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2009年1月12日 1時47分。お義父さんが亡くなりました。78歳でした。透析になると分かっている嫁なのに、笑顔で迎えてくれたお義父さん。解決策は必ずやってくると教えてくれたお義父さん。毎日2合のお酒を本当に楽しそうに飲んでたお義父さん。二度も末期がんから復活したのに。お義父さんは、最後まで、私たちの前で泣き言を言うことなく、苦しそうな顔を見せることなく、息を引き取りました。痛かったろうに。苦しかったろうに。「落ち込めば、落ち込むほど、病気が悪くなるだけだよ。受け入れるのが一番。」「なみさん、苦しいときほど笑ってないと。解決策は必ずやってくるから、大丈夫」お義父さんは、いつもそう、言っていて、本当に自分自身最後まで、弱音を吐くこともありませんでした。お義父さん。本当にありがとう。私がそっちに行ったときにはまた一緒にごはん食べようね。
2009年01月29日

驚く私の顔を見て、義父は、少し笑って、ゆっくり話し始めました。「僕の二番目の奥さんがかかった病気は、まだ発見されたばかりの病気で、まだ特定疾患なんて制度もなくて、医療費の負担なんかもなかったんだ。当時、僕が仕事して働いて稼いだ1ヶ月分の給料を全部入院費に当てても、足りなかった。貯金も使い果たして、借りれるところにはすべて借りに行って、自分のごはんも食べられないで、それでもまだ足りなかった。そんな生活が1年続いて、でも、奥さんの具合はよくならなくて、このままじゃ、奥さんの治療を続けることもできないし、自分も首をくくるしかない、そんな状況まできてしまった。本当にどうすることもできないと思ったよ。けどね、そんなとき、僕の大学時代の友達から電話があったんだ。大学病院に勤めているヤツだった。援助をうけながら、治療が受けられる方法があると教えてくれたんだ。奥さんが亡くなったときに、解剖することになってしまうけど、その手続きをしないかと。僕は頼むといって、奥さんは立派な大学病院で医療を受けながら、寿命を全うすることができたんだ。僕もごはんを食べながら、奥さんの看病をすることができたんだ。だからね。まだ起きてない未来のことで、思い悩む必要もないし、まだ起きてない未来のことで、不安になってちゃいけないんだよ。今できることを精一杯やればいい。精一杯やっていたら、向こうからなんとかする方法は必ずやってくるもんなんだよ。お義父さんが70年以上生きてきて言うんだから間違いないよ。」そう言って義父は私に微笑みかけました。私はもう、我慢ができなくて、ぐしゃぐしゃの顔をして泣いていて。「息子も一緒に頑張ろうって言ってくれてるんだろう。まずは2人で頑張ってみなさい。できるとこまで、頑張ってみなさい。それでも2人でなんとかならなかったら、お義父さんもお義母さんもいるじゃないか。なみさんのお父さんもお母さんもいるじゃないか。それが家族だろう。今から悩む必要も、怖がることもないんだよ。大丈夫。ちゃんと解決策はやってくるから。」私の手を取ってそう言いました。夜遅くに帰ってきた彼に義父が話してくれた話をすると、「そんなこと、知らなかったよ!!」と驚いていました。「なんの因果だろうね。親子そろって、難病の奥さんもらっちゃうなんてね」と言って笑っていました。私も彼の横で、泣きながら笑いました。思ったより、長くなっちゃった。長引いたのに、読んでくれてありがとう ← クリックお願いします♪ ←ぽちっとよろしくお願いします♪がんばって更新しなきゃ!
2007年12月09日

「なみさん」ずっと黙って、話を聞いていた義父が口を開きました。「息子は、なんて言ってた?」「一緒に...がんばろうって...」いつもニコニコ笑いながら、晩酌を楽しんでは歌っている義父がそうか...と呟いて少しまじめな顔をして言いました。「いいかい。なみさん。まだ起こってない未来を見て不安になっちゃいけないよ。どうにかしなきゃならないときは、どうにかする方法が必ず見つかるものだから。まだ起きてもないうちから、どうしようなんて考える必要はないし、考えちゃいけないんだよ。」わかるかい?ってそう、聞いて、飲んでいたお猪口を横において、まっすぐに私を見つめていいました。「なみさん。僕はね、息子の気持ちがわかるんだ。マミーは、僕の三番目の奥さんだって知ってるよね?僕の二番目の奥さんはね...。なみさんと同じ、現代の医学では治すことのできない難病だったんだ...」 お義父さんは、今でも元気に毎晩晩酌を楽しんでるよ。朝見たら、イッキに8位まであがっていました!みなさんの1日1クリックで順位があがるみたいです。超うれしい!ホントにありがとうございます←ぽちっとよろしくお願いします♪がんばって更新しなきゃ
2007年12月08日

「年内中に…」私は、正直に言おう、と覚悟を決めました。泣かないで。ちゃんと伝えなきゃ。「年内中に?」義母はお茶を注ぎながら、私のほうを見つめていました。「…透析になるかもしれない。わたし」義母の手が止まり、義父が私のほうを見ました。「…お医者さんは、なんて言ってるの?」「彼が、どうにかならないんですか?って何度も何度も食いついてくれたけど、どうすることもできないって。『そう言う病気ですから…』って言ってた。早くて、年内中に、透析になるって」テレビの音が妙に大きく聞こえて。芸人さんのギャグと会場の笑い声が響いていました。沈黙を破ったのは、義母でした。「なみさんはどうなの?大丈夫なの?」「大丈夫。体はきつくない。けど…」もう。限界でした。「怖いよ。透析になるの怖いよ。もうやだよ。彼にも、みんなにも…迷惑かけて生きるのはイヤ。本当にごめんなさい。」義母の目にももうすでに涙が浮かんでました。ランキング、参加してみました。 ← クリックお願いします♪ ←ぽちっとよろしくお願いします♪あがるかな?ちょっとドキドキ。書くキモチもテンションもアップするので、よかったら、ぜひともクリックお願いします。
2007年12月07日
家に着くと、義母はいつものように、優しく笑顔で迎えてくれました。寒かったろう?紅茶を入れようね、と暖かな部屋に迎え入れてくれました。夕飯の準備の途中だったようで、台所から漂ういい匂いがリビングまで満たしていて、幸せの空間がそこにはありました。この幸せを失いたくない。そう思うと涙がでそうになりました。だけど、ぐっと堪えて、「マミー、手伝うよ」って言って一緒に台所に立ちました。残業が続いていた彼は、帰りが毎日12時近かったので、いつものように、義父母と一緒に晩ご飯を食べて、リビングで一緒にテレビを見て、お茶を飲んでくつろいでいました。「なみさん、ところで、病院の結果はどうだったの?」ずっとずっと気になっていたようで、心配そうに、義母が聞いてきました。 言葉に詰まってしまって。なにを言っていいか、わからなくて。正直に言ってしまえば、この幸せを失いそうで。「なんともなかったよ」と言ってしまえば、こんなに親切にしてくれている義父母を騙すことになってしまう。真っ青な顔をして、固まったまま、何もいえなくなっている私に、義母は気づいたようでした。「あまり具合よくなかったの?」
2007年12月06日
今日は、「奇跡のごはん」に書いてない話をちょこっと書こうかなって思います。桜のつぼみが膨らみはじめる2月の終わり。毎月行っている定期検診で、お医者さんから「年内中に透析になることを覚悟して置いてください」と言われました。結納の1ヶ月前のことでした。結婚が駄目になったと思いました。けれど、定期検診に一緒に来てくれていた彼は、「一緒に頑張ろう」と言ってくれました。そのあと、彼は仕事に行き、私は彼の家に戻りました。ちょうどその時ね、入籍前の2ヵ月くらい、私は彼の家にいました。彼と、義父母と一緒に暮らしていました。私のココロはずっと重たいままで、彼の家へ向かいました。彼は一緒に頑張ろうって行ってくれているけど、お義父さんやお義母さんはなんていうだろう。透析になるってわかってる娘を嫁に迎えてくれるのかな。恋愛と結婚は少し違うと思っていました。ただ本人同士が好きなだけでできる恋愛と違って、結婚は、ちょっとだけ複雑になっているって思っていました。好きだけじゃ済まされない。最後は本人の気持ち次第なんだろうけれど、それでも家族の反対があれば、すんなりは行かないだろうなと思っていました。重い足取りでマンションに着くと、ゆっくりとチャイムを押しました。
2007年12月05日

結婚式はみんなの笑顔が溢れるなかであっという間に過ぎていきました。わたしの友達は、よかったね、よかったねと言って一緒に泣いてくれました。お父さんの取引先や、親戚のおじさんたちまで、よかったなぁ、親孝行するんだぞ、と言って泣き出しちゃって父は1人泣いてなかったから、みんなに薄情者だなと冷かされていました。和やかな雰囲気のなか、式は終盤を迎えました。余興は、旦那さんと、高校時代の仲間たちで『ブライダルズ』というバンドをやりました。いまの旦那さんからは想像できないけれど、高校時代、バンドやってたんだって。この日のために練習したビートルズの曲をみんなで演奏しました。そして最後に、ボーカルの男の子と旦那さんが代わって、レミオロメンの3月9日を歌ってくれました。流れる季節の真ん中でふと日の長さを感じますせわしく過ぎる日々の中に私とあなたで夢を描く少し照れてるあなたの横で新たな世界の入口に立ち気づいたことは 1人じゃないってことずっとずっと今まで、不安を抱えていました。この先、生きていけるのかなって。だから私は、がむしゃらに肩肘を張ってがんばっていました。強がっていました。瞳を閉じれば あなたがまぶたのうらに いることでどれほど強くなれたでしょうあなたにとって私も そうでありたいでも、それは本当の強さじゃないことをあなたと出会って知りました。青い空は凛と澄んで羊雲は静かに揺れる花咲くを待つ喜びを分かち合えるのであれば それは幸せこの先も 隣で そっと微笑んで旦那ちん。結婚してくれて、ありがとう。まだまだ至らないところばかりだけど、新しい道。築いていこうね。
2007年07月03日

わたしと父はずっとずっと長い間すれ違ったまま、過ごしてきました。それは、ただ、わたしと父があまりにも似すぎていたから、意地っ張りで、頑固なところも、負けず嫌いなところも、素直になれないところも。ただそれだけだったのにわたしも父も、お互い、避けあうようにして過ごしてきました。そんなわたしと父だったけれど、わたしが透析を始めて、ひとつだけ変わったことがありました。父が、「なみは透析を始めて、(父に対して)優しくなったなぁ」と嬉しそうに言っていたのだそうです。そして、「なみは、透析をするまで、身体にも心にも鞭打って突っ張って生きてたのかもしれんなぁ…」と言っていたのだそうです。透析になって、失うものもあったかもしれないけれど、あいつが肩の力を抜いて、楽に優しく生きていけるなら、俺はそのほうがとても嬉しい、と言っていたって。今まで、父に認められたくて誉められたくて、いろんなことをがむしゃらに頑張って、認めさせようとしていたけれど、案外、父が喜ぶことはとても簡単なことのようでした。わたしが幸せでいること。ただ、それだけでよかったんだね。わたしは、退院したら、父に少し甘えてみようって思っていたけれど、できずにいました。だから、普通は花嫁の手紙は、お母さんに宛てて書くのだろうけれど、わたしはお父さんに宛てて書くことにしました。お父さん お母さんへお父さん、お母さん。今まで、育ててくれてありがとう。こうやって、ウェデングドレスが着られる日がきて、お嫁さんになれるだなんて今でも信じられない気持ちです。この間の入院のときに、お母さんがこっそり教えてくれました。私が発病したときから、ずっとずっとお父さんは神社を見つけるたびに、わたしの病気が治るようにお願いしてくれていたこと。朝鮮人参とか、変なサプリメントを買ってきては食事療法をしているから飲ませちゃダメ!ってお母さんに怒らるたびしょんぼりしていたこと。わたしの身体を治せるお医者さんをわたしの知らないところで、お父さんが探し回ってくれていたこと。妹たちには怒らないようなことでも、わたしにだけは厳しくて、見兼ねた母が、「どうしてなみだけ厳しいの?」と尋ねたら、『あいつが料理研究家になりたいっていうなら、独立してやっていけるだけの力をつけさせたいんだ。俺は見守ることしかできんが』と言っていたこと。お父さん。ごめんね。そしてありがとう。お父さんの厳しさは愛情だったのに、わたしは、お父さんの愛に気付かずに、たくさんお父さんを傷つけてしまってたと思います。お父さんとお母さんのおかけで、今、わたしは生きてます。わたしは、お父さんの娘だったから、お母さんがいてくれたから、こうして、夢をかなえてお料理研究家になれました。大好きなひとのお嫁さんになることができました。今まで育ててくれてありがとう。ずっとずっと長い間、父に言えなかった「ごめんなさい」と「ありがとう」を、ようやく、結婚式で言うことができました。
2007年07月02日
夢…かな?夢なら覚めないで。ずっとずっとそう思っていました。目の前には旦那ちんとお父さんが白い服を着て並んで座っていました。でも、涙でよく見えなくて。そんな私に、お父さんは、何度も、何度も私に「お前は馬鹿か」と笑いながら言いました。その日は、空はどこまでも青く澄み渡っていました。満開の桜が、その青空一面に咲き誇っていました。いつも人生の節目には、満開の桜の花が咲いていました。初めて入院した大学病院の中庭にあった桜の花。早く元気になるんだと心に誓いながら眺めていました。留年が決まって泣きながら通った通学路。一面に広がる桜並木の坂道を絶対社会復帰するんだと心に誓いながら通いました。4年かけて高校を卒業した日。桜の花の下で母と友人と手を取り合って喜びました。桜の花が舞い散る公園で、夫と結婚記念日を決めました。晩秋の木枯らしで桜は丸裸にされるけれど、厳しい冬を乗り越えて、毎年、美しい花を咲き誇らせる桜の花がわたしはとても好きでした。「ほら、始まったぞ」照れくさそうに父がわたしの手を取りました。リハーサルのときから、ずっとずっと涙がとまらなかったから、もう顔はぐちゃぐちゃでした。夢なら、ずっと覚めないで。きっと着ることはないと思っていた真っ白なウェディングドレス。信じられない気持ちで身に纏い、わたしは父の手にそっと自分の腕を添えました。
2007年07月01日
母も実家に帰ってしまい、旦那とふたりの生活が始まった。母は帰り際、何度も何度も旦那さんを大切にするのよ、ふたりで協力しあうのよ、と言って帰っていった。朝起きて、旦那さんのお弁当を作ってあさごはんを作ったら起こしに行って一緒にごはんを食べて。旦那さんが仕事に出かけたら、洗濯をして、部屋を掃いて。久しぶりに見たよ。花まるマーケット。リビングに差し込む陽射しって気持ちいいね。久しぶりの料理がなんだかうれしくていつもは使わない癖にランチョマットとかひっぱりだしたりして。それにしてもよく泣いたな。ドラマなんかで病気になっちゃった恋人から、病気のことを告げられずに『私のことは忘れて』とかいわれちゃうなんて話があるけど、私は無理だな。今回も、旦那の前でギャーギャー騒いだし。顔ぐちゃぐちゃにして、鼻たらして不細工な顔でギャーギャー泣いたし。たぶんひとりで恐怖を乗越えて死ぬなんて無理。それよか、たくさんのひとに囲まれてたいよ。死ぬときは旦那さんにしっかり手を握っててほしいもん。最後の最後の最後まで、いつもの調子であいしちょ~よ~、すいと~よ~って方言丸出しで、愛の言葉を伝えたい。忘れてなんて、とんでもない。やっぱり、あたしが死んじゃったあとも、ずっとずっと私のこと忘れないでいてほしいよ。死んだとたんに若いおねーちゃんとか捕まえてきたら、枕元に立ってでてやるんだから。よかった。死ななくて。まだ、伝えられるんだ。愛の言葉。まだ、重ねられるんだ。想い出の日々を。また、育てていけるね。ふたりの生活。ひとの命なんていつ果てるかなんてわからない。だから後悔しないように、思い切り。精一杯で愛したい。やっと帰ってきたんだ。あたしのおうち。ただいまーって仕事から帰ってきた旦那さんにあたしもただいま、帰ってきたよって言ったらおかえりでしょ?どっかいってたの?って聞き返された。馬鹿みたいだね~。馬鹿みたいだけどすっごい嬉しい。リビングにはおいしい匂いが満ちていて風呂場からは旦那の変な鼻歌が聞こえる。
2007年06月22日
