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京都市街地の最も西北に位置する寺院です京都 栂尾(とがのお) 高山寺 恋に疲れた 女が一人 大島紬(つむぎ)に つづれの帯が 影を落とした 石畳 京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた 女が一人【高山寺】 (栂尾高山寺) 真言宗 開基 明恵(みょうえ) 世界文化遺産に登録 急な坂道 高山寺 石水院の入口の門廊下伝いに暫し歩みますと、国宝【石水院】 (せきすいいん)があり廊下には、影絵の様な形で 【蟇股】 (かえるまた)のシルエットがとても芸術的に美しいです。 国宝建物【石水院】此処が一番趣の深い写真と思います。観る人によって感動は違ってくるでしょうね。 たまたま思いに耽っておられる女性のかた身動きなしでした歌詩にビッタシです額には、 「日の出先ず高山寺を照らす」と漢文で書かれています。鎌倉時代、後鳥羽上皇の勅額で寺名ともなりました。 床の間には、国宝【明恵上人の樹の上で座禅姿】の屏風が飾られています。 国宝の掛け軸です。明恵和尚さんが樹の上で瞑想されているお姿です。又、本間の横に、 国宝【鳥獣人物戯画】 全4巻の写しが置かれ、蛙と猿が人物的表現で戯れている図で、愉快に成ってきます。鳥羽僧正覚猷(かくゆう)の筆と言うことです。ガラスケースでしたが、何とか写せました 又本間に運慶作の可愛い「子犬の像」が何とも微笑ましくお客様を迎えています。仏師 運慶が彫ったという子犬です可愛いですね 外に出ると、日本最古の茶園が狭いですが、存在し「明恵上人」が「栄西禅師」から、中国から持ち帰った茶の種を贈られ。馬の歩む足跡に従って植えることを教えられました。「日本最古の茶園」大杉の階段を登りつめました 開山堂(明恵上人)を祀っています一番奥に本堂【金堂】がひつそり建っていました。金堂前の急な石段石畳恋に疲れた女がひとりに歌われた 高山寺の駐車場から更に国道を北に向かいますと清滝川にそって。北山杉の群れがずっと続きます。天皇陛下が皇太子の頃に妃殿下とご訪問された由緒ある林です。北山杉の群れ 国道は美山を通って若狭の海へ続きます嵯峨野の旅は此処までで終わりです
2019.03.31
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【槇尾山西明寺】 真言宗大覚寺派(まきのおさいみょうじ)江戸時代の再建には、徳川綱吉公の母君 桂昌院が寄贈したとされています。門前やはり此処も石段を登り、山中にお堂が建っていました。でも神護寺ほどではなくホッとしました。門前のもみじ門前では手箒てで常に掃除しておられました。本堂前の戸灯篭釣鐘1回百円・撞いて来ました。静かさが山に響きました。手を合わせて、目をつぶり暫し思いに耽っていました。虎の絵の屏風もみじの庭門前のもみじ清滝川指月橋から清滝川を渡る重い足も、心癒されました。京都にはまだまだ良いところが有りました。高雄三尾 高雄神護寺 槇尾西明寺 そして このあと明日は、世界文化遺産・栂尾高山寺 をご案内します
2019.03.30
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嵯峨天皇の山上への御陵を偲びながら訪れ 眼下に 清滝川も流れ その上流に神護寺が有ります 健脚の方は、高雄に来られれば、栂尾高山寺・槇尾西明寺そして高雄神護寺とセットでお参りされると意義が深いと思います。山岳仏教で山登りが厳しいです。本日は、将軍塚で、平安遷都を推挙した「和気清麻呂」の墓と京都の都の礎を「嵯峨天皇」と築きあげられ護国のために神護寺を建てられた弘法大師に偲び昨秋訪れたものを再録します。弘法大師は、山岳仏教として北国・高雄にまで布教の為寺院を創られました。 【神護寺】 【高尾山神護寺】高野山真言宗別格本山 開基 和気清麻呂 山号 高雄山 高雄は、京都では、「紅葉」の名所でシーズンでは、自家用も身動き出来ない大渋滞と成るほどです。従って駐車場も何処も満杯となります。 山岳仏教の一つで、街道から一旦、清滝川の清流へと降り、再び石段を山へと登り詰めます。年老いた人には、険しい難所でも有ります。1.【仁王門】(両側に藤原時代の「持国天」「増長天」が護法神として構えています)に着いてひと息つき受け付けを通じて入門します。2.直ぐ右手に【和気清麻呂公霊廟】奥には墓が有ります。常に桓武天皇の側近として「平安京」を進言された立役者でも有ります。現在でも「高雄山」から「京都」を見守り「京都御所」の西側では「護王神社」として、朝廷に仕えた形としても、祀られて居ます。3.【鐘楼】日本三名鐘の一つです。神護寺は、「銘文」として、宇治平等院は、「形」として、そして滋賀三井寺では、「音色」として讃えられています。4.【金堂】【国宝】の薬師如来(貞観時代)神護寺の本堂に当たり最も大切な場所です。脇侍に「日光菩薩」「月光菩薩」(がっこうぼさつ)(重要文化財)十二神将及び四天王が祀られ極めて落ち着いた感じで、薬師さんのお顔を拝するとき、荘厳な感じで何時までも眺めたい気持ちに成ります。ここも「時代劇」に広くって多い石段を背景にロケが採り上げられています。5.【多宝塔】【国宝】の【虚空蔵菩薩】が祀られて居ます秘仏で観られません。6.【大師堂】本尊【弘法大師】京の都を隅から隅まで仏典に基づき護国のため奔走されて、その足跡は、至る所で、拝する事ができます。7.【かわらけ投げ】 壮大なパノラマが開ける眼下に断崖、緑の林があり、「清滝川」「錦雲峡」の景勝が美しく、茶店で「かわらけ」を買って水平に飛ばすと上手にすると、「遠く」「長く」渓谷に吸い込まれて行き周りの人の喝采を帯びます。自然界で和やかな雰囲気を味わう事が出来ます。 本坊には、【国宝】の【源頼朝の絵画】は有名です。 高雄橋・ もみじと高雄橋 参道途中の茶屋息が苦しく、足が痛み出し、勇気の撤退をしょうとしましたが、ままよと再発進 休み休みして漸く神護寺楼門に辿りつきました 平安京の立役者・和気清麻呂公の霊廟 明王堂その側に日本三名鐘の鐘衝き堂があります銘が有名宇治平等院・形 滋賀・三井寺の音嵐山の保津川の支流清滝川の上流に此処たかお三尾があります。楼門を過ぎれば、平らな境内で、一安心しました。何といっても中心は、 【金堂】 で。 国宝の薬師如来像が祀られています。そして重要文化財の薬師さんのセット日光菩薩・月光菩薩(がっこう)十二神将そして四天王【持国・増長・広目・多門】天が揃ってみられます。金堂(本堂)国宝薬師如来像がまつられています。金堂前の石段は時代劇によく出て来ます。 金堂への石段紅葉が映えて居ました 登りつめた場所 石段の下時代劇でよくここのシーンが出てきます かわらけなげ2枚百円清滝川渓谷 清滝川渓谷かわらけ投げ みなさん楽しく試みておられます上手な人の場合は、長時間遠くへ飛行続けます下の川から此処まで登るのです。絶景 何れもかわらけなげ付近の情景ですかわらけ、買ってみるか記念にシャツター苔庭 たまたま 大師堂の特別公開 大師堂 長い石段を登りつめて、弘法大師さんの護国のため建てられた聖域からの、渓谷に掛けての絶景はみなさま満足気味でした。弘法大師さんは、神護寺より清滝川を下られて化野の念仏寺を造り無縁さんを弔い、嵯峨大覚寺で嵯峨天皇と都造りを仏法精神で協力された足跡が伺えそうです。 清滝川 明日は槇尾西明寺(まきのをさいみょうじ)のもみじそして世界文化遺産高山寺で終わります。
2019.03.29
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嵯峨天皇の平安遷都で桓武天皇の意志を継いで仏教的にも弘法大師さんと組んで都造りに大覚寺を嵯峨御所として貢献されました今回は、大覚寺に関係ある嵯峨天皇の御陵が嵯峨野の小高き山上にあり一昨年登ってきました。直指庵から100m西に位置します。平安遷都された 桓武天皇 の皇子様です。ブログで観て頂きたい一念で、過去一度も訪問出来なかった難所にも参りました。【嵯峨天皇】陵に初めてあえぎ ながらも、極めてきました もう二度とは至難です 【嵯峨天皇嵯峨山上御陵】 は山道を登ること、二百段、杖をついて登ってきました。再三申しあげますが、794年に桓武天皇によって、【平安遷都】が行われましたが、その皇子さん【嵯峨天皇】によっ過日て、大覚寺で弘法大師さんと共に、まことの都造りを成し遂げられました。今でも、小高き山上より、嵯峨野を通して、京の都を見守って居られるようです。嵯峨天皇御陵 参道入口 坂道坂道はまだ続きます 坂道振り返ると嵯峨野 まだまだ目的地が見えません。やっと見えてきました とても清々しい感じです。 嵯峨山上陵と書かれています 帰途は獣道から しだがはえています。 裏山には、小倉山そして愛宕山が見えました。この愛宕山の頂上には愛宕神社があります。鳥瞰図 は見事な物でした小倉山を見下ろす、別の風景です。 漸く嵯峨野の景色にもどってきました。 山道にこんな林も麓にありました。達成感は、清々しい感じでした。然し杖突き持っては冒険で疲れ切りました。次回は神護寺です
2019.03.28
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本日天皇両陛下が京都御所の桜を鑑賞されました小御所の庭園小御所の庭園寿老人が杖と扇を持って鹿と対峙長寿を寿ぐ鶴の絵は、寿ぎから御殿内に200羽ほど画かれるいるとのこと御所の桜
2019.03.27
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私こと91歳回転椅子でお昼ご飯の後ついぞ不覚にも落下左尻を打撲22日から日毎に痛みが座すことも歩くことも痛みが増し 医者はレントゲンCT検査で異常無し日にち薬で耐えることとのこと皆さんにご心配掛け申し訳ありませんが当分コメントの返礼出来かねますのでご了承願いますいよいよ春を迎えます皆さまのご健勝を願います3月いっぱいは予約しています
2019.03.27
