が定期で4往復設定されていました。同じくグリーン車連結の優等列車で「白兎」がありましたが、編成順序から「丹後」であることが判ります。昭和50年代半ばでもあり、さすがにこの地域では冷房化が完了しているようです。現在は駅舎も大きく変わってしまいましたが、配線自体はあまり変化がなさそうです。しかし、京都口は電化が完成してから既に久しくなり、発着する車両は大きく変わってしまいました。
2023.08.18
閲覧総数 683
49
113系:関西本線 快速列車(旧ヘッドマーク)関西本線の大阪~奈良間に電車の快速列車が直通するようになったのは昭和49年7月20日からということらしいですが、私が初めて関西に行ったのが確か昭和49年の8月初めだったと思います。大阪駅での撮影に終始した中で、1日だけ奈良まで足を伸ばし、その際に大阪~奈良間の乗り入れ快速に乗車いたしました。とにかく、快速にヘッドマークが付いていたので大変にインパクトがありました。当時はポケットカメラでの撮影で、記録というのにはとても恥ずかしい写真ですが、1枚だけ撮影したものがありました。昭和49年8月 奈良駅にて 113系関西色 快速残念ながら画像が大きくブレています。小学5年生の時、大阪に連れて行ってもらったときに強引に奈良に連れて行かれました。その時に乗った快速電車がこの写真。この頃は大型ヘッドマークが付いており、普通列車に使用する場合は上から折り畳みで下に落とすと車体色で目立たなくなるようになっていたと思います。その後、比較的早いうちに小型のV型に変わり、車種交代でヘッドマークの取り付けが廃止されています。私的には、小学生ながらも奈良で観光などしている場合ではないと思っていたんです。当時の大阪駅は早朝から深夜までネタが転がっていたのですから。この1日は、今になってみると非常に勿体無かったですね。
2022.07.22
閲覧総数 565
50
EF58牽引 旧型客車:急行「鳥海」上野~秋田間を上越・羽越線経由で結んでいた急行「鳥海」は、荷物車+グリーン車+A寝台+B寝台+自由席普通車で構成された、由緒ある夜行急行スタイルの列車でした。強いて言えば、なぜか普通車指定席は連結されていません。上野~秋田間を結ぶ急行は、この他にも全車寝台急行の「天の川」が設定されており、お互いに補完しあいながら長らく運転されていました。急行「鳥海」は、上野~新津間をEF58、新津~青森間をEF81が牽引し、水上~石打間はEF16がサポートしていました。(時代背景により、羽越本線非電化時代はDD51、晩年の上越国境越えはEF641000番台のサポートなど、牽引機は変化しています。)昭和52年頃 蕨~西川口間にて EF5890牽引 「鳥海」回送東大宮操車場に回送される「鳥海」編成は、そこそこ遅い時間になってから通りましたので、比較的見る機会が多かったように思います。昭和55年7月23日 南浦和~蕨間にて EF58174牽引 急行「鳥海」昭和55年10月頃 蕨~西川口間にて EF58134牽引 急行「鳥海」同列車の晩年に近い写真です。グリーン車の帯がまだ残されています。一方、本来茶色のマニ36が連結されている筈が、当時新車のマニ50に変わってしまっています。昭和57年 大宮操車場駅構内から 上り急行「鳥海」右側にスニ40が少しだけ写っています。他の夜行急行列車は、A寝台車が上野寄りに連結されているのに対し、この写真では逆なんですよね。それまでは所定の上野寄りでしたので、最終期頃に連結位置が変わったようです。もう1点、マニ36が張上げ屋根改造車です。この写真を撮った時は、プリントにしなかったため、日常的に「鳥海」に連結されていることに気が付きませんでした。後に注目した車輌なんですが、気が付いた時には荷物輸送すら廃止になってしまいました。その後わかったことですが、マニ362022ではないかと思われます。昭和57年11月14日 大宮駅にて 停車中の急行「鳥海」上り定期の最終日。翌朝到着の臨時列車扱い「鳥海52号」をもって急行時代の幕を下ろしました。急行「鳥海」は、ツララ切り+スノープラウといった雪国装備をまとった高崎第二機関区のEF58が終始担当してしておりました。上越急行には、他にもEF58+雑形客車の組み合わせとして、急行「天の川」「能登」(旧急行「北陸1号」)が走っており、あまり珍しい感じはありませんでしたが、「鳥海」の最大の特徴は、スニ2両(パレット積載型荷物車)+一般荷物車と、計3両の荷物車が連結されていたことでした。ちなみに、スニ2両は、新潟地区への新聞輸送に使われていたものです。昭和57年11月のダイヤ改正(上越新幹線大宮暫定開業)で廃止になってしまった急行「鳥海」ですが、他に生き残った夜行列車たちとは違い、最期まで20系化や12系・14系化されることなく、旧型客車のまま伝統ある夜行急行のスタイルを守りとおした列車でした。5147 ワサフ8000[KATO]《04月予約》[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 5147 ワサフ8000【中古】Nゲージ/KATO 10-899 セットバラ 5139-2 (1両のみ) スニ41-5 (郵便・荷物列車「東海道・山陽」A 2022年ロット) 【A’】 付属品無し/ビニール袋で個装しエアキャップに包んでの発送【中古】Nゲージ/KATO(カトー) 貨車 セットバラ10-899(1両のみ) スニ41-5(郵便・荷物列車「東海道・山陽」 Aセット)【A】【2022年8月】 KATO|カトー 【Nゲージ】5300 オハフ45 ブルー【発売日以降のお届け】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 5228 オハ46 ブルー
2022.08.15
閲覧総数 2129