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「数ならぬ身となおもいそ玉祭り」 芭蕉が寿貞の死を知らされて、お盆にこの愛染院で詠んだ句 芭蕉の一生で女性が登場するのは一人だけで、出家して寿貞と名乗った人で本名も分からない謎の多い人です。 そもそも芭蕉との関係は正式な妻ではなく、寿貞の芭蕉妾説は、風律の『こばなし』のなかで他なら ぬ門人の野坡が語った話として、「寿貞は翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり 」 と芭蕉の妾とありますが現代では愛人と言うべきでしょうか。 伊賀の出身で江戸で出会ったのか伊賀から追いかけて行ったのかも記録がありません。伊賀出身なの は江戸で亡くなった後、現在の伊賀市寺町の念仏寺に葬られたので間違いないでしょう。 元禄7年6月2日、江戸深川の芭蕉庵にて寿貞尼死去。享年42歳? 寿貞の死を知らせる手紙を芭蕉のいる京都嵯峨の落柿舎に届けられ、芭蕉が深く嘆いたとあります。 芭蕉が去った後の芭蕉庵に越してきたかたずねる手紙があり病状を気にしている文章が残っている。 芭蕉が去った後からでないと庵に病気の寿貞は越せなかったという関係でした。 現代の感覚では理解に苦しみます。 遺髪が納められている芭蕉故郷塚その手前右に「数ならぬ身」の小さな句碑があります。 伊賀上野の念仏時の過去帳には、元禄7年6月2日の條に中尾源左衛門が施主になって「松誉寿貞」と いう人の葬儀がとり行われたという記述があるという。言うまでもなく、この人こそ寿貞尼ですが、 「6月2日」と死亡日と同じなのは後世に書かれたものでしょう。 寿貞のお墓がある念仏寺 過去帳に 「享保三戌四月廿六日 歓誉光安浄喜 寿貞尼舎弟」「享保三戌四月廿九日 享誉利貞信尼 寿貞尼姉也」 と記載がある。寿貞の弟と姉の法号であり、「寿貞尼舎弟」「寿貞尼姉也」と寿貞を主とした 表わし方は寿貞はあまりにも有名な芭蕉の妻であったといふ事が、これ等二人の姉弟には歓びであり、誇りでもあったということで過去帳へ直接記入したのでしょう。 後世の人には数ならぬ身ではなかったのです。 次郎兵衛という寿貞の子という説もある人のことは次回。
2020年04月28日
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藤堂高久公墓所 伊賀市長田十王下藤堂藩三代目藩主の高久公の御陵です。藤堂家代々の墓所は江戸、寛永寺寒松院と伊賀、上行寺にありますが高久は、江戸で元禄16年(1703年)4月29日に亡くなったが遺言で伊賀の長田山に埋葬された。長田山は、上野城から西に約2.5km、標高207mの低山で頂上から北東に位置し180mの高さに御陵はあります。何故この山に埋葬されたのでしょう、いよいろな説がありますが私なりに考えてみました。まず高久の祖母で二代藩主、高次の母(藤堂高虎妻)が夫高虎が亡くなり出家して松寿院と号していた墓が隣りの長田、常住寺の同じように山の中腹にあります。 祖母も江戸で慶安元年(1648年)亡くなったあと、遺言により伊賀国長田山常住寺に供養塔が十三回忌の万治3年(1660)高次によって建てられた。理由は天台宗に改宗して松寿院と号していたので日蓮宗の伊賀、上行寺には、建てられなかったのだと思われます。常住寺は天台宗門の寺院です。そこから考えて、高久も天台宗を信仰していて。自分が10歳の時に亡くなった祖母の近くで城を見はらせるこの山に埋葬を希望したのではないでしょうか。勿論、伊賀を愛していたのが一番大きな理由でしょうが。藤堂家は代々、日蓮宗でしたが、徳川家康が病気見舞いに来た高虎に「死後も話したいが宗派が違うので無理であろうな」と言ったのですぐに天台宗の僧である天海僧正に頼み改宗したのが藤堂家と天台宗との関係の始まりです。