入院していたときの荷物を片付けていたら、きれいに重ね、丁寧に折りたたまれたルーズリーフがでてきた。「今日透析と輸血をしなければ、いのちの保障ができません」そう言われて透析を受け入れた翌日、呼吸困難のなかで、わたしは1枚の手紙を夫に書いた。もし、わたしになにかあったら、荷物を片付けるときに見つけてもらえるようにと、きれいに折りたたみ、いつもわたしが使っている手帳にはさんで机の奥に入れていた。ルーズリーフは、いつもわたしが仕事に使っているものだった。旦那さんへ旦那さん。すぐに来てくれてありがとう。すごく嬉しかったです。透析するとき、いっぱい泣いてごめんなさい。わたし、いっつも泣きようねぇ。ごめんね。いっつも迷惑ばっかりかけて。でも、あなたが夫婦でしょ?って言ってくれたの、すごく嬉しかったです。ねえ。旦那ちん。透析受けたけん、わたし、死なんでいいよね?透析したほうが苦しいけど、これ乗り越せばまた元気になれるよね?ちょっと不安になったけん、旦那さんに手紙かいてます。もし、わたしになにかあったら、あなたの手に渡るように、机の置くに入れておこうと思ってます。いつも一番の理解者でいてくれてありがとう。わたしの夢、応援してくれてありがとう。いつでも、わたしのやりたいことを思いっきりやらせてくれて、それで私が失敗したり、体調壊したりしたら尻拭いしてくれて看病してくれて。喧嘩もしょっちゅうするけれど、旦那さんにはすごくすごく感謝しています。あなたがいなかったら、わたしここまで頑張れなかったかも。料理研究家の夢だって、ここまで叶えられなかったかもって思います。透析になるってわかってて、嫁にもらってくれてありがとう。あなたと結婚できて幸せです。あなたの奥さまになれたこと、すごく嬉しいです。大事なものは全部まとめて袋にいれてしまってあります。はんこは○○に年金手帳は△△にしまってあります。白身フライばっかり食べたらいけんよ。スナック菓子も食べ過ぎんでね。あ、あとあなたのシャツはシャボン玉洗剤で洗ってください。クリーニングは駅前の□□店がシャボン玉洗剤で洗ってくれます。じゃないと首とかひじの内側とか柔らかい部分のアトピーが激しくなっちゃうみたいだから。心配だなぁ。大丈夫かなぁ。あと、なにか書いておくことあったっけな。旦那さんに、1個だけ、お願いがあるの。1日だけでいいけん、わたしより長生きしてください。あなたのほうが先に死んで、わたしが残るのは辛いです。わたしはすごく弱虫になってしまったようです。不思議だね。お医者さんに今日死ぬかもと言われて、自分が死ぬのは全然怖くないのに、あなたが先に死んで、わたしが残らなければならないことを考えると、そのことのほうがずっとずっと怖くなるんです。わたしが先に死んだら、守護霊になって守ってあげるね。だから、わたしより長生きしてください。そんでね、わたしが死ぬときはちゃんと手を握って愛してるよって言ってね。いつもは言ってくれないから、最後くらいいいでしょ?そしてわたしが安らかに眠りに付いたあとは、若いお姉ちゃん、見つけていいからね。あなたは平気なふりをするけれど、寂しがり屋さんだから、きっとひとりじゃ生きていけないよ。だから、そばにいてくれるひとを見つけてください。そして、かざねちゃん、産んでもらって。そして温かい家庭を築いてください。わたしは必ず、天国から、あなたと家族を守るから。たくさんの幸せをありがとう。苦労ばかりかけてごめんなさい。だから、今度はたくさんしあわせになってほしい。それがわたしのお願いです。最後に。わたし、すごくすごく幸せでした。本当にありがとう。それではね。なみ。追伸。あ。この手紙、わたしが死んだときに見つかるんだった。手を握りながら愛してるよって言ってもらえそうにないねー。あなた、恥ずかしがり屋だから。
2007年06月21日
[ 携帯から更新 ] / 2006年11月13日 『気持ちいいねぇ!!すっごいきれいだねぇ!』翌日、夕飯を食べ終えた後、母を連れて行った近所の温泉は露天風呂になっていて、ちょっと熱めの湯に浸り、頬にあたるひやりとした夜風と満点の星空がとても心地よかった。『こんなになみとゆっくり話せたの何年ぶりだろうね。』と母は嬉しそうな顔をして言った。見舞いにいかなくてもいい久しぶりの休日に旦那は朝から車屋さんに行ったり、自分の用事を済ませたりして家を空けた。私は母と一緒におしゃべりをしながらふたりで部屋の掃除をしたり、洗濯物を畳んだり食事を作ったりして過ごした。家事をしながら母は休むことなく動き、今までの時間を取り戻すかのようにしゃべった。料理研究家の仕事をするようになってすぐはまだ食の仕事だけでは食べることができなかったから、あたしはアルバイトと掛け持ちで自分の生活を立てていた。その頃、あまりにも忙しく盆正月でさえ、実家に帰ることができずに母とのんびり話す機会なんて持てずにいたからまるでその間の交わされることのなかった親子の会話を時間を取り戻すかのように母はしゃべった。『透析にはなったけど、お母さんね、正直今は透析になってよかったと思ってるの。お母さん、正直安心したの。だってね、今のなみ、すごく顔色いいよ。動きだってずっとずっと楽そうだし、きつくなさそうだもの。透析さえすれば、もう、なみ身体だるいのに無理しなくていいんでしょう。苦しまなくていいんでしょう。なみがきついのに我慢してると思わなくて済むと思ったら嬉しいよ。日に日に、なみの身体が楽になってるんだなって見ていて思うからお母さん安心するの。週3回透析に通わなきゃならないのは大変だけど、本当に病気になる前と同じくらい元気になれるんだなぁって思ったらお母さん本当に嬉しいよ。あんたが無理して毎日きつい思いして働かなきゃいけない1週間より、3日間はなにもできなくても、3日間身体の負担がなくて思いっきり働ける1週間のほうがお母さんは何倍も安心よ。これからは思いっきり仕事できるね。お母さん、本当は手術の日も入院してる間もずっとずっとそばにいてあげたかったんだけど、もうなみを守るのはお母さんの役目じゃなくなったんやねぇって思ったよ。今日透析しないと死んじゃうってなったときに、病院から一番に連絡がいくのはもう、お母さんじゃあなくて旦那さんなんよね。毎日、なみの看病に病院に通うのもそばにいて、相談に乗る相手もお母さんじゃなくて旦那さんになったんやね。本当になみはお嫁に行っちゃったんやねぇ。もうこれから先、冬になってもひとり暮らしの家で風邪引いて寝込んでるんじゃないかとかごはんはちゃんと食べてるのかなとか誰も気付かずに家で倒れてるんじゃないかとか心配しなくていいんやね。なみのそばにいてなみの心配するのはお母さんの仕事じゃなくなったんやね。そう思うと少し寂しい気もするけど、お母さん安心したよ。なみが本当にしたい仕事を思いっきりできる日がきたんやね。身体がきつくなくて仕事ができる日がまた来たんやね。お母さん、本当に嬉しいよ。ずっとずっとね、お母さん、自分のこと本当は鬼なのかなって思ってたの。病気のなみさん、福岡にひとりで出したりして援助もしないでお母さん、自分のことね、鬼なのかなと思ってたの。いろんなひとになんで病気のなみさん、福岡に出すの?って言われるたびに本当はお母さんはひどい母親じゃないのかなって思ってたの。あんたが透析になったって電話があったときも実家に置いていたらこんなことにならなかったんじゃないかって最初は後悔したの。でも、本当によかった。夢叶えられたし、生きる道も見つけて一緒にいてくれる旦那さんも見つかった。あんたを福岡に出してからのこの七年間、お母さん、本当、ホント心配もしたし、苦しかったけど、あんたを信じて出してよかったと思ってるよ。透析になっちゃったけど、福岡に出してよかったって思ったよ。お母さん、安心して死ねるよ。お母さん、本当安心したよ。旦那くん大切にするんよ。これからふたりでちゃんと生活作っていくんよ。』母は終始、安心した、よかったと言葉を繰り返し、何度も何度も湯船のお湯を汲み上げて顔を洗い、潤んだ瞳を誤魔化した。あたしも泣き出しそうになったけど、何言ってんの。まだ死なれたら困るしと笑いながら言って、顔を洗って誤魔化した。久しぶりに母と並んで温泉に浸かりいろんなことをたくさん話した。父は私が福岡にでることは大反対だったから、あたしが出て行った後も、ずっとずっと防波堤になってくれていたことは知っていた。母は詳しく言わなかったけど、あたしが福岡にでたことで、他にもいろんなひとから、いろんなことを言われていたんだろうな。今まで、母はそのことを一言も私に言ったことはなかった。今まで見たことのないくらい嬉しそうな顔をしてその苦労が報われたと感極まった喜びの顔になっていた。相手を信じるってことは、なにか保障があるわけでもないし、どうなるかなんてわからない。結果はそのときにならないとわからない。例え信じていても、自分の望む結果になるとは限らない。母はどんな気持ちでいたんだろう。遠く離れた田舎で、夢を叶えたいだなんて無謀なことを言ってひとり街に出て行った病気の娘のことを思ってどれだけ心痛めたんだろう。信じて待つのって結構、辛い。それでも信じ貫くってどれだけつらかったことだろう。信じ貫く愛。なにも手を差し伸ず、見守るだけの愛があるんだなぁって思った。母と並んで浸かる久しぶりの温泉はぽかぽかと芯まで温まってリラックスしてとてもとても気持ちがよかった。
2007年06月21日
[ 携帯から更新 ] / 2006年11月10日 退院してからの日常は、とても緩やかなものだった。旦那が迎えにきてくれて、家に着くとすぐに実家から出てきてくれた母が買い物袋を抱えてやってきた。今まで病院では、二十四時間体制で看護婦さんたちがお世話をしてくれていたし、寝ていても時間になれば、お茶も食事もでてくるし、風呂の準備もきちんとできていて掃除も毎日係りのおばちゃんたちがきれいに部屋を片付けてくれるから私はただ安心してなにも考えずに身を任せて養生すればよかった。前の入院のときもそうだったけれど、1ヵ月以上、寝たきりで過ごしていると普通の日常生活になれるまでがすごくきつい。掃除に洗濯、ごはんを作るにしても、ただ作ればいいわけじゃない。買い物もあるし、茶碗洗いだってある。旦那の朝のお弁当作りにしなくちゃならないことはいっぱいだ。まだ透析後は熱がでたり、頭痛がして目が回ったりすることがあったから、大丈夫なのだろうか?と少し不安な気持ちがあった。だから『3日間だけしかいられないけど、退院してすぐそっちにいくから。退院してすぐになんでもかんでもできないでしょう』と言って母がきてくれたことは、本当に助かったし、嬉しかった。妹夫妻と一緒に母はやってきて、スーパーの袋からがさごそと材料をとりだして、ごはんを作りはじめた。私はその後ろでちょこんと座って眺めている。旦那は妹夫妻と共に姪っ子をあやして楽しそうに遊んでる。リビングにとんとんトンって刻む音が響き火にかけられた鍋がコトコトといい匂いを漂わせながら煮立っている。『なんか小さいときみたいだねぇ。こうやってお母さんがごはん作ってるのいっつも横で見てたよねぇ。妹がまだ赤ちゃんで、赤ちゃんの匂いと笑い声がして。』母は懐かしいね。と言っていつものごはんを作ってくれた。『なみは物心つく前から、いつも台所にきてたよ。お母さんの後、いっつもついて回ってたよ』と言っていつものおかずを並べてくれた。ご馳走じゃないけど。小さい頃から食べてた我が家のごはん。肉じゃがにおひたしに味噌汁と手派先の炊いたヤツ。ピーマンのたくさん入った焼きビーフン。あんたの食事作るのも久しぶりね。懐かしいね。といってごはんを食べた。決して涙を見せなかった気丈な母もすっかり歳をとったなぁ。涙もろくなったね。母の目はなにかあるとすぐ赤く潤んでしまうようになった。そう。この普通のごはん。どこにでもあるありふれたごはん。お母さんのごはんで、私は社会復帰したんだよ。
2007年06月20日
『もう、ここに戻ってきちゃだめよ!』一番可愛がってくれた補助看さんが、目を少し赤くして言ってくれました。『寂しくなるけど、もう、ここに戻ってきちゃだめよ。ここに来るときは差し入れ持って遊びにくるときよ。』って何度も何度も言ってくれました。退院の日は土曜日で、透析が終わった後、そのまま退院することになりました。旦那様は無理をしてずっとずっとお見舞いにきてくれいてたから、夕方くらいにゆっくり来てくれたら大丈夫だよ、と言っていたけれど、気が急いたのか、私が透析室に戻るより先に病室に来て、補助看と一緒に荷物をまとめてくれていました。一人黙々と荷物を詰める旦那に嫁が退院できてうれしい?ひとりのおうちは寂しかった?と聞いたけれど、なに馬鹿なことをいってるんだ、といわんばかりの顔をしてすたすたと荷物をもって先にいってしまいました。入院してきたときに履いてきてジーパンは、ウェストがきついくらいだったのに、今では握りこぶしが二つはいるくらい、ゆるいものになっていました。ちょうど一ヶ月の入院で体重は12キロ落ち、まだ、心臓に残っている分の水については、ゆっくり時間をかけて抜いていくしかない、と言われました。13年前のスタートもここからだったよな。生きていけるのかさえ先が見えなくて。せめて、社会復帰だけでもしたい、と強く願って。普通に恋をして、普通に結婚して、普通に家庭を持つことが夢だった。それさえも私には本当に叶うのかどうかわからない果てしなく遠く感じる夢だった。父にのしかかった莫大な医療費と母が追われた私の看病。自分の身体を守るために、ささやかな夢をかなえるために、わたしにできる生きていく道。それがお料理研究家だと思ったんだ。補助看さんと、お世話になった先生と、ナースセンターにいた看護婦さんたちに、ありがとうございました、とお礼をいいに行って買ったばかりの新しい服に着替えました。お化粧をして、かばんを持ってよし、と気合を入れて、病室の扉をあけました。たった一ヶ月しかいなかったのに、ニット1枚では外の空気は冷たくて、久しぶりに履いたブーツがなんだかくすぐったく感じました。この1ヵ月は長かったような短かったような。けれど、私のなかでとても大きな転機となる1ヵ月になりました。古びた病棟を振り返り見つめていると旦那が早くしろよと呼んでるのが聞こえました。いつもここから。いつでもこの古い病棟の白い白い古びたあの扉は、私にとって未来に続く夢の扉なのかもしれない。新しい夢に向かうスタートの扉。開けば夢が待っている。さぁ。気合をいれていこう。体験したことのない新しい日々が今から始まるぞ。
2007年06月19日
[ 携帯から更新 ] / 2006年11月08日 突然の出来事に信じられなくて先生あたしのこと覚えてるの?と聞くと覚えとるよ病棟で火事起こしかけて私に怒られたもんなぁといいました。火事?と聞いてずっとずっと忘れていた記憶が少しずつ浮かび上がるようにして甦ってきました。そうだ。そうだった!思い出したのはF先生に怒られて半泣き顔でしゅんとなってるあたし。13年前初めて入院した私は不安と恐怖と慣れない入院生活の心細さに毎日のようにおうちに帰りたいと言って泣いてばかりいました。夜になると不安な気持ちははさらに増して出してもらった安定剤や睡眠薬を飲んでも眠ることができずにいました。深夜に枕元のライトをつけると眠れない夜中にガサゴソするなと隣のおばちゃんに怒られるからよく病棟の廊下に並ぶベンチに腰掛けて夜が明けるのを待ったりしていました。それでも廊下は寒いから枕元のライトの光が漏れないようにライトにタオルをかけて光を遮断してお母さんが買ってきてくれた本をこっそり読んだりして。そしたらなんだか甘ーい香ばしい匂いがしてきて。ふとライトのほうを見上げるとタオルから煙が出てるし!!ぎゃーーーー!!っと叫んで、タオルを床に投げ捨てて看護婦さんも先生も駆け付けてきて私は先生にこってり怒られたのでした。F先生は長年病院にいたけど後にも先にも病棟で火事起こしかけたのは君だけだよって笑って言いました。私はああ思い出した!そうだった!!今もあのときと相変わらずに泣き虫で先生たちを困らせてばかりですよと言うと先生はそうみたいだねってよう頑張ったなぁって言ってくれました。あまりゆっくりできんですまんなと先生が帰ろうとしたから私は慌てて立ち上がってお礼を言おうとしたけどうまく言葉がでてきません。直接会ってお礼がいいたいってあれほど願っていたじゃない!今ようやく言えるチャンスじゃない!目の前にあれだけ会いたかったF先生がいるんじゃない!って思うけど気ばかりが焦り、しどろもどろで『先生!あのねあたしお料理教室とかやってるの!先生!!えっと!えっと!あの時透析しないでくれてありがとう!おかげで結婚も夢も叶ったんだよ!ずっとずっと言いたかったの!』って言うのが精一杯でした。今思えばなんでもっと気の利いたことを言えなかったんだろうとかああいえばよかったこう言えばよかったと思うけどそれだけで精一杯で余裕なんてひとつもありませんでした。F先生は向きを変えて私のほうを向いて 『透析を始めてからの食事療法は命にかかわるから自分のための食事はもちろんたくさんのレシピを作って、腎臓病の患者さんのためのレシピも作って今の仕事、頑張ってくれよ。 みんなが少しでも楽に透析ができるように考えてやってくれ。私たちもそれを望んでいるから。病気を抱えた患者さんたちが少しでも楽になれたらいいな』って言いました。そして先生は帰って行きました。白い白い病室で落ち込むあたしに『唯一進行を遅らせる方法が食事療法なんだよ』って教えてくれたときの笑顔と同じ顔で。ドアはぱたんと締められて 先生に聞こえたかどうかわかんないけど『先生!あたしいつか腎臓の本、書けるようになりたい!腎臓病のレシピ作るよ!!』と言いました。いつか食事療法の本が書きたい。腎臓だけじゃなくて高血圧や糖尿病のひとたちが合併症の腎臓病にならなくて済むような食事療法。例え腎臓病になったとしても透析にならないように透析になったとしても楽な透析ができるように楽しくて元気になれるごはんで予防できるはず。難しいことはいらなくて簡単で誰でもできる食事療法。そんな食事療法はきっとある。透析になったばかりでわからないことばかりだけど。13年間前だって同じだったじゃない。きっとできる。新たな夢がまたひとつできました。先生あたしがんばるよ。
2007年06月18日
この調子なら早く退院できそうだねと主治医の先生を驚かせていた病棟での午後。最初は3週間はかかるだろう、と言われていたシャントもだいぶ発達してきてシャント運動を始めて1週間そこいらしか経っていなかったけどもう充分透析できるくらいの太さになってきたねと先生は言いました。これはもしかしてもしかするとお誕生日はおうちで迎えられるかもしれない!!って期待を大にして膨らませながら夕食を食べているとコンコンと病室のドアを叩く音がしてドアは開かず少し間があきました。看護婦さんや先生ならすぐに入ってくるし旦那の叩き方はちょっと癖があるからすぐわかるし誰だろう?と思って慌てて口に入っているものをモゴモゴとかみ砕いていつものようにはいは~い!ド~ゾ~と間の抜けた返事をするとそこには懐かしい顔が私を覗き込みました。「元気しとるか!」と微笑みかけるその顔は13年前にあたしを診てくれたF先生でした。私は本当にびっくりしてあわわわ!と叫び、本当にホントにF先生なの?なんでここにいるの?!と聞き返しました。嬉しくて 先生の顔を見ただけでもう半泣き状態になっていました。主治医のN先生に手紙を託けてF先生はあたしのことを覚えていてくれていたと聞きました。 それだけで充分満足透と思っていたF先生がお礼の手紙を渡せただけで満足と思っていたF先生が目の前にいる!この大学病院に隣接する医大に三週間に1度講義をしに来ているんだよって私の左膝を診てもうだいぶいいみたいだなよかったなぁって言いました。鳩が豆鉄砲喰らう顔ってきっとその時のあたしのような顔を言うんだろうな。突然の出来事に信じられなくて箸を握り締めたまま本当に先生なの?本当に先生なの?先生、13年前と全然変わってないよ!ホントに先生なの?って何度も聞いてしまいました。先生はきみは少し大人の顔になったねでもあの頃の面影が残ってるね って懐かしそうに言いました。F先生が目の前にいる!!!
