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昨日、8月に走った「立山登山マラニック」の完走証とゴールの写真が、事務局からの丁寧な手紙と一緒に届いた。完走証には称名滝へ向かう途中の山道を歩く私の姿も写っている。そしてゴールの雄山山頂での写真は順番待ちで時間を調整して撮ったものだが、表情がやけに明るい。きっと苦労してたどり着いた雄山神社のゴールは、私にとっても凄く嬉しかったからだと思う。 さて、今日は11月30日。今日で11月は終わり、いよいよ明日から今年最後の月である12月に入る。月並みな表現だが月日の経つのは速い物だと思う。11月のランは「飯坂ふくしまマラソン」の42km以外はすべて距離8kmの帰宅ラン14回だった。その合計が154km。一方ウォークは194kmあり、これには自転車の走行距離の40%分も含まれている。 明日12月1日(土)はNAHAマラソンへ出発する日だ。昨日あたりから準備を始めたのだが、ホテルの宿泊券が見当たらない。慌てて古新聞を入れる紙袋の中を探したら、果たしてそこに入っていた。ツーリストから届いた資料の中には、沖縄で受けられる各種のサービス券が付いていた。走るだけで観光をしない私には不要だと思って捨てたのだが、その際宿泊券も一緒に捨ててしまったようだ。 券も「紙類」なのでリサイクルできると考え、古新聞と一緒にしたのだろう。9月の「佐渡島一周」の時も、雨で濡れてビショビショになった長距離バスのチケットを、「お土産の割引券」と一緒に何気なく捨ててしまったが、今回も同じ行動パターンを取ってしまったようだ。危ない、危ない。 さて、しばらく前から那覇の天気を注意して見ていた。レース当日の天気は晴れ時々曇りで、最高は23度、最低が18度ほどになるようだ。仙台と比べると最低で15度、最高で12、3度ほども違う。きっと体が慣れるまで時間がかかり、レースでも苦しむだろう。サングラスの着用はもとより、携帯用の塩やアスリートソルト、テーピング用のテープなども怠り無くバッグに入れた。服装はランパン、ランシャツで十分。それに帽子は不可欠。 今日はツーリストに電話して、ホテルの食事の有無と復路のチェックカウンターを確認した。食事は無しでの申し込みだと分かったが、レース当日の朝食時間を確認後でも頼むことは出来るだろう。帰りのチェックカウンターはツーリストの資料が間違っていた。那覇空港の場合今は同じ建物内だが、以前はJALとANAとでは出発する建物が違っていた時代があったのだ。 仙台空港まではバスと空港アクセス鉄道で行こうと思う。そして帰りの3日(月)の仙台着は18時30分なので、タクシーを予約した。空港から自宅まで1800円で乗せてくれるこの専用タクシーだと、重い荷物がある場合はとても助かって便利なのだ。 準備は整った。後は明日空港まで体を運ぶだけ。正直アンヨにも違和感のある部分があるのだが、制限時間は6時間ちょっとなので十分完走は出来るだろう。暖かい沖縄の風に体を早く順応させ、楽しく走って来たいものだ。まだ沖縄の走友には何も連絡してはいないが、奥武山グラウンドの一角に行けば、懐かしい顔ぶれがいつもの通り暖かく迎えてくれるはずだ。さあ、明日は1年ぶりに那覇の空気を胸いっぱい吸うぞ~っ!
2007.11.30
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昨日悪いやつが捕まったと言うニュースが流れた。まずこの数ヶ月、マスコミを賑わしていた守屋前防衛事務次官とその夫人。10年以上も前から特定の業者と癒着し、夫婦そろってゴルフなどの接待を受けていたと言う。その回数が300回とも言われているようで半端じゃない。普通の公務員なら1回付き合っただけでも直ちに処分を受けるだろう。 悪の道にはまったのは課長に昇進して個室をもらい、周囲の空気が読めなくなったことが始まりと言う。また母ちゃんも母ちゃんだ。土産をねだったり、部下の夫人を伴ってただで飲み食いし、代金は業者のツケにしたと言うから開いた口が塞がらない。私達庶民にはとても考えられないが、偉くなると善悪の区別がつかなくなるのだろうか。 彼ら夫婦が揃って宮城県出身だと言うからさらに嫌気が差す。本人は高校も大学も一流校の卒業で代議士の子息のようだし、夫人は老舗の造り酒屋のお嬢さんとのこと。耐震偽造で名を馳せた姉歯と共に宮城県の名を辱めてしまった。彼は詳細な日記をつけていたと言うから、今後ひょとしたら政界にまで影響が及ぶかも知れない。兎も角この際徹底的に膿を出し切って欲しい。 もう一つは香川で起きたお祖母さんと2人の孫が殺された事件。大方の予想を裏切って(?)、義理の弟が逮捕された。「噂の2チャンネル」でもそうした噂が飛び交っていたとか。某アイドルもまだ犯人の逮捕前なのに自分のブログにそんな感想を書き、所属事務所の判断で急遽文章を消去したとか。人間「顔」だけで即断してはいけない。こちらの事件も犯罪評論家が急増した感があった。 謹慎中の横綱朝青龍も確かモンゴルから帰国したようだ。明日は相撲ファンに対する謝罪会見があり、一方で横綱審議会に対しても謝罪がある模様。内舘牧子委員などは引退すべしと強く主張しているようだし、きっとこのニュースも日本中を賑わすのだろう。 そんな騒ぎを他所に、昨日私は博物館の「ハシゴ」をした。まず斉藤報恩博物館では「浮世絵名品展」を観た。これは現在平木浮世絵美術館所蔵だが、65年前までは斉藤報恩会で所蔵していたもので、松方コレクションなどと並ぶ素晴らしいコレクションなのだとか。 奥村某、勝川某、菊川某、北尾某、窪某、礒田某などと言うこれまで聞いたことも無いような絵師が描いた浮世絵は、確かに高いレベルのものだと感じた。それらの絵がヨーロッパにまで伝わり、印象派の画家などに影響して行ったのだから不思議なものだ。 2つ目は仙台市博物館で開催中の「東北大学の至宝」の再訪。前回観損じた河口慧海(かわぐち・えかい)と多田等観(ただ・とうかん)がチベットから持ち帰った経典、仏画、仏具などを観ることだった。インド、ネパール、チベットなど4千キロ以上も仏教関係施設を訪ね回った慧海。時の第13世ダライラマの寵愛を受け、別れに際し「チベット大蔵経」最善本のデルゲ版を餞に戴いた等観。見事な招来物は彼らの壮絶な苦労の旅を物語っていた。 私には業者からのゴルフ接待も現金の供与もお土産も来ない。だが千数百円の身銭を切って、自分の好きなものを自由に観る楽しさがある。これこそが平穏な日々だと、しみじみ有難さを感じるのである。
2007.11.29
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さてと、気合を入れて今日も続きを書きますか。(笑)<名古屋シティマラソン> 佐渡で一緒だった新潟のA子さん(銀のねこさん)。単身赴任中のご主人と名古屋で待ち合わせしてレースに参加されたとか。何せ雪の新潟から長野、岐阜経由ですから大変ですね。ご主人は10分前スタートの名古屋ハーフに出場。その姿を見送ってから今度は自分のスタート。1時間49分台で見事完走され、かつ無事に帰宅された由。メデタシメデタシ♪ 遠路遥々とお疲れ様でした~!!<屋久島エコ・ジャーニーラン> 「萩往還」250kmなど超長距離のウルトラに果敢に挑戦している大阪のむいむいさん。少し前の「ハセツネカップ」で足を傷めながらも初挑戦で完走されたのは見事でした。その傷が十分癒えないうちに、今度は距離80kmでアップダウンもある屋久島を8時間台で完走されたとか。まだ20代の女性が次々にウルトラレースを走破して行くのは壮観ですね。これからも頑張れ~。むいむいさ~ん。NAHAでは会えるかな?<小豆島タートルマラソン> 私の上司でもあった香川のウルトラランナーTANさん。昨年は残念ながらリタイヤされるレースが続きましたが、今年は出場したレースのほとんどを完走する好調ぶりです。「小豆島タートル」はアップダウンが厳しい往復コースですが、何とここで7年ぶりにサブ4を達成したとか。きっと日ごろからコツコツ練習を重ねている成果が出たのでしょうね。来年の宮古島でお会いできると良いのですが。<大山登山> この夏確か大腸がんの摘出手術を受けた神奈川のおばさんランナーさん。幸い症状は軽く、無事手術も成功されたようで幸いでした。目下積極的に歩かれているようです。HPを拝見したら、先だっては神奈川県内の大山(1252m)に登山されたとか。おばさんランナーさん、元気になって良かったですね。宮古島では私が1日後に走りますが、お会いできると良いですね。 この春箱根の山を走っている時に転倒して手を骨折された東京のちっちさん。おばさんランナーさんとは1日違いで大山に登られたようです。奥多摩の山を走ったり、関西方面に旧街道を歩きに行かれたりと日々元気で過ごされているようで何よりです。来年の3月はお台場の「24時間チャリティーラン」に行く予定ですが、そこでお会い出来るかな?<リハビリラン&ウォーク> 亡くなられたお母さんの介護日記を公開されている勇気ある神奈川の星峰さん。9月の「甲州夢街道」は痛む膝に注射してもらっての挑戦だったとか。その後も腰の調子が良くないようで治療中のようです。幸い効果があって、今はリハビリを兼ねたランやウォークをされているとのこと。その闘志には脱帽ですが、無理は禁物ですよ~。私も疲労骨折や膝の故障で5年ほど満足に走れないことがあったので、故障中の皆さんのご苦労は良く分かるつもりです。☆先日の宮城UMCの反省会の時に聞いた話ですが、ボランティアに応募すると翌年の「東京マラソン」に申し込んだ時に選考されるみたいですね。でも、仙台から旅費と宿泊費を出してまでボランティアをするのはどうもねえ・・。☆「ランナーズ」の1月号には結構ためになる記事が多かったように感じました。私にはもう技術的な解説は縁はありませんが、○土佐礼子とコーチをされているご主人の話、○オリンピック男女マラソンの20年間の話、○瀬古監督と増田明美さんの対談、○日本山岳耐久レース(ハセツネカップ)の話 などがそうです。 そんな様々な情報を刺激にして、また明日も走る積りです。ネットの走友の皆さん、本当にありがとうございま~す。寒さに負けず、お互いに頑張りましょうね~♪
2007.11.28
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もうすぐ11月も終わり、今年も残り少なくなりました。今日は私がほとんど毎日のように拝見しているHPなどを通じて、ネットの走友達の近況を書かせてもらおうと思います。若くて速い人も居れば、私と同じ歳や年上のランナーも居られますが、皆それぞれに頑張っているようですよ。そんな仲間達の日記や掲示板への書き込みを、自らの励みにしている私です。<走り込み月間> 長野の「走るナース」さんは現役の看護士さん。厳しい勤務だと思うのですが、とっても暖かで夢のある日記を書かれています。その彼女が10月は1000km以上走ったとか。私の最高はまだ40台だった頃の300kmちょっとですから、孫がいる女性としては大変な距離ですね。その後も「米担ぎマラソン」とか、地元のレースに出て居られる様子です。<東京国際女子マラソン> 今年の「サロマ」では10時間台で走った名古屋のおさるちゃん。ウルトラマラソンは退屈だと書いていましたが、東京国際女子マラソンでは3時間15分を少しだけオーバーして、大分落ち込んでいるようです。私から見れば立派な記録でも、きっと速い人には悔しかったんだろうね。でも野口みずきなど一流選手の走りを見られたことは良かったみたい。<雪道ラン> 佐渡で一緒だった秋田のF原(JUN)さん。膝など体のあちこちが不調のようですが、シバレル雪道を30kmとか44kmとか走っているようです。それも給水なしでのランだと言うので2度ビックリ。天気の悪い日はスポーツクラブで鍛えているようだけど、あまり無理しないでね~!!<大田原マラソン> レースではいつも写真を撮りながら走っている宮城UMC仲間のT田さん。制限が4時間の大田原Mでは珍しく写真を撮らずにマジで走ると宣言していたのですが、コース2周目の最終関門直前で旗を振られてアウトだったようです。う~む残念。そこさえ抜ければ、タイムは4時間過ぎてもゴールまで走れたんですけどねえ。でもこれが今年17回目のレースってのが凄いですね。今度の日曜日のNAHAでは会えると良いねえ!<つくばマラソン> 4時間を切りたいと書いていた千葉のぼくし~どん。残念ながら物凄いランナーの数と初めの頃の狭いコースで思い切り走れず、4時間をオーバーした模様です。でも来年4月末にある「ネーチャーラン」145kmの部に見事選考されたみたい。コースは岐阜県の白鳥から彼の実家がある金沢までのよう。「さくら道」が途中リタイヤだっただけに、何とか雪辱を果たしてね~!! 今年は30度Cを越えた「北海道マラソン」でリタイヤ。同じく30度Cを越えたシカゴマラソンでは自己ワースト記録ながら完走し、雪辱された千葉の亀仙人さん。直前に腰を傷めて出場が危ぶまれたのですが、25km辺りからスピードが落ちたものの4時間25分ほどで無事完走されたとか。私と同学年の亀仙人さんとは、今年の「佐倉M」や「長野M」で一緒だったみたいですが、まだ一度もお目にかかってないんです。何とか是非お会いしたいものですね。 韓国に2年以上赴任していた東京のPちゃん。週末には土日と連続40km走る強者なんですが、今回のレース直前2週間の外国出張で暴飲暴食したことが原因で通風の症状が出、残念ながらドタキャンされたようです。国際舞台で活躍する営業マンは辛いですねえ。