家康が没したのは元和2年(1616年)で高虎が没したのは寛永7年(1630年)ですその年妻が出家して天台宗の院号、松寿院を頂いているので実際15年以上天台宗だったことになります。藤堂家の家風は公儀第一であり、高虎・高次ともそのことを何度も繰り返して述べていす。高久も公儀第一の考えをもち、幕府の要職者への接近を心がけました。高久の嫁は、幕府の実権を握っていた大老、酒井忠清の娘でした (これも公儀随一の実力者との間に縁戚関係を築く手段でした。) が将軍が家綱から綱吉になった時、忠清が失脚し高久自身の身も危うくなります。酒井忠清は失脚すると程なく没したましが、その死に疑いを抱く綱吉が二度にわたり検視の使者を酒井邸に出した。隙あらば取り潰そうというわけですが、その時酒井邸につめていた高久が応対して死骸を見せずに追い返しました。(忠清が切腹していたならお家お取り潰し、藤堂家にも累が及びます)酒井家ではこれを恩義とし、藤堂家よりも遅れて門松を飾ることにしたといいます。その後、柳沢吉保(駒込村染井の下屋敷が隣同士)にとりなしてもらいやっと徳川綱吉の御勝手詰(将軍の御成前に御成先の屋敷の勝手に控えてお迎えする)を勤めていたりしたので将軍家への忠節を示すためにも天台宗のお寺の隣りの山にと遺言したのでしょうか。徳川綱吉は柳沢吉保家に五十八回にわたって訪問したといわれている(一説には吉保の妻と不倫関係にあった)ので御勝手詰としても通常より目をかけられたのでしょう。そして藤堂高久は死した後も幕府を恐れ江戸の力の一番及ばない伊賀の地にそれも徳川家と同じ天台宗のお寺に埋葬を願ったのだと思われます。その常住寺松寿院の供養塔は、ここから100mほど山を登った所にあります。常住寺のえんま堂の本尊厨子
2015年11月14日
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「左末ゝ能 事於もひた太す 桜哉 」(さまざまのことおもひだすさくらかな)伊賀上野城東(句意)この桜を眺めていますと、ご奉公していた昔の思い出がさまざま止めどもなく蘇って来ます。書は、浜松の俳人、大蕪庵(松島)十湖とも上野町会議員の奥森春陽(安次郎)とも伝えられていたが筆跡から松島十湖氏で間違いないようです。右下に書かれているのが桃青かと思われるこれが有るために解読が難しかった。貞享(じょうきょう)五年(一六八八)四十五歳の作で、『笈日記』『笈の小文』(おいのこぶみ)などに「おなじ年の春にや待らむ故主蝉吟公の前庭にて」と前書きがあってこの句が載ってる。「当時良長は23歳に成長し探丸と号し」との記載があるので蝉吟が死亡前後に誕生したものと思われる。貞享五年(1688)3月13日作 父蝉吟死後22年 伊陽山中初春(伊陽は伊賀の美称) 芭蕉「やまさと者 まんさい遅し 梅花」(やまさざとはまんさざいおそしうめのはな)【伊賀市上野丸之内 上野公園東口】元禄4年(1691)の初春、伊賀上野の生家に帰省中の作。季語は「梅」。昭和42年(1967)9月10日、財団法人芭蕉翁顕彰会と実業家町野七右衛門により、建碑。書の原型は、芭蕉真跡懐紙。(句意)辺鄙な山里には万歳も遅い。正月も半ば過ぎて梅も花盛りを迎えた今頃、やっと来たことよ。藤堂修理長定邸にて (名張藤堂家三男)古地図に現在の上野農人町川崎邸西隣に自分屋敷がありました。「まゆはきを俤にして紅粉の花」(まゆはきをおもかげにしてべにのはな)句意: 女性の眉履きの姿を思い浮かべさせるように咲いている紅花よ。だんじり会館前奥の細道の句 現在の山形県尾花沢市での句 紅花は伊賀の名産でもあった。因みにベニバナの古名の末摘花は「花が茎の末の方から咲きはじめるのを順次摘み取るところから」だそうです。左にドナルド・キーン氏の英訳「They make me recall a lady’s powder puff There saffron blossom.」が刻まれています。