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2022.12.24
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カテゴリ: 報徳
『引佐麁玉有功者列伝』「三老農伝」に松嶋授三郎の事績が述べられている。

・常におもえらく人民の怠惰に流るるは以て救わざるべからず。農桑の振るわざるは以て興さざるべからず。人心これ危うく道心これ微なるは以て復さざるべからず。
・よって明治15年9月率先して氏の居村に西遠農学社を組織す。
・務める所は報徳の道と農桑とを世に拡張せんとするにあり。

松嶋授三郎は遠江国豊田郡羽鳥村の人なり。明治8年引佐郡伊平村に移住す。家、薬舗を以て業とすれどもその志は尋常商人の類に非ず。明治12年中、伊平村に博徒大いに跋扈し村の良民を駆って法網に陥らんとする景況を現じ、惰民の巣窟と化し去らんとす。村長山本宗次郎等これを憂い、氏にこれを救う術を問う。氏答えて曰く、それ民を治めるは水を治めるが如し。速やかに功を奏せんとすればかえって破る憂いあり。しかず、徐ろに計を為さんにはと。よって詳しくその術を述ぶ。村長深くその計に感じ、村民を導くことを氏に託す。ここにおいて氏は野末九八郎と謀り、一社を組織し名付けて農学誠報社という。野末氏を推して社長と為す。その主とする所、専ら農桑を励まし道徳を講じ村民を化するを基とし、尽力数年、村民をして遂に敦厚の俗に帰らしむ。明治14年9月大迫県令より金円を賜り以て誠報社の有効を称せらる。氏、常におもえらく人民の怠惰に流るるは以て救わざるべからず。農桑の振るわざるは以て興さざるべからず。人心これ危うく道心これ微なるは以て復さざるべからず。然れどもこれ皆な起るの日に起るにあらず。その由って来る所についてこれが計を施さずんばその好果を観ざるなりと。よって明治15年9月率先して氏の居村に西遠農学社を組織す。その主意とする所、農学の研磨に在りといえども、傍ら道学の講究を兼ねる。氏は又その自邸内に夜学を開き、学生数十名を教授す。書籍器具その他薪炭油等の費用悉く氏の支弁する所なり。始め西遠農学社を起さんとするや賛助者と共に東西に奔走し社員を募りしが至る所続々賛成を得。その数既に千有余名に至る。なおその有効を聞き加盟を乞う者、日一日に増加するを以て更に同郡気賀奥山の両所に支社を設け連月一回常会を開き、かつ各地有志者の乞いにより、氏は社員を率いて派出し余日無し。今や氏の説いて聞かんとする者、遠州の佐野周智豊田長上敷知麁玉引佐の七郡及び三河の八名設楽二郡にまたがり、その開会にあたりては来会する者、多きは七八百名の上に出、少なきも百名を下らず。これを県内に及ぼすその状あるは本社の組織よろしきを得、その効果現れ公衆の便少なからざるを以てなり。明治16年11月余(松島十湖)公務を以て静岡に赴き永峯大書記官に謁し、語のついでに本社の事に及べり。永峯君大いにこれを嘉みしい維持金として金若干を下賜せられ、ついで関口静岡県令も金円及び直筆の書を賜う。ああ西遠農学社のこの好果を来たしこの栄えて得ざるものは氏率先これを鼓舞するに非ずんば何ぞこの境域に進むを得んや。然るに氏はこれを自負する色無きのみならず、かえって我が功の発露を恐るるものの如し。以て氏の謙譲を察すべし。
明治元年数月雨が続き天竜川の堤防決壊し数十か村に氾濫し田圃家屋を流亡す。豊田郡中善地羽鳥石原の諸村その害甚だし。石原村の如きは耕すに地なく食うに食物なく活路を失する者、全村中ほぼ半に居る。皆な里正小栗清九郎の門に号泣し哀れみを乞う。里正これを松嶋氏に謀る。氏曰く「乞う一百金を余に貸せ。余これを以て窮民をして業に就くを得せしめん」と。里正曰く「一百金を以て今多くの民命を救うを得ば、我れ何ぞこれを惜しまん。然りと雖もこれを窮民に分配すれば僅かに一二両に過ぎず。何を以てかその凍え飢えを救うを得んや」。氏笑いて曰く「我に策あり。憂えるなかれ」と。下石田村の神谷與平次とはかり、窮民を集めて言う。「時まさに寒し。老幼は業を郊野に執り難し。ああ壮者よ、今この窮に逢う、以て非常の勉励すべし。以て非常の艱苦を忍ぶべし。我いま衆のため一策あり。わが為す所にならい決して背くなかれ」。よって衆を鼓舞し自らもっこをにない、水害に罹る荒蕪地起返しに従事し、衆と艱苦を共にし、終日安んぜず、然してその得る所の賃銭を以て各々その家族を養わしむ。なお足らざる者は里正に乞うて米麦を与う。この如くすること同年12月より翌年4月に至り、麦の熟するに逢う。遂に数十人の窮を救うを得たり。
明治18年7月、風雨暴烈連旬にわたり天竜川の堤防決壊し豊田郡西部及び長上郡の村落は洋々とし海門と通ずるに至れり。時これ田植えに際し早き者はすでにし遅き者は未だし。旬余水減ずと雖も稲の苗腐敗し生育の状なし。氏曰く「ああ緩急相救うは人生の通義なり。況や我が輩身心を農業にまかす者にして傍観する時ならんや」。名倉藤三郎・早戸仙次郎・井村又三郎等及び西遠農学社社員に謀り東奔西走昼夜の別なくようやくにして各戸に就てその残苗を集め、二万四千八百有余把を得たり。直ちにこれを被害村落に贈りてその窮を救えり。
氏の人となり、勇壮活発、好んで人の嘉言善行を挙げ、道義を講じ、殖産興業を談ず。その談論するにあたりてや雄弁快舌、聞く者感嘆せざるなし。然れども人あり、その経歴する処を問えば笑いて答えず。強いて問えば我某年、某の家政頽廃に就かんとするを見てこれを挽回せんと欲しかえって失敗せり。我れ羽鳥村に在りし時、全村に関せし訴訟あり。総代に選ばれ中泉県令の庁に到り大いに悟る所あり。遂に総代の任を辞し、以来訴訟の事に関わらず等の数事を以てするのみ。
安政三年の頃安居院庄七・浅田勇次郎が下石田村神谷與平次の求めに応じ報徳の教えを講ずるや、氏は神谷氏に紹介を乞い両氏の門に入る。時に21歳なり。両氏没する後、同門先覚の人に就き奥義を究む。自任し務める所は報徳の道と農桑とを世に拡張せんとするにあり。





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最終更新日  2022.12.24 01:15:47


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