2007.11.27
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いや~、参りましたなあ。何がって、つい先日妙齢のご婦人から結婚して欲しいってお願いされましてね。それが実に優しそうな人で、私好みなんですよねえ。ところが残念なことにお願いされたのは私じゃなくて、うちの3男坊なんですよ。うちに男の子が3人もいたかですって?それがいるんです。 歳はまだ9歳ちょっとなんですが、もうアゴヒゲが白くなって来てるんです。おまけに毛むくじゃらで全身が真っ黒なんですよ。名前もマックスと言って、日本人離れしてるんですがね。えっ、もしかしたら犬じゃないかって?そうそう、ご名答。結婚してくれと言われたのは我が家の愛犬でしてね。 それでお相手はですって?同じラブラドルでもチョコレート色の毛とブルーの瞳を持った、まだ1歳数ヶ月のココちゃんなんですよ。ココにはトムと言う許婚がいたんですが、このトム君ご主人同様にちょっと太目(失礼!)でね。それに力が強過ぎて、ココちゃんが嫌がるようなんですよ。 じゃあ何故我が家のマックスにお鉢が回って来たかですって?う~ん。まあ相性がトムよりは良いってことかな。まだ春先のこと、ココが嫌がらずに自分の匂いを嗅がせたのはマックスだけだったみたいです。それが人間の歳だと22歳くらいの彼女はマックスよりも体も大きくなり、かつ強くなった感じなんですよねえ。だから彼女の姿を見ると逃げ腰になる情けない最近のマックス君なんです。 今朝も50mほど先にいるココの姿を見つけて、ビビッていたんです。角を曲がって姿が見えなくなって安心した様子だったのが、何とココが待っていたんです。ご主人の話では、やはりマックスのことを遠くから気づいたようで、家に帰らず道路で動かなくなったとのこと。う~ん、若い娘のココが、人間で言えば50歳を過ぎた我が家のマックス君に関心があるとは、どうしたもんでしょうねえ。 マックスがまだ幼犬のころ、私は仙台の自宅から山形へ通勤していたこともあって忙しく、彼はほとんど犬社会に慣れていないんですよ。やはり子犬の頃から仲間と接してやらないと、性格が人見知りならぬ犬見知りするようになるんでしょうかねえ。 さて、降って沸いた今回の結婚話ですが、来年春ココが発情する頃、果たして我が家の3男坊がプロポーズを受ける度胸があるかどうか。先方は子犬を産ませたいのでしょうが、親としてはどうも心配だなあ。って、本当のところは未だに独身の長男や次男の方が心配なんですけどね。さて、我が家の3人の息子共の運命は、一体どうなるんだろうか?う~む。
2007.11.26
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今日も朝から暖かく、とても冬とは思えない日だった。朝食を済ませた後、しばらく出来なかった庭仕事をする。まずは庭と畑の草取り。夏ほど雑草は生えてないが、それなりに冬の雑草がはびこっている。次に、このところの寒さで枯れた植木鉢の花を抜く。生き残った花を寄せ集めて一つの鉢にまとめてみたが、どうも色合いが変な具合だ。 次に自転車屋へ行く用意をする。荷物を積める自転車がパンクしてる感じなのだ。パンクの原因は秋口に敷石、芝生の束、砂利など重たいものばかり運んだせいだ。空気入れでタイヤに空気を入れれば、何とか自転車屋までは持つはず。ついでにマウンテンバイクにも空気を入れたら、タイヤの空気が一気に抜けてしまった。んんん?これはどうした訳だろう。 自転車屋の話ではゴム管が傷んでいたので交換したがパンクではないだろうとのこと。安心して本屋に寄って「ランナーズ」を購入。1月号には「ランニング日記」が付録として付いているが、これが目当てみたいなもの。次にスーパーに寄って新米10kgを購入。午前中だと5%引きだからと念を押されていた買い物だった。 ところが帰宅途中にタイヤから空気が漏れ出す。仕方なく坂道を押して帰る。厭になっちゃうねえ、忙しいのに。昼食を済ませてから再び自転車屋へ。今度は完全にパンクだと分かる。修理費は800円だったが、貯まっていたポイントが使えた。帰りに園芸店を覗くが、花の種類も少なく、値段も高いのでパス。 帰宅後空気の抜けたマウンテンバイクを押し、自転車屋へ3度目の修理に向かう。ギア付きのマウンテンバイクは通勤や買い物の際の足代わりだし、荷台付きの自転車は重たい荷物を運ぶのに不可欠。車のない我が家にとっては重要な交通手段なのだ。自転車を押して歩いていると本物の足の痛みも気にかかる。 弱点である右膝靭帯の痛み、つい最近痛み出した右足の親指の調子、全く問題が無かった左足が歩いているうちに痛み出したのは何故だろう。それに腰の調子も良くない。考えて見れば自分も歳だ。自転車同様どこかの部品が傷むのも当然かも知れない。この3連休で一度も走れなかったけど、まあ仕方がないか。 結局マウンテンバイクから空気が抜けたのはゴム管が抜けたからのようだった。料金は無料。ついでにギアも調節してもらった。往復6kmの距離のある自転車屋に3回も出かけたのはそこがマウンテンバイクを買った店だし、日曜日はそこしか開いてないからでもある。兎も角2台の自転車が乗れるようになって一安心。 帰宅後干した布団を取り込んだ後、荷台付きの自転車で別の園芸店に行く。買ったのはヴィオラと葉牡丹。午前中に植えたばかりの鉢の花を全て抜き、組み合わせを変える。やれやれ、これでようやく見栄えがするようになった。気になっていた最低のことしか出来なかったが、気分転換にはなったと思う。さて、NAHAマラソンまであと一週間。今年最後のレースを何とか楽しんで走りたいものだ。
2007.11.25
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昨日は勤労感謝の日。前夜宮城UMCの集まりがあって深酒をしたせいか、朝から体調が今一だった。それに最低気温が零下で道路には氷が張っているところもある。仙台は気温も上がらず最高は6度Cほどとか。いつもと違ってブルブル震えている愛犬を、毛布を敷いた玄関に入れたらようやく震えが止まった。寒さに強かった彼だが、少し歳を取って来たのだろうか。 妻はこんな休日も仕事がある。いつもは自転車で行くのだが、凍結した道路で転倒する可能性があるので無理せずバスで行ったようだ。私もパンクした自転車を修理したり、植木鉢の花を植え替えたりする仕事があるのだが一切無理しないことにした。ゆっくり新聞を読み10時のおやつをいただき、昼食の後にテレビで「国際千葉駅伝」を観戦。 2区の福士加代子は自ら志願しての出場だったようだが、中国の合宿から帰って間もないのに疲れも見せずに優勝候補のケニアとの差を3秒までに詰める快走。4区の絹川愛は仙台育英の高校生だが、このところ日本選手権などでも大活躍している。この日も2人を抜き、区間新記録で2位に上がった。最終6区の赤羽有紀子はホクレン所属のママさん選手。今年の世界選手権で優勝したヌデレバをあっさり抜いて優勝をもたらした。こんな強いママさん選手が日本にもいたんだねえ!?やはり日本は女子選手が強~い! 夜はテレビで「佐賀のガバいばあちゃん」を観る。原作ではもっと悲惨なのだろうが、テレビだとそれほど貧乏にも感じられない。だって佐賀に行くのに新しい革靴やシャツを着ているんだもの。私が子供だった戦後間もなくの頃はあんなもんじゃない。着る物は「継ぎはぎ」だらけで、袖は「あおっぱな」を拭くためにピカピカだったし、食べるものがないため栄養不足で皆ガリガリだった。冬でも足袋に下駄で手足はひび、あかぎれ、しもやけで真っ赤だったものねえ。 今日は一転しての好天気。妻と山越えで歩き仙台市博物館へ。特別展「東北大学の至宝」を観るためだが、招待券を送ってくれた後輩が受付に座っていた。3連休とも出勤で、「江戸東京博物館」での展示の際も出張していたとか。今年創立100年を迎えた東北大学の所蔵品はさすがに凄かった。 まず国宝が2点。まず中国の王朝史である「史記」は延久5年(1073年)の写本で文章博士大江家に伝わるもの。また我が国の六国史を再編集した「類じゅう(驟の馬がない字)国史」第25巻は平安末期の最古の写本の一つのものとのこと。宮城県石巻市にある沼津貝塚から出土した縄文時代の骨角製装身具は、見事な彫刻を施されたもので重要文化財指定品。これほど精緻なものは極めて稀だと思う。 ここまで書いて、明治期河口慧海がチベット僧に扮装して入国し、我が国にもたらしたチベット仏教(ラマ教)関係の展示を見て来なかったことに気づいた。仏像、大蔵経、仏画などどれも貴重な資料のはずだし、同じ明治期に行った大谷光しょう(糸偏に召)探検隊の収集物と遜色がないはずだ。何とかもう一度見に行きたいと思う。 私は11の大学と博物館に勤務したが、同じ国立でもその歴史、規模、予算、施設、研究成果と社会的評価など、あまりの違いに驚く。東北大学は「研究第一主義」を標榜するだけあって、その所蔵資料も世界に誇るものだった。 これで今年観た美術展などは「河北美術展」、「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」、「早大エジプト発掘40年展」、「日展100年」、「芹沢けい(金に圭)介が集めた仮面展」に続いて6回目になった。
2007.11.24
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時ならぬ大雪の中を宮城UMCの集まりに出かける。今年1年の反省と言うから、まあ少し早目の忘年会みたいなものか。本当は第一現場のビルに寄り、遅番の人に挨拶をしたかったのだが、雪とラッシュのせいでバスが遅れてしまった。会場のビルに行くと中はたくさんのお客で大入り状態だった。 このところ走友会の練習もご無沙汰していて、久しぶりに顔を合わせる人も多い。中には勤務先から直接来られた人もおり、いつもと違ったネクタイ姿がりりしく見えた。古川のS藤さん、T田さんの姿が見えない。翌日は大田原マラソンに出場予定のようなので欠席されたのだろう。集まった仲間は40名ほどだろうか。皆とても元気そうで嬉しい。 世話役のU海さんの司会で開会し、まずはM会長の挨拶。利尻岳での負傷以来腰の調子が戻らないようだが、それでも来年に向けての意欲が凄い。乾杯に続いて懇親会に移った。仙台明走会のT中さんは欠席だったが、「飯坂ふくしまマラソン」では女子の2位、年代別で1位だったとか。レース中は2位の選手がぴったり後ろにつけていたが、ゴール間近の下りで抜かれたのかも知れない。 明走会のメンバーのうち10名近くがNAHAマラソンに行くとのこと。そして来年1月の「宮古島ワイドー」にも7名ほど参加されるみたい。2つのレース共きっとコースのどこかで顔を合わせることが出来るだろう。これでまた楽しみが増えた。それにしても若い人が多い走友会は、行動範囲が広くて活発だ。 出席者中最年長のO原さんは全日本マスターズ選手権で1位になったとか。どんな種目があるか聞いたら、トラック競技だと60mから1500mまでだそうだ。彼は5種競技にも出てると話していた。今年70歳になるO原さんにそんな横顔があるとは知らなかった。これもまた自分にとっては新たな刺激になった。 O川さんY田さんと来年の予定レースについて話をする。2人とも8月の「立山登山マラニック」に出てみたいと言う。立山は素晴らしい眺めでお勧めだし、私自身も出たいと思っている。問題は9月。3年ぶり開催の「秋田」か、3年連続の「佐渡島一周」か悩むところだ。連続10回で「クリスタルカード」がかかっているO川さんは迷わず「秋田」の模様。きっと宮城UMCの仲間の大半は秋田に行くと思う。 今年ウルトラを初完走したI藤さんは相変わらずのニコニコ顔。陽気になったK村さんが向こうのテーブルから盛んに手を振り、私もそれに応える。美味しい料理に箸を伸ばし、お湯割の芋焼酎をグイグイ飲んでいるうちにかなり効いて来た。そのうち席を立っての移動が始まり、話が盛り上がると一層酔いが回る。飲んだ焼酎は6杯か7杯。最後の方は誰彼となく「ハグ」攻めにして迷惑をかけてしまった。ドウモスミマセ~ン!(笑) 帰りのバスは酔って眠りこけ、ようやく降りるバス停の1つ手前で目が覚め、事なきを得た。それから凍結した雪道を約1kmほど歩いての帰宅。足はフラフラで道路はツルツルだったが無事に家に辿り着く。やれやれ。それは良かったのだが、風呂に入る前に体重を量ったら何と2kgも増えているではないか。うひゃ~!それだけ飲み食いしたのかと思うと恐ろしくなった。最後に一言御礼をば。幹事さん、どうもご苦労様でした!!