訳したドナルド・キーン氏は2008年文化勲章受章、2011年の東日本大震災後、日本国籍取得2019年亡くなりました。「きてもみよ甚へいが羽織花衣」(きてもみよじんべいがはおりはなごろも)句意は「甚平さん、普段着(甚平羽織)姿でいいから、早く花見に来なさいよ。満開の桜を前にしたら、どんなに華美な着物を着ていたってかなわないから。」意味を二つ重ねた詞を二つ使っている事で、凝った句だと言われています。「きて」:着て・来て、「花ごろも」:花見用の華やかな服・満開の桜。芭蕉が28歳で、俳号を宗房と名乗っていた頃の句。この頃は、技巧的で、誰かに呼びかけるような句が多いような気がします。でも、若々しさを感じる句です。自然注曰従天謂道(ちゅうにいわくてんにしたがうをみちという)従道謂自然矣(みちにしたがうをじねんという)東野芭蕉桑門 (関東の出家して修行する人の意味か)真跡(元禄初期と推定)「升かふて 分別かわる 月見かな」(ますこうてふんべつかわるつきみかな)【伊賀市上野丸之内 旧市役所南】元禄7年(1694)の秋の作。季語は「月見」。平成6年(1994)12月2日、(句意)今夜は十三夜の月見に赴く約束だったのに、途中、升市で名物の升を買ったら、急に世帯気が起きて了簡が変り、月見はやめて戻ってきたわい。1694年(元禄7年)9月13日、松尾芭蕉 死のひと月前、住吉大社の宝之市神事に参拝し、名物の升(一合升)を購入した時の句。9月10日に発病して具合は悪く、この日、長谷川畦止亭での月見に参加する予定であったが、キャンセルした。翌日の句会で、この句を披露し、心変わりした非礼を詫びるとともに、心配無用と言いたかったのでしょう。しかし、回復することなく、10月12日に没しました。「たひ人と 我名よばれん はつしぐれ」(たびびととわがなよばれんとしのくれ)上野市駅(忍者駅)前駐車場貞亨4年(1687)冬の作、『笈の小文』の旅への歓送の句会で詠む 。季語は「初しぐれ」(句意)潔い初時雨にぬれながら、道々で「もうし旅のお人よ」と呼ばれる身に早くなりたいものだ。 初めての旅『野ざらし紀行』における句「野ざらしを心に風のしむ身かな」と比較した時、その精神的余裕は大変な相違です。『野ざらし』の頃と比べて芭蕉は既に十分有名であったし、これから先の伊賀までの旅路には多くの蕉門の弟子たちが師の訪れるのを待ってくれている。
2020年03月03日
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護摩堂の奥の岩前に岩屋不動(江戸時代作)が剣と縄をもち、2童子をしたがえて立っている。左眼を閉じ右眼を開けて睨むのを「阿遮一睨(あしゃいちげい)〙 (阿遮はacala の音訳で、不動明王の梵名。一睨は左の目を閉じ、一眼でにらむこと) 仏語。不動明王の一眼で激しく怒った形相(ぎょうそう)。転じて、威徳があって勇猛な様子。」昔から不動明王は「片目だけ開る」のか「両目を開ける」のかでそれぞれ解釈がありました。たとえば「阿遮一睨」とおっしゃったのは弘法大師ですが、弘法大師がお描きになった不動明王像(あるいは仏像)は両目を開けておられます。これについて古の註釈によると、片目を閉じる不動明王は釈迦不動だとし、両目を開けた不動明王は大日不動だという説明がまた「片目を閉じることはより深遠な意味がある」とし「真理を凝視している」意味だとも説明されます。新大仏寺での説明では天地眼と言い右目は上を左目は下を向き上下を困っている人がいないか常に見渡しているとのことでした。その岩屋不動の前には、かつて岩にほられて崩れ落ちた不動のお顔が左右に祀られていました、右側のお顔、片目をつぶっています。そうすると釈迦不動でしょうか。右側に落ちた腕が立てかけてありました。左側のお顔、両目を開けているので大日如来でしょうか。護摩祈祷で護摩木を炊く後ろ側にあります。