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想い出草観音菩薩入り口 想い出草 ノート普段は此処の本堂中で したためられます苦しみ、悩み、この地を訪れた感動を5000冊に及んでいるそうです 大覚寺から北側200mのそぱに【直指庵】があります。 本日は昨年の秋に訪問した、もみじと女性の駆け込み寺とも云われる。こころの癒しの名所とも云えます。愛宕道とは外れますが、女性の哀話として、欠かせない閑居が有りますNHK大河ドラマ【篤姫】が鹿児島から都の近衛家に養女となり、其のときの理解者が、 【津崎村岡】でした。【直指庵】 (じきしあん)浄土宗 開基 独照性円(どくしょうせいえん) 山号 祥凰山 参道本堂の前庭 本堂奥庭への道 【村岡局】は「大覚寺」の寺侍(てらさむらい)津崎の娘でした、名を「矩子」(のりこ)といい、8歳で近衛家に仕えました。「勤皇」のこころざし厚く、女性でありながらも、国事に、奔走されました。「安政の大獄」の際、投獄されるはめにまでなりました。その後釈放後に、嵯峨野に帰り、「直指庵」にて 静かな余生を送り、88歳で亡くなりました。 津村 村岡の墓所嵯峨野の心を癒し鎮める適所なのでしょうか、「悩める女性」の「かけ込み寺」としても世に有名でして、その悩み事を記した【想い出草】として、大學ノートが侘びしく置かれて居ます。観音さんの慈悲に託されて置かれているのかもしれません。 帰り道 帰り道 次回は、山の上にある嵯峨天皇陵にご案内します。
2019.03.27
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昨日天皇両陛下が平成最後の京都御所行幸されました4日間関西に 特に天皇の初代奈良の神武天皇の御陵にご報告御参詣に成られます四日目には御所でお茶会模様されそうです大覚寺は京都の都造りを嵯峨天皇と弘法大師さんと常に親しくご相談あって基礎的な都が生まれた、由緒ある嵯峨御所として貴重な歴史を持っています。 【大覚寺2】真言宗大覚寺派総本山 開基 嵯峨天皇山号 嵯山 玄関 華道嵯峨御流 さがごりゅう 「大覚寺」は「嵯峨天皇」の離宮を寺に改め代々法親王が継がれた格式の高い門跡寺院でも有ります境内は渡り廊下で繋がり広く、今でも御所風の雰囲気に満ちて、優雅な気持ちを味わう事が出来ます。 明智門 【宸殿】(しんでん)後水尾天皇の中宮(皇后)「東福門院」(徳川家光の妹)の旧殿を移築されたものです。 宸殿家光の妹 東福門院さんが御所で使われたたてものを移築前庭に、「左近の梅」「右近の橘」が構えています。「桜」のはずが、100代後小松天皇まで「梅」でした。【勅使門】 勅使門 【御影堂】嵯峨天皇・後宇多法皇がそして弘法大師も祀られて居ます。御影堂左 嵯峨天皇 右 弘法大師京の都造りに貢献されました御影堂から 勅使門を眺める舞楽を舞う台 【御霊殿】後水尾天皇の御法体尊像が祀られて居ます。【五大堂】弘法大師御作と言われる「五大明王」は「嵯峨天皇」が祈願される「本尊」でした。【霊明殿】嵯峨天皇・後宇多法皇を始め歴代御門跡の尊牌、全国華道の師範の霊が納められています。【心経殿】般若心経の写経場嵯峨天皇が弘法大師のお勧めで、写経された所、世の悪病が鎮まりその後も引き継がれています。若い訪問者も増えています。【正寝殿】南朝・北朝が講和された歴史的場所と成っています結果南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松天皇(一休和尚の父君)へ譲位されました。境内のもみじ 境内から大澤の池を望む。 名月や池を巡りて 夜もすがら松尾芭蕉嵯峨・大沢の池で詠まれたとされています。 池を眺める展望舞台 京都観光の人気の高い嵯峨野巡り、侘びしさ、祈りの場、紅葉・桜の名所、景色の名勝、悩める人には慰めてくれる環境。変化があって、四季を通じて又感想が違うそして、詩歌の跡の文化を味わう観光地でした。 次回は直指庵に参ります。
2019.03.26
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京都 らんざん 大覚寺大原三千院 と共に、歌われています【大覚寺】 右京区真言宗大覚寺派総本山 開基 嵯峨天皇 【桓武天皇の皇子】山号 嵯山 現代で有りながらも、未だに「時代劇のロケ地」として、大自然の趣を見せています「大沢の池」池畔からのシーンが多いです。中国の洞庭湖を模して造られ、向いに「遍照山」(遍く照らす太陽のこと)が池面に写され、舟を浮かべて観月にも興ずることが出来ます。池の随分北の方面に歩みますと「名古曽の滝跡地」がひっそりと存在していました。百人一首に歌われています。 「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名古曽流れて なを聞えけれ」 藤原公任(きんとう) この状況で作詞家 永六輔は「女ひとり」1節「大原三千院」2節に「栂ノ尾高山寺」そして3節に「らんざん大覚寺」を「京都」として選ばれました。ディュクエイセスの歌 「京都らんざん大覚寺 恋に疲れた女がひとり 塩沢かすりに名古屋おび耳をすませば滝の音 京都らんざん大覚寺 恋に疲れた おんなが ひとり」 大澤の池 池の一番奥に【名古曽の瀧跡】がありました。此処は時間もかかりますので、今回ブログ取材のためこの歳になって初めての訪問で感慨ふかいものがありました。 瀧の鑓水の流れの跡大澤の池に注ぎます。 瀧の水が池に注ぐ場所背景の山は、嵐山です。遍照山が大澤の池に映っています。遍く照らす即ち仏の慈悲この池に写す手法は龍安寺金閣寺そして銀閣寺でも見られますそして千円札にも富士山の富士五湖が採り上げています。 テレビ「長七郎夢日記」≪水戸黄門」のロケによく出て来ます 観音堂納経堂 お茶屋からの大沢の池お茶室のもみじ境内の入り口付近遍照山(へんしょうやま)を池に映す景色 神仏混合から お寺の境内には 神社の祠がありますロケによくてできます。写経されたものを収めている塔です池を巡ります池の向かい側の景色です池を巡ります 赤い橋が 見えてきましたこの奥に 名古曽の蹟があります 紅葉 青い 空と池 赤い橋と向かい岸明日は大覚寺の室内を更新します
2019.03.25
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本日は、紅葉の名所として穴場的存在の【宝筐院】の紅葉ご覧下さい。嵯峨釈迦堂の東南に隣接して建てられています。 【宝筺院】 (ほうきょういん)楠木 正行 (くすのき まさつら) 父 楠木 正成足利 義詮 (あしかが よしあきら) 両菩提所 父 足利 尊氏 二代足利将軍は足利義詮(よしあきら)は尊氏の長男で義詮は有能な将軍で遺言により敵であった楠木正行の墓所のそばに葬って欲しいと下の写真は小楠公菩提寺ともなっています後醍醐天皇と戦闘は交えたくなかった大切な時期でした 表門入口入り口付近 菊の花も境内一円 紅葉 隠れた名所本堂前もみじの絨毯本堂内の正行と僧侶の絵本堂から 庭園展望本堂からの眺め庭園散策 家紋 左 二引きの足利家 右 菊水 楠木家左 第二代足利義詮の墓 右楠木正行の首塚初代足利尊氏は 後醍醐天皇の菩提のため 天竜寺を親子二代で 敵であった方の 人は憎まぬ史跡が伺われます。三代足利義満の場合は我が子の憎しみに会いました。次男を寵愛したためと言われています。こどもは常に親を見て育つようです。庭園を鑑賞山茶花も まけずに白い山茶花も ありますよもみじの絨毯と 木漏れ日以前には、それほど紅葉していない様子を御紹介しています。今回は、もみじの絨毯を味わってきました。車夫の方の 観光が多く やはり穴場として 多くの車夫の方々のご案内が多かったです。車夫の方は、とても 礼儀正しくって、 係のない老人にも 「こんにちわ」と笑顔で 挨拶が徹底しています。 観光関係として とても大切なことと気持ちよくしました。次回は、大覚寺嵯峨御所へ参ります。
2019.03.24
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嵯峨野巡りも終わりました。嵐山に向けて帰途にあります。本日は、清凉式釈迦像(仏像に縞模様)の原点の国宝釈迦像の祀られた。嵯峨釈迦堂に参ります。 【清凉寺】 (せいりょうじ) 【嵯峨釈迦堂】浄土宗 開基 ちょう然(ちょうねん) 山号五台山 正面・仁王門仁王さん この一帯は「源氏物語」に登場する「源融」(みなもとのとおる)が営んだ山荘(栖霞観)(せいかかん)と言われています。「源融」は嵯峨天皇の皇子で、「源氏」の性を受けました。 奈良の東大寺の僧、「ちょう然」が中国「宋」から帰国し、中国の五台山にならって、「愛宕山」を五台山に見立てて「清凉寺」を建立、「栖霞寺」内に釈迦堂を建てました。完成を待たずに逝去、弟子によって其の意志が完成しました。 有名な【三国伝来の釈迦如来像国宝】(インド・中国・日本)仏像に独特の筋が入り、頭髪は渦巻きのように現されると言う「清凉寺式釈迦」として異色の雰囲気を持つ、「お釈迦さん」です。全国に100体あるそうです。 釈迦堂・本堂 本堂 多宝塔 背景が嵐山 【阿弥陀堂】阿弥陀如来・観音菩薩勢至菩薩(両脇侍)【国宝】左大臣「源融」は、晩年、阿弥陀如来像の建立を発願しましたが、完成を待たずに他界しました。息子達は亡父の意思を継ぎ、一周忌に完成しました。 死後極楽浄土を願っての造像は、後に「藤原頼通」発願の宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像に繋がりました。【釈迦堂内】の【釈迦十大弟子】足には靴を履いています。奈良の興福寺は草履を履いているようです。 十大弟子像には【通肩】(つうけん)は少なく、「右肩」を出している姿が多いようですこの着方を「偏担右肩」(へんたんうけん)と言い、仏や師匠を礼拝するときの恰好とされています。 「十大弟子」にまつわる二題【阿那律】 (あなりつ)釈迦の従姉妹にあたり、お説教中居眠りし、反省して「私は、一生眠りません」と誓い、目がわるくなって失明します。顔を右に向け必死で目を見開いている姿。結果彼は失明しますが、「天眼智恵の目」を得ました。【優波離】 (うばり) 阿那律の従者でありながら、主人より先に出家してしまいました。奴隷の身分で、自分のように身分の低い者でも釈迦の弟子に加えられた歓喜の表情を浮かべています。次回は宝筐院 紅葉の名所に参りります。 JR山陰本線「嵯峨嵐山駅」ホーム左が嵐山・右が小倉山です。 駅を見ると旅情がかり立たれますね。
2019.03.23