2007.11.23
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沖縄勤務時の私の職務の一つが沖縄関係資料の収集に努めることだった。言語学者仲宗根政善氏が聞き取り調査した膨大な琉球語関係資料や、戦後占領軍GHQ関係資料のうち米国政府が解禁した沖縄関係マイクロ資料などを予算化したのもその一つだ。 だが、内地から購入した古書やハワイから寄贈された図書には、本を食べるザウテルシバン虫などの害虫が巣食い、羽化した虫が書庫の中で飛び回る事件も発生した。この時は大至急薫蒸して難を逃れた。職場には沖縄関係の資料室があり、職務を兼ねて歴史、文化、宗教、文学、民俗、地誌、自然環境など目ぼしいものを手当たり次第読んだ。きっと200冊は下らないと思う。 たった2年間だが博物館勤務を命じられたことがある。大阪時代のことだ。この博物館は特定分野の大学院が置かれているため、一般の学芸員ではなく教授から助手に至る研究者が配属されていた。私の職務は博物館活動や研究活動を支えるシステム関係で、慣れない業務で苦悩の日が続いたが、個人的には博物館そのものは大好きでとても勉強になった。 ごく近くには日本民芸館の分館や国際美術館もあり、京都国立博物館、奈良国立博物館なども同じ組織だったため、無料で観覧出来たのが嬉しかった。特に毎年奈良で開催される「正倉院展」の素晴らしい国宝を近くで観られたのは何よりのプレゼントになった。また自宅から近い京都へは良く出かけ、神社仏閣などを初めとする日本の古い文化に接することが出来た。 職場だった博物館へはアイヌで唯一の国会議員だった萱野茂氏が良く訪ねて来られた。博物館の中にあるチセと呼ばれるアイヌの小屋で年1回宗教儀式を演じるためだった。その縁で、後年北海道の同氏宅を訪ねたことがある。氏は自分の力で小さな博物館を建て、アイヌの人権普及や文化保存のために尽力されていた。 オーストラリアの博物館活動に関する視察結果を研究雑誌に発表するよう薦めてくれたのが、韓国テレビドラマ「チャングムの誓い」日本語版の監修者だったA教授だった。教授の専門は朝鮮半島の文化だ。日本古代史に関心が深かったせいで、かねてから日朝交流関係についても何冊か本は読んでいたが、それらのことが私の関心を世界の民族の文化へと広めてくれた。 また正確に数えたことはないが、私が訪れた内外の博物館や美術館は多分60館は超えていると思う。このような経験などもあって私の蔵書には日本古代史関係のみならず、沖縄関係、アイヌ関係、日朝文化交流史など多様な分野の図書が並ぶことになった。 さて、前職を辞してから関心のある分野の新刊を選ぶ機会はほとんどなくなった。辞職後仙台に戻りビル管理会社に勤務して小遣い稼ぎをしているのだが、本との面白い接点があった。それは廃棄処分された本との出会いである。不要として捨てられた本の中には、私の興味を引く本が時々混じっているのだ。 これまでに拾った本の中には伊達政宗関係、奥の細道関係、古事記関係などの貴重なものがあった。まさに「瓢箪から駒」の類である。今読んでる「従軍慰安婦」関係の本も、拾った本の一つだ。それらの本をバス通勤や勤務開始までのわずかな時間に読んでいる。時々新聞に掲載される歴史関係の記事やテレビでの報道も、私にとっては貴重な情報だ 原始時代から現代に至る歴史の滔々たる流れ。そのほんの一部しか知識を持たない私だが、これからも色んな資料を通じて自分なりに「人間がこれまでどう歩んで来たか」を眺め、考えて行きたい。この趣味はマラソンと違って、きっと足腰が立たなくなってからでも続けられるのではないかと密かに期待しているのだが。<完>
2007.11.22
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日本の古代史が好きだった私だが、徐々に色んな分野について関心が広まって行った。それと同時に古代だけでなく、色んな時代にも興味を持つようになった。その一番の原因は、毎年観ているテレビの大河ドラマの影響かも知れない。大河ドラマの主人公はほとんどが支配者階級だが、私の場合はその時代の民衆がどんな心情でどんな暮らしをしていたのかも知りたいと思っている。 戦国時代に関心はあるが、城についてさほど関心はない。だが、全国を旅するうちに結構見ていると思うので試しに挙げておこう。青森:弘前城 宮城:仙台(青葉)城跡 山形:山形(霞)城跡、鶴岡城跡 福島:会津若松(鶴ヶ城)城 茨城:土浦(亀)城 東京:江戸城=皇居 山梨:躑躅ヶ館(甲府城) 長野:松本城 石川:金沢城 愛知:名古屋城、犬山城(遠望) 三重:伊賀上野城 京都:二条城 大阪:大阪城、高槻城跡 兵庫:姫路(白鷺)城、篠山城 鳥取:鳥取城 島根:松江城 岡山:岡山城、広島:広島(鯉)城、山口:萩城跡 徳島:徳島城跡、撫養城 香川:高松城、丸亀城(遠望) 愛媛:松山(金亀)城、今治城、大洲城、宇和島城 高知:高知城 佐賀:佐賀城跡 熊本:熊本城 特に立派だと感じた城は姫路城、熊本城、松山城、松本城だろうか。いずれも日本の名城で、かつ保存状態が良いものばかりだ。大阪城や皇居の石垣の立派さにも驚く。 これらに対して沖縄の城(ぐすく)は、外見もそうだが役割が全く違っている。琉球大学法文学部の教授だった仲松弥秀氏の著書によれば、「ぐすく」には次のような役割があると言う。1)王城(首里城、浦添城、今帰仁城など) 2)豪族の城郭(勝連城、中城、座喜味城、大里城など) 3)砦(安慶名城など) 4)見張り台(三重城) 5)宝物殿(御物城) 6)墓(志喜屋城など) 志喜屋城などは城と名はついてるものの実態は風葬墓で、これが沖縄ではもっとも古い形のぐすくのようだ。先に上げたぐすくのすべてに「聖地」の役割や機能が備わっていて、沖縄の城が単なる攻撃や防備だけでなく、祈りの場所であったことを示している。外見も首里城のように豪華な城は特別で、サンゴ礁が変化した石灰岩を積んだ石垣、アーチ型の石門、掘り抜き井戸、御嶽などを持つ、とても神秘的な存在のものが多い。 私は沖縄に3年間勤務したが、新聞店がくれた沖縄県下の市町村ごとの地図帳には、「城」の名がつく場所が各地にあった。日曜日の度に長靴を履き、バイクにまたがってそれらを訪れるのがいつしか私の仕事になっていった。長靴はハブ対策のためだ。ぐすくがあるのは大抵人気のない山の上で、周囲は草ぼうぼうのためハブの住処になっているところが多い。杖で草むらを叩きながら進むのだが、たまには「墓荒らし」と間違われることもあった。 そんな苦労をしながら訪ねた「城」は40箇所以上になるだろうか。きっと沖縄の人でもそんなに「城」を訪ね歩いた人はいないと思う。<続く>
2007.11.21
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私が訪れた神社の中でもっとも国宝の数が多かったのが宗像大社だと思う。本来の祭主である宗像氏は古代の豪族で、日本海を通じて古代出雲と同盟関係にあったとも聞く。同大社は福岡県北部にあり、3つの社から成り立っている。まず玄界灘の沖合い沖ノ島にあるのが沖津宮、海岸にあるのが辺津宮、そして少し山手の本宮の3つである。 沖ノ島には縄文時代以来の遺跡が多く、山頂部や岩陰には土器などが散乱しているようだ。島全体が神域のため、漁船は台風などでの遭難時以外は上陸できないことになっていて、年に数回神主が乗った船が島に横付けされるとか。 奈良時代、今は無人のこの島に特別な任務が存在した。それは遣唐使や遣隋使が乗った船の航海の安全を祈ることだった。つまり使節が乗った船は博多の那の津などから出航して、沖ノ島周辺を通り、中国大陸へと向かったのだ。国家の威信をかけて安全を祈願する際に、神前に供えた品々が時代が下ってから国宝に指定されたと言う訳だ。銅鏡、金製の細工、宝石、古い太刀など、どれも素晴らしい芸術品だった。 同じ国宝でも瀬戸内海の島にある大山祇神社のものは一風変わっている。この周辺は古来から交通の要衝で、戦国時代は村上水軍の支配地だった。そのような地の利の関係で、この神社に奉納されたのは数多くの武具だった。平氏、源氏それぞれが戦勝を祈って、太刀、鎧(よろい)、兜(かぶと)、弓、薙刀などを供えている。どれも見事な作りのものばかりだった。 さて、これから訪れたい神社の第一は諏訪大社だろうか。日本の奇祭の一つである御柱祭もこの目で見たいが、境内に立つ柱だけでも十分その価値はあると思う。古事記には「国譲り」の際、反対派だった大国主命(大黒さん)の息子が、遠く諏訪湖の畔まで逃げたとの記述もあり、縁起に出雲との何らかの関係を示す痕跡が残ってないか確かめて見たいような気もしている。 訪れた神社の名から漏れていたのが香川の琴平宮(金比羅神社)である。この神社は山上にあり900段以上もの石段を登って参拝するのだが、航海の神であることが面白い。全国各地にこの神社を勧請した末社が置かれるのは、やはり航海の安全を祈ったのであろう。ついでながら森の石松が親分の代わりに代参したのがこの金比羅さんだった。 沖縄の代表的な神社として挙げた波の上宮、普天間宮、白銀堂だが、いずれも現在は立派な社が建立されている。だがそればかりではなく、本来の原始的な痕跡も残っている。つまり三社に共通するのは洞窟だ。波の上宮裏の海岸には幾つかの洞窟がある。ここは元々風葬墓だった所だ。普天間宮は洞窟の真上に後代神社の建物が建てられ、白銀堂の境内には今も洞窟が残っている。両社とも本来は聖なる洞窟が信仰の対象だったと思われる。 私は神道を信じる者ではないが、日本人の遥かな祖先達が大自然の脅威に慄き、あるいはその恵みに心から感謝し、尊崇の念を抱いて自ずから神と仰ぐようになった心情を容易に理解することが出来る。ただ、国家神道として国民を戦争に導いた愚だけは繰り返してはいけないと思う。日本はもう神国ではないのだから。<続く>
2007.11.20