左側に本殿、右側に大仏殿浩宮徳仁親王殿下 記念之碑 大仏殿の東側にあります。昭和53年3月に当時学習院高等科にご在籍されていました浩宮皇太子殿下がご学友と共に新大仏寺でご宿泊されました。その記念の碑その際に新大仏寺の檀家が献上しました「ぼた餅」を皇太子殿下が大変お気に召され、その後に美智子妃殿下より昭和天皇陛下へそのお話がお伝えになられ、それ以後数十年に渡り皇太子殿下のお誕生日にお年の数だけ皇居にご献上に上がっておりました。言うまでもありませんが浩宮様は現在の今上天皇(きんじょうてんのう)です。新大仏殿 (宝物庫)現在お寺では盧舎那仏としてお祀りされていますが、もともとは立像の阿弥陀如来として造られたとのこと。頭部のみが快慶が造った当時のものです。芭蕉が訪れた時には頭部と石造台座のみでしたがその頭部を基に江戸時代に作り直されました。木造如来坐像 体部は江戸時代の補作ですが、頭部は快慶の作で、頭部内面に「大和尚南無阿弥仏」(重源を指す)、「大仏師安阿○○○」(安阿弥陀仏 = 快慶のこと)の銘があるそうです。文化財、附(つけたり)指定の石造基壇は造像当時のもの。その石造基壇新大仏殿(宝物殿)1階
2020年09月21日
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息速別命(いこはやわけのみこと、おきはやわけのみこと)古事記や日本書記にも伝わる 古代日本の皇族。 その墓といわれる宮内庁管理の墳墓 第11代垂仁天皇の皇子とされます。 10代天皇までは神話の中の世界といわれ実質初代天皇です。 この天皇は3世紀後半から4世紀後半前半の人と思われます。 伊賀国造(いがのくにのみやつこ) 先代旧事本紀』「国造本紀」には、成務朝に垂仁天皇の皇子である意知別命の3世子孫・武伊賀都別 命が伊賀国造に任じられたとされます。 また同天皇の皇子・息速別命を祖とする説ある。允恭朝(5世紀前半)に4世子孫の須珍都斗王が阿保姓 を与えられました。 いずれにしてもこの息速別命が伊賀国造 (いがのくにのみやつこ)より一世紀ほど先に伊賀に、 入った皇室ということになり伊賀という言葉の元になった人ということになるかと思われます。 息速別命の墓(阿保親王墓) 奥に宮内庁所管の陵墓があります。 阿保氏(あぼうじ、姓は君)で、一時は建部(健部)氏を名乗る。雄略朝の意保賀斯が武芸に秀でて いたため武部(健部)と改姓するが、延暦3年(784年)に人上が阿保朝臣を賜り、同族が阿保公となった。 近江国の小槻氏も貞観年間に改姓するが、こちらは息速別命の異母兄弟の落別命の末裔。 国造の本拠は伊賀国伊賀郡阿保村で、現在の三重県伊賀市(旧青山町)にあたります。 阿保頓宮跡があります。 阿保頓宮跡は息速別命墓の東側にがあり、入口に標識がありました。 伊賀国に宮室を造って住んだということで頓宮跡が残っています。 阿保に宮室を築いてお住みになっていたことから、通称は『阿保親王』と呼ばれ、その子孫も代々 阿保の地に住み、第19代允恭天皇のとき居住地の名により『阿保』という姓を賜ったといわれます。 阿保頓宮跡碑 その標識を登ったら城跡のような台地があり石碑があります。 跡地は思ったより高く広いものでした。 この平地状の地が数カ所あり後の世には城郭としても使われていたと思われます。
2021年02月14日
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北泉邸、国指定登録有形文化財 北泉優子氏が館長脚本家で作家の北泉優子(まさこ)氏は、上野高校の出身NHKに入局されたのちドラマの脚本や小説を発表され「忍ぶ糸」や「魔の刻(とき)」が映画化されました。アマゾンで検索すると12冊の小説があがります。下見板張りの壁面に、明治の洋風建築の特色でもある「上げ下げ窓」設計、施工とも当時の上野市(現伊賀市)在住の寺社大工の安場直諒(なおあき)さんによるものだそうです。