2007年06月17日
[ 携帯から更新 ] / 2006年11月06日 毎週水曜日に、教授回診がありました。本当に、ドラマみたいに、教授を筆頭に、ぞろぞろと、白衣の集団がやってきます。教授は、私が緊急入院したときに、初診を外来で診てくれた先生でした。ことの重大さのわかってない私は、先生に、『どうしても入院しなきゃならないんですか?貧血がひどいって言っても、全然自覚症状とかないよ。ふらふらもしないし自宅加療でも大丈夫だよ』とか、『透析は絶対嫌だ!輸血も嫌だ!先生、なんとかならないんですか?』とか、ダダをこねて初診でかなり困らせていました。教授先生は、今の状態じゃ帰す訳にはいかない、と言って私は納得できないまま、ぶーぶー言いながらそのまま入院になりました。あたしの左膝の炎症は最初どす黒くなり、次第に赤紫になって、最後には治ったんだけれど、教授回診って週に一度しかないのに、教授は、ちゃんと足の色を覚えていて、前回より、少し色が落ち着いてきたね、とか、薬が怖いって言ってたよね、少しずつ減らす方向で行くから、心配しなくていいよとか、ちゃんと言ったことをひとつずつ覚えているのに驚きました。シャントの手術を終え、傷口を見せるときれいにくっつきそうだね、と言って、いい血管だと誉めてくれました。透析中も、病室でも、しょっちゅう私が料理の本ばかり見ているので、本当に料理が好きなんだねぇと言って、退院したら、また、たくさん料理を作って、腎臓病の患者さんのための献立も作ってくださいね、と言いました。ここの大学病院のお医者さんも、看護婦さんも技師さんも、みんなみんな、私が料理研究家をしていると言うと、『それじゃあ早くよくなって、今度は腎臓病の患者さんのためのレシピも作ってね』って言っていました。少しでも患者さんが楽になるといいねって。ずっとずっと、病院にかかっていて、いろんな先生に診てもらってきたけれど、信用できる先生というのは、忙しかろうが、なんだろうが、必ず目を見て話してくれるような気がします。嫌だというと、嫌でもなぜそれが今必要なのかちゃんと説明してくれるし、怖いというと、できるだけ心身の負担が少なく、本人が恐れることなく受け入れられる医療を提案してくれます。総合病院や大学病院などにかかると、待ち時間2時間で診察5分なんてよくあるけれど、その慌しい診察でさえ信頼できる先生は、こちらを見た一瞬だけでも、ちゃんと目をみて話すことが多いような気がします。患者さんが『生きたい』と強く願い、家族が、『生きていて欲しい』と想い、お医者さんが、『生かしたい』と願う。想いがひとつになって、お医者さんも患者さんも互いが、治すぞ!と思って望まないと決して効果なんてでないんだなぁと思いました。最近、よく、医療不信とかが叫ばれているけれど、お医者さんと患者さんに限らず、人間関係を築いていくとき、相手を疑いのまなざしで見つめ続けている限り、決して信頼関係が生まれることなんてないんじゃないかなって思いました。自分が相手を信じれなくて、たとえ相手が歩み寄ってきてもうまくいくはずなんてないもの。自分が相手に不信感を抱いていたら、相手も心を開くはずなんてないもの。これから、何十年と透析を続けていつの日か、透析でも私の身体のなかの血を浄化できない日がくると思います。再度入院したとき闘病生活を乗り越えていくだけの体力がなくなる日がくると思います。助からずに死んでしまう日もいずれ来ると思います。今回、あっという間に悪化して、透析になってしまったように、きっと死ぬときもあっという間に悪化して、そのときが来るんだろうな、と思っています。たとえ私がどんな死に方をしたとしても、そのときに夫に、遺族に誰も恨んで欲しくないなぁって思いました。透析がなかったら、私は死んでいた命だもの。医療不信になったりしないで欲しいなぁって思いました。きっと患者さんが死んで悲しんでいるのは、家族だけではなくて、お医者さんも、看護婦さんも同じように悲しみ悔やんでいると思いました。生と直接関わり、死と直面するんだもの。看護婦さんやお医者さんたちもまた、患者さんや家族と同じように、家族がいる人間だもの。きっと同じように、悲しみ悔やんでいると思いました。母が痛がる私と変わってあげることができないと見守ることしかできないと自分自身を責めて悔やんでいたように。自分の力なさや医学の限界を責めて。家族も、お医者さんも、看護婦さんも、みんなみんなかけがえのない命を守りたくて。みんなみんな人間だもの。完璧じゃない人間だもの。それでももがき苦しみながらでも、すべてよくなるようにといろんなものと戦ってる。
2007年06月16日
あれは、発病して、高校を1年留年して、4年かかって卒業して二十歳をいくつか過ぎたくらいの頃だったかなぁ?幼稚園の頃からの友達のふじこちゃんが、私にクイズを出したことがありました。『ナイチンゲールってさ、なんで白衣の象徴って言われてると思う?』と聞いてきました。その頃、彼女は自分の夢を目指して看護婦になるために働きながら学校に通っていました。看護学校で聞いてきたことを言っているのかな?と思って、『戦争で兵隊助けたから?』と聞いたら、半分アタリ、と言いました。彼女は続けてナイチンゲールってさ、看護婦として働けたのはクリミア戦争の数ヶ月しかなかったのに白衣の象徴って言われてんのよ、と言うから、私はますます訳が変わらなくなりました。『ナイチンゲールは、身体が弱くて長い間戦場で、看護婦として働くことはできなかったんだって。けどねナイチンゲールは、身体が弱かったからこそ、熱いと感じるときの熱の冷まし方と寒いと感じるときの熱の冷まし方が違うことを知ってたんだって。だから、自分の知っていることをノートに記して、自分の代わりに戦場に行って介護をしてくれるひとたちを集めて、充分な物資も、医療もない戦場で病気を治すには、自己免疫力を高めるには、清潔な環境と栄養のある食事と、手厚い介護が一番大切だとひとりひとり丁寧に教えて、戦場に送り出したんだって。ベッドのうえで残りの人生を送ることを余技なくされても、医療が充実するように、いろんなところに手紙を書いて送ったんだって。』って教えてくれました。『もしね、ナイチンゲールが、私は身体が弱いから、とか、もう、ベッドのうえで一生過ごさなきゃならないから、とかうだうだ言ってたら、きっと今の医療はないよね。身体の弱いナイチンゲールだからこそできたこと、身体の弱いナイチンゲールでないとできなかったことってあるみたいに、あたしだってそう。この世に生まれてきたからには、誰にだって必ず、そのひとだからこそできることってあると思うし、そのひとにしかできないことってあると思うのよ。だからさ、病気しちゃったあんただからできること、あんたでないとできないことがあるかもしんないよ。あんたにしかできないこと、探してみたら?』って言ってくれました。あたしはナイチンゲールの自伝を読んだこともないし、彼女の話が本当かうそかわかんないけれど、当時、食に関わる仕事がしたい、という漠然とした想いはあるものの、自分のなりたいものがわからなくて、これから先、どう生きていけばいいのかわからなくて、悩んでいる私に、彼女なりに必死で励ましてくれてるのがわかりました。あたしだからできること。あたしでないとできないこと。誰にでもひとつくらい、そんなものがきっとある。誰でもきっとナイチンゲールになれるんだ。あたしだからできること。あたしでないとできないこと。それっていったいなんだろう?生を受け、この世に生まれてきたひとすべてにそのひとだからこそ成し遂げられることが必ずある。神様にもらったこの命を使って成し遂げることがきっとある。それを使命と呼ぶひともいる。けれど、それはそんなに大げさなものじゃあなくて。きっとひとの身体の奥底にはこの世に生まれてきて自分が生きた証を残したいって強く願う本能が眠っているのかもしれない。それは歌だったり、子供だったり、仕事だったり、本だったり、この世に残すものはひとそれぞれで。食に関わる仕事がしたい。あたししかできないこと。あたしだからできること。何をどうすればいいのかなんてわからないけど。本当に漠然としていて。なにから手をつけていいのやら。何にも見えはしないけど、それがあたしが、自分の夢を探し始めた日。きっとあたしもいつの日かナイチンゲールになりたいんだ。そう。誰でもきっとナイチンゲールになれるんだ。
2007年06月15日
[ 携帯から更新 ] / 2006年11月01日 そうやって、日々の嬉しいことをひとつずつ、書き出していきました。友達がお見舞いにきてくれて嬉しかったこと、仕事もあって大変なのに、旦那が毎日のように来てくれて嬉しかったこと。少しずつ身体が回復していくこと。もらった花束に付いていたメッセージカードを貼り付けて、チョコレートの箱に書かれたメッセージを切り抜いて貼り付けました。元気だせよ、と友達が送ってきてくれたCDのなかに入っていた手紙をノートに貼り付けて、よきライバル!と書きました。旦那が夕食にと買ってきたどこかのお弁当の箸の袋を貼り付けてノートには、旦那ちん出会ってくれてありがとう、と書きました。旦那は、仕事もあるのに毎日のように病院にきてくれて、私の洗濯物を持って帰り、夜遅くに洗濯をして、また仕事に行って病院に来る、という日々を繰り返してくれました。ずぅっと外食ばかりだったみたいだから、帰ったら、大好物を作ってあげようって思いました。何もなく過ぎた日には、今日はお腹が痛くならなかったし、頭痛も透析熱もでなかった。よかった。と書きました。『人生、無駄なことなんてひとつもないよ』なんていうけれど、透析になってしまって、あたしの血が巡回する管を見るたびにこれは生命維持装置なんだな、と思うと嫌でも時は永遠ではなくて、限りあることを思い知らされるしどの一瞬たりとも、無駄になんて使えない!と思いました。本当に人生に無駄なことなんてひとつもないんだろうなぁって思えました。一ヶ月前までは死にかけていたのにね。こうやって今は歩くことができる。ひとの身体って本当に脆いけど、強いんだね。透析にはなってしまったけれど、命が助かってよかった、という想いは、次第に、今のままで充分幸せ、と思えるようになりました。今のままで、充分幸せ。だからこそ、後悔しないように、限りあるあたしの命が尽きる日まで愛するひとたちと笑って過ごしていきたい。そう思うと、今度あの子と会ったらこんなことをしよう。あんなことをしよう。この子はあれが好きだから、家めしのときには、アレを作ろう。と自然と、やりたいことや作りたい料理が出てきました。そんな気持ちで切り抜く雑誌は本当に楽しくて、早く料理が作りたくてうずうずしながら、コレも美味しそうだな、喜ぶかなぁアレもいいな、旨そうだなとひとりでニヤニヤにやけながらノートに貼り付けていきました。この1ヶ月間。友達からメールや手紙が来ると、それをまた貼り付けるから、ノートを作っている最中、いろんなことを思い出しました。
2007年06月14日
困りました。ノートと糊とペンを買ってきて、私は固まってしまいました。夢がね、出てこないの。ずっと高価な服もかばんも要らないから、だた大好きなひとと結婚して、ごはんが食べれて安心して眠れる場所があればいい、普通の幸せが欲しい、って思いました。結婚して、大好きなひとの待つおうちもできた。骨になって帰るのではなくて、もうすぐ、元気になっておうちに帰れる。ごはんも食べれるし、自分の足であるけるし。息もできるし、家族に迷惑をかけないで済む。ってそう思ってほっとしてました。そう思うとせっかく売店で、ギャル系のきれいなモデルさんがたくさん載った雑誌や色とりどりの料理が並ぶ温泉宿や海外のリゾート地の載った雑誌などを買ってきたけれど、欲しいと思うものがなにもなくて、絶対成功するぞ!とか、お料理研究家として大成するぞ!とかそういう気持ちさえなくなってしまいました。あれだけ、透析する前に今まで築いてきたものを失うことを恐れていたけれど、これから先もあたしは、ずっと大好きな家族や友達に料理を作っていくだろうし、それこそ、命尽きる最後のときまで、フライパンを持っていたいと思うし、自分の命がかかっているから、死ぬまで食事療法のことも勉強し続けるんだろうなって思いました。だとしたらお料理研究家としていろんなひとの笑顔を見る仕事を続けていくことも旦那の夕ご飯を作って、掃除をして洗濯をして、普通の主婦になることもどちらでもどちらにしても幸せだなって思いました。あたしにとっての幸せは大好きなひとたちと笑い合って時を過ごすことで、その方法のひとつとして、お料理研究家という道を選んだんだよなぁって改めて思いました。最初は、身体が弱くても、体力がなくてもできることで、身体が少しでも元気になれることで、小さいとき、お母さんとお父さんはいつも共働きでおうちにいなかったから、家族に『お帰り』って言ってあげられる仕事で、私にできる仕事ってないかな?おうちでできる仕事だったら、お帰りって言えるし、身体に負担もかからないし、家族もあたしも寂しい思いをしないで済む。そう思って。思いついた仕事がお料理研究家だったの。お料理研究家になって、食事療法の研究をして、自分で実践して、試して元気になれて、それがレシピになったら、どんなにいいだろう。私や、お母さんが悲しんだみたいに、お父さんが苦しんだみたいに、だぁれも悪くないのに、『家族の誰かが発病』という大事件で温かった団欒が失われることがないようなレシピを作れたら、どんなに素敵なことだろう。そんな風に思ってなりたいと願ったお料理研究家という仕事が、いつの間にか、私のなかで手段が目標に変わり、いつの間にか、最初の気持ちを忘れていた気がする。病棟の奥にはベランダがあって、夕方に吹く風は、もうすっかり秋の匂いがしてました。ベランダから見える病棟の壁はあちらこちらはがれ落ち、夜中に見るとお化け屋敷かと間違えそうなほどに古く錆びれていました。13年前に初めてここにきたときも、この病棟の古さにびっくりして、こんなところで大丈夫なのかな?って不安に思ったりしたんだよね。13年経っても、ここはあのときと変わらない。お見舞いに来た妹が、『ねぇちゃんの腎臓も粋なことしてくれるねぇ。本当だったら、たった3個の細胞じゃ動くはずないのに、夢叶えて結婚するまで頑張って動いてくれたんやろ?13年前に透析してたら、ねぇちゃん、確実に結婚できてなかったし、お料理研究家にもなれてなかったよ。役目果し終わったから寿命がきて、止まったんじゃないの?』と言って母に怒られていましたが、なんだか、今回の入院も、この大学病院に入院したことも、あたしの腎臓が『なみちーん、初心を思い出せよ』って、最後に言ってくれたような気がしました。ノートの表紙には、『なみちんの夢ノート』と記する代わりに、『なみちんのありがとうノート』と書きました。あたしはずっとずっと、成功は、山登りで、山の頂上にいけばパラダイスがあると思ってた。成功は歯を食いしばり、頑張って、頂上を目指して勝ち取るものだと思ってた。頂上まで上り詰めれば、幸せになれるんだと思ってた。だから、頑張れば幸せになれるんだ、と。でも違うみたい。今生きていて、今日という日を過ごしていて、生きていて悲しいこと、辛いこと、苦しいことあるけれど、一緒に過ごす友達がいること、家族がいること、笑い会えること。共に乗越えてくれる仲間がいること。どんな状況になっても、信じてくれる友達がいること。心の底から、相手を信じられること。それが幸せなのかなって思いました。幸せは、頂上にあるんじゃなくて、こうやって夢を目指して向かう旅の途中で得る仲間たちが、宝なんだ。幸せは、歩いてこないのでもなく、歩いて掴みとりに行くものでもなく、今、この瞬間にそばにあるものなのかなって思いました。だから、ありがとうノートは、過去でもなく、未来にでもなく、今、この瞬間生きていて、嬉しかったことを記すノート。共に分かち合う仲間に感謝を記すノート。ありがとうって感謝を込めて。きっと奇跡って特別なひとだけに起こるミラクルなことなんじゃなくて、カッコいいものでも決してなくて悩んだり、もがいたりしながら、泣いたり笑ったりしながら積み重ねてきた足跡のことなんだなって思いました。生きていて、辛いこと、悲しいこと、嬉しいこと、楽しいこと。泣いて笑って積み重ねてた足跡が。軌跡はいつしかきっと奇跡になる。ミラクルはきっと誰にでも起こる。そんな風に思いました。
