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2025.03.28
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カテゴリ: 坐禅
「沢木興道 この古心の人」より

p.294-305

6 丘宗潭和尚との出逢い

丘老師に経行(きんひん)を問う

興道は質問した

 坐禅の坐より起って、静かに呼吸をあわせ、歩幅は一呼吸に半歩の割合で進む。
これは『宝慶記(ほうきょうき)』に一息半趺(いっそくはんぷ)とあるだけで、どういうふうに足を運んだらいいものか、図解したものがなく、色々な流儀が現れた。

 丘老師は実際に経行をやってみせた。
「最初の一呼吸に、まず右足を半歩だし、次の一呼吸に左足を半歩進めて右足にそろえる。


 丘老師は興道の大器を見抜き、伝戒会が終わってお別れの時に特に興道に一偈
を与えた。

「興道力生在正法寺伝戒会聴万仭老師著三物秘弁、於送行賦一律贈」


 馬降松逕飲 猿坐石頭眼
 半月忻同会 一朝惜別緑
 好時差過易 修道著方便
  大正二年五月二十七日 霞丘初艸

あらゐ日記
丘宗潭老師  西有穆山禅師  日置黙仙老師

丘宗潭(曹洞宗大学 現在は駒沢大学 学長 )老師の禅戒鈔講話を拝読させていただいた。
禅戒鈔は、江戸時代の万仭和尚(ばんじんおしょう)が著されたものだ。

丘老師が、修行僧の小参(しょうさん、疑問を尋ねること)を受けた。
僧 「一大事(仏教の肝心であり、人生で大事なこと)をお示しください」 
丘 「一大事、何、貴様のか」 
僧 「私の一大事です」 
丘 「貴様一人くらい、どうだっていいじゃないか ワハハ」


 丘老師の、「自利の小を捨て、利他の大を取るが菩薩の慈悲だ。おのれのために社会を犠牲にするは悪い。おのれを犠牲にして、社会を救済するが菩薩だ」
 「法華の文に皆是とある以上は、亡者も皆是の一つなれば、仏の救済にもるることなし。、、、皆是という以上は、存者は救済するが、亡者は救済せぬといふことはないことが解る。決して亡者を捨てぬから、亡者得脱うたがひなし。」という言葉が特に印象に残った。
自分一人が一所懸命に行ずる坐禅が、自分自身に知覚はできないが、世界中の一切衆生、亡くなられた方、すべての生き物までも救っているところがあるのですね。(大自然生命、生命的生命全てと、つながるから)

 『道元禅師の和歌』
 守るとも覚えずながら小山田の いたづらならんかがし(田んぼのかかしのこと)なりけり (行住坐臥を詠ず) 
 おろかなるわれは仏にならずとも 衆生を渡す僧の身ならん
 徒に(いたづらに)過す月日は多けれど 道をもとむる時ぞ少なき
 植えて見よ 花のそだたぬ里もなし 心かよふぞ身はいやしけれ
 草庵(くさのいほ)に起きてもねても申すこと われより先に人を渡さん 

 接心(朝4時から夜9時までの坐禅が3〜7日ほど続く)に通っていたとき、コロンビア大学の学生さんが二人、熱心に同じスケジュールで坐禅していた。
その時、「西洋では、禅、正法眼蔵は、宗教ではなくて哲学と受けとめられている」と話していた。日本においては、私自身もそうだが、宗教と聞いただけで嫌な気持ちになる人が多いので、哲学で良いのではないかと感じる。人生にとって大切なことを科学、哲学から批判し疑い修正しつつ、淡々と学び、精神を深め、広く、大きくしていく必要があると思う。しかし坐禅の「行」が大切だということは、忘れてはいけないと思っている。

○「わしでも骨にこたえるようにつらいこともあった。
そんなとき、まるで呪文のように、貴様一人ぐらい、どうでもええじゃないかという声が耳底に響いて、それが勇気の源泉になった。
 実際、大変だ大変だというけれども、なあに、一つとして大したことなどありはせん。どうでもよいことに振り回されているだけだ」





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最終更新日  2025.03.28 13:00:10


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