安場さんは堺や神戸に何度も行き洋館などを写し描きし、これを元に設計したと伝えられています。玄関ポーチもう一人の女性作家、岸宏子氏は昨年お亡くなりになったが、この人もNHKなどの脚本を書き1977年、銀河テレビ小説『巣箱』の脚本に対して、第14回ギャラクシー賞・選奨を受賞1990年には紫綬褒章、1995年には勲四等宝冠章を受章しました。父は作家横光利一氏といとこになりますが、宏子さんは一回しかお会いしなかったそうです。また「ある開花」は「夫、売ります」として映画化され「喜劇 売らいでか」としても舞台化され昨年まで浜木綿子主演で500回を超えて上演されています。この「ある開花」と北泉優子さんの「忍ぶ糸」は主人公が伝統工芸の組みひもに携わっていてその組みひもに対する関わり方、心性が改革を試みる方と受け入れる方で対照的ではありますが伊賀の女性を描くときやはり組みひもが大きな要素になるのでしょう。 新伊賀上野城主 伊賀文化産業協会の新専務理事の福田和幸さんの講座から
2015年10月19日
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先日、津市の方々を西島八兵衛の墓、正宗寺に案内したとき 「津市にも銅像があります」 と言われよくご存知の人達ばかりだったので墓地その物の説明をしました。 箱型の墓石で大変珍しいものだと思われますが多分、池を表しているのかと思います。 大兎謨(だいうぼ)寛永年間、西嶋八兵衛が、香東川の改修の時、中国の夏国の大聖禹王の 謨(計り)にあやかり「大禹謨」と石に刻み、川中に祀ったそうです。その石をかたどった、 香川県産のお菓子があるようです。 兎は、2007年に兎王碑が発掘されそれまで疑問視されていた存在を考古学的に実証された。 司馬遷の「史記」に夏の初代王で黄河を治水し伝説となり江戸時代、大変崇められました。 香東川を表しています。 この香東川や日本最古のため池、満濃池が干上がり、池内に村が出来ていたところを開拓し 直したことなどで香川では今も恩人として、この正宗寺に墓参りに来てくれるそうです。 西島八兵衛を会に入るまでは、奈良にあった今の奈良県と京都府の藤堂藩の飛び地領の 城和奉行(五万石)を務めていたこと以外に知識がありませんでしたが入会後に得た知識で浜松の 生まれの人がなぜ藤堂藩士になったのか疑問でしたが、もともと父親が藤堂藩士で病気療養中に生まれたようです。 徳川家康が駿府(静岡)に隠居し高虎も付いていった時、西島八兵衛を召しかかえたようです。 そしてなぜ讃岐に行ったのかというと娘が讃岐藩主、生駒正俊の妻になっていた高虎の命で ということでしょう。 この西島八兵衛が、藤堂藩の土木技術士で現場監督ともいえる実務者で城造り、石垣造りの 名人と藤堂高虎が言われるようになったのも八兵衛の功績が大きかったもようです。
2015年12月07日
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伊賀市須原大橋広場句碑 「からかさに おし分け見たる 柳哉」 元禄七年(1694)江戸芭蕉庵で詠んだ句 句意 春雨がしだれ柳の枝から美しい雫となって落ちている。傘をさしてその風情に見入っていたが、 ふとその柳の枝を分けてみたくなり、思わず傘をすぼめながらみた。 句碑西側の河畔に柳の木があります。柳の木があるのでこの句を選び句碑を建てたのでしょうか。 新大仏寺へ行く道中、柳を見たと言ったとのことでこの句碑を建碑したとのことでした。 そうすると柳の木は後から植えたのでしょうか。 傍らの道中祈願塔に「南無阿弥陀仏」と刻まれている。 「右なら 大坂道」とあり 嘉永二年(1849)と在銘があるので句碑も当時建てられたものでしょう。 伊賀市鳳凰寺(ぼうじ) 鳴塚(なりづか) 6世紀後半頃の古墳 「天皇のご譲位があるたびに塚が鳴る」という伝説から、「鳴塚」と言い伝えられてきたそうです。 