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高い山の上に神が降臨すると言うのは北方系民族の神話の特徴とか。古事記の中にも高天原から高千穂の峰に神々が降臨する話がある。山の上は目立ちやすいからだろう。古代、日本人の祖先達は、三角形の山や二つの峰を持つ山を聖なる山と考えたようだ。富士山のように整った山が前者で、男体山と女体山のある筑波山などが後者の例だ。 また私達の遥かな祖先は、高い木やこれの代用である柱、山上の大きな岩などに神が憑依するとも考えたようだ。だから初期の礼拝は山頂で行われた。それが次第に楽をして中腹、そして麓へと降りて来る。また礼拝の対象も岩や木、あるいは滝や雷と言った自然物だったのが、やがては鏡や剣、亡くなった貴人なども祀られ、同時に建物を建て神社として整えられるようになる。 諏訪大社の祭りで山から切り出した大木を坂の上から落として神社まで運んだり、運んだ柱を境内に立てたりするのは、全て大木に神が憑依したことを表しているように思うのだがどうだろう。また北陸地方の神社では、わざわざ旗柱を収めるための施設を作るほど柱を大切にしている。白山神社は元来新羅からの渡来人が信仰したことなどを考えると、とても興味深い。 また沖縄では未だに山上の大岩(隆起さんご礁)やガジュマルなどの大木や泉を神として信仰の対象としている。いわゆる原始神道で、山上から海に向かって祈る老婆の姿を初めて目の当たりにした時には、大層驚いたものだ。沖縄の小高い丘の頂上部はほとんどと言って良いほど、拝所(うがんじゅ)とか御嶽(うたき)と呼ばれる聖地になっていて、今でも時々線香を上げる人達がいる。そこには香炉と小さな祠しかなく、まさに太古の日本の姿を髣髴とさせるものだ。 私が感銘を受けた神社の第一はやはり伊勢神宮だろうか。昔はここで身を清めたと言う清冽な五十鈴川の流れ、1000年も手をつけなかった深い森、20年毎に遷宮される神宮の跡地など。そこには身が引き締まる静寂と神々しさが存在した。 さて、宮大工の世界にはかつて「雲太、和二、京三」と言う言葉があったそうだ。これは木造建築物の大きさの順で、雲太は出雲大社が第一、大和東大寺の大仏殿が第二、京の宮中の紫宸殿が第三であることを表している。現在の出雲大社にはそんな巨大な建物はない。毎年11月には全国の神々が出雲に集って住まうと言われる大社の社がいやに静かに感じたものだ。 ところが数年前のこと、工事中の境内から巨大な柱の跡が出土した。直径2mの柱3本を幅広い銅の輪で束ねたものが幾つも地中から現れた。高さ60mもの柱の上に神殿が乗っかる形の図面が昔から残されていたが、それが本当に存在したことが証明されたのだ。 千年以上も昔から地上60m以上の建造物を建てる技術があったことには驚かされるが、台風などの被害を受けやすいため、やはり再々立て直すのは困難だったのだろう。荒神谷遺跡などからの大量の銅剣や銅鐸などの出土、四隅突出墓と呼ばれる出雲独特の古墳の存在などからも、出雲地方には大和政権に太刀打ちできるほど強大な王国がかつて存在したことが裏付けられる。 出雲大社の宮司は2つの家が勤めている(つい最近一本化されたとか)が、片方の家には大昔兄弟のうちの一人が天皇の使いの話を信じたばかりにだまし討ちにあい、朝廷に家宝と所領を全て奪われたと言う「秘密の伝え」が残されていたとか。まさに神話の「国譲り伝説」そのものので不思議な話としか言いようがない。<続く>
2007.11.19
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本を読むのも勉強になるが、現地に赴くのも考古学や歴史学では大切なことだ。縄文時代を代表する三内丸山遺跡(青森)や真脇遺跡(石川)、また弥生時代を代表する吉野ヶ里遺跡を自分の目で実際に確かめたことが実に大きな体験になった。本を読み、現地を確認し、再びその遺跡に関する資料を読めば理解は急速に深まって行くし、自分なりにその時代について考えることも出来るからだ。 三内丸山遺跡から発掘されたヒスイは新潟県の糸魚川産、接着剤代わりに使われるアスファルトは秋田産、そして石器の材料の黒曜石は北海道産であることが分かっている。いずれも丸木舟で日本海や津軽海峡を渡ってもたらされたものだ。既に紀元前5千年の昔から遠く離れた地方と交流があったわけだ。 そして物見櫓の材料である栗の丸太の直径は2mあり、それを支えるための基礎には「版築」(はんちく)と言う後世の古墳の基礎に使われた工法が使われていることや、強度を保つために6度ほど内側に傾けていたことなどが大林組の実験で判明している。 またクリだけでなく、数種類の植物を集落の周囲で栽培していることが、花粉のDNA分析で分かっている。ドングリやトチの実は粉にし水に曝してえぐみを抜いて食料にしたようだ。獲物を追いかけて移動すると思われていた縄文人が、最近の研究では一箇所に集落を構え、集団で暮していたことが分かった。三内丸山遺跡には一片の長さが50mもある大型の家屋跡も出土している。ここは1500年にも亘って、代々人が住み着いていたのだ。 石川の能登半島にある真脇遺跡からは大量のイルカの骨が出土している。遺跡の前方には小さな湾があり、縄文人はたくさんの丸木舟でイルカを湾内に追い込んで捕獲した。同地では明治以降もイルカ漁が行われていたと言うから縄文時代から延々5千年以上、漁が続いていたことになる。 ここからはイルカの脂を燃やすためのランプ型の土器や、彼らの主食だったイルカの霊を祀るトーテムポールのような柱、男性器をかたどった石棒、御物石器などが出土しており、縄文人の精神性を窺わせる。また金沢近郊のチカモリ遺跡から出土した栗の丸太を割って立てたものは日時計と思われ、縄文時代の文化がかなり高かったことが分かる。 佐賀の吉野ヶ里遺跡は工業団地の造営工事中に発見された巨大な弥生時代の遺跡だ。遺跡の周囲を取り囲む城柵と堀、高い物見櫓、高床式の住居、合わせた甕棺に葬られた貴人とその副葬品などの存在はまさしく小国家そのもので、富の集中による身分制度が出現していたことを表している。中には邪馬台国のモデルと考える研究者もいるようだ。 私が注目したのは2点。一つは小高い丘の上に小さな神社があったこと。これは後世の人が、丘に眠るその地方の祖先を祀ろうとしたのではないかと私は考えた。2つ目は付近から奈良時代の官道跡が発掘されていること。佐賀周辺には弥生時代から卓越した小国家が興り、その後の奈良時代へと繁栄が受け継がれたと私は考えて見たのだ。 さて、仁徳陵や垂仁陵のような巨大な天皇陵は立派だが、天皇家や宮内庁以外の人間は原則として立ち入ることは出来ない。また深い樹木に覆われて、本来の陵の表面を見ることは不可能だ。これに対して神戸市垂水区にある五色塚古墳は、造営された当時の模様が忠実に復元されていた。 この古墳は巨大な前方後円墳で、前方部の一部が山陽本線の線路で切られている。そして目の前には明石海峡が見える。ここに眠る大王は狭い海峡を利用して、当時の海上交通を牛耳っていたのだろう。陵の表面には夥しい数の川原石を敷き詰めた葺き石が施され、中段の周囲を巨大な埴輪がぐるりと取り囲んでいる。そして古墳の直ぐ側には、大王に殉死して葬られた者の2つの陪塚がある。ここは天皇クラスの要人の墓ではないかと思ったものだ。天皇陵の中には間違って指定されているものがあるとの指摘があるのだ。 「百聞は一見にしかず」とはこのことか。現地を訪れ、本物を見ることで得られる知見は、時として読書による知識以上のものだ。長男、次男と一緒に頂上に登った岡山の作山古墳、造山古墳は共に巨大な前方後円墳で、「古代吉備王国」の存在を髣髴とさせるものだった。<続く>
2007.11.18
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初めのうちは考古学や日本の古代史にしか関心が無かったのが、本を読んでいるうちに段々興味の対象が広がって行った。また考古学には聖書考古学とか水中考古学などと言う分野のあることや、人類学などとの関係が深いことなども分かって来た。歴史に関しても文化人類学(民族学)、民俗学、宗教学、神話学、言語学などの知識があればさらに理解が深まることを知った。 残念なことに私は正規の授業でそれらを系統的に学んだことはないし、例え学んだとしても理解は困難だったと思う。素人の私に出来ることと言えば、仕事上で図書館に必要な図書を選ぶ時に自分の読みたいものをチェックし、自費で買うことくらいなものだった。こうして色んな分野の本が徐々に揃って来た。 買った本の大半は専門書で、専門家が専門家のために書いた本は当然ながら難解だ。最初の頃はたった1ページを読むために3日間ほどもかかった。それでも分からない箇所は飛ばして読むしかない。そんな風にして少しずつ専門書に慣れて行くと、素人なりにも理解できる部分が段々広まって行く。また、一般向けに書かれた本は早く理解が深まって助かるし、子供向けに書かれた本は基本的なことが分かりやすく表現されているのでさらに理解が容易だった。 欠点は私が自分のために選書した本が、果たしてそれぞれの学問分野で正当に評価されている研究者が書いたのか分からないことだ。それに考古学や歴史学の分野でも時としてトンデモナイ事件が発生する。 考古学の分野では「東北考古学研究会」とか言った学術団体の副理事長だった藤村新一が起こした「偽石器」事件。これは日本考古学史上最大の汚点で、あれによって30年間は学問の進展がストップすることになるほどの出来事だった。彼の全く個人的な名誉欲が、自分で作った偽物の石器を埋めては発掘して新発見する繰り返しで、55万年以上も年代を遡らせてしまったのだ。日本の旧石器時代を代表するとされた馬場壇、座散乱木、新高森など宮城県内の遺跡が、全てインチキだったのだから開いた口が塞がらない。 歴史学の分野でも東北人が偽古文書事件を起こした。青森県に住む和田喜八郎が、自分の家の天井裏から出た古文書を基にして書いたと言う「東日流外三郡史」ほかの図書が、実は史実に基づかない全くのデタラメだったことが出版の十数年後になってようやく確かめられたのだ。 これまでに類書のない同書ほかの記述は、古代東北の姿を髣髴するとしてマスコミに取り上げられ、それに味を占めた和田は次々に新書を世に送り出す。いずれも天井裏から出た古文書が原典だと言う。和田が書いた本の内容はやがて東北各県の市町村史にも引用される。また岩手在住の小説家である高橋克彦の歴史小説「炎立つ」などにも和田のストーリーが取り入れられ、いかにも史実であるかのように広まって行った。 だが彼はその古文書を誰にも見せることはなく、彼の家を建てた大工からは天井裏にそんな資料があるはずが無いとの証言も飛び出した。和田の著書が偽書であることは、やがて聖和女子短大の千坂教授の著書である「だまされるな東北人」や「東北を語る~偽りのない社会をめざして」で徹底的に解明された。古文書のコピーの字体と和田の字体が大変良く似ていることもその手がかりになったようだ。こうして和田の著書を引用した何百、何千と言う図書が何の価値も無い紙屑と化したのだった。 考えて見れば「邪馬台国論」などもその一例かも知れない。自分に都合の良い点だけ抽出して邪馬台国があった場所がここだと言い張る。結局邪馬台国は沖縄から東北辺りまで、さまざま説があるようだ。私の「歴史研究」の危うさもそれに似ている。私が読んだのはほんの一部分だし、新しい事実が次々と現れ研究されていることを知らないからだ。<続く>
2007.11.17