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【嵯峨野巡り10】 嵯峨野巡りの道は、愛宕山山上にある、愛宕神社への愛宕街道とも言われています。明智光秀が、愛宕詣でで、おみくじを何回か引いているうちに「吉」と出て「敵は本能寺にあり」と兵士を京に引き返らせたことで有名です。その「一の鳥居」に至る、古い町並みを京都市で数少ない、【伝統的建造物群保存地区】 として、指定されて居ます。鳥居を挟んで、手前に【蔦屋】(つたや)越して【平野屋】萱葺きの茶屋がとても風情が有ります。鮎料理が主で、表に「赤い毛氈が腰掛に敷かれているのが印象的です。 愛宕山の愛宕神社の一の鳥居【蔦屋】平野屋 上から写す【平野屋】愛宕神社(あたご)参詣の古くからの茶店 【愛宕念仏寺】 【愛宕寺】(おたぎじ) 天台宗 開基 弘法大師 山号 等覚山「あたごじ」でなく「おたぎじ」とよばれています。故西村公朝和尚従事 国宝級の修理担当 仏師仏像の知識はこの方から学びました 仁王門 有志の素人さん方々が彫られた羅漢さん 【羅漢石仏】 (らかんせきぶつ)現代一般有志の方の志望で、一個の石が与えられ、各自の構想で、「羅漢像」を彫られたものが数多く並んでいます。笑顔あり何とも云えない表情が夫々伺える様です。 本堂鐘楼音色が違い妙なる鐘の音が聞かれます境内 釣鐘は音色が変わり 共和音が聖域を感じさせます。本堂は坂の上に、そして境内を通して仁王門が見えます。境内に羅漢さんは数知れず多く奉納されています。 次回は、嵯峨の釈迦堂に戻ります。
2019.03.22
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昨日は、寂聴さんのエピソードに共感して下さる関心を 多く戴きました。人はふれあいによって大嫌いであった人とも180度転じて、お人柄の誤解がとけることと、子供の痛みに母さんの暖かい「手をあてがう」手当てで痛みが癒されることよくききます。まして仏に仕える身の手当ては、徳効があり、感謝の気持ちで共に、「般若心経」を唱えることが大切なことと感じました。 本日は弘法大師さんが清滝川上流で、神護寺を創建され、嵯峨天皇(桓武天皇の皇子)と深い都造りの相談者でもあり、此処嵯峨野を歩かれ無縁仏の風葬の亡骸を鄭重に埋葬に心されたと思います。 【嵯峨野巡り9】 嵯峨野を【寂】と選ばれた作家としての「寂聴」さん。正にその一言に尽きると思います。法名の名付け親は同じく作家で天台宗の僧で 【今東光師匠】でした。 【寂庵】を後にして、先ほどの「石仏の三叉路に戻り、散策道を北へ、其処には「化野念仏寺」が有りました。【化野念仏寺】 (あだしののねんぶつじ) 浄土宗 開基 弘法大師 山号 華西山(かさいざん) 参道 受付を入りますと、石仏の群れが一杯に拡がる光景に、驚きを隠せません。 十三塔の前のお釈迦さん「十三搭の前に、「お釈迦さん」が坐り、周りを群れとして石仏が中央に向けて配置されていました。「寂聴」さんの「嵯峨野散策」の本に、お釈迦様が皆様にお説教されている姿の様に見られます。と記されていました。今は亡き霊が、仏の慈悲で守護され憩うて居られる様にも感じられました。 西院の河原お客様からよく質問を受けます。「石仏は幾つ位ありますか?」毎年お盆の終わり頃の、8月23・24日には、【千灯供養】としてローソクをお供えする行事が有ります。千は数の多いことを意味し毎年増えつつあるようです。 寺伝によりますと、「二尊院」から「念仏寺」に掛けてこの当たりを「化野」(あだしの)と呼ばれていました。約1,100年前「弘法大師」が「五智山如来寺」を開創され、野晒しと成っていました無縁の遺骸を鄭重に弔い埋葬されたと伝えられ、その後「法然上人」の常念仏道場として、「華西山 東漸院念仏寺」(かさいざん・とうぜんいんねんぶつじ)を建てられて浄土宗とされたそうです。本尊・阿弥陀如来 浄土宗として、本尊は、西方浄土から東向きで【阿弥陀如来坐像】 (湛慶作) が祀られて居ます。受付に至る石段参道の側に、かなり彫が見にくくなった「釈迦如来・阿弥陀如来」の石仏も鎌倉時代作とされています 本堂前の地蔵菩薩堂の中を覗きますと、正面の両側に、極楽図と地獄図が画かれていました。【西院の河原】 (さいのかわら) 「空也上人」御作【地蔵和賛】にあの世で嬰児(みどりご)が河原の石をとり回向(えこう)の塔を積み重ねます。「一重積では父のため、二重積んでは母のためと・・・」やっと少し積み上げると鬼が来て潰す姿が思い遣られます、罪も功も無き幼子の死界をこの世で回向の大切さを説かれているやに思われました。石仏群の囲いには、多くの「石積み」の形が訪れる人の真心が微笑ましい形で一杯見渡せます。 京の都には、東山清水寺の附近に【鳥辺野】そして船岡山の麓北区千本十二坊に「上品蓮台寺」がありますが其のあたりを 【蓮台野】 と言います。【化野】と三箇所の亡骸の風葬の場所でした。金閣寺の側あたりです。 本堂より、少し奥に行ったところに、【水子地蔵尊】が祀られていました。多くのお参りの「千羽鶴」や「お人形」等が飾られていました。親の姿もこの世で見ずしてあの世に悲しい現実です。 孟宗竹竹藪の小柴垣の中央に立て札が立っています 角倉了以の長男 【住倉素庵】の墓があります 風神雷神図で有名な俵谷宗達と親交あり素庵56歳でハンセン病で61歳で亡くなるまで 此処に隔離 宗達は面倒を看ました死後その悲しみを雷神の身体を白色にして宗達は黒の風神図として供養したともいわれています 更に「孟宗竹籔」を越えますと、墓地がありその入り口には六体のお地蔵さんが立ち、夫々「六道」の担当で持ち物が変わっていました。常にお地蔵さんが側に付いていて下さっている様です。 古語「あだし」は「悲しい」・「悲しみ」と言う意味から「あだしなる野辺」が「化野」と言われる様になりました。「無情」を端的に表現、「嵯峨野」の風情の一部とも考えられます。 紅葉時の境内 次回はいよいよ嵯峨野巡りの終着点、【愛宕寺念仏寺】(おたぎじねんぶつじ)へと進みます
2019.03.21
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本日は最高気温予報京都で20度と久しぶりの春の陽気春分を明日に迎え歓びを感じます瀬戸内寂聴さん今年96歳まだまだ笑顔でご健康です大正11年(1992)5月15日生まれ徳島県出身【嵯峨野巡り8】 【平家物語】に登場する、【祇王】【横笛】そして「渡月橋」の【小督】の哀話が そして【源氏物語】「野々宮神社」の悲恋。此処「嵯峨野」に潜んでいるところに、女性の方に人気が有るのでしょう。 「祇王寺」「滝口寺」を後にして、暫し又歩を運びますと、三叉路に、可愛い野仏が数個道端に佇んでいました。その三叉路を右に少し行きますと右手に 【瀬戸内晴美】 即ち【寂聴】さんの「嵯峨野」での私邸があり、其の敷地内に庵を築かれました。【源氏物語】の編集も此処で執筆されました。 曼荼羅山 寂庵表入口 現在は一般には開放されていません。私邸前の表札は「瀬戸内」となっています。 【寂庵】 天台宗 山号 曼荼羅山 (まんだらやま)寂庵の命名は、作家で天台宗の僧侶【今東光師匠】でした。 曼荼羅山は、「寂庵」からよく見渡せます山で、京都五山の送り火中の最後に灯される 「鳥居型」 が有名です。佛教的行事に、鳥居も珍しいですが【愛宕神社の一の鳥居】があるとしても五山に採用されたのでしょう。 大文字五山の送り火の「鳥居」が曼荼羅山 今は、締め切って、本堂内に入れなくって残念ですが、以前は開放され、時々「寂聴」さんとお客様が会われる機会が有りました。貴重な体験談 (観光ご案内して) ある母娘のお客様を嵯峨野巡りをご案内していました。 娘さんとの子連れのお客様に、訪問をお勧めしましたが老婆のお母さんは「瀬戸内晴美は大嫌いじゃ」と訪問を拒まれました。晴美さんの過去の女性像を考えてのことでしょう。中年の娘さんの説得で、しぶしぶ「寂庵」を訪問しましたら、本当に仏の導きか、「寂聴」さんが本堂に居られました。 お母さんは、脚を痛めておられ、その旨寂聴さんにしぶしぶ訴えられたとき、「どれどれ足を出し成され、手当てと言うでしょう、温かい母さんの手は、子供の痛みを和らげますね、私の手には、仏さまが加護されていますので良く効きますよ」といって足を暫し摩られました、不思議と痛みは和らぎ、畳の上で坐る事が出来ました。あれほど嫌っておられたお母さんは、「勿体無い」といって涙をボロボロ流してまさかあの有名な方に、温かく気軽に接して下さった事に、「本当に来て良かった一生の思い出になる」と歓ばれました そして感謝を込めて「一緒に私と般若心経を唱えましょう」と寂聴さんが先導され、貴重な体験をされました。仏にこの日の導きに感謝を一緒にされる寂聴さんの心根が尊く感じました。そして一緒に記念写真を「ハイポーズ」と寂聴さんが二本指を差し出し言われてにこやかな写真がお客様の手に残りました。嫌いと言う前に、会って話される事で、誤解は消滅しました。 現代は、大変お忙しい身、高嶺の雲の上の方と成られ、庶民的に会う機会が「嵯峨野」で会えなくなって、とても惜しい事でと思います。東北にも一寺を設け東奔西走、人の心を癒されておられます。女性のみのお話会が月に一度あるそうですが、申し込み予約が殺到しているようです。私たちは本当に恵まれたと尊い体験をさせていただきました。今でも良き思い出として残っています。嫌いと心を閉じるのでなく話せば道は開く母性の手は温かく我が子の痛みを和らげる次回は無縁仏の供養塔が祀られる【化野の念仏寺】(あだしの)に参ります。
2019.03.20