2007年06月13日
週3回透析があり透析のない日は検査があるので入院生活は意外と慌ただしく一日はあっという間に過ぎて行きました。朝食を朝8時に食べ終え、看護婦さんに温めたタオルで身体を拭いてもらったら9時半に透析センターに車椅子で移動して10時から透析がスタートします。私は5時間透析なので3時に終わりレントゲンをとって病室に戻るのはいつも4時くらいでした。透析の5時間は長く感じるかなと思っていたけれど透析が始まると頭がぼーっとしてきて眠くなるので一寝入りすればあっという間に時間は過ぎ起きているときは料理の雑誌や本を読んだり友人がお見舞いに送ってきてくれたCDを聞いたりしているので5時間は意外と短く感じました。見舞いにきた母はベッドに張り付けにされて強制的にのんびりしなきゃいけない時間ができるからあんたにはちょうどいいんじゃない?と冗談交じりに言っていたけれど週3回のんびりとお昼寝する時間と読書する時間ができたと思えばそれもまた悪くないなぁと思いました。読書とお昼寝以外にももうひとつ。私には楽しい暇潰しがありました。雑誌やカタログを切り抜いて色鉛筆や筆ペンを使って好きな言葉を書き出したりやりたいこと欲しいものなどを書き出したノートを作ることです。夢をノートに書き出すことを夢ノートとかドリームファイルと呼びそんなノートの作りかたの本があることを知ったのは退院したずっとずっと後になってのことでした。私が初めてノートに夢を書き出し始めたのはやはり13年前の最初の入院のときでした。暇潰しにと雑誌を買ってきてもらっては綺麗な服を来て頬をピンクに染めて微笑むモデルさんたちを見て私もこんな服が着れるようになりたいなぁこんなピンクの頬っぺや唇になりたいなぁ肉付きのよい健康そうな体になりたいなぁと思っていました。料理の雑誌を見てはおいしそうだなぁ食べたいなぁこんな料理作れるようになりたいなぁと思って眺めていました。見舞いのたびに買ってきてもらった雑誌も隅々まで3度も読めばもう飽きます。飽きた私は売店で糊とハサミとノートを買ってきてもらって自分の好きなモデルさんや女優さん大好きな作家さんの言葉やいつか食べてみたい料理作ってみたい料理を雑誌のなかから選び出しジョキジョキと切り抜き始めました。そしてそれをノートに貼りつけて横に色鉛筆やサインペンを使って半ば日記のような感覚で毎日自分の願望や素直な気持ちを書きました。早く元気になっておうちに帰りたい。こんな服が着れるようになりたい。この女優さんみたいに綺麗で可愛い女の子になりたい。ピンクの頬っぺになってこんな服を来て素敵な男の子とデートがしてみたい。こんな料理が食べたい。いろんな料理を作れるようになりたい。みんなでわいわい言いながらご飯が食べたい。他愛もないことばかりだけど貼付けた女優さんの切り抜きの横には『ピンクの頬っぺたになるぞ計画!!』などとかなり本気で書いていて婆ちゃんがスベスベの肌になるには南瓜を食えと言っていた帰ったらたくさん食べたいとかはやく野菜がたくさん食べれるようになりますようにとか色鉛筆で可愛く飾って書きました。友達から手紙がくると紙を張り合わせて作ったボケットをノートに貼付けてあとからまた取り出して読めるようにひとつずつ手紙を入れていきました。ノートを書いている間、夢中になれるからちょっとだけ入院していることを忘れられるから本当に楽しくて今思えば現実逃避だったのかもしれないけれどいくつもいくつも小さな夢をノートに貼付けました。眠れない夜とかは病棟の廊下に並ぶベンチに腰掛けて退院したらこれもしようあれもしよう早く元気になってまた友達とたくさん遊ぼうと思いを馳せながら薄暗い廊下でひとりノートを眺めて夜を過ごしたりしていました。これがあたしが夢をノートに書き記し始めたきっかけでした。最初は本当に暇潰しだったの。退院してね少しずつひとつずつ夢は叶っていきました。家族と一緒に笑いあって食卓が囲めるようになり40キロを切っていた体重が少しずつ戻りレンガのように渇いていた肌が少しずつ潤いを増して昆虫のように細かった手足は元の健康だった頃の太さに戻りました。駄目だと思っていた社会復帰も七年半という月日を経てようやく普通に朝起きて仕事にいき普通に恋をして仕事が終われば友達と一緒にお茶をして。願いは叶ってそんな当たり前の生活が普通の生活ができるようになりました。『夢をノートに書くと叶うんだよ』っていうのは本当なんだなぁと思ってその後も夢ノートの作りかたの本を読んだり 友達に聞いたりして改良された夢ノートをずっとずっと作り続けていました。けれどこうしてふと、思い起こすとここ最近、数ヵ月前に作った夢ノートは夢ノートというよりもなんだか会社の営業売り上げ達成目標宣言ノートみたいになっていて 作っても見てもあまりわくわくするものでも楽しいものでもなかったなぁと思いました。あのとき初めて夢ノート作ったときはほとんど日記だったよなぁ中学校からずっと一緒の友達や幼なじみから手紙が届くたび泣いてたよなぁそういえばあのときの夢ノートって自分の夢だけじゃなくて手紙が届いて嬉しいとか熱が下がってよかったとか嬉しい気持ちを書き記したりしてたよなぁって忘れかけていた記憶があのときと同じ病院の同じ病棟で少しずつゆっくりと鮮やかに甦ってきていました。未来に対する夢はばかりを書くんじゃなくてちょっとした些細なことばかりなんだけど今この瞬間に生きていて嬉しかったことよかったことをたくさんたくさん書いていたような気がする。よし!と思い立ち透析のない日の午後に検査の帰りに補助看さんに売店に連れて行ってもらってノートやサインペン、糊などを買いました。
2007年06月12日
久原先生が渡してくれた包みはずしりと重く結構、厚みがありました。『私、宮成さんのブログを見て 初めて入院されたことを知ったんです。家庭科の授業のときに 生徒たちに宮成さんが入院していること今病気と戦っていることだから文化祭には来られないことを話したんです。私が最初に見たのがちょうど宮成さんが入院したばかりくらいのところで13年間が夢じゃないよね?って書いてあったことも呼吸ができなくなったことも話したんです。そしたら1ヵ月前には元気に笑って講演してたじゃないか!って生徒たち信じられなかったみたいでブログを見せろと言いだして。家庭科の授業の時間にパソコン持ってきてみんなに見せたら 宮成さんに手紙を書こうって言う話しになったんです』と、久原先生に言われて 受け取った包みを空けるとびっしりと紙いっぱいに書かれた激励の手紙が入っていました。生徒たち一生懸命書いてましたから誤字脱字は勘弁してあげてくださいね。って言って、先生はにっこりと微笑みました。色とりどりのペンを使って書いている子 可愛いイラストを添えて書いてくれている子 いろんな子がいました。宮成さんが生きてきた13年間は夢なんかじゃありません!久留米商業に来たし私は宮成さんの話を聞いたよ!元気になってまた来てください!と、力強いメッセージがいくつもいくつもありました。食育講演会のときに砂糖水を試飲してくれた野球部の男の子は 『自分はなにもできないけど今日家に帰ったら仏壇に手を合わせて宮成さんのこと頼んでおきます!』と書いてくれていました。またある女の子の家では西日本新聞をとっていて以前からお母さんが私の記事を読んで共感し娘にとメロメロレシピを買ってきてくれていて今では親子で食について話し合ったり 家族が風邪をひくとメロメロレシピのおじやを作ったりするようになったと、書いてくれていました。やはり1番多かったのは一ヶ月前まであんなに元気に笑っていたのに本当に健康を失うときは一瞬なんだと思った今でも信じられないし、驚いているというものでした。ブログを読んでいてあたしが講演のなかで何度も「失わないで済むのなら健康だけは失わないで」と言っていた意味がよくわかったって書いてくれている子もいました。男の子も女の子も関係なくどちらも文化祭をきっかけに講演会をきっかけに家庭科の授業をきっかけにおうちでお母さんと一緒に台所にたって料理をするようになりましたとか今まではおみそ汁や野菜のおかずを残していたけど毎日必ず食べるようになりましたとか朝ごはんをちゃんと食べるようにしたり野菜をしっかり意識して食べたりするようになった途端今まで激しくて起き上がれなくなっていた生理痛が本当に軽くなったよ!などの報告が書いていて最後はどの手紙にもだから僕も私も頑張るから 宮成さんも病気に負けずに頑張ってください生きていてくださいと綴られていました。そしてまた元気になって久留米商業高校にもう一度来てください!って。『「頑張って」って書いていいのかな?ってわざわざ聞きに来た生徒もいて本当に辛いときとか頑張ってるときに頑張ってって言えないよって言っていたんだけどでもやっぱり宮成さんに生きてて欲しいから乗り越えて欲しいからって言っていて他に言葉が見つからなかったみたいです』と久原先生が教えてくれました。嬉しくて嬉しくて涙でぼやけてしまうから手紙がうまく読めません。目の前にいる久原先生になんて言っていいかわからずにただ何度も何度も涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔でありがとう、ありがとうっていいました。お料理研究家になってから、この2年間たくさんいろんなことがありました。悲しいことも悔しいことも理解してもらえないことも。私一体何をやっているんだろう?と思うこともありました。夢にまでみた念願の料理研究家になれたのにぽっかりと胸に穴の間ような孤独感を感じることもありました。なんの資格も持たない小娘がひと様の前で食の話をしていいものだろうか、と葛藤することもありました。自分の過去を発病したばかりの体験談を話すと今でも思い出すたびぽろぽろと涙がでてきて話せなくなることもしばしばでいっそ話すのは辞めたほうがいいのではないかと悩んだこともありました。けれど諦めないでよかったと伝えて続けてよかったやり続けてよかったとひとつひとつの手紙を手に取り読みながら思いました。みんなは私のことをなみ先生と書いてくれていたけれどまたいろんなことを教えてくださいねと、書いていたけれど私もみんなと同じ。あたしもみんなと同じ、学んでいる途中。文化祭を通してみんながいろんなことを学んだように 私もみんなとの出会いを通していろんなひととの出会いを通して自分で体感し、実践してみることを通していろんなことを教えてもらっているよ。講演会でもお料理教室でも会場にいる方たちからキッチンにきている女の子たちから本当にいろんなことを教えられているよ。本当にホントに感謝しているよ。あたしにとって共に学んでくれるみんなが先生なんだ。早く元気なってまたみんなと一緒に笑いながら 家庭科の授業をやりたいなぁって思いました。押し付けるのでもなく強制でもなく上からものを言うのでもなく一方的に教え育てる『教育』ではなくて共に学び共に喜び 共に分かちあえる『共育』。そんな食育がもっともっと身近なものになったらいいなぁと思いました。そんな授業をしたいと願う家庭科の先生たちはたくさんいる。だから義務教育のなかから家庭科の授業を削らないで欲しいなぁと切実に思いました。
2007年06月11日
退院の日が決まりました!!このまま状態が急変しない限り 今度の土曜日に退院していいって言われていて明日、無事退院できることになりました!!透析熱がまだずっと続いているし貧血が激しいらしいので安定期に入るまでは自宅加療だそーです。主治医の先生から『仕事は自宅加療が終わったあとぼちぼち復帰してくださいね!!1ヵ月前までは死にかけたんだからちゃんと自覚してくださいね!!』と鬼のよーな顔をして口を酸っぱくして言われました。貧血が激しくてもあたしみたいに自覚症状が全くないほーが危ないんだって。急に悪化するのもこわいけどゆっくりゆっくり悪化していくと本人はそれが普通と思っちゃって自覚症状のないまま進行しちゃたり無理しちゃったりするんだって。ひとつずつ復帰して行こうと思います!メールやお見舞いありがとう!書き込みすごい嬉しかったです!めげそうなとき辛いとき悲しいときとてもとても大きな励みになりました。一人で病室にいても一人じゃないって思えました。結局、たくさん検査もしたけれど私の病気がどこからきたのかなぜ急変したのか原因も理由もわかりませんでした。原因がわからないから根本治療はできないけれどでもいいの。生きてるだけで充分幸せ。働くこともできるしごはんも食べれる。自分の足で歩けるし。骨になって帰るのではなく元気になって生きておうちに帰れるだけで充分満足。おうちに帰れる。家族の待ってる私のおうちに。嬉しくって泣きそうです!ホントに本当にみんなのおかげ。ホントに本当にたくさんの方たちのおかでで元気になれました。今回のことはひとは色んな人に助けられ支えられて生きてるんだなって生かされてるんだなって理屈じゃなく体感としてしみじみと実感させられました。ホントに本当にありがとう。お誕生日、おうちで迎えられるよ。
2007年06月10日