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研修旅行で行ったのは、会津若松(鶴ヶ城、白虎隊の墓など)、多賀城廃寺(当時は高崎廃寺)、松島町手樽の貝塚、仙台市岩切にある東光寺などだったと思う。手樽や東光寺は発掘調査の現場で、特に東光寺では学生に交って発掘の真似事をさせてもらった。出て来たのは経文が書かれた小石で、元寇などで国内に不安が満ち満ちていた鎌倉時代、多くの民が平安を願って奉納したもののようだ。 当時の下宿先からは裏道を通って三神峰公園に行けた。その道を登って行くと、小高い丘の頂上付近に何か不思議なものが落ちていた。小さな石を削って作った鏃(やじり)が、昭和40年頃にはまだ幾つも表土に転がっていたのだ。三神峰が縄文時代の遺跡であることや、古墳時代の円墳があることなどを知ったのはずっと後のことだ。縄文時代、きっと丘の周辺ではたくさんの獣が捕れたのだろう。 学生と一緒に読書会にも参加した。歴史の研究書を読み合うのだが、私は数ヶ月で辞めた。十干十二支を組み合わせて表現する年代すら読むことが出来なかったためだ。授業で歴史学の基礎的な知識を得ている学生に対して、何らの予備知識もない一職員とでは、所詮初めから知識のレベルが違っていたのだ。こうして私は本来の業務に邁進することになった。 それから数年後私は東京の大学に転勤し、医学部の図書館に勤めた。扱う資料はほとんど外国の雑誌と専門図書で、国内の図書館で初めてコンピュータを使っての業務電算化が進んでいた。横文字とコンピュータに悩まされた何年間かであったが、千葉から通った時に加曾利貝塚に行ったことがある。ここは日本でも最大級の著名な貝塚で、縄文式土器の作成年代を特定する基準にもなった土器が発掘されている。 3年にも満たない東京勤務の後、私は茨城県の筑波研究学園都市を皮切りに、徳島県鳴門市、沖縄、愛媛県松山市、大阪、山形、石川県、茨城県水戸市へと転勤を重ねた。歴史に関する図書を本格的に購入し始めたのは筑波勤務時代だった。乏しい小遣いではあったが、将来仕事が落ち着いたらゆっくり読もうと思ったのだ。そしてそれと同時に出張や旅行の際は、著名な遺跡、神社、古墳など歴史や考古学に深く関係する箇所にも立ち寄ることを心がけるようにした。以下にその一例を挙げて見よう。<遺跡・貝塚>三内丸山(青森:縄文)、多賀城(宮城:奈良)、加曾利(千葉:縄文)、真脇(石川:縄文)、大宰府(福岡:奈良)、吉野ヶ里(佐賀:弥生)など<神社>塩竃神社、金華山神社(以上宮城)、日光東照宮(栃木)、筑波山神社、鹿島神宮(以上茨城)、香取神宮(千葉)、気多大社、白山比め(口へんに羊)神社(石川)、熱田神宮(愛知)、伊勢神宮(三重)、春日大社(奈良)、平安神宮、下賀茂神社(以上京都)、出雲大社(島根)、吉備津神社、吉備津彦神社(以上岡山)、厳島神社(広島)伊予津彦神社、大山祇神社、石鎚神社、椿神社(以上愛媛)、大麻比古神社(徳島)、はこ(竹の下に呂)崎宮、宗像大社、太宰府天満宮(以上福岡)、宇佐神宮(大分)、青島神社(宮崎)、波の上宮、白銀堂、普天間宮(以上沖縄)など<古墳・天皇陵>雷神山、遠見塚(以上宮城)、大塚山(福島)、白山古墳群(石川)、今城塚、継体陵、仁徳陵(以上大阪)、垂仁陵、上なべ、小なべ、石舞台、太安万侶の墓(以上奈良)五色塚、車塚(以上兵庫)、作山、造山(以上岡山)、伊予津彦神社裏(愛媛)、宇佐古墳群(大分) などだがこのほかにもあると思う。<続く>
2007.11.16
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つい最近、新聞の連載小説が終わった。何とも不思議な感覚の話で、特に最後の終わり方が謎めいていた。話は変わるが、沖縄勤務の頃は3時の休憩が待ち遠しく、職場の新聞コーナーに行って連載小説を読むのが楽しみだった。当時(17~19年前)の沖縄では、本土の新聞は午後の飛行機で着くのが通常だったのだ。 前職を辞めた後、図書館から借りた小説を読み耽った時期があった。特に藤沢周平の時代小説は全集を読破したものの、最後には何故か物足らなくなった。やはり小説は「作り物」の世界でしかなく、真実にはとても敵わないのだろう。「事実は小説より奇なり」と言ったところか。 2月から続いていた沖縄料理店通いがこのほど終わった。たまたま訪れた料理店に沖縄関係の本が何冊かあり、店の方にお願いして借りて来ては読んでいた。それを月1度の通院時に返し、改めて次のを借りると言う方法で、そこの店で昼食を取るのがお礼代わりだった。 借りたのは歴史関係が多かったものの、文化、社会風俗、言語、宗教関係、児童文学など内容は様々で、中には泡盛に関する本もあった。それらの本は沖縄にいる父上の蔵書で、店の主人が帰省した時に持って来たようだ。専門書は一般市民が読むような内容のものではなく、とても不思議に思っていたのだが、父君が開業医と聞いてようやく納得した私だった。 「今度は私の本を持って来ましょう」。そう言って退散したものの果たして沖縄関係の本が何冊あったか。書架を探すと11冊ほど見つかった。だが、そのほとんどは歴史や文化に関する専門書で、あの店に置いてもお客さんが手に取って読む内容のものではない。本当は主人の父上に読んでもらいたいのだが、わざわざ重たい本を沖縄に届けてもらうのは無理だと思う。このままあの店との縁は切れるのだろうか。 さて、私が考古学や古代史に魅かれるようになったきっかけは、小学生の時に初めて貝塚を見たことだろうか。父親が借金を作って夜逃げした先の松山では、小学校高学年の頃から古本屋に出入りして、大型の美術書などを眺めていた。世界の美術家の作品や、ミロのヴィーナス、古寺の仏像などを観て、異常な興奮を覚えていたように思う。 高校1年の時に父が四国で客死し、再び故郷の仙台に戻った。当時遠見塚の近くにあった叔父の家に厄介になったのはそんな事情からだったが、ある日そこで不思議な物を拾った。つるつるしたきれいな石に丸い穴が開いたものだ。当時はそれが何か全く分からなかった。 「紡錘車」と呼ばれる古墳時代の遺物と知ったのはずいぶん後のことだった。多分滑石と言う石で作ったものだと思う。案外柔らかくて加工し易い石のようで、糸を紡ぐ時糸がよらないように使うみたいだ。あんな整った紡錘車が東北で出るのは珍しいようだが、残念ながらそれに気づいた時には行方不明になっていた。昭和35年当時遠見塚周辺は一面の畑で、畑の上を良く見ると赤い色をした土器の破片が幾らでもその辺に転がっていた。紡錘車もたまたま何かの拍子に拾ったものだった。 私が歴史学を身近に感じたのは、自ら希望して大学図書館に転勤してからのことだった。新しく出来た大学の初代の図書館長が日本史専攻の教授で、私は館長に可愛がられ仕事の傍ら「使い走り」をしているうちに、学生と一緒に歴史の研修旅行にまで行くようになっていた。<続く>
2007.11.15
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先日、暖かい日を選んで愛犬のシャンプーをした。多分これが今年最後のシャンプーになるだろう。専門店でシャンプーをしてもらうと5千円ほどかかる。たかが犬のシャンプーに5千円もかけるのは勿体無い。我が家では夏は水だが、それ以外は風呂の残り湯で洗うことにしている。 さて、妻が愛犬用の布団を作った。彼は結構気に入ったようで、一日中それに寝そべっている。その間に彼専用の毛布も洗った。すべては来るべき冬に備えてのもの。でも一番の準備は彼自身が着々と行っているはずだ。つまり夏毛から冬毛への切り替えだ。ラブラドル・レトリバー種は短毛だが寒さには強い。だが日本の気候に慣れて、徐々に寒がりになったのでは、とも思う。 先日の雨の翌朝、巡回中のビルの屋上から雪を被った蔵王の山々が見えた。今シーズンの初雪だった。その朝は、出勤前にガレージを掃除した。強風で吹き寄せられた枯葉が、固まっていたからだ。向かいの家のアケビの葉に、我が家の梅の葉もかなり混じっていた。これからは庭木が徐々に葉を落とし、淋しい冬の風景に変って行く。 そのガレージに干し柿が吊るしてある。向かいのKさんからもらった渋柿を剥いたものだ。ところがKさんのところの干し柿は、気温が高いためにカビが生え出したとか。さて、剥いた柿の皮も別の場所に干してある。乾燥したものを漬物に入れると甘みが出て、美味しい漬物になる。 庭ではシュウメイギクが咲き終わり、山茶花と菊が咲き出した。様々な色の菊が庭のあちこちを賑やかにしてくれている。あまり豪華な種類ではないが、素朴な花弁も結構可愛いものだ。その菊が枯れ出したら、いよいよ本格的な冬の到来だろう。 畑では大根が土の中から持ち上がり出し始めた。春菊や京水菜は既に重宝している。仙台雪菜はかなり茂って来たため、週末には間引きをする必要があるだろう。そしてタマネギの苗は成長の真っ最中で、来春にはこれまでで一番立派なタマネギが収穫できることだろう。 今日の帰宅ランでは、動物園脇の歩道で落ち葉掃きをしている人を見た。掃いても掃いても落ちて来る枯葉。そしてその枯葉の絨毯を踏みしめて走る愉快さ。天気予報だと仙台地方も明後日には今シーズンで一番の冷え込みになるとか。帰宅後、庭に出していた植木鉢のうち寒さに弱いものをきれいに洗い、家の中に取り込んだ。帰宅ランもそろそろ長袖シャツとジャージに替える日が近づいたようだ。
2007.11.14
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オールスポーツのHPで、「飯坂ふくしまマラソン」の写真を観た。私が写っていたのは4枚。いずれもゴール寸前のものだった。「今日は苦しそうだったね」。レースの後で私にそう言ったのはK山御大だったか、Y田さんだったか。自分ではそれほどとも思わなかったのに、写真の私は確かに物凄い形相をしていた。それだけ必死で走っていたのだろう。 さて、中日ドラゴンズがアジアシリーズで優勝した。予選のリーグ戦で敗れた韓国のチームに、決勝で見事雪辱を果たしての優勝だった。中日は公式戦での順位は巨人に次いで2位だったが、CSで勝ち上がって日本シリーズに臨み、昨年優勝の日ハムを下した。CSに入った後9勝1敗、アジアシリーズまで含めるとポストシーズンは12勝2敗の成績だった。 人気が低い落合監督だが、日本シーリーズで見せた投手リレーには執念を感じた。8回まで完全試合ペースだった投手を退け、9回から抑えのエース岩瀬を投入して優勝を決めた采配には賛否両論があったが、一見非情にも見えるその手堅い作戦を私は当然と思う。勝負事は勝ってナンボだ。どんな状況になっても、ベンチにいる落合監督の表情に変化はなかった。自分への評価を全く気にせず、信念を貫いてチームを優勝に導く彼の強さは、一体どこから来るのだろう。 そして日本シリーズでMVPになった中村ノリも、今年は天国と地獄の両方を味わった。契約のもつれからオリックスを退団し、一時は野球浪人になった。ようやく最後に中日が育成選手の枠で彼を入団させ、最低の年俸からスタートした今季だった。それが落合監督の厳しい指導の下でようやく実力を発揮して一軍に入り、最後は日本一の立役者になるのだから運命とは分からないものだ。 海の向こうではレッドソックスが土壇場でロッキーズをひっくり返してワールドチャンピオンに輝いた。残念ながら新人賞は取れなかったものの、松坂、岡島と言う2人の日本人投手が大活躍したし、松井稼頭夫ももう少しでチャンピオンに手が届くところまで行ったのは立派だった。 日ハムが梨田、西武(来年から埼玉西武)が渡辺、ヤクルトが高田と、来季は3人の監督が交代する日本のプロ野球。高校生ドラフトの日、涙を流した仙台育英の佐藤もヤクルトとの仮契約を終えて、ようやく笑顔を取り戻した。そして我が東北楽天の抑えのエースだった福盛は、フリーエージェント宣言をして大リーグに挑戦することになったようだ。 今季のシーズンは終わったが、プロ野球は私の心をずいぶんと熱くしてくれた。来年は果たしてどんなドラマが待ち構えているか楽しみだ。今週末17日(土)には東北楽天のファン感謝デーの催しがある。折角ネットで申し込んでゲットしたチケットだが、目下少年野球チームに入って頑張ってる、姪の息子に上げることにした。野球少年の夢がますます広がることを心から願って。
2007.11.13