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昨日彼岸の入りは全国好天気で暖かさも感じました21日の春分の日には更に肌に感じる様に成りそうです桜の開花予想の記事も出る様になりました春までもう少しですね【嵯峨野巡り7】 「祇王寺」のご感想は如何でしたでしょうか?苔の庭を一周するだけでも、大自然の美しさと侘びしさを感じとる事が出来ます。白拍子の「祇王さん」の華やかさの影に世の無情を身を以って体験され、心の癒しに、仏道に出家され、此処「嵯峨野」の静かな地で漸く人間の尊厳を会得されたのではないでしょうか【平家物語】「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無情の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰の理(ひつすいのり)を顕わす(あらわす)。奢(おご)れる者久しからず。ただ春の夜の夢の如し、猛(たけ)き人も遂に滅びぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ琵琶法師の語りが深々と聞えそうです。 祇王寺に隣接した滝口寺の門【滝口寺】 (たきぐちてら)浄土宗 開基 良鎮 山号 小倉山 「祇王寺」の出入り口から、少し山手に隣接して、「滝口寺」が有ります。ここもお寺とは言え、庭先のこじんまりした部屋に訪れるだけですが、「平家物語」「重盛高野の巻」に登場する、平重盛の家臣【滝口入道時頼】 と「建礼門院」に仕えた侍女【横笛】の悲恋の舞台となった場所でも有ります。時代祭にも横笛が隊列に加わった写真をご紹介しました。 語り部とし、縁先で訪れる人ごとに、無表情で滔々と語られたお婆さんも、この世から、浄土に召されました。同じ事柄を終日多くの人々に述べられたご労苦は察するに余りありました【物語】 清盛の西八条殿での「花見の宴」に於いて「建礼門院」侍女「横笛」の「舞い姿」を、重盛の侍「斎藤滝口時頼」が繁々と見てひと目惚れして恋しく想う様になり、恋文を送る様になりました。ところが時頼の父がこのことを知るや「お前は名門の身にして、将来平家一門に入る身上でありながら、横笛ごときを想い染めるとは」と激しく叱られました。 時頼は、主君の信頼に背いて恋に迷う自責から「これこそ仏道に入る為の仏の尊い導き」と決心して、此処嵯峨野の【往生院】で出家し、名を【滝口入道】と改めました。 【横笛】は、都で「滝口入道」が出家したということを伝え聞いて恨めしく思い、自分の恋心を持って居ることを打ち明けたいと、都から嵯峨野の往生院を探し求めて辿り着いた時はもう日も暮れて、夕闇の迫るころでした。荒んだ僧坊から念仏の唱える声が聞えました。心をときめかして、滝口入道の声と聞き澄まして真の恋心を打ち明けたく女の身で訪れたことを告げてみると裾は露で濡れ、袖は涙でぬれ、痩せこけた顔付きは、本心で求め尋ねてきた様子は、誰しも抱き閉めてやりたい気になるも、仏道に仕える者として心を鬼にして、同宿の僧を遣わし「全く此処にはそのような人は居りません、何かの間違いではないでしょうか」と言わせました。襖の陰で涙しながら 「横笛」は、悲壮な悲しみで帰る時「眞の心を伝えたく」庭の近くに有った石に歌を「血染め」で書いて帰りました。 そして保津川に身を投じたという説もあります。「滝口入道」は、未練が残ったまま別れた「横笛」に住まいを見つけられたからには、修行の妨げと思い【高野山】に移りました。これを知った「横笛」もその後直ちに、奈良の 【法華寺】で尼に出家しました。現在本堂に紙製の小さな「横笛像」並びに「横笛堂」があるとのことです。「法華寺」で尼に成ったと聞いた「滝口入道」は、一首の歌を「横笛」に送りました。 「そるまでは 恨みしかも 梓弓(あずさゆみ) まことの道に 入るぞ嬉しき」 「横笛」やっと心の通じた「歓喜」と「幸せ」をかみ締めて、返しの歌 「そるとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心ならねば」あずさゆみ】神事に使う弓ですが、詩の「枕詞」として「春」(張る)に掛け、心の春をイメージしているようです。 「横笛」は、仏道を全う出来た心の安らぎのまま、間もなく法華寺で亡くなりました。これを聞いた「滝口入道」も仏道修行を積み【高野の聖(ひじり)】といわれる高僧に成られたと言う事す。【本堂】滝口入道・横笛の木像鎌倉後期の作で眼が水晶(玉眼)竹薮に平家の供養等が建っていす。【小松堂】平重盛を祀る【横笛歌碑】参道の庭にあり横笛が指を切って「血染め」で、歌を書いて帰ったと言う石碑嵯峨野の雰囲気は文学で女性の悲話を以って語られています。現代人としてその昔を偲びつつ訪れるのも自然にも触れ祈りの気持ちにもさせてくれるようです。 次回は寂庵を訪れたいです。
2019.03.19
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嵯峨野巡りの中心祇王寺 【嵯峨野巡り6】【祇王寺】 (ぎおうじ)真言宗大覚寺派 開基 祇王尊尼 山号 高松山祇王寺 本堂苔がとても美しいです京都は湿地帯ですので苔庭が多く歴史を感じさせます。入口萱葺の門孟宗竹の竹林苔庭手水鉢 800年前を偲びましょう。 「平清盛」 の寵愛を失い、余生を尼になって過ごしたと伝えられる「平家物語」に名高い白拍子(しらびょうし) 「祇王」 にゆかりの寺です。此処にも女性の哀話が話題と成ります。 平家全盛の頃。都に「平清盛」の寵愛を受けた白拍子「祇王」と妹「祇女」が仕えていました。後日加賀の国の「仏御前」が清盛の屋敷に、白拍子として出仕方申し出ましたが、清盛は「祇王には適うまい」と門前払いを受けました。心の優しい祇王は清盛に取り成して。「一度舞いを観られては」と取り成し受け入れられました。 「今様の歌」(いまようのうた)七・五調の宮廷の舞の歌で 「君を始めて 見る折は 千代も暦(へ)ぬべし 姫小松 御前の池なる 亀岡に 鶴こそ群(むれ)いて 遊ぶめれ」 (大原寂光院の池) 繰り返し三度歌ったが声も筋もすこぶる上手で清盛の幼児の頃悲劇の母御から聞いた懐かしい歌に清盛は、涙してたちまち心を「仏御前」に移したと言います。 清盛の館から追い出される「祇王」はせめての忘れ片身にと障子に書き残されました。 庭園の片隅に石碑として建っています。萌えいずるもの歌碑 「萌えいずるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」春に草木が芽を出し初々しく萌え出るのも、秋には枯れてしまうのも、同じ野辺の草(自分たちのこと)の宿命。そして時が来ると、哀れにも姿を消していく、そうした同じ道を辿るものです。此処が祇王の追いやられても、優しい心遣いでした。 あくる春清盛より祇王に、「仏御前が退屈しているから、舞を舞うて慰めてくれぬか」と使者をよこすも、あまりの屈辱に祇王は行く気は無かったのですが、清盛の権勢と母「刀自」(とじ)の哀願に抗し切れず,館に赴き歌いました。 「仏もむかしは 凡夫(ぼんぷ)なり われらも遂には 仏なり いずれも仏性 具せる身を 隔(へ)つるのみこそ 悲しけれ」並み居る諸臣も、祇王の心を察して、涙を絞ったと言う事です。「祇王」は母と妹を伴って、此処嵯峨野に身を寄せ、「仏門」に入られました。その後、暫し年を経て、母子三人が念仏している所へ、竹で編んだ網戸を静かに叩く音がしました。以外や「仏御前」でした障子に書かれた祇王の真意が理解出来たからでしょう。 あれほどの仕打ちを受けたにも拘わらず、祇王も今は仏に仕える身と、心を赦して優しく迎え容れられました。此処が、誰も出来ない祇王の超人的な愛で嵯峨野を訪れる人のこころの糧そして救いともなり、とても人気があります。 寺とは名ばかり、こじんまりした苔の庭園の側に二部屋の本堂があるだけです。昔は祇王桜が有りましたが、枯れて今は見られません、秋には、紅葉の葉っぱが苔に散らばり、彩なす光景は心癒されます。訪れられれば、必ず履物を脱いで「本堂」に上がって下さい。ボタンを押すと、上記のお話しが、流れます。そしてもう一つ別室から観られる「虹の窓」を鑑賞してみて下さい。篠竹を斜めに交差した外側に「孟宗竹」が縦に構え、障子を閉めると篠竹から「虹」が写る趣向になっています。 虹の窓本堂の側に親子三人の墓があり、嵯峨野で静かに揃って憩うて居るようです。世の無情から解き話された様に 祇王・祇女そして母刀自の墓 右は平清盛の供養塔 貴重な遺跡の存在で五輪塔 地水火風空宇宙の元素表現他の地に遺跡的な清盛の墓並びに菩提の遺跡の存在が見当たりません。大河ドラマ主役松山ケンイチは神戸市兵庫区「能福寺」三大仏の一つに参詣 仏午前は、加賀に帰って亡くなられたそうです。 次回は、【滝口寺】に参ります
2019.03.18
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【嵯峨野巡り5.】【二尊院】嵯峨野は文学にも各所に足跡が有ります。短歌・俳句・古書等に耽るのに最も良き環境でも有るようです。「去来の小さき墓」に一礼して更に歩を進めますと伏見城から移したと言う、総門に辿り着きます。瓦の端には豊臣秀吉の「五七の桐の紋」が見られます。此処が、「二尊院」の入り口となっています。 伏見城から移築された総門 何故、「二尊」と言いますと、本尊が「釈迦如来」「阿弥陀如来」 と如来が二体揃うのは、大変珍しい事で、実際本堂で、仏像を拝しますと、立ち姿で全く同形に見えます。よくクイズで違いを探すような感じです。ならば何処が違うのでしょうか?以前仏像の見方で説明させていただきました様に「手先の指」がお釈迦さんは、手の平を広げ指も揃えて全て伸ばしておられます。一方阿弥陀さんは、此処では、親指と人差し指を丸く結んで居られます。 以前は、仏像の前まで入れましたが、今は観られなくなっていました。でも確かめたいですね。発遣(はっけん)の釈迦如来はこの世で一切の衆生の往生を勧め来迎の阿弥陀如来は彼の浄土に迎えられる。即ち「勧める仏」と「招く仏」とで漏れなく衆生を救済しょうとする仏の悲願から此処に二体祀られて居ます。 【小倉百人一首】の発祥の地とも言われ、本堂の横には古式のカルタが販売されています。【時雨亭跡】「常寂光寺」と同様に、小山に登り詰めた処に「藤原定家」の「山荘」である「時雨亭跡」の石碑が建てられて居ました。 参道 参道も「紅葉の名所」で、百人一首では、その美しさを表現する歌が読まれています。 「小倉山 峰のもみじ葉 心あらば いまひとたびの みゆき 待たなん」 貞信公 藤原忠平 小倉山の峰に彩なすもみじ葉よもしそなたに心があるならば、このまま、そっと散らないで、もう一度の天皇の行幸を待つておくれ。(紅葉のあまりの美しさを強調された歌)「宇多法皇」が始め大井川行幸として、訪れておられました。 わが子「醍醐天皇」に見てもらいたい意と考えられます。続いて二尊院のそばの【厭離庵】ご紹介します 【厭離庵】 (えんりあん) 臨済宗天龍寺派 日頃非公開百人一首を藤原定家が編纂した場所とも言われています。「二尊院」から本通りに出て右手少し行きますと、北側に有ります。日頃非公開ですが紅葉のシーズンには、特別拝観出来るようです。外の喧騒から、別天地の様に静かな雰囲気を味わう事が出来ます。期日 11月1日~12月上旬 9時~16時 志納金 500円 入口玄関庭園への門居間定家塚本堂 苔生す庭園愛宕水の湧く泉藤原定家が筆を洗ったとされます 懸崖の上に「茶室」を構え、愛宕水の名水で、一幅のお茶は、何とも言えない美味です。「中心山荘の跡地」とも言われています。 嵯峨野は、時雨時が多く、こうした文化も発祥したのでしょうね。作家も良く来られて、文章を綴られるそうです。昔、静かにお話を伺い、お逢いした年取られた「庵住さん」も今はこの世から浄土へ召されました。時の流れを切なく感じました。 次回は、いよいよ本番【祇王寺】です。