透析が終わって車椅子で迎えにきた看護婦さんがお客さんが来ていたよと教えてくれました。部屋に戻ると久留米商業高校の久原先生が病室に来ていました。久原先生は家庭科の先生でとても生徒思いな熱い方です。学校教育に家庭科って必要だよね!って話で盛り上がり生徒さんたちが義務ではなく楽しんで料理を学んでいけるような環境を作りたいですね!って話で語り合ったりしていました。毎年、久留米商業高校に私を呼んでくれていて1年生から3年生まで家庭科の授業の一環として各学年、視聴覚室や大きなステージのあるホールに集まって体験談も交えた食育の講演会をやっていました。去年の食育講演が終わった後ひとりの生徒が私のところにやってきて私たちもなにか自分たちの手でやりたいと思ったから きっとその時は協力してください!今年久留米商業高校は創立110年記念で文化祭で模擬店をやるから生徒たちで企画を作るから宮成さんその時はぜひ来てください!と言われていて今年の10月、そのイベントが実現しました。久留米の特産物を使ったオリジナルレシピを生徒さんたちの手で作り模擬店で販売するというものでした。生徒さんたちが自ら久留米の特産物を調べてインターネットで作り方を調べたりお母さんに聞いたりしてレシピを作りました。生徒さんたちが作ったレシピは一度私のところにフアックスされ、アドバイスを参考にまた試作をしてレシピを作り替えていきました。買い物も自分たちで行い試作のための材料費は高校生のなけなしのお小遣から出されて作られました。部活や補講もあるのに夏休みわざわざ出て来て何度も試作が行われました。インターネットや本に書いてあるレシピを見てその通りに作ってもうまくいかないことも多々ありました。せっかく調べて話し合いレシピを作ったのに保健所の規定で却下され1からやり直しになることもありました。大勢の人数をまとめ進行させていく中で意見がまとまらないこともいざこざが起こることもありました。それでも生徒さんたちは投げ出さずにレシピを完成させました。私は夏休みのある一日に久留米商業高校を訪れて 実際に試作を味見しアドバイスをする約束をしていました。生徒さんたちはみんなお肉がぱさつくけどジューシーにするにはどうしたらいいか?とか生地が少し固い気がするのでおいしくするにはどうしたらよいか?など、質問も具体的で本当にあともう一歩!というところまでしっかりとしたレシピを作り上げていました。私がするアドバイスひとつひとつをメモに取り さっそくやってみますとみんな張り切っていました。その後夏休みが明け新学期が始まって恒例の食育講演会をしました。私はみんなと同じ歳のときに健康を失ったのって経験談も交えて食の話、命の話、家族の話をしてみんなでこれからの食について話しました。できることから始めていこうって話し合いました。講演が終わってみんなでもうすぐ文化祭だね!レシピできた?試作うまく行った?って笑いながら話して 10月の文化祭ぜひきてくださいね!って言われて再び 久留米商業高校を訪れる約束をしました。けれど食育講演からちょうど一ヶ月後。私は入院していて文化祭を訪れることはできませんでした。行けなくて残念だなってみんな待っていてくれたのにって思うと悔しくてずっとずっとどうなったのかなってみんなはうまく作れたのかなって気になっていました。久原先生に文化祭はどうなりましたか?模擬店はうまくいきましたか?と聞くと結果は大成功で全部で6つあったブースの全てが完売したのだそうです。完成度も高く、とてもおいしくできたとのことでした。前夜祭の日から盛り上がり私のところに企画を作るからぜひ来て下さい!と言いに来ていた子が「歴史に残る文化祭を成功させましょう!」という呼びかけに、全校生徒が応え中心になって頑張った彼女にありがとうの拍手が起こったのだそうです。彼女は諦めずにここまでやってきてみんなと一緒にやってきて本当によかったと泣いていて、先生もウルウルきてしまったと言っていました。週が明けて月曜日に久留米市民会館で文化祭二日目が行われ最後に合唱の課題曲を全員で歌い、心が一つになって感動的なラストとなり生徒会を中心に卒業式並の涙だったのだそうです。最初はうまく行かないことの連続でした。頭で描いていたレシピと実際が違って大変なこともありました。もちろん今までほとんど料理をしたことのない子や家庭科の授業以外全く料理をしたことのない子もいたし生まれて初めてチャレンジして作る料理に最初からうまくできるものではなく練習が必要なものもありました。けれど幾度も幾度も失敗してみんなで試行錯誤して ラップを使うとか素材を変えてみるとか智恵もでてきてきました。あたしも久原先生もなにも手は貸していません。ただ見ていただけ。ヒントは与えても答えは生徒さんたちが試行錯誤したなかから自分たちの答えを自らの手で見つけだしました。全て生徒さんたちの手で本当に世界でひとつしかない久留米商業高校のオリジナルレシピができあがりました。きっと生徒さんたちは栄養価のことも料理の常識といわれることも充分知っている訳ではないだろうし手順も多少違っていたかも知れません。けれどそんなことよりもっともっと大切なものを得たんだなぁって思いました。レシピを作ることを通して調理することを通して仲間と協力しあうことを通して多くのものを得たんだなぁって思いました。久原先生に 本当によかったよかったですねぇっていうと生徒からのお見舞いですといって分厚い包みを取り出しました。
2007年06月09日
シャントの手術も無事に終え、おぼろげながら退院のめどがついてきました。今まで入院していたから病院の管理のもと朝6時起床、夜9時就寝の規則正しい生活も矯正的に行われていましたし管理栄養士さんが計算をした料理が毎日きちんと3食でてきていましたが退院してからの自己管理は自分でしないとなりません。自己管理や食事療法がなかなかうまくいかず再入院になる方もたくさんいるとのことでした。透析センターで私のシャント手術をしてくれた先生がアドバイスをくれました。『透析はね週3回病院にゴミをだしに来るようなもんなんだよ。今までは自宅に全自動生ゴミ処理機があって毎日どこにもいかずに24時間ゴミだしができた。けど壊れてしまったからゴミ捨て場まで捨てに行かなくちゃならなくなった。収拾車は週3回しかこないからその間は家に生ゴミ置いたままだよね?たくさん生ゴミをだして溜めれば重い袋を幾つも持って何度も往復しなきゃならないし、台所も部屋も汚れて大変だ。生ゴミを減らす工夫をして量が少なくて軽かったら楽にゴミだしできる。透析も同じ。体内にあるはずの血液を一度外にだすんだもんね。それだけでも身体はびっくりするのに急に大量の水や有毒物質を抜いて血中濃度が変わったり毒素が残ったままだったら身体への負担は大きいよね?できるだけ除去する水分や有毒物質の量は少ないほうが楽な透析になるんだよ。透析と食事療法はふたつでひとつ。車でいえば前輪と後輪みたいなもんだよ。どちらかひとつじゃ走れないんだ。』と先生は教えてくれました。毎日歯を磨くように毎日トイレにいくように週3回ゴミ出しをしているように透析も慣れれば習慣になるから心配しなくても大丈夫だよ、と先生は言いました。綺麗なお肌を作るにはメイクアップと同じくらいにクレンジングなどのメイクダウンが重要になるみたいに余計なものを入れないことと入れたものをきれいに出すこと。摂取と排泄。あたしにとっては食事と透析。このふたつはふたつで1つ。きっと綺麗な肌を作るのも元気な体を作るのも過ごしやすい環境を作るのも同じことなんだ。と思いました。『生命維持のために週3回の透析が必要』と書かれたあたしの診断書を思い出して1週間透析を受けることができなかったら生きていくことができなくなる透析患者さんたちにとって透析って本当に延命処置のひとつなんだなって改めて思い、これから先、何十年と透析をしながら社会復帰することも新たな人生を作っていくことも食事療法が重要になるんだなぁと実感しました。医食同源。医療と食事療法がもっともっと密接に結び付いてくれたらどんなに心強いだろう。先生。13年前に先生が進行を遅らせる唯一の方法が食事療法だよって言っていた意味わかったよ。
2007年06月08日

こんにちは。僕シャントボールのカバです。今日はなみちんの代わりに僕が更新します。シャントと言うのはなみちんが腕に手術して作った太い血管のことです。太い血管といっても動脈と静脈を繋げたくらいじゃ血管は太くはなりません。ですから抜糸をして血管がきちんとくっついたらシャント運動と言うのをやって血管を太くなるように育ててあげるんです。なみちんの場合は 元々の結節性動脈周囲炎と言う病気があるせいか動脈の太さが普通のひとの半分の1ミリしかなかったので3週間くらいかかるだろうとお医者さんに言われていました。シャントが育つのに3週間かかってその後、1週間ほどシャントで透析をして問題なければ退院です。それを聞いてなみちんはえぇぇぇーっあと1ヵ月もかかるの-?!って露骨に嫌そうな顔をしていました。左膝の炎症もだいぶ納まってきているから抗生剤もあと1週間くらいで点滴から飲み薬に変えてシャントが発達して、透析できるようになったらすぐ退院できるよとお医者さんが言うとなみちんはこれまた露骨にに目を輝かせてじゃあシャント運動いっぱいやればいいのね!!って言いました。そこでシャントボールの僕の出番です!シャントは利き腕と逆に作りますからなみちんのシャントは左手に作られました。ひじの上、ちょうど二の腕の下のところを右手でぎゅーっと押さえて左手で僕をぎゅううーーーっと握りしめます。これがシャント運動。一回のぎゅううーーーーっっと握る長さは10秒ぐらい。これを1分間、一日に5回くらいやります。あとはテレビを見ながらニギニギ。暇なときにニギニギ。いつでもニギニギと握りしめてもらえばシャントから流れる血流がよくなり大量の血が流れ込むたびに少しずつ血管が育っていきます。シャント運動を毎日続けて透析が充分にできるくらいの太い血管が育つのにだいたい平均で2週間くらいかかります。なみちんと僕は言わばもう戦友みたいなもんですね。なみちんにとっては誕生日を家で迎えられるか病院で過ごすかの瀬戸際ですから。そらぁもう!僕を握りしめる手にも力入りまくってますよ。なみちんってば朝もニギニギ。昼もニギニギ。夜もニギニギ一日中僕をニギニギやってます。寝るときまで僕を握って寝ています。ときどき寝ぼけて僕は放り投げられるんだけど朝になるとなみちんがカバがない!カバがない!と大騒ぎしてたいてい僕は看護婦さんに見つけられます。てな感じでなみちんはだいぶ元気になってるんでみなさま安心してください。ちなみにボクをよーーく見てください。僕、ツノあるし、本当はサイなんですよね。旦那さんに『カバカバ言ってるけどそれツノあるからサイでしょ?』って突っ込まれても言いまつがいを認めるのが悔しいのか、苦し紛れで『カバって名前のサイなの!』って言い返しちゃってカバって名前になりました。マジそんなんで名前つけられちゃいました。このひとねーぶっちゃげ頑張りやさんでもなんでもないっすよ。ただの負けず嫌いみたいですよ。目標は10月以内に退院!と鼻息を荒くしておりました。誕生日おうちで迎えられるといいなぁ。
2007年06月07日
入院生活にもだいぶ慣れてきて左膝の炎症も納まり車椅子での生活から歩行機に変わりたどたどしくも歩いたり起き上がったりできるようになってきました。入院生活は週3回の透析に加え、検査や点滴などが結構あって慌ただしく日は過ぎていきました。そろそろ腹膜透析にするか血液透析にするかを決めてふと股の付け根や首筋に走る太い血管に管を通さなくても透析ができるように手術しなくてはならない時期がやってきました。腹膜透析はお腹にパイプを入れる手術を、血液透析は腕に太い血管を作る手術をしなければなりません。どちらの透析にも一長一短あり腹膜透析は自宅で毎日自分で透析できるというメリットがありましたが、衛生面の管理や自己管理などが難しそうなのとお腹からパイプがでているのは怖いという理由で血液透析を選びました。腕を通る動脈と静脈を手首の近くで結び腕に血流を強い太い血管を作ります。手首には斜めに4センチから5センチくらいの傷が残ると言われました。斜めに切るのはリストカットと間違われないようにするためなのだそうです。特に女性は気にするでしょ?と私の手術をしてくれる先生がいいました。ああこの人なら安心だと思わせるような貫禄があり大学病院に長くいる中堅の先生でした。手術は手術着を着せられて手術室で行われました。本当にドラマみたいに先生たちは緑のバスキャップみたいな帽子と手術着を付けていて8つのライトの付いたいかにも手術!といった感じの照明が眩し過ぎるくらいにぴか!っと光りました。もうそれを見ただけで今から本当に手術が始まるんだ!と思うと恐ろしくて恐くって手術前には飲むと30分くらいで寝てしまうという安定剤を飲んだのにてんで効かず 血圧は200を越してしまいました。先生から怖がらなくていい、怖がると興奮するから血圧上がるよといわれて横にいた主治医の先生や看護婦さんが肉じゃがの作りかた考えてごらん!とかお料理好きなんでしょ?何が1番得意?とか聞いてくれるのだけどそれどころじゃなくなっていました。30分どころか打ったらすぐ眠くなっちゃうよというくらいもっと強力な安定剤を点滴から入れましたが、それでもてんで眠くならず血圧は下がらずにそのまま手術は続行し2時間くらいで無事終わりました。手首にの近くを切るので、どのくらいの血がだらだら流れるのかと心配していたら採血検査の何分の1というほどの微量しか血はでないとのことでした。ドラマとひとつ違ったことは『メス』とかひと言で終わって重々しい空気のなかで一人の先生が黙々と手術するのではなくて3~4人いる先生同士で確認しあうように専門用語がたくさん混じってなにを話しているのかてんでわからない会話を2時間ずーっとしながら手術することでした。病室に戻って朝早くから駆け付けてくれてた旦那の顔を見たらようやく気が緩んでそのまま何時間もぐっすりと寝てしまいました。こうして無事手術は終わりました。
2007年06月06日
ここ数年前まであたしとお父さんは長い間ずっとあまり仲がよくありませんでした。中学生になったばかりの反抗期のあたしと頑固で口数の少ないの職人の父とは顔をあわせれば喧嘩ばかりで次第に傷つく言葉をぶつけ合うことに疲れた私たちは顔を合わせてもほとんど口を利かないで避け合うようにして過ごしすようになりました。病気をする前はお前はお姉ちゃんだろうが長女だろうが女の子だろうがと厳しく病気してからはさらに甘えるな自立しろ体力をつけろだらだらするなとひとつひとつあたしを厳しく叱りました。どうして私だけ怒るの?なんで私と話していたら喧嘩になるの?私も妹たちと同じようにお父さんと一緒に冗談を言ったり遊んだりしたいのに。けれどうまくできずに悔しくて悲しくて淋しくて。その日も喧嘩した勢いでもういい!わかっとうとよ!お父さんは私のこと嫌いなんやろ?もうわかっとうとよ!そうやって私だけ無視すればいいやん!って言ってしまいました。その日から父は私と喧嘩さえほとんどしなくなりました。そして数ヵ月後。あたしは学校の広い広いグランドを走って翌日に倒れて入院してしまいました。今思えば父と私は負けん気が強いところからなにもかもあまりにも性格が似過ぎていてお互いにうまく気持ちを伝えきれてなかっただけなのに。あたしはお父さんに申し訳ないと思っても、傷つけたくないと思っても、甘えたくても素直にお父さんに甘えることができなかった。ただひとつできることといえばお父さんにあたしを認めてもらいたいって思ってた。よくやったって褒められたい。自慢の娘だってお父さんに言ってもらいたいって。お父さんにわたしのほうを見てほしいってずっとずっと思ってた。見舞いに来てくれた母が父がトイレにいった隙にこう言いました。あんたが病気になってからお父さん神社見付けると寄るようになったのよ。お母さんはジジ臭いわねえって言うんだけどねぇ。 ちょっと寄っていようかって言って神社にいくのよ。今日もね寄ってきたんだけど。『なみを助けてもらったことやしお礼言いにいこうか』って言うのよ。ずっとあんたのことお願いしてたみたいよ。って教えてくれました。私が退院して母と食事療法を始めたときからずっと父は高麗人参とかウコンとか怪しげなカプセルとかいろんなものを母のところに持ってきて、これでなみの病気は治らんやろうか?と聞いてきて今、食事療法してるからだめ!と却下されては懲りずにまた違うものを持ってきていつもしょんぼりしていたのよと教えてくれました。母がつい見兼ねて父になぜそんなになみばかりに厳しいのか2人の妹には言わないのにあの子だけ言うのはは可哀相だと言い返したことがあるのだそうです。父はそれ以来そう言われたことをすごく気にしていて私の事を話すときには必ずなみだけに厳しくしているように見えるかもしれないがと前置きをして治ることのない体を持って生まれてきたのならせめて生きる力をつけさせたいんだ。あいつが料理研究家になりたいっていうなら独立してひとりでやっていくための力をつけさせてやりたいんだ。俺には見守ることしかできないけど。って言っていたって教えてくれました。いつだってお父さんはあたしになにも言わない。あたしも同じようにお父さんに素直に謝ることができない。甘えることができない。あたしはどのくらい長い期間お父さんを苦しめていたんだろう。どれだけお父さんを傷つけてしまったんだろう?お父さんの厳しさは愛情なんだって優しさなんだって例え頭ではわかっていても心までちゃんと受け止めることができずにいたの。ごめんね。お父さん。面と向かうと声にだして言えないから退院して実家に帰ったときはほんの少しだけがんばってお父さんに甘えてみようと思いました。いつの日かお父さんにありがとうって言ってみたい。たった一度でいいからお父さんによくやったなぁよく頑張ったなぁって褒めてもらいたいよ。