乳文鏡、玉類、須恵器など、数多くの副葬品が出土していますが、中には他に類を見ないものもあり、この地の古代からの文化の高さを物語っています。 埋葬者の説は、大友皇子の生母、伊賀釆女宅子(いがのうねめのやかこ)とか宅子の父親の伊賀山田郡司の説 そして弘文天皇(大友皇子)説もありますがはっきりとはしません。 天皇の譲位は1817年(文化14年)の仁孝天皇以来で202年ぶりとなりました。 1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法ではに天皇の譲位は認められていなかったが皇室典範 特例法が2017年(平成29年)6月16日に制定された。2019年/平成31年4月30日23時59分を以て明仁 は退位、翌日の2019年/令和元年5月1日午前0時0分を以て皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位・践祚、退位した天皇は上皇となり、約200年ぶりの譲位が実現した。 約200年ぶりということで沢山の人が聞こうと集まったとのことですが残念ながら確認出来なかったそうです。 植木神社内芭蕉句碑 「枯芝や やゝ か希(け)ろふ能(の) 一ニ寸」 芭蕉 冬の色が濃いが枯れ芝の上に一ニ寸の陽炎が立ち暖かさがあり春も近いのか 新大仏寺の句も陽炎がありますが同じ年の伊勢参りの道の句ですので発想が似たのでしょうか。 中ノ瀬磨崖仏 伊賀市中瀬 伊賀市最大の磨崖仏 中央に阿弥陀如来立像 276cm 右に観音菩薩頭部 右脇に観音菩薩 135cm 最右に地蔵菩薩立像 251cm 左脇に勢至菩薩 153cm 最左に不動明王像 233cm 中央の阿弥陀如来立像は鎌倉時代のもので他は室町時代以降に刻まれたもの。 岩は花崗岩で花崗岩はマグマが噴火せずに土の中で固まったもので伊賀の山々はほとんど噴火して いないので花崗岩の宝庫です。
2020年09月22日
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伊賀市に二つの猪田神社があります。 その一つ伊賀市猪田の猪田神社 本殿は、国指定重要文化財で、本殿は桃山時代の粋を集めた、極彩色を施す建物 三重県では最古の建物らしい。 伊賀市猪田5139 猪田神社本殿 近世以前 神社 室町後期 大永7(1527) 一間社流造、檜皮葺 棟札6枚 天真名井覆屋(あまのまないおおいや) 猪田神社鳥居の手前左の天真名井の扁額の鳥居をくぐり山道を200M程進むと竹藪の中に天真名井が 現れます。 各地にある「天の眞名井の水」伝説は天上より黄金の鉢に入れ持ち降った御神水で天村雲命 (あめのむらくものみこと)がその水を初めに日向の高千穂の井戸に遷し、次に当社奥宮の眞名井原の 地にある井戸に遷しました。その後、倭姫命によって伊勢神宮外宮にある上御井神社の井戸に遷さ れたと伝えられています。 真名井神社として奉られている。 横の石碑は真名井神社社号標 この天真名井は神事に使う神聖な聖泉で、 倭姫命(やまとひめのみこと)が穴穂宮(現在の伊賀市神戸神社)に巡幸された時に掘ったとされる 井です。 元旦の早朝、若水取りの神事・御井祭が行われる名井で、伊勢神宮外宮の忍穂井と通じており、 大旱にも枯れない井ともあります。 もう一つの伊賀市下郡の猪田神社 鳥居の型式は厳島神社の鳥居と同じ型式 日本中でも他に類をみないと言われます。 拝殿の後、坂の一番上に本殿があります。 猪田と下郡のこの二つの神社は、1kmとは離れていません。猪田の御祭神は武伊賀津別命、 下郡は伊賀津彦神といわれていますが、同じ神様ともいわれています。下郡の本殿は17世紀初頭の 建立とのことで、猪田よりも新しいですね。 下郡の猪田神社の本殿は、側壁の装飾が鮮やかで美しいです。
2021年04月14日