2019.03.17
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本日は、貧しさの中でも芭蕉の十哲のひとり「向井去来」の棲家「落柿舎」が嵯峨野の風情にぴったりで、田園風景と共にご案内します。 落柿舎【嵯峨野巡り4】 「常寂光寺」の門を後にして、直ぐの所に、のどかな嵯峨野を連想する広い畑に至ります。写真に撮られるには、畑の手前から、彼方にひそかに佇む【落柿舎】 (らくししゃ)は、一幅の絵に成ります。 田園風景 【落柿舎】は、松尾芭蕉門下十哲の一人【向井去来】(むかいきょらい)が閑居した、極めて貧しそうな藁葺きの田舎風の一軒屋で、蓑笠が掛っているのが、印象的です。庭の片隅には 「柿ぬしや 木ずえは近き あらしやま」と記された「句碑」が立っています。 そもそも「落柿舎」の名の由来は、 去来が貧しい生活で稗飯(ひえめし)を食していました。ある年の秋に、庭の柿が豊かに実ったので、売買が商人との間で纏りました。「よし久方振りに、白い飯が食べられるぞ」と夢を膨らませて一夜を過ごしました。ところが夜半から嵐が吹きまくり、柿の実が全て落下していて商談は、不成立と成ってしまいました。「1升升は1升升だな」と観念して「落柿舎」と名付けたそうです。無念の句碑が嵐と嵐山に懸けている気持ちがよく理解できす。 更に歩を進めますと、右手の墓地と句碑に立ち寄りますと、【去来の墓】がありました。 去来の墓 犬・猫の墓の様な三角形の小さな自然石が置かれていました。石には「去来の墓」と書かれていましたその直ぐ横に、句碑が並んでいますその中に【虚子】の句碑を見付けました。 「おおよそ天下に 去来ほどの 小さき墓に 詣でけり」 虚子の歌碑 広い一帯は多くの歌碑で囲まれています。その一つです。 実は、左京区【真如堂】内の塔頭に、「向井去来」の菩提寺が 有り、そこには立派な墓があるそうですが、嵯峨野の居心地もまんざらではないと、未だにひそかに眠っているようです。 次回は、小倉山百人一首の基地であるとされる【二尊院】を尋ねたいです。
2019.03.16
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常寂光寺は、日蓮宗で本堂を始め解放されず、信仰を旨としています。仏像の存在すら判りません。「南無妙法蓮華経」のお軸が懸っているとも考えられます。 多宝塔 ブロ友から大河内伝次郎は大分県豊前(ぷぜん)市大河内の出身芸名まで故郷の誇りとして付けられたと教えられました 【嵯峨野巡り3】 大河内山荘を後にして、暫く歩くと、「トロッコ鉄道」「嵐山駅」が有ります。春秋には、桜・紅葉の鑑賞で「保津川」の景勝地を満喫出来る事で、利用する方が多いです。【常寂光寺】 (じょうじゃくこうじ) 日蓮宗 開基 究竟院日愼上人 山号 小倉山 日蓮宗としての観光寺院は、極めて珍しいです。「紅葉」と「歌碑」で訪れる方が多いです。小倉山の山腹にあって静寂で清らかな「常寂光土」に遊ぶような趣が有ると言うので「寺名」が付けられたそうです。 日愼上人は、日蓮宗大本山本圀寺(ほんこくじ)「山科区御陵大岩町」にて僅か18歳で法灯を継がれ「修学」「歌道」への学問及び文化に深く達して居られました。 入口の門 拝観受付 仁王門 【仁王門】仁王さんは「運慶」の作と言われています。 本堂への参道左 男坂 (急坂) 右 女坂 (なだらかな坂)私は女坂を利用しました 本堂前 【本堂】一般に外からしか拝する事が出来ません。 今年も見ごろになりました多宝塔 【多宝塔】紅葉をバックに、よく写真を撮られます。 紅葉の境内京都市街の展望 京都市街の西北の位置に有ります 【歌仙祠】 (かせんし)歌人藤原定家の祠(ほこら)定家像が安置されています。【時雨亭跡】 嵯峨には「時雨亭」は三箇所有ります。「常寂光寺」「二尊院」「厭離庵」(えんりあん)何れも、定家山荘の跡と称して居られますが、昭和10年国文学者の考証では、定家の「小倉山山莊跡」は、常寂光寺仁王門の北即ち「二尊院」南に位置し、「厭離庵」近辺は、定家の子「為家」の住まい、「中院山荘跡」の定説と言われています。寧々さんの寺【高台痔】の山上に「時雨亭茶室」があります。 定家はこのあたり山荘「時雨亭」を構えて【小倉山百人一首】を編纂したとも言われています。【二尊院】と共に往時を偲んで訪れる人も多いのでしょう。 時雨亭は、小高き山に登った所に有り、この辺りからも京都市街が見渡されます。「紅葉」はとても美しいです。【角倉資料館】「角倉了以」は保津峡等を開発した立役者で「藤原定家」の落ち着いた小倉山麓に隠棲所を提供したのが「角倉了以」と言うことで、展示されています。長男角倉素案は風神雷神図を描いた俵谷宗達とも親交がありました 次回は【落柿舎】(らくししゃ)を経て【二尊院】を訪れたいです。
2019.03.15
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野々宮神社から小柴垣そして嵯峨野の竹林トンネルの散策道を越すと俳優大河内伝次郎の山荘に至ります自分の別荘と思って、お大臣気分で、満喫してみてください。 【嵯峨野巡り2】 山荘内の持仏堂 先ず信心から毎日参詣してお散歩山荘の入口 左側右は常寂光寺方面へ 野々宮神社から「小柴垣」の散策路を選ばれるも良し、急がれる方は、【天龍寺裏出入り口】から外に出た所から、豪壮な竹薮の路と成ります。嵯峨野の風情たっぷりの雰囲気です。突き当たった所を左に行きますと、「亀山公園」経由嵐山に辿り着きます。本日はその突き当たった所にある「大河内山荘」に入山してみましょう。 お茶券で和菓子とおうすをよばれる。 【大河内山荘】 映画俳優・大河内伝次郎の別荘 2万平方メートル(6,000坪)故大河内伝次郎は、常に「二枚目」を維持する事によって、この景勝地を確保すべく、精神的には、山荘内に「持仏堂」を祀り信仰も厚く、体力維持には、広々とした我が所有地内を「ジョギング」して努力されたとのことです。獲得に30年要されたそうです。 別荘の邸宅 壮大さが素晴らしいです嵐山を借景は見事 散歩道と茶室 茶室亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の起伏のある庭園です。小高き丘から京都市街の眺望も素晴しく比叡山も良く見えます。向きを変えると嵐山の桜の遠景も目を見張る景勝に歓喜を覚えます。場所を変えると保津峡の直ぐ側に面し、「山紫水明」の絶景も観られます。 保津峡の景色 京都市街地の眺望バックは東山三十六峰 暫し、故大河内伝次郎を偲びつつ山道を巡られるのも、良い想い出に成ると思います。 故大河内伝次郎の「執念」でしょうか?茶室の一つの「壁」に染みが自然に浮き出て、主役「丹下左膳」の「顔」が浮かび挙がっているように見えます。片目が刀傷で失明している姿も、敢えて指摘しないと、判らずに通り過ぎられるようです。みなさんで探してみて下さい。 記念館大河内伝次郎の写真展示 「記念館」もあり、「お食事処」も有ります。受付で貰った「お茶券」で、ゆっくりお菓子と「薄茶」で一服されるのも、心落ち着いて暫しの憩いとなりましょう。 次回は、トロッコ列車「嵐山駅」を経て、【常寂光寺】【落柿舎】へと参ります。
2019.03.14
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嵐山の景観に酔ってその後はいよいよ嵯峨野巡りに参りましょう 【嵯峨野巡り1】 歴史の真相は定かでは有りませんが、伝説では、いにしえにも女性の「哀話」が隠れています。そして【嵯峨野巡り】にも、静かに潜んでいます。従って女性には京都の観光で、一番人気があります。勿論春は桜、秋には紅葉の景勝地でも有ります。文化・詩歌にも史跡を見出し、世相の喧騒から人間らしさの原点に戻れそうでも有ります。 既に【嵐山】【渡月橋】そして【天龍寺】世界文化遺産はお話しました。特に 【琴聞き橋】と【小督局】は、筆頭に御紹介しました。 天龍寺を後にして、 「小柴垣」の道を歩み最初に辿り着いた社が嵯峨野巡りの入り口 野々宮神社本殿【野々宮神社】です祭神は「野宮大神」(天照皇大神)が祀られて居ます。「黒木の鳥居」をくぐるも、こじんまりした小柴垣に囲まれた神域で、小さい苔と池のある庭園も見られます。 苔の庭園 「伊勢神宮に仕える前に「斎宮」(さいぐう・いつきのみや)に選ばれた未婚の皇女が「潔斎」(けつさい)のため1年間篭られるそうです。 【源氏物語】第十帖樫木の巻(さかきのまき)に登場します。【光源氏】(ひかるげんじ)と【六条御息所】(ろくじょうみやすどころ)の別れの場面です。 光源氏(23歳)は少女のような「紫の上」と結婚したものの、気持ちが充たされなかった。それにつけても青春時代を埋めてくれた「六条御息所」(30歳)が愛おしかったその御息所(みやすどころ)が源氏を待ち切れず「斎宮」とともに伊勢神宮に下向するという。源氏は嵯峨野を尋ねて会おうとするも、会ってくれない。源氏は「榊」(さかき)を持って来て強引に会うことが出来たが「神聖な榊を折って来られたの」と責めて伊勢神宮の下向を思い止らなかった。源氏は、この年上の恋人の深い愛情を無視して心奢って、ないがしろしたことを悔いた。源融は、ほんの近い【嵯峨釈迦堂・清凉寺】に住まいしていました。【嵯峨野の竹薮の道】野々宮神社を後にして、小柴垣から。大らかな嵯峨野の竹薮の道を歩みます。とても豪壮な「孟宗竹」でコマーシャルの背景によく出てきます天龍寺拝観時の裏手出口周辺にこの素晴らしい竹林の景色が観られます 外人さんも真剣にシャツターを切っている姿を見かけます 孟宗竹林と小柴垣 「孟宗」とは、中国の古事【二十四孝】にでてきます。孝行息子【孟宗】 のお話です。「冬の雪の積もる季節に、母上が、筍を所望されました。孝行息子の誠意の念力と願いが適い竹薮から「筍」を掘り出す事が出来ました。それを聞いた村人は、感動して「孟宗竹」と名付けたそうです。ここでも中国の良い面があります昔の中国人は偉かった。でもこの程共産党トップ書記長が【習近平氏】に代わりましたが、日本との外交政策は、如何成るのでしょうか?互恵の政策が立てばよろしいが、支配の傾向がみられます。 次回は「大河内山荘」へご一緒しましょう。