2007年06月05日
透析には食事療法の制限がゆるくなるとか透析導入前にはできなかった運動ができるようになるなどメリットがあるのと同じようにデメリットもいくつかありました。透析の目的は血液のろ過、浄化です。普通なら腎臓が24時間絶え間無くろ過して尿を作り身体のなかにある有毒物質を体外にだしてくれますが透析はたいてい月、水、金か火、木、土の週3回、2日に一度のペースで行うため週末は2日空くので次の透析までに68時間平日は1日空きで44時間透析に行くまでの間ずっと体のなかに有毒物質も飲んだ水分も溜まったままになってしまうのです。やはり機械を使っての透析で除去できる水分や有毒物質の量は限られていてその量を越えれば完全に取り除くことはできず除去できなかった分の有毒物質が体内に残ったままになってしまいます。ひとの身体はよく使い、鍛えれば鍛えるほどに発達して進化するけれどずっと寝たきりだと起き上がれなくなるように使わないでいるとどんどん退化していくように透析を始めると腎臓は収縮を始め、ほとんどおしっこは出なくなり有毒物質をろ過することもできなくなるのだそうです。実際私も透析を始めてからほとんどおしっこがなくなっていました。透析を始めて制限がゆるくなったと言っても範囲を越えないように食事制限や体調管理が重要になってきます。透析の食事療法は今までの透析以前の食事療法の塩分、たんぱく、カリウム制限にリン制限と水分制限が加わりました。私の場合は合併症の極度の貧血と骨密度の低下が進んでいるので投薬の治療と併用して鉄とカルシウム摂取もありました。きっと腎臓病の食事療法が難しいと言われる所以は制限の多さになにをどのくらいどうとればいいのかわからなくなるところだなぁと思いました。けれどやるしかない。透析をするのにかかる費用は年間で患者さん1人に対して500万かかるのだそうです。年間500万円のお金を使い、高度な医療技術や環境で透析しても健康な腎臓の機能には決して敵わないんだなぁと思いました。『ただより高いものはない』っていうけれど生きていくために本当に必要なものは全てただ。空気も水も心臓も腎臓も肺も手も足も。壊してしまえば変わりを作るのにすごーくお金がかかる。全く同じものは作れない。とてもとてもかけがえのないものなんだ。
2007年06月04日
透析が始まってすぐ「来週から透析食に変更になるからね」と主治医の先生から言われました。入院してすぐは腎臓食Aといって1番制限の厳しい食事がだされていました。ごはん1膳に水でゆでただけのキャベツ『アガロリー』という名のカロリーを上げるためのゼリーやももやみかんなどの缶詰が出てきます。13年前と違うのはメインが玉子の白身だけのフライではなく白身魚のフライになっていたり同じカロリーをあげるためのおやつでも砂糖水を寒天で固めて砂糖水をかけたものやゼリービーンズとか氷砂糖などのおやつはなくなっていることでした。ほとんどの患者さんが残していたし現場で働く看護婦さんたちも患者さんの声を管理栄養士さんたちに伝えてメニューの充実や変更を伝えているのだそうです。ベースは13年前と同じたけれど内容は少しずつ改善されているようでした。透析が始まってからの食事は腎臓食Dと言ってA食よりずいぶん制限がゆるいものに変わるとのことでした。入院したらごはんと味無しゆでキャベツと白身しか食べれない!と思っていた私からするとびっくりするくらいのご馳走が出てきました。大きさは普通の一人前よりずいぶん小さく量は少ないものの白身魚のフライはもちろんカレーやシチューもでてくるしすき焼き煮やコロッケ、八宝菜にトンカツなどバラエティーに飛んだいろんなメインのおかずがでてきました。副菜のおひたしには醤油かマヨネーズがついているし切り干し大根とか小松菜の煮浸しとか品数も、2~3品と桃やびわなどの缶詰ばかりだけれどちゃんとデザートまで付きます。お肉や魚の量はわたしが家で食べていたものよりずっとずっと多いくらいでした。1日5グラム塩分制限はあるものの味もしっかりついていてこんなにしっかり味付けしていいんだ!と驚きました。これなら、楽にできそう!とうれしくなりました。普通、理想の食生活と言われている塩分が6グラムなので、塩分5グラムはなんとかなりそうな気がしました。きっとどんな病気のひとでもたとえ今、健康なひとでも元気になれるごはんの根底に流れるものは同じものなのかなと、そんな気がしました。
2007年06月03日
抗生剤の点滴を打ち始めて、二週間くらいすると、まだ、左膝は熱を持っていているままだけれど、だんだん、腫れは小さくなっていき、膝の皿、1枚分、べろりと皮がむけました。皮がむけた下には、新しい皮膚ができていて、まだ、赤紫のままでした。治りかけているので左膝がかゆくてかゆくて仕方ありません。先生は、しばらくかかるだろうね、といいました。透析は毒素が出る分楽になるのだけれど、週3回の透析は5時間寝ているだけなのに、思ったより体力を消耗して、終わるとぐったりしていました。高熱は必ず、透析が終わった後にやってきました。透析熱と、蜂窩織炎からの発熱と透析のエネルギー消耗とで、免疫力が下がっているところに体力も消耗します。そのうえ、ほかの合併症などがあると、さらに体力も抵抗力も下がるので、せっかく、透析で腎臓のほうは危機を脱したのに、感染が早く、蜂窩織炎から敗血症になって命を落とすこともあるそうです。病気の活動期にはなにが起こるか本当にわからない。まさか、普通にひとの身体にいるブドウ球菌で、こんなことになるなんて思ってもみなかったけれど、入院した日から、絶対これだけはするぞ!と決めていたことがありました。それは、病院から出たごはんは必ず完食する!ということでした。例え、熱がでても、痛みがでても、息ができなくても、胸が苦しくても。13年前みたいに、がりがりのガサガサ肌にはなりたくないから。これから先、どのくらい入院することになるか、全くわからない状態で、これから行われる治療を乗り越えていかなきゃならないから。今の私にできる精一杯のことと言えば、体力を落とさないように、ごはんをしっかり食べること。これしかないな、と思いました。途中で何度か、痛みで食べれそうにないこともあったけれど、入院して以来、ずっと、教授先生も、主治医の先生たちも、懸命に、治療してくれている。看護婦さんたちも、献身的に介護してくれている。私の仕事だったら、『コレしておいてください』って言って、忘れられても、『じゃあ、水曜日までに急ぎでお願いします』って言えば済むけれど、看護婦さんも、先生も、忘れたり、失敗したり、間違えて、『忘れました』で済む仕事ではないんだもの。人間は完全ではないのに、常に完全を目指して神経を澄ませて集中して治療をしてくれている。だったら、私にできることは、病は気から、というし、食べたものが血になり、肉になり、私というカラダを作っている、と思うから闘病生活で患者さんが唯一できることは、気力と体力。このふたつを落とさないようにすることなのかな、と思いました。コレさえ飲めば治る!と思って小麦粉を飲んだら、風邪が治るというように、きっと、お医者さんのことを疑いながら、医療が信じられずに、治療を受けていても、薬も治療も効き目が弱くなるんじゃないかな、と思うの。今まで、ずっと薬の副作用に怯えながら飲んでいたからそう思うの。どんなに不安に思っても、こわくても、きっと、何か意味があって、この病院にきて、緊急入院になったんだと思うから。懸命に治療をしてくれている先生たちが、最善だと判断して選んだ治療を今、目の前にある状況を、受け止めていくしかないと思うの。だったら、私は、体力を落とさないように、しっかりごはんを食べること、どんな治療でも乗り切っていけるように、しっかりごはんを食べること。今、目の前にある状況も治療もすべてを受け入れて、しっかりごはんを食べること。あとは、先生たちを、医療を信じて、大人しく寝てるくらいしか、患者さんにすることなんてないもの。どんなにすばらしいビタミン剤を打ったとしても、口から食べるごはんには敵わない。これだけは絶対しようと思っている今、私ができる精一杯。今のところ、入院以来、残さず完食している。早くおうちに帰りたいから。お医者さんたちを信じて治療を受けて、体力を落とさないように、私はただ、しっかりごはんを食べるよ。
2007年06月02日
[ 携帯から更新 ] / 2006年10月19日 入院直前。明け方になると、息ができなくなるのと同時に、左膝がどんどん腫れあがっていき、寒気がしていました。これはおかしい、と思い、がたがた震えながら、毛布に包まったまま旦那に病院に連れて行ってもらったら、病院に着いたときには、もう、一歩も歩けないどころか、足を傾けたり、下ろしたりすることもできなくなりました。車椅子を借りて病院にはいり、お医者さんが飛んできて、そのまま入院になりました。肺や心臓に水がたまった状態なのもマックスに危なかったのですが、左膝の腫れもかなりヤバイ状態だったのだそうです。主治医の先生は、検査の結果、蜂窩織炎という炎症反応だと説明してくれました。蜂窩織炎(ほうかしきえん と読みます。)と言うのは、皮膚と皮下組織に細菌が入って起こる炎症なのだそうです。普通、ひとの身体に存在する、ブドウ球菌などの悪玉菌が小さな傷口から入って発症場合と、感染原因が全く特定できない場合があるのだそうです。検査をして、原因となった菌を見つけ出せば確定されるのだけれど、ほとんどの場合は多くは同定が困難なのが特徴なのだそうです。症状は痛みが出てきて腫れあがり、痛みのある部分がびっくりするほどの熱を持ちます。色は赤紫色になって、ところどころに水泡ができます。そのまま放置し炎症が悪化すると、広い範囲に組織壊死と言って、細胞が死んでしまう状態になり、壊死性筋膜炎や菌血症を引き起こし、生命に危険をもたらすのだそうです。合併症の敗血症や髄膜炎、リンパ管炎などを起こしたり、全身に感染してしまったりすると、集中治療室での治療になるので、主治医の先生たちは、必死で投薬や点滴での治療の必要性を説明してくれました。私が蜂窩織炎になったのは、長期間、足のむくんだ状態でいたため、足が二十四時間、水浸しになっているような状態で、リンパもぱんぱんだったし、抵抗力も体力は落ちていて、普段なら、ひとの身体にいても悪さをすることのないブドウ球菌が、左膝をぶつけたときに入り込み、大繁殖して、炎症を起こしてしまったということでした。足などのむくみが長期間に続いたひとに起こりやすい炎症なのだそうです。抗生物質の点滴を打つことになりました。抗生剤でなんとか抑えることができたものの、透析したあとに透析熱がでるたびに、体力が落ちると、必ず左膝が一緒になって熱を持ち、ずきずきと疼いて腫れあがっていきました。2日おきに、8度から、9度近い熱がでて、だんだん体力が消耗されていきました。痛みは薬によって抑えられていて、身体はだるいけれど、苦しさや痛さはありませんでした。熱がでて、ぼーっとする頭で、むくみって怖いなって思うと同時に、復帰したら、一番初めのおやつの時間は、むくみ解消レシピにしよう、なんてぼんやり頭に浮かんでいました。あたしの場合は、むくんでいる期間が長かったことと、薬の副作用で免疫力がほとんどないことが重なって、普通の場合、2週間~3週間で治る蜂窩織炎が、1カ月半くらいかかりそうだということでした。尿酸値が高くなると起こる、ただの痛風だと思っていたのに。足のむくみくらいでこんなことになるなんて。知らないって本当にこわいことだなぁってしみじみ思いました。
2007年06月01日
若い先生たちは大学病院で診療をするだけでなくほかの病院へ行き、勉強をしたりいわゆるアルバイトをしたりするのだそうです。N先生が毎週金曜日に行く病院がF先生が開業した病院でした。わー!マジすごい!!超すごい!!先生!!今度の金曜日にF先生のところにいくときにお手紙とレシピ本の渡して!渡して!!って興奮していいました。病室に帰って売店に言って便箋を買って。何度も何度も書き直しながらF先生にお手紙を書きました。『お久しぶりです!!先生!元気ですか?先生!私のこと覚えてらっしゃいますでしょうか?13年前に結節性動脈周囲炎で入院してきた宮成なみです!先生!あの時透析しないで退院できるところまで治してくれてありがとうございました!先生があの時唯一進行を遅らせる方法が食事療法だよって教えてくれたからあたしお料理研究家になれました!あの後お母さんと一緒に一生懸命ごはんの勉強したの!先生ホントにありがとう!先生にずっとずっとお礼がいいたくて。私の書いた本です。先生!!ぜひ受け取ってください!先生本当にありがとう』ようやく書き終えたときには買ってきた便箋はすべて駄目にしてしまっていていつもと同じように真っさらな紙に 筆ペンを使って一文字ずつ書きました。最初は柄にもなく売店で便箋と一緒に『正しいお礼状の書き方』なんて本を買ってきて飾った言葉で書こうとしていたけれど途中から自分の言葉で本当に伝えたかったことだけを書きました。何度読み返しても気の利いた言葉なんてひとつも書けずにただありがとうとしかボキャブラリーを持たない自分がもどかしいけれど。先生ありがとうって。先生のおかげだよって。先生にお礼が言える。病棟で毎日怯えて不安に震えて泣いていた女の子が先生のおかげでこんなに元気になりましたって伝えられる。その事が嬉しくて。書いた手紙は丁寧に四つに折って本にはさんでN先生に渡しました。F先生喜んでくれるかなぁ?