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あまり楽しくなかった奥会津の旅だったが、それでも幾つか収穫があった。まず「大内宿」と言う昔の宿場町を見たこと。本で読むのと実際に目で見るのとはやはり違いがある。2つ目は会津鉄道。この鉄道は栃木県に入ると東武日光線に繋がっている。あんな山の中を走る鉄道が、乗り継げば東京の浅草まで行けるなんて不思議。 3つ目はバスの中からちらっと見えた「下野(しもつけ)街道」。大内宿の手前から山に入る細道がそれで、昔の人はあんな細い道をテクテクと歩いていたのだ。山を越え、谷を越えて歩いて行くと、やがて江戸に着くのだから不思議。そして4つ目が「大塚山古墳」。東北では名取市の雷神山古墳の次に大きい前方後円墳を、バスの車中から偶然見ることが出来た。 私達が良く利用するバスツアーは大手のY社のもの。大抵は昼食が付き、見所も豊富。中には温泉への入浴付きなんてのも珍しくない。料金が手頃で楽しめるのが良く、「奥会津の旅」もY社のものだった。今年は既に6回利用している。 これに対して、地元のバス会社が企画しているツアーがある。名前はズバリ「温泉バス」。今年初めて乗ったのが「薬莱高原と薬師の湯」行き。これはガーデンへの入園と温泉への入浴が半額で、アイスクリームがサービスでついた。 今回行ったのは福島県のあだたら高原にある奥岳(おくだけ)温泉。サービスは何も無いが、休憩のために大広間が提供され、3時間半の滞在で何度でも温泉に入れる。食事は自前でも食堂で食べても良い。我が家は自家製の太巻き寿司を持って行った。見所たっぷりで弁当付きのY社のツアーに比べれば、見劣りがするのは止むを得ない。ただ温泉好きの人にとっては、ゆったりと時間が取れるこちらの方が楽しいかも知れない。 奥岳温泉は安達太良山の中腹、高度950mほどのところにある天然温泉だった。この下には安達太良への登山口になる岳温泉がある。安達太良連峰へは学生時代に何度か登った。野地温泉に泊まり、翌朝早く出立して、確か箕輪山、鬼面山、鉄山、安達太良山と言う経路ではなかったかと思う。鉄山の裏側にある火山特有の荒涼とした風景が忘れられない。安達太良の山頂からは、バスが待つ岳温泉に下山した。あの頃は小さな温泉だったが、今回バスの車窓から見たら大きな温泉街に変わり、美しく整備されていた。 さて私は今回、ロングタイツ、長袖のTシャツをリュックに入れた。天気が良ければ走ろうと思ったのだ。また妻は絵を描く準備をしていた。だがホテルに着いた時は大雨で霧も立ちこめており、残念ながらとても絵を描いたり、走るような天気ではなかった。 そんな訳で、妻の作った太巻き寿司などを食べ、乳白色の「懸け流し天然温泉」に2度入り、本や新聞を読み、横になって少しだけ眠り、それでも十分に満足して帰って来た。何も説明のない添乗員に代わって、今回は良くしゃべるガイドさんだった。来月はまた妻と一緒に温泉バスに乗って、山形の赤倉温泉に行く予定だ。もうその頃はすっかり寒くなって、温泉場を走るのは無理かも知れない。
2007.11.12
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この半月で4回福島へ行った。そのうち2回は飯坂での麻雀大会とマラソンで、これは日記にも書いた。あとの2回は妻と行ったバスツアーで、行き先は奥会津とあだたら高原だった。会津でも磐梯高原へはウルトラマラソンなどで何度か行っているが、奥会津は滅多に行かない。若い頃柳津へ行ったのと、10年ほど前尾瀬に行く際に通ったくらいだろうか。 今回は大内宿と言う所を訪ねた。名前は聞いたことがあるけど、場所は知らない。会津の何町に大内宿があるのか添乗員に聞いても答えが無かった。まあ良いや。行けば分かるだろう。その朝初めて会った時からどこか変な添乗員だとの思いは、大内宿が近づいた時に決定的になった。 大内宿へ向かう道の両脇は見事な紅葉で、この時期を選んで良かったと妻と話していたのだが道路は凄い混み様だった。ナンバーを見ると他県の車ばかり。私達は知らなかったが、結構有名な観光地のようだ。「あまり混んでいるので次の「塔のへつり」は飛ばして、会津鉄道の田島駅に向かいます。電車に乗り遅れたら洒落になりませんから」。突然の添乗員の宣託に車内は騒然。その日の見所は、大内宿、塔のへつり、会津鉄道の3箇所しかないのに、その一つを飛ばしたらどうなるのか。 仕方ないと諦め、バスから降りて大内宿へ向かうツアー客の群れ。大内宿の概要は、案内図と配っていたパンフレットを見て知った。会津藩はこの会津西街道を参勤交代時に通る道として整備し、大内宿には本陣と脇本陣などの宿が設けられていた由。新しい国道の開通で長い間寂れていたが、昔の宿の大部分が残っていたことが幸いして急に脚光を浴びるようになったようだ。 40軒もの宿や古民家が軒を連ねる光景には圧倒され、まるで江戸時代にタイムスリップしたような気分になった。どの店にも土地の土産品が並び、大勢の観光客が楽ししそうに選んでいる。確かに一見する価値はあるが、あまりにも観光地慣れして何度も来る所のようには感じられなかった。 田島駅までの道は空いていて1時間以上前に着き、結局乗車予定の列車を変更した。車内から見えると添乗員が言っていた「塔のへつり」も全く見えない。車中から眺めた奥会津の風景も確かに良かったが、50km近い距離を1時間以上列車に乗る必要が果たしてあったのか。他のツアー客は「塔のへつり」駅や、温泉のある駅で降りていた。会津若松駅に降りた時、客の大半が怒っており、私はアンケートに不満を書く積りでいた。 その気配を察した添乗員が言った。「もう一度戻って「塔のへつり」を見学することにします」。バスの車内には拍手が響いたが私は拍手をしなかった。結果的に十分な時間があったにも関わらず、運転手と相談して数少ない見所の一つを飛ばすと言う早まった決断を下し、しかも適切な説明をしなかった添乗員の態度は、とてもプロとは思えなかったからだ。 「塔のへつり」は、大昔海底だった地層を阿賀野川が何万年もかかって削り取って出来た奇岩が並ぶ景勝地で、紅葉が美しく川面に映えていた。奇岩の一つには僧侶が籠もって修行した岩窟が残り、やはり観られて良かったと言う声が多かった。しかし、あんなに勉強不足で強気の添乗員は初めてで、後味の悪い一日になってしまった。アンケートの葉書には、ビッシリと厳しい意見を書かせてもらいましたよ。<続く>
2007.11.11
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<ピリ辛ラーメンと塩ラーメン> 預けた荷物を受け取ろうとテントに近寄った時、猛烈な痙攣が足を襲った。たちまち変形する下肢の筋肉。その激痛に耐えていると、今度は反対側の下肢に痙攣が移る。テントの高校生がどうして良いのか困った表情でこちらを見ている。私はポシェットからアスリートソルトの入った袋を取り出し、残っていた7粒ほどを口の中に放り込んだ。そしてスポーツドリンクで流し込む。 コースでは冷たい風が吹き、つい油断していたが、やはり汗をかき大量のミネラルを失っていたのだろう。幸いにしてアスリートソルトの効果が直ぐに現れたのか、左右1回だけで何とか痙攣は治まった。慎重に着替えをし、座ったままトン汁を食べる。ずいぶんぬるくはなったが、量が多くしかも美味い。塩分を失った体にトン汁が滲みる。 駐車場に戻るとO川さんが戻っていた。コースでも何度かエールを交わしたが、いつも余裕の笑みを浮かべていた彼は、楽に4時間を切ったと言う。そのうちK山御大が戻り、初フルだったE名さんが4時間41分で、またY広さんがその1分前にゴールしたことを知った。Y田さんが遅いのは、2杯目のトン汁を食べてるからとか。 途中でペースが速いと何度か心配したが、E名さんがあのままの勢いで走り切ったのは立派だった。終始彼女をリードしたM井さんも無事大役を果たして、さぞかしほっとしていることだろう。さらに立派なのはY広さんだ。2人の後でじっと耐え、最後の坂で逆転したのだろうか。自己新記録が出たようだが、ラストスパートする彼女の姿が目に浮かぶ。 結果はあの強い風をものともせず、仲間の全員が無事完走を果たすことが出来た。私は男子60歳以上の部で124人中45位だった。2台の車は受付をした飯坂温泉のホールへ戻って参加賞を受け取った。中身はグレーの洒落たTシャツ、箱入りのリンゴ3個、リンゴジュース、地元の名水、そして特産品のイカニンジンと盛りだくさんだった。 温泉へも行けたが帰宅を急ぐ人がいて入浴券を返し、Y田車は飯坂ラーメンの店に寄ることにした。ラーメン好きのO川さんがわざわざネットで調べた店だった。O川さんはピリ辛ラーメンを、他の3人は塩ラーメンを頼んだ。それが出て来るまで私は冷たい水を4杯飲んだのだが、K山さんは5杯も飲んだとか。それだけ体内の水分が不足していたのだろう。 店の若主人は、名物の「イカニンジン」を無料でサービスしてくれた。この辺りでは昔から海の魚が手に入りにくかったため、スルメを料理に用いたのだそうだ。また酒飲みが多いこの温泉地では、料理やラーメンに酢を入れて食べるのが普通らしい。 そしてつい先ほど私達が走ったマラソンが、地元にとって期待の事業であることも話してくれた。そう言えば飯坂温泉へ来る観光客が昔に比べて激減してると聞いたことがあった。またレースの実現のために、「磐梯高原ウルトラ」主催者のE藤さんの助言がかなり大きかったとか。 最後は疲れてヨタヨタ走っていたE藤さん。決して人付き合いが得意には見えない彼だが、あの胸にはマラソンを通じて何とか郷土福島の振興を図ろうとする熱い思いがたぎっているのだろう。新しく出来たマラソンの持つ意義を、たまたま寄ったラーメン店で感じさせられた私だった。<完>
2007.11.10
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<ランナーの意地とプライド> 追い風を背に受けてH多夫人を追う。かなり前に行ったのか、なかなか姿が見つからない。やがて1人の女性ランナーが目に付いた。真っ直ぐな姿勢にしっかりした足取り。足の筋肉も相当鍛えられている。若々しい後姿なのに手足に刻まれた深い皺だけが妙にアンバランスだ。その超ベテランランナーの横を静かに走り抜ける。 ASを過ぎた辺りでH多夫人の姿を発見。道路にしゃがんでシューズの紐を直してるような感じだ。彼女の名前を呼び、「行くよ~っ!」と声を掛けた。暫くは来ないと思っていたのに彼女は直ぐに追い着いた。それどころかダムの堰堤でとうとう追い抜かれてしまった。彼女に抜かれたのはこれで6度目か。 昨年の「奥武蔵」、今年の「立山登山マラニック」と「佐渡島一周」で、彼女は途中リタイヤしている。それを聞いて淡白なレースをする人との印象が強かったのだが、今日の彼女はその印象とはまるで違っていた。この粘りはどこから来るのだろう。ひょっとしたらこれが彼女の本当の姿だったのかも知れないと思い直す。 堰堤の端まで来ると、残り2kmの距離表示があった。ここからゴールまでは激烈な下り坂になる。膝に弱点を抱える私の足が果たして最後まで持ってくれるかは分からないが、テーピングをしたことがせめてもの慰めか。勇気を奮ってスピードを出す。H多夫人に追い着いたのは坂の途中辺りだったろうか。 その時、さらなるスピードで私達を追い抜いて行ったランナーがいた。女性の超ベテランランナーだ。「頑張って~!」。急いで後を追う私にH多夫人の声が響いた。「よ~し、どこまで行けるか分からないが、行けるところまで行ってみよう」。坂の途中に残り1kmの表示。 ついに超ベテランランナーを捕らえた。一気に抜いて前に出、そのままのスピードで角を曲がった。ゴールはまだ見えないが残りは少ないはず。前に見えたランナーを全て抜きゴールへ飛び込んだ。タイムは4時間17分ちょうど。自分の体調、コースと風の厳しさを考えれば良く頑張った方だと思う。一安心してシューズのICタグを外す。 ゴールした超ベテランランナーが誰かと話している。切れ切れに「私は70代」とか聞こえた。「やっぱりそうだったか」。超ベテランランナーに敬意を表しようと「お疲れ様でした」と言ったが、返事はなかった。2度も私に抜かれたのが悔しかったのか、それとも単に声が聞こえなかっただけなのか。 ランナーにだって意地もプライドもある。最後まで全力を尽くすのが自分の信条なのでゴール直前で他のランナーを抜くのは良くあることだが、レースが終われば相手を讃えるだけの余裕は持っている積りだ。それにしても苦しいレースだった。あの強いS藤さんも最後は苦戦していたように見えたし、レースの後半までトップグループにいた筑波大の院生が最後は歩いていたくらいだから、ほとんどのランナーが苦しんだのだと思う。 サービスのトン汁を手に、荷物預かり所まで行く途中にT田さんと会った。話をすると、超ベテラン女性ランナーと話していたのは彼だと分かった。女性は北海道の方で、「サロマ」を連続20回完走したと話していたそうだ。道理で足の筋肉をはじめ全身が鍛えられていた訳だ。そしてその実績に相応しいプライドも持っているのだろうと改めて思った私だった。<続く>