2019.03.13
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本日から嵯峨野巡りの出発点天龍寺から始まりです思えば京都に足利将軍が建てた遺構に世界文化遺産が4カ所も有ったのですね 金閣・銀閣・天龍寺そして西芳寺です 庭園部門で特別名勝で、お寺さんの立札によれば国宝第1号とされています。 庭園の基礎的要素を初めて夢想国師によって天龍寺に造園されました。瀧 蓬莱山 石橋 鶴島 亀島 舟石国宝第一号(特別名勝)の曽源池【天龍寺】 【右京区】臨済宗天龍寺派本山 世界文化遺産に登録 開基 夢窓疎石 五山第1位庭園 特別名勝(国宝第1号の庭園)世界文化遺産の御紹介も清水寺・金閣寺・銀閣寺・龍安寺天龍寺まだまだ観尽くせませんね。嵐山渡月橋から「美空ひばり館」の前を経て、天龍寺に着きます。 【足利尊氏】が南北朝の戦で、吉野で崩御された【後醍醐天皇】の菩提を弔うために、開山【夢窓疎石】を迎えて建立されました。この地は、元々後醍醐天皇のご幼少の頃の学問所で御霊の安らぎを考えての尊氏の配慮と想いが有ったものと考えられます。建設資金捻出のために、途絶えていました中国「元」との貿易を再開し【天龍寺船】を往来して経済や文化の輸入にも貢献しました。私たちの高齢の歴史観 では天皇に背いた逆賊の謀反者と教わり、神戸湊川神社では、「ああ・忠臣楠氏の墓」と「楠正成」を謳歌してまいりました。でも京都でのお寺の遺される事で、過日に述べさせていただきました【等持院】は、尊氏一族「足利」の菩提寺で、「寺」と「院」では寺格が違い、尊氏の思い遣り、一歩引く謙虚さが、見えるように思えるのです。順路として「山門」から静かな敷地を歩み、心を静めます。1.【法堂】(はつとう)は選仏堂(座禅堂)ともいわれ、正面から覗きますと【釈迦・文殊・普賢三尊】と天井に【雲龍図】「加山又造画」が描かれています。 法堂 天井に龍の絵2.受付でパンフレットを見ますと表紙の庫裏の写真で、庫裏の実物を見上げながら、龍安寺でご説明させてもらった「懸魚」「蟇股」が大きく見られます。そして「三尊石」も在ります。 庫裏三尊石3.【方丈】白砂と苔の境界線で、「心字」が画かれています。屋根瓦の端には「天龍寺」の文字が設けられています。 方丈足利尊氏は夢想疎石を開山として後醍醐天皇の菩提寺として天龍寺を建てました 疎石は庭園師としても優れ 京都に数多く名園を遺しています4.【曹源池】 日本で最初の庭園形式に基づいて、 夢窓疎石が作庭した素晴しい庭園で、 嵐山愛宕山を借景して、更にスケールが大きく感じます。正面に枯山水「瀧」をそして「三尊石」日本最古の「石橋」周りに「鶴島」「亀島」そして「船石」と庭園の要素を採りいれています。嵐山を借景 愛宕山を借景寺のバンフレットの写真の写された情景 国宝第1号の曹源池5.「亀島」から道なりに進むと池にそそぐ「遣り水」(やりみず)が【曲水の宴】形式になっています。 亀島6.【多宝塔】 後醍醐天皇の尊像を安置、紫宸殿形式で、 左近の紅梅・右近の白梅が備わり、 多宝塔紫宸殿造りで左近の紅梅そして右近の白梅が配されています。宸殿のお部屋には後醍醐天皇の座像が祀られ その前庭の苔に包まれた小高い位置に後醍醐天皇の菩提塚が古びて立っています。 後醍醐天皇の菩提塚春には枝垂れ桜が美しく飾ります。 足利尊氏の並の天下人としては為し得ない思い遣りが史跡として未だに遺されています。女性に人気があります。明日から女性人気第一の嵯峨野巡りに入ります
2019.03.12
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本日より嵯峨野巡りの初めに、京都一とも言われる嵐山周辺の案外知られていない名所をご案内します。 【嵐山】 京都観光の「嵯峨野巡り」は、最も女性に人気が有ります。その入り口が【渡月橋】を含む此処「嵐山」です。「山紫水明の景勝地」として訪れる人々の心を遺憾なく癒してくれます。嵐山・渡月橋 大堰川の堰き 保津川 渡月橋より上流の景色保津川下りの船「角倉了以」 が「保津峡」を開削、豊かな渓谷は、JR「亀岡駅」からの「保津川下り」でも、スリル満点で、此処嵐山が「終着船着場」となっています。その船着場から、少し川上に、丘に登る階段が有り、少し上ったところに中国の「周恩来総理記念詩碑」が建っていますが有名な【雨中嵐山】の詩の表現は、嵐山の表現を遍く伝えて下さっています中国の要人が来日の際は、どんなに忙しい日程でも、此処を表敬訪問されます。過っては、「温家宝首相」が訪れられました。今は冷え切っています。 周恩来の碑「雨中嵐山」の詩が書かれています。更に「亀山公園」を登りますと「角倉了以」そして「津崎村岡局」の銅像あります特に村岡局は、嵯峨野「直指庵の創設者」で幕末の影の立役者でNHK大河ドラマ「篤姫」の味方・理解者でも有りました。 角倉了以の銅像保津川の開拓者 津崎村岡の銅像戻って、「渡月橋」は南北に架かっています。見所はブロの写真家が佇む京都市内から訪れた渡月橋の手前から嵐山を背景にシャツターチャンスです。そして渡月橋を南に渡った所から、川べりに降りて堰を含めて背景にお饅頭の様に丸く構えている「小倉山」 (小倉山百人一首)そのバックに「「愛宕山」が見える場所も一服の絵に成ります。 真ん中丸い山「小倉山」 此処から更に、南へそして石段を登りますと、「虚空蔵菩薩」(こくうぞうぼさつ)(知恵の仏)を祀る、【法輪寺】があります。地元での言い伝えですが子供さんたちの「七五三」のお祝いで智恵を授かる為に、法輪寺で祈祷して、渡月橋を南から北へ、「振り向かないで、渡り切ると、その子に智恵が授かる」ということで、子供たちは真剣な様子で前を見つめて渡る姿は、とても微笑ましいです。 川の名が渡月橋の上流・下流で堰と堰とで変わります。上から「保津川」「大堰川」そして「桂川」と嵐山の景勝を求めて、多くの観光客がお見えですがその殆どの方が、目にとまらないのが、渡月橋の北東詰に在る【琴きき橋跡碑】 黒田節の二節の歌詞の情景です 女性の哀話 渡月橋の北詰に碑が建っています。此処で源仲国が小督の琴の音を聴いたと偲ばれます。小督寓居跡渡月橋から直ぐの所にあります。此処には、嵯峨野の女性哀話の一つが静かに潜んでいます。あの有名な「黒田節」の二節に「峰の嵐か松風か、尋ぬるひとの琴の音か、駒引き止めて立ち寄れば、爪(つま)音高き【想夫恋】(そうふれん)」 宮中一の美人でお琴の名手であった 【小督局】 (こごうのつぼね)は、高倉天皇の寵愛を受けていましたが、中宮であった【徳子】(建礼門院)の父である「平清盛」は「わが娘をおいて何ごとぞ」と烈火のごとく怒り、小督を宮中から追い出してしまいました。高倉天皇は、愛しさのあまり部下の【源仲国】に命じて嵯峨野に身を隠していました小督局を探しに行かせました。嵯峨野の此処嵐山を訪れたころ、高倉天皇を恋い慕う想いを込めた【想夫恋】の琴の激しい曲が聞えてきました。そして出会って事情を話し、宮中へ連れ戻されました。今でも「国道1号線東山トンネル」西出口のそばにある、高倉天皇の御陵の側に天皇の遺言により眠っています。 小督局の屋敷跡が、渡月橋の少し川上の「局茶屋」の北側に碑が建てられています。馬を止めて琴の音を聴き入る仲国の姿がまぶたに浮かびそうです。 平家物語の一つです。明日から嵯峨野巡りに入ります本日の日記で、亀山公園に建てられた、周恩来さんの碑の詩の内容です。周恩来さんは、3年ほど、東京にある大学校に留学されその折にたまたま京都嵐山を訪問され、悩みに応えて呉れるような、嵐山の雨の中での、景観に詩を残されました。周恩来さんは、又中国に帰られ、首相として、田中角栄総理と日中正常化に調印され、国交が快復された方でもあります。一国の党首ともなる方が嵐山の景色で元気を取り戻されたとも思えます。最近でも、中国の要人の方が来日のときに、わざわざ表敬訪問されるほどの人柄だったのでしょうね。 【碑文】雨中嵐山-日本京都 一九一九年四月五日雨中二次遊嵐山、両岸蒼松,挟着幾株桜。到尽処突見-山高流出泉水緑如許、繞石照人。瀟瀟雨、霧濠濃;一線陽光穿雲出、愈見嬌妍。人間的万象真理、愈求愈模糊;-模糊中偶然見着一点光明、真愈覚嬌妍。 雨の中二度遊びに来ました。両岸には青い松がそして幾株かの桜の花が混じっていました。岸の道が尽きる処で、高い山が望めました。流れ出る泉は緑色に映り、石を巡って人の姿を照らしました。小雨は深々として降り、霧が濛々と漂よって居ました。一筋の太陽の光線が雲間から射し込みました。とてもなまめかしい光景でした。人として考えるに、森羅万象真理は、いよいよ求めれば求める程はっきりしませんがそのはっきりしない中でたまたま一点の光明を見出すことが出来れば、眞にいよいよなまめかしくあでやかで美しいものでした。
2019.03.11