2007年05月14日
「ええ!!ホントに!!」って透析室で叫んでしまいました。うまい具合に偶然って起こるものなのかな?悲しい出来事も突然くるけれど嬉しい出来事も必ず突然やってくる。その嬉しい知らせもあれだけ泣いたいつもの透析室でやってきました。纏わり付くような暑さの残る9月が空けて夕暮れ時に吹く風が心地よい10月になり主治医はS先生からN先生に変わりました。N先生も私が緊急入院したときからずっと診てくれている先生のひとりです。いつものように透析室で看護婦さんや先生と病状のことや透析のことなど、他愛のない話をしていました。あたしね、2回ここの病院で命を助けてもらってるんだよ。13年前ね透析しないといけない状態になった時「なみちゃん若いからまだ体力も持つだろうしきついかもしれないけどギリギリまでがんばってみよう。もしかしたら回復できるかもしれない。なみちゃんの生命力にかけてみよう」って主治医の先生が言ってくれてね、透析しないで退院できるところまで治してくれたの。一生治んない病気って聞いてすごく落ち込んでいたら「この病気のね進行を遅らせる方法がひとつだけあってそれが食事療法なんだよ」って、教えてくれたの。先生のあのひと言があたしの人生変えてくれたんだ。それでお母さんと一緒に食事療法の勉強始めたの。もし13年前に透析していたらきっとお料理研究家にもなれなかったしもしかしたら結婚もできてなかったかもしれない。少なくとも今の私じゃない私だったと思うんだよね。だからF先生にも感謝しているし今回助けてくれた教授先生にもN先生もS先生もみんなに感謝してるの。先生、看護婦さん、本当にありがとねって、笑顔でお礼を言ったあとあ~あ!F先生にもお料理研究家になれたよってあの時ありがとうってお礼言いたかったのになぁ~~。ってぼやきました。風の噂でF教授はもう大学病院を辞められて開業していると聞いていました。社会復帰できたときお料理研究家になれたとき、念願のお料理レシピが出せたとき、定期検診でこの大学病院を訪れるたびいつかF教授にお礼が言いたいとずっとずっと思っていました。レシピ本の出版のときお世話になった新聞社のかたも一緒になって探してくれたけれど苗字しか覚えていなくて他になんの手掛かりもなくF先生が見つかりることはありませんでした。「…F先生?13年前にここで教授してたF先生?」主治医のN先生が聞き返しました。「F○○先生でしょ?俺、毎週金曜日いないのはF先生のところに行ってるからだよ」!!!!どんなに探しても見つからなかったF先生が意図も簡単に見つかってしまいました。神様からのサプライズもある日突然やってくる。きっと神様は悲しみの深さと同じだけの喜びを用意してくれているのかもしれない。命の恩人のF先生にお礼が言えるかもしれない!!期待に胸が高まりました。
2007年05月13日
不均衡症候群の症状も治まり、透析にもだいぶ慣れてきました。透析にも体質により、合う合わないがあるらしく私は透析したあと熱がでるものの、一晩寝れば確実に透析後のほうが身体が楽になるので体質には合っているようでした。なかには透析するたびに吐き気や腹痛、めまいなどがするひともいるのだそうです。その日の透析は、二人部屋の処置室で隣のベッドのおばちゃまは気さくな方でした。あなた、いくつなの?腎臓はずっと悪かったの?から世間話は始まりました。おばちゃまは80才を越されているとは思えないほど若く見える方で、三年くらい前からずっと、大勢のお友達と一緒にゴルフに行き、ほかにもたくさんの趣味を持っていて満喫していたのだそうです。なのにある日突然、倒れて病院に運ばれて、そのまま透析になってしまったのだそうです。もう、ゴルフができない…。とおばちゃまは悲しそうにいいました。おばちゃまは突然のことで受け止めることができずにいるようでした。痛いほど、その気持ちがわかりました。もし、わたしもずっと腎臓が悪くって、13年の期間がないまま、16歳のときに透析になっていたら、おばちゃまと同じようにすごく凹んだだろうなって思いました。もしかしたら、今のように、生きる希望をうまく見出すことができただろうか、と、自信はありませんでした。「婦長さんも、主治医の先生も言っていたけど、私と同じ歳に透析になって、16年も透析しているひとがここにきているんだって!そのひとね、なんとバトミントンの選手なんだって!透析始めれば、バトミントンだってできちゃうんですよ!大丈夫!ゴルフできるよ!」って励ましました。でも、おばちゃまはやっぱり悲しくて、「でも…死ぬまで透析せにゃならんね」って凹んでいました。きっと受け止めることなんてできないんだよね。いくつになったって。いい大人が、と言われても。歳なんて関係ないんだよね。十数年前からいずれ遠い未来に、いつかは透析と、覚悟を決めていた私でさえまだ、受け止められていないもの。朝起きたら、夢だったらいいなぁ、なんて毎日思う。それがある日突然だったら、受け止める余裕も時間もないよね。でも、病気は決して待ってくれない。時は過ぎていき、選択を迫られる。悪化するときはあっという間。失わなくて済むのなら、健康だけは失いたくないよね。命あってのものだねだもの。おばちゃまは私よりずいぶん年上で、祖母と変わらないくらいなんだけれど、目の前にいるおばちゃまは、不安に今にも押しつぶされそうで、なんだか、13年前の発病したばかりの頃のあたしを見ているような気がしました。おばちゃん。病気になったこと自体を受け止める時間もなかったのに、透析になったことを受け止めなきゃならないなんて、すごく辛いよね。『おばちゃん。私にはね、おばちゃんと同じ歳くらいのお師匠さんがいるの。入院してすぐに病院に駆けつけてくれたの。そのときにね。透析のない国やない時代に生まれたら、あなた死んでたのよ、よかったわねって言われたの。日本は、使った管は使い捨てて、ひとり一人新しい管を使ってくれるし、水もすっごくきれいな純度の高いものを使ってくれる。こんな最高級の透析が受けられる国ってそんなにないんだって。あたしね!4月に入籍したばっかりなの。12月に結婚式する予定だったのは駄目になっちゃったんだけどね。でもさ!結婚して数ヶ月でお嫁さん死んじゃったら、旦那さんかわいそうじゃない?この半年くらい、私ずっと具合悪かったから、毎日、仕事大変なのにずっとずっと、看病してくれてたの。腎臓にいいって聞くと熊本だろうが連れて行くし、効くって聞けばいろんなものを買ってきてくれてたの。透析は大変だけど、これで旦那さんと普通にごはんを食べて普通に暮らせると思ったら、私嬉しいの。まだ、当分の間は、ずっとずっとそばにいれると思ったら、嬉しいの。きっと、おばちゃんもあたしも、死ぬまで透析じゃないんだよ。透析のおかげで、死ぬまで生きられるんだよ。あたし、透析できてよかったと思うよ!』って一生懸命になって言いました。自分に言い聞かせるように。自分を励ますように。おばちゃまは、ちょっと黙って、笑ってそうだねぇ。って言いました。旦那さんよかったねぇって。結婚式できるといいねぇ。ゴルフできるといいねって、透析が終わるまで、世間話をしてました。そう。あたしは死ぬまで生きれるんだね
2007年05月12日
莫大なお金 [ 携帯から更新 ] / 2006年10月15日 10/11の日記 『このままでは』 からの続きです。*********************************一度の透析にすごい量の水を使うと聞いていたけれどホントですか?と婦長さんに聞くと隣にいた看護士さんが「1分間に500ミリリットルの水を使うから1時間で30リットル5時間の透析で150リットルの水を使うことになるね」と教えてくれました。しかも透析に使う水は普通の水道水ではなく特別なろ過をした純度の高い水を使うので元の水の量は実際に使う量はよりずいぶん増えるのだそうです。この透析センターだけでも20以上のベッドがあり、1日に午前と夕方からの2回患者さんがやってきます。1日に12000リットルの水が使われます。他にも透析の管や針などはひとりずつ1回きりで使い捨てます。透析患者さん1人に対して1つの命を守るために莫大な金額が使われるのだなぁと思いました。透析センターはいつもひとがいっぱいで予約もいっぱいなのだと言っていました。私が入院3日目に今日中に透析しないと命が危ないとなったときも本当は透析センターのベッドは空いていなかったのだけれど主治医の先生が患者さんに事情を話し順番を譲ってもらえるように頼んでくれたから運よく快くいいですよと順番を譲ってくれた患者さんがいたから私は透析を受けることができたのでした。テレビや新聞で医療費の増加や負担の問題がよくとりあげられています。医療費が増えるということはその分患者数が増えているということです。ばんばん病院が建設されない限り、患者数が増え続ければ透析センターだけでなく病棟のベッドも足りないしお医者さんも看護婦さんも足りなくなるのです。今でも充分足りない状況なのです。50年後の日本は今のように誰でも医療が受けられる国でいれるんだろうか?と深い疑問が胸の奥底から沸いてきました。実感として現実をみて改めて恐ろしいことだと思いました。医療費増加患者数増加による病院不足介護施設不足。ひとは必ず老いていく。病気や老いて介護が必要になっても受け入れてもらえる場所がどこにもないの。命がかかっているのにね。数字で言われてもピンとこなかった現実が私の中にくっきりと輪郭をなしていきました。
2007年05月12日
手術無事に終わりました!左手にシャントを作ったよ。普通のひとの動脈は2ミリほどあるのだけれど私の動脈は1ミリしかなかったのだそーです。やっぱ動脈周囲炎っていうくらいだからホントに全身の血管、細いんだねぇ。それでも先生はうまく繋いでくれて無事にシャントの手術は終わりました!切ったところがくっつくまではあまり左手を使えないみたいです。切ったところがくっついたら今度は繋いだ血管を育ててあげねばならないそーです。えぇぇ!育てる?!血管って育つモンなの?!まだまだいろんなことが起こりそーですが一応10月末か、11月頭には退院できるかも?!って感じだそーです!!わーい♪わーい♪あともうひと踏ん張りだよ!!ホントに本当にいつもありがとうね!追伸よくメールとか電話で『なみちゃんになんて声かけていいのかどう伝えればいいのかわからなくてずっと早く元気になりますようにと祈ることくらいしかできないけど』というようなメールをよくいただきます。ありがとう。どんな言葉でもなにもできなくても少しでも元気になるようにって身体のきつい闘病生活にキモチだけでも楽になるようにって思って書いてくれたんだなぁってすごーく気持ち、伝わってるよ。きっと送信をクリックするまでいろんな言葉を探して考えて選んでこのメールを書いて送ってくれたんだなぁってこの書き込みを書いてくれたんだなぁって伝わってくるから嬉しくて嬉しくて心から生きれてよかったって思えるの。素直に乗り越えていこうって思えたの。もう一度がんばれるって思えたの。このままじゃあ終われないよね!って心から思えたのです。たくさんの元気をもらっているよ。なにもできないどころかすごくすごく元気もらってるよ。どんな言葉でも伝わっているよ。本当にホントにありがとう。100倍の元気をありがとう。おかげでね予定よりずいぶん早く退院できそうだよ。はやく料理がしたいよ。早く復帰したいな。無理をせずのんびりとがんばるから安心してね。さぁもうひと踏ん張りだ!
2007年05月12日
明日はシャントという手首のところに透析用の太い血管を作るの手術です!血が苦手だから手術と聞いて超ビビっています!かなりブルッてます!!ひぃぃぃ~~~~~!!共感テレビスペシャルで一緒にバーベキューチキンを作ったウィリーが私がテンパるたびにいってたな~~。POLE POLEって。ポラ ポラポラ ポラゆっくり ゆっくり。焦らず慌てずのんびりと。うひー!でもやっぱこわいよぉ-!!(>口
2007年05月12日
このままでは [ 携帯から更新 ] / 2006年10月11日 婦長さんからあなたお料理の先生しているの?って聞かれて食事療法と食育の話で盛り上がりました。透析してる患者さんってどのくらいいるんですか?って聞くと婦長さんはいろんなことを教えてくれました。2006年現在。透析患者数 26万人。年間増加数 1万人。透析患者さんも腎炎や腎不全になり腎機能が低下してしまった患者さんは年々増えていてまだ透析をしておらず投薬の治療をしている腎臓病の患者さんを含めるとこの先透析患者人口は35万人を越すだろうといわれているのだそうです。明け方になると呼吸が苦しくなるのと同時に足が引きつり、痙攣していたのは高カリウム血症の症状のひとつなのだそうです。本来カリウムは高すぎる血圧を下げて調整し、多くの酵素を活性化させる働きを持つよいミネラルなのです。ほかにも、カリウムには筋肉の神経伝達や収縮にも間接的にだけど補助する役目も持っています。ただしそれはナトリウムとカリウムのバランスが体内でとれている状態のとき、なの。だから不足しすぎたり逆に多すぎたりしてバランスが壊れると手足が痺れたり痙攣を起こしてひきったりします。手足がだけならまだいいのだけれど高カリウム血症の怖いところは手足だけに止まらず、心臓がけいれんを起こして最悪、死に至ることもあるのだそうです。腎臓病の患者さんはむくむため塩分を制限しているし、腎機能が低下しているためただでさえカリウムとナトリウムの調整ができなくなっているところに尿自体が出にくくなるので尿に溜まったカリウムを排出できず、体内にカリウムが多すぎる状態になりやすいのだそうです。だから主治医の先生は体内の電解質が狂うと足がつると説明してくれたんだな、と思いました。健康なひとが通常の食生活を送っていてカリウムが高くなりすぎるということはほとんどないようで逆に塩分の取り過ぎや、外食、加工食品が続くと野菜不足やストレスでカリウムが不足してバランスが壊れることのほうが多いのだそうです。やはりこの状態のときも高血圧などの血圧異常をはじめ手足が痺れたり引きつったりします。塩分ひかえめに野菜をたっぷり摂りましょうって言われる理由はそれなんだなって思いました。一度電解質が狂うと元の正常な状態に戻るまですご-く時間がかかる。けれど悪化するのはあっという間。今回それを身を持って体験してふとこのままでは腎臓病さえも生活習慣病のひとつになる日はそう遠くないような気がしました。
2007年05月12日
透析センターで [ 携帯から更新 ] / 2006年10月10日 透析センターは集中治療室のような個室が数室ありその隣が広い部屋になっていてずらっと列んだ20個くらいのベッドひとつひとつに何度見ても見慣れない血の巡回している管をいくつもぶら下げた透析の機械が並んでいました。まだシャントという透析をするための専用の血管を作る手術をしていない私はふとももの付け根にある太い血管に長さ20センチくらいの管を通して透析をしなければなりません。局部麻酔を打ち、管を血管に通ための処置をしたり、布をかけてはいるものパンツまるだしで付け替えたりしなくてはいけないので基本的にシャントのない患者さんは集中治療室のような個室に入ります。血に弱い私は管の列んだその光景を見るだけでヘロヘロと身体から力が抜けていきます。慣れるまでの辛抱だ!とブランケットをかぶって自分の血が巡回している管が見えないように顔を隠していました。「今日は泣いてないみたいね。今日はご主人さんはこられないの?」って声が聞こえました。ブランケットから顔を出して見上げると透析センターの婦長さんが立っていました。最初はみんななかなか受け止められないものね。いい旦那さまでよかったねって優しい声でいいました。透析初日の日に私がびーびー泣いたので心配してきてくださったようでした。処置室で一人ビビっている私を見て少しお話しましょうか?って言って婦長さんはベッドの横の椅子に座りました。 コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
2007年01月13日
グランドを [ 携帯から更新 ] / 2006年10月09日 肺に溜まった水と肥大した心臓の水を出来るだけ早く抜かなくては心臓と肺だけにとどまらず他の臓器に掛かる負担が大きすぎるということで連続三日間、一日身体を休ませてまた透析といった具合に続けて透析を受けることになりました。透析初日から翌日とその次の日まで不均衡症侯郡は続き発熱と頭痛や炎症を繰り返していたものの四回の透析のときにはずいぶん楽になってきました。四回の透析で10リットル近い水を抜き、入院1週間を待たずに体重は7キロくらい減っていました。肺と心臓だけでなく手も足も体中の器官すべてがむくみ水だらけになっていたようで透析を受けるたびに体重は落ちてむくみがとれ腕も足も身体全身が細くなっていきました。呼吸も少しずつ楽にできるようになってきました。そして1番驚いたのは少しづつですがずっと当たり前だと思っていた倦怠感や疲労感めまいやふらつきが消えていくことでした。消えていく疲労感と入れ代わるようにして身体の奥から今までになかった爽快感が元気が湧き出ている気がしていました。こんなに楽になるなんて思わなかった。今まで腎不全のひとは普通のひとの半分の体力しかないと説明を受けていたけれど体力がないということや貧血の症状が私にとってはあぁまたか、と思うくらいのいつものことになっていました。身体がだるくなっても30分ほど横になっていればどうにか乗り越すことができたしめまいで倒れないように立ち上がった後、一度、爪先に力を入れて踏ん張るのも無意識でやる癖になっていてそんなに不便さを感じる事もなく生活していました。ぬるま湯に使った蛙が少しづつ温度をあげられても気付く事なく最後には茹で蛙になって死んでしまうのと同じで少しずつ身体を蝕んでいく病気もまた同じように気付きにくいのかもしれません。それが病気の怖いところでもあるのかもしれません。呼吸ができる。ごはんが食べれる。左膝の炎症はまだあるもののトイレに腰掛けることができる。本当にどれも当たり前のことなんだけど今はそのひとつひとつが確実にできるようになっていく実感がたまらなく嬉しい。5回目の透析を終えるころには笑顔もでるようになりました。「のわっ!!まるで別人みたいだね!」って毎日見舞いに来る旦那は日に日に細くなっていく私の顔を見るたびに驚いていました。透析を受ければ機械の腎臓ができたのと同じ。普通の健康なひとと同じくらい働けるようになる。体力も人並みに戻る。身体も軽くなるし、息も深く吸えて、息苦しさはなくなる。朝目覚めてもなにか荷物を背負っているような違和感もなくなるんだ。熱で少し気だるいけれど気分は爽快感で希望で胸がいっぱいになっていました。熱が出ても痛みが出ても早く治りたい!って一心でなにくそ!って思えるようになりました。あの透析前と直後の痛みに比べたらこのくらいなんともない!って布団をかぶり一日で熱を下げるぞ!と思えるようになりました。16歳の冬から二度と走ることができないと諦めていたグランドを思いっきり走れる日がまた、くるのかな?身体が壊れたらどうしようだなんて不安を抱くことなく思いきり。蜂蜜みたいに黄金色の夕焼けが溶け落ちるグランドを。蝉の声が木漏れ日の向こうに遠く聞こえじりじりと焼ける砂浜のようなグランドを。あたしの人生のグランドを。もう一度、思いっきり走りたいよ。 コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )
2007年01月12日