2007.11.09
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<ポシェットの中の秘密兵器> やがてK村さんが独特のフォームでやって来た。彼女は宮城UMCの有名人3婆の一人だ。その後には71歳になるK山御大。2週間前に「いわて北上」でフルを走ったばかりで少し疲れているような感じ。福島のT木さんの姿もどこかで見た。彼女は6月の「エンジョグinみちのく」に2度来られている。「磐梯高原ウルトラ」の主催者であるE藤さんが走る姿も初めて見た。彼はこの朝も来年7月にあるレースのパンフレットを配っていた。一人一人にエールを送ってすれ違う。 ダムの堰堤まで戻ると大勢のスタッフや応援の人が選手を励ましている。ダムの上も風が強い。多分高校生と思われるスタッフの人に「ご苦労様!」と声をかけると、しきりに照れている。きっとレースに駆り出されたのも生まれて初めてで、慣れていないのだろう。 対岸に渡り、再び北上すると強風が出迎えてくれた。折り返して来る選手と再び遭遇。D口さんの表情は相変わらず硬い。それだけこのレースに懸けるものがあるのだろう。この頃になってようやく胃が落ち着いて来た。前日はバスツアーで夕食が遅かったのに、今朝は相当早目の朝食のせいで胃がムカムカしていた。スタート直後、ダムへの登り道では吐き気がしたほどだった。Yの字の左上に当たる折り返し点にようやく到達。 背中に風を受ける下りは楽だ。堰堤を渡りYの字右上の折り返し点へ2度目の北上。距離感がなかなか掴めないが、まだkm6分を僅かに切っている感じ。何だかこのコースはどこかに似てると頭の中で記憶を辿ってみる。そうだ。高知県馬路村の「おらが村心臓破りフルマラソン」だ。 あそこは徳島県境の山からスタートして一気に下り温泉にゴールするコースだったが、ダム湖の側を通ることや、急な坂道が多いこと、集落(こちらはダム湖だが)を2周することなどがそっくりだ。違うのはあちらは9月で暑いことと、こちらは風が強いことくらいか。 折り返し点を過ぎて間もなく、宮城UMC仲間のK藤さんを発見し声をかける。「とうとう見つかった」とおどける彼女。「速いねえ」の声を尻目に、少しだけスピードを上げる。行く手に男女の2人組。「このペースだとゴールは3時間45分くらいかな」。会話を楽しむ余裕があるペースの2人に何とか4、5kmほど食らいつくが、とうとう追い着けなくなった。 Yの字右上への3度目の北上を果たすべくダム堰堤を曲がった時、ASからY田さんが後を追って来た。コース上で彼を見たのはこの時が初めて。前半からかなり飛ばしていたようだ。「ASに寄らないの?」。彼の質問に「ペットボトルがあるからね」と答えて先を急ぐ。 暫く行くと向かい風がさらに強くなった。この辺りまで互いにデッドヒートを繰り返していたH多夫人が、強い風に逆らって先行した。たちまち遠ざかる彼女の姿。ここまで何も口にしなかったためかガス欠になった感じだ。全くスピードが出ないのは向かい風のせいだけではなさそうだ。次のASで慌ててバナナとパンを頬張る。 最後の折り返しを過ぎると、私はポシェットから「秘密兵器」を取り出した。念のため持ってた大福を食べるのは今しかない。喉につかえないよう気をつけながら噛んでは飲み下す。ボリュームたっぷりの餡子に粘る餅。よ~し、これを食べたらきっと元気が出るぞ~!<続く>
2007.11.08
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<力走する仲間達> コースは先ず飯坂方面に下る。Yの字の下半分に当たる部分だ。暫く行くとコース上唯一の集落に出た。大勢の人達が手を振って応援してくれる。地元で初めて開かれるマラソン大会を目の当たりにして嬉しいのだろうか。集落の名は茂庭(もにわ)。珍しいその名称にピンと来るものがあった。 伊達政宗の重臣に茂庭周防がいる。彼の本来の姓は鬼庭だった。さる戦いで武勲を挙げ、政宗から鬼庭に代えて茂庭の名を賜った。その時に与えられた知行地がきっとこの地域だったのだろう。だが天下統一を目指す秀吉の小田原攻めに政宗は遅参した。一旦は怒った秀吉だが、切腹を覚悟し白装束で現れた政宗を見て、領地替えすることで許した。 取り上げられた領地は福島の伊達郡。ここは伊達氏の本貫(ほんがん=出身地)で気候温暖の肥沃な土地だった。先祖伝来の領土を失った政宗の無念さはいかばかりだったろう。その代わりに与えられたのが岩手県の北上市以南の冷涼な土地。このことで茂庭氏の知行地も、仙台市近郊に代わった。周防はその土地生出(おいで)を新たに茂庭と名づけた。こうして福島と仙台に2つの「茂庭」集落が誕生したと私は考えたのだ。 集落で折り返すとコースはダムの頂上までの急な登りとなる。私の側にはずっとH多夫人がついていた。いつもウルトラばかり走っているのでフルのペースが分からないと彼女。確かにそんなことがあるかも知れない。だがそのうちにきっと遅れるに違いない。私は内心そう思っていた。 坂道の途中で誰かが笑いながら追い抜いて行った。何というスピードだ。思わず顔を見たら東京のK合さんだった。それを慌てて追いかける宮城UMC群馬支部のメンバー達。信じられないことに、彼らは前夜1時過ぎまで飲んでいたようだ。それなのに有り余る元気はどこから来るのだろう。坂がきついのに加えて、真正面から吹く風が強い。これは大変なレースになりそうだ。 ようやくダムの上まで来ると堰堤に人だかりが見えた。ダムの上も大会のコースになっていたことに初めて気づく。コースはYの字の右上へと向かう。トップ集団の選手が見え出す。いずれも若い人ばかり。3位の選手の胸に「筑波大大学院」の文字。思わず「筑波頑張れ~っ!」と声を上げる。昔私が10年間働いた懐かしいところだった。 コースからはダム湖の「茂庭っ湖」が見える。湖底に沈んだかつての集落を偲んでつけた名前なのだろうか。そして周囲の山々には色とりどりの紅葉。実に美しい景色だった。だがコースは厳しいアップダウンの連続だった。 早くも折り返して来た走友が道の向こう側に見え出す。最初が宮城UMCの仲間のM黒さん。彼は7位ほどの位置にいた。次に明走会のT中さんが来た。彼女は「四万十川100km」女子の部で優勝し、総合でも9位に入賞した由。そして10月は千km以上走破したとか。全く凄い人だ。仲間のS間さんが「リリー!」と呼んだのは彼女の愛称だろう。女子2位のランナーがピッタリ後についているのを見て、思わず「T中さん頑張れ~っ」と叫ぶ。 次に見えたのが大崎市のS藤さん。彼は相変わらずの真剣な表情で黙々と走っていた。その暫く後にD口さん、Y川さん、O川さん、K合さんが続いて見えた。大崎市のT田さんは手を振りながら余裕たっぷりの走りだ。 ようやく折り返し点に到達。スタッフに聞くと9km地点のよう。復路でM井さんが先導する姿を発見。側にはE名さんが付き、笑顔で走っている。初フルなのに何と言う余裕だろう。その直ぐ後にはY広さんも頑張っていた。こうして仲間達の走る姿を確認できるのは、折り返し点の多いレースの楽しみかも知れない。<続く>
2007.11.07
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<ダムに冷たい風が吹く> レース当日の朝、待ち合わせ場所のスーパー前に行く。まだ時間前で誰も来ていない。やがてE名さんがご主人の車でやって来た。彼女は今回が初フルのデビュー戦だ。不安な様子の彼女に私は言った。「練習で20km走れたらフルは走れるんだよ。そしてフルを楽しく走れたら100kmは走れるし、100kmを楽しく走れたら200kmも走れる」。「どうして?」不思議そうな彼女。これまでの経験から言って、レースでは普段隠れている力が自然に出て来る。レースにはそんな不思議さが潜んでいるのだ。 Y田さん運転の車が来た。同乗者はK山長老、O川さん、Y川さんだった。次の場所にはD口さん運転の車が待っていた。こちらの同乗者はM井さんとY広さん。E名さんはそちらへ移った。2台の車は東北道経由で福島へと向かう。 久しぶりに仲間と会えたのが嬉しい。Y田さんは当選した「東京マラソン」のエントリーを済ませたようだ。一頃は出ないなどと勿体無い話をして、仲間をヤキモキさせていたのだ。入院して検査を受けていたO川さんの奥様は、結局何事もなかったとのことで一安心。Y川さんはレースが終わったら夕方の6時には仙台に帰り、今晩は仕事で釜石に行くとのこと。これは大忙しだ。 長老のK山さんは本来ハーフを走る予定だったが、もし今回完走出来たら来年ゴールドコーストマラソンへ行きたいと奥様に申し出る由。そして初フルのE名さんの完走を助けるため、M井さんが伴走することも聞いた。このレースにかけるそれぞれの意気込みをひしと感じた私だった。 車は高速を降り、飯坂温泉に向かう。まず受付会場の「パルセいいざか」を目指す。そこでスタート地点へのバスに乗る積りだった。だが、一方通行が多くてその場所になかなか辿り着かない。結局温泉地の中をグルグル回る羽目になった。受付を済ませると、預ける荷物は小さくしてくれとか注文が多い。第1回だし、勝手が分からないのだろうが面倒なので、急遽スタート地点まで車で行くことになった。 初めての道は山へ入ると結構な勾配になった。所々道幅が狭い箇所もある。当初は温泉の近くからスタートする予定が警察の許可が下りずにコースを変更したと聞いたが、なるほどと頷ける。かなり走ってようやく摺上ダムが見える場所まで着いた。広々とした空間に幾つかのテント。そしてそこからかなり離れて駐車場があった。 車を降りてビックリ。受付会場の飯坂温泉では暖かかったのが、急に寒くなった感じ。太陽が雲に隠れたせいだけではなく、風がやけに強くしかも冷たい。スタート時間まではまだかなりある。これは作戦を変更するしかない。一度はランシャツに付けたゼッケンを、慌てて半袖Tシャツに付け替えた。寒さで震え上がる仲間達。手袋を持って来てないY広さんに薄手のを貸し、私は少し破れたのをポシェットに仕舞った。 300mほど離れたスタート地点まで様子を窺いに行く。地元の野菜や果物などの土産コーナーも荷物を預かるコーナーもあった。スタートの直前まで暖かくし、しかもゴール後直ぐに着替えるためには荷物を預けた方が良いと判断。車まで戻った後はアップを兼ね、ダム方向まで軽くランニング。 ロックフィル方式のダムをこんな身近で見たのは初めてのこと。近寄るとダムの巨大さが実感できた。大きな岩に手で触れて見る。緩やかな勾配なので登れそうだが、近くにダムに登るのを禁じる看板があった。9時40分。覚悟を決めて服を脱ぎ、荷物が入ったリュックを預ける。仲間はそれぞれのゴール予想タイムの集合場所に散った。10時ジャスト。寒空にピストルの音が鳴り響いた。さて、今日は一体どんなレースになるのだろう。<続く>
2007.11.06