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名神高速道路京都南インターを降りて直ぐの国道1号線沿いに城南宮が有ります比叡山を表鬼門(東北)とすれば、城南宮は裏鬼門(南西)に位置し平安遷都の行われた1200年前に、王城の守護の為にまつられ城南の宮となづけられました。平安時代後期には、交通の要所ともなり、 一寸法師が お椀の船から上陸したしたとする「鳥羽の津」は鴨川でちかくにあります【御伽草子】貴族の別荘地帯として繁栄白河法皇。鳥羽上皇、後白河上皇によって鳥羽離宮が栄え遷都のようだとも称されたほどです。城南宮 祭神 国常立尊 (くにのとこたちのみこと)八千矛神 (やちほこのかみ) 大国主命のこと息長帯日売命 (おきながたらしひめのみこと) 神功皇后のこと今回は紅白の枝垂れ梅が見ごろとしてNHKで放映されましたので取材に行って参りました。 本殿前の鳥居 本殿 右に神楽殿たまたま15分前に着き、恵まれました 巫女による御神楽の舞が観られました 鈴の音がとても澄み切って清らかで神聖な雰囲気で一人ひとりにお守りを授けられていました 紅白の枝垂れ梅 神域の池 五葉の松室町時代の庭緋鯉が和やかです 城南宮は、四季に訪れる対象が有ります 詩歌にも富み、曲水の宴が年に2回あり、人出が多くとても写真が撮れるもので無かったです。かねがねから訪問したかった、白河天皇そして鳥羽天皇の御陵をやっと取材することが出来ました800年前の平清盛の時代が蘇ります。 平家物語 権力者でありながらもののけには弱い【天下三如意】 ままにならなかったこと加茂の川を逆流させられない事賽の目比叡の僧兵言い返せばそのほかの権勢は思いりまま傲慢過ぎた天皇 白河天皇御陵 鳥羽天皇御陵後白河天皇の尊父城南宮の近く100mの場所に夫々今は静かに眠っておられます。 明日はいよいよ嵯峨野巡りの基点嵐山公園天龍寺から半月嵯峨野を更新していきたいと思います
2019.03.10
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徳川家康には、日光東照宮という、豪華な祀られた場所がありますが織田信長の祀られた此処建勲神社は、人知れず密かに建っています。 枯山水の庭園と茶室に恵まれた大徳寺を出ますと近くに織田信長を祀る 【建勲神社】 があります。 建勲神社 (けんくんじんじゃ)または(たけいさおじんじゃ)入り口の鳥居平地から石段を可也登っていきます。偉い人は高いところを好むののでしょうか。 石段の参道 参道 幾つか屈折した石段の最上部やっと石段の参道を登りつめました。本殿が見えてきました。 本殿で静まり返っています 本殿からは、京都の都が見下ろせる位置に鎮座まします。本殿前からの写真です、彼方に大文字山がみえます。本殿の境内は広くその奥に隣接した、市民の広場が開けます【船岡山】 と称します。昨日ご紹介しました大徳寺塔頭の弧蓬庵(こほうあん)は寺院の庭園の借景として、船岡山を小堀遠州は採り入れています。頂上ではこのラジオで朝のラジオ体操がおこなわれています。 頂上広場頂上からは、京都市街並びに御室嵯峨方面の北山連峰が見えます。 京都市街 御室・嵯峨北山連峰 一番奥が愛宕山船岡山を西に降りますと、金閣寺が直ぐ側です。賑わいの陰にひっそりと佇んでいます。船岡山は中国の風水によりますと、京の都の基点になり、二条城側の神泉苑に風水の瑞線が繋がっていると言う、神聖な山とも言い伝えられています。都の西北に織田信長の神社がそして明治維新以降に建てられた豊臣秀吉の豊国神社が東南に斜線で繋がっているのも偶然でしょうか。平安遷都で、都造りにも、中国の易を大切に、【四神相応】【風水】を基盤に、厄害呪い等を避けるべく大切に扱いました船岡山は、風水の霊地として存在価値があります。四神 百虎(東) 西龍(西) 朱雀(南) 玄武(北)亀・黒現在の【千本通】゛風水の道で、都が出来たときの大内裏から朱雀大路(100m幅)が広がっていました。現在城南宮の枝垂れ紅白の梅が人気が有り明日更新します
2019.03.09
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大徳寺塔頭では、初めての公開とも云える二ヶ所をたまたま訪問することができました。金毛閣の直ぐ側に建てられている興臨院に先ずまいりましょう【興臨院】石川県能登の戦国大名 畠山義総 の戒名からの命名で畠山家の菩提寺です。火災に逢いその後加賀の前田利家により再興以後前田家の菩提寺でもあります。興臨院唐門は室町時代のものムラサキシキブ方丈庭園蓬莱山方丈裏の庭園 もみじ みつけました茶室【黄梅院】 織田信長公28歳のころその父君 織田信秀の追善菩提のため当時の羽柴秀吉により小庵を造営しました。 開祖の僧の出身地中国黄梅県破頭山により寺名がつけられました。従って日本の禅寺で一番古いとされています。秀吉は、庭園として千利休に命じ【直忠庭】を遺しています。三尊石を中心に広々とした苔の庭でした。後に信長公が本能寺の変で急逝するや、庵では、小さいとして【総見院】 を建て大徳寺焼香も盛大に催しました。後に、毛利元就の子小早川隆影が普請奉行となって、両親元就夫婦の墓も信秀と共にあります。庵を院に改めました。寺格として 寺・院・庵・坊・軒黄梅院の入れ口玄関前の苔庭参道間口は小さいので小さい寺院と思いました女性群写真撮って居ます。もみじがありました茶室直中庭回廊があって向かいまで廻ります。広さを感じます。恐らく織田信長の菩提寺総見院と同じ広さ枯山水の一部破頭庭の方丈枯山水三尊石と一直線の砂の紋単純的ですが中国の景勝地そして厳しさの伝統を忍ばせます 大徳寺の時代を偲ぶに相応しい訪問でした明日は織田信長を祀る建勲神社に参ります
2019.03.08
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大徳寺塔頭その6 大徳寺は非公開寺院が殆どですが今回主役ともいえる千利休の菩提寺を特別公開で訪れました。今回大徳寺の魅力に皆さんの関心がことのほか多大で多くのアクセス戴き 感謝一杯です 【聚光院】 (じゅこういん)織田信長が眠る、【総見院】の東隣に位置します。 【方丈の襖絵】狩野永徳画 4箇所 国宝指定 聚光院の門聚光院の玄関千利休の墓京都に住みそして観光に何回か大徳寺を訪れましたが、87歳にして初めて、念願の千利休さんのお墓詣でが実現しました。 真珠庵 (しんじゅあん) 真珠庵 特別公開 一休さんの寺左参道は、【大仙院】です真珠庵の入口受付の女の方に尋ねましたが、此処も庭園全て撮影禁止でお寺さんが決めておられるのでとのことでどうもとで、諦めました。七五三の庭園が有名で、一休さんが僧侶として務められたお寺でもあります。大仙院前のもみじです 狐篷庵 (こほうあん) 非公開寺院大徳寺境内を西へ出たところに今宮神社が゛ありました。【狐篷庵】です。 【狐篷】とは、中国でよく見かける、苫の屋根で作った舟をいみします。映像は、Google画像 狐篷庵で見られます。 狐篷庵境内狐篷庵玄関狐篷庵大徳寺への参道 大徳寺境内より、飛び地になったやはり塔頭の【狐篷庵】が今宮神社の参道を越えたところに位置します。此処も非公開で、特別に予約して、見せていただいても、撮影は全て禁止で、とても残念です。 大徳寺は、戦国時代の各武将家の菩提寺が集結しています。でも此処には、豊臣も徳川もありません。 「小堀遠州」が故郷「近江八景」を庭園に作庭。「船岡山」を借景に採り入れています。茶室 【忘筌】 (ぼうせん)中国の諺に「得魚忘筌・得兎忘蹄」 (とくぎょぼうせん・とくどぼうてい)があり、其の中から名付けられたようです。説明では茶人の心得といわれました。魚や、兎を手にすると、人は、お世話になった魚や兎捕獲の器に感謝する事を忘れてしまう。戒めとも考えられます。功成れば師の恩を忘れてしまいがちの戒めでしょうか。中国の漢詩は、随所に、ことば短くして至言を伝えます。中国の歴史に、何故中国の人たちは、誇りを持てないのでしょうか、次回大徳寺最終回を更新します
2019.03.07
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戦国時代が最も歴史で様変わりのある時代でした。 織田信長 鳴かぬなら 殺してしまえホトトギス 豊臣秀吉 鳴かぬなら 鳴かせてみせようホトトギス 徳川家康 鳴かぬなら 鳴くまで待とうホトトギス臨済宗(禅宗)の寺院は、京都に世界文化遺産17箇所の内、 金閣寺・銀閣寺・天龍寺・龍安寺・西芳寺と5箇所含まれるほどに、文化的に高く評価されている傾向にあります。大徳寺シリーズも今回まで、此処だけでも心が和みます。大徳寺では、多くの塔頭が有りますが、特別公開以外には4箇所の常時拝観できる塔頭(たつちゅう)が有ります。【大仙院】【高桐院】【瑞峯院】そして【竜源院】です。【大徳寺5.】【竜源院】 大徳寺塔頭能登の畠山氏、豊後の大友氏、周防の大内氏が建立しました。 参道本堂は、室町時代最古の応仁の乱以前に建てられた禅宗方丈建築で 本堂庭園は土塀を背景にした飾り気のない枯山水の竜吟庭と苔庭と一枝坦(いっしたん)そして小さい壷庭があります。 竜吟庭 苔庭 一枝坦の庭園 壷庭 部屋には豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝える碁盤があります 秀吉と家康が対戦したという豪華な碁盤臨済宗禅宗の寺院では、龍の絵画を大切に表現しています。庭園の清掃は行き届き、観る人の心に清浄感を与えます。次回は、今回初めて、特別公開した塔頭で【黄梅院】撮影禁止撮影は遠慮してくださいとされていました
2019.03.06
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大徳寺山内の 【呑湖閣】(どんこかく)を求めて始めて写真に収められました【芳春院】 1608(慶長13年)加賀の前田利家夫人松子の法名 芳春院の創建 現在の建物は明治以降の再建です呑湖閣花頭窓が美しい 渡り廊下打月橋と小堀遠州作庭の 飽雲池加賀から京の都に参上するたびに琵琶湖を通り遥か山を越えて望まれたようです 参道門の屋根に加賀百万石の家紋梅の花が飾られていました 方丈庭園の入口の花頭窓方丈庭園縁側から西方向三尊石の石組みが観られます 楼閣山水園岩組です 泳ぐ鯉が和やかです右手は茶室【霊屋】非公開 前田利家と松子芳春院尼 息子利常が祀られているそうです 京都四閣金閣銀閣飛雲閣 西本願寺 呑湖閣 芳春院何れも池の伴なっていることに共通な面が有ることに気付きました明日から又大徳寺の続きとなります
2019.03.05