医療を信じて [ 携帯から更新 ] / 2006年10月08日 朦朧とする意識のなかで 明け方 主治医の先生が呼ばれました。 痛みはピークに達していて深く息をすることでさえ頭の奥に響くから もうほとんど動けずに しゃべることもできなくなりました。 大学病院は教授の先生がいて 週に一度、教授回診があって 毎日の診療や治療はその下にいる若い先生たちが 10人くらいのチームを組んで診てくれます。 そのチームの10人のうちの1人が主治医になります。 主治医のS先生は納得できないことや 矛盾を感じてしまうと とことん質問攻めにしてしまう旦那に いつでも嫌な顔ひとつせず とことんつきあって病状を説明してくれました。 私が副作用を怖がると お医者さん用の分厚い薬の本と 私の薬手帖に載ってある過去に処方された薬とを比較して 怖がらないでいいことや なぜその治療と薬が必要なのかを わかりやすく説明してくれました。 とても信頼できる先生でした。 明け方呼ばれて主治医のS先生は さっき飲んだのとは違う粉の薬を持ってきました。 入院時から比べて薬は2種類増えて6つになっていました。 降圧剤の点滴や造血剤の注射などをいれると常薬は10種類を越えていました。 さっきも飲んだのに、また飲むの? どれだけ飲めば収まるの? あたし また 薬漬けになるのかな? 不安がどんどん増していく。 透析に対する不安が 薬に対する恐怖が 医療に対する不信感が 増して 生きていく自信は失われていく。 こんなに痛くて 私の体はついていけるんだろうか? こんな痛みが透析をするたびに一生続くんだろうか? そのたび旦那に心配をかけて。 やっぱり 私は ひとに迷惑をかけながらでしか 生きていけないのかな? 痛みの増加と体力の消耗に 比例して 先の見えない未来に 不安と恐怖が増していき 希望に満ちた気持ちを黒く侵食していく。 先生 いたいよ たすけて あたし 自信ないよ。 生きてけそうな 自信がないよ。 早く 楽に なりたいよ。 s先生は、不均衡症候群がは透析初期に起こる症状で、 だんだん身体に蓄積された毒素が抜けて 身体がなれてくればなくなると 一生懸命説明してくれていました。 そのときはあまりの痛さに ほとんど先生の説明は聞き取れませんでした。 けれど、 先生はしっかりとした口調で、 いつもにはない少し強い口調で、 真剣な顔をして『今だけだから! 必ずよくなるから! 透析してよかったって思える日が必ずくるから! よくなるための治療だから! 医療を信じて。』 っていったのだけ、 聞こえました。 薬の副作用の説明もしてくれていたけれど、 信じてっていったのだけ、はっきり聞こえました。 入院して、まだ三日目のできごと。 まだ三日しかたっていないけれど、 ここの看護婦さんも先生も、教授も。 みんな、みんな、一生懸命、治そうとしてくれる。 一緒になって、病気に向き合ってくれている。 患者さんの病気を治そうと、真剣に向き合ってくれている。 お母さんも 旦那も 先生も 友人たちも。わたしの身体を治そうと一緒になって、考えてくれている。 一生懸命に説明してくれる先生の顔をみていたら 一生懸命に介護してくれる看護婦さんたちの笑顔を思い出したら 13年間で 少しずつ 積み重ねられた医療に対する不信感が ちょっとずつ消えていく気がしました。よくするためのお薬の副作用が薬を呼んで、 また薬漬けになるかもしれない。 また副作用に苦しむかもしれない。また違う病気を作り出してしまうかもしれない。でも。医療を信じてかけるしかない。絶対治るきっとよくなると信じて。飲んだ薬はすごく効いて呼吸は少しずつ楽になり、痛みも次第に和らいでいきました。長かった入院三日目の晩が明けました。
2007年01月11日
なみちんより! [ 携帯から更新 ] / 2006年10月06日 おはようございます!「不均衡症侯郡」は入院3日目の夜の出来事なので今はもう1番きついところは抜けて少しずつ回復しているので安心してくださいね!生まれて初めて透析した日と翌日の二日が1番激しくてその後、左膝が腫れたり発熱したりはしているけれど、身体はずいぶん楽になっているよ!書き方が悪くて今また容態が悪化したのかと心配かけてごめんね(>_
2007年01月10日
朦朧とする意識のなかで [ 携帯から更新 ] / 2006年10月05日 面会時間は当に過ぎていて薬を飲んで母はしばらく側にいましたが帰らなきゃならない時間になってきました。すぐに楽になるからね。ぐっすり寝て早く元気ななみさんに戻ってね。って言って母は何度も何度も振り返りながら病室を出ていきました。痛み止めを飲んだけれど不均衡症侯郡の症状は納まらず、痛みはどんどん増していきました。頭の奥から響いてきます。今までの頭痛となんだか違うところから響いている感じがする。息苦しい。鼻には酸素のチューブを付けていて肺にも心臓にも水がいっぱいの状態だからまだ最低限の呼吸しかできずにいました。頭がぼーっとしてくる。透析したら楽になるって思っていたけど透析する前より痛くて苦しいよ。今日もまたあたし息できなくなるの?いつまでこんな辛い状態が続くんだろう?透析している間ずっと?死ぬまで一生?朦朧とする意識のなかでつぶっていた目を開けるといつもの白い壁がぼぅっと見える。白い部屋。白い壁。白い天井。ずーっと毎日見つめた景色。…あれ?あたし今いくつなんだろう?本当に13年たったのかなぁ?本当に私は社会復帰したのかな…?…本当に…私は結婚したのかな…?本当の私はまだ16歳で今まで見ていたのは夢でずっと病室にいたなんてことないよね…?13年経っているけれど本当は13年間夢を見続けている植物人間とかじゃないよね…?痛みはmaxで体力も気力ももう限界のピークに達していました。 コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )
2007年01月09日
不均衡症こう群 [ 携帯から更新 ] / 2006年10月04日 主治医の先生の言っていた不均衡症が現れ始めました。最初は寒気で。だんだん頭がぼーっとしてきて次第に頭が痛くなり始めました。だいたい、本来なら溜まるはずもない心臓や肺に水は入ってしまっているし、器械で人工的に、でなければ一度に2リットル以上もの大量の水分を体から抜くことなんて有り得ないわけで身体がびっくりしちゃうのか今まで味わったことのないような、脳みその奥から響いてくるような激しい痛みがだんだんと強さを増しながらやってきました。だんだんと頭がぼーっとしてきて。お母さんが心配そうに私の顔を覗き込んでいるのがわかったけれどもう返事をする気力さえ残っていなくて。しゃべると頭に響くから声も出すことができなくなりました。お母さんがお医者さんに痛み止めをもらってこようって何度もいうけど副作用でひきつけを起こしたり、高血圧になったり吐いたりしている私は薬を飲むのが怖くなっていてました。頑なに痛いのに我慢すると言い張りました。けれど母親って自分が辛いのは我慢できても、我が子が痛いのは我慢できないみたいだね。お母さん。すごく辛そうな悲しそうな顔をして。黙って病室を出ていったかと思うとそのまま直接ナースステーションに行って看護婦さんとお医者さんを呼び、痛み止めをもらってきました。お願いだからこれ飲んで。って本当に辛そうな顔をしていうの。入院しているんだし、24時間体制で看護婦さんもお医者さんも側で見てくれているから万が一副作用がでればすぐに処置してもらえるから心配しないで飲みなさい。免疫力はないわ、抵抗力も体力も下がっている今、副作用のスピードよりも体力を消耗したり悪化たりしていくスピードのほうがずっと早いよ。お薬飲まなかったらどんどん悪化していくよ。だから今、入院してるんじゃない。左膝もずいぶん色が変わってるじゃない!壊死したらどうするの?長期的にずっと飲む薬じゃないんだから今日の今だけなんだから、お願いだから飲んでちょうだい。お母さんはなんとか私に薬を飲んでもらおうと一生懸命私に説明していました。必死になって私を安心させようと大丈夫だから大丈夫だからって説明していました。真っ赤な目をして。お母さん。たぶん、心配してこの3日間ろくに寝てないんだろうな。寝てない癖にお父さんに頼んで仕事が終わった後こうして毎日かけつけてくれているんだろうな。私の顔を覗き込む母の顔は化粧がとれかけて生え際の白髪が丸い額をカチューシャのように縁取っている。母は染めているから黒々とした髪をしているけれど本当はお母さんは完全に全部白髪になっていている。それは私が発病した年にお母さんの自慢の長い黒髪がごっそりと一気に白髪になってしまったのだということを私は知っていました。わかった。飲むよって言って粒の痛み止めを飲みました。私が薬を飲み込むのを見届けると母の顔から緊張が消えました。
2007年01月08日
なみちんより!! [ 携帯から更新 ] / 2006年10月02日 もう一番きついとろこは抜けました!昨日(10/1)あたりから熱も完全に引いたみたいでずいぶん楽になりました!肺の水もだいぶぬけたよ!透析しだして4日で7キロも減ったの!体内にあった水は今日までの合計で10リットル以上だしました。今日鼻に繋がれてた酸素のチューブもとれたよ!透析をすることになったけれど1番危ないところは切り抜けられました。だから安心してくださいね!少しずつ回復しているよ~!早く復帰したくって早く料理がしたくてうずうずしていまっす!本当にホントにありがとう! コメント ( 8 ) | Trackback ( 0 )
2007年01月07日
そよ風みたいに [ 携帯から更新 ] / 2006年10月02日 しばらくして旦那が帰るのと入れ違うように父と母がやってきました。突然の事態にすぐに駆け付けることはできなかったけど気が気じゃなかったみたいで急いできてくれたようでした。今日透析って聞いたから。本当は今日ね、なみにちゃんと病状や事情をちゃんと説明して透析について理解してもらったうえで金曜日、透析しようって先生とお母さんたちと旦那くんとで話し合ってたのよ。たぶん、なみのことだからきっと透析室に入った途端怖くなって治療受けれなくなるんじゃないかと思ってお母さん金曜日は一日側にようって思っていたの。側にいてあげれなくてごめんね。でも旦那くんが側にいてくれてお母さん本当に安心したよ。ありがとね、っていいました。もうね。みんなの書き込みもメッセージもそう。優しさに触れて、私の涙腺は緩みっぱなし。本当にありがとうは私のほうだよ。本当に本当にありがとね。もしかして人生を歩んいて起きた数ある辛いことって幸せを感じるためのお知らせみたいなものなのかな?、なんて思いました。冬の凍えるような寒さがあるから陽射しの照り付ける太陽の光や白い砂浜が熱く焼ける夏にに開放感を得ることができるのかもしれない。うだるような暑さが厳しい盆明けから秋口くらいまでの季節の替わり目があるから桜が咲き誇る頃の甘く優しく香る春のそよ風に心地よさを覚えるのかもしれない。なんでこんなことになちゃったうんだろう?なんで病気はあたしにやってきたんだろう?…って私の人生を悔やんだこともあったけれど辛いことが起きる分、本当に小さな些細なことでも心から嬉しい!と思うことが多くって、たくさんの優しさを感じてそこに溢れる愛を感じるから私もたくさんの愛を返したいって思えるの。ホントに本当にありがとう。あたし透析しながら夢追っ掛けていくからね!冬が悪いわけでもなく夏の終わりが悪いわけでもなくかといって春やだけよい季節っていうわけでもないみたいに人生を歩んでいて起きる辛いことって決して「悪いこと」なのではなくてもしかすると幸せを感じるためのお知らせなのかな?なんて思いました。母が到着してしばらしくすると寒気が襲ってきました。主治医の先生の言っていた均等症状が現れ始めたました。
2007年01月06日
あたしの身体 [ 携帯から更新 ] / 2006年10月02日 刀坂先生と梅ちゃんが帰った後旦那が病状や事情の説明をしてくれました。ご家族を呼んでくださいと言われてお医者さんから聞いたことを教えてくれました。明け方になると息ができなくなったり足が吊ったりするのは腎臓病末期の症状のひとつで体内の電解質が狂っているからなのだそうです。もし今日、透析をせずに明け方電解質が狂いさらに肺に溜まった水が増えれば呼吸ができないとか足がつるとかのレベルではなくて心臓が動けなくなるとか肺が壊れるなどの臓器障害の恐れや最悪死に至る危険性があったのだそうです。13年前、入院したときのデーターとかちゃんととってあったんだって。13年前に入院したときに腎生検といって腎臓の細胞を摘出する検査をしたのだけれど腎臓には副腎皮質ホルモンという物質をつくりだす器官の糸球体というのがあって私の糸球体は18個あるうちの15個が壊れていたのだそうです。正常な細胞はたった3個しかなかったんだって。その状態、その検査結果で透析しなかったことも本来なら有り得ないことだし、13年間透析しないでいたこと自体が奇跡だ、と言われたそうです。たった3個の糸球体でなぜそこまで回復できたのかわからないって。本当は50歳以上の男性ののなりやすい病気で治療の途中で亡くなるひとも多いのだそうです。本人やご家族の努力で残りの3個の糸球体が13年間精一杯頑張ってくれてたんだろう、最後の最後まできれいに糸球体の貯金を使い果たしてしまったんだろうとのことでした。ある意味私の腎臓は寿命を全うしてしまったのかもしれません。精一杯すべてを出し尽くして。検査結果はいろんな器官の悪化を示していて腎性貧血以外に出血している箇所も原因もまだわかっていませんでした。長年飲み続けた薬の副作用で私の身体の免疫力はほとんどない状態になっていて甲状腺の異常や体内のカルシウムのバランスが壊れいるとのことでした。腎臓には寿命がきていて薬の副作用はMAXで体が悲鳴をあげてしまったんだな、って思いました。身体に溜まった水を抜いたら退院するころには15キロくらい減るんだって。私の体には今そんなに水が溜まっているんだね。そりゃ血も薄まるし、身体も顔もむくむよな、って思いました。
2007年01月05日
透析は3時間ほどで済みました。通常は5時間くらいするのだけど初めてということで体の負担も考えて少し短めにすることになりました。透析が終わると少しぐったりしたけれどまだ息苦しさは残っているものの呼吸ができるようになっていました。水を2キロ抜いたのだそうです。一度の透析で体重が2キロ減りました。不均衡症こう群といって急に体から抜いた水と脳に残っている水の割合が違うため体が必死にバランスを取ろうとして頭痛が起きることがあるといわれました。透析が終わると旦那はようやく安心したみたいでいつものようにまたお医者さんを捕まえて質問攻めにしてました。「病室にお客さんがきているよ」って迎えにきた看護婦さんが教えてくれたの。男性と女性?って聞き返すと女性2人だったよって。心辺りがなくて誰だろう?と思っていたら病室の扉が開きました。梅ちゃんと刀坂先生でした。刀坂先生は私のお料理のお師匠さんなの。自然食の会の副会長を務められいて74歳とは思えないほどのバイタリティーと元気で九州を飛び回って活躍されている先生です。夕刊の連載にも先生のこと、何度か書いたんだけど師匠と弟子なんだけれど先生のおうちには私のパジャマが置いてあっておばあちゃんと孫のようなお付き合いをさせていただいているの。いつも心配してくれて私の病気のことも仕事のことも料理のことも相談に乗ってくれて。先生はいつでもヒントはくれるけど答えはくれない。いつでも優しくときには厳しく。すごーく尊敬しているひとなの。「体きつかったでしょう?よく頑張ったわね」いつもはなかなか褒めてくれない先生が手をぎゅっと握って褒めてくれました。張り詰めていたものがまたぷつんと緩んで私はまた二人の顔を見た途端に、泣いてしまいました。「透析が出来る国だったからよかったじゃない」透析のない国やできない国もあるのよ。透析がない時代だったらあなた死んでいたわよ。透析を始めたことで普通のひとと同じくらい動けるようになるんだから体も随分楽になるよ身体、ずっとだるかったでしょう?ずいぶん楽になるよ。よかったねよかったねって先生も梅ちゃんも一緒に涙ぐんで喜んでくれました。刀坂先生はまずは病院できちんと治療をして退院したらゆっくり食養生や手当てのやりかた教えてあげるからひとつずつ治していこうねって言ってくれました。梅ちゃんもあたしも一緒に食事療法勉強するからって。一緒に勉強していこうって言ってくれました。先生は私の手をさすりながら心配しなくていいから大丈夫だからちゃんと一緒に治していこうねって言っていました。相変わらず手間のかかる弟子だこと。当分、私のほうが死ねないねって笑って言っていました。私は透析が終わってほっとしたのとみんなの優しさが嬉しくて顔をくしゃくしゃにしたまま泣きながら笑っていました。
2007年01月04日
新しい未来に [ 携帯から更新 ] / 2006年10月01日 奥さんが怖がっているから来て下さい、と呼ばれて旦那がやってきました。私はがたがた震えていて軽い興奮状態になっていました。まともに息ができなくて。旦那がやってきて手を繋いでどうしたの?何がこわいの?って聞いて来ました。言ってごらん。我慢しなくていいから。今思ってること、全部言ってみて。夫婦でしょ?こんなとき言ってもらえなかったら俺悲しいよ。ほら。そういわれて頭を撫でられた途端、我慢できなくなって、今まで、心の奥にあった言葉が一気に溢れてきました。こわいよぅ。なにもかも。全部こわい。透析も。未来も。これから先生きていくことも。ねえ。あたしいっぱい頑張ったよ。あたしはどこまで頑張ればいいの?どこまで頑張ったらゴールなの?13年間一生懸命がんばったよ。まだ頑張るの?まだ頑張らなきゃだめなの?どこまで頑張ったら許してもらえるの?せっかく社会復帰したのに。せっかくお料理研究家になりたのに。大好きって思えるひとと出会えて諦めていた結婚もできたのに。お母さん。あんなにウェディングドレス楽しみにしていたのに。かざねちゃん。産みたかったのに。私はまた全てを失うの?頑張って頑張ってまた1から作らなきゃいけないの?旦那はそうだね。なみちんいっぱいいっぱい頑張ってきたもんね。嫌なこともいっぱい我慢してきたもんね。13年よく頑張ったねって言って涙を拭いてくれました。ごめんねって。もっともっとやりたいこといっぱいあったのにね。もっと早く病院に連れて行ってあげればよかった。コーン茶、嫌がっても飲ませるんだった。もっともっとできることがあったはずなのに。ごめんねって。旦那は何一つ悪くないのに何度も何度も、謝っていました。そして私の手をぎゅうって握ってもう頑張らなくていいんだよって。頑張らなくったってなみちんの進む道はちゃんとあるから。もうすでに用意されてるから。1からやりなおしじゃないんだよ。新しい道が待ってるだけだから。大丈夫。どんな状況になっても先には新しい未来が待ってるだけだから。頑張って作るんじゃないの。頑張るのはやめよう。なみちんにとって新しい未来がもう用意されてるんだよ。楽しんでその道を探せばいいんだよ。側にいるから。一緒に新しい道歩いていこうよ。だからこわくないよ。大丈夫。いつも側にいるから。一緒に見つけていこう。っていいました。新しい未来が待っている。新しい未来が待っているから。このひとと生きていきたいから。まだまだやり残したことがたくさんあるから。あたしまだ死ぬわけにはいかない。こわいけど透析受ける。輸血も受ける。旦那に透析受けるよっていいました。 コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
2007年01月03日
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