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2025.03.30
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カテゴリ: 報徳の歌
「報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 
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7 推譲の歌 (113頁)

さして行く棹(さお)の取り手の渡し船 思う方にはとく着きにけり

この歌は水戸中納言徳川斉昭が詠んだ歌です。
詞書に「下総国取手宿のご本陣へ通行の節に示し置かれた歌」と附して三才独楽集に載せられたものである。
 水戸斉昭公は天保9年4月に何年も待ち望んだ初の国入りで」、その逸る心の身を乗せた渡し船が、案外早く目指す向こう岸に着いたと喜びをあらわした歌です。


茨城県立歴史館学芸第二室長仲田氏が、明治21年74歳の加藤木賞三が、二宮尊徳先生との巡り合わせを追憶した文書について紹介された話がでていた。

嘉永6年(1853)の春、水戸藩士 加藤木賞三 は懇意にしていた剣客の斎藤彌九郎から、
「二宮尊徳先生が、幕府から日光東照宮の神領(89ヶ村、4064町歩)の荒蕪地(神領の約4分の1)開墾、その他領内の荒廃した農村復興対策実施を命ぜられている。
今年8月には現地に住み着き、事業着手の予定である。
ついては自分と共に働く適当な人物を見つけてほしいと、尊徳先生から頼まれて、色々と考えた末、貴殿を推薦したい。



しかし、藩のため江戸で働いている身分である。国元に居る目上の人々(戸田忠敝・藤田東湖・桑原治兵衛等)にも相談の上、答えることとした。
水戸に問合せたところ、何れからも賛成の返事があった。

その結果、二宮先生から、ともかく面談をということで、斎藤氏の紹介状を持って、嘉永6年4月17日先生のお宅を訪問した。
尊徳先生の色々な話を聞くうちに感動し、ぜひ自分を随行させていただきたいと頼んだ。
折りから当日は、東照宮の大祭日にあたり、お神酒を一献やろうと引き留め
られ、質素な肴(鰹節を削ったのに醤油をかけ、豆腐と蕗の煮付けの三品)で、尊徳先生と酒を酌み交した。
その後、再三先生を訪ね、その都度有益な話を伺い、先生に随行しようという決意を、いよいよ固くした。

ところが、この年6月3日ペリーの率いるアメリカ艦隊の浦賀入港によって、天下が騒然となった。
加藤木賞三は、国元の水戸から要求される情報の蒐集とその報告のため、極めて多忙となった(藤田と戸田が、幕府の防海参与となった斉昭に召されて、江戸に入ったのは7月19日であった)。
しかも水戸からは、情勢の急変を理由に、二宮尊徳先生に随行する件を断るよう指示してきたのだ。
己むを得ず、賞三は水戸よりの書面を見せ、二宮先生も最後は余儀ないことと了承された。

この時二宮尊徳先生は、賞三に対して大要次の通りに説いた。

国家の一大事に際し、余儀ないことではあるが、既に懇意となった貴殿に、この際私の考えを率直に申したい。
貴殿が水戸藩にて、どのような身分かは詳しく知らないが、その職務が貴藩の進退を左右するほどのものではあるまい。
世の成り行きは、誰がどう思っても、勢の赴くところに落ち着くもので、藩の家老職とても思うようにはならない。
私は幕府の小吏に過ぎないが、現在の任務に専念して他事を顧みず、事業を成功させたいの一念である。
もっとも国防のため馳せ参じよとの命があれば、開墾の仕事を放棄して、それに従うが、そのようなことはありえない。
あの天下分け目の関ケ原の戦いに際しても、検地に従事していた武士は、そのまま仕事を続けていたという。
現在のように、誰も彼もが、戦いにかかわったのではない。」


賞三はその折の尊徳の心添えを想起して、大要次の通り述べている。
当時自分は、未だ40歳前で思慮も浅く、先生の懇切なお話も肝に銘じることがなかった。
『事あらば今にも出陣して外国人をみな殺ししよう等の空言』を唱えていた。
しかし年を経るに従って尊徳先生の見識・才能・力量の偉大さを深く感じた。
あの時、先生の意見に従って事業に勉励するに年月を経たならば、いかに不肖の自分であっても、その器量に応じただけには得るところもあり、いささか国家へ利益を施す事もあったものをと、昔年を顧みて慙愧後悔することが毎度であった
」と言ったという。そして、

なにひとつ 世になすことも ななそじに
 あまるよはひと 老い朽ちにけり
」との一首を書き添えた。

加藤木賞三は、明治維新後、静岡藩(後に県)の士族授産(開墾)事業に従事した後、大蔵省勧農寮、茨城県に奉職したが、
「職を辞したるも尚ほ宿志を廃せず、栽桑養蚕を精励して以て大にこれを奨励」したという。
死の前年の明治25年5月、賞三は藍授褒章を授与された。
その善行表彰の理由は、天保飢饉の際の、貯穀の放出による窮民救済のほか「桑苗を頒(わか)ち、飼育法(蚕)を授けて産業を増進する等公衆の利益を起し成績著明なる者」というのであった。
おそらくは、後年になるにしたがって、二宮先生の教えが身にしみて、わずかでも民・百姓のために働きたいと願いを実現しようとしたものであろうか。

夜話で尊徳先生はこう言われている。
「10 (略)人は、生れ出た以上は必ず死ぬものである。
長生きしたといっても、百年を越えるのは稀である。
限りのしれた事である。
若死にというのも長生きといっても、 実は僅かな差に過ぎない。
たとえばロウソクに大・中・小があるようなものだ。
大きなロウソクといっても、火の付いた以上は4時間か5時間であろう、
そうであれば人と生れ出た以上は、必ず死ぬものと覚悟する時は、一日生きれば一日の儲けである。
一年生きれば一年の利益である。
本来わが身もない物、我が家もない物と覚悟するとき、あとは百事百般皆儲けである。
私の歌に
「かりの身を 元のあるじに 貸渡し 民安かれと 願ふ此身ぞ」と詠んだ。
この世は、 我も人もともに僅かな間の仮の世であるから、この身は、仮の身である事は明らかである、元のあるじとは天をいう。
、という心にて詠んだものである。
これは我が畢生の覚悟である、
我が道を行おうと思う者は知らなくてはならない
。」

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沢木興道 禅の境涯【信心銘提唱】p.28

 二宮尊徳翁の歌にこういうのがある。



 そうすると、父母から、その父母から、ずっと上の父母も我れ、
だとすると、神武天皇、天照皇大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、その前もまた我が身かな。
その尊のその前も我が身かな、我れを愛せよ、我れを愛せよ、
その友達も、またその友達もまた我が身かな、我れを愛せよ、我れを愛せよ、
そうすると、四方八方みな我が身、宇宙いっぱい、広大無辺の自分というものが・・・・・・。
 そこが二宮尊徳さんの偉いところだと思う。
この歌一つ見ても、この人は、なかなかたいていの人ではない。
天地いっぱい、宇宙いっぱいを、自分一人で持っておったほど大きい人である。





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最終更新日  2025.03.30 23:31:02


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