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昨日のキリシタン 細川ガラシャ夫人についで大徳寺境内にはキリスト教禁令の中での大友宗麟の菩提寺をご紹介します。 枯山水の庭園で、荒波をあしらった表現は珍しく印象に深く残ります。私の最も好きな枯山水です。 【瑞峯院】(ずいほういん)公開キリシタン大名【大友宗麟】(おおともそうりん)が菩提寺として建てました。豊後の戦国武将大分出身霊名 ドン・フランシスコ瑞峯院は禅宗の戒名から名付けられています。 枯山水の庭園でも 怒涛逆巻く 砂紋の激しさは 類例がありません禁令下のキリスト教 そして戦国時代を象徴しているようです玄関入り口 禅宗の入り口に【韋駄天】が祀られ守護されています。 坪庭庭園の一箇所に、十字架の庭がわかり易く、鑑賞出来ます。 十字架の庭石組みが斜めに十字架と組まれていますが隠れた形で信仰を保っています。何と云っても【方丈庭園】は、枯山水で、荒波が岬に。怒涛の如く押し寄せる風景に、砂をするどく、深めに形作っています外に類例が無い、豪壮な姿を表現しています。 方丈庭園・枯山水の怒涛逆巻く豪壮な砂の彫り方は他に類例ありません。信仰を貫く精神が垣間見られて、私の最も好みの枯山水です。茶室で国宝は3箇所その一つ、大山崎に有る【待庵】(たいあん)のモデルが新装なり、特別に申し込まれましたならば観られると思います。【聚光院】 (じゅこういん)非公開 千利休・三千家の墓有り菩提寺。 【龍光院】 黒田長政が父官兵衛(如水)の菩提のために建てました。 大河ドラマ 黒田官兵衛の菩提寺に国宝茶室もあったのですね。非公開寺院長政もキリシタン大名で、官兵衛も洗礼名シメオン 如水の別名も旧約聖書から採り入れたもの 日本国宝三茶室 【蜜庵】 (みつたん)が有ります。 外に愛知県犬山市 【如庵】 (じょあん) そして京都府大山崎の 【待庵】 (たいあん)です。 【三玄院】 非公開 石田三成の墓があります。【芳春院】非公開 前田利家夫人芳春院の創建です。【呑湖閣】(どんこかく)小堀遠州作といわれ、前田家は、上洛の際「琵琶湖」に関係有り金閣・銀閣・飛雲閣(西本願寺)と京都の四閣にあたります。特別拝観時観られます。 塔頭が外にもあり、何れも織田信長・豊臣秀吉に関係した武将達の菩提寺で、「茶室」もあり、京都では、【大徳寺】 を 一名 【茶面】 (ちゃづら)とも云われています。明日に続きます
2019.03.04
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大徳寺塔頭で日頃より常時拝観できるのは大仙院・高桐院・瑞峰院そして竜源院です後はときにより特別拝観で観ることも出来ます 【大仙院】 塔頭で公開している中で最も大きく、見所も多いです。入り口の隣に一休禅師の住持された【真珠庵】が有ります。非公開で特別公開の時は、七五三の石組みの庭園などが観られます。受付でで、ブログ取材のため写真をと尋ねましたが、庭園すら撮影禁止で皆様にはご紹介出来ず残念です。 大仙院臨済宗(禅宗)の寺院を訪問するときに、掃除の行き届いている姿に驚き且つ気持ちよく拝観が出来ることに幸せを感じます。禅宗では、座禅を主としますが、日常の「作務」(さむ)として特に掃除する事を大切にされます。 「大仙院」の入り口を入ると、お釈迦さんに関係する樹が植わっています。一つは「菩提樹」で、お釈迦さんが、こ樹の下でよくお説教なさったそうで、他の一つは「沙羅双樹」で、お釈迦さんが、亡くなられたときに回りに有った樹とされています。「涅槃図」(ねはんず)に良く出てきます。更に門をくぐると、十二支に因んだ石が、各方向に並べて有ります。庫裏の入り口に【何妨】(かほう)の額が掛っていました。禅宗では来訪者は、どなたでもさまたげないの意味だそうです 受付を済ますと、直ぐに【庭園】に遭遇します。【特別名勝・史跡】ですから国宝級です。 院内庭園も含め撮影禁止でみなさまにご紹介できず残念です。渡り廊下の【花頭窓】から【透渡殿】(すいわたどの)が庭園の中心にあり、それを通して、枯山水の絵が美しく、瀧の滔々と流れる姿を想像させます。そして下流には、船石が有り、何れは【方丈庭園】の白川砂で広がる、大海へとそそぐ形式を採っています。 庭園の中程の茶室は過って「豊臣秀吉」と「千利休」が対峙した場所で、当時何を語り合ったのか、考えさせられます。「鶴島」「亀島」そして「石橋」もあり。庭園の要素を全て整っています。 方丈の北側には、【拾雲軒】(しょううんけん)が有り。 「沢庵禅師」の書院で宮本武蔵」とも対面したことでしょう。 【方丈】(本堂)は【国宝】襖絵 【四季花鳥の図】狩野元信筆 【四季耕作の図】狩野之信筆 【四季山水の図】相阿弥 筆広々した方丈庭園も、座して暫し眺めますと心が静まります。右奥に【沙羅双樹】が配置されています。わが国の歴史では、「踏み絵」等でキリスト教徒への、弾圧が厳しく公には信仰を保てなかった中で、此処大徳寺の塔頭で2箇所公に信仰を守もろうとした人物の菩提寺が有ります。一つは瑞峰院そして高桐院です。【高桐院】(こうとういん)【細川ガラシャ夫人】です。公開しています明智光秀の娘で、千利休の七哲の一人細川忠興の正室【玉】でした。石田三成の「人質政策」に反抗して死を選ぶ際に、キリスト教徒は、自殺は禁じられていますので、家臣の刃で亡くなりました。【欠灯篭】 豊臣秀吉の名石狩りをさけるためと、 銘に「無双」と印し完全を忌(い)む公自身が一部を欠いたそうです。茶室【松向軒】(しょうこうけん)は、黒壁で質素に造られています。高桐院の入り口参道・玄関庭園細川忠興とガラシャ夫人の墓所今は、安らかに憩われておられることでしょう明日も大徳寺の塔頭を続けます
2019.03.03
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豊臣秀吉は天下人目当てに主の織田信長の葬儀も、シメヤカに営なまず。自己誇示のための全国の諸将に号令して、総見院の前でいわゆる【大焼香】をしました。功績と捉えればこの大徳寺には最も大切に菩提寺が有ってしかるべしその上心の師匠千利休をも切腹に追いやりました。石田三成の菩提寺すら有りながら、秀吉の菩提寺は有りません。大焼香の前には、その横暴さに僧侶の中で秀吉暗殺計画もあったそうでその師匠によって未然に防止されたほどで、当時の世情が察せられそうです。豊臣秀吉と千利休、大仙院でお茶をかわしたとされる部屋が ありました。美しい枯山水の庭園を眺めながら、然し秀吉には自分より秀でる者をも疎みました。利休の弟子が「金毛閣」の二階に師匠を崇める木像を安置、その門を秀吉に潜らしたと難癖を付け怒って切腹を命じてしまいました。利休のことなら、誤ってくれるだろうと信じての 戯言、でも理は通らずお前が頭さえ下げてくれればそれで済む事じゃ。頼む」と事の重大さを知りましたが、時は遅く利休は切腹を選びました。 1582年豊臣秀吉は、全国大名に対しての威信を保つ為、主人「織田信長」 の葬儀を 「総見院」 で執り行いました。いわゆる 【大徳寺焼香】 として歴史に残されていますたまたま、特別公開に恵まれ写真が撮れました。日頃は、非公開寺院のため、中には入れません。総見院 入り口の門本堂茶室茶室織田信長一家の墓中央織田信長長男信忠 そして向かって左端には濃姫も 千利休と茶道にも関係あり、利休の墓は、総見院に隣接して 「聚光院」にあり各塔頭には、夫々「茶室」が設けています。豊臣秀吉に関係する緒大名が競って塔頭を建てました。何故か「石田三成」も大徳寺法堂の向かいに墓も有ります。 石田三成の墓所大徳寺七堂伽藍の法堂の向かいに存在します400余年前戦国時代の歴史的出来事が 各菩提寺の存在で語られているようにその足跡の何かと判じさせてくれているようです明日も塔頭7回更新します
2019.03.02
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3月に入りました大徳寺8回分更新します足利義満の決めた五山を断った京の禅寺 禅宗・臨済宗大徳寺派の本山に参ります。戦国時代の将者の菩提寺になっています。何故か豊臣秀吉の名は有りません。然し今年の大河ドラマ真田幸村に登場するでしょう石田三成の墓所は何故かあります 【大徳寺】 済宗大徳寺 開基 宗峰妙超 (大燈国師) 山号 龍宝山紫野大徳寺と言う、広い境内の中に21の塔頭 (たっちゅう)が有ります。殆どが一般公開されていませんが、4箇所は、常に公開されていますので、序々に訪れたいです。 先ず本坊からまいりましょう。「大燈国師」により、創建され、位も臨済宗として「五山」の上位に有りましたが、三代足利義満により、十刹(じゅうさつ)の内9位に寺格を下げられた為、辞しました。現代「南禅寺」が「五山」の上位にされたままです。応仁の乱で、焼土化し衰退しましたが、一休宗純により、難波堺の豪商の支持で再建されました。一休さんの庵は、「大仙院」の隣に「真珠庵」として今も残されています。 千利休と茶道にも関係あり、利休の墓は、「聚光院」 にあり各塔頭には、夫々「茶室」が設けています。豊臣秀吉に関係する緒大名が競って塔頭を建てました。 【大徳寺の七堂伽藍】 (ひちどうがらん)【勅使門】 御所の陽明門を後に下賜されました。桃山時代の遺構です。 勅使門 【三門・金毛閣】 (きんもうかく)初め初層のみの唐様の三門の上に「利休」の弟子たちが上層の【金毛閣】を建て増し、「利休像を置きました。そして秀吉をその門をくぐらしたことから、秀吉の逆鱗に触れ、遂に切腹の原因の一つと成りました秀吉は、自分より秀でる者は難癖をつけても押さえつけたいとして敢えてと承知で三門を潜りました。切腹を命ずれば利休もきっと命乞いすると踏みました然し、利休は泰然として切腹を選びました。秀吉は慌てて「頼むから頭だけ下げてくれればすむことじゃ」利休に懇願するも時遅く、素晴らしい側近の味方を失いました 金毛閣【仏殿】(本堂) 本尊 釈迦如来 狩野元信の図があります。 仏殿の釈迦如来本尊 【法堂】(はっとう)法要を営む狩野探幽の龍の図があります。 法堂【浴室】昔、和尚さんが入浴された場所。浴室【経蔵】(きょうぞう)天平時代から、南北朝時代の写経が納められています。経蔵【鐘楼】(しょうろう)この鐘の合図で、現在も一山の和尚さんたちの諸行事に、出頭されます。【大徳寺本坊】 (非公開)【唐門】 本坊に据え付けられています。「聚楽第」(関白豊臣秀勝の御殿)の遺構とされています。本坊が非公開でも、外から観られます。獅子・松・孔雀・滝に鯉。見渡している内に日が暮れると言うところから、【日暮門】とも言われています。 七堂伽藍の参道順次、大徳寺境内にある、塔頭をご紹介してまいります
2019.03.01
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