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蓮池寺伊賀市上野恵比寿町蓮池寺までは恵比寿町、蓮池寺は蛭子宮を建て恵比寿神社の始まりとしたので恵比寿町でなければなりません。服部猪来菩提寺蓑虫庵三代目庵主菩提所大正4年(1915年)に旧友生街道よりご遷座された延命地蔵菩薩を祀る地蔵堂、そして右隣には、木造十一面千手観音像を祀る観音堂もある。観音堂は秘仏として閉められている。左、些中庵土芳居士供養墓 「正面」些中庵土芳居士供養墓「右面」享保十五年庚戌かのえいぬ(1730)正月十六日時世「左面」服部半左衛門保英 行年七十四右 服部猪来墓法名 「常誉光給禅定門」左に「池清濯道禅定尼」と刻まれているのは夫人でしょう蓮池寺は室町時代の永禄年間(1558〜1569)の頃、地元伊賀国印代村の豪族であった田中判官教近(教然大徳)が、 諸国を行脚した折、比叡山光明寺の智聖坊から、阿弥陀如来座像一体と、蛭子像一体を譲り受け、上野南の郊外、蓮池に草庵を結んだのがその始まりです。何故か上野地区の北部生まれの人が南部に庵を結び地名から蓮池寺とした。慶長十六年(1611)開基として現在地に開いています。しかし、江戸時代に2度火災に遭い、本堂を失った。その再建もままならぬときに、業火に遭い続け衰微した。それを寛永年間(1624〜1643)の心譽浄林上人の中興、文化年間(1804〜1817)の本堂再建を経て落ち着いた。本尊の阿弥陀如来は「伊水温故」に行基菩薩の作と伝える。(行基は8世紀の人で伊賀に赴任してはいるが時代に合わない)蛙方(あほう) 蓮池寺住職 法歴元年(1751)ー文政三年(1820)京都三条生まれ 寛政十年(1798)に芭蕉翁を慕うあまり当時無住の蓮池寺住職になり本堂を再建(玄長火事で焼失)した。蛙方は洛北芭蕉堂の高桑闌更(たかくわらんこう)に学んだが服部猪来の師成田蒼虬(そうきゅう)は高桑闌更の弟子なので京都の俳諧仲間だったと考えられます。蓮池寺に葬られています。法名 「祥蓮社瑞誉蔡華寛堂和尚」
2022年08月09日
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藤堂家紋蔦紋は子孫繁栄の象徴として用いられます。ですが藤堂家の最初の家紋は「丸に片喰かたばみ」カタバミ夜に葉が閉じて半分になったように見えることからとされます「傍食(かたばみ)」または「片喰(かたばみ)」と書きます。「酢漿草(かたばみそう)」と書くこともあり」「ほおずき草」と表記されることもあり藤堂家の家紋は「ほおずき草」だったと挙げられている説もありますが「ほおずき草」という家紋はありません。 丸に片喰かたばみ 藤堂高虎最初の家紋 豊臣秀吉の五七の桐紋 藤堂蔦紋 通常の蔦紋 藤堂蔦 高虎は豊臣秀吉から桐の紋を許されたが 「それでは恐れ多い」と上の花を取り「蔦紋」として用いるようになったそうで従って普通の蔦紋より下に潰したような形になっている。藤堂蔦といわれるます。 白餅 高虎が旗指物に用いた「三っ餅」。白餅は、「城持ち」にかけられているともいう。流浪生活中には三河吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋で三河餅を無銭飲食して捕まったとようで、吉田屋の細君もたまたま近江の出であったとことから、主の吉田屋彦兵衛に故郷に帰って親孝行するようにと路銀まで与えられたと言う。後日、大名にまで出世した藤堂高虎は、参勤交代の折に立ち寄って餅代を支払った。ゆえに藤堂高虎の旗指物は「三つ餅」なりました。なお参勤交代の際の主人は三代目中西与右衛門というもので、彼の先祖は織田信長に清州屋として仕え、本能寺の変の後吉田宿で酒問屋を始めたとされます。
2024年09月04日
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