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<新しく出来たフルマラソン> 摺上(すりかみ)川と言う名を初めて聞いたのは、昨年妻と二人で飯坂温泉にある片岡鶴太郎美術館を訪ねた時のことだったと思う。摺上川は湯の町飯坂温泉のすぐ側を流れる川だ。多分阿武隈川の支流の一つだろう。 その上流にある摺上ダムが地元の期待を集めて、約30年もかかってつい最近完成したことを教えてくれたのは、先週筑波時代の悪友達と麻雀大会をこの温泉で開催した時に乗った、タクシーの運転手さんだった。 そのダム周辺で福島県で初めてのフルマラソン大会の開催を企画中だと聞いたのは、準備のための練習会に参加したD口夫人からだと思う。まさか自分がそこを走ることになるとは、その時は全く思いもしなかった。それが現実のものとなるきっかけは、同じ走友会のM仙人の一言だった。 今年、私は毎月1回フル以上のレースに出、完走することを目標に掲げた。だが走力が劣る私にとって11月のレースだけが心配だった。12月の第1日曜日はNAHAと決めていた。昨年の11月は「筑波マラソン」に出たのだが、これはNAHAの1週間前にある。コースはフラットで走りやすかったが、1週間後に次のレースに臨むには少し無理があったようだ。 かと言って栃木の「大田原マラソン」では荷が重過ぎる。何分制限タイムが4時間。今の自分にとって、これをクリヤーするのは至難の業だ。そんな時に聞いた「Aさん、飯坂には行かないの?」と言うM仙人の何気ない言葉が、私をこのレースにぐっと引き寄せることになった。そうか、こんな身近な所でフルを走ることが出来るんだ。仲間もたくさん参加するようだし、きっと楽しいレースになるぞ~。 「ヒョウタンから駒」のように決まった参加だが、レースとコースの情報は乏しい。ダムの周辺を走ることは分かった。季節柄、眺めは良いだろうが、若干のアップダウンは覚悟しなくちゃいけないだろう。レースの1週間前には徹夜麻雀があり、その後も色々草臥れることが続いた。元々記録は期待していないけど、今回は完走出来れば良いだろう。そんな心境で臨んだ大会だった。 ダム周辺の道路が山形の高畠へ抜けると知ったのはレース会場に着いてからだった。またその道が宮城県七ヶ宿町の稲子へも通じていることを、この朝車に乗せてくれたY田さんの言葉で知った。天気予報だと当日の福島の天気は晴れで、最高気温が19度Cに達することを確かめていた。思わぬ風雨に苦しんだ先月の「いわて北上」の二の舞はせぬよう、長袖、半袖のTシャツ、ランシャツと全て準備はしていた。ただ下はランパンで十分。念のために手袋も2種類持った。 結果は強風と坂に散々苦しめられたレースになった。帰りに寄った飯坂ラーメン店の若い店主が「ダムの周辺は県境の峠に近く、この辺の平野部とは全く天気が違うんですよ。天気が変り易い上に風が強いんです」と話していた。なるほどねえ。しかし、そのことを予め知っていても展開は変らなかったろうけど。それにしても飯坂温泉の奥に、あんな道があったとは。そして昔から羽前(山形)や陸前(宮城)の人々が行き来していたとは。いつものことながら「道」の不思議さを感じてならない。<続く>
2007.11.05
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大勢の仲間と参加した「第1回湯のまち飯坂ふくしまマラソン」から無事帰宅しました。コースは飯坂温泉から山手に入った「摺上ダム」の周辺を何度か周回するもので、風は強く坂は厳しくてとても苦しみました。 エントリー料金は4000円だったと思うのですが、参加賞として地元特産のリンゴ(富士)、地元の料理である「イカニンジン」、リンゴジュース、地元の名水(ミネラルウォーター)、カラーのTシャツと盛りだくさんでした。温泉にも入れたのですが、名物の「飯坂ラーメン」を食べて帰宅を急ぎました。 タイムは4時間17分00秒で男子60歳以上の部の45位でした。エントリー数は814人だったようです。第1回の割には多いのではないでしょうか。一緒に行った仲間も全員完走。今日が初フルだった人も4時間台での見事な完走でした。完走記は明日書き始めたいと思っています。ああ疲れた~!これで今年は何とか11ヶ月連続完走を果たしています。
2007.11.04
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今日は妻と二人でバスツアーに行って来ました。行き先地は福島の奥会津にある大内宿。楽しい旅になるはずだったのですが、添乗員さんのお蔭で散々な旅になりました。明日は早朝から「飯坂ふくしまマラソン」へ出かけるので、その理由だけ書き旅の顛末は改めて書こうと思います。1)集合時間前に集まったのに何だかつっけんどん。2)十分時間があるのに3箇所しかない見所のうちの1箇所を飛ばした。3)言葉遣いがぞんざいで話にならない。言葉を知らない。4)説明が足らないし、説明したことがデタラメ。5)結局時間が余って乗客からブーイングの嵐に遭い、飛ばした見所まで40km戻った。6)揺れるバスなのに高いヒールの靴を履いていて危ない。 景色と天気は最高だったんですが、あんな添乗員さんは初めてでした。う~ん。
2007.11.03
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心配性の妻は子供達の将来についても心配しています。四国に嫁いだ長女については心配はないのですが、長男と次男が現在就いている仕事は安定的なものでないことから、彼らの経済状況や結婚など心配の種は尽きません。彼女が管理している我が家の資産を、イザと言う時は彼らへの援助資金としても考えているようです。男の私は思います。自分の人生は自分で切り開けと。ただ、私なりに彼らのことを心配はしています。私だって親ですもの。 妻は子供達の年金のことも心配しています。長男は仕事が変わっても何とか厚生年金が出る職場にいます。次男の方は自分で国民年金を支払っているようです。今話題の年金は問題だらけです。「請求主義」とやらに胡坐をかいて、社会保険庁の職員は不正をするし、監督官庁は大事な積立金を無駄な施設に投入するなどデタラメを重ねて来ました。 国民年金は満額支給で7万円ほどとか。これは生活保護を受給する場合の半分強のようです。長い間支払い続けて、月額7万円足らずの年金でどうやって暮せるのでしょう。これから年金制度がどう変るのか、果たして子供達が年金をもらう頃はどうなっているのか、想像するのは難しい感じですね。 私はどちらかと言えば「子孫に美田を残さず」と言う考え方です。つまり葬式を出した後は資産がゼロになるのが理想と思っています。もちろんある程度の遺産は生前に分与しておくのですが。人間ゼロから生まれてゼロに帰る。シンプルで良い考えのように思うのですがどうでしょうか。ただ、残された家や土地などはやがて子供達が売り払うことになるのでしょうね。そうでもしないと、多分相続税を支払えないでしょうから。 さて、いつも通る地下道に、最近ホームレスの姿が目に付きます。中には40代と思える人もいます。まだ服装や表情が荒んでないので、つい最近ホームレスの仲間に入ったばかりのようです。彼の人生に一体何があったのかは分かりません。「人生双六」のサイコロの目が何かの弾みで変わると、思いもしなかったホームレスに誰しもなる可能性があるのかも知れません。 イソップの寓話である「蟻とキリギリス」のお話。極端な「蟻」や「キリギリス」はあまりいないとしても、こんな世の中ですからもっと若いうちから人生設計を真剣に考えないといけないのでしょうね。「よ~く考えよ~ お金は大事だよ~♪」。 私の小遣いを巡って妻と大喧嘩したことが、マラソン好きのキリギリスにとって少しは反省につながるでしょうか。明日は今年7回目のバスツアーに妻と出かける予定です。<完>
2007.11.02
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妻の趣味は油絵を描くことです。静物画を中心に描くクラブへは月3回通い、風景画を中心に描くクラブへは月1回通っています。風景画の方は仲間と一緒にバスで目的地へ向かい、夏の間は1泊することもありました。絵の具やキャンバスなどの画材、先生へのお礼(月謝)、旅行代など含めても、毎月2万円まではかからないと思います。 妻が小遣いを持ってる様子はありません。きっと家計からそれらの経費を支出しているのでしょう。今年は私と2回、妻一人だけで1回展覧会を観に行っています。それらも私のマラソン費用に比べれば微々たるものでしょう。 私はもし妻がルーブル美術館やボストン美術館を観に行きたいと言えば賛成します。たとえ1ヶ月間世界を旅しようと、妻が稼いだお金を使うのなら何も文句はありません。でも妻の性格を考えれば、きっとそんな「勇気」はないでしょうね。 妻は私の乏しい給料で長い間良く遣り繰りしたと思います。バブル期には資金運用でかなりの額を蓄えたようです。そのお蔭で我が家もほとんど借金無しで建てることが出来ました。もっとも土地はかなり前に入手していたのですが。その自宅も今年は建築後10年を迎え、屋根と外壁の塗装工事をやりました。結構な金額でしたよ。 今年は20年間使った冷蔵庫にガタが来、買い替えました。10年間使ったガステーブルも故障続きで、とうとう買い替えることになりました。これからも風呂釜などの交換が予想されます。家を建てて維持するためには、膨大な経費がかかるのですねえ。 一方、収入はどうでしょう。昨年から満額出た私の年金だけでは生活を維持できないと妻は言います。私が見ても、我が家で無駄をしてるような箇所は見当たりません。それどころか、家計を担当している妻を見ていると、日々の買い物にも結構細かく神経を使ってる感じです。 これは例え話ですが、もし私が妻に代わって家計を担当するようになったらパソコンに家計簿のソフトを入れ、それで管理しようと思っています。それらのデータが何年分か蓄積されたら、来るべき老後へ向けて、どんな項目にどれくらい費用がかかるか推計することが可能かも知れないし、どの動産がいつ満期になるか一目瞭然になり、資産運用の手助けにもなるかなと思うのです。でも、妻が私に家計を預けることはないでしょうね。きっと私のことを浪費家のキリギリスだと思っているでしょうから。 本当は男が家事を分担したり、家計簿をつけることはとても良いことだと思います。何故なら老後に備えた夫自身の訓練にもなり、家庭全体の経済感覚を磨く良いチャンスだからです。きっと女とは違った視点でものごとが見えると思うのですが。 先日妻と「ガス展」を見に行った時のこと。妻はしきりに魚焼き網のフッ素加工だけを気にし、それがついたメーカーのものを買おうとしていました。私はそれを止めさせ、テーブルが傷つきにくく、掃除し易く、かつ煮こぼれしにくい型の方を選ぶよう説得しました。その方がガス器具の劣化が少なく、一流メーカーのためアフターサービスも良いと考えたからです。 妻の選んだのは、一度も名前を聞いたことのないメーカーでした。そして妻は私の推薦理由に納得したようです。もし妻一人だけでガス展に出かけたら、別の製品が家に届いたことでしょう。結果的に「安物買いの銭失い」にならないで済んだと、妻は喜んでいます。アンケートに答えて「味噌」も2個もらえましたしね。(笑)<続く>